月がとっても蒼いからGO TO HEAVEN(HELL)【仮】

公開チラ裏のようなもの。自分語り上等

はじめてMacを買ったころの、若気の至り

はじめてMaciBook G3)を買った当時の話。

まだiPodは持っていなかったけどiTunesを使ってみたくて手持ちのCDを取り込むも「わたしはデジタルに魂を売る気はない!アナログ感も大事にするんだ」と言いながら、本来なら自動で曲名を取得するのが普通なところ、わざわざ手打ちで全部入力してた時期があった。当然手作業でおっつくわけがなく、早々に心折れて自動取得に移行したけど。

あのころわたしは若かった。

他人の文章を書きながら読んでみたら、思いのほかメリットを感じた

先日Twitterかどっかで「文章力の向上には他人が書いた文章を自分で打ち直す(書き直す)のがよい」という話を見かけて、妙にピンと来たのでちょっと試してみることにしたのです。
結論から言うと、このトレーニングは非常に良いと思った。少なくともわたしには有意義であるように思われた。

文章を単に読むのと、読みながら書き写すことは一見同じように思えるけど、文章の「流れ」がカラダに入ってくる感じが全然違う。読むだけではスルーしていたことがどんどん引っかかる。「あ、ここに読点入れるのはリズム悪いな」とか「なんかこの言い回し繰り返しすぎだな」みたいなのがバシバシ出てくる。これだけでも十分なメリットなんだけど、もうひとつ嬉しい効果があった。

それは「集中して文章を読める」こと。

近年わたしの「読む」時の集中力がだだ下がりで、文章を読みきった後にその内容が頭に残る割合が極端に減ってきていた。特にWebの文章のようにディスプレイを通して読む文章に関しては、上辺だけで目を滑らせることが習慣化しているみたいで、気づけば文字を目で追っているだけになっていることが多くなっていた。これが大きな悩みの種になっていた。ところが、自分で文章を打ちながら読んでみると今までよりも内容が頭に残るではないですか!悩みを解消するキッカケを得た感じがしてわたしは期待に打ち震えたよ。

そういえば「記憶力を向上させるには、何か別のアクションとセットで覚えるのが効果的」ってお年寄りのボケ防止法の特集で見たわ。

文字を打ちながらなので、ただ読むだけの時より当然時間はかかるけど、慣れればスピードはどんどん上がるだろうし、そうすれば「打ち読み」できる量も増えるでしょう。

こういうトレーニングって子どもの頃とかもっと若い頃から鍛錬しておいたほうが良かったんだろうけど、そんなこと言ってもしょうがないので、今からでも前向きにやってみることにしよう。そうしよう。

「公共の交通機関で子連れ客はどう振舞うべきか」の件に首を突っ込んでみる

近ごろ珍しく新幹線に乗る機会が何度かあった。新幹線なんてめったに乗らないもんだから片道1時間ちょいの移動でもそこそこテンション上がっちゃってウキウキ気分で列車に乗り込んだ。が、そんな気分は早々にしぼんでしまう出来事に遭遇した。

その出来事を端的に言うと近くの席に座ってた家族のお子様が非常に騒がしかったのだ。

具体的にどう騒がしかったのかというと、音量出しながらのDSのプレイにはじまり兄妹げんかへと続いて挙句の果てには高めのトーンで歌を歌いだす始末。同乗していた母親はしばしば注意するものの基本的には放置。あまりのフリーダムっぷりに血管ぶち切れそうになるほど怒ゲージは振り切れた。これは文句のひとつでも言うべきか?と思うも、あまりにナチュラルに騒いでらっしゃるので「わたしが考える乗車マナーはおかしいのか?」と混乱するほどであった。

程度は違えど似たような事態に二度ほど遭遇し、「やはりわたしの感覚がおかしいのか?」と思ってた矢先にTwitterで乗車マナーに関してホリエモンが炎上しているのを目にした。

炎上内容に関してはおいといて、ここで冷静に子連れ客の乗車マナーについてちょっと考えた。そんで得た結論はひとつだった。

子連れ客もそうじゃない客もお互いにもうちょい寛容に、そして自分が思うより一段階か二段階上のレベルで相手(周り)を気遣おう。

ひねりも何もない結論でバカみたいだけど、結局のところこれくらいしかないよなぁ。

他人の行動を不快に思う尺度なんてなんて人それぞれだし、マナーの定義だってけっこう曖昧で「空気を読む」レベルの話になることも多い中で「公共の交通機関で子連れ客はどう振舞うべきか」なんて明確に定義できないって。そもそもマナーの範疇を逸脱する行動をするのは子連れ客だけではないしね。

そう考えると自分が思うよりもうちょい気を遣うくらいのレベル設定で判断するしかないかな、と。

もっと言うなら子連れじゃない側は三段階ほど上のレベルで寛容になっても良いかもしれない。どれだけ大人が注意したところで、物分りの良い子ども怪獣なんてそうそういるもんじゃないしね。ちょいちょい話題になるベビーカーの問題にしてもそうだけど、少子化が進んでいる折ですし、そういう部分での子持ちの方々の生きづらさ和らげるマインドを社会が持つのも有意義なんじゃないでしょうか。どうしても当事者になると沸点下がりがちなのはわかるけど、そこは耳栓するなりの工夫で回避で。

とはいえ「子ども連れてるんだから周りは気を遣いなさいよ」となってしまうといらぬ軋轢を生むのでその辺はやはり気遣いあいというか。

今回の「議論」で「子どもを黙らせられないなら列車に乗るな」的な極論はなんだかなぁって思った。白黒付けるデジタル的な対応って簡単だけど危うくて、そういう対応が常な社会が進んでくといつか自分もそういう振り分けされそうだし、より生きづらさが加速する気がするんだよなぁ。

子どもをコントロールしきれない親も、それを非難する人もどちらかが善いか悪いかって判断しないほうが良いって。

なんだか日和見で優等生ヅラした回答だけど、わたしはそんな風に考えた。

今あえて「アルバム」で聴く

分厚いHDDのiPodを手に入れてから長らく「シャッフル再生」というものをわたしは愛してきた。

カセットテープやMDでは実現不可能であった、数多の曲の中からの“偶然”の出会いは時に「今のわたしの気持ち読んでんの?」と錯覚するような選曲の妙を起こしてくれたりもして、音楽とわたしの関係をより深めるのに一役買ってくれた。

そんなわたしとシャッフル再生とのおつきあいにも曲がり角が来たかもしれないと思う今日この頃。

というのも、シャッフル再生というものに飽きてきた。

ランダムな曲の並びは先が読めない楽しさがあるけど、1曲1曲で完結してしまって曲に対する気持ちが細切れになってしまうマイナスもある。そのせいか、ある程度長い時間聴いてると気持ちの上がり幅がどんどん小さくなってって平坦になっていく。シャッフル再生が物珍しかったころはそんなことなかったけど、それに慣れて当たり前になるにつれてこの現象は顕著になった。

そんなわけで久しぶりにアルバム単位で音楽を聴くという原点回帰を試みた。そうすると意外と良かった。

やっぱ曲順って大事だねー。個別で曲を聴いた場合とアルバムという流れの中で曲を聴いた場合では聴こえ方が違う、というのは良く聞く話だけど、ほんとそう。聴いてる側の気持ちの流れを作ってくれる曲順ってすごいなぁと、そう思います。

「今どきそんなに集中して音楽聴く時間ないんだよ!」「アルバム高いんだよ!」など意見はいろいろとあると思うけど、そんな中で「シャッフルで聴く/アルバム単位で聴く」という選択肢が存在することはリスナーとしては嬉しいことじゃないかなぁ。

というわけで今改めて「アルバム」というフォーマットを見直してみるのもオツですよ、というお話でした。

【ネタバレ注意】ってついてるエントリってさぁ

【ネタバレ注意】ってついてる「これだけは観ておけっていう映画」とか「伏線回収がスゴいマンガ」って類のエントリをどのタイミングで読めば良いのかわかんない。

面白い映画やマンガを発掘したいが、ネタバレは踏みたくないというジレンマ。

サヨナラ、セカイカメラ

セカイカメラは2014年1月22日に全てのサービスを終了します

http://sekaicamera.com/the_end_of_sekai

セカイカメラ終わってしまうん...。と言っても、ほとんど使ったことなかったけど。

セカイカメラの存在って発表当時かなり象徴的だったイメージがある。スマートフォンが普及し始めた頃だったこともあって「いよいよ未来が手の届くところまで来た!」ってわたしは相当ワクワクしてた記憶がある。

ほどなくしてわたしもiPhone 3GSにてスマートフォンデビューを果たし、意気揚々とセカイカメラをインストール!さあこの手に未来を!!と思ってしばらく...あぁ、そっか...。

散々言われてるけど、やっぱり街中でスマートフォン振り回すのはハードル高かったし、思ったほど「セカイカメラで情報を探すぜ!」って思う瞬間は訪れなかった。なんだかんだ地図見るのは普通にマップアプリを使うのがラクだし便利だった。

今振り返ってみるとARってものに対するハードルを、それを使うわたしが上げまくってた気がする。アニメや映画なんかで観てたような超実用的な情報アプリってイメージが強すぎたんだよね。

セカイカメラって遊び心を持って触ればもっと楽しめるものだったのかもしれないけど、なまじ先入観が強かった上に実用性を求めすぎた。わたしと同じように思った人は少なくないんじゃなかろか。

いろいろともったいないことはあるけど、そのチャレンジは非常に有意義だったと思うし、いつか時代が追いつき第2、第3のセカイカメラで花開く日がくるかもしれない。そんな日がくるのをちょっと楽しみに思う。