2024年4月19日金曜日

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい      山崎隆(四代目織元)

創業130年余り、能登上布四代目織元山崎豊さん(64歳)と母親で三代目織元女将山崎幸子さん(88歳)です。 能登上布の特徴は軽くて薄くて細かいかすり模様。 昭和初期には石川県の麻織物が日本一になって120軒以上の織元がありました。 着物の需要の変化によって減少して、現在は羽咋市の山崎さんの工房だけが唯一の織元として能登上布を作っています。 1月の能登半島地震によって、工房の機械が壊れ断水するなど生産が一時ストップしました。 不安な気持ちで過ごしていた山崎さんですが、全国各地から励ましの声などが届いて大きな力を得たと言います。

幸子:今着ているものは40年ほど前にかすりもんでは初めて作りました。 着心地は涼しくて爽やかです。 

隆:私が着ているのは父用に作られたもので、私は15年ほど前から着ています。             上布と言うのは上等な麻織物という事です。 苧麻(ちょも)を原料にしたラミー(苧麻)と呼ばれる上質な機械紡績糸を使っています。 機械紡績糸は機械で糸がつぐまれていると言いう事です。 蝉の羽のように例えられていて、透け感、ひんやりと涼しく軽くてシャリ感のあるというのが能登上布の特徴で、夏を代表する着物の生地となります。 観劇とか食事会とか少し上品で特別なお出かけなどに最適です。 能登上布の特徴は手織りで織られた張りのある風合いと、能登独自の緻密なかすり模様、能登の風土に合った落ち着いた色合いです。

十字の細かい模様が布全体に織られています。(縦横2~3mmぐらい) 糸の段階で縦糸、横糸を先染めしています。 織ながらかすりの模様を作っています。 落ち着いた色合いになっています。 表面はコンニャク糊でコーティングされてるのでなめらかで艶があります。 簡単な縞とか無地で1か月ぐらいです。 難しいものだと半年以上かかるものがあります。  工程としてはおおざっぱに20工程以上あります。  細かく分解すると100工程ぐらいになります。 どの工程も手を抜くことはできません。

今年1月1日の能登半島地震で被害を受けました。 

幸子:外に出ようと思ったが歩けないんです。 やっと外に出て銀杏の木につかまりました。 窓ガラスが割れたり外壁が落ちたりしました。 

隆:私は当時は工房には居なかったんですが、夜3時間かかって工房に戻りました。 1階の織機は大丈夫でしたが、2階の作業場は糸の収納棚が倒れて、縦糸を巻き取る機械が壊れていました。  皆が無事だったという事が幸いしています。

織子の人たちも全壊、半壊などして、今でも不自由な生活をしている人が居て心を痛めています。  2週間断水したことは非常に困りました。

2月の頭から作業が出来るようになりました。 

能登上布の起源はおよそ2000年前に第十代崇神天皇の皇女が能登の地を訪れた際に、地元の女性に機織りを教えたという事から始まっています。 平安時代から麻を生産していたという記録が残っています。 江戸時代後期には滋賀県から職人さんを招いて染色技術を学んだと言われています。  昭和初期には石川県の麻織物が日本一になりました。 昭和30年ごろからレーヨンなどを織る自動織機が普及して、洋装化に伴い着物を着る人が減少して、織元が段々減って行きました。 昭和57年ごろにうち一軒だけになってしまいました。

幸子:昭和30年に嫁いできました。 日常に能登上布は着ていました。 この辺りはお嫁に行く時には必ず能登上布を一反持ってゆくと言う風習がありました。 お寺まいり、夏のお盆の時の盆踊りの時には能登上布を着ていきました。 祭事には10月でも着ていきました。 主人は横かすりばっかり作っていましたが、問屋から言われたりして、縦横かすりの技術を学んで、作り始めました。  私は上布を織るまでの準備の工程をしていました。 手形で来たので手元に現金が無くて困って、他の仕事として撚糸業を始めました。(横糸作り)  主人の父親が何としても続けるように言っていたので、一軒になっても能登上布を守って行こうという事は思っていました。 

隆:当時織子は70,80代のおばあちゃんしかいなくて、家業を継がなくてもいいと言われていました。 工学系の大学に進み就職は機械メーカーの電気設計の仕事を20年ほどしました。 父の片腕の職人さんが亡くなったのと、仕事上の関係もあり、家業を継ごうと思いました。  図案を描いたりという事ついては前の仕事が役立ちました。  現在16名の織子さんがいます。 半分は県外から来ています。  以前は自宅で機織りをしていましが、 今は工房に織機を設置しています。  

7年前の会社を興した際に、営業と広報を担当として姪を会社にひきいれました。 能登上布の技術の継承もしています。  能登自身の後、全国各地のいろいろな方から励ましのメッセージを頂きました。  

幸子:一軒だけ続けてこられたのは誇りに思っています。 皆さんの支えがあったからこそです。 若い方が伝統産業に関わりたいと言って来てもらえたのは嬉しかったです。

隆:この仕事を始めて20年になりました。  44歳で転職してよかったなと思います。  若い人のお陰で世代交代、技術の継承が出来てきたことが有難いと思っています。

幸子:何とかこの工房を続けて行って欲しいと思っています。 能登上布は素敵な織物だと思っています。

隆:能登の美しい自然とか、能登固有のものをかすりで表現したいなあと思っています。  能登半島には伝統産業が沢山有ります。  能登全体が元気になって欲しいと思います。















2024年4月18日木曜日

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)       ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)  ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること 

今年76歳になった毛利さんの歩みは挑戦の連続です。 大学の教員から宇宙を目指し1992年スペースシャトルエンデバー号に日本人科学者として初めて搭乗、宇宙実験を行いまいた。 2000年にはエンジニアーとして再びエンデバー号に搭乗、地球観測を目的としたミッションを成功させます。 同じ年の秋には日本科学未来館の初代館長に就任、20年に渡って科学技術の未来や可能性を開く取り組みを続けました。 2度の宇宙飛行が毛利さんの人生観、死生観にどう影響したのでしょうか、又次なる挑戦はどんなことでしょうか。 

日本科学未来館の館長をしりぞいて、3年あまりです。 水にまつわる活動をしている方々を見つけ出して、表彰するという「日本水大賞委員会」の委員長をしています。 宇宙記念館の名誉館長もしています。 後輩の宇宙飛行士の助言とかお手伝いもしています。 一昨年小澤征爾さんと「ワンアースミッション」という宇宙と音楽という事で行いました。 オーケストラの音は楽器が様々あって、様々な音を宇宙飛行士の元に届けるという事は難しい技術が必要です。 それが小澤征爾さんにとって最後の指揮になりました。 

何のために私は今宇宙にいるのかという事を考えました。 人間の様々な活動は、ひょっとして人類、地球生命全体を集団として生かそう、未来へつなげようとする力があるのではないかという事で、それを考えた時に科学技術で何でもコントロールできるというような風潮があるが、科学技術、音楽、スポーツ、政治、宗教などが全て未来へ集団として人類が生き延びるための一つの知恵というか、そういう風に捉えた時に、「総合智」私たち人間社会がが未来へ向かって生き延びるための知恵、すべての文化が大切なんですよと言う見方、未来館では出来るだけいろいろな文化を取り入れると同時に、地球の温暖化など未来とのかかわりが重要で、限りある地球のなかで人類が生き残れないのではないかと、宇宙に行ってもろに感じました。 地球にも極限のところがあり、南極,深海があります。 極地に住んでいる生命もきちんと環境問題を含めて扱う必要があります。 現場に行って伝えようと思いました。  

1957年に世界地球観測年が決められ、日本は南極に初めての基地を作ることになりました。 アメリカやソ連では宇宙から地球を見ようという事で人工衛星を初めて飛ばしました。(1957年) そこで新しい時代が来るんだと思いました。 1961年ソ連はガガーリンを初めて宇宙に飛ばしました。 「地球は青かった。」と言う言葉に、どんな青さなんだろうという不思議さが宇宙に興味を持たせてくれました。 兄たちも天文少年でした。 母も星などに興味を持っていました。  母は「自分はハレー彗星が一番近づいた1910年に生まれたので、又ハレー彗星が近づく1986年に帰っるんです。」と言ったんです。 ハレー彗星が近づいた1986年1月28日に母が亡くなりました。(76歳) 僕は誕生日が1月29日ですが、母親が亡くなって数時間後にスペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したんです。 日本で待っていましたが、爆発のことは知らされませんでした。(宇宙飛行士に採用されてから3か月後)

若いころ交通事故で即死のような状況でしたが、なんでもありませんでした。 ヨーロッパに行った時に飛行機事故に遭って、エンジンが爆発して火事になりました。 サッと出口から出ることが出来て助かりました。 2度の死んでもおかしくないような事故を経験して、自分には運がいいんだと言うような信念があります。 爆発事故があっても怖いという発想はなかったです。 未知だから面白いと思います。 2003年にコロンビア号が帰還するときに爆発しました。 そういったことを理解して、宇宙に飛ぶときには遺書を書いていきます。 1992年、2000年の2回宇宙に行きました。 仕事をするミッション、その中に細胞培養実験がありました。 宇宙での細胞ぼ培養の仕方を顕微鏡で見て写真を地球に送るんですが、疲れてふっと窓から地球を見たら、細胞と似たような形に見えたんです。 「繋がっているんだ。」と言う気持ちが出てきました。  地球が一つの生き物であるかのように感じました。 

二回目は3次元の立体地形図を作る為に絶えず地球を観測する仕事でした。 ずっと見ているうちに、「地球って本当に宇宙に浮かんでいるんだ。」という事が判ったんです。(知識では判るが感覚では判らない。) 地球みたいな星は宇宙には沢山有るのではないかと思って、宇宙人は本当にいるなと思いました。 

NHKの「生命40億年の旅」と言う番組のの説明する仕事をしました。 「恐竜は絶滅したのか?」ということについて、絶滅したのではなくて鳥になったんだよ、と。 当時は鳥になったという証拠はありませんでした。 解説をしていて何故羽根を持ったのかなと思いました。 私の解釈は羽根を持ちたかったからじゃないの、飛びたかったからじゃないのと言う結論に達した時に、何故自分が宇宙にいきたかったのかということが判って、腑に落ちました。  遺伝子に書き込まれている事だけが全てを決めるのではなくて、意志の力でも変わるのではないかと思いました。 個の意志だけではなくて、種の意志、未来へ生命をつなげようとする種の意志があるのではないかと思います。 

環境問題、人間はほかの生命に対して責任を持たなければいけないなと思いました。 生物が多様性で可能性を自然に対して持てるという事と、自然環境をどうやって守ってゆくか。 人間が今いなくなっても今世紀末には2度、3度上がってしまう。 地球の環境の限界が来てるのではないかと思います。 SGDs( Sustainable Development Goals持続可能な開発目標、そのためには相当自分たちの生活を変えなくてはいけない。 その貢献のために地域のいろいろなお手伝いをさせて貰っています。 

「未来智」、人間ばかりが生きているのではなくて、他の生命と一緒に生きるためにはどうしたらいいかという事を考える時代になっている。 スペースシャトル内では酸素と水素で人工の水を作って飲むんですが、まずいんです。 地球に降り立って空気、そして水を飲むと美味いんです。 地球まほろば、ここが人間が住むところで、長く住むのであればほかの生命と一緒に住むという事でないといけないと思います。 

能力にぎりぎり挑戦することは最大の喜び、それで駆け抜けてきました。  「モマの火星探検記」を出版しました。(サイエンスフィクション) ミュージカルにもなりました。  感動して泣いていて、舞台は凄いと思いました。 科学技術とは全然違う手法で人の気持ちを和やかにさせる。  運動と食べ物には気を付けています。 周りの人に役に立つような役割を持ちつつ、静かに段々消えてゆきたいと思います。 わたし終いの極意としては、「未来に繋がる命に期待する。」という事です。





2024年4月17日水曜日

坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

 坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

コロナ過で中断されていた全国のびのび剣道学校が去年11月、4年振りに再開されました。 1979年(昭和54)年に始まり、41回を数える学校は剣道の愛好者が集まり、互いの技術の向上を目指す研鑽会であり、自由に意見や疑問を交わす研究会でもあります。 この学校の運営委員会の代表を務めたのが坂上康博さんです。 坂上さんの専門は近代スポーツ社会史スポーツ科学で、福島大学助教授、イギリスウオーリック大学客員研究員、一橋大学教授として研究を続けてきました。 2020年にはのびのび剣道学校の講師員などと共著で「剣道の未来」「人口増加と新たな飛躍の為の提案」を上梓しています。

こちらが打とうとすると相手は竹刀でよけたり、身体をよけたりします。 よけるスピードが速いのでなかなか当たらない。 「隙」と言うのはどういった瞬間にできるのか、本当に一瞬なんです。 「隙」が見えたら間に合わない。 「隙」は未来にあると言う言い方をしています。 そこを見越して隙を作って打つ、と言うところが一番醍醐味かなと思います。  単純に「隙」は3つぐらい種類がある。 剣道に場合、面、小手、胴、突きの4つのうち、例えば面をよけようとすると、あとの3つが空いてしまう。 これを①「よけ隙」と呼んでいます。 ②「打ち隙」 打とうとする瞬間から打ち終わるまではキャンセルできない。 ここを仕留める。 ③「ぼけ隙」打ちませんよと相手に思わせながら本当は打つ。 あるいは完全に油断している瞬間。 こういったものを組み合わせる。 それを必殺技つくりと言ってやっています。 

全国のびのび剣道学校は昭和54年に始まり、昭和34年生まれなので第一回からやっています。(20歳) 高知大学で大塚先生が剣道の教室をやっていて、手伝ってほしいと言われて、剣道着に着替えたら、「今日から新しい先生が来ました。」と言われてしまってそれから4年間やる事になってしまって、その延長線上にのびのび剣道学校があるんです。   自分自身は中学1年生から始めました。  高校の先生になりたかったので、剣道の研究は最初から決まっていました。 武道を文部省が奨励したら、軍国主義とか冷たい反応があり、これはどういうことなのかという事で、剣道の歴史を調べてゆくきっかけになりました。 

2020年「剣道の未来」と言う本を共著で書きました。 剣道人口を増やしたいという思いがありました。 現状可成り深刻だと思います。 高校の剣道人口は1985年がピークで半分以下です。 有段者は148万人ぐらいで実際にやっている人は47万7000人。(2007年の調査)  有段者の8割は辞めている。 年齢構成では中学生以下が45%、高校大学生が15%、社会人は40%  深刻なのは中学高校生の若い世代が急激に減っている。(1/3ぐらいになっている。)  子供にとっては面白いサッカーなどが増えている。 剣道の魅了を感じなくなっている。(嫌われている。)  2008年武道を必修化する。 しかし減ってきている。 やり方、中身そのものを考えないといけない。 

300年前に竹刀と防具が発明され、その魅力が300年続いて来た。  痛くないような打ち方をしていて、戦場では使えないというような批判が出て来た。(実践向きではない。)  空手の寸止めに近いような打ち方をしている。 明治以降1945年まで戦争に明け暮れる時代が訪れる。 日本刀で捕虜を切ってしまうようなことが起こる。 戦後6年間GHQによって禁止される。 スポーツとして出発する。 楽しみ、技術の深さを知るという事。 日本の文化として強調するのはいいが、伝統と言うと変えてはいけないという風に受け取ってしまいがちになる。(制約を加えてしまっているのではないか。) マニュアルに従って細かいところまで教えているところが多いのではないか。 やり方を決めつけてしまうと新しいものは生まれてこないのではないか。 

「主破離」、最初は師に習う、次にそれを破って、そののちには離れて新しい流派を打ち立てる。 昔の言葉では免許皆伝になって新しい道場を開ける。 千葉周作とか、年代では30歳中場ぐらいです。  昭和初期になると「離」が無いですね。 「破」と「離」をよみがえらせることだと思います。 今は「主」しかないと思います。  チャレンジ出来るような剣道のやり方だと、子供たちはどんどん入ってきて、「鬼滅の刃」からの入口が、剣道増加につながるようになるんだろうなと思います。  真剣を扱っている人を10年ぐらい観てきましたが、座頭市の刀を逆手に持つやり方はありうると思います。 

剣道を53年続けてきましたが、のびのび剣道学校に関わっていなかったら辞めていたかもしれません。 自分の可能性を知ることが出来た。(今までの自分のやり方が違っていたことがわかった。)   使う筋肉を変えなさいという事で、使い方の設計図を変えることで、一番いいスピードも出るし、大きな筋肉を使うので疲れないし、怪我もいないというそういう世界があるという事を教えてもらいまいた。 40歳過ぎてからも足が速くなりました。 日本の伝統的な武術、身体技法の中に凄いものがあるという事を発見しました。 そういったものを取り入れてゆく。  フランスでは柔道人口は日本よりはるかに多い。(60万人ぐらい) 8割は子供で、子供の教育のための柔道を作り上げていて、海外から学ぶことも多いと思う。  剣道自体の歴史から学ぶことも大事だと思います。 足の運び方が全然違う子を見て吃驚しました。 そういったことを伸ばすようにしていきたいと思います。



















2024年4月16日火曜日

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい 

1958年に大阪歌舞伎座で初舞台を踏んだ林さん、1964年にはNHK大河ドラマ「赤穂浪士」で堀田隼人を好演して、一躍スターダムにのし上がりました。 70年近く歌舞伎や新派など多くの舞台のほか、映画、テレビでも活躍し、1994年には第2回菊田一夫演劇賞を受賞しました。 民放のドラマ「必殺仕掛け人」やNHKでは大河ドラマ、「独眼竜正宗」、「八重の桜」のほか、朝ドラ「オードリー」「朝が来た」などに出演して人気を博しました。今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しました。 82歳とは思えぬ身のこなしと色気を放っています。 

今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しましたが役者をやっていてよかったと思います。  長谷川一夫の真似をしよう真似をしようと思っていて、教えていただいて真似をしていましたが、役者と言うのは真似から脱皮しろと言われました。 長谷川一夫は叔父になります。  東京に出て来た時に俺が預かるという事になりました。  曽祖父になる林又一郎(前名が林長三郎)の弟分で長二郎(長谷川一夫)になりました。(内容がわからない) 長谷川一夫からは寝ている人の起こし方から教わりました。(内弟子の心得をいろいろ教わる。 19歳)  

2022年の作品の映画、2024年に「むじな峠」が公開されます。 監督が戸田博さん。 円空の役です。 お坊さんの役は初めてです。 お坊さんに近いような生活をしながら撮っていました。 「その気になれ」と言われました。 そうすると画面に出たり、舞台でもそういう風に見えるからと言う教えでやりました。 

ユーチューブもやっています。 「与一チャンネル」 家では無口ですが、外に出ると話が出来るようにしています。(長谷川一夫の教え) ラジオ深夜便は大好きです。 僕は踏まれて踏まれて雑草のような生き方をしてきたので、叱られた事、ひっぱたかれた事は覚えていますから、それが肥やしになっています。 今は態度、言葉使いも気を付けなければいけない時代になってしまって、育ってゆくのかなあと心配です。  自分で知っていることをユーチューブで発信しています。

生まれが1942年、現在82歳。 初舞台は昭和32年に大阪歌舞伎座で今東光の「お吟さま」の大阪城に芸を見せに来る役者の役でした。(15歳) 変声期で困りました。 学校にはなかなかいけませんでした。 1964年NHK大河ドラマ「赤穂浪士」でしたが。19歳で長谷川一夫に居候して翌年でした。  NHKに長谷川と一緒に行った時に声がかかって出演することになりました。 原作を読んでおく様に言われましたが、大した役ではないだろうと思ってほっといておきました。 台本が出てきたら、かなりでるので、付き人が出来ないようならば出演をしませんからと言ったら、長谷川から烈火のごとく怒られました。 「俺の用をしなくてもいいから出るんだ。」と言われました。

舟木一夫さんが時代劇をやるんで教えてくださいと、長谷川のところに来ましたが、僕が担当することになりました。 どこで勉強してきたのか、立ち居振る舞いなど教えることは一つもありませんでした。  長谷川の芝居を全部見たと言っていました。 いまだに舟木さんとは大親友です。 

共演する女優の人には、「女の人をいい形にしてあげることだよ。どこに自分の位置をとったら相手がやりやすいか、いい形になるかをみてやりなさい。」と言われました。 それを念頭にやったものですから、共演する女優の人達からは、「与一さんとやると楽ね。」と言われましした。 相手がかっこよく見えれば、自分もかっこよく見える、長谷川一夫の哲学です。 美空ひばりさんと5年やってからやらなくなった時に新派に出てみないかと言われました。 最初に歌手の人との舞台は断ったのですが、長谷川から怒られて出演が決まりました。  いまだに、喜美枝(ひばりの母親)さん、ひばりさん、長谷川に怒られている夢を見ます。  舞台の役、演技に関しては8割がた美空ひばりさんです。 芸の指導もしてもらったりして、あの方は天才です。 長谷川一夫は勉強してたたき上げた人ですから。 喜美枝さんからはひばりさんと二人になる時など厳しく監視がありました。 二人になる時間は舞台の稽古の時でした。 

歌手の小川知子さんと結婚することになりました。 友達のような関係の夫婦でした。 仕事もお互い忙しかったです。 離婚して、別の女性と結婚して4人の子どもがいます。   芸に邁進できるようになりました。  芝居など忙しい毎日を過ごしています。      与一塾を月に一回日曜日に開始しています。  2年ちょっとになります。        














2024年4月15日月曜日

とり・みき(漫画家)          ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京

とり・みき(漫画家)      ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京 

とり・みきさんは1979年の新人賞で「僕の宇宙人」が入賞して漫画家デビュー、又一方では長年にわたってSF文学の巨匠小松左京さんの研究会「小松左京研究会」の創設メンバーの一人として、公私ともに小松左京さんの活動に寄り添って来ました。 小松左京さんは生前弟子は取らないと公言してきましたが、今回は学生時代から、長年にわたって小松さんの薫陶を受けたおひとりとして出演頂きました。 圧倒的な知性とユーモアで「日本沈没」「さよならジュピター」など執筆し、博覧会などビックイベントのまで務めた小松左京さんについての話を伺います。

小松左京さんに初めてお会いしたころは恰幅のいい巨体、トレードマークの眼鏡でした。  知識の大きさに恐れと言うか、畏怖を感じていました。 

小松左京さん、本名「小松実」さんは昭和6年(1931年)大阪で生まれます。 14歳で終戦を迎え、旧制第三高等学校に進み、そのころ「怪人スケレトン博士」と言う作品で漫画家デビューしたと言われます。 作家として世に出たのは31歳になってからでした。 京都大学在学中から同人誌などで小説を書いていましたが、昭和37年(1962年)SFマガジン10月号に掲載された『易仙逃里記』で作家デビュー、翌年星新一さんや光瀬龍達と日本SF作家クラブを立ち上げます。 「日本沈没」を刊行したのは1973年、テレビドラマ、ラジオドラマ、漫画、映画にもなりました。  まさに社会現象でした。 他にも「復活の日」「首都焼失」など話題作を次々に発表した小松左京さん、日本を代表するSF作家であるとともに、その活躍は多方面にわたっています。 

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブプロデューサーを務め、花と緑の博覧会エキスポ90では総合プロデューサ-に就任、1984年(昭和59年)公開の映画「さよならジュピター」では原作、脚本、製作、総監督の4役を担いました。  NHKでも小松左京さん原作の少年ドラマ「宇宙人ピピ」、人形劇シリーズ「空中都市008」が1960年代に放送されて、未来への希望と科学の進歩の可能性を子供たちに示しました。  2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなりますが、小松さんは宇宙に取材に出た、星になったと表現するファンも数多くいます。 

小松さんの作品に出合ったのは漫画作品でした。 小学校低学年の頃の本で読みました。  この人は小説家なのに漫画のことをわかって書いてくれる人なんだと認識したのが一番最初です。 小学校高学年から中学生で初めて小説と接するわけですが、小松さん、星さんなどの小説を読み始めました。 SF小説にのめり込んでSF専門誌なども読み始めて、或る日SF雑誌の投稿欄を見ていたら、「小松左京研究会」を発足しますというのを見ました。 その会合に出掛け小松ファンの人たちに会い研究会にはいりました。  発起人の土屋さんと僕とで小松さんの家に伺う機会が出来ました。(1978年夏)   

最初会った時にはガチガチに緊張しました。 大阪の人も小松さんが呼んでくれて、ハイレベルな冗談を言ったりしていてなかなかか会話に入れなかったが、ようやく楽団の話になって会話に加われるようになりました。  小松さんが「さよならジュピター」を作ることになり、東京に事務所を開くことになりました。(80年代初め) そこで我々も会う機会が増えました。 小松さんは色々なチャンネルを持っていて、ぞれぞれいろんなチャンネルに詳しい人を集めると自分もいろいろな話をできるわけです。 

1984年に刊行された「しまった」(とり・みき傑作選)の巻末の解説を小松左京さんが書いています。  タイトルが「時をかける漫画家」 「時をかける少女」が好きで話をしていたので、小松さんも理解していてくれて嬉しかったです。 1979年「僕の宇宙人」で漫画家デビューしました。  世のなかの流行を扱った或る作品を手がけていた時に、電話でお叱りを受けました。 もしかしたら思いあがっていたのかなと思いました。 後日お会いしてそのことを話したら全然覚えていないという事でした。(真意は不明。)  その後SF漫画を描き始めました。  

小松左京さんにとって、戦争体験は大きかったと思います。 それを独特な形で表されていたと思います。 SFのような形にすれば、あの時に起きた価値の急激な転換、倫理観、正義と言ったものが一夜にしてガラッと変わってしまうような不条理な思いを、描けるのではないかと思います。  デビュー作の「地に平和を」と言う作品がまずそうですし、その後の短編、長編にも通底するテーマだったと思います。  苦悩をダイレクトに出すのではなくて、エンターテーメントとして自分は出すんだと、それをずっとやられた方ですね。  小松さんは「小松研究会」の若い世代の人とも接して、新しい世の中のトレンド、ミーハーな事など最新の情報を、我々を通じて摂取されていたんだと思います。 

基本的にはポジティブな方だったと思います。 2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなります。 小松さんの名前の付いた小惑星があるみたいです。 本当に星になったんだという感じです。 小松さんは巨大な人であるゆえに、孤独なところもあったようです。 常に宇宙と人間と言う事を考えていました。  宇宙と個人を対比すると、圧倒的に孤独なんですね。 チャンネルが沢山あって、一つ、二つのチャンネルでは話す相手はいるが、自分のチャンネルを全て理解してくれる人はいなかったんだと思います。  宇宙と人間とは一体何なんだろう、という事を何とか自分の文学で表現したかったのではないかと思います。 

小松左京さんへの手紙

「小松さんお元気でしょうか。 ・・・今頃どこを航行していらっしゃるのでしょうか。  宇宙を意識し、どうなっているのか知りたくて、そこへ飛び出していこうとする人類。 と言うところまでは自然科学者の、機械工学者の、あるいは哲学者も考える事だと思いますが、小松さんはそれらの分野にも精通しながら、更にもう一段踏み込んで、自分のことを意識し、観測し、知ろうとしている存在を生み出してしまった宇宙は一体人間のことをどう思っているのだろうと、主語を宇宙に置き換えて、話されていたのをよく思い出します。 その点文学者でありSF作家であったと思います。・・・小松さんの優しい笑顔に随分甘えてしまっていたと思います。・・・いまだに釈迦の掌で遊ばされているという風に思います。・・・山崎真理さんとの共作者がいて、完結した「プリニウス」と言う作品はお眼鏡にかなった作品かなと勝手に自負しています。・・・どうか今の地球にがっかりしてつぶしてしまったりしませんように。」
















2024年4月14日日曜日

勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

 勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

勝木さんは桜など植物分類の専門家です。 2018年には日本の野生種の桜としては100年振りの新種となった熊野桜の発見者としても知られています。 日本医は山桜などの野生種や、ソメイヨシノなど数多くの桜がありますが、その歴史を調べると日本人の愛したもの、求めたものが見えてくると言います。 

桜の分類と保全をやっています。 森林総合研究所は森林に関する有とあらゆる研究機関です。 木材のほかにきのことか、それから木材をどう利用加工してゆくのか、と言うようなこともやっています。 配属されたのが八王子市にある多摩森林科学園で、桜のコレクションの部門があり、桜を研究対象とするようになってから、桜の分類、保全に関わるようになってきました。 日本の桜は10種しかないんです。 ソメイヨシノなど栽培品種で種とは別の基準で区分したものなんです。 自然分類か人為分類かがあり、種の分類は基本的に自然分類で客観的な分類で、栽培品種はあくまで人が区分するものなんです。 形態とDNAを利用しながら総合的に分類していきます。 DNAの抽出は桜の場合には葉っぱを使います。 

栽培品種を中心とした分類体系を再編する仕事をやっています。 分類は、わけることと、ひとまとめにするのが類なんです。 桜はいろんな人がいろんな名前を付けてしまって、違う名前を付けてしまうと、違う名前で扱われてしまう。 「大原渚(なぎさ)」と言う名前の桜が京都植物園にあって、新宿御苑に「汀(みぎわ)桜」という名前の桜があり、DNAでクローン性を調べてみたら、同じクローンだという事が判りました。 汀(みぎわ)も渚(なぎさ)も同じ意味なんです。  大原にも汀桜があるらしいと判ったんです。 

平安時代に梅、桃の花見があったが、桜も見られるようになった。 梅、桃は中国から持ってきたものでした。 日本の土着のものも見直されるようになってそれが桜でした。    種で言う山桜が西日本の丘陵地帯で多くみられた。 大島桜が関東にあります。 元々は伊豆諸島だけに分布していました。 成長力が旺盛でたきぎ桜とも呼ばれていました。   大島桜は白っぽくて花が大きい。 桜は基本的には花びらが5枚ですが、花びらが多いのが大島桜の特徴です。 八重桜は大島桜の血が入っています。 八重桜の主だったものは江戸時代にあります。 

花見は平安時代の上流階級の方々が雅なことをやっていました。 室町時代は武家もやるようになって、庶民レベルがやるようになったのが江戸時代です。 徳川吉宗が政策と言いう事で、飛鳥山、御殿山に桜を見るためにわざわざ作り、庶民に開放しました。 山桜が中心でした。

ソメイヨシノは江戸時代の終わりごろには広がり始めていたようです。 種類としては江戸彼岸と大島桜の種間雑種という事ははっきりしています。  人工交配したものではないと私は思います。 江戸時代には交配技術はまだないです。  染井で生まれたのか、違う場所で生まれたのか、それすらも判らないです。 有ったものを人が接ぎ木で増殖して栽培品種という事になります。  山桜の様に花と葉っぱは一緒には出ないので、花が目立つ。 山桜と違って、ソメイヨシノは大概の場所で大きくなります。 環境への適応性が凄い。  生物学的な寿命と言うのはありません。 いい環境で適切な管理をしていれば、ソメイヨシノは余裕で100年を越えます。 郡山では140年を越えています。 40,50年すると枝が枯れて来たりして木が衰退します。 

野生の桜で熊野桜があります。 紀伊半島の南部に分布しています。 2018年に私が学名を発表しました。 野生種としては100年振りの発見と言う事になりました。 見過ごされていたようです。  色合いはソメイヨシノに似た感じ(うっすらとしたピンク)ですが、白からピンクにグラデーションしている感じです。  

北の方は一個一個の花の咲くばらつきが少ないです。 南はばらつきが大きい。 桜前線は九州だと福岡から南下してゆきます。 温かすぎるとソメイヨシノは駄目になるんです。  鹿児島あたりですと花芽が100個出来ても100個咲かないんです。  今年ですと20個ぐらいです。 寒さの経験がないと桜の花は咲かない。  気候変動もあるかもしれませんが、都市熱の影響も相当ありそうです。 冬場の夜間の気温が町なかだと下がらない。 

桜の絵本を出しています。 ソメイヨシノなども生き物だという事を伝えられればいいかなと思っています。  桜の研究は32年になります。 桜の保全へとシフトしつつあります。











2024年4月13日土曜日