こんにちは。西條ゆきえです。

最近ちょっとづつではありますが、

スピリチュアルについて書いています。

 

自分の意思とは別のところで、

ありとあらゆるものが動いていますね。

 

前回は徳ポイントが使われている、

なんて表現をしましたが

個人の意思とは別のところに

何かしらの意思というか意向というか方向性があるように感じますよね。

それは私だけではなく、みんな思うことなんじゃないかと思います。

 

それがレヴィ=ストロースのいう構造であり、

遺伝子の生存戦略であったり

自然の摂理であったり

あとは、「高次の存在」。

 

やっぱね、あると思うのよ。

西條はあると思います。

 

箱白さんの説明で使われる言葉で

徳ポイント、信仰ポイントって言葉が出てくるんですよ。

 

徳ポイントと

信仰ポイント。

この言葉を箱白さんの本で読んだ時、私は

(別なんや!?)と思いました。


結構さ、子供の時から信心深いことと
徳が高いことはごっちゃになってない?
私はなってた。
信仰の時代ってそうだったからかな。

 

徳と信仰は別軸として換算されている。

それぞれ貯まるけど、違う。

 

それで思ったんですよ。

土着信仰とか、呪いとかの勉強をすると

出てくる概念として、祈りの蓄積ってやつ。

なんの思いもこもっていないモノでも

何年も人が手を合わせ続けると念を持つってやつ。

初めはツルッツルの墓石でも、

名前が彫られて、

手を何年も合わせると媒体になっちゃうって感じよね。

そういうのって、普通に暮らしてても、ちょっとあるじゃない。

車とか、家電とか、ぬいぐるみとか、モノには命とは言い難い何かが宿るんだよね。

あれもマジっぽいじゃないですか。

 

日本のありとあらゆる土着の神様とか、

お雛様とか、お米の神様、水の神様、お茶碗の神様。

しゃもじも祀られてるとこあったよね。

なんにせよ、粗末にするとバチが当たるよってやつ。

あれって、信仰ポイントなんじゃないの??

 

日本の場合は地震とか災害がめっちゃ起きて

強制的にスクラップアンドビルドが成されているから

そういう自然的なものも含めて、

日本人は神に怒りを求める必要がなかったから

【(強制的に自然にぶっつぶされている)=怒りと受け取っていた】

モノにもったいない、って精神をこめるし

モノに神性を求めるよね。

 

ストーリーにすることによって

不安を鎮めるってやりかたが

科学的にあっているかどうかは置いておいて

社会の統治や安心して暮らすにはものすごく合理的だってのは

レヴィ=ストロースの本にも書いてあるんだよ;

 

それと、モノに神が、念が宿ってしまう。ってのは

並行して考えてもいいんじゃないかなって思うわけ。

 

結果論というか、今実際そうって話で言うと

神社ってそういうデバイスなわけじゃない。

 

入れ物があって、ものがあって、祈りの蓄積によって

信仰ポイントが貯まっていて、神がいることになっている。

 

そこから縁や運を引き出したり、

手が入っていないと衰退して、

問題になるわけじゃない。

 

インチキの霊能者もたくさんいたみたいだけど

油井真砂尼さんみたいなガチ存在もいる。

(この人はガチ中のガチ。国会図書館のデータで本が公開されていますよ)

https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00212882

 

今の上皇様以前の皇室では

霊能者?占い師をたくさん抱えていたっていうし、

(美智子様がそういうのをあまり好きじゃなくて、

 ある時期からみんな切られたって話もあるよね)

 

あんまりガチ系の霊能の人には日本がお金を払って、

豊かな生活を担保することによって

お金で国家転覆に力を貸したりしないようにしていたって話も聞いたことある。

 

何が言いたいかっていうと、霊能者は存在するんじゃないのってこと。

 

 

続きます。

 

土日はね〜。少年野球部で忙しい。

でもね、チームのみんなが上手くなってるのも嬉しいし、

野球の応援も楽しいもんですよ。

平日は平日で家事やら仕事やらで忙しいしな。

もうしょうがない。人生を謳歌しております。