2024年5月9日木曜日

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ!

紫苑(エッセイスト、ブロガー)     ・年金月5万円でも、幸せなシニアライフ! 

フリーライターとしてかつてはタワーマンションに住む裕福な生活を送ってた紫苑さん(73歳)、その後離婚、がんなども経験し、2人の子どもを育て上げ気が付いたらコロナ禍で仕事が激減し、月5万円で生活していかなければならない現実に直面しました。 これまでの生活費を見直し、発想の転換を図って69歳から始めた節約生活、始めて見ると意外と快適で毎日心地よく生きられることが判ったと言います。 少ないお金でもきちんと生活してゆけば、楽しく元気に暮らしていけることを知って欲しいと、御自分の節約生活をブログで発信している紫苑さんに伺いました。

新聞記者に憧れて地方の支社で働いていまいたが、当時女性としては働き甲斐のないところであったので辞めてしまいました。 フリーランスになりました。 当時は雑誌に勢いがありましたので、仕事には困りませんでした。 国民年金も当時は義務ではないので払っていませんでした。 中途から払うようにとの連絡があり払うようになりました。  結婚して、子供二人産んで、離婚がありましたが、育てていきました。  公団の新築に住んでいました。(15万円ぐらい) その後に引っ越したタワーマンションはもっと高かったです。  43歳の時に就職しようと思いましたが全部落ちてしまいました。 小さい業界紙みたいなところに就職ができました。(給料が20万円) その後子供たちも独立して、安いところに引っ越して、貯金もどんどん減って行きました。 不安になりました。    家の購入価格もどんどん下がってきたので、思い切って貯金をはたいて家を購入しました。 コロナまでは普通に遊んではいました。   

コロナになっていきなり仕事がなくなりました。 年金しか入ってくるものがなくなりました。 5万円で生活しようと決心しました。(69歳)  まず食生活から見直しました。 スイーツ、駄菓子の見直し、健康に気を付けるために正しい食生活にしました。  固定費(ガス、水道、電気、税金などで2万円))通信費(1万円) 残りが2万円になります。  食費を中心にしました。(1万円) 残りで必需品を購入することにしました。 4万3000円ぐらいで生活が出来ていました。   

スイーツ、駄菓子の見直については、きな粉に砂糖できな粉は身体にいいです。 サツマイモもよく食べました。(甘くておいしいし、身体にもいい。)  胃が弱かったがよくなってきて元気になりました。 安くて低脂肪、栄養価があるのは鳥の胸肉、イワシ、レバー。豆腐、旬の野菜です。 ツナ缶、サバ缶もよく使いました。 イワシは色々料理して、今でも食べています。  1000円ぐらいで色々買えます。 1万円でいろいろできることが判りました。  節約生活をするようになっていろいろと頭を使うようになりました。  以前の着物が溢れていましたので、リメークをし始めました。  それを考えるのも楽しいです。  50歳で乳がんになり、当時はまだお金には余裕があったので着物(和服)の購入にはまってしまっていました。 今は処分しつつ着ています。(いい気分転換になります。)  

「買えない。」から「買わない。」に替えるという事は自分の意志をコントロールする事だから、快感ですね。 自分の一つの武器になるような気がします。 美容費はほとんどかからないです。 髪も自分ですきます。 ファッション代、美容代はほとんどゼロです。  住家も住めればいいと思っていましたが、友達から絵を頂いてリビングに飾ったら、豪華な感じで花を飾ったり、部屋に気を遣うようになりました。  百均の品物を使って、いろいろ工夫しました。 始めた時から5万円弱で生活してきました。 

やってよかったと思いました。 母親が楽しく暮していることで子供たちも安心しています。 身体も元気になりました。 医療費もほぼゼロです。 人と比べることに慣れて生きてきていて、人の目を気にしていたりしましたが、自分の目だけで見てゆくと、簡単になっていき、楽になりました。  健康は何よりも大事だと思います。 見栄とメンツをなくせば生きてゆけます。  

























2024年5月8日水曜日

鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

 鈴木宣弘(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)・食の安全保障を訴え続けて

鈴木宣弘さんは1958年(昭和53年)生まれの65歳。 三重県志摩市出身。 農水省から学会に転じて、著作や講演で日本の農業の大切さ、食の安全保障を訴え続けてきました。   2022年には食料安全保障推進財団を立ち上げ、理事長を務めています。 

講演も月に20回を越えるぐらいあります。 年には200回を越えるような状況です。    日本の食料自給率を上げなければならない。 食料自給率のカロリーベースでは38%ですが、実際はもっと低いのではないかという事を、私は強調している点です。 餌の穀物は2割しか自給できていない。 肥料の原料はほぼ100%輸入に頼っています。 それが止まると自給率は実質22%迄下がってしまう。 野菜の種は9割は海外から運んできている。 野菜の自給率は8割と言っているけれども、種が止まると8%ぐらいしか作れない。 米などの種も海外に9割依存してしまうような流れが強化されている。 鳥の卵も97%自給しているという数字はあるが、餌のトウモロコシはほぼ100%輸入、雛も輸入に頼っている。 それが止まると9,2%という計算になる。  止まってしまうと異常な状態になる。 自分たちの命を守れなくなって来てる。 

日本はアメリカの戦後の占領政策で、アメリカの余った農産物を日本人に食べてもらうという事で、日本は農産物の完全撤退を進めることになって、アメリカの農産物がどんどん入ってきた。 米以外の農産物が壊滅していった。 農産物の完全撤廃は受け入れて、日本は自動車などを輸出して、経済をまわしていこうという事が、日本の経済政策の中心になってきた。 食料はいつでも安く輸入できるという事を前提にすることが、食料安全保障であるかのように、考えてやってきた。 それが今は通用しなくなってきたという事が大きな問題です。 

「クワトロショック」4つの危機に見舞われている」と主張する。             (1)コロナ禍による物流の停滞 (2)中国による食料の「爆買い」(3)異常気象による世界的な不作  (4)ウクライナ、中東の戦争の勃発

ロシア、ベラルーシは敵には食料を売らないと言っている。 農業インフラの破壊、があり、食料の囲い込み。 インドは米、麦の世界一レベルの生産国だが、自国民を守るために外に売っている場合ではないと防衛的に輸出を止めると言っている。 こういった動きが多くなって30か国ぐらいになってきた。 日本は調達が難しくなってきている。 アメリカでも計算していて、物流が止まったら世界で最初に飢えるのは日本だと、日本で一番餓死者が出ると言っている。(核戦争が起こった場合と言う極端な想定) 世界で3億人の餓死者が出るが日本に一番集中(7200万人)すると言っている。 

物流が止まったら、政府は有事立法を作って、強制的に農家に命令すると言っています。  イモ類などの増産命令を課すというような政策です。  普段から支えてゆく政策が出来ていないのに、いざと言う時だけ命令するというのは無理です。 今農家に皆さんの所得がしっかり維持できるようにする仕組み作りをして、食料自給率を普段からしっかり高めておくことが大切です。 

1950年農家人口が45,5%  アメリカの安い農産物とは対抗できなくなって農家の所得が十分に得られない状況が進んで、離農が進んできた。 車などの工業製品を輸出することで豊かにしていこうという政策をとった。  農業人口が減って、高齢化が進んで68,4歳まできてしまった。 後5年、10年経ったら日本の農業がどれだけ存在しているか。 生産資材のコストが上がってきて、農産物の売値はあまり上がらなくて、更に赤字が拡大している。 農業が崩壊して行くというような実態です。 

半農半漁の家の1人息子で、農業も漁業も手伝ってきました。  小学校の4年生の時に乱開発の影響(豊かな自然を壊してしてゆく)を先生が話をしてくれて、自分はどうやって社会を変えていけないか、そういう事に関わって行けないか、考え始めました。 東京大学農学部農業経済学科を卒業し、同年、農林水産省に入省しました。 国際部国際企画課で国際情勢の分析などをやりました。 貿易自由化に対した国内の農業、農村を守るために必死で抵抗していました。 政策を強く打ち出してゆくような余地が減らされてきている。 

要領が悪くて、研究所に移動して、アメリカのコーネル大学に行っていた時に、九州大学の先生のところで研究したいという思いがあって、九州大学に採用してもらう事になりました。 1998年の時で学界に転身しました。  ものが片付けられない、朝が苦手、要領が悪い、これは直らないです。 2006年から東京大学大学院農学生命科学研究科教授(農学国際専攻)です。 このまま日本の農業が崩壊して行ったら大変なことになると思いました。 大学では自由な発言が可能になったので、九州大学のころから発信を強めていきました。 

日本の農家の所得に対する税金の補助金の割合は3割程度です。 フランス、スイスなどはほぼ100%なんです。 欧米では、命を守り、環境を守り、国土国境を守っている産業はみんなで支えるのはある程度常識なんです。 日本の方が非常識だと考えないといけないのではないか。 2022年に「食料安全保障推進財団」を作りました。 安全・安心な食料を量的・質的に国民に常に確保するための生産から消費までの国民全体のネットワーク強化、食の安全性の「可視化」、及び必要な政策を実現するための活動を推進することを目的とする。去年1年間で40を越える場を財団が作り出しました。 食の安心安全という事で、耕作放棄地を女性の方々が借りて、子供たちを含めてやってくれる、そういった動きもあります。 地域の皆さんが農家の皆さんを支えるとともに、自分も地域の農業生産に関わるような仕組み作りを広げて行こうという声が、強まってきています。 

地域の有機農産物が学校給食にといり入れられている事は、大事な核になると思います。  地域で食料が循環できる仕組みを作るというのは、非常に大事な核になると思います。  農家が減少してゆくなかでどう支えるか、国レベルの政策も大事ですが、地域地域で地元の皆さんを支えてゆくような、ローカル自給圏を作る事によって、消費者と生産者が一体化してゆくことを広げる事が重要になってきている。 

直売所では農家の小遣い銭稼ぎにしかならないと言われてきた。 それを打ち破ったのが和歌山県の野田モデルです。 中間流通を通さずに作物を広域で販売する『野田モデル』という仕組み。 地域の直売所を転送システムでつないで、一気に沢山の店舗で品物が売れるような仕組みです。 1億円売れるような直売所が確保できたり、1000万円緒以上売り上げるのが300軒ぐらいになってきています。 そうすると農家の所得を画期的に引き上げることができる。 農家に価格決定権があるのが大きい。 

講演にも増えてきて、沢山の方が関心を持ってくれるようになりました。 食料安全保障推進財団」も、皆を支えるためには、もっと何が出来るか考えていかなければいけないと思います。 不測の事態のリスクが高まっている中で、国民の命を守れるように準備するという事が「国防」と定義するならば、国内の食料を守る事こそが、日本にとっての一番の「国防」、「安全保障」の要だと思います。 循環型食料自給圏を各地で作て、それをベースにして広げてゆくことで、日本の農業、農村、自分たちの食料、健康を守って行けるように一緒に頑張りましょう、という事を呼び掛けたいと思います。 










2024年5月7日火曜日

高柳和江(癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ

高柳和江(小児外科医・癒しの環境研究会理事長)    ・笑いで、病(やまい)をふっとばせ 

高柳和江さんは長年笑いの医学効果の研究に取り組んでいます。 笑う事はウイルスやがん細胞と戦うキラー細胞を増やし、既存の持つ免疫力を上げることが知られています。 高柳さんは笑いが免疫力を上げることを「笑医力」と言って、免疫力を上げる副作用のない魔法の薬だと言います。 現在介護老人保健施設の施設長として、高齢者から生まれたばかりの赤ちゃんまでを見るお医者さんです。

神戸大学の医学部を出て、順天堂大学外科専攻生を経て、徳島大学医学部医学博士課程修了後、クウェートにて10年間小児外科医として勤務。  生まれたばかりの赤ちゃんを230人手術して、12歳以下のお子さんを7万人ぐらい手術しました。

クウェートと言うとおお金持ちの国なので、最新鋭の素晴らしい機械が揃っているんです。   イギリス人が来て小児外科を始めました。 イギリス方式は患者さんに皆笑うんです。 笑っていると患者さんも笑うんです。 吃驚したんですが、笑うと病気が治る子が多いんです。 入院すると病院在日数が日本で当時50日ぐらい、クウェートではたった7日間なんです。 笑うといいんだという事が判り、それは必須だと思いました。 日本に戻ってもそれを取り入れたいと思いました。 

アイオワ大学で医療管理学の研究に携わりました。 医療の質を高める事、ホッとできる場所であるとか、安全にいろんなことが出来ていることも大切で、患者満足度調査は日本ではなかったんです。  日本でも患者満足度調査を始めました。 日本医科大学に10何年いましたが、どうしたら患者さんが話したくなる医者の話し方があるかという事を勉強して、それを医学生に教えました。 今は医学部の4年生から5年生になる時には必ず全員、模擬患者の面接を受けなければいけないんです。 それから実際の患者さんに会う事が出来るというシステムになっているんです。 模擬患者さんから聞くわけです。

コロナで予防注射をするときの副作用があるがそれを減らしたいと思ったんです。  150人ぐらいの高齢者に対して笑ってもらって、ブスっと注射をするわけですが、統計を取りました。 大笑いしたグループとそうではないグループでの比較では、注射をした時の痛みも少なかったんですが、翌日に熱がでる人も少なかったんです。 統計に出ていて今論文を書いているところです。 

大きな手術をした後に療養する期間があり、患者さんに大きな名刺を渡しますが、そこには私の名前と大きな笑っている写真と「一日5回笑って、一日5回感動して。」と書いてあるんです。 笑いもそうですが、感動も本当に大切だと思っています。 古代ギリシャのアルキメデスがお風呂に入っていたんです。  水が流れ出て身体が浮き上がったんです。 これは浮力だと言って、アルキメデスの原理を発見したんです。 「見つけたぞ」と大喜びで裸のまま家まで走って帰ったというんです。  大興奮、感動です。 感動して笑う事が大切なんです。 花が咲いていて、「なんて綺麗なんだろう。」と心から感動する。 そうすると必ず笑顔になるんです。

胃とか腸の手術を単にしただけの人と、心理的な笑いを介入した人を比べると、笑った人の方が生存率が高いんです。 論文にもしましたが、データがあるんです。  実際の例で70歳ですい臓がんになった人が居て、見つかったとこには余命3か月と言われたんです。 私の笑いの講演に来ました。 幼馴染4人集まって彼女の家で朝から晩まで笑っていたそうです。 2週間でガンの腫瘍マーカーが300から激減して190になったというんです。  1年後にはガンが小さくなって、転移があって腹膜のリンパ節に有った転移が全然なくなって、2年後には何も見えなくなったそうです。 3年後には全然見えなくなって主治医が「貴方は完治です。」と言ったそうです。 私もびっくりしました。 

86才の方で心臓が悪かったんです。 歳なので手術はしないと言う選択をしました。 私のところに来ました。 時々胸が苦しくなるという事でした。 「一日5回笑って、一日5回感動して。」と言う名刺を渡しました。  3か月経って彼女は別の施設に移ることになりました。 ご家族が迎えに来て「どんな魔法を使ったんですか。」と言うんです。 「あんなにニコニコして幸せそうな母親なんて初めて見ました。」と言うんです。 皆で笑顔で帰りました。 

ガンの末期と言われた男性がいました。 ホスピスに入って覚悟を決めていました。 実は奇跡が起こりました。 ホスピスに入ってガンが治ってしまったんです。 どうしてそうなったのか判らなかったが、ホスピスから送り出されました。 大喜びで家に帰ったが、鬱になってしまいました。 その後精神病院に2年間入院してしまいました。 動かないので膝も曲がり腰も曲がりましたが、精神病も落ち着いたからという事で、家に帰るのもなんだという事でうちの施設に来ました。 例の名刺を渡しました。 3か月して彼は家に帰ることになりました。  彼は走って来て私に言いました。 「先生見てください。 こんなに元気になりました。」 「一日5回笑って、一日5回感動して、こんなに元気になりました。」と笑いながら言うんです。  感動が大事です。 

笑い、感動に加えて結局人間は感謝なんですね。 小さな花を咲かせているのを見ても「ありがとう。」という感謝ですね。 

笑い療法士を育てています。 1994年に「癒しの環境研究会」を作りました。 ソフトの部分、人間的なところがあるのではないかと思いました。 癒しを育てるのには笑い療法士が必要だと思いました。 笑いを引き出す人。 2005年から笑い療法士の育成をしています。 一番大切なのは安全安心だと思います。 安全安心を提供してくれる人、一緒にいるとホッとさせてくれる人。 心が病んでいる人には安全安心が大切です。 現在第19期生を募集しています。 

第一期生に青森県の方がいて、青森県庁に務めている人です。 青森県は自殺する人が多かったり、子供に対する虐待を何とかするために、笑い療法士となりました。 10何年活動していて、5万5000人の方が聞いていただきました。 (県の25人に1人) 7年間ぐらいで自殺する人が少なくなった。  笑い療法士の認定者は1000人を越えています。   笑いは薬になります。 リュウマチなんかにもよく効きます。 

17期生の「ダイヤ」と言うニックネームの人から連絡がありました。  97歳のお母さんを亡くされた娘さんに、私が描いた「死に方のコツ」の本を差し上げた。と言うんです。   往診の先生が、病院に行かないでうちで看取った方がいいという事で、危篤の時に「ダイヤ」が訪問看護士をしていて、娘さんが、「頑張れ頑張れ。」と言っているので、「お母さんはもう十分に頑張っているので、それよりもありがとうね、と感謝を伝えて。」といったら「お母さん、ありがとう、よく頑張ったね。」と言いました。 翌日お母さんは亡くなりました。 「ダイヤ」はそのお母さんの顔を見ましたが、見事に穏やかで美しい顔でした。娘さんが本当に看護されて、感謝しているんでしょうね、と言ったというんです。

3か月後に娘さんに電話をしたら、97歳と言うと大往生と言うが、もっともっと生きて欲しかったという事でした。 苦しい呼吸をして居たり、病院へ連れて行った方が良かったのではないかと言う思いがあったようですが、「死に方のコツ」の本(高柳和江著)を渡したそうです。 亡くなる人は呼吸は苦しいかもしれないが、本人の心は天井の方に行っているので、もう苦しくはないと書いてありました。 寄り添うという事の大切さを実感しましたと「ダイヤ」は言います。 これが実際の笑い療法士です。 笑い療法士は一般的には笑いを引き出すというんですが、心から寄り添うんです、という事をお伝えしています。  自分が心が豊かでないと、感動という事を知っていないと、感謝の大切さを判っていないと出来ないと思います。





  

2024年5月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

ゲスト:伊舎堂 仁さん 若い歌人で似たタイプが居ない歌人。 

1998年沖縄石垣島の生まれ。 大阪芸術大学文芸学科卒業後現在は東京在住。  これまでに歌集を2冊2014年に第一歌集「トントングラム」、2022年「感電しかけた話」を出版。

穂村: 最初は新聞の短歌欄で見ました。 

伊舎堂:この名前はほとんど顔見知りで一族です。 

穂村:作品も凄くインパクトがあります。

*「伊舎堂に合わせたい人が居ないんだ是非合わないでみてくれないか」  伊舎堂 仁

決まり文句は社会にはあるが、それが裏返されている。 たまらなく奇妙です。

伊舎堂:僕は空気中にこの言葉が見えるんですが。 

穂村:切実な感じがあって、冗談のように見えるがヒリヒリした感じがあって、こんな歌もあります。

*「本部長のイメトレ中のスイングのゴルフボールの飛び先に俺」      伊舎堂 仁

ゴルフのスイングのイメージトレーニングをしていて、どこか透明人間ぽい、存在を無視され切っている。 本部長の眼中に無い。 笑えるが、でも切実。

穂村:こういう歌ばかりではなく、

「雪見だいふく作り方で検索しているような子が好きである」         伊舎堂 仁

愛の歌ではあるが、凄く距離のある愛の歌。

伊舎堂:この歌は俵万智さんも好きです。 俵さんが新聞に短歌コーナーを持っていて、送ると図書カードを貰えるんです。 送り続けていました。(12年前石垣島で)

穂村:5、7、5、7、7は1000年以上変わらなくても、そのなかで微妙に揺れ動いている。 正岡子規の時代とか、われわれの時代も俵万智さん、東直子さん、林あまりさんなどは演劇をやっていた人たちです。 演劇のセリフとかが、文語から話し言葉に変わる短歌とシンクロして演劇をやっていた人たちが短歌にオーバーラップしてやって来るんです。  伊舎堂さん達の世代にはお笑い、大喜利とか言うのがあり、伊舎堂さんにはどこかそういったベースにありつつ、なんか短歌にはまった印象です。

伊舎堂:みんないとおしいということを感じます。

「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」   斉藤斎藤

これはショックの最初の一首で、私に起きたことを順番に書いてゆくと、面白くなるみたいな、その人が生きてみたものを書き方によっては、宝石みたいに出来るみたいな、そう感じた最初の一首です。

「つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる」  土岐友浩

斉藤さんとは違うジャンルで、面白いことを言っていなくてもいい、優しく受け止められる。 

「超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日曇り」          穂村弘

高校生の時に読んだ一首です。 大喜利的な奇妙な発想。

穂村:よく考えると、この短歌は曇りしかないんですね。 虹とか言ったらとんでもないし、嵐でも雨でもないし、曇り。

「ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半」       伊舎堂 仁

 とてつもない子供感みたいなもの、未来がある感じ。 

伊舎堂:僕らの世代は漫画でもセリフがめちゃくちゃ多くて、言い合いも長セリフで、それを覚えた子供たちがけんかをするから長くなるんです。 ほとんど口喧嘩のやりあいです。

穂村:無駄な感じ、無駄が輝くには時間がいりますね。 時間がたっぷりあった時だけに許される無駄な感じ。 大人は駄目ですね。 物凄く無駄なことをやっている若い人を見るとまぶしい感じがします。

「海だけのページが卒業アルバムにあってそれからとじていません」    伊舎堂 仁

人が写っていなくてこれも一種の無駄ですよね。 余白の輝きみたいな感じ。 心のページをとじていない。

「ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね」      伊舎堂 仁

徴兵反対に、特殊な角度から表現した歌ですね。 豆乳鍋の出現にはかなり資本主義が高度化しないとここまで行きつかない。 

伊舎堂:

*「次の瞬間教室に一匹の或る動物が入って来ます」           穂村弘

好きな一首です。 穂村さんぽくないところが納得するし不思議でもあります。 

*印はかな、漢字など違っている可能性があります。













2024年5月5日日曜日

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕

桂玲子(声優)              ・〔時代を創った声〕 

「サザエさん」にイクラちゃん、カツオの片想いの相手アオイちゃん、「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎(Q太郎の弟)、一休さんのさよちゃんなどを演じてきました。 「サザエさん」は放送されて今年で55年になります。 イクラちゃんを演じて50年になります。 「ハイ」から始まってもうちょっと話せるようにと言うことで「バブー」も始めました。 もっと話せるようにという事もありましたが、「ハイ」と「バブー」を使い分けるようになりました。 前後のセリフを聞いて、それなりに反応するようにしています。 

福岡県福岡市出身。 小さいころは写真館に行ってはポーズをとったりしていました。 幼稚園の卒園式の時には代表でいう事になりましたが、最初の言葉はいくつか言えたのですが、その後は言えなくて大失敗しました。 小学校の入学式の時にはたくさんの子が怒涛の様に押し寄せてきて、どうしようと思ったのを覚えています。(大勢のところは苦手でした。)    中学生のころに新舞踊を習いました。  「どんたく」では父親と舞台で踊ったのを覚えています。 高校では演劇部に入りました。 ベニスの商人とか勧進帳などいろいろやりました。 その後地元の九州朝日放送放送劇団に入りました。(ラジオドラマなどいろいろ) 

或る時に芥川比呂志さんから主人に声がかかって文学座をうけて、私も受けることになりました。(三期目)  ただ楽しく過ごしました。 日本舞踊をやるようになって名取となりました。(放送劇団のころ)  当時声優になろうとは思わなかったです。 声優の役を段々やるようになりました。  言葉にならない赤ちゃん役はどうしようか、難しかったです。  イクラちゃんはそんなに苦労はしませんでした。  「フランダースの犬」にアロアもやっていて、「一休さん」のさよちゃん、この二つは女の子を実感しながらやりました。 好きな役でした。 

「新オバケのQ太郎」の二代目のO次郎は非常にやりやすかったです。 「バケラッタ」で感情を表現する。 考えたら駄目だと悟りました。 日舞は役に立ったと思います。 主人が亡くなって、坐骨神経痛があり、体力的にも気力的にも落ちて、リカちゃんがしばらく出ていなくて、出来なくなって一生懸命に考えて、やればやるほど違って、或る時に考えないようにしました。 その世界に飛び込めばいいと思って頭では考えないようにしました。(2年前のこと)  

何でもできるというのが声優の魅力だと思います。 もうちょっと体力があったら舞台をやってみたいですね。 声優という事に抵抗を感じなくなったのは割と最近です。 若い人への提言としては、若いうちはやりたいことをどんどんやればいいと思います。 でもすぐには生活が出来ないので、頭の隅に置いて挑戦すればいいと思います。