要約『方法序説』
第6部
権威者たちが、ある論文を否定した。私にはなぜその論文がいけないのかわからない、あるいはわからなかった。自分が勘違いしていないか。自分の論文をひっこめた。
方法から導かれる生き方を、つよく他人に主張しようとは思わなかった。生き方などというものは、人の数だけ違うものが主張されうるから。
自然学と人生論は違う。人生についての意見はあるいは秘匿しておくほうがいいこともあるかもしれないが、自然についての知識は公開されなければならない。
論理的な哲学にたいして、実践的な哲学がありうるだろう。
健康は最善のものである。他の良いものも健康から導かれる。
医学について研鑽をつめば、老衰すら克服できるかもしれない。
共同作業のすすめ。学問が進歩するほどにそれは必要となる。
実験の結果の意味についても論文に書いておこうと思っていたが、考えをかえて、試行錯誤の過程もすべて読者につたえるべきではないかと思うようになった。
生前に論文を発表することの是非を考えるようになった。論文の解説者としての仕事が、私に課せられてしまうのではないか? 時間が惜しい。
他人からの批判には誠実でありたいが、実のある批判を寄せてきた他人はいない!
討論という手続きで、あらたな事実が発見されることはない!
討論において、りっぱな「弁護士」がりっぱな「裁判官」になれるとはかぎらない。
人間の理解力はとぼしいものなので、この面からしても、私は自分の影響力を低くみつもらざるをえない。理解力に秀でた人だと思って、一生懸命説明して、そのときにはちゃんと理解してもらえたように思えても、あとになって誤解されていたことがわかってがっかりする。
ある人がおかしなことを言っていた。そういう場合は、その人がおかしかった可能性とともに、誤伝が伝わったのだという可能性もまた、心に留めておいてほしい。
学問においても不正直な人がのさばる可能性はおおいにある。しかし、インチキによっては、動機や情熱や切迫感をえることはできない! 真理の探究には、こちらのほうこそが重要なのだ。
小さなことからこつこつと学ぶことが重要なのだ。
それらを理由として、私は自分の知的活動を公表しないことにしようと考えたのだが、しかし私は全く無名の存在ではないし、他人の評判からまったく自由であることもかなわない身なので、いくつかをえらんで公表することにした。
原因のほうが結果によって証明される。これは逆ではないし、循環論法でもない。原因は結果を「説明する」のに役立っても「証明する」のには役立たない。
様式や形式によって内容を判断されてはたまらない。だから私は自分の慣れ親しんだフランス語によって文をつづり、先生たちのラテン語はつかわない。
これからは自然についてだけ学んでいきたい。そこから得た知識は医学に応用できるだろう。誰かの利益になると同時に別の誰かの不利益になることは、できればしたくない。そういう地位につきたくないことを公言するのは、かっこいいようでしかし自慢にならないことだが、それでも、誰かの利益になると同時に別の誰かの不利益になることは、できればしたくない。
なにも思い煩うことなく研究させてくれるパトロンがあらわれないかなあ。
権威者たちが、ある論文を否定した。私にはなぜその論文がいけないのかわからない、あるいはわからなかった。自分が勘違いしていないか。自分の論文をひっこめた。
方法から導かれる生き方を、つよく他人に主張しようとは思わなかった。生き方などというものは、人の数だけ違うものが主張されうるから。
自然学と人生論は違う。人生についての意見はあるいは秘匿しておくほうがいいこともあるかもしれないが、自然についての知識は公開されなければならない。
論理的な哲学にたいして、実践的な哲学がありうるだろう。
健康は最善のものである。他の良いものも健康から導かれる。
医学について研鑽をつめば、老衰すら克服できるかもしれない。
共同作業のすすめ。学問が進歩するほどにそれは必要となる。
実験の結果の意味についても論文に書いておこうと思っていたが、考えをかえて、試行錯誤の過程もすべて読者につたえるべきではないかと思うようになった。
生前に論文を発表することの是非を考えるようになった。論文の解説者としての仕事が、私に課せられてしまうのではないか? 時間が惜しい。
他人からの批判には誠実でありたいが、実のある批判を寄せてきた他人はいない!
討論という手続きで、あらたな事実が発見されることはない!
討論において、りっぱな「弁護士」がりっぱな「裁判官」になれるとはかぎらない。
人間の理解力はとぼしいものなので、この面からしても、私は自分の影響力を低くみつもらざるをえない。理解力に秀でた人だと思って、一生懸命説明して、そのときにはちゃんと理解してもらえたように思えても、あとになって誤解されていたことがわかってがっかりする。
ある人がおかしなことを言っていた。そういう場合は、その人がおかしかった可能性とともに、誤伝が伝わったのだという可能性もまた、心に留めておいてほしい。
学問においても不正直な人がのさばる可能性はおおいにある。しかし、インチキによっては、動機や情熱や切迫感をえることはできない! 真理の探究には、こちらのほうこそが重要なのだ。
小さなことからこつこつと学ぶことが重要なのだ。
それらを理由として、私は自分の知的活動を公表しないことにしようと考えたのだが、しかし私は全く無名の存在ではないし、他人の評判からまったく自由であることもかなわない身なので、いくつかをえらんで公表することにした。
原因のほうが結果によって証明される。これは逆ではないし、循環論法でもない。原因は結果を「説明する」のに役立っても「証明する」のには役立たない。
様式や形式によって内容を判断されてはたまらない。だから私は自分の慣れ親しんだフランス語によって文をつづり、先生たちのラテン語はつかわない。
これからは自然についてだけ学んでいきたい。そこから得た知識は医学に応用できるだろう。誰かの利益になると同時に別の誰かの不利益になることは、できればしたくない。そういう地位につきたくないことを公言するのは、かっこいいようでしかし自慢にならないことだが、それでも、誰かの利益になると同時に別の誰かの不利益になることは、できればしたくない。
なにも思い煩うことなく研究させてくれるパトロンがあらわれないかなあ。
近代の問題?
君主制(一対多)と、民主制(多即多)があって、しかし、そのどちらも実現したことはない。どちらも理念だった。君主が文字通りひとり立つこともなかったし、民主主義は代議制と不可分のものにとどまった。
少数が多数を支配する。多数が少数を規制するのは、支配というよりは差別と呼ぶ。
政治に関しては、じつは、近代も古代もないのではないか?
少数が多数を支配する。多数が少数を規制するのは、支配というよりは差別と呼ぶ。
政治に関しては、じつは、近代も古代もないのではないか?
魂のよりしろ
魂を、「実体がないのにこちらに迫ってくるもの」とでも仮に定義する。
この場合の「こちら」にも、実体はないわけだが。
そうすると、画像、映像、人形、文字はメディアであって、魂のよりしろであるわけだ。
偶像っていうのは、けっこう考えるに足る現象だ。
仕事、休息、そして偶像崇拝。人間の生活パターンなんてこんなもの?
偶像がいかがわしいのは、もしかしたら生身の人間も特殊な偶像にすぎないのかも、という「当然の」疑いがきざすから?
この場合の「こちら」にも、実体はないわけだが。
そうすると、画像、映像、人形、文字はメディアであって、魂のよりしろであるわけだ。
偶像っていうのは、けっこう考えるに足る現象だ。
仕事、休息、そして偶像崇拝。人間の生活パターンなんてこんなもの?
偶像がいかがわしいのは、もしかしたら生身の人間も特殊な偶像にすぎないのかも、という「当然の」疑いがきざすから?
デカルトはけっこう怪しい
怪しみながら『方法序説』を読むと、けっこう「読める」。
学識を積んだ後に、デカルトの心にきざした懐疑とは、いったい何だったのだろうか?
それを明かすことなく、デカルトは方法を語りだすのだが。
おい、あやしいぞ、デカルト。
学識を積んだ後に、デカルトの心にきざした懐疑とは、いったい何だったのだろうか?
それを明かすことなく、デカルトは方法を語りだすのだが。
おい、あやしいぞ、デカルト。
理性について
理性というのは疑うに足ると、最近思うようになった。
呉智英さんは、人権を疑えと言うけれど、権利というのは、他人には容易に疑えるので、人権を疑うことはたいして面白くない。
理性を信じるというのは、どういうことなのだろう。
結局は、理性を信じるというのは、自分を信じることと同じだろう。
理性を持ち上げることは、結局自己中心主義のどんづまりに自分を導くことでしかなかった。
理性は道具でしかない。
道具を道具以上のものとすることに、錯覚があった。
呉智英さんは、人権を疑えと言うけれど、権利というのは、他人には容易に疑えるので、人権を疑うことはたいして面白くない。
理性を信じるというのは、どういうことなのだろう。
結局は、理性を信じるというのは、自分を信じることと同じだろう。
理性を持ち上げることは、結局自己中心主義のどんづまりに自分を導くことでしかなかった。
理性は道具でしかない。
道具を道具以上のものとすることに、錯覚があった。