人として生きる上で大切なこと 「こころのものさし」






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堂々巡り

         御 教 歌

 

     足る事を しらぬ心を 車にて

 

    六(むつ)のちまたを めぐるなるらん

 

 

 足ることを知らぬ故、心は絶えず六道を堂々巡りしていることを仰せの御教歌です。

 

本日の御教歌で「六のちまた」とありますが、その六つを

 

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上

 
といいます。

 

どのような心かといいますと

 

「地獄」の心は、すぐカッとなったり感情的になる心のことです。

よく「短気は地獄の業火なり」という言葉を使ったりしますが、この心を指しています。

 

「餓鬼」の心は、物やお金などに執着する心で、「何が何でも欲しい」という心です。

 

「畜生」の心は、因循・頑固・我が強い心で、何時までも過去にこだわり続け割り切れない心。

心が頑(かたく)なで人の忠告にも耳を傾けない心。

「そうは言われるが」という我が強い心のことを指します。

 

「修羅」の心は、自分を良くみせたいという心が強く、人を蹴落としてまでも自分を高めようとする心で、時によっては手段を選ばない心のことです。

 

「人間」の心は、平らな心のことで平常心を保っていることを指します。

 

「天上」の心は、自分の願望を満たそうとする心のことで、地位・名誉・権力・色欲などが手に入ることを喜ぶ心です。

 

この六道の道から脱することを「出離」と云います。

 

私たちも真の「出離」を目指して、日々の生活を送っていきたいものです。

 

そのためにも「足るを知る」ことは、大事なことのように思います。

 

 

良い人生だったと言えますように!

                 御 教 歌

 

        やけば灰 埋(うづ)めば土と なりぬれど

 

            死なぬものとは  心なりけり

 

 

 誰でも死んでしまうと、焼けば灰となり、埋めれば土となるけれど、死なぬものがある。

それが「こころ」である。

 

このように仰せいただいた御教歌です。

 

私たちは、遅かれ早かれ何時かは死を迎えます。

 

そして荼毘(だび)に付され、灰となり舎利(しゃり・お骨)となります。

 

その時点で、生前の五体(ごたい)そのものは消滅するのですが、「こころ」だけは残るというのです。

 

今日は「こころ」だけは消滅することなく、残り続けることの例をお話していきたいと思います。

 

昔、平将門(たいらのまさかど)という武将がいましたが、天慶の乱(940年)に敗れた後、「朝廷に対する謀反(むほん)」と見なされ、謀反を起こすとこのようになるぞ・・という見せしめのため、京都七条にてその首がさらされました。

 

将門の家臣(かしん)が、ある晩に首を奪い返し、国元(くにもと)に向かう途中、病に伏し息を引き取った場所が、現在の首塚(東京・大手町)にあたるといわれてます。

 

古くから、首塚の場所では不吉なことが起こると言い伝えがあり、ずっと手付かずだったのです。

 

大正時代、関東大震災で大蔵省の庁舎(首塚のすぐそば)も、崩壊した後、整地され庁舎が建てられたのですが、その時の大蔵省役人・工事関係者が、2年間で14人亡くなり、怪我人は数え切れないぐらい出たというのです。

 

その時も、将門の祟(たた)りである・・という噂がまことしやかに流れたというのです。

 

やはり、五体は滅んでも「こころ」は生き続ける・・ということの例になると思います。

 

話は変わりますが、

 

幽霊(ゆうれい)の存在を認めるか否かは別として、幽霊(ゆうれい)は人の前に出てくる時には、「うらめしや~」であって「ありがたや~」という言葉は聞いたことないですよね・・

 

やはり、恨みや憎しみを持ち続けて亡くなってしまったため、この世に執着が残り、「恨めしい・・」という心が幽霊という姿・形として現れてくるのかもしれません。

 

このように考えていきますと、やはり生きている間の心の起こり・言動・行動が、死後にも大きく影響をしてくるのではないでしょうか?

 

もし生きてる間悪いことしても、死んだ後成仏出来るのであれば、生きている間好き勝手にしたらいいのでしょうけど、そういう訳にはいかないようです。

 

生前の全ての行いが「自業(じごう)の因果(いんが)」によって、死後の行き先が決まってくるというのです。

 

いざ死を迎えたとき、肝心要(かんじんかなめ)の「こころ」に恨(うら)み・つらみなどサラサラなく、あるのは功徳(人のことで難儀・苦労して積んだもの)だけにしたいものです。

 

そうしていけば、死を迎えた時

 

「本当に良い人生だった・・」

 

と、きっと言えるのではないか・・と思います。

 

そのためにも、「我がこころ」に苦労して功徳を積んでいきたいものです。

 

人の苦しみを我が苦しみと捉え、そこから共に這い上がろうとする苦労をです。

 

そのための苦労だったら、喜んでしていけるお互いになっていきたいものです。

 

 

       小牧清立住職のイラスト

           

 

学ぶ大切さ

           御 教 歌

 

      学問は せぬがよきかと 思ふかな

 

         十が八九は 慢心になる

 

 

 学問はしなくても特に困らないと思う多方の人は、自分考えに陥ってしまいやすいことをお諭しの御教歌です。

 

学問はそれぞれの道を究めていくために学ぶべき大切な道しるべでもあります。

 

医学には医学の道があり、法律には法律の道がありますように、どんな道でも学んでいかなければ分からない道があります。

 

また学問から偏った考えをなくし、両極端な物事の捉え方を超越した客観的な物の見方・捉え方を教わるものです。

 

ところが、「自惚(うぬぼ)れと瘡気(かさき)の強い」のが私たちの欠点で、少し物を知っただけで、全部分かったかのように思い違いをしていることがあります。

 

仏さまは、私たちに戒めとして「驕慢(きょうまん)」を指摘され

 

「ほしいままに心おごりし、しらざる事をしりたりげにたかぶるなり。」

 

「自惚(うぬぼ)れをもち、知らないことをも知ったふりをして道しるべをも無視する心。」

 
このように、自惚れが物事を正しく判断出来なくなることをお悟しです。

 

自分は知らないことが多すぎる・・・という自覚を持ち、謙虚な心で学んでいくことが大事なことだといえます。

 

自分考えに陥らないよう、絶えず自分自身を振り返っての生活を習慣づけていきたいものです。

 

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