2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。









 




 




















2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。 























  

2024年4月22日月曜日

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 1981年東京都出身。(42歳)  三味線奏者の尾上秀樹さんとの音楽ユニット「HIDE✕HIDE」の活動は15年以上にわたる。 ゲーム音楽の作曲、演奏も手掛けるなど幅広く活躍しています。 

元々ゲームが大好きです。 2009年ぐらいからゲーム音楽のコンサートにゲストとして呼んでいただいて、それがどんどん進んで、今はゲームの中の音楽の収録をさせていただいたりアレンジしたりしています。 有名なのが「モンスターハンター」とか「スーパーマリオン」とかあります。 父親が尺八奏者初代石垣征山、母親は琴の演奏家洗足学院音楽大学名誉教授の石垣清美です。 子供用の尺八はないので、指が大きくならないと穴がふせげないので、やらなかったです。  家では尺八、琴の音が鳴って聞いていました。  中学2年ぐらいまではお琴を年に1回やるぐらいでした。

中学2年でオーストラリアへの海外派遣の話があり、どうしても行きたくて尺八での文化交流という事を訴えて、面接を通ることが出来ました。  その後父に尺八を教えてもらいました。 「さくらさくら」を覚えていきました。 オーストラリアにも有名な曲があるのでそれも覚えて行きました。(「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda))

「ワルチング・マチルダ」 

帰国後も3年間は尺八は全く触りませんでした。 高校2年で進路の問題があり、尺八で芸大を受けたらどうかと母親に言われました。 芸大に入ることが出来ました。 大学2年の時に父が癌で亡くなってしまって(51歳)、父親の関係の周りの人から母親と一緒に演奏をするという話を頂き、いろいろなところに呼んでいただきました。 父親への恩返しは尺八を吹いて演奏したり、尺八を世に広げてゆくことと思いました。 もともとはお坊さんがお経に代わりに尺八を吹いていたと言われます。 27歳ぐらいで父親の名前を襲名しました。 

*「サウザンド・ナイブス」 演奏:HIDE×HIDE

どの音色を選択するか、どの音色を出すかという感覚が歌に限りなく近いという、自分のやりたいものが表現しやすい楽器だと思います。 骨格によっても音色は違う、同じ楽器を使っても音色は違ってきます。 オリジナルをやりますが、尺八らしさは生かしたい。   古典も大事にしたいと思います。  古典も勉強しないと説得力がなくなってしまうだろうなあと思います。 

尺八は見た目にはめちゃくちゃシンプルな楽器です。 ここの3本の尺八がありますが、一つは古典の真竹、もう一つはプラスチック製、もう一つがメタルで出来たもの。 竹は割れたりするが、プラスチック製、メタル製は周りにメンテナンスする人が居なくても、海外の方が安心して持てると思います。

*3本を吹いてみる。(判別が難しい) 

プラスチック製は軽い感じ。 メタル製は広がりが少ない。 竹製は広がりふくよかさがある。(石垣征山、談) 

*タイトル「音の簾がかかる社」  琴と尺八の二重奏曲 作曲:石垣征山 尺八:石垣征山 琴:石垣清美

〔にっぽんの音〕とは「間」、だと思います。 向こうの人が一番驚きをもって喜んでくれるのは「間」の感覚だと思います。 「間」の空気感が日本らしいなと思います。    自分が面白いと思う事をやってゆきたい。  ライブを月に一回やってきて10年になります。












2024年4月21日日曜日

加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

 加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

仲間と一緒に全国を訪ねて、その場でカレーを作り集まってきた土地の人たちに食べてもらうと言うカレーキャラバンに取り組んできました。 2021年からはじまったキャラバンは80回に及びます。 カレーの香りに誘われてやって来る人、食材を無料で提供してくれる人、美味しいカレーを作る為のアドバイスをしてくれる人など見ず知らずの人たちが、カレーの鍋を囲んで会話が始まります。 カレーを味わう、そしてコミュニケーションを味わう場所が出現するというこの取り組みはコミュニケーションの場を生み出す活動として2015年度グッドデザイン賞を受賞しました。 コロナ感染予防のためしばらく活動を自粛していましたが、今年 はカレーキャラバンの活動を再開したいと語る加藤さんにお話を伺いました。

カレーを作っていると皆さんが寄っていらっしゃるので、カレーがあるという事で皆さんリラックスしていただいて、町のこととか将来の事を話していただけるので、結果として行く先々のことを勉強させていただくような、そういった活動にはなっています。 最初は内輪でカレーの会をするという事でした。 香りに誘われてお話をする場面が出来て、カレーの力を実感したんじゃないかと思います。  町とか暮らしに興味を持っていました。  場の力の流れからカレーキャラバンが始まりました。  墨田区の曳舟、スカイツリーのふもとあたりの古いけど活気のあるキラキラ橘商店街があって、地元の方と街歩きをしたり、巻き込みながら活動するという事をやっていまして、ご当地B級グルメを作ろうかと言う話から始まって、墨東カレーを作ろうという事になりました。(商店街の中) 

アドバイスを頂いたり掛かわって来ていただいて、面白さを感じました。 2年半ぐらいは足を運びました。  初対面の人ともコミュニケーションもカレーがあると違います。   無料でキャラバンをやっています。 当時はメンバー3人で5000円ずつ出し合って、材料を買って、「赤字モデル」と言って作っていました。  或る人が「一回のみに行けば5000円ぐらい払うでしょう。」と言ったんです。 「趣味にはもっとお金をつぎ込んでいるでしょう。」と言われました。  「楽しくカレーを作って人との出会いがあるのだから、飲みに行くのと同じではないか。」とさらっとと言ってくれて、浄化された様な気持ちになりました。 ボランティアとも違います。 

市販のルーは使わないという事を決めました。(スパイスカレー) タンドリーチキンも作りました。 道具立ても行いました。  朝から始めますが、夕方になるころに完成します。  居心地のいい時間と場所が出来上がります。 大田区鵜木と言うところでカレーを作った時に、そこでは知人がギャラリーを開いていて、近くには多摩川があり食べられる植物が一杯あり、それを摘んでそれも加えて作ったのが印象的でした。  身の回りにある食べられる植物を発見できた面白かったです。  初めての人とも共通体験が出来ました。 

杉並区で作った時に、出来あがるころにたくさんの人が集まって来ました。 作っているところは私有地でいいのですが、道(公道)に行列が出来て、そこの際を盛り上げたという事があります。(食べたところがプライベートとパブリックの際の場所) 昔はあいまいな場よ、空き地が界隈にありました。 今は空き地があっても囲われていて入れない。(個人の空き地、工事用地など)   今回のところは空き地のイメージがしました。(一時的、精神的な「共」の時間と空間)  コロナ禍は空き地と言う発想は許されなかった。   「共食」は明るい方向に向かわせてくれるのかなあと思います。 





















2024年4月20日土曜日

篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

 篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

篠田さんは災害時に怪我をした人を救助したり、障害物を避けながら物資を運ぶなど、被災した時や避難生活に入って時に必要な動きをスポーツ化した防災スポーツを各地で実施しています。 その原点は兵庫県西宮に住んでいた中学生の時に経験した阪神淡路大震災です。 避難所生活の中で不慣れな作業を数多く経験し、日常的にこうした動きを身に付けておくことが大切と痛感したことが現在の活動に繋がっています。 自らの被災体験から生まれた防災スポーツの取り組みについてお話を伺いました。

小学校から高校まで西宮で過ごしました。 中学校1年生の時に阪神淡路大震災に遭いました。地響きの音に目が覚めて 、地震が来て大きな揺れを感じ、布団をかぶって揺れのおさまるのを待っていました。  家具などが倒れていて大惨事だと気付きました。 両親と3人兄弟でしたが、皆怪我はありませんでした。 夜が明けて倒壊している家屋もありました。 幸い火災はありませんでした。  コンビニへ行って買い物をして小学校の避難所に行きました。 体育館だけでは入りきれなくて、交渉をして教室も解放してもらいました。夜になって電気通じてテレビを見ることができました。  火事の様子とか広い範囲での被害状況を目の当たりにしました。 プールの水をトイレに運びました。 当日午後には自衛隊の給水車が来ました。 当日はおにぎり二つが支給されました。 

その後スポーツで生かせるものはないかと考えた時に、災害防災にスポーツを組み合わせると何か提供できるのではないかと考えました。 大学を卒業してスポーツビジネスの世界に入りました。 ラグビー関係のチームのサポート、選手のマネージメントとかなどに携わっていました。 2013年に東京オリンピックパラリンピックが決まって、2014年に独立して会社を作りました。 スポーツイベントのプロデュースなどをしていました。    

防災対策にもスポーツの力を取り入れることによって、広げることが出来るのではないかと考えました。 スポーツは本来楽しむ要素もあるので、防災対策の入口にと言う思いもありました。 被災者の声を聴いてそれをスポーツ競技化できる要素は何か、と言うところから考え始めました。 ①一輪車で物を運ぶ、②低い態勢で移動できるか、③水難時の救助のための物を投げて的当てして引っ張るという事、④物資の搬送リレーのようなもの、⑤負傷者を搬送することを想定した毛布を使ってぬいぐるみの搬送、などいろいろ種目があります。 タイム競技として身体で覚えるという事で展開しています。 

スポーツの試合会場で一つのイベントとして、体験の場を設けてファンと選手が一緒になって行って、防災意識を高めて貰えればと思います。 防災のことを学ぶこともセットして、学校でやることもあります。  防災対策にもスポーツの力を取り入れることはまだまだ入り口だと思っています。 今後さらにそういった場を広げていきたいと思っています。










 

2024年4月19日金曜日

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい      山崎隆(四代目織元)

創業130年余り、能登上布四代目織元山崎豊さん(64歳)と母親で三代目織元女将山崎幸子さん(88歳)です。 能登上布の特徴は軽くて薄くて細かいかすり模様。 昭和初期には石川県の麻織物が日本一になって120軒以上の織元がありました。 着物の需要の変化によって減少して、現在は羽咋市の山崎さんの工房だけが唯一の織元として能登上布を作っています。 1月の能登半島地震によって、工房の機械が壊れ断水するなど生産が一時ストップしました。 不安な気持ちで過ごしていた山崎さんですが、全国各地から励ましの声などが届いて大きな力を得たと言います。

幸子:今着ているものは40年ほど前にかすりもんでは初めて作りました。 着心地は涼しくて爽やかです。 

隆:私が着ているのは父用に作られたもので、私は15年ほど前から着ています。             上布と言うのは上等な麻織物という事です。 苧麻(ちょも)を原料にしたラミー(苧麻)と呼ばれる上質な機械紡績糸を使っています。 機械紡績糸は機械で糸がつぐまれていると言いう事です。 蝉の羽のように例えられていて、透け感、ひんやりと涼しく軽くてシャリ感のあるというのが能登上布の特徴で、夏を代表する着物の生地となります。 観劇とか食事会とか少し上品で特別なお出かけなどに最適です。 能登上布の特徴は手織りで織られた張りのある風合いと、能登独自の緻密なかすり模様、能登の風土に合った落ち着いた色合いです。

十字の細かい模様が布全体に織られています。(縦横2~3mmぐらい) 糸の段階で縦糸、横糸を先染めしています。 織ながらかすりの模様を作っています。 落ち着いた色合いになっています。 表面はコンニャク糊でコーティングされてるのでなめらかで艶があります。 簡単な縞とか無地で1か月ぐらいです。 難しいものだと半年以上かかるものがあります。  工程としてはおおざっぱに20工程以上あります。  細かく分解すると100工程ぐらいになります。 どの工程も手を抜くことはできません。

今年1月1日の能登半島地震で被害を受けました。 

幸子:外に出ようと思ったが歩けないんです。 やっと外に出て銀杏の木につかまりました。 窓ガラスが割れたり外壁が落ちたりしました。 

隆:私は当時は工房には居なかったんですが、夜3時間かかって工房に戻りました。 1階の織機は大丈夫でしたが、2階の作業場は糸の収納棚が倒れて、縦糸を巻き取る機械が壊れていました。  皆が無事だったという事が幸いしています。

織子の人たちも全壊、半壊などして、今でも不自由な生活をしている人が居て心を痛めています。  2週間断水したことは非常に困りました。

2月の頭から作業が出来るようになりました。 

能登上布の起源はおよそ2000年前に第十代崇神天皇の皇女が能登の地を訪れた際に、地元の女性に機織りを教えたという事から始まっています。 平安時代から麻を生産していたという記録が残っています。 江戸時代後期には滋賀県から職人さんを招いて染色技術を学んだと言われています。  昭和初期には石川県の麻織物が日本一になりました。 昭和30年ごろからレーヨンなどを織る自動織機が普及して、洋装化に伴い着物を着る人が減少して、織元が段々減って行きました。 昭和57年ごろにうち一軒だけになってしまいました。

幸子:昭和30年に嫁いできました。 日常に能登上布は着ていました。 この辺りはお嫁に行く時には必ず能登上布を一反持ってゆくと言う風習がありました。 お寺まいり、夏のお盆の時の盆踊りの時には能登上布を着ていきました。 祭事には10月でも着ていきました。 主人は横かすりばっかり作っていましたが、問屋から言われたりして、縦横かすりの技術を学んで、作り始めました。  私は上布を織るまでの準備の工程をしていました。 手形で来たので手元に現金が無くて困って、他の仕事として撚糸業を始めました。(横糸作り)  主人の父親が何としても続けるように言っていたので、一軒になっても能登上布を守って行こうという事は思っていました。 

隆:当時織子は70,80代のおばあちゃんしかいなくて、家業を継がなくてもいいと言われていました。 工学系の大学に進み就職は機械メーカーの電気設計の仕事を20年ほどしました。 父の片腕の職人さんが亡くなったのと、仕事上の関係もあり、家業を継ごうと思いました。  図案を描いたりという事ついては前の仕事が役立ちました。  現在16名の織子さんがいます。 半分は県外から来ています。  以前は自宅で機織りをしていましが、 今は工房に織機を設置しています。  

7年前の会社を興した際に、営業と広報を担当として姪を会社にひきいれました。 能登上布の技術の継承もしています。  能登自身の後、全国各地のいろいろな方から励ましのメッセージを頂きました。  

幸子:一軒だけ続けてこられたのは誇りに思っています。 皆さんの支えがあったからこそです。 若い方が伝統産業に関わりたいと言って来てもらえたのは嬉しかったです。

隆:この仕事を始めて20年になりました。  44歳で転職してよかったなと思います。  若い人のお陰で世代交代、技術の継承が出来てきたことが有難いと思っています。

幸子:何とかこの工房を続けて行って欲しいと思っています。 能登上布は素敵な織物だと思っています。

隆:能登の美しい自然とか、能登固有のものをかすりで表現したいなあと思っています。  能登半島には伝統産業が沢山有ります。  能登全体が元気になって欲しいと思います。















2024年4月18日木曜日

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)       ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)  ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること 

今年76歳になった毛利さんの歩みは挑戦の連続です。 大学の教員から宇宙を目指し1992年スペースシャトルエンデバー号に日本人科学者として初めて搭乗、宇宙実験を行いまいた。 2000年にはエンジニアーとして再びエンデバー号に搭乗、地球観測を目的としたミッションを成功させます。 同じ年の秋には日本科学未来館の初代館長に就任、20年に渡って科学技術の未来や可能性を開く取り組みを続けました。 2度の宇宙飛行が毛利さんの人生観、死生観にどう影響したのでしょうか、又次なる挑戦はどんなことでしょうか。 

日本科学未来館の館長をしりぞいて、3年あまりです。 水にまつわる活動をしている方々を見つけ出して、表彰するという「日本水大賞委員会」の委員長をしています。 宇宙記念館の名誉館長もしています。 後輩の宇宙飛行士の助言とかお手伝いもしています。 一昨年小澤征爾さんと「ワンアースミッション」という宇宙と音楽という事で行いました。 オーケストラの音は楽器が様々あって、様々な音を宇宙飛行士の元に届けるという事は難しい技術が必要です。 それが小澤征爾さんにとって最後の指揮になりました。 

何のために私は今宇宙にいるのかという事を考えました。 人間の様々な活動は、ひょっとして人類、地球生命全体を集団として生かそう、未来へつなげようとする力があるのではないかという事で、それを考えた時に科学技術で何でもコントロールできるというような風潮があるが、科学技術、音楽、スポーツ、政治、宗教などが全て未来へ集団として人類が生き延びるための一つの知恵というか、そういう風に捉えた時に、「総合智」私たち人間社会がが未来へ向かって生き延びるための知恵、すべての文化が大切なんですよと言う見方、未来館では出来るだけいろいろな文化を取り入れると同時に、地球の温暖化など未来とのかかわりが重要で、限りある地球のなかで人類が生き残れないのではないかと、宇宙に行ってもろに感じました。 地球にも極限のところがあり、南極,深海があります。 極地に住んでいる生命もきちんと環境問題を含めて扱う必要があります。 現場に行って伝えようと思いました。  

1957年に世界地球観測年が決められ、日本は南極に初めての基地を作ることになりました。 アメリカやソ連では宇宙から地球を見ようという事で人工衛星を初めて飛ばしました。(1957年) そこで新しい時代が来るんだと思いました。 1961年ソ連はガガーリンを初めて宇宙に飛ばしました。 「地球は青かった。」と言う言葉に、どんな青さなんだろうという不思議さが宇宙に興味を持たせてくれました。 兄たちも天文少年でした。 母も星などに興味を持っていました。  母は「自分はハレー彗星が一番近づいた1910年に生まれたので、又ハレー彗星が近づく1986年に帰っるんです。」と言ったんです。 ハレー彗星が近づいた1986年1月28日に母が亡くなりました。(76歳) 僕は誕生日が1月29日ですが、母親が亡くなって数時間後にスペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したんです。 日本で待っていましたが、爆発のことは知らされませんでした。(宇宙飛行士に採用されてから3か月後)

若いころ交通事故で即死のような状況でしたが、なんでもありませんでした。 ヨーロッパに行った時に飛行機事故に遭って、エンジンが爆発して火事になりました。 サッと出口から出ることが出来て助かりました。 2度の死んでもおかしくないような事故を経験して、自分には運がいいんだと言うような信念があります。 爆発事故があっても怖いという発想はなかったです。 未知だから面白いと思います。 2003年にコロンビア号が帰還するときに爆発しました。 そういったことを理解して、宇宙に飛ぶときには遺書を書いていきます。 1992年、2000年の2回宇宙に行きました。 仕事をするミッション、その中に細胞培養実験がありました。 宇宙での細胞ぼ培養の仕方を顕微鏡で見て写真を地球に送るんですが、疲れてふっと窓から地球を見たら、細胞と似たような形に見えたんです。 「繋がっているんだ。」と言う気持ちが出てきました。  地球が一つの生き物であるかのように感じました。 

二回目は3次元の立体地形図を作る為に絶えず地球を観測する仕事でした。 ずっと見ているうちに、「地球って本当に宇宙に浮かんでいるんだ。」という事が判ったんです。(知識では判るが感覚では判らない。) 地球みたいな星は宇宙には沢山有るのではないかと思って、宇宙人は本当にいるなと思いました。 

NHKの「生命40億年の旅」と言う番組のの説明する仕事をしました。 「恐竜は絶滅したのか?」ということについて、絶滅したのではなくて鳥になったんだよ、と。 当時は鳥になったという証拠はありませんでした。 解説をしていて何故羽根を持ったのかなと思いました。 私の解釈は羽根を持ちたかったからじゃないの、飛びたかったからじゃないのと言う結論に達した時に、何故自分が宇宙にいきたかったのかということが判って、腑に落ちました。  遺伝子に書き込まれている事だけが全てを決めるのではなくて、意志の力でも変わるのではないかと思いました。 個の意志だけではなくて、種の意志、未来へ生命をつなげようとする種の意志があるのではないかと思います。 

環境問題、人間はほかの生命に対して責任を持たなければいけないなと思いました。 生物が多様性で可能性を自然に対して持てるという事と、自然環境をどうやって守ってゆくか。 人間が今いなくなっても今世紀末には2度、3度上がってしまう。 地球の環境の限界が来てるのではないかと思います。 SGDs( Sustainable Development Goals持続可能な開発目標、そのためには相当自分たちの生活を変えなくてはいけない。 その貢献のために地域のいろいろなお手伝いをさせて貰っています。 

「未来智」、人間ばかりが生きているのではなくて、他の生命と一緒に生きるためにはどうしたらいいかという事を考える時代になっている。 スペースシャトル内では酸素と水素で人工の水を作って飲むんですが、まずいんです。 地球に降り立って空気、そして水を飲むと美味いんです。 地球まほろば、ここが人間が住むところで、長く住むのであればほかの生命と一緒に住むという事でないといけないと思います。 

能力にぎりぎり挑戦することは最大の喜び、それで駆け抜けてきました。  「モマの火星探検記」を出版しました。(サイエンスフィクション) ミュージカルにもなりました。  感動して泣いていて、舞台は凄いと思いました。 科学技術とは全然違う手法で人の気持ちを和やかにさせる。  運動と食べ物には気を付けています。 周りの人に役に立つような役割を持ちつつ、静かに段々消えてゆきたいと思います。 わたし終いの極意としては、「未来に繋がる命に期待する。」という事です。