メルキドの街/ヒステリックスイッチ | 誰もいないどこかへ
 世の中には、例えば親から虐待を受けたりとか、学校でいじめられたりとか、障害や属性のせいで差別を受けたりとか、過酷な労働環境に耐えかねてとか、様々な形で「ふるい落とされた人たち」がいる。そういう人たちのことを、自分自身のことを含めてずっと考えてきた。

 自分自身を基準にするからどれだけ他人と共通するのか分からないけど、そういう「ふるい落とされた人たち」の願いって、根本的なところではとても単純で「世の中すべて、と言わずとも、せめて自分の人生で関わる人たちはすべて善良な人であってほしかった」ということに尽きるんじゃないかと思う。
 例えば「経済的・物質的豊かさへの妄執」が貧困と格差を生んだんだ、みたいな話があって、ブータンみたいな心の豊かさを目指そう、みたいなことを言う人が大勢いるんだけど、問題は「物の豊かさか心の豊かさか」みたいなことじゃなくて、「野心と傲慢と権力欲」なんだと思う。日本が今、物質的豊かさへの妄執を捨てて、ブータンみたいな国を目指そうとしても、今度は誰もがブッダみたいな「心の豊かさの頂点」を目指して、騙し合いや蹴落とし合いを始めるだろうし、それによってうつ病になったり自殺に追い込まれたりする人も後を絶たないと思うんだよね。結局何も変わらない。
 そういう意味で「経済的・物質的な豊かさ」を目指そうが「心の豊かさ」を目指そうがどっちでも状況はそんなに変わらなくて、結局頂点を目指して人と人が蹴落としあったり、あるいは組織単位での頂点を目指して末端の構成員に過酷な労働を強いたりすることが、うつや格差や貧困や自殺を生んだりする。だから物質的なものであれ精神的なものであれ、「成功」という概念のアンチテーゼというか、オルタナティブとして「善良」な人々の存在は絶対に必要なものなんだけど、善良な人々は、例えば一般の、全然偉くない人々の中に紛れているものなので、探しだすのが困難だし、メダカみたいな絶滅危惧種になりつつある。

 社会全体のことを考えると、批判精神が発生するし、政治的野心が生まれてしまうので、全国の善良な人々を探しだして、『ドラクエⅠ』のメルキドの街みたいに、壁と門番を敷いて善良な人々を保護する街を作れればいいのに、と思う。
 結局、人々の傲慢や狡猾さや野心に耐えられなくなり、世の中からふるい落とされてしまって、これから関わる人々が皆善良であれば、と願いながら、「そんなファンタジーあり得ないんだからどこかで折り合いをつけてこのどす黒い世界に戻って来い!」というのが、いわゆる社会復帰の正体なわけじゃない。もちろん世の中の人々全員が善良である、なんていうのはファンタジーでしかないんだけど、それでも世の中からふるい落とされて身も心も傷ついてしまった人たちが辿り着く最後の保護区としての「メルキドの街」は、現実的にあってもいいような気がするんだよね。

 歴史上これまでも、上九一色村のサティアンとか、ヤマギシ会のコミュニティとか、独自にそういう「隔離された村」を作っていた団体もあるんだけど、それらはいずれも属性や宗教で繋がれたものだった。ある思想で結束したコミュニティは必要としていない。必要なのは、普通に生きる人々の心の在り方だ。

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 被災地の瓦礫撤去の話っすか。

 そもそも根本的な問題として、一家離散してまで関西や九州に逃げた人とか、瓦礫の受け入れを意地でも拒否するとか、俗に言う「放射脳」の人たちって、どうして“そう”なっちゃったんだろう?小泉さんとか、政権交代とかそういうものに一丸となって熱狂していたのと同じ流れなんだろうか。とりあえず彼らの心の中でどういう心理的反応が起きていて、何の要因によってその反応が発生するのか、それからして分からない。幼少期やそれまでの人生の中でどういう体験を経由すると、いわゆる「放射脳」になってしまうのか、その分析が待たれる。
 例えば東京で水を買い占めていた人たちは、家族連れなんかも多かったから、普通の家庭を持っていて、家庭を持っているということはそれなりに裕福なんだから、勉強の機会を剥奪されていた、というわけでもないんだよね。出会いがあったということは、それまでは普通に働いたりしていたんだろうし。普通に学校を卒業し、普通に就職して普通に恋愛をし普通に結婚をして、普通の家庭を築いていた人が、ある契機をスイッチにして、ある種の情報以外の物から眼と耳を塞ぎ、麻薬中毒者のように世の中の動きに熱狂、あるいは拒絶的反応を示すようになる。その間にあるものとは。

 一つ思い出すのは、「実は今の両親は自分の本当の生みの親ではなかった」という事実が発覚した時に、「本当の生みの親に会いに行きたい」と願うようになるためには、そういう風なストーリーを、事前にその子に刷り込んでおかないといけない、という話。現実には、ほとんどの子どもは「本当の親がどうあれ今この場にいるのが自分の親と思ってずっと生きてきたんだからそれでいい」と思って、本当の生みの親のことなんて無視するらしい。ある種のストーリーを刷り込まれた人だけが、“真実”に驚愕し、現実を捨てる選択をするようになる。
 自分のTLの範囲内なのでなんとも言い難いけど、Twitterでの発言者からするに、過去「政権交代」に熱狂していた人と、現在「放射脳」に侵されている人はほぼ8割方同一人物だと自分の中では確定していて、それは勉強不足と言うよりは、そういう反応をするよう刷り込みをされている気がする。親の言動を見てそれをトレースすようになったのか、学生時代にそういう種の人たちと接触を持って感化されてしまったのか、そのきっかけは人それぞれだろうけど、なんかそういう「マスが伝えない“真実”に対するヒステリックスイッチが入る」おまじないを若い頃にかけられて、それが解けない人がいる。学生時代に海外事情や学生運動なんかに参画したとか、幼い頃に親に連れられて共産党の集会に毎週通っていたとか、そういう繰り返しの刷り込みの結果、もう「マスメディアや大企業や国家絡みの不正が発覚した際にはヒステリックスイッチが入る」身体になってしまったんだろう。
 たぶん放射能に関する「ヒステリックスイッチ」は、「東電と国が、当初原発の被害を隠蔽しようとしていた」という報道で、純粋に地震というやむを得ない事情で原発事故が発生した、というだけだったら、ここまで瓦礫に関しても拒否反応は出なかったような気がする。

 そういう意味では、瓦礫受け入れを拒絶しているのは、放射能の恐怖に無碍に怯えているのではなく、きわめて計略的な「政治的判断」。当人たちは「ヒステリックスイッチ」が入ってしまっているから、無意識な人も多いだろうけど。むしろ驚くべきというか問題とすべきは、知らない間に「ヒステリックスイッチの入るおまじない」の類の刷り込み学習が、こんなにも人々の間に浸透していたんだ、という事実で、その出元を探る作業には、意味があるかもしれない。
 自分が分かる範囲での「ヒステリックスイッチの入るおまじない」の出元は、環境保護運動とスピリチュアルブームなんだけど、それだって「枝葉」の1種であって、もっと根本的な、茎や根となる出元がどこかにあるのかもしれない。
 とにかく、被災地の瓦礫受け入れ拒否は「国家と大企業の嘘と隠蔽」というキーワードでスイッチが着火してしまった人々の仕業で、実を言うと放射能云々はさほど関係がない、という話。だから実際放射能が基準値以下でも受け入れを拒否しようと動きが後を絶たないわけだし。

 たぶん政治家だろうが公務員だろうが、現実に接していれば「悪い人もいれば中には良い人だっている」という結論に落ち着くと思うんだけど、反体制スイッチが入っちゃうと体制は完全悪という方向に振り切れてしまうのは、それだけ現実で様々な種類の人との接点がないということなんだろうな。ただ単に摺り込み学習だけでは、それがヒステリックな反応に行き着くほどの着火スイッチには成り得なくて、「刷り込み学習+現実で同思想の人たちとしか接点を持たない」という2重のフラグを経由して、初めて着火スイッチは着火スイッチになるのだろうと思われる。