武さんは,徐々に洗面器のことを思い出してきました。アナリエさんが八木さんの指示に従って洗面器を持ってきて,佐藤さんがその洗面器を抱えて嘔吐し,洗面器の中に吐かれた物は,アナリエさんがトイレに流したということを思い出しました。さらに, 洗面器の色まで思い出し,洗面器の絵まで描いてみせました。
やっとのことで洗面器に関する武さんの供述を獲得した捜査官は,早速11月16日の取調べで,それをアナリエさんにぶつけます。
しかし,それに対するアナリエさんの反応は,捜査官にとって衝撃的なものでした。なんと,アナリエさんは,「渡辺荘には洗面器はなかった」と答えたのです。当時の渡辺荘には,洗面器などなかったというのです。洗面器がないのですから,いくらアナリエさんでも,八木さんに「洗面器を持って来い」と言われて,洗面器を持って行ったなどとは言えません。結局,アナリエさんの供述は,次のようなものになってしまいました。
佐藤さんは,「ウェー」と吐きそうな声を出してその場にうずくまったのです。その時八木かマミがテーブルを私の方に少しずらしたのです。八木は佐藤さんは吐きそうな状態だったので,「○○持って来い」と私に言ったのですが,私は八木が何を持って来いと言っているのか判らなかったのですが,佐藤さんは吐きそうになっているので,「タオルを持ってくればいいんだな」と思い,自分の部屋から白色のバスタオルを持って来たのです。すると八木が「テメー何持って来たんだ,風呂場のだよ,風呂場の」と言うのですが,私には何だか判らないでいるとマミが「あれでいい」と言って佐藤さんの部屋にあった丸いプラスチックのごみ箱をとり,佐藤さんに渡したのです。(アナリエH12/11/16警察官調書)
こうなると,洗面器の絵まで描いてしまった武さんの立場は?捜査官たちは,慌てたことでしょう。すぐに,アナリエさんの供述が武さんにぶつけられます。渡辺荘に洗面器がなかったというアナリエさんの供述は,捜査官や武さんに対して相当な衝撃を与えたと想像されます。武さんは,必死に思い出した記憶=アナリエさんが八木さんの指示に従って洗面器を持ってきて,佐藤さんがその洗面器を抱えて嘔吐していた,そして,洗面器の中に吐かれた物をアナリエさんがトイレに流したという記憶をあっさり覆し,アナリエさんの供述に迎合します。
すると,佐藤さんが吐き始めました。私が記憶しているのは,八木さんが焦った声で「洗面器もって来い」と言っていたことです。すると,アナリエが「洗面器」という言葉を理解しなかったのか,もたもたしていました。私が,急いでアナリエの風呂場を見に行きました。すると,洗面器はなく,ピンク色の取っ手がついた手桶があっただけでした。
私は,「ないよ,洗面器が。ひしゃくしかないよ」と言いました。八木さんは,「何だ,洗面器もねえのかよ」と言いました。洗面器がないので,代わりにゴミ箱を佐藤さんに抱えさせました。佐藤さんは,ゴミ箱を抱くようにして身体を丸めて吐きました。アナリエは,立ったまま,自分の口に手をあてて,「オエーッ」と低いながらも大きな,吐くような声を出しました。(武H12/11/17検察官調書)
(つづく)
鍜治伸明