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・sedとbisonが必須。
GnuWin32だとインストーラ付きだとbisonのバージョンが古い(新しいのも探せばある)ので、Chocolateyを使う。
choco install sed
choco install winflexbison3
それぞれ妙なところにインストールされるのでPATHを通す。
set PATH=c:\programdata\chocolatey\lib\sed\tools;c:\programdata\chocolatey\lib\sed\tools\winflexbison3\tools;%PATH%
bison.exeはwin_bison.exeという名前になっているので、リネームしておく。(おれはcopyで元のexeはそのままにした)
・必須ライブラリ
GitHubのmasterブランチから(まだタールボールに入っていないので)vcpkg.jsonをタールボール展開ディレクトリにコピーする。vcpkgは事前にインストールしておく。(@hsbt GJ!)
vcpkg --triplet x64-windows install
DLLをロード可能にしたりする。
set PATH=(rubyのルート)\vcpkg_installed\x64-windows\bin;%PATH%
set INCLUDE=(rubyのルート)\vcpkg_installed\x64-windows\include;%INCLUDE%
set LIB=(rubyのルート)\vcpkg_installed\x64-windows\include;%LIB%
cl.exeなどはVisual Studio 2022 Communityをインストールして、x64 Native Tools Command Prompt for VS 2022などを開けばOK。
3.2.3は上述の方法でnmakeできたが、3.3.0は失敗する(どうもRubyのライブラリの読み込みに失敗するみたい(c:/Users/〜/ruby-3.3.0/tool/lrama/lib/lrama/counterexamples.rb:1:in `require': cannot load such file -- set (LoadError))だがとりあえず放置中。RUBYLIBとかセットしてもだめなので良くわからん)
もっとも3.2.3もnmake installでcannot load such file -- fileutilsとなるから結局は同じことになる。クリーンインストールはできないのかな。
追記)しょうがないので、binとlib\ruby\3.2.0を作って、.ext\commonやら.libやらをツリーを維持してコピー。rbconfig.rbはタールボール展開ルートにあるのでそれをコピーしてフェイクなインストール済みRubyを作ってnmake installして完了。(以前は、Rubyが存在しない環境でもbisonかbyaccあたりがあればインストールまでできたと思うのだが、gemに委譲した関係かな?
3.3.0になってさらに何か変わったらしく、3.2.0のときの.irbrc
IRB.conf[:USE_SINGLELINE] = true
としてもプロンプトが1文字エコーバックする都度だらだら出て来るので全然使い物にならなくて、しょうがないから3.2.xで過ごすしか、となっていたのだが、そうは言ってもやはり3.3.0にアップデートしたい。
しょうがないので、irbのソースを眺めて、エコーバックを行うのは、InputMethodというクラス群で、StdioInputMethodなら余分なことはしないということがわかった。
で、trueに設定するとReadlineInputMethodをrequire 'readline'してロードできなければRelineを使うというところまでわかった。
だったら、true以外の真に設定すれば良い。
というわけで、
IRB.conf[:USE_SINGLELINE] = 0
で解決。
しかし、なぜ3.2.xでは問題ないのだろうか? と不思議になって調べると、3.2.xはreadline.soがあって、これを利用するReadlineInputMethodはEmacsフレンドリーなのだが、3.3.0はreadline.soを作らないのでReadlineInputMethodがRelineを使うのだが、これがアンチEmacsフレンドリーなのだった。GNU Emacsのshellモード内ではGNU Readline互換ではないということか。(が、Gemでインストールする気にはならないのでStdioInputMethodで問題なし)
基本、Emacsの中でしか入力はしないからReadlineが無くてもまったく問題ないのだが、たまにシェルの中で使うときはirb -fで.irbrcの読み込みをスキップさせてRelineを使う。
シアターオーブでマシュー・ボーンのロミオとジュリエット。
途中、エスカレータから下を眺めたらボウリングのピンが見えて、まだ残っているのかとちょっと驚いた。
プログラムを買って、冒頭のインタビューを読み始めたら、パリスはジュリエットの友人のフレンチーに変えたとか言っていて、完全な読み替え版なのかと知って、そこまでで読むのをやめた。読み替えは読み解いてこその読み替えだ。
子供とわずか正味1時間30分にまとめるのだから、もしかしてロミオが旅立つところで終わるんじゃないか? とか話す。が、実際に観たら時間軸では中らずと雖も遠からずだったが、そんなことはどうでも良いほど異なる物語となっていた。
とにかくモダンバレエを観ると言うのは筋肉と人体の美を観ることだなぁと痛感。素晴らしく美しいのだ。おまけに短く、かつ小編成用にまとめたプロコフィエフの音楽も美しい。
舞台はベローナ大学(instituteなのでMIT的には大学だが高校くらいかな)寄宿舎。
・白い服や従順に踊り続ける学生たちの姿から、どうにも私を離さないでが思い浮かぶ。
わたしを離さないで (字幕版)(Andrew Garfield)
(というか、英国の若者を描く作品ってやたらと寄宿舎が出て来る印象がある。そのくらい背景としてコンテキストが共有されているのだろうか。ハリーポッターですら寄宿舎が舞台と言えなくもない。長距離走者の孤独は似たような収容施設だが寄宿舎ではないか)
ティボルトは強圧的な寮監でジュリエットを犯している。止めようと足掻くのがフレンチーだな(というか、パリがフレンチというスライドはおもしろいような単に安直なような)。
両親の邪魔になったロミオが入寮してくる。神父と乳母の合せ技のような先生がダンスの時間にロミオとジュリエットをくっつける。
二人は惹かれ合う。
そこにティボルトが乱入、ジュリエットに手ひどく振られて泣きだしたところを学生たちにバカにされて激怒して銃を取り出して暴れ始める。逃げ惑う学生。当然のようにマーキューシオはころされる。
激昂してティボルドに迫る学生たち、拳銃を取り上げる。拳銃を撃とうとするベンボーリオかロミオ(はっきりいってこのあたりで誰が誰か黒いティボルト以外は良くわからなくなってしまった)だが、撃てない。代わりにジュリエットと一緒にベルトでティボルトを絞め殺す。綱引きのように絞め殺すのを手伝う学生たち。
逃げ遅れたロミオが捕まる。拘束着で連れ去られる。放校処分かなぁよくわからんけど警察は出てこない。両親の元に送り返されるが暴れて学校へ戻るのか、そのあたりも夢なのかよくわからん。
神父+乳母=先生の計らいでジュリエットはロミオが監禁されている部屋に入り一夜を過ごす。
しかしその一夜がジュリエットにティボルトの恐怖を蘇らせる。
執拗に追ってくるティボルトをジュリットはナイフで刺す。刺されて倒れるのはロミオだ。二人は最後のパ・ドゥ・ドゥを踊る。ジュリエットは自分の腹を刺す。
寝台の上で複雑に絡み合う二人。冒頭の不可思議なオブジェは二人の亡骸だったのか。学生たちが連れ出す。
幕。(結局まだプログラム冒頭のインタビューは読んでいないから誤読している可能性はある)
・最後のジュリエットの悲劇は化物語(原作は読んでいないから知らんが、マンガ版)の星空の下でひたぎが暦に話す内容の実現だ。
ベルトルッチの孤独な天使たちがあまりにも素晴らしかった(一方、観ていて胸が痛くなるほど、イタい青春映画なのだが)ので、イタリアの青春文学も悪くないなと思っていた。
で、その記憶も生々しいうちに青山ブックセンターをうろうろしていたら、素数たちの孤独というハヤカワepi文庫が平積みされている(と記憶している)のに気付いた。
数学書? いや違うだろうと手に取ると、イタリアで200万部のベストセラー(人口から考えると凄い売り上げだ)の恋愛小説っぽい。
それで孤独な天使たちの記憶と相まってすぐさま購入した。
孤独な天使たち スペシャル・プライス [Blu-ray](ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)
まま、放置していた。平積みされていたというのは出版直後だろうから10年放置の刑だったようだ。
で、連休を取ったのでつい手に取って読み始めたのであった。
これは痛い。あまりに痛い。
最初、9歳の女の子の話が導入として書かれる。
強権的な父親によって無理矢理スキー教室に通わされている。オリンピック選手を目指させたいらしいが、本人は嫌で嫌でたまらない。
ついに、猛吹雪の中でうんこを漏らして一人逃げ出す途中で崖から落ちて左足をぐちゃぐちゃに壊してしまう。
次に男の子が出て来る。一卵性双生児の妹は白痴らしい。面倒は一生懸命みているのだが、いっぽういやでいやでたまらない自分も自覚している。妹をいつも世話しているので学校では孤立している(イタリアの公立小学校には特殊学級みたいなものはないのかな?)。
唐突にクラスメートが誕生会に招待してくる(本人全然乗り気ではなく、どうも母親が無視はいけないとポライトネスっぷりを発揮したらしい。当然妹も一緒に招待されるが、妹は何も理解していない)。男の子の母親は大張り切りになって(それまで子供たちが誰かに招待されたことなどないからだ)豪華なプレゼントを用意したりする。それも男の子にとってはいやでしょうがない。
男の子は途中でやはり妹を連れて行くことはできないと考えて、公園に残して一人で誕生会へ行く。楽しい時間(何しろ妹から解放されている人生最初の時なのだ)を過ごしているうちにあたりが暗くなっていることに気付き、あわてて妹を迎えに行く。公園の川は流れる。
そこまでが導入編らしい。
二人とも高校生になっている。少女(女の子というわけでもない)は拒食症の跛としてクラスの中で孤立している。クラスには誰もがうらやむ美少女がいて(姉から聞いた話を脚色した)大人の世界を巡る冒険している自分という作り話をしまくっている。
少年は、両親をはるかに超えた知性を持ち(両親は息子の考えや言葉をほとんど理解できない。描写がおもしろい)、その知性故に教師から疎まれ、他の生徒からは距離を置かれている。何度も自殺を図っているらしきことがうかがわれる。そのためそのタイプの生徒を集めている学校へ転校せざるを得なくなる。
というところで全体の1/5。当然ボーイミーツガールになるのだろうが、読み進めるかどうか相当悩む(つまらなくはなく、むしろおもしろいのだが、あまりにイタタタタな設定の小説なんだよなぁ)
1と自分自身でしか割り切れない数が2つ、という題からして(と読み始めて理解した)痛い。
いろいろと信じ難い名演だった。
そもそも主役二人が次々と交代(理由は知らん)なんだが、よく探してきたもんだとトリスタンのゾルターン・ニャリは見事なヘルデンテノール(但しイゾルデより声量がなくて負けるのは惜しい)で演技も堂々たるもの(2幕最後の決闘の終わらせ方の上手さにはびっくり)、イゾルデのリエネ・
キンチャも最初のうちは張り上げて愛の死では微妙にオーケストラに負けるとはいえ実に立派、大野は前回と違って陶酔しまくりの大遅延とかなくキビキビすべきはキビキビ、陶酔的なところは元から抜群な指揮者だけに抜群、むしろ作曲家の粗(3幕最初の牧童のソロが長過ぎるとか、2幕のマルケの能書きが長過ぎるとか、3幕のトリスタンの台詞が何が何でも錯乱し過ぎ(友よと褒め称えてすぐに愚か者見張りに行けと喚きだすとかクルヴェナールに対する態度の一貫性の無さはもしかしてワグナーはげらげら笑いながらこの部分の脚本を書いていたのではないか?)のほうが目立つくらいだ。
幕切れ、赤い太陽が沈み闇の世界へイゾルデが去る演出も素晴らしい。赤い太陽と白い太陽が交代する舞台設計は実におもしろい。マクヴィカーはただものではないなぁ。
歌手は全体にとても良かった。クルヴェナールのシリンスもそうだし、長過ぎる歌はともかくマルケ王のシュヴィングハマーの朗々たる歌いっぷりも実に見事だった。誰よりも拍手を受けていたのは藤村実穂子だが、他の演者と並ぶと実に小柄で華奢なのに(しかも相当年期も入っているだろうに)どこからあの声が出て来るのか不可思議だ。それにしても凄い歌手だ。
と、実に良いものを観た。
ピッコマで無料だったので読み始めたわけだがおもしろい!
とはいえおもしろいと思えるまでは紆余曲折がある。
最初は薔薇の葬列=ピーターと松本俊夫の超カルト映画の連想があって読み始めたわけだが、なんか絵柄が気持ち悪い。気持ち悪いが嫌ではない(微妙な不快感は伴う)。が、全然薔薇の葬列ではなく、薔薇は薔薇でも薔薇戦争だなとわかったわけだが、いろいろ勝手が違う。
普通に考える通りにリチャード三世(即位前なので単なるリチャードだが)が主人公なのだが、セムシ(何故か変換できない)ではなく、どうもリボンの騎士というか男として育てられている女性に見える。が、王妃から悪魔扱いされて虐待されている。わけわからんと読んでいると、下賤のものにレイプされそうになったところで実は男だということがわかる(おそらく極度の分泌異常で、女性ホルモンに極端に偏った分泌がされている男性なので、胸は膨らんでいるし皮膚や体つきが華奢とはいえ、鍛えまくっているので筋肉はついている。かっこいいなぁ)。
待て、であれば悪魔ではなく天使ではないか。と考えたが、天使が地上に落ちているのだから、なるほど確かに悪魔と言えなくはない(サタンは元は天使のはず)。
ウォリックが中年の勇者のはずなのにインテリ青年(絵の書き分けが下手なのだな)っぽかったり、バッキンガムにいたってはどこからどう見ても超秀才の眼鏡男子だったり、漫画家の趣味が出まくっているのだろうが、さすがに5巻まで読んでいると、そういう趣向でそういう絵柄であるなと納得も出てきて、純粋に薔薇戦争の再解釈ものとして楽しめる。というか、無茶苦茶おもしろい(シェークスピアのヘンリー4世からリチャード3世までは、超愛読書なので、薔薇戦争時代はちょっとわかる)。
リチャード三世といえば猪なわけだが、唐突にそこだけはマンガっぽいとんでもなくかわいい白い猪がここぞというときに登場してくるのがご愛敬だったりする。ここぞというときに登場するといえば、火あぶりにされたジャンヌダルクの亡霊をここぞというというときに登場させるのもおもしろい(設定上と歴史上の微妙な共通点があるからだろうし、薔薇戦争をジャンヌダルクの呪いとして考えることは確かに無茶ではない)。
というわけで、これまでまったく知らない名前だった「菅野文」という端倪すべからざる作家を知ったのであった。
というか、無料期間は明日までなのに、まだ5巻だから買うしかないのだろうか?(買うんだろうなぁ)
薔薇王の葬列 王妃と薔薇の騎士 1 (プリンセス・コミックス)(菅野文)
それはそれとしてATGの作品群はだいたい観ているのだが薔薇の葬列は未見なのだよな。
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