これまでの実績からすれば当然だが、主人公役の我妻三輪子が頭一つ抜けて演技が巧いため、ほかの役者と絡んでいる時のアンバランスさが気になる。むしろ我妻三輪子が出ていないシーンのほうが、スクリーンに写っている役者の演技力が同等なために自然に見られるという逆転現象が起こっている。

たしかにこの件はノイズなのだが、終盤になるとむしろ美点にも思えてくるから不思議。というのは、主人公の立ち位置の変化のせいである。我妻三輪子演じる主人公は、幼馴染への片思いを隠し続け、微妙な恋愛感情が絡む人間関係の輪から一歩引いた立ち位置にいるのが初期設定である。終盤に告白し、やっと安全圏から見下ろす傍観者という立ち位置を捨てて物語の中に足を踏み入れる。この瞬間から、我妻三輪子の演技力が光りだすのだ。距離をとっていた頃は各人の感情について何も解っていない子供であったが、長らく傍観者として見ていた実績が功を奏して、輪の中に入ると一番の大人になり、的確なアドバイスをしたりする。「一番の大人」と「我妻三輪子の頭ひとつ抜けた演技力」が、ここで合致する。

地方の小さな町を舞台にした話だが、1箇所だけ幻想的なシーンがある。川原で我妻三輪子が自分の正直な気持ちを伝えたあと、自転車2人乗りで橋を渡るシーン。漕ぐ側と後ろに乗る側、そして進む方向が逆のカットが交互に配置されている。リアルなシーンだとすれば意味不明だが、ほんの少しだけ世界が変化したというイメージか。たぶん、割と単純なメタファーなんだろうけど、こういう「ああ、これは映画だ」っていうシーンがひとつあるだけで、観て良かったと思えるものである。

我妻三輪子

郷愁は、すべからく美化される。それはどうしようもない現在を生きるうえで必要な防衛本能である。嘘だらけの郷愁に浸って一時的に現実から目を背ける人がいても、責めることはできない。また、こんな現在だからこそ、郷愁の美化を手助けするための物語にも需要がある。ある特定の時代を想起させる固有名詞を並べ、創作された話と絡めることで、受け手に「郷愁の美化」を促すのだ。ドラマ『あまちゃん』によって80年代も郷愁の対象として世間に認知され、今や90年代を郷愁の対象にした物語も目につくようになった。その中で頭一つ抜けているのが、漫画『ハイスコアガール』であろう。

物語は1991年から始まり、主人公の少年は小学6年生だ。勉強も運動もできない少年は、ゲームの巧さだけが取り柄である。日常から逃避するためにゲームセンターに通い詰め、勝ち進むことで束の間の優越感に浸っているが、『ストリートファイターII』の対戦で、とある美少女にボコボコにされる。日常からの逃避先すら安住の地ではなくなった瞬間だ。ここから、中学、高校と話は進み、少年と美少女の青春が、90年代の実際のゲーム史とクロスしながら語られていく。ボクはあまりゲームに詳しくないが、さすがに近い世代(主人公の少年と1歳違い)だけあって『ストII』くらいはキャラの名前も含めてある程度は解る。というか、何回かやったことある。痩せてたからダルシムばっか選ばされてた記憶が…。そう、このように『ストII』は同じ時代を生きていたものには嫌でも過去を想起させるほどのカルチャーであって、90年代を郷愁として捉えるのなら格好の素材だ。

物語は、逃避先に君臨する美少女と、途中から「主人公を追って逃避先についてきた少女」との三角関係となる。ゲームの世界観やキャラが具現化した空間は、日常と逃避先の境目をあやふやにしている。現在から見れば、このゲームにまみれた空間は「郷愁の美化」そのものである。さらに絵に描いたようなスペックを持つ美少女は、ほとんど喋らない。美化された郷愁の中では、美少女は必ず無口である。

今回は「郷愁の美化」という一点を取り上げたが、ほかにも美少女側の物語や、あるいは「父の不在」と「女神としての母」問題など、青春モノとして多くの語り口を備えた傑作である。現時点ではどうなるかわからないものの、報道から察するにこのままのスタイルで続くことは難しいと予想される『ハイスコアガール』は、いずれ来る未来に今度はこの作品そのものが「郷愁の美化」のためのカルチャーとなっているであろう。

6月21日深夜から22日明け方にかけて、池袋新文芸坐にて「変身人間まつり」と冠されたオールナイト上映を観てきた。1960年前後に公開された東宝の特撮映画『マタンゴ』『美女と液体人間』『電送人間』『ガス人間第一号』の一挙上映である。うち3作は本多猪四郎監督作で、『美女と液体人間』だけは福田純が監督している。

いずれも元は人間だったが何らかの理由で変わり果てた姿となった"怪人"が登場するのだが、『マタンゴ』『美女と液体人間』の場合はその理由が放射能であった。放射能のせいでキノコ人間になったり液体人間になったりするのである。なぜ放射能を浴びると液体になるのかなどの具体的な説明は、特にない。

そう、フィクション(虚構)の世界では昔から、どんな突然変異だって起こるという、なんでもアリの便利な道具として放射能は使われてきた。『ゴジラ』だってそうだし。ただそれは、創作された虚構の物語の中でのお約束という意味であったはずだ。こういう虚構におけるお約束は五万とあるわけで、「放射能で突然変異」ってのもその一つに過ぎない。でも今、というより東日本大震災以降、「放射能で突然変異」という虚構のお約束を、深く考えずに現実のこととして捉えている人が大勢いる。いや、放射性物質が人体に悪いことを否定しているわけではない。ある程度の突然変異の原因の一つでもあるだろう。ただ、放射能のことになると、かなり突拍子もない主張ですら、いとも簡単に間に受けてしまう人が続出している。これはやはり、「放射能で突然変異」という虚構のお約束が、様々な物語の中で何度も用いられたために、世間に浸透してしまったからではないか。

で、矛盾するようだが、虚構の物語にちゃんと向き合ってこなかった人が、虚構のお約束と現実の事象を分けることができないのではないかと思っている。放射能の恐ろしさをヒステリックに喚く科学者が現実世界にわんさか登場したのが2011年という年だが、あれは虚構の世界に登場する創作された科学者そっくりだ。たしかに虚構の物語では、「最初は誰も耳を貸さなかったが、実はあの科学者の主張は正しかった」という結論に落ち着きがちだが(『美女と液体人間』の科学者が、まさにそう)、それは虚構の物語だからであり、現実世界にそんな虚構的なキャラクターが登場したら、また別だ。とりあえずその主張を疑ってみて、色々と自分で調べたり他の人の意見も聞いたりして、最終的に自分なりの結論を導き出すのが、現実世界における真っ当な対処だ。だが、放射能という単語が出てきたとたんに、その辺りの作業を放棄してしまう人があまりに多い。

映画に限らず物語に触れるということは、創作された虚構を通して、自分のいる現実の世界を新たな視点から再確認、再検討、再更新することだ。虚構と現実のぶつかり合いに自らの身を投じていくという、真剣に向き合わなければできない作業である。「放射能で突然変異」という虚構のお約束を安易に現実の側に持ってきてしまうのは、虚構の物語を軽視して真剣に対峙してこなかったために、無意識のうちに虚構の力にいともたやすく屈服してしまっているからではないか。

虚構の力を舐めないほうがいい。今回の文章で言いたかったことはそれだけです。

佐原健二

昨日に引き続き、今期アニメを第2話まで見た感想です。ところでいつも思うのだが、第1話の放送合間のCMでエンディング曲を流すのやめてほしい。やっぱりエンディング曲を最初に聞くのは、しかるべきタイミングでありたい。第1話のときだけでいいんだけど。

『蟲師 続章』(監督:長濵博史/制作会社:アートランド)は、8年前に大きく評価されたアニメの続編。蟲(怪異を起こす異形の存在)によって引き起こされる人間模様を1話完結で見せる。主人公であり狂言回しのギンコが、「わざと棒読み」という技法で物語上の立ち位置を示す。ただ、去年の『風立ちぬ』の時に痛感したが、たしかに実写ではセリフの棒読みってのも何らかの効果を出すことができるけど、アニメでの棒読みってそういうの以前にただツラいんだよなあ。このアニメ、蟲の描写をこだわって見せるのかと思いきや、そこは意外と普通。もしかしたら8年前なら斬新だったのかもしれないが。

『ピンポン』(監督:湯浅政明/制作会社:タツノコプロ)は松本大洋による名作のアニメ化。アニメの表現技法への革新的こだわりでいったら、今期一番で、『鉄コン筋クリート』以上に松本大洋の持つ世界観(というか、ページを開いた時に受ける圧力みたいなの)を再現している。あとは「才能しかない男」ことスマイルのキャラクターが、もしかしたら原作発表時よりもさらに今の日本にマッチしているのかもしれない。絵にとらわれがちだけど、ストーリーに注目したい一品。

『龍ヶ嬢七々々の埋蔵金』(監督:亀井幹太/制作会社:A-1 Pictures)は、明るいやんちゃな美少女幽霊との同居モノ。「自分を殺した犯人がわからない」という巨大な前フリから判断するに、萌えアニメらしい軽さの中に深く重いテーマを内包しているタイプの作品だろうか。リアリティラインをグッと下げて、無理ありすぎる設定をそのまま押し通してくるのは、アニメならではの特性を利用していて、そこはいい。ただ、第2話の謎解きがあまりに低レベルなのがひっかかる。ボクが本格ミステリを偏愛しているせいかもしれないんだけど、ここで手を抜かれると一気に冷めてしまう。

『メカクシティアクターズ』(総監督:新房昭之、監督:八瀬祐樹/制作会社:シャフト)は、ボカロを発端とする一大叙事詩「カゲロウプロジェクト」の、満を持してのアニメ編。オタク目線ではなくサブカル目線ならば、今期アニメのラインナップのうち最も語り尽くさなくてはいけない作品のはずだが、申し訳ないことに、まだノれないんです。小説は読んでいないけれど、曲は一通り聴いたし、たまにカラオケで歌うし、漫画も単行本で読んでいるけど、ハマるところまでいっていない。『ビューティフルドリーマー』から始まって、エヴァ、ハルヒ、まどマギと続くループモノアニメの系譜に連なる最先端の作品であることはわかっているのだが。アニメに関しては、とりあえず今のところは、いつもの新房昭之。判断は保留。

そんなこんなで、たぶん最後まで見続けるのはノイタミナの2作(『ピンポン』『龍ヶ嬢七々々』)と『メカクシティアクターズ』くらいじゃないかと。あと『がをられ』も、一応。最初に脱落しそうなのは『ソウルイーターノット!』かなあ。あと、「なんでアレを見てないんだよ」という意見はあると思いますが、僕の選球眼の無さが原因です、はい。
忙しい自慢をネットでやると反感を買うだけだが、事実として4月から異常に忙しいのである。次の給料の残業代が楽しみなくらい忙しい(やっぱり自慢か)。そんなわけで4月スタートのアニメもHDDに録画が溜まる一方なのだが、なんとか時間を作って少しづつ消化している。直感で8作品を決めうちして、とりあえず2話まで見たので、感想を書いてみた。関東ではすでに放送はだいぶ先まで進んでいるけど、あくまで第2話までの感想です。

『悪魔のリドル』(監督:草川啓造/制作会社:ディオメディア)は、12人の暗殺者と1人のターゲットが学校の同じクラスになってどうのこうのという、そんなこといきなり言われても困る話。第1話では目つきの悪い連中の中で浮いているあからさまにターゲット然とした少女がいて、「本当に彼女がターゲットか」という引っ張り方をするのかと思ったら、第2話であっさりネタばらし。しかも彼女、皆から狙われてることすら全て知ってるのね。サスペンスで引っ張るわけじゃないらしい。なんかシリアス気取ってるが、そういう路線ならやっぱりその唐突な設定を視聴者にも納得させるような努力が欲しいところ。裏で糸を引いていそうな狂った人間(もちろん誰もいない部屋で高笑いしてる)を出しとけばいいってもんじゃない。あ、ちなみに暗殺者もターゲットも全て美少女です。それにしても、赤い長髪を頭の後ろで束ねた勝気な少女が、いつもポッキー咥えていて、あろうことか「食うか?」って差し向けてたりしてるのは、パロディのつもりなんだろうか。無自覚だったら怖いわ。

『僕らはみんな河合荘』(監督:宮繁之/制作:ブレインズ・ベース)は、男主人公がかわいいけど一癖ある女たちと一緒に寮生活をすることになる、王道のハーレムファンタジーもの。メインヒロインが「愛想のない謎めいたクールビューティー」というのも王道だが、第1話から素の表情を視聴者に見せちゃダメだろう。と思ったが、例えば「みんなと無邪気にシャボン玉で遊びたいけれど素直にやりたいと言えなくて誘われアピールをする」みたいなキャラクターだった。しかも周囲はそれを見抜いていて、彼女にあわせてノってあげている。このヒロインが作中で一番子供なんだよな。サブも含めた女性陣を一段低いものとみなして、結局はちょっと手のかかる愛玩物として扱っている。それでも別にいいけど、主人公が一番大人だと、物語の帰結が難しいと思うんだが。成長譚が使えないから。

『彼女がフラグをおられたら』(監督:渡辺歩/制作会社:フッズエンタテインメント)は、タイトルから予想つくとおりライトノベルのアニメ化。いわゆるフラグが見える少年と、彼に群がる美少女どもが折りなすコメディ。このジャンルに詳しくないので本屋で見かけるタイトルだけで判断しているが、なんかライトノベルって、作品と読者の垣根が無い感じがする。だってフラグって本来、読み手の側が勝手に言ってるだけであって、作中に取り込んだ時点でそれはメタなはず。ライトノベルには「無自覚なメタ」というひとつの大きなジャンルがある(繰り返すけど、実際に読んでおらず、タイトルだけで判断してます)。ただこのアニメ、第2話のラストで「フラグとはなんぞや」という自己批評的なところまで踏み込みそうな、まさにそんなフラグを立てていた。まあ、メタやるならそこまで踏み込むべきだけど、でも本当にそんな深い話になるなら、これは掘り出し物かもしれない。あんまり期待するのもアレだけど。今回あげた中で、第1話より第2話でグッと期待が高まった唯一の作品。ちなみに「がをられ」って略すらしいよ。

『ソウルイーターノット!』(監督:橋本昌和/制作会社:ボンズ)は、『ソウルイーター』の外伝に位置する話。本編は『ONEPIECE』的な絵柄(って表現であっているか解らないが)やバトルシーンのスタイリッシュさが売りだと思ったが、この作品はだいぶ趣が違う。はっきり言ってしまえば百合要素込みの萌えアニメである、今のところ。第2話なんて、バトルシーン無かったぞ。別に本編に思い入れはないけど、色々とぶち壊しにしそうで心配。

ちなみに、ここまで挙げた4作品いずれも、主人公が寮生活をしているのだ。現実世界では衰退している寮なる居住空間だが、アニメの世界では現役バリバリである。「人間関係が希薄な現代だからこそフィクションの世界では人との繋がりを強制される寮という舞台が欲せられているのだ」みたいなエセ社会学めいた理由じゃなくて、単純に舞台が寮だと物語が転がしやすいからだろうけど。

[続きは明日]
小保方さんの記者会見を見ていて、薬師丸ひろ子主演の映画『Wの悲劇』を思い出した。別に似てないんだけどね。たまたま最近DVDで観たばっかだから。この映画、記者会見が屈指の名シーンなんである。薬師丸ひろ子演じる演劇の研究生が、大女優が起こした「既婚の大物財界人とホテルで密会中に相手が腹上死する」というスキャンダルを、舞台の主演にさせてもらう交換条件で、自分が起こしたと嘘をつく。その記者会見で、薬師丸ひろ子は泣きじゃくりながらも「金のためではなく愛はあった」と訴え、非難と同情の入り混じった日本中の視線を一気に集める。記者会見という名の大舞台の主演を務めあげたのだ。大女優(演じるのは三田佳子)は、「本当ならあの場にいるのは私なのに」と、罪を被ってもらったくせに羨ましがるのだった。

「してもいないスキャンダルを、自分がしたと嘘をつく」という設定の薬師丸ひろ子と、疑惑に真っ向から反論する小保方さんを比べることは無意味だ。似ているとすれば、「ここは舞台、私はヒロイン」みたいに思ってそうなところか。って言うと怒られそうだな。でも小保方さん、シロかクロか、善か悪かは判断できないが、ヤリ手なのは解る。ネットらしく汚い言葉で攻撃するにしても、そこまで責めなくてもいいのにと庇うにしても、どっちにしろ安易に小保方さんに関わると、いとも簡単に手玉に取られそうだ。

4月から仕事が忙しくなっているので、あんまりTVを見ていないのだが、バラエティ番組で芸人がSTAP細胞の騒動をネタにしている事例はあるのだろうか。いろいろと似ている佐村河内守のときは、大御所から若手までネタにしまくっていたが。ただ名前を出せば笑いが取れるから芸人にとっては勝手が良かっただろうなあ。でも小保方さんをネタにして笑いを取るのは難しい。なんだかんだで結論が出ていないのは佐村河内守と一緒だが、一応、小保方さんは一般人だし。でも一番の理由は、笑いを取るのに必要な「共通認識」が、小保方さんの場合はいまだにハッキリしていないからではないか。あなたのとなりにいる人が、小保方さんについてどう思っているか、きっとわからないはずだ。「共通認識」をあいまいなまま保つことができるのって、特殊な能力だからね。やっぱり、ヤリ手だ。

それにしても、STAP細胞が実際するかどうかと、論文に不正があったかは別の問題と思うんだが、小保方さんは「STAP細胞は本当にあるんです」とばっかり言っている。小保方さん、STAP細胞の存在が証明されたと同時に自分は全て許されると思っちゃいないか。それは違うのに。

小保方晴子

いきなり個人的なことで申し訳ないが、劇中で殺人事件が起こる長野県茅野市は、もろにボクの地元である。もう10年近く帰ってないので、どうしても周りの風景とかが気になって仕方なかった。駅前のヤマザキデイリー、まだあるんだ、とか。「電車に2時間乗れば都心に出られる地方」というのが物語上の重要なポイントゆえに舞台に選ばれたのだろう。茅野市というか諏訪地方は、中山道の中間地点だった頃から「都会の情報ばかりが入ってくる地」であった。それゆえ、ここで生まれ育つと東京への憧ればかりが膨らんでしまい、みんなすぐに上京してしまう。だから、本作に登場するああいうタイプの人は無理してでも東京に出るもんで、こんな中途半端な地方の会社に就職しないんじゃないかと、ちょっと思った。

さて、映画『白ゆき姫殺人事件』。原作の湊かなえの得意技である「女の本性って怖ぇ」モノ。さらに、「記憶は無意識に都合よく捏造される」などといった普遍的な人間の本能と、ネットでの虚実混ざった発言によって、不可抗力によって自分が自分ではなくなってしまう恐怖を描く。ただ、今回は中村義洋監督のプロフェッショナルなエンタメ指向が裏目に出たのではないか。殺す側も殺される側も結局は「壊れた人」だった点に、端的に表れている。それやった時点で「別の世界のできごと」(=エンタメ)だもん。なんだかんだでスクリーンの向こう側で収束する、娯楽としての恐怖なんかよりも、一歩間違えれば社会的に抹殺されかねないネットという狂気とともに歩む日常による恐怖のほうが、よっぽどリアルだ。

ほんの数シーン、劇中では名前も出ないチョイ役で染谷将太が出ていた(エンドロールで苗字が出る)。物語とほぼ絡まない立ち位置だが、ひとりだけ達観した視点で、全てに気づいているような素振りを見せる。この存在が、ちょっとしたスパイスとなって、作品に深みを与えていた。ただそこにいるだけで時空を曲げてしまいそうな、独特の存在感ゆえ逆に配役が難しい役者であるが、この使い方はベストではないか。
※ twitterより転載

【邦画】『ヌイグルマーZ』
わざとチープに、わざと下手に、わざと破綻させて創ることで、「あえて」を隠れ蓑にして真の実力を悟られないようにする手法、もうやめようよ。井口昇に一定の実力があるのは『電人ザボーガー』などでバレてるんだし、それ以上の実力がないのかもと勘違いされるよ。ゾンビが哲学めいた言葉を喋ったり銃を扱ったりなど、「ツッコミ待ち」が多すぎる。脚本の矛盾点を「ツッコミ待ち」でごまかさないでほしい。それより何より、いくら理由をつけられても、中川翔子と武田梨奈が同一の役ってのは本能で受け入れられない。ところで、平岩紙は老けたなあ。44点


【邦画】『神奈川芸術大学映像学科研究室』
学生の卒業(修了)制作が商業公開されて良かったためしは『イエローキッド』以外には知らないが、本作は「好きな映画は『トイストーリー3』」と言うエンタメ指向の監督ゆえ、客を楽しませようという意思があり、まともに鑑賞できるレベルではある。自らの経験から大学の映像学科を舞台にした「あなたの知らない世界」モノらしいが、勢揃いした人間のクズが折りなすゴタゴタは割と普遍的でどんな世界にも置き換え可能。これだからブラック企業は辞められないんだな。あの程度のラストで溜飲を下げていたら、いつか人生詰むでしょ。60点


【邦画】『御手洗薫の愛と死』
一番の問題は主演2人の演技力の差。家で一人なのに延々と説明台詞を喋り続ける非現実な状態でも吉行和子ならばサマになるが、本業は役者ではない松岡充が「え?」の乱発と話し相手の言葉から単語だけ繰り返す、これまた現実にはありえない会話をしているとツラい。出版業界の内情に現実味がない(編集長は気づけよ)のはともかく、売れない若手新人作家がベテラン作家から最後に受け取ったメッセージが「ちゃんと推敲しろ」ってのは何なの。そんなのその辺で売ってる「小説の書き方」みたいなガイド本にも書いてあるぞ。これで感動しろと言われても。49点


【洋画】『ROOM237』
キューブリック作品中でもいろんな意味で難易度の高い『シャイニング』を5人のオタクたちが分析する非公式ドキュメンタリー。後ろの小道具やら画面に見切れる一瞬を指差してインディアン虐殺やホロコーストの暗喩だとこじつけるあたり、愛すべき馬鹿が揃っている。雲の形がキューブリックの顔だって言い出したり。壁に貼られたポスターに写っているのはミノタウロスだと。キューブリックだし、カットが変わると椅子が消えていたり床の模様が変わっているのは意図的かもと思わされてしまうが。終盤の本再生と逆再生の同時投写も、バカバカしくて圧巻。62点


岩見隆夫

岩見隆夫


ジャーナリスト、政治評論家。1957年に毎日新聞社に入社し、「サンデー毎日」編集長などを歴任。毎日新聞の政治コラム「近聞遠見」などを執筆担当した。著書に『昭和の妖怪 岸信介』など。2014/1/18 死去。享年・78 



山本兼一

山本兼一


 時代小説家。2002年に『戦国秘録 白鷹伝』で長編デビュー。『利休にたずねよ』で直木賞を受賞し、後に市川海老蔵主演で映画化された。ほかの作品に『千両花嫁』、西田敏行主演で映画化された『火天の城』など。2014/2/13 死去。享年・57  


山本文郎

山本文郎


元TBSアナウンサー。スポーツ実況などを経て1976年『テレポートTBS6』のキャスターに就任。1987年からワイドショー『モーニングEye』の司会を務めた。晩年は30歳の年の差婚でも話題になった。2014/2/26 死去。享年・79  


まど・みちお

まど・みちお


詩人。代表作に『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『一ねんせいになったら』『ふしぎなポケット』など。「児童文学のノーベル賞」とも言われる国際アンデルセン賞を受賞している。2014/2/28 死去。享年・104  


※ twitterより転載

1ヶ月以上前にアップしていたつもりがしていなかったので、今さらアップします。かなり古いネタです。

【邦画】『おー!まい!ごっど!神様からの贈り物』
梅垣義明そっくりの服装と化粧で梅垣義明そっくりに歌って舞うのはつぶやきシロー。しかも役名は「梅ちゃん」。許可とったのか。映画開始直後に飛び降り自殺を図った人とぶつかるという、かの名作『恋するナポリタン』と同じことやってるし。近年稀に見るほど構成も演出もグダグダで、そのくせいじめ問題とかに手を出していてタチが悪い。記号的というのは批判だが、記号にすることすらできていない。一応ミュージカルのつもりらしく、ところどころある歌のシーンによって、体感時間が多少は短く感じられるのがせめてもの救い。38点


【邦画】『ほとりの朔子』
『歓待』が素晴らしすぎた深田晃司監督の最新作。タイトルにもある「ほとり」のシーンで、アングルを180度変えただけで日常が異世界に切り変わり、これが作品全体のメタファーとなっている作りが巧い。登場人物たちの何気ない言動によって日常に小さなヒビが入り、足元から少しづつ這い上がってくる微妙な危機感がリアル。古舘寛治も日常の範囲内に留まるレベルの異物感で、日常が崩壊することはないが、この無数のヒビが修復することはないんだろうな。安易に原発を絡める無用心さはなくはないが、個人と社会のズレをあらわすのに一定の効果がある。63点


【邦画】『華魂』
ピンク四天王のひとりである佐藤寿保の最新監督作。と言ってもあまり知らない分野なので、観ても戸惑うばかり。割とオーソドックスなイジメや家庭崩壊の描写が全体のほとんどを占め、メインであるはずの復讐部分はちょっとだけ。全体的にバランスが悪い。エログロに対する不快感とは別に、ありきたりなイジメ描写につまらなさを感じた。また、映画ではどんなありえないことが起きてもいいが、頭に花が咲いて催眠なのか何なのか解らないが教室を地獄状態にする展開は、メタファーの面でもストーリーの面でも説明不足だとは思う。52点


【邦画】『黒執事』
前半は世界観を含めて悪くはない。アクションや映像の作り込みはそれなりに魅力的。唐突な山本美月のガンアクションが盛り上がりのピークで、謎解きモードに入ると何言ってるんだか意味がわからなくなる。「次回に続く」の余韻は時に有効だが、こう丸投げだとちょっとねえ。そもそも冒頭で説明される「西側諸国と東側諸国がどうこう」っていう設定が、事件と何の関係もない。被害者が大使館員ばかりというのにも意味がない。あと、アクションが全くできないという役に剛力彩芽は不釣り合いではないか。SF的な近未来空間では栗原類がマッチするのは発見だが。55点


【ドラマ/単発】『TRICK 新作スペシャル3』
シリーズ最終作となる映画版の前日譚だが、物語上の関連はない。『犬神家の一族』のパロディを織り込んだ、都会から遠く離れた村で次々と人が死ぬ、いつもの話。医者役にケーシー高峰を配するなどのコネタは光るが、今回はおとなしめで拍子抜け。「宝のありかを示したヒントを解き明かす→罠だった」というループを何度も繰り返す安易な展開や、真犯人が急にキャラを変えて正体を表す陳腐な結末など手抜きが目立つ、『TRICK』シリーズを通しても物語の深みの無さは随一で、単純に商品として成立するレベルには達していない。43点


【お笑い】『かもめんたる単独ライブ「メマトイとユスリカ」』
驚いた。単なるコントの枠に留まらない傑作。ボケ・ツッコミは固定されておらず、非現実な存在との接触によって、ひとときの異空間を創造する。最後に各ネタを繋げる構成も、小説や映画でよくある手法だが、コントでは初めて見た。2人とも老若男女を問わず様々な“変人”になりきることができる。ただ、この高度な演技力のため2人の個性が見えず、キャラ重視の昨今のバラエティ番組では扱いづらくなっている。卓越したコント能力がTV出演への足かせとなってしまうのは、本人たちにとってはジレンマだろうが。81点