DAS MANIFEST VOM ROMANTIKER
「見た、読んだ、聴いた」を「書く」という行為に変換していきます。
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シラクの引退が意味するもの

2期12年にわたってフランス大統領を務めたシラクが引退した。小泉政権の5年でさえ長く感じる日本人に比べ、フランス人の政治的時間感覚はゆったりしている。ひょっとすると、イギリス人やドイツ人に比べても長いのではないか。少なくとも、戦後政治を見る限りではそのように感じられる。

フランスの戦後政治を主導したのは、ド・ゴール、ミッテラン、シラクという3人の政治家だった。彼らの大統領任期を合わせると実に36年に及び、 これはド・ゴールが打ち立てた第五共和制(1958~)の約7割を占める計算になる。しかもこれは単なる継承関係ではなく、彼らは競争関係にあった。ド・ ゴールの政敵はミッテランであり、ミッテランにとってはシラクがそうだった。

第五共和制下の大統領には彼らの他にポンピドゥー、ジスカール=デスタンという2人の大統領がおり、特に後者はEUを舞台に現在も政治活動を続け ているが、「国父」の如き雰囲気を持つ先の3人の存在感には及ばない。また、サルコジがそのような存在になるのかどうかは今後検討すべき課題 である。恐らく難しいだろうが。或いは、過去との訣別を標榜するサルコジは、そもそもそうした存在たることを拒絶するかも知れない。

「戦後の終わり」がいつなのかはどの国にとっても分かりにくい問題であるが、シラクの引退はフランスにおける戦後の終わりを告げるものなのであろ うか。或いは、レジスタンスの一員であったミッテランが退場した時点でフランスの戦後は既に終わっていたのであろうか。いずれにせよ、私達は一つの時代の 終わりを見たことになる。


後記:シラク氏 来月聴取か 仏週刊紙報道 日本に75億円隠し口座 東京新聞2007年5月24日夕刊
引退した途端に司直の手が及ぶとは、何だか韓国政治のようである。同じ大統領制でも、これに比べればアメリカの方が穏健だ。夫人が現役政治家のクリントン前大統領は当然かも知れないが、カーター元大統領も元気に活動している。また、これは日本にとってもまったく無関係の話ではない。首相レベルはともかく、選挙が終わった途端に落選した候補の陣営に捜査が入るといった話は聞かないでもない。

選挙は「唯一」の意思表示の場ではない

民主党:国民投票法採決 渡辺氏を厳重注意の軽い「処分」 毎日新聞2007年5月15日
小沢一郎「選挙を軽んじる風潮があるが、選挙は主権者たる国民の意思表示の最大の場であり、唯一の場だ」


選挙は意思表示の「最大」の場かも知れないが「唯一」の場ではない。小は友人同士の会話から大はデモに至るまで、すべて政治的意思を表明する行為である。

選挙は限られた争点をめぐって行われるものだし(郵政選挙!)、次の選挙までには新たな政治的イシューが発生する。従って国民と政治家との間には 意思の齟齬が生じる場合がある。このズレを埋めるのが、制度的には国民投票であり、非制度的にはデモであろう。世論もまた、政治決定に大なり小なり影響を 与える。

最近では、最も象徴的だったのはトルコの大統領選をめぐる騒動ではないか。不勉強にして前回のトルコ総選挙が何を争点として行われたのかは知らな いが、国民はイスラム政党たる「公正発展党」に議会の過半数を認めても、世俗主義の放棄までは認めていないことをデモによって示したのである。日本の例で は、教育再生会議による「親学」の提言が見送られたことを挙げることが出来よう※。これも、「世論の反発」という形で国民が意思を表明したと考えられる。

※しかし、これは7月の参院選を視野に入れた政治行動でもある。やはり選挙の持つ政治的意味は大きい。

小沢の認識は、選挙結果を「全権委任」と捉えるところまであと一歩である※。政治的代表が究極的にはこのような性格を持ってしまうことを見抜いたル ソーは『社会契約論 』において「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が 選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(岩波文庫)と述べ、徹底した人民主権論を構想した。しかし、日本のような規模の国に おいてルソーの国政を導入するのは恐らく不可能である(ルソー自身も「すべてをよく検討すると、都市国家がきわめて小さくないかぎり、主権者が、その権利 の行使を保存することは、われわれの国では今後は不可能である、とわたしは思う」と述べている)。従ってわれわれ日本人としては、代議制民主主義を基礎と しつつ直接民主主義的な行動を通じて自由を実現していくより他にないのではないかと思う。

※小沢としては、国民の意思表示の唯一の場である選挙において民主党候補として当選したのだから(しかも渡辺は比例区から立候補している)、党議拘束に従うことが国民の意志に従うことでもある、と言いたいのだろう。しかし、前回参院選の争点が国民投票法案だったわけではないのだから、渡辺に投票した国民の意思がどこにあるかは必ずしも明白ではない。また、選挙を「唯一最大の場」として過大に評価すれば、そこで当選した以上何をしても良い、という認識がそこから出てきかねない。

代議制民主主義の一方の担い手たる政治家が選挙を重視し、その結果を重く受け止めて行動するのはけっこうなことだ。もう一方の担い手たる国民も、 選挙の度に争点を確認してこれに対する考えをまとめ、自らの態度を決定することは大切なことである。しかし、それに過剰にとらわれることなく、自由に意思 表示をしていけば良いと思う。「日日是政治」である。

立憲君主としての昭和天皇-昭和天皇論④

「たぶん、私は3人目だと思うから」


昭和天皇は、日本の立憲君主としては3人目であったが、この立憲君主という自らの立場を昭和天皇はよく理解し、自らの意志を強く示したの は2・26事件とポツダム宣言受諾の際の2度だけだったと言われる。ただ、この評価は『昭和天皇独白録 』(1946年収録、1990年発表)で彼が語る自 らの姿とほぼ一致する。これを、それまでに既に存在した昭和天皇像を強化しただけと見るか、或いは昭和天皇が『独白録』によってのみ語られてしまっている と見るか。いずれにせよ、『独白録』の昭和天皇とその実像がどの程度合致するのかはよく考えなければならない問題である。

それを踏まえた上で更に『独白録』に依拠して議論を進めれば、この「立憲君主」という地位に対して昭和天皇は自覚的であった様子が窺われる。天皇は、東条英機とこれに続く小磯国昭を首相に任命する際、「憲法の遵守」を口にしている。

 それで東条に組閣の大命を下すに当り、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事を特に付け加へた(『独白録』)

 陛下より、憲法を尊重せよ、ソ連を刺激するようなことはするな、とのお言葉がありました(『近衛日記 』ー小磯の挨拶)

憲法の遵守と陸海軍の協力は、直接関係がない。ソ連も然り。とすれば、昭和天皇は組閣の際に必ず「憲法の遵守」もしくはこれに類する言葉を述べて いたという推測が成り立つのではないか(戦後もそうだったのだろうか)。形式的な表現だった可能性はあるが、天皇は自らが立憲君主であることに対して或る 程度自覚的だったとは言えよう。

こうなると、今上天皇が即位の際に発した「国民と共に日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界平和、人類 の福祉の増進を切に希望して止みません」という言葉の意味も明らかになる。この発言は話題を呼んだというが、『独白録』を踏まえれば驚くに値しない。今上 天皇は、「憲法の遵守」という父の精神を踏襲することを宣言した、と解釈すればいいのではないか。

※冒頭の引用は、歴史的にも意味がないわけではない。「憲政の神様」咢堂尾崎行雄は1943年、前年行われた翼賛選挙を批判する演説中で「売家と唐様で書く三代目」(立派な家も三代目には没落してしまう、の意)という川柳を引用して不敬罪で起訴された(結局は無罪だったが)。

昭和天皇の国体観-昭和天皇論③

昭和天皇が天皇機関説を支持していたというのは、『昭和天皇独白録 』の以下の文章からも窺われる。

 斎藤〔実〕内閣当時(1932-34)、天皇機関説が世間の問題となつた。私は国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差し支えないではないかと本庄〔繁〕武官長に話して真崎〔甚三郎・教育総監〕に伝へさした事がある。真崎はそれで判つたと云つたそうである。

〔〕原注、()内引用者注。以下同様。

これは美濃部達吉の天皇機関説に基づいた発言といえよう。美濃部の機関説は人体をモデルとした社会有機体説でもあったから(従って「機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば」という天皇の読み替えは恣意的なものではない)、昭和天皇の「国家-人体、天皇-脳髄」という認識はこれと合致するし、事実美濃部は『憲法講話』(1912)において君主を頭脳にたとえている。

具体的意味内容がよく分からないことで知られる国体概念であるが※、『独白録』には他にも天皇の国体観を窺わせる箇所がある。以下は終戦をめぐる天皇の発言。

※比定し得る存在はイギリスだろうか。内乱期の1649-60年(チャールズI世の処刑から王政復古まで)を除けば、Crown in Parliament が中世以来イギリス政治の伝統であり、イギリスの「国体」にとって王と議会は不可欠である。従って仮に王制廃止という事態になれば、日本風に言えば?「国 体変更」ということになる。

 当時私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子※を保護する事が出来ない。
 第二には国体護持の事で木戸も同意見であつたが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた

※戦前、「臣民は天皇の赤子」といった表現が主に政府によって用いられていたが、天皇自身もこの表現を用いていたのか。

これによれば国体護持にとって三種の神器は不可欠であり、これを守るためなら天皇の犠牲も持さない、ということになる。「私が死んでも代わりはい るもの」(綾波レイ)ということか。ここまでの発言を元に昭和天皇の国体観を再構成すると、「三種の神器を尊厳の根源とする天皇が脳髄※となって統治する」 のが日本の国体ということになるだろうか。

また、ポツダム宣言受諾に際しては国体護持が最終的な条件となったと言われるが、これについては天皇も見解を共にしていたようで、「(1945年 8月)12日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続す るか〔と〕質問したから、私は勿論だと答へた」と述べている。

昭和天皇は「参拝」と言った-昭和天皇論②

昭和天皇独白録 』を読んでいたら、こんな表現を見つけた。天皇は白川義則陸軍大将(1869-1932)の未亡人に、亡夫の「功績を嘉した歌を詠んで贈つた」らしいのだが、その歌に添えてこう書かれている。

「靖国神社に参拝して白川大将の3月3日午後上海にて停戦命令を発して国際連盟の衝突をさけしめたる功績を思ふ」

何故こんなところに着目したかというと、昨年の小泉首相による靖国神社参拝直前に公表されたいわゆる「富田メモ」と関係するからである。同メモは昭和 天皇のA級戦犯合祀への不快感を示す史料として話題を呼んだが、それが真に天皇の言葉を筆記したものであるのかを疑う声も上がった。そしてその中には「天 照大神の子孫である天皇が『参拝』という表現を用いるはずがない」というものがあったのである(同メモには『だから 私はあれ以来(靖国に)参拝していな い』という箇所がある)。しかしこれを見る限りでは、昭和天皇は「参拝」という表現を用いていたのではないか。

更に付け加えるならば、やはり『独白録』の中で昭和天皇は、天皇機関説を支持していたことを回想し、続けて「又現神〔現人神と同意味。あきつかみ〕の問題であるが、本庄(繁侍従武官長)だつたか、宇 佐見〔興屋〕だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある」とも述 べている(〔〕内原注。()内は引用者)。こうした考えの持主が、例えば「私は神だから参拝という表現を用いるべきでない」等と考えるだろうか。

富田メモの信憑性については他にも論点があるのだろうからこれのみを以て「本物」と言うつもりはないけれど、とりあえず一点だけ指摘しておきます。

昭和天皇独白録/寺崎 英成
「「独白録」は、昭和21年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の5人の側近が、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を4日間計5回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたもの」(「はじめに」より)。以下は余談だが、本書は文庫なので著者名がひらがなで整理されている(たとえば、ナンシー関なら「な」)。書店に向かって歩きながら、「昭和天皇なら「し」だろうか。まさか「ひ」(裕仁)はないよな」などと考えたが、実際には「て」であった。「天皇」の「て」ではなく「寺崎」の「て」なのだろう。

天皇の「人間化」の由来-昭和天皇論①

もう先月のことになるが、「小倉侍従日記」(文藝春秋2007年4月号 所収)を読んだ。日記の主である小倉庫次(くらじ)は第二次世界大戦勃発以前の1939年5月 からポツダム宣言受諾直前の1945年6月まで侍従職庶務課長を務めた人物。この日記には、戦時下の天皇とそこに出入りする人々の姿が描かれている。な お、昭和天皇を知る史料としては、既に『昭和天皇独白録 』、『木戸幸一日記 』(東京裁判に提出された)、『徳川義寛終戦日記 』、『入江相政(すけまさ)日記 』等がある。全て、内大臣や侍従といった宮中の人物の手になるものである。

  一般的には戦争をめぐる天皇の発言が注目されるのかも知れないが、個人的には「父としての天皇」の姿が興味深かった。「小倉日記」には昭和天皇が皇太子 (今上天皇)や義宮(現常陸宮)を何とか手元で育てようとしていた※ことが記されているが、これ 天皇の「人間化」が戦前において既に始まっていたことを示唆するものだからである。そして、この「人間化」の延長線上にいわゆる「人格否定発言」を位置づけることができるのではないだろうか。

※宮中では子を親元から離して育てるのがしきたりであった。

戦後において皇室が存続するためには、「人間宣言」を行い、現人神から理想的家族のモデルへと変身を遂げねばならず、そのためには子供も手元で育 てなければならない(親子が離ればなれに暮らす家では一般家庭のモデルになり得ないから)。しかしそこで育った人間は、戦前に比して相対的に普通の環境で育つわけだか ら、従来の皇族よりも幾分「人間らしく」なるだろう※。だとすれば、「人格否定発言」のような言動(配偶者を守るという人間らしい振る舞い)をする皇族が出てきてもおかしくはない。従って、あの出 来事は戦後天皇制の必然的な結果だったのではないか。即ち、例の発言は皇太子の個人的資質によるものというよりは構造的に生み出されたものであって、今後も 似たような事例が続く可能性が高いのではないか、というのが私の仮説です。

この「人間化」は敗戦の結果やむを得ず始められたものと考えていたのだが、「小倉日記」によれば、そこには昭和天皇の戦前からの意志があったことになる。単に社会的要因だけで説明するのでなく、昭和天皇その人にも着目する必要があるのかも知れない。

また上の仮説を自己批判しておけば、少なくとも戦後の映像で見る限り※1、昭和天皇よりも相対的に普通の環境で育ったはずの今上天皇の方が、むしろ昭和天皇よりも普通でない雰囲気を放ってい る。例えば、初の記者会見(1975)でカメラの前に座った昭和天皇はかなり大きく体を動かし(TVでは、座っている人は余り動かないものだ。その意味で普通ではないが、威厳とは異なる)、ジョーク※2まで飛ばして いるが、今の天皇がジョークを飛ばすところなど想像できない。この逆転は、現天皇が「テレビ時代の天皇」であることによるのではないか。今上天皇は動いて話す姿が全国に放映されることを前提として育ち、自分の声や動作がどう撮られるかを強く意識して振る舞うようになったのではないかと思う。

※1 戦前は昭和天皇も「普通でない雰囲気」を放っていたようだ。丸山眞男は「皇紀2600年」(1940)に「拝謁」したが(本人曰く、要するに遠くから眺めただけ)、その時の印象を「従容として迫らざる威厳を感じた」と述べ、その姿と戦後の天皇との落差に「一体、天皇はあのピンと背筋をのばした姿勢から、いつ の間にあれほど猫背になってしまったのか、というのが今日まで解けぬ疑問の一つである」(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」1989)といぶかしがってい る。

※2 好きなTV番組を問われ、「放送会社の競争がはなはだ激しいので、今、どういう番組を見ているかということは、答えられません」と答えた。

関連:「最後の」みどりの日に当たって
「天皇制が直面する原理的な問題」というのは、以上の仮説を念頭に置いている。

後記:週刊文春5月24日号は「満面の笑みを浮かべる」昭和天皇の写真を「知られざる姿」として紹介している。しかし、最晩年はともかく、戦後の昭和天皇はなかなか親しみやすい存在だったようである。だとすれば、昭和天皇の笑顔が「知られざる姿」とまで言えるかどうか。昭和天皇死して18年、メディアは昭和天皇の姿を忘れ始めているのではないか。

ヨーロッパ史における「隣国」-ドイツを中心に-(後編)

前回触れたように、いずこに於いても隣国との関係は「愛憎」を含むものである(ヨーロッパの例しか挙げられなかったのは単に私の不勉強による)。我が日中 韓の関係も、これを前提として考えるべきではなかろうか。隣国との関係は、例えば「嫌中」あるいは「媚中」いずれかの感情だけで塗りつぶせるものではない。

また、最近では嫌中・嫌韓を通り越して「日本は隣国に恵まれない」という被害者意識(!) まで生じているようだが、仮に「恵まれない」のだとしても、少なくとも日本だけがそんな目に遭っていると考えるのは誤りだ。ポーランド人やチェコ人もそのように感じているであろう。

ヨーロッパの隣国関係に鑑みれば、嫌中・嫌韓という感情が存在すること自体は特に奇妙なこととは思わない。しかし、相手の立場に身を置くという想像力を働かせることも必要であろう。どんな事情があったにせよ日本は中韓を 占領したり植民地化したりしたのであってその逆ではないのだから、「(隣国に恵まれないというのは)こっちの台詞だ」と言われても仕方あるまい。「半世紀 以上前のことをいつまでも云々するな」という意見もあろうが、前回引用した記事によれば、200年以上前の歴史がポーランド・ウクライナ関係に今な お影を落としているのである。また、ウクライナとロシア、更にブルガリア等では反モンゴル感情が強いが※1、これは13世紀のバトゥ※2(チンギス・ハー ンの孫)による侵略が原因である。こちらに至っては500年以上前の出来事だ(モンゴルの支配は15世紀まで続いた)。民族の怨念は個人のそれよりも持続する。 韓国の「恨」という感情の特殊性が強調される傾きがあるようだが、この感情は世界史の中に位置づけることもできるのではないだろうか。

※1 恐らくはこうした事情もあって、琴欧州の祖国ブルガリアでは朝青龍が嫌われている(「(琴欧州の)実家のあるジュルニツァ村の村長ヤンコ・ コレフ・ヤンコフさん(37)が「アサショーリューは威張ったやつだ。顔も見たくない」と話すと、一緒にいた何人かの村人もうなずいた」2005年9月24日共同通信)。

※2 バトゥはポーランドにも侵攻している。もしかすると、ポーランドでも反モンゴル感情は強いのかも知れない。

ヨーロッパ史における「隣国」-ドイツを中心に-(前編)

新聞記者の悪口を言っておきながら、臆面もなくまたしても新聞記事を参考にブログを書く。

 ポーランドは、ウクライナの民主化を強く支援するなど、政治レベルでは、熱烈なウクライナ応援団として知られる。ポーランドは18世紀末、独露とオース トリアの3国に分割され、1世紀以上も地図から消えた歴史があるほか、第二次世界大戦でも東西から独ソの侵略を受けた悲劇の国。それだけに「隣国が、西側 社会に加われば、大国ロシアとの間に緩衝地帯が生まれ、安全がより増す」(大統領顧問)との思いが強い。
 だが、政治レベルの緊密さとは裏腹、市民レベルではわだかまりが残る。ポーランドとリトアニアの連合国は16~18世紀、ウクライナを支配下 に置いた歴史があり、ウクライナ国民には、ポーランドは「侵略者」に映るためだ
2007年4月28日毎日新聞東京夕刊「憂楽帳 」(会川晴之)

ポーランドとチェコは独露二大国に挟まれてしばしば侵略を受けてきた。このような経緯から、ポーランド人・チェコ人には独露を余り快く思わない人が少なくない。例えば、映画「コーリャ 愛のプラハ 」にもそんな描写があったと記憶する。

嫌われた独露の関係も複雑で、ロシアにとってドイツは「頭の上がらない兄」であると評されることがある。ロシアはドイツから多くを学んできたが、 素直に尊敬することはなかなか出来ないようだ。そこで彼らが接近するのが、ロシアから見てドイツよりもう一つ向こうにあるフランスである。ドストエフス キー『悪霊』に登場するステパン氏が何かにつけフランス語を話すのはこうした事情を反映していよう。また、ロシア文学における「ドイツ女」はしばしば侮蔑の対象となる。

ロシアがドイツへの反感からフランスにすり寄るのは或る意味で正しく、「西欧文明の正統を体現するフランス」に対して、ドイツは劣等感を抱いてい る。例えば、現在のドイツ語では r の音を巻き舌でなく喉を擦らせて発音するのが普通だが、この変化はフランス語の模倣によるものであると聞いたことがある。

更にその独仏だが、統一※前のイタリアにとっては、しょっちゅうアルプスを越えて侵略してくる脅威であった。一方、ドイツにとってのイタリアは単 なる「弱い国」ではない。冬になれば手が届きそうなほど雲が低く垂れこめるドイツにとって、陽光降り注ぐ地中海は真に眩しい。ドイツ語圏の美術館にはイタリ アを描いた風景画が多く収められているが、これはドイツ人のイタリアへの憧れを示唆しているものと思う。

※明治維新と同じ頃。即ち、日独伊の枢軸国が国民国家となったのは奇しくも同時期である。

次回は、こうした歴史が日本人にいかなる示唆を与えるかについて考えてみたい。

鳥山石燕、水木しげる、伊福部昭

水木しげる大先生によると、妖怪の絵というのは鳥山石燕(1712-88、歌麿の師でもあるらしい)の線を外してはならないのだそうだ。そこから離れると 妖怪らしくなくなってしまうのだと言う。これに倣い、伊福部昭を「怪獣音楽界の鳥山石燕」と呼んでみてはどうだろう。怪獣音楽というのは、伊福部っぽくな いと「らしくない」。例えばゴジラは、近代文明への自然による復讐を具現化する存在であるが、こうした意味を持つ怪獣と伊福部の出会いが偶然でなかったこ とは片山杜秀が繰り返し論じている。

しかし今となっては伊福部の方が有名だろうから、石燕の方を「妖怪画界の伊福部昭」とすべきだろうか。伊福部の方がずっと後世の人だからおかしな 気もするが、私は、イタリアの思想家アントニオ・グラムシが「イタリアの丸山眞男」と呼ばれるのを聞いたことがある。石燕と伊福部ほどは離れていないが、やはりこ の場合も1891年生まれのグラムシの方が年長。ちなみに、丸山は1914年生まれで伊福部と同い年である。アカデミシャンの丸山にディレッ タントの伊福部。好対照ではないか。

ところで「ディレッタント」というのは、何か本流と思しきもの或いはアカデミズムへの対抗意識を持つ人、という意味で用いている。伊福部は最晩年こそベートーベンの楽譜を見るようになったが、一貫して本流たる独墺系のクラシック音楽への対抗意識を有していた。

ディレッタントと言うなら、水木もそうかも知れない。曰く、「日本でも妖怪を民俗学なんかで扱いますけど、こうね、屍を解剖してるような感じでね、どうも生き生きとしてないんですよ」と。妖怪と水木、怪獣と伊福部。両者はどこか似ている。水木は伊福部より8つ下の1922年生まれ。反アカデミズムは伊福部と同じだが、伊福部と違ってヨーロッパは好きらしい。

水木 ヨーロッパの美というのは、たとえば絵でもやっぱりすべていいんです、得をした感じがする

伊福部 私の個人的な趣味では、敦煌より西の中央アジアに近いほうに行くと面白いものが多くなってきます。ずっと行き過ぎてヨーロッパまで行っ ちゃうとまた面白くなくなるんですけど、あの辺いいですね。遊牧民を通じてアラブから全部入ってて・・・・・・。あの辺が大変いいんじゃないでしょう か

※ヨーロッパと言っても、少なくとも音楽に限れば、伊福部が好まなかったのは独墺だけかも知れない。若い頃からサティやラヴェルといったフランス音楽、ストラヴィンスキーに代表されるロシア音楽、スペインのファリャなどを好み、晩年にヴァイオリン・ソナタ を書くきっかけとなったのはチェコのヤナーチェクであった。

後藤繁雄『独特老人
引用はすべて本書から。本書でインタビューの対象となった人物のうち、伊福部との関係が気になるのは舞踏家の大野一雄(1906-、今なお現役!)である。彼は函館で生まれ、石井漠と江口隆哉に学んだ(それぞれ1933、36年入門)。両者と伊福部は因縁浅からぬ関係で、伊福部は江口にバレエ「プロメテの火」(1950)、「日本の太鼓」(1951)、石井に「人間釈迦」(1953)の音楽を提供している。このとき既に、大野は独立した活動をしていたのだろうか。両者がすれ違ったのだとしたら残念なことだが・・・・・・。
後記:やはり両者には関係があった。卆寿コンサート のライナー・ノーツに、二人が話しているところを撮影した写真が収められている(1984年6月10日、都立大学で行われた宮操子パーティ会場にて)。

新聞記者に「顔」を取り戻せ

新聞時評:記者の「顔」が見える個性的な記事を 2007年5月8日毎日新聞東京朝刊

ジャーナリストの上杉隆が「日本の新聞にはスター記者が少ない」と嘆いている。彼がかつて働いていたニューヨーク・タイムズ紙は「人気記者の宝庫」であり、「コラムではなく、通常の記事の中」で個性を発揮する記者がいるのだという(聖書やギリシャ神話を挿入する、導入に市井の人々の声を用いる)。一方、「好みの記者の存在が、読者の 新聞選択の理由のひとつになっている外国紙からすれば、日本の新聞の没個性ぶりは奇異にさえ感じる」ものであり、記者は取材方法も価値観も異なるはずなのに「紙面では、なぜか一様に同じような文体で、同じような内容の記事を書く」と疑問を呈している。この問題提起に沿って、私なりの処方箋を提示してみたい。


まず、無意識に順応することを一切やめることである。「空気なんか読むな」と言い換えてもいい。記者は、自覚することなく「新聞らしい文体」に体を慣らしてしまっているところがあるのではないか。こうしたことは新聞記事に限った話ではない。例えば、会社で電話をする時に声色が変わるのはなぜか。電話のかけ方はともかく、「電話の時にはこういう声色で」といった指導を受けたという話は聞かない。この「変声」は、「会社らしい電話」に無意識に近寄っていった結果なのではないか。


もちろん、文体の画一化は社内教育によるものでもあろう。しかし、無意識にもよるのではないかと推測している。似たようなことはエレベーターガールや百貨店の館内放送にも感じる。本当にあそこまで声を揃えるべく練習するものなのだろうか。過剰に順応してしまっている部分はないのか。無意識の順応であれば、自覚さえすればすぐに改めることができる。

もう一つは技術的なことであるが、記者と「デスク」との記事のやり取りの回数を減らすことである(新聞記事は、記者が書いてそのまま紙面に載るものではない)。デスクと呼ばれる人がどこまで記事に手を入れるのかは知らないが、一つの文章を他人と何度もやり取りしていれば、文体が徐々に画一化していく可能性はある。ただ、これは文体に限った話なので、正確を期するならばこの点は仕方ないのかも知れない。

最後に、墓穴を掘る覚悟であえて言えば、独自の問題意識を持つことである。これは毎日新聞の話であるが、「余録 」(朝刊コラム)にせよ、潮田道夫の「千波万波 」にせよ金子秀敏の「早い話が 」※1にせよ、時宜にかなったエピソードを定期的に取り上げ続けることができるのはさすが、と感心しながら読む。これらにまったく「顔」がないわけではない。潮田なら経済、金子なら中国という専門があることは分かる。しかし、料理の仕方に独自の問題意識※2が感じられないので「物知りな人だなあ」という印象止まりなのである(博覧強記、というところまで行けばそれはそれですごいと思うが)。実際、毎日新聞という場を離れたところに彼らが現れることはない。岸井成格 がTBSに出ても、彼は毎日新聞特別編集委員としてそこに座っているのだ。人を独立させるのは、「これについては是非ともこの人に聞きたい」と思わせる独自の問題意識であろう。

※1 それぞれ毎日新聞の論説委員(潮田は論説委員長)によるコラム
※2 経済なら経済、中国なら中国の話題を取り上げ続けるのも一貫した問題意識の表れではある。しかし鍛え上げられた問題意識は、むしろ何を題材としてもそこに底流しているものである。

「そうしたことは専門家の仕事」と言われるだろうか。しかし、戦前の日本には大学教授に匹敵する読書量を誇り※1、独自の哲学を背景として時論を展開する「政論記者」というスターが存在した。時事新報を率いた福沢諭吉と東京日日新聞(毎日新聞の前身)主筆となった福地源一郎は「天下の双福」と称されたし、「明治の三大記者」と言えば東京日日の朝比奈知泉、新聞『日本』※2の陸羯南、国民新聞の徳富蘇峰の三人である。また「文壇三名士」※3というのもあって、こちらは蘇峰に『日本』の三宅雪嶺、新聞『国会』の志賀重昂という組み合わせだ。当時の新聞界には、スターが正に綺羅星の如くきらめいていたのである。

人気記者はNYタイムズの専売特許ではない。そして、日本人の能力は先人が既に証明済である。政論記者よ蘇れ!

※1 政論記者の最後の生き残りである長谷川如是閑(1875-1969)について東大教授の丸山眞男は「大変な読書家で、しょっちゅう帝大教授の悪口を言ってたが、悪口を言うだけのことはある」と回想している(「如是閑さんと父と私」)。如是閑の先輩に当たる陸羯南(1857-1907)や三宅雪嶺(1860-1945)にも同様の意識があったようであり、こうしたディレッタント気質は新聞「日本」関 係者に共通するものだったのかも知れない。
※2 漱石『吾輩は猫である 』で、苦沙弥先生たちが読んでいるのが『日本』である。
※3 この言葉は、「文学」の意味が今日とは異なっていたことを示唆している。
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