vivienne sato

だいぶ前の出店した展覧会に寄せた文章ですが、どこにも発表していなかったかも。

 

⭐︎『Re:解体新書』展 鞆の津ミュージアム

http://abtm.jp/

 

 

 

 

盲目の作家ボルヘスは、あるひとつの文学作品中に描写されている本質的に異なる要素群をラテン語の「disjecta membra」(ばらばらになり、散乱した陶器片という意)と喩えた。

 

鞆の浦。万葉の歌にも詠まれ、中世では足利氏の創始と終焉がこの地で、「鞆幕府」とも呼ばれていた歴史的で風光明媚な土地。

その地に構えている「鞆の津ミュージアム」は、そのミュージアムの成立やそこでの展覧会の企画の意図そのものが、唯一無二の在り様を有している。

 

そこで開催される殆どの企画展は、ひとりの人物や作家に焦点を当てられたいわゆる個展や回顧展ではなく、数名の作家(ときには「作家」という言葉では括ることができない)たちによるグループ展や数箇所からの選出された現象の提示という展示形態が最大の特徴である。そして、それらの作品(事象)の発見し、分類し、枠組みを与えるという作業が実にユニークである。それはこのミュージアムにおける「キュレーション」というものの役割や意味、ある展覧会に至るまでのリサーチや理解、解釈、展示方法、それら一連の作品や活動は社会からは注目されたこともなく、埋もれていて、まだ作品と言えないかもしれない「なにものか」を発掘する工学者的な慎重で大胆な手法を取っている。

 

母体は福山市にある社会福祉法人であるが、ミュージアム展示の対象者(物)一般的にいうところの障害を持つ方々だけではない。むしろその範疇以外の、美術家と言われてい人からクリエーター、商業施設の経営者、発明家、占い師、無名の人々、、、と日本中から実に多様な人々が選出される。ある社会的な既成概念の枠組みといったもの、昨今の多くの美術館の常識や、表層的なパブリックコレクトネス(公共的な正しさ)を無化させること。アウトサイダーアートやエイブルアートという言葉さえ、むしろその解体にこそ、このミュージアムの最大の目的のひとつとも取れるのかもしれない。

 

選出され、展示された彼らの作品群(「美術館」という概念のひとつには「作品」を規定することが挙げられるので、ここではあえて「作品」と呼ぶ。そしてこの施設は「美術館」という狭義の意味ではなく、むしろ「博物館」といった意味合いの方が近い気もする。よって、ここではこの施設を便宜上「ミュージアム」と呼ぶことにする。)に潜在していてる個々の傾向や世界観、強迫観念といったものは、ひとつひとつの作品やひとりひとりの作家の特徴や傾向を観察する限り、一見ばらばらで異なっている。

しかし個々の作家の作品はパズルの一片のように、その作家にとっての「ある世界」を形成しているようにも見える。それぞれの作家の背後には「ある世界」観やユートピア観、もしくは絶望の世界観といったものが、独自の法則や象徴的な意味での遠近法によって表現されている(いない)。法則や象徴的な意味での遠近法とは、主体と世界とのまさに関係性である。

 

そして、そのような作品群を集めることで、それぞれの背後に存在しているであろう「ある世界」が同時に集められることになる。世界や時間や宇宙といったものはたったひとつではなく、複数にして重複して存在、もしくは共存している。そして、そこには個々の「ある世界」群によって、さらにそこに集積された大きな「世界」が形成される。

大文字の世界というものではなく、多くのさまざまな「小文字の世界」が集められ、今度は「小文字の世界」という概念の中での「大文字性」をそこに形成し始める。個々の小さな「世界」像や「歴史」像を集める作業。

しかし実のところ個々の断片を集積しても個々の完全な「世界」像というものは完成されず、永遠に未完成の状態でもある。その断片と断片の間、ある「世界」と「世界」の間に横たわる裂け目は埋まることもなければ、その裂け目や空白とも言えるような隙間がこのミュージアムの最大の展示物なのかもしれないのだ。失われてしまい完全には元に戻ることはない遺跡物や遺品物のような展示物とその中間にある空白。世界そのものは断片から出来ており、不連続で、断続的で、散らばっている。その世界モデルそのものを、けっして再現や模倣ではなく、現前しているように思える。

このミュージアムにはそれら間が埋まることのない断片が集められ、まるでボルヘスのいうような「disjecta membra」(ばらばらの陶器片)をそこに見るのだ。

大文字の世界の解体と、同時に大きな「小文字の世界」の表出を現前化している。

そしてこのミュージアムは、本来「美術館」の持つ目的のひとつでもある「作品」を「保管」すること、「所蔵」といったことには、こだわらないように見える。しかし、そこには明らかに「収蔵(収集)」といった通常の「美術館」の概念を通り越して、「奇集(癖)」といった領域にまで達するミュージアムサイドの強迫観念をそこに見るのである。

それは珍品の収集といえば、歴史的に見るとバロック期にイタリアに始まりスペイン、ドイツの王侯貴族にまで伝わった「驚異の部屋wunderkammer」を彷彿させる。美術品や工芸品、道具、地球儀、医学の器具のような人工物にとどまらず、自然物の珊瑚や貝殻、動植物の剥製、ダチョウなどの卵、ミイラなど、収集物はオートマタといわれる自動人形にまで及んだといわれる。とにかく世界中のありとあらゆる珍品や奇異なものが競って収集された。

この趣味の根底には畸形や怪物といったものが嗜好があったといわれている。

そしてそれは当時の権力の象徴であった。権力を持つということは世界中の希少なものを収集し保持したいという強い欲望であり、その財力でもあり、また規定するという眼力、眼であった。

このミュージアムの特徴とも言える規定する力。日本中から普段は見落としているものたちを探索し、あたかも埋没している遺跡の調査、その考古学者的な視点は、「驚異の部屋」を有する15世紀から18世紀の王侯貴族そのものである。実際に所有という行為に至らなくとも、それを眼力を使って発見し、ある期間に展示紹介する姿勢は、当時の彼らと変わりはない。むしろその情熱はまったく同質なものなのかもしれない。

 

 

 

 

⭐︎JG「新宿ノスタルジー」

http://jgweb.jp/22447

⭐︎TOKYO WHISKY LIBRARY

http://tokyo-whisky-library.com/

⭐︎ホセ・ルイス・ゲリン 『ミューズ・アカデミー』、その他ゲリン映画特集上映 1/7よりTOP MUSEUM(東京都写真美術館にて)。。。必見!!!!!!!

http://mermaidfilms.co.jp/muse/      #びび覚書

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すべてのリアクション:

102あなた、吉田 由美、今川 和佳子、他99人

『ストレンジウェイ・オブ・ライフ』ペドロ・アルモドバル

 

東京国際映画祭2023で、本編31分よりも長い時間の解説をしてきました!w

 

https://youtu.be/exVaV4UndwA?si=fByu_G0I_T28Btmw

冒頭流れるカエターノ・ヴェローゾ(原曲はアマリア・ロドリゲス)「Strenge way of life Estanha foama de vita」の歌詞世界

すべては神の思し召しだった

あらゆる悲しみは私のもの

なんと奇妙な生き様

解けない魔法のように

もうこれ以上耐えられない

どうか止めてその鼓動を

この歌詞世界そのままの物語が再現。

 

おそらくであるが盲目と思しき美しき若いカウボーイが、軒先でこの歌を切なく自らギターを弾きながら一人語りで唄っている。

これから始まるこの西部劇は形式性が強く、冒頭から確固たる視覚性が重要視されるであろうことが予測されるのであるが、冒頭のカウボーイは盲目。その完全なる不可能性。

盲目のカウボーイは、これから始まるこの物語の預言者的な役割を担う。。

 

この肌理が細かく西部劇の形式性が強い印象の映像は、サンローランという老舗ハイブランドが全面的に協賛して製作している事もあるだろう。

個人的に肌理の細かさと形式を重視する映像は、同じハイブランドデザイナーのトム・フォード初監督の『シングルマン』を連想させた。

また、カンヌ映画祭ワールドプレミア上映の際は、アン・リーの『ブロークバック・マウンテン』へのアルモドバル流のアンサーシネマだと評された。

『ブロークバック・マウンテン』は当初、アルモドバルに監督オファーがあったのだ。

しかし、決定的に異なるのは『ブロークバック・マウンテン』の原作がアメリカ西部の1960年代ということもあり、ゲイが社会的に認められず、また本人たち自身もその感情が不明という状態があった。

アメリカ型LGBTQ+は、「生きにくさ」や「生きづらさ」をあまりにも敏感に感じ取り、その原因を社会や他人など外部に求めてしまう被害者的な傾向がある。

しかし、アルモドバルの作品に一貫して通底するのは、運命や神の意志だ。

人生の苦しみや痛みと共に生き、それすらも自分のものとして運命を受け入れる、それは強い生命力だ。

狂ってはいるが悲劇すら呑み込んで謳歌するその生命力は、痛みや弱み、傷口を曝け出すラテンのエロティシズムそのものだ。

 

 

ジェイク(イーサン・ホーク)とシルバ(ペドロ・パスカル)は、かつて殺し屋相棒でもあり、男性恋人同士で、牧場を一緒に経営すると誓った仲だった。

しかし、現在はそれぞれ、ジェイクは亡き一児の親で警官となり、シルバは一児の父親となり25年が過ぎた。それぞれ現在は独り身だ。

ある日、ジェイクの亡き息子の嫁が、殺害された事件が起きた。容疑者は脚の悪い品行の悪いシルバの息子ジョーだ。

シルバは、息子の罪を見逃してもらうために、その調査をしている元恋人の警官ジェイクの元へ砂漠を超えて訪ねてくる。。。

ふたりは25年ぶりの再会を果たし、酒に酔って一夜を共にしてしまう。

かつての悪党同士だったふたりの美しい日々が思い出される。。悪運に、矛盾に、乾杯するふたり。。

しかし、朝になりシルバが息子を見逃す嘆願をしに、ジェイクに会いに来たことが明るみに出るとふたりは訣別。

シルバは息子を遠くに逃すために、急いで馬を走らせる。

そしてその後を追う警官ジェイク。。

馬の足跡を追っていく様は、まるで25年の月日を遡上していくようだ。

警察署でイーサン・ホークの25年ぶりに会う恋人への複雑な表情。

そして、最終的に傷を負って身動きができなくなり、運命に逆らえずシルバの話を飲み込む表情。

どちらもイーサン・ホークの素晴らしさという一言に尽きる。本当に素晴らしい演技だ。

また、アルモドバルは強い男が弱い立場に急転した際に、そのときが強烈なエロティシズムを発する瞬間だと熟知している。

シルバが元恋人の警官に嘆願する精神的に弱者の瞬間。

無鉄砲に女を殺害して動揺し逃走するシルバの息子ジョー。

そして終盤重傷を負い手当てを受け、身体的に弱い立場のジェイク。

強固な男性性の裂け目から弱さを露出する光景。

お互い若く美しく羽目を外していた眩しい確固たる記憶の共有。

それが現在では、その関係性が全く変容してしまった状況。その美しいフレームに入った記憶と現在。

 

絵画でいえば、スペインの宮廷画家で有名なベラスケスも何度も作品に取り入れた画中画に手法のようだ。

全く異なる時間が折り畳まれた部分と、その現在の状況。異なる次元が同一平面上に共存させる手法。

ゴダールの『気狂いピエロ』冒頭に読まれる美術批評家のエリー・フォールは、「ベラスケスは沈黙の画家。背景の影や透明感を、沈黙の交響曲の目に見えない核」と評した。

冒頭の盲目のカウボーイは見えざる運命を幻視していたのかも知れない。。

31分という短編だからこそ、全く無駄のない台詞と演技、演出。

是非とも日本一般公開を求めざるを得ない。

 

 

https://youtu.be/El6H51Ry39E?si=dUXJuqC-uruBiBqo

カエターノ・ヴェローゾ「Estanha foama de vita 」https://youtu.be/NOg1Jce1fco?si=_qS4XlpMUv27s4ly

アマリア・ロドリゲス

https://youtu.be/krCBnAs1haM?si=nwtzQ9TdlYmUOTiR

©️TIFF2023

#TIFF2023 #tiff #ペドロアルモドバル #びび覚書

 




リトブラフの印刷機と木工工具のDIYスペースを持ち建築や内装デザイン、カフェなどバックグランドの異なる三人による集団「ハンド・ソウ・プレス」。
オリジナルZINE作成体験に行ってきました。10/9のはなし。

大塚サンモール商店街にて、だれでもオリジナルのZINEを作成でき、近くに自由に交換できる「ガリ版印刷発信地」を設置。豊島区内をはじめ全国の書店や公共施設にもZINEスタンドが設置され展開していく。自分たちが手作りで作成したZINEが日本中を廻り、見知らぬ所で見知らぬ人が手にしていくプロジェクトだ。

私も二日酔いの身体にムチを打って、自分のZINEづくりをがんばりました。。。笑
その日の二日酔いの気持ち。全国に届くのか。果たして共感してくださる方もいるのでしょうか。。
一縷の望みをかけて。

「演劇」とは、基本的に「その時/その場所」という固有の時空間の共有とも言えます。
劇場の立地場所やその時々の時候も関わるかもしれません。演者も鑑賞者も一回きりの体験です。
しかし、昨今はコロナの影響もあり配信も数多く行われております。配信のみという鑑賞方法もいまでは珍しくはありません。
配信での鑑賞となると、その固有性は失われます。
鑑賞者は何度でもパソコン画面上で「映像」を鑑賞することが可能になります。

このZINE作成は、固有の場所に存在する仮設の印刷所でそれぞれ個人が描き印刷が行われ、それが全国の現実の書籍店や公共施設に設置されます。
物理的な経験や出逢いがそこにはあります。(ZINEにおいても微妙にズレが生じたり、全く同じものはありません)
いわば身体性がそこには存在しているということです。
都市もまた身体的なものです。

それは、いままでの演劇体験にも近いのです。
例えばある商店街に劇場があるのであれば、そこへ行く途中には様々な経験があり、前後にも多くの店舗や施設などががあります。
商店街の色合いやその日の天気、一緒に訪れた人々がいればその今日体験や記憶にもなります。
いわば配信による本題だけの経験では完全に抜け落ちた「残余」を経験することになるのです。
そして、ZINEは一般書籍や新分などとは異なりネットやウェブマガジンのような形ではなく、実際に身体で接します。
これはデジタルではフォローできない経験なのです。

昨年から私は大正大学で教鞭を執っており、昨年はほとんどズーム配信授業でした。大学には一体何をしに行くのか。ただ授業だけを受けに行く場所であるなら、それでもいいかもしれません。しかし大学生活とは授業以外の余剰こそが大事なのです。
大学とは授業を受けに行くのではなく、授業をサボりに行く場所なのです。


https://tokyo-festival.jp/2021/program/kitamari
https://tokyo-festival.jp/2021/tfcommunicator

#TFcommunication #東京芸術祭 #handsawpress #つながるガリ版印刷発信基地 #東京芸術祭2021フェスティバルコミュニケーター