カフェメトロポリス

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電脳世界と現実世界をいきあたりばったり散歩する。

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原発をめぐる問題を読み解いていくのはとても難しい。それは技術をめぐる是非の問題ではないからだ。そこには、経済や政治が抜きがたく結びついているので、科学の名を持って語られるロジックに、不純なもの(=政治的なもの)が混じり合ってしまう可能性があるからだ。失うものを有する人たちは、こういった議論の混乱を意図的に作り出そうとする悪賢さもありそうだから、始末に負えない。

今回の問題もグローバルな思惑や、さまざまなロジックが時に重なり、時に対立しながら、込み入った錯綜状態になることが予想される。

そんな中で、原子力発電は低コストという主張に対して反論を試みる、再生可能エネルギーよりの意見。
ガーディアンのThomas Noyesが、原子力は低コストどころか、計算不能という記事を書いている。
(今回はかなり圧縮、要約、意訳しているので注意してください。どちらかと言えば論旨だけを追っています。)

The incalculable cost of nuclear power
原子力の費用は計算不能
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2011/apr/03/nuclearpower-japan?CMP=twt_gu
多くの反温暖化陣営の人々が、原子力を支持する理由は、その低コストにあった。代替エネルギーとしての石炭はもっと環境や人体に与える悪影響が深刻だという考え方である。
原子力が低コストであるという主張に対する反論は次のように行われる。
原子力の費用と便益がそれほど魅力的ならば、なぜそれに魅力を感じる投資家がいないのか。それは、風力や太陽光発電の場合には、なんとか自力で近い未来に費用曲線が損益分岐点にまで低下してくることを少なくとも予想することができる。これに対して、原子力は、政府保証を取り付けないと、投資家がまじめに取り扱うようなリスクの水準に達しないのだ。
超過費用の発生、廃棄物処理、耐用年数の延長などだけでも十分に厄介だ。
しかし最大の問題は、今回のような災害時に発生する巨大リスクだ。あらゆる投資家がその巨大さに怯えてしまうのだ。
大規模災害はめったに起こらない。しかしいったん起こってしまうと、危険なだけではなく、とてつもないコストを発生させることになってしまう。ちなみに福島原発の閉鎖(entombing)に関する当初の推定費用は120億ドルだった。そしてこの中には日本政府が東京電力の国営化を考えざるを得なくなるような、他の負債の発生を想定していないのである。
数年前、GEのCEOのJeff Immeltが、米国において、政府の関与や、資金調達における政府保証なしに、米国で商用原子力発電所を建設しようとは思わないという発言をした。リスクが発生するリスクは低いと言われても、生じた際のリスクが大きすぎて、うまくいったときのリターンがどれだけ高くても、投資家はそのリスクを取りたいとは思わないということである。
確かに代替エネルギーとして身近な石炭の利用が、健康や環境に甚大な悪影響を及ぼすという主張は正しい。ハーバードの研究者たちの調査によると、米国で石炭を発電に利用した場合の費用を年間1750億ドルから5230億ドルと見積もっていた。中国の場合なら、健康や環境保護という観点が緩いか、まったく欠落しているので、実際の費用はこの数字よりははるかに高いものになるだろう。たしかに大気汚染を減らし、地球の気候を守るためには、石炭の利用を減らすことがもっとも重要であることを否定しようとは思わない。
ただここで確認しておきたいことがある。
石炭の総費用はたしかに高いかもしれない。しかし原子力の総費用を、意味のある形で、計算することは不可能なのである。投資家は、どれだけ潤沢な資金を持っていたとしても、間に合わないような超過費用が膨れ上がるリスクに直面するのだ。廃棄物処理の真のコストもいまだによくわかっていない。数十年先の話ではあるが、廃炉decommissioningの費用もさらによくわからない点である。災害時の原発トラブルに伴うコストは、GEのような巨大企業ですら単独では吸収しきれないレベルの話なのだ。
これほどの不確実性に直面して、どうやってまともな投資リターンを考えることができるだろうか。

皮肉屋たちは、それでも原子力の方がは生可能エネルギーよりも実際的practicalであると主張する。

より大きな視点から見なければならない。大災害を引き起こさず、投資家を道連れにもしないエネルギー資源の開発を主唱する際になぜ謝らなければならないかがわからない。私がともに仕事をしている再生可能エネルギー賛成派は、全てのエネルギー源の完全なコストやメリットをあえて論じようとする。原子力の賛成派は、よろこんで、彼らと同じような基準に立つべきである。

より広い視点からこの問題を見るべきだろう。大災害を引き起こすこともなく、投資家を地獄の道連れにもしないエネルギー資源の開発を主唱している側に、なぜ弁解がいるのだろうか。再生可能エネルギー賛成派は、自分も含めたすべての代替エネルギー源のすべての良さ、悪さを喜んで議論する用意がある。原子力賛成派の人たちも、少なくとも、再生可能エネルギー賛成派と同じ土俵で議論をする姿勢だけは示すべきだろう。(以上)
日本の地震学やリスクマネジメントは現在、あまりに決定論的で、最近のリスクマネジメントの趨勢である確率的アプローチが欠落しているという、元東芝のエンジニアのコメントがNYTによって報じられたことがある。

Reliance on old science left nuclear authorities unprepared for tsunami(Norimitsu Onishi and James Glanz)


では具体的には確率的アプローチとは何かという続報のような記事が掲載されている。海外の監督機関や、原子力関連企業は、皆、今回の事故に対するシミュレーションモデルを持っており、それに基づいて、現在、発生している事態を分析し、炉心内部で何が起こっているのかを想定している。

さきほどの記事の中で元日立のエンジニアがインタビューに答えたように、日本にこういった、アクシデントマネジメントにシミュレーションモデルを活用するという経験値がないとしたならば、まさに、現場はblind状態で戦っていることになる。
ここでもまた、確信犯かどうかが気になる。メディアに登場する大学教授やその他の専門家たちもこういったシミュレーションモデルを隠し持っていて、事態は完全に把握しているが、パターナリズム的に、それを開示していないという方が、彼らが、アクシデントマネジメントにおいて、竹槍しか持っていないというよりははるかにましである。

シミュレーションモデルなど、信憑性がなく、ただ、いたづらに、信憑性の外見だけを与えるのだとのでも、いい。

彼らの、無言の果てにあるのが、当事者能力の欠如であることだけを、ぼくは恐れる。

(ニューヨークタイムスの記事の全訳ではないので、原文を参照してください。)
From Far Labs, a Vivid Picture Emerges of Japan Crisis(By WILLIAM J. BROAD)
http://www.nytimes.com/2011/04/03/science/03meltdown.html?_r=1&ref=global-home&pagewanted=print
海外の多くの研究所では、おそらく日本の現場よりも詳細な炉心内部の分析が出来ている。そういったことを可能にするのはSafety Codeと呼ばれるコンピュータシミュレーションモデルであるという内容。
例えば、フランスの原子力企業による分析は日本が福島の原子炉の現状についてこれまで日本側が説明したものよりはるかに多くの情報を明らかにした。たとえば、原子炉の炉心の水のレベルが、4分の3近く下がっており、炉心内の温度がほぼ華氏5000度にまで上昇し、燃料棒を守っているジルコニウムの容器を燃焼させ、溶融させるまでになっているなどである。

欧米の科学者たちはまた発生した水素ガス爆発を観察することによって、原発の燃料棒が極めて危険な水準にまで熱せられていることも知ることができている。さらに放射性の水蒸気の柱から、燃料棒がどこまで解体されつつあるかも予測している。

同時にこのシミュレーションによって福島第一の原子炉は最悪の帰結、すなわち原発の完全なメルトダウンは回避していることも示している。
これらのコンピュータに基づく科学捜査システムcomputer-based forensic systemのほとんどは、1979年のスリーマイル島で起こった部分的メルトダウンの後に開発されたものである。規制当局は、スリーマイル島の事故が起こった当時、原子炉内で何が起こっているかについて事実上盲目だったことに気づいていた。それ以降、規制当局を満足させるために、原子力発電所を運営する企業は,原発から生じる多くの情報の断片をかき集めて、原子炉内部で起こっていることのシミュレーションモデルを構築したり、多様なリスク評価を行ったのである。
実際、金曜日に米国エネルギー長官のSteven Chuが記者会見で原子炉の一つの炉心の約70%が損傷しているという発言をしたときの、日本の原子炉についての詳細な評価はこの調査モデル(forensic model)から得られたものである。

原子炉の中で冷却水がどれくらいの間不足していたか、原子炉から放出されたガスや放射性粒子などの情報までさまざまなデータを入力することで、このシミュレーターは、加熱した炉心の溶融状況についての詳細なポートレートを出力するのである。
今では、多くの政府や企業が、それぞれにこういったコンピュータプログラムを開発している。業界ではこれをSafety Codeと呼んでいる。
MITの原子物理学の教授であるMichael W. Golayによると、スリーマイル島の事故が原子炉の評価能力があまりにも低いことを露呈した後に、「コードはどんどん改善されてきた」と述べた。
今回の日本側の事故に対する説明は、守秘の観点がかなり強く、場合によっては完全に秘密にされている。事故に対する分析を公表するに、電力業界や政府がきわめてセンシティブになっている理由の一つは、先例がほとんどないということもある。原子力ブームの中で600近くの民間の原発建設が行われた。しかし世界原子力協会によると、原子炉の炉心がメルトダウンするような深刻な事故は過去3件しかなかったという。
今回の福島原発事故を受けたシミュレーションによると、今や、日本の危機の結果、原子力シミュレーションによると、福島第一原発のメルトダウンのある段階では、原子炉の3機での深刻な事故の発生件数が突然2倍になることを示唆している。にもかかわらず日本の規制当局は、警告やパニックを引き起こしかねない暗鬱な技術的な詳細分析を回避しようとしている。


「日本の規制当局はそういった事態を望んでいない。安心感を与えるための情報操作ばかりが行われている。」と1993年から1999年までエネルギー長官の政策顧問だった専門家のRobert Alvarezは言う。

日本の事故が、ペンシルベニアのスリーマイル島のような展開をするとなると、こういったシミュレーションモデルの利用はしばらく続かざるを得なくなるだろう。スリーマイル島の原子炉の破損した炉心をエンジニアが目視できるようになるまでに3年以上かかっているし、破壊状況のマップ化にはさらに1年がかかった。その頃には炉心の半分以上が溶融していたのである。

民間原発の過去の主なメルトダウンは1979年のスリーマイル島、1980年のフランスのサンローラン原子炉、1986年のウクライナのチェルノブイリで起こった。
スリーマイル島の事故の後に作成された最初のシミュレーションプログラムSafety CodeはModular Accident Analysis programである。中程度のコンピュータ上で走るこのモデルは、原子炉の危機を、停電が続いた時間,放射性物質の分布などのような入力情報に基づいてシミュレーションしている。
シカゴ近辺にあるエンジニアリング会社のFauske & Associatesでこういったコードを開発しているRobert E. Henryによると、原子炉で大きな事故が起こっている最初の兆しは、水素の放出だという。可燃性の高い水素ガスは、福島第一においても数回大きな爆発を引き起こした。インタビューの中で、彼は、このガスは冷却水の水準が低下して、加熱された状態の燃料棒が露出しているということを示していると述べた。
Henry博士によれば、その次に気にすべき警告は、放射線のさまざまのタイプが発生することである。これは次第に炉心の温度が高まり、溶融が生じていることを示している。

先ず、「炉心がどんどん加熱されると、ヨウ素131やセシウム137のように核分裂の結果、簡単に蒸発しやすい物質が外部に放出される。温度がさらに高くなり、炉心が完全に溶融する危険が生じてくると、揮発性が高くない、ストロンチウム90やプルトニウム239までが蒸気の柱に含まれてくるようになる。
ストロンチウムやプルトニウムの分子が上昇する水蒸気の中に含まれるようになると大幅な燃料の溶融が起こっている可能性がある。

彼のチームは日本の事故の初日にモデルを作成し、炉心の完全な溶融ではなく、部分的な溶融を識別している。
ニュージャージー州Montvilleのソフトウェア会社マイクロンシミュレーションテクノロジーは、自社のコンピュータシミュレーションモデルを使って今回の事故をモデル化した。そのシミュレーションによれば、原子炉の炉心部の温度は、2250度Cか4000度Fにまで上昇し、多くの原子炉の金属が溶融しているという結果が導きだされた。
彼らによると、炉心の一部は溶融していることがわかるという。というのも、今回の事故は、モデル化しやすいからだ。理由は最初の数時間や数日に起こった観察されたのが、常に最悪の厳しい状態だったからである。加熱された炉心を冷却するために注入する水もなかったのだ。

「福島で起こっていることに、なんの謎も、不正も存在しえない。それほどまでに起こっていることがひどいのだ。」
こういった原子炉シミュレーションのビッグプレイヤーは、連邦政府の研究所や、GE,ウェスティングハウス、Arevaのような原子力企業である。
アルバカーキーのThe Sandia National Laboratoriesが作成したシミュレーションモデルが最も評価が高い。このモデルは全ての原発をモデル化しており、全米の原子炉を監督するワシントンの原子力規制委員会の主要なツールとなっている。

Arevaやフランスの監督官庁はCathareというシミュレーションコードを使っている。
3月21日に、スタンフォード大学は、原子力関連のグローバル企業Areva NCのEVPであるAlan Hansenを主要なスピーカーとして招聘し、日本の今回の危機についての招待制のパネルディスカッションを開催した。

「明らかに、我々は、現代における最大の災害の一つを目撃しているのだ。」とHansen氏は言った。
原子力エンジニアのHansen博士は、同社のドイツ部門が準備したスライドショーを示した。この部門は、この事故を当初から詳細に分析し続けているという。

このプレゼンテーションでは、事故発生、当初の数時間や数日間の事態の展開についての詳細説明がなされた。それによると、冷却水の水準が低下したため、原子炉の炉心の4分の3が露出し、温度がピーク時に、2700度Cあるいは4800度Fに達した。これは被覆(cladding)と呼ばれる燃料棒を包む、金属の外殻の主要な要素である、鉄やジルコニウムを溶融できるのに十分なほど高熱である。
「この状況では、被覆部分のジルコニウムは燃え始めている。ピーク時には、ウラニウムジルコニウムの共有合金の溶融も経験することになる。」
原子炉の断面図のスライドが、炉心の中心部で溶け始めている燃料棒の加熱した塊を示しており、メルトダウンの中で、核分裂物質が放出しはじめていることを示した。この物質には、癌や、他の深刻な病気を引き起こす放射性物質である。
Hansen博士を客員研究員として招いたスタンフォード大学は、この3月のプレゼンテーションの後に当該スライドをオンライン上で掲載した。当時、この30枚のスライドには、ArevaのロゴとMatthius Braunの名前が書かれていた。
その後、掲載された資料からArevaやBraun博士の名前は全て取り除かれた。彼らは、福島事故の分析のためにどのようなシミュレーションコードを用いたかという質問にも答えていない。
Arevaは、当該プレゼンテーションが、公式に発表された書面ではないという理由で、コメントを控えているという。
福島原発事故をモニターしている欧州政府の原発担当者は、現在の危機の全貌を把握するにはこのForensicモデルが不可欠でだと、今の日本政府の状況に同情を隠さない。
“Clearly, there’s no access to the core,” the official said. “The Japanese are honestly blind.”
「明らかに、炉心部へのアクセスはない。日本の現場は正直、手探り状態なのだ。」
(以上)
震災を契機に明らかになったことは多い。

いくら効率性を追求しても、過剰な電力消費がなければ、何もできないこと。

情報通信も、危機には弱い。

自分たちの経済生活が、はりつめた効率性に過度に依存しているということ。

個人的には、もう一つ。ラジオがとても大切なメディアであるということだ。

以前から、ラジオ派だった。中年になると、携帯ラジオを聴いていると、クラシックを聴いていようが、ニュースを聴いていようが、競馬ですか、株ですかと、揶揄されがちである。

中年男に、それが嫌でラジオを持たない人もいるらしい。

他人の意見は、意図的に無視する人生を歩んできたぼくは、小学生の頃からいつもラジオと一緒だった。筋金入りのラジオ派だ。

今回の震災時も、携帯ラジオを持っていたので、リアルタイムで情報を得ることができたので、時々の判断が適切になった。

でも情報性だけではない。

ラジオは、リアルタイムで、自分の側に誰かがいるという意識を与えてくれる。さらに、テレビが、震災の画像情報を繰り返す中で、多くの人が心理的に鬱状態になっていくのに対して、いち早く、落ち着いた、日常的な言葉や、音楽を回復して、多くの人の心の危機も救った。

昨日の情熱大陸は、TBSの午後の番組キラキラのパーソナリティ小島慶子の311がテーマ。

小島慶子にフォーカスした番組取材中に、震災が起こり、結果、番組は、311から1週間の小島慶子とラジオをハイライトすることになった。

この時間帯、仕事場で、聴くこともあるが、どちらかと言えば、文化放送の大竹まことの語りの方を好んできた。

向こうっ気の強い、小島慶子は、どちらかと言えば苦手なタイプだった。

ただ、この番組の中で、感情をむき出しにしながら、ラジオというものの使命をひた走る小島は格好良く、彼女のひたむきさに撃たれた。

ラジオという一番好きなメディアを、情熱大陸という大好きなテレビ番組が取り上げてくれたことが嬉しかった。

常にリスナーの側にいるというラジオの意味は、復興プロセスではとても重要になるはずだ。
災害から3週間がたった。具体的な傷跡が日々明らかになっていく。そして収拾がつかない原発の問題が、東日本の人々の心理に大きな影響を及ぼしている。

眼に見えないところで、いろんなことが起こっているような気がする。

それは一人ひとりの心の中で生じている。世の中に溢れかえる、一体感を鼓舞するメッセージにもかかわらず、心の中には、実は、ぼくたちは一体ではないかも知れないという不安の方が増加している。

東京も死の灰(radioactive fallout)の影響を受けるということが、自分の心の中にも大きな影響を及ぼしている。

被災地の心配をしながら、結局は、東京が大丈夫かどうかだけを考えてしまう心理。そしてそのことを不謹慎と抑圧する心理。

外国人や、一部の日本人が国外に逃げているというニュースや、疎開がすすむという報道の中で、逃げられないという意識が、不健全なナショナリズム、偏狭的な心理に繋がっていく。

何も、これは誰かの話を評論家的に述べているわけではない。

まぎれもなく、すべてが自分の心の中で生じている。

ある意味あたりまえのことなのだが、ぼくたちが国民の一体感というようなEuhoriaに浸ることができたのは、長い平時を生きていたからだけなのかも知れない。

多くの災害や事件が起こったが、被災地、対象地域をのぞけば、自分たちの生存を脅かすまでのリアリティを持たなかった。

もういちど一体感を回復する必要があるという点につき、否定する気はない。

ただし、この「一体感」がカバーする面積が重要なのだ。それが狭くなればなるほど、世の中は生きにくくなるからだ。

自分の心の中に芽生えた偏狭さにはくれぐれも気をつけなければならない。それは案外根深く、簡単に、コントロールできないはずだ。
最近は、海外メディアが福島原発をどう報道するかということよりは、今回の事故を踏まえて、各国が自国の原子力政策をどうしていくのかという情報の方に関心が向く。

海外メディアの日本の報道は、当局のソフトな検閲をうけにくいというメリットもあるが、基本は、取材力に限界があると思われるし、各国大使館の在留自国民へのアドバイスも、当然、超保守的になりがちなので、そんなに簡単には東京を逃げ出せない普通の市民にとっては、さほど意味がないような気もしてきたからだ。

結局、どうあれ、ぼくたちは、自分たちの政府に依拠せざるを得ない。逆説的ではあるが、今こそ、政治に対する個々の国民の影響力を行使すべきときが生まれたようだ。政治が下手を打つと、自分たちの生命や財産が損なわれるという切実さが、日本国民の中にはじめて生まれたからだ。

外国の原子力政策ということで言うと、米国は、原子力依存度はさほど高くなく、スリーマイル島の事故以後新しい原発は作られていない。今の米国にとっては原子力は新興国での原発需要をいかにとらえるかという輸出産業としての意味が大きいようだ。
ドイツは、独特の原発アレルギーがあって、主要な州選挙で、与党が敗れ、反原発の緑の党が勝利した。
エネルギーの8割を原子力に依存する、原子力大国フランスの動きを、ニューヨークタイムスが報じている。
France Gives Its Nuclear Power Industry a 2nd Look(フランスが原子力産業を再チェック)
(By KATRIN BENNHOLD and DAVID JOLLY)
http://www.nytimes.com/2011/04/01/world/europe/01france.html?_r=1&ref=katrinbennhold&pagewanted=print
福島原発事故の結果、世界中で反原発運動が高まりを見せた。中国政府は新しい原子炉の建設を延期し、ドイツでは、与党が重要な州選挙で敗北した。

電力のほぼ80%を原子力から得ている、フランスでは、目立った反応はこれまでのところない。
(日本の原子力依存率は24%、米国は19%)
フランスの原子力の安全性に関する監督官庁の長は今週、「フランスで原発事故が絶対に起こらないなどと保証はできない。」と、ある意味当然の発言を行った。
自国の原子力産業に誇りを持ってきたこの国にとっても、今回の事故は衝撃だったわけである。
フランスにおいても静かに原子力リスクの再評価が始まっている。
フランス大統領のニコラス・サルコジは訪日の際に、グループ20の全メンバーに対して原子力安全性基準の見直しを要請した。
サルコジ大統領は3月11日の震災以後で最初に訪日した。彼は、これは日本だけの問題ではないと述べた。
さらにサルコジ氏はグローバルな原子力規制機関であるIAEAに対して6月ではなく5月にミーティングを早めて日本の危機のもたらす意味を論ずべきだと述べた。
同日パリでは、フランスの原子力安全監督機関の長であるAndre-Claude Lacosteが議会メンバーに対して、フランスも、日本の経験から必要なことを学び、必要とされる安全性手続きの改善を行わねばならないと発言した。
緊急性が高いにもかかわらず、これまでもっとも無視されてきたのが、原子力の安全性に与える自然災害の潜在的脅威の再評価である。
今回日本で発生した複数の自然災害が同時に発生するという事態は、これまでしっかりと考察してきたとは言えないテーマだと、彼は認め、地殻変動活動がフランス国内の、特に沿岸沿いで発生するリスクの再検討を約束した。
地質学者の推定によれば、過去1000年、フランスにおいては、注目に値する地震は約1700回発生した。フランス国内の原子炉は、こういった過去の最悪の地震の5倍の衝撃に耐えられるように作られている。しかし近年、洪水や悪天候が深刻になってきたことを考えると、過去によって将来発生する事態を予測するのは困難になってきている。

「気候変化が状況を変えつつある。これまで沿岸地域で1000年に一度の割合で生じていた極端な出来事が最近では100年ごとに起こるようになっている。」
François Fillon首相はフランスの国内にある58の原子力発電所すべての安全性監査を命じた。専門家たちはさらに操業後30年以上の多くの原発を運営させるかどうかの決定を検討することになっている。さらに、内務省と連携してアクシデントマネジメントと避難手続きの改善を、北仏のダンケルクのような人口密集地にある原発に対して行う。

最後にLacoste氏は、福島原発の事故を踏まえ、冷却メカニズムをより詳細に検証すると言った。
過去数年小さな事故は多数起こっているにもかかわらず(中には深刻なものになるのをかろうじてまぬがれたケースもある)にもかかわらずフランスの反原発運動はドイツのような状況にはならなかった。
歴史的な事情もある。ただフランスの規制当局が、厳しい安全性対策について発言を始めたならば、世界も耳を傾けざるをえないだろう。
この一つの現れとしては、フランスが地震直後に自国民に対して、東京を離れることをアドバイスしたときに、他の国もその動きに注目し、結局、フランスに従った。このアドバイスはArevaの日本子会社の原子力の専門家が、東京の放射能汚染の可能性につき警告したことに基づいていた。
(今週、この勧告は若干緩和され、フランスの外務大臣は緊急の理由がないかぎり東京へ向かうことをやめるようにアドバイスしている。)

今後、現在の危機がどのような傷跡を残そうとも、フランスが、原子力に対して完全に背を向けることは考えにくい。原子力は元大統領シャルル・ドゴールの遺産であり、過去何十年も政治的主流派の政治家たちによって広く認容されてきたことなのだ。

フランスの原子力産業はかなり先進的であり、この国の輸出の主要な部分を占めている。株式を一部国が保有している3社のフランス企業、Areva、GDFスエズ、EDFは、原子力産業におけるもっとも重要なグローバルプレイヤーである。EDFは19の場所で、58基の原子炉を運営しており、グローバルにも最大の原発ポートフォリオである。同社は原発を設計、保守、運営、閉鎖している。
2008年に、フランスは439テラワットアワーの原子力発電を行って降り、これはグローバルな生産量の16%を占めている。(以上)
最近は輪番停電と言わなくなったようだが、英字新聞ではRolling Blackoutという言葉を使い続けている。朝、首都圏のターミナル駅の雑踏を見ていると、この街で必要なのは、Rolling Blackoutではなくて、Rolling Commuting(輪番通勤)だと確信した。

節電というのが世の習いになると思われる時代の中で、一斉遠距離通勤というシステムはもう破綻している。でも、無理に、同じ時間に通勤する必要はそもそもない。会社が、一斉に従業員が会社に集まって、朝礼をやって元気よく仕事を始めるなんていうのをそろそろやめてしまえばいい。これは大企業に属していない、情報産業系の人間のバイアスが満載の発言であることは自覚してはいるが、相変わらず、殺人的に一方向にまなじりを決して歩いている多くの通勤客の姿を見ていると、(他人ごとではなくぼくもその中の一人)なんとなく馬鹿らしくなってきた。
地下鉄の中でヘラルド・トリビューンを開く。放射能汚染を懸念した各国の港湾当局が、検査を強化しているため、貿易、物流に多くの影響がではじめているという記事が目に付く。国内の野菜で発生している風評被害のグローバル版だ。

Ships that visit Japan are getting Geiger scrutiny(Bettina Wassener and Matthew Saltmarsh)
という記事。

問題は各国の港湾当局の検査の基準がばらばらなので、多くの国を経由して貿易を行う船会社にとっては、どのような基準でどのような検査が待ち受けているかがわからないという状態は大きなビジネスリスクとなっているということだ。

とにかく、なんとかしなくてはならない。

これだけの大災害となると、常になく新聞、雑誌を読むようになる。
いろいろ読んだけれど、週刊文春の「阿川佐和子のこの人に会いたい」の養老孟司さんのコメントがなんとなく一番刺さる発言だった。東京電力も原発は実はやりたくなく、つまりは、割りに合わない仕事と考えていたが、原発は国策なので嫌々やらせれていたという深層心理が、東電の経営者の記者会見の表情の中に深読みしたこんな発言。
「確信犯がやらなきゃいけなかったんですよ。本当に日本に原発は必要だ、やらなきやならないと思っていて、かつ、原子力のことなら隅から隅まで知っているというやつが、その覚悟も知識も」ないやつが、安全です、と言っているだけの状態だった。自分の扱いきれないものを扱っちゃいけません。」

この確信犯的ではないということがずっと気にかかっていることだ。自分も、自分なりにとてつもないリスクに直面したことがある。そんなときに、それなりに判断を間違わずにいれたのは、先ず、最悪リスクをイメージして、それが起こったときに、自分にふりかかる悪いことに具体的に耐えるイメージをつくるという作業をしてきたからである。

国民にとってもっとも最悪なシナリオは、日本政府、監督官庁、東京電力において、こういった作業が完了していない可能性である。

彼らが想定する最悪シナリオが到底国民が許容できないものでも、とにかく、その線で物事を収拾しようという確信犯的決意のもとで、確信犯的に、確信犯的でない演技をしているというぐらいの方が安心だ。

こういう確信犯的であることを当事者意識と呼ぶ。そのあたりが一番心配なところだ。
AERA 2011年4月4日号の養老孟司さんと内田樹さんの「震災と日本」という対談が面白かった。こないだの品のない表紙には正直イラッとしたので、キオスクで買うときに少々むかついたものの、ツイッターできれぎれに出てくる内田さんではなく、ぼくが自分が考える上でかなり依拠してきた内田さん的ロジックを確認してみたいという欲求に逆らえなかった。

というような、まどろっこしいことはともかく、なるほどと思ったのは次のような件。
電力会社のシステムがまず電気系統からダウンしたという笑えない話に対して内田さんはリスクヘッジしないことを無意識に誇示しようとしたという見立てをしている。
《それに不幸なことに、原発に懐疑的な学者にしても、真剣にリスクヘッジを考えると「こうすればより安全に操業できる」という具体的提案をせざるを得ず、原発反対派からはたちまち「偽装した原発推進派」とみなされて叩かれる。そんなふうにして、原発の危険について現実的な感覚を持っている人たちが、原発から構造的に排除されていったのだと思います。》
また、現場と本部の亀裂や、科学技術への信頼については、秀才文化の責任回避が危機管理で不可欠の現場のリスクテイクをできないようにしていったと述べる。このあたりは大組織の生理のようなものに、日常的につきあわされている多くの日本人にはピンとくるところだ。

《でも、今回の破局で一気に評価を下げたのは科学技術そのものではなく、それをコントロールしてきた「日本型秀才」たちじゃないかと思うんです。秀才というのはつねに正解を出そうとする。だから、エビデンス(証拠)が示され、失敗したときの言い訳が準備されない限り、自己責任で重大な決断を下すことができない。フライングして、責任を問われることを病的に恐れる。それよりは上位機関からの指示が出るまで、黙って「フリーズ」している。今度のように、上からの指示を待たずに、現場の責任で決定を下さなければならないというようなときに、秀才たちは必ず決断の時期を逸する。》
全体に興味あれば、癪だけど、AERAを買うか立ち読みをしてください。
ツイッター的に部分引用されて増幅する内田さんよりは、やっぱりブログに長々と書いたり、対談でやたら語りまくる内田さんの方がその真意はつかみやすい。まあ、あたりまえのことか。ただ、ブログが大量に読まれているということとツイッターのフォロワー数が巨大であるということは、メディアという観点から見たその人の意味合いが質的に違うことが今回の危機報道の中でもわかってきたような気がする。
「代議士の誕生」など日本政治の分析で有名なジェラルド・カーチスさんがコロンビア大学で行った日本の現状に対する欧米のメディアのカバレッジがフェアとは言えないという内容のスピーチを見た。

http://twurl.nl/ajneze

欧米メディアは、現政権の危機対応に対して、きわめて批判的であるが、今回起こった危機の状況と緊急性を踏まえれば、民主党政権の対応は、かなり妥当なものであるという内容。

特に、情報開示については、枝野さんに代表される民主党政権の対応はかなり誠実かつ率直だと思われると述べている。彼らは、自分たちが知っている情報についてはできるかぎり国民に伝えようとしている。

問題は、自民党政権時代につくりあげられた政府、監督官庁、東京電力の慣性にある。

菅首相は、その隠蔽体質を批判し、統合危機管理本部を創設している。これは、国民に対して、誠実に情報を提供しようというあらわれと。

危機発生後の数週間。ツイッター中心に発信される、既存メディアへの不信感の影響を受けて、欧米メディア中心に今回の危機報道をフォローしてきた。

たしかに局面局面で、欧米メディアの持つ癖や、紋切り型が見受けられた。

山形浩生さんが批判していたように、英エコノミストの報道の中にも、今回に関する限り、奇妙な報道も多かった。

ぼくたちは、健全な判断をするためには、外部の視点を必要とする。その意味で、記者クラブ的バイアスを受けない視点というものには意味がある。しかし、外部の視点が持つバイアスも当然存在する。

その視点だけで現在のぼくたちの状況を判断するわけにはいかない。

どこにも逃げることができないぼくたちは、外部の視点、内部の視点の膨大な交通の中で、自分の意見、判断をつくっていかなくてはならない。

自分の頭で考えることが、今、試されている。

今は、それにふさわしい環境だ。自分の頭で考えるしか、この国難を乗り切ることはできない。それは個人も国家も同じだ。

東京の春も冷たく感じられる。特に、通勤していて、地下鉄の駅の屋内が冷え冷えとしている。電力が何にどうやって使われていたのかがわかる。

地下鉄の中でヘラルド・トリビューンを開くと、今回の日本の地震対策が、あまりに旧式の決定論的(deterministic)な考えに基づき、近年のリスク分析の流れである確率論的(probabilistic)なものを反映しきっていないという日立の元原子力エンジニアの発言を引用している。

Reliance on old science left nuclear authorities unprepared for tsunami(Norimitsu Onishi and James Glanz)

あとは贅沢品への日本の需要の落ち込みは一過性のものか、本質的なものかという記事や、海外船舶が日本への入港、積み下ろしに対する懸念を持っているため、輸出入に深刻な影響がではじめているというような記事があった。

福島原発の問題というのは、こうやってボディブローのように効いてくるのだろう。しかし、いずれにせよ、逃げ場のない僕たちは、その現実から目をそらすことなく、なんとかするしかない。
地震から2週間。たったの2週間とは到底思えない。通常は仕事にかまけて、忘れていても過ぎていくパーソナルな時間がとても濃密だった。

自分、家族、友人のサバイバルということを常に意識の片隅に置いて生きるというさほど慣れていないことを続けているせいか、どこかが常に醒めていている。そのためか、身体の中に二重の疲労感がある。

ぼくたちは久しぶりに、バーチャルな世界から、リアルな生死というものを意識して生きている。

2週間後、ぼくは、Falloutの不安の中でも、今のところ生き延びている。テレビやラジオにも普通の番組や音楽が戻りはじめている。

ただ世の中には公共広告機構という、かつて、気に止めたこともない団体の流す、子宮頸がんの予防のメッセージが、停止された広告を埋めるために、繰り返し流し続けられている。

ぼくはリドリー・スコットのブレードランナーという映画の中の近未来のロサンジェルスのデジタルサイネージ(電子看板)が繰り返す、奇妙なわかもとの宣伝を思い出した。

外国人から見た日本女性のイメージが、微笑みながら、わかもとの宣伝を繰り返していたような気がする。

酸性雨の降り注ぐ街。

意味不明なメッセージが繰り返され、それが繰り返されることで、荒廃が露呈していく。

おそらく今後メディアや映画や小説の中で、Falloutのイメージが増殖するのだろう。

Cormac McCarthyのロードのような少し時代物の廃墟のイメージではなく、伊藤計劃の虐殺器官やハーモニーのような大災厄から復活した後のデジタルで安定した荒廃の風景。

フィリップKディックや伊藤計劃の驚くほどの予知(Prescience)。

今回の津波や、地震やFalloutは、現実がフィクションを模倣しているような既視感に満ちていた。

ともあれ大災厄から2週間がたった。

驚くのは、なにごとも変わりはしないという、うんざりとするような日常に代表される戦後日本が、跡形もなく崩れ去ってしまったことである。

変わるはずもないという「永遠の昨日」へのうんざりとした想いは、一撃のもとに洗い流され、自己決定という現実が、当然のような顔をしてぼくたちの前に居座っている。

そして、ぼくは、ビル・エバンスのWaltz For Debbyを流しながら、化学の教科書を読んでいる。