還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

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 1983年11月発行の新潮社版。全30巻の全集の第23巻であり、短編集としては第6巻目にあたる。昭和25年8月から27年4月にかけて発表された13篇が収録されている。

 この全集の短編集は律義に発表順に編集されているので、いつものように、収録作品名、発表年月とその媒体、そしてその作品が収載されている新潮文庫のタイトルを列記してみたい。


 『百足ちがい』   昭和25年8月号「キング」            新潮文庫『深川安楽亭』に収録

 『つばくろ』     昭和25年9月号「講談倶楽部秋の増刊号」 新潮文庫『扇野』に収録

 『ゆうれい貸屋』  昭25年9月号「講談雑誌」            新潮文庫『人情裏長屋』に収録

 『思い違い物語』 昭和25年9~12月号「労働文化」       新潮文庫『あんちゃん』に収録

 『追いついた夢』 昭和25年11月号「面白倶楽部」        新潮文庫『月の松山』に収録

 『嘘ァつかねえ』 昭和25年12月号「オール読物」         新潮文庫『日日平安』に収録

 『はたし状』    昭和25年12月発行「週刊朝日新年増刊号」 新潮文庫『四日のあやめ』に収録

 『七日七夜』    昭和26年5月号「講談倶楽部」         新潮文庫『あんちゃん』に収録

 『雨あがる』    昭和26年7月「サンデー毎日臨時増刊号」  新潮文庫『おごそかな渇き』に収録

 『半之助祝言』  昭和26年7月号「キング」             新潮文庫『雨の山吹』に収録

 『竹柏記』     昭和26年10月~27年3月号「労働文化」  新潮文庫『あとのない仮名』に収録

 『夕靄の中』    昭和27年2月号「キング」            新潮文庫『おさん』に収録

 『雪の上の霜』  昭和27年3月~4月号「面白倶楽部」     新潮文庫『人情裏長屋』に収録


 山本周五郎は読者の涙を誘うのが上手な作家だと思うが、この巻の収録作品に関しては、彼のもう一面の特色である滑稽味を盛り込んだ作品のほうが多いようだ。ひょうきんな、あるいは粗忽な主人公が動き回って、読者がクスクス笑って読み進めるうちに、彼は意外に手ごたえのある何かをしてのけてしまう、と言えば、これもまた周五郎が得意とする作話術である。

 標題作の『雨あがる』と『雪の上の霜』は浪人した武術の達人である三沢伊兵衛と妻・おたよを主人公とした姉妹編ともいうべき作品である。お人好しなのに部類の強さの伊兵衛が止むを得ず戦わなければならないシーンは思わず笑ってしまう。弱い者を救うために賭け試合をせざるを得ない展開になり、そのために仕官の道を閉ざされるのも共通のパターンだ。しかし、伊兵衛・おたよの夫婦には何とも言えぬ味わいがあり、楽しい。

 もう一方の『竹柏記』は、恋が主題の武家物である。真面目に勤め、妻をひたすら愛する高安孝之助が、しかし妻・杉乃の心を掴めないまま時が過ぎ、しかもかつての杉乃の愛人であった岡村八束から卑劣な仕打ちを受けるという展開となり、最後に妻も心を開くのだけれど、恋心も仮借のない現実の中では踏みにじられるというストーリーなので、必ずしも後味はよくない。岡村八束のような、恩を平気で仇で返すような人物に苛立ってしまった。

 『百足ちがい』は、一足違いどころか百足も違うという風変わりな主人公が読者を笑わせているうちに、いつの間にか、お側御用人という要職に任命されるという物語であり、『半之助祝言』は、藩政を牛耳る城代家老を辞任させるべく密命を受けた主人公が、やや破天荒な言動を繰り返しながら、ついには目的を達し、さらに美女の誉れ高い城代家老の娘までを手に入れてしまうという物語で、いずれも痛快な面白さである。

 『七日七夜』は、旗本三千石の四男坊でうだつのあがらない主人公が、ついに堪忍袋の緒が切れて、兄嫁から金包を奪い、吉原で豪遊のつもりが散々な目にあって、最後に一文無しになって辿り着いた場末の縄のれんで人の温かさをようやく知るという物語だ。七日七夜の散財が彼の新しい人生をもたらすわけで、最後に清々しい余韻が残る。

 『ゆうれい貸家』『嘘ァつかねえ』など、戯作調の滑稽味を主体とした作品もあり、山本周五郎の短篇のバラエティを十分に堪能できた。全集の短編集はまだまだあるので、順次読み進めたいと思う。

  2016年7月21日  読了

 


 


 1968年発行の角川文庫。初出は1951年6月1日~12月31日読売新聞連載とあり、65年もの歳月を経ている。現在ではこの作品を入手するのは困難かも知れませんね。

 実は、わが家の書棚には朝日新聞社発行の『海音寺潮五郎全集』全21巻が残っていて、今回はそちらで読みました。(全集を揃えても、すべてを読むのは至難であり、1971年5月発行のこの第12巻は45年を経てようやく初読でした。)

 ひとことで言うなら、実に痛快な小説であった。史実を織り込みながら、娯楽的要素も存分に盛り込まれていて、ついつい引き込まれてしまう。

 この作品の成り立ちについては全集版「あとがき」に詳しいが、著者は読売新聞の担当者に「西郷を書いてくれないか」と頼まれたのである。しかし、およそ200回の連載予定では西郷を正面から書くこととは無理な相談なので、脇に二人の人物を置き、その二人の行動を追うことで、おのずから西郷その人が浮かび上がってくるようにと、工夫を凝らしたということなのだ。一人は桐野利秋を充て、もう一人は旧会津藩士で鳥羽伏見から五稜郭まで転戦した経歴を持ち、いまは車夫をしながら福沢諭吉の塾へ通い勉学中の滝山修平を造形した。若く純真で正義感に燃えたその滝山修平が本編の主人公である。

 さらに面白いのは、連載前に著者が編集者と痛飲した際、編集者から「混血の美少女」「ニヒリストで剣術の滅法強し旗本崩れ」「スリの名人」など登場人物のリクエストをされ、酔った勢いではないだろうが「よろしい、入れましょう」と請負ってしまったということだ。、しかしそれらが、茉莉、石川金之助、文七として物語に過不足なく溶け込んで興趣を盛り上げているのだから、著者の力量はやはり並大抵ではないものと言えそうである。

 物語の前半は、様々なエピソードを折り込みながら、明治新政府の腐敗を示す端的な事例とも言うべき尾去沢銅山事件へと向かってゆく。長州閥で大蔵大輔の井下清が尾去沢銅山の採掘権を懇意の政商である岡田屋に下げ渡したのがこの事件で、その強引さ、悪辣さは、滝山修平には我慢できない。彼は妨害を受けつつも、桐野利秋や石川金之助に助けられ、ついにその証拠を掴み、司法省の江藤新平を通じて太政官会議で弾劾するところまで持ってゆく。ところがその太政官会議は征韓論の是非が議論の中心であり、銅山事件は上程延期となり、さらには洋行から帰国した木戸孝允などにより再調査とされてしまって、ついにはうやむやに終ってしまうのだ。

 滝山修平の苦労も水泡と消えてしまうわけで、彼としては無念の結末なのだが、しかし物語としては、西郷の下野に至るまでの太政官会議における虚々実々の渡り合いが手際よくしかもドラマチックに綴られてゆき、迫力を増してくる。征韓論を巡る争点の前では、尾去沢事件も瑣末な問題かと思えてしまう。著者は西郷を描くことを生涯の事業とした人だけあって、ここでの西郷像の造形も見事なものである。

 西郷は維新を成し遂げた中心人物であったが、しかしその明治新政府は、西郷の目から見ても理想とは程遠いものであった。そこに西郷の悲劇があったことが、この物語からもよく伝わってくる。滝山修平を主人公として自在に活躍させながらも、やはりこれは西郷を描いた物語なのだ。

 海音寺潮五郎の諸作品が現在どの程度読まれているのか知らないが、確かな史観に裏付けられたこの面白さは、もっと脚光を浴びても良いような気がする。

  2016年7月6日  読了

 



 

 



 すっかりご無沙汰してしまいました。
 小説はぼつぼつ読み続けていますが、ブログの更新は面倒になって、「ま、いいか」と、うっちゃっていたというところです。

 近況を申し添えれば、70歳を機に勤務先に退職の申し立てをし、後任探しと事務引き継ぎにやや時間を要したものの、この2月、50年余の俸給生活に別れを告げ、晴れて浪々の身となることができました。いわゆる年金生活で、もちろん経済的には不自由を強いられるわけですが、会社へ行かなくてもいい毎日をほどよく楽しんでいます。月に5回ほどのゴルフで身体を動かし、ゴルフがない日はほぼ毎日一万歩以上を歩いて、この4カ月で4キロほど体重も落ちました。

 読書に関しては、せっかく毎日が日曜日となったのだからと、池波正太郎『真田太平記』、吉川英治『宮本武蔵』と、意識的に大長編を読み継いできました。そしてこの『西海道談綺』も、自分の記憶では、清張作品のなかでも最も長大であると思います。

 さて、本書は1971年5月~76年5月まで、5年間に亘って「週刊文春」に連載された。文庫化は当初1981年に全8巻の構成で文春文庫に編入され、その後、1990年に、全4巻の新装版として再刊された。清張作品には稀有な伝綺小説の大作である。

 物語は、作州勝山から始まり、伊丹恵之助が妻の不倫相手を斬って脱藩し、途中、妻を廃坑に落とし、単身で中山道から江戸へ出て、思わぬ縁から旗本の太田家へ婿養子に入るという運びとなるのだが、この間に、しっかりと布石が打たれてゆくところが、さすがに推理小説で鍛えた清張らしく、素晴らしい。伊丹改め太田恵之助はその後九州の日田代官所へ赴任してゆくのだが、実は隠し鉱山を摘発する役目を負った隠密なのである。敵と味方が判然としないまま、やがて物語は日田を中心とした山岳地帯を舞台にして、息もつかせぬ展開となってゆく。

 面白いのは、恵之助がスーパーヒーローとは描かれず、勝山藩での役目から鉱山を知悉しているという強みはあるものの、部下が十分にいるわけでもない状況下、敵を単身でバッタバッタと斬り伏せるという流れにはならず、非常に苦難を強いられるところだ。現地での恵之助の味方といえば、従僕の嘉助ただ一人で、恵之助が頼りにする鉱山設計士の甚兵衛さえも当初は不穏な動きを見せる。しかも恵之助を慕って深川芸者のおえんが日田へ舞い込んできて、物語をより複雑にする。

 謎の山伏一行が無気味であるし、日田代官所の役人も誰を信じていいのかわからない。恵之助も手は打つのだが、それが間に合うかどうか。救いなのは、嘉助が意外と機敏なところと、おえんの女の魅力が敵を惑乱させるところ、そして何と言っても、甚兵衛が坑内の事情に詳しいということだろう。物語の舞台は、山岳地帯というだけでなく、廃坑となった坑内の暗闇でも展開してゆくのである。

 短篇を読んでしみじみと感慨にふけるのも好きだけれど、こうした大長編を一気に読み通すのはまた格別ですね。文句なしの面白さで、実に楽しい時間を過ごせました。

  2016年6月29日  読了


 


 

 



 1986年9月発行の新潮文庫。タイトルから推されるように、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の生涯を描いた作品である。

 物語は、道長が22歳の折、左大臣源雅信の長女・倫子と結ばれるところから始まり、上記の歌を謡うほどの栄耀栄華を極めた後、極楽浄土へ導かれることを願って建立した法成寺において死を迎えるまでを描いている。上下巻で900ページ余の大長編である。

 道長は摂政・藤原兼家の末っ子であり、人生のスタート時においては、兄たちに大きく後れをとっていた。この作品では、そんな道長を、平凡な幸運児として捉えている。円融帝に入内し後に一条帝の母后となった姉の詮子に可愛がられ、有効なアドバイスやバックアップを得られたし、何よりも、父の後を受けて摂政に登りつめた兄の道隆・道兼が相次いで死んでいったことも、その後の道長には有利に働いた。さらに言えば、倫子との間に娘が次々と生まれ、彼女たちが入内して皇子を産み、やがてその皇子が天皇となり、道長は外祖父の立場を得て、摂関家として盤石の地位を築いてゆくのである。なるほど、人知の及ばぬところで、道長は幸運に恵まれたのだ。

 道長の性格にしても、兄たちのような強引な手法を取らず、もちろんライバルが皆無だったわけではないのだが、温厚に対処してゆくのであって、欲望をむきだしにはしない。ことが起これば一喜一憂するあたり、まさに平凡な人柄であって、権力の権化としては描かれない。望月の歌からは嫌味な道長をイメージしがちではないかと思うけれど、この作品の道長には親しみやすさが溢れている。

 実は並行して『王朝の貴族 日本の歴史5』を読んでいて、そちらもまさに道長の時代を喝破した歴史書なのだが、永井路子が平安時代をよく研究してこの長編を執筆していることがよくわかった。時代の諸相が作品に描きこまれていて、歴史書と対比しても違和感がないのだ。単なる空想の物語ではなく、確かな研究の成果を得て道長以下の王朝を彩った人物を造形しているわけで、歴史小説の王道をゆく作品とも言えるのではないだろうか。

 学者ではなく小説化が描いたものは、登場人物が生き生きとしていて、読みやすく、楽しい。浅学非才の身には、この違いは大きい。

  2015年10月17日  読了

 

 1991年7月発行の新潮文庫。短篇7編が収録された作品集である。歴史・時代ものの短篇集を読むのは久しぶりの感じで、これはこれでやはり楽しい。

 標題作の『弓は袋へ』は、福島正則の晩年を描いた作品だ。タイトルは、正則が自身を弓になぞらえ、「敵のある時は弓は重宝なものよ。しかし治国ともなれば袋に入れてしまいこむものじゃ」と語った言葉を由来にしている。荒武者であった正則も、晩年は幕府に苛めぬかれ、疲れ果てていたようだ。

 『武辺の旗』は、後藤又兵衛の後半生を、主君・黒田長政との確執を中心に描いている。

 『ゆめの又ゆめ』は、北政所・おねの目から眺める豊臣家の滅亡を綴った作品。

 『台南始末は』は、朱印船貿易で台湾との交易に活躍した長崎の浜田弥兵衛が主人公。

 『怨霊譚』は、九州宗形一族滅亡を六地蔵の怨霊と絡めた無気味さを秘めた作品。

 『まっしぐら』は、戦国乱世のなかで新陰体捨流を編み出した丸目蔵人佐の生きざまに迫る。

 『阿波の狸』は、阿波十万石の領主・蜂須賀家正の関ヶ原合戦における出処進退の様を描く。

 歴史上有名な存在である福島正則や後藤又兵衛、あるいはおねに関しては、それぞれの晩年を中心に描き、作者独自の視点もあって楽しいのだが、どうしてもどこかで聞いたようなエピソードが混じってきて、それは止むを得ないことなのだろうが、やや興を削がれるような気がした。その点、『台南始末』以下の4編は、どちらかといえばマイナーな主人公たちであり、彼らがあるいは戦い、あるいは悩み苦しむ姿が、ストレートに胸に飛び込んできて、いわば新鮮な感興を得られたわけで、自分としては、断然そういう作品のほうに心酔できたように思う。

 解説によると、直木賞受賞以前に発表された作品が大半だということで、つまりは初期の作品集なのだろうが、すでに十分の力量を備えた安定した語り口であり、読者を引っ張ってゆくツボはしっかりと押さえられている。白石一郎も、折に触れて読み直したい作家の一人だ。

  2015年10月14日  読了

 1973年11月初版発行、2004年8月改版発行の中公文庫。中央公論社版『日本の歴史』(全26巻)の第4巻目である。(古代史をざっと復習しようと再読を始めたこのシリーズ、第6巻の『武士の登場』までは読み継ぎたいと思う。自分の性癖として、鎌倉幕府以後に入ると、通史を読む意欲が急速に萎えてしまうので。)

 奈良朝の称徳女帝の死に簡潔に触れ、次の光仁帝の皇太子となった他戸皇子がやがて桓武天皇として登場、長岡京への変遷を経て、平安京の造営に力を注ぐところから説き起こされ、以後、歴代天皇を列挙すれば、平城、嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐、朱雀、村上、冷泉までの、平安時代中期までが述べられている。天皇親政の時代もあれば、そうは言えない時代もあり、その間に次第に藤原氏が権力を高めて行った事情も語られるのだが、しかし、王朝絵巻というよりは、律令体制の維持に懸命に取り組む姿もしっかりと捉えられている。地方の実情にも目を配り、平安貴族の年中行事と詩歌管弦に明け暮れる姿だけが強調されているわけではない。

 皇位継承を巡り、あるいは藤原氏の内部の主導権争いから、ときに陰湿な事件が発生するのもこの時代の特徴と言えるのかも知れない。その間に、平将門や藤原純友が乱を起こし、中央政府を震撼させてもいる。

 『古今集』などの芸術にも触れ、北山茂夫氏のこの著作は、平安時代を広く見通すことに全力を上げているようだ。と言うのも、改版の添えられた解説を読むと、初版以後の新発見を補記するのではなく、平安時代の歴史研究のあらましが述べられていて、つまりは、この時代の研究考察が遅れていたからなのだろうと思われるからだ。そういう意味では、この書がおよそ半世紀前に世に出たときは、画期的な内容を含んでいたのではないだろうか。

 通史というに相応しい記述であると思われ、読み応えはたっぷりであった。

  2015年10月11日  読了

  

 

 

 

 1990年4月発行の新潮文庫。

 鬼麿は、四谷正宗と謳われた刀工・山浦環(=源清麿)の弟子という設定である。師匠の清麿は実在した名工であるが、鬼麿は著者が創造した架空の人物だ。清麿は美男で女好きであり、それがために江戸を出奔せざるを得なかった時期があり、旅の途中の路銀欲しさに、数打ちの粗悪な刀を打ったことがある。清麿は死に瀕して、そうした粗悪な刀を折り捨てるよう、鬼丸に遺言した。かくて、鬼丸は師匠の名誉を守るため、かつての師匠の足跡を追って、旅に出ることになる。

 鬼丸は身長6尺5寸(197㎝弱)、体重32貫(120kg)の巨漢であり、師匠から譲り受けた大太刀を腰に手挟んでいる。試し斬りの達人であり、大太刀の先が尻につくほど大きく振りかぶり、足を横に開いた不動の構えから、凄まじい破壊力を発揮する。その鬼丸の行く手を阻もうとするのは、清麿に恨みを抱く伊賀者の一行で、その粗悪な刀を世に示して、清麿の名声を地に落としたいのだ。また、そうした刀を所有している者たちも、当然のことながら、それを折ることには容易に同調せず、ときに鬼麿は力づくで対処しなければならない。すなわち、鬼麿の旅は危険に満ちており、読者の側から言えば、活劇シーン満載の痛快な読み物ということになるのだ。史実と虚構とを巧みに織り交ぜた全8話の連作短編集は、その始まりからワクワクさせられること、請け合いである。

 鬼麿は中山道、野麦街道、丹波路、山陰と師匠の足跡を辿ってゆくが、『二番勝負 古釣瓶』で山窩出身の少年たけを供に加える。鬼麿とたけの関係は、かつての清麿と鬼麿との出会いを髣髴とさせ微笑ましい。また、鬼麿自身も山の民の一族であり、彼ら「山の民」の結束が物語の展開を左右させてゆくあたり、天皇以外の権威を認めない誇り高き自由民である「道々の輩」を好んで描く隆慶一郎の特徴がよく出ている。さらに『四番勝負 面割り』では伊賀組頭領の末娘であるおりんと結ばれ、彼女も旅に同行することになるのだが、敵と味方が入り混じって、興趣が尽きない。

 各編には、藩内の派閥抗争、刀工同士の確執、博徒の跡目争いなどの挿話も盛り込まれ、そこに師匠の刀を捜す苦労と、折々の伊賀者との壮絶な闘いが加わるわけで、重層的な面白さを満喫できる。おそらくは、鬼麿というキャラクターを造形した時点で、この作品の成功は約束されていたのだろう。

 文句なしに面白い小説に巡り合って、至福の時を過ごすことができた。

  2015年9月19日  読了



 2004年7月発行の文春文庫。先に読んだ『剣聖一心斎 』の続編にあたる作品である。
 剣の達人というより、剣を抜かなくても不思議な強さを発揮する中村一心斎を主人公とした短編集であるが、前作では、毎回ゲストというべき人物が入れ替わりで登場して一心斎に絡んできたのに対し、この作品では、同一のゲストを二~三話ずつ引っ張るということが行われていて、少し味わいが違うようだ。
 例えば、冒頭の『闇の息』『片手突き』『化け物退治』には大石進が続けて登場し、彼は江戸で自らの剛剣の名を上げたいと願って、同情破りを繰り返してゆく。彼の狙いは男谷精一郎にも向けられ、伴って勝小吉の出番も増えるというわけで、前作の登場人物も復活してくるという構造となる。一心斎はと言えば、彼らとは別の観点で(主として資金稼ぎ。彼は黒船に乗っ取られたこの国を買い戻すための軍資金を集めるという気宇壮大な目的があるのだ。)動いているが、微妙に彼らとの接点ができて、最後は相変わらず美味しいところを摘んで、姿を消してゆくのである。
 続く『身代わり獄門』『あれが武田の埋蔵金』は、前作でもゲストを演じた鼠小僧次郎吉の物語だ。捕えられて獄門に送られる次郎吉を、一心斎は盗賊の一味であった与之助が瓜二つであることを利用して、掏り替えてしまう。与之助は余命いくばくもないことを信じ、娘のサトに百両を送ることを条件に身代わりを納得したのだ。だが、百両を受取ったサトは、店の主の陥穽により危難に陥ってしまった。次郎吉と一心斎がその店を懲らしめに出かけることは言うまでもない。
 次の『秘剣ふぐりほぐし』『妖怪七変化』『秘め事』 には、若き日の島田虎之助が続けて登場する。まだ19歳の虎之助は剣術の廻国修業の旅先で一心斎と出会うという設定で、一心斎が盗賊を退治したり、強欲な代官手先を懲らしめたりするのを目の当たりにして、彼自身も成長してゆくという物語だ。一心斎が繰り出す秘術の面白さは『ふぐりほぐし』などというタイトルからだけでも想像できるというものである。
 以下、『異国の空』『夕映えを斬る』『魂を風に泳がせ』『鳥の如く、フライ』 と続き、一心斎と勝小吉の息子麟太郎との繋がりのエピソードが挿入されたりもするが、著者はやはり男谷精一郎と勝小吉のコンビがよほどお気に入りらしく、最後にもう一度彼らに役どころを与えている。とは言え、一心斎ははるか異国を見据えているのに対し、他のメンバーは旧態依然の武家社会しか知らないのだから、ギャップは大きいのだけれど。
 一心斎という飄々としたキャラクターは魅力に溢れていて、彼の物事の解決方法にも意外性があり、楽しく読むことができた。ただ、敢えて比較するならば、前作の『剣聖一心斎』のほうが密度は濃かったように思う。著名なゲストが毎回変わって登場し、彼らのイメージを壊さないまま、一心斎の一種とぼけた味わいと交差してゆくストーリー展開が絶妙であったからだ。そういう意味では、今作はゲストがやや小粒であったし、しかも2~3話と続いたこともあって、味覚が少し薄められたような気がする。
 だがこれは期待の大きさゆえの欲というものであって、こういうキャラクターを創造し作品として結実させた高橋三千綱の才能には敬意を表すべきであろう。 
  2015年9月5日  読了

 2002年8月発行の文春文庫。

 このところ、ややカタい本ばかり読んできたような気がするので、目先を変えたくなって、書棚からこの作品を選んできた。以前読んで、無類に面白かった記憶があるからだ。

 江戸時代末期の剣豪・中村一心斎を主人公とした連作短篇集である。中村一心斎はそれほど知名度は高くないと思うのだが、剣豪列伝といった書物には登場してくるようで、つまりは歴史上の人物であるらしい。もっとも、この作品における一心斎は、もちろん強いには違いないのだが、剣を交えて名勝負を演じるというタイプではなく、多くの場合、不思議な技で相手の動きを制御してしまうし、止むを得ず斬る場合は、ある程度の剣術達者の目にも止まらぬ早業であって、何が起きたのか分からない。その言動は、人を食ったというか、相手を煙に巻くというか、どこかユーモアに裏打ちされているし、つまりはあくまで著者の創造した人物像であって、歴史上の人物とは相容れないのではないかと思われる。

 ところで、中村一心斎が主人公とうっかり書いたが、各編にはそれぞれの主役があり、それはタイトルを眺めれば瞭然である。『周作仰天』では千葉周作が、『呆然小吉』では勝小吉が、『妖怪北斎』では葛飾北斎が、『にこにこ尊徳』では二宮尊徳が、『忠邦を待ちながら』では羽倉外記や両替商の丸三屋吉兵衛が、『金四郎思い出桜』では若き日の遠山金四郎が、『次郎吉参上』では鼠小僧次郎吉が、『開眼弥九郎』では斎藤弥九郎が、『郷愁、音無しの剣』では高柳又四郎が登場し、彼らを中心に物語は進行するのだ。そして、中村一心斎といえば、作中の佳境でふわりと現れて、美味しいところを一人占めしては去ってゆくのである。それでいて嫌味ななく、さわやかな印象を残してゆくところが、この作品のツボであるようだ。なお、巻末の『霧隠一心斎』では、さながらオールスター戦のごとく上記の人物が入り乱れて登場し、一心斎は黒子的な役割を務めるのだが、意外な展開でスカッとした幕切れを演出しているのは流石であると言えよう。

 一心斎は剣豪であるわけで、この作品でも誰にも負けない強さを発揮するけれど、普段の彼は、女性のお尻に触れたことを指摘されて顔を赤くしたりもするし、武田が隠した財宝を捜すのも、気宇壮大な目的があってのことだと述べたりもする。幕末という時世を反映してか、彼は将軍以下の武士の存在を否定的に見ていることも窺える。ただ一筋に剣の道を極めるという生き方とは対極に位置する人物として描かれているのだ。

 この時代にそんなことはあり得ないと思うのだが、これも本人いわく、あめりかへ2年ほど行っていたそうで、

 「あの女のことは忘れろ。らぶいず、おーばあ、というわけじゃ」

 「?‥‥‥」

といった会話が挿入されるのも面白い。もっとも、著者も用心していて、各編に一カ所だけしか英単語を使用しないところが、愛敬だと言えそうである。

 久しぶりに、読書を純粋に楽しめたような気がする。もう一冊、著者には『暗闇一心斎 』というこの作品の続編もあるので、続けて読んでみたいと思う。

  2015年8月22日  読了


 1973年11月初版発行、2004年7月に改版発行された中公文庫。中央公論社版『日本の歴史』(全26巻)の第3巻目である。

 タイトルが示す通り、この巻で扱うのは平城京に都が置かれた時代であり、天皇在位で言えば、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳(考謙帝の重祚)、光仁の治世ということになる。なかでも聖武天皇とその娘の考謙(称徳)天皇とが、この時代を代表すると言えるわけで、本書もこの2人が在位した時代を緻密に考察している。

 ただ、著者の専門なのか、それとも関心がそちらに向かうのか、当時の社会の仕組みの解明に全力を注いでいて、貴族の生活から、地方の村落や家族のありようなどまで、史料に基づき綿密に考証されるのに、逆に、上記の天皇をはじめ時代を彩った人物への言及は控えめである。自分としては、律令制に基づく支配体制とか、租庸調がどのように収斂されたかなどの詳細な報告よりは、歴史上の人物が織りなす一筋縄ではゆかない機微に面白さを感じるので、その点にやや不満を感じる。丸山裕美子氏の解説にも、「本書を『人民無視』と酷評した向き」があったと記されているのも、わかる気がする。もちろん本書が小説類ではなく研究書であることは理解しているつもりであるし、同氏が「厳密な史料批判と精緻な考証に支えられた本書の価値はゆるぎない」と後述しているのも、その通りであろうと思うのだが。

 一部の貴族が優雅な暮らしを満喫していた一方で、大多数の農民たちは作物を収奪され、その土地ならではの工芸品なども献上を義務付けられ、さらには年間60日ほどの使役にも駆り出されていた。著者はそうした支配構造を渾身の努力で明らかにしようとしているようである。そうした記述を読みつつ、自分はかつて司馬遼太郎のエッセイで読んだ「官僚は太政官時代の意識をいまも持っている」というような内容を思い出していた。そして、多くの優秀な学生が上級官僚を目指すのは、この国や国民をより良い方向へ導くためというよりは、支配階級に属して、生涯を貴族のように過ごしたいからではないかと思ったりした。そういう文脈で理解すれば、国家予算のいびつな遣われ方もよくわかる。官僚たちにとって、税は収奪したものであり。一義的には、官僚自身に都合のよい割り振りがなされるのであろうから。

 (読書の感想を書くはずが、思わぬ方向へ進んでしまいました。)

 なお、長屋王邸の跡地から大量の木簡が発掘され、その後も各地で木簡が見つかったのは、この作品が発表された後のことであった。木簡が当時の暮らしを浮き彫りにする側面もあるわけで、そうした新しい研究成果を知りたいのであれば、最新の通史に目を通した方がいいだろう。

 折に触れて奈良を訪れ、あちこち歩き回ったのは、15年~20年ほど前だったろうか。本書を再読して、また奈良を巡ってみたくなってきた。

  2015年8月15日  読了