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脳科学ブログ(教育への架橋)

脳科学の知見を生かし、実践現場との架橋・融合をめざす。仮説・実践・検証により、教育のエビデンスを生みだし、揺るぎなき教育の一端を担いたい。“教育は愛、愛こそ教育” 願いは子どもの幸せである。


私の宝・教え子たちの成長 [2024年03月16日(Sat)]
 もう3月、進路はほとんど決まっていることでしょう。 
残るは大学受験、本番はもうすぐです。頑張ってください。

教師の喜びは教え子たちの成長・活躍を知ることです。

 とりわけ、大學受験は親の経験と見識に大きく規定されます。
特に母親の影響は強いのです。母親の熱心さと賢さが決め手にな
るのです。担任の先生、学校の雰囲気などにも大きく影響されま
す。

 今にして、自分の教職生活を振り返ってみると
「よくここまできたなあ」
 と感慨深いものがあります。

 子どもたちは、一人が良くなると、芋づるのようにずるずると
みんなが良くなります。本当のことです。実際あったことです。

 4教科が5段階評価で「1」だった子が、高飛び込みで日体大に
入学したり、工業高校定時制機械科を卒業し1級の機械工になり
表彰されたりしました。朝霞市議会議員になった子もいます。

 担任の影響は、想像以上に大きいようです。教育は教師により
す。脳科学的には小学校3・4年ぐらいまでが特に重要です。

 人間は成長するのです。本当に成長するのです。見放してはい
  けません。見放された時から人間はおかしくなっていきます。

  子どもを良くする心は “ 児童愛 ”   “ 友愛 ”です。

 大学は人生のワンステップにすぎません。
自戒と努力が大事です。

 特に、「 継続 」が大事です。
継続で脳のネットワークの回線は太くなります。

  社会は誘惑に満ちています。負けてはいけません。
勇気をもって立ち向かってください。 

 担任の影響は、想像以上に大きいようです。教育は教師により
ます。脳科学的には小学校3・4年ぐらいまでが特に重要です。

   子供らよ
  燃えよ 燃えよう
   汝(なれ)と我(われ)
  一つになりて
  御国(みくに)みんまで

 これが 着任の代表宣誓で 私がうたった短歌です。
この誓いが 私の教員生活の基調になりました。

 子供たちにも、親たちにも、同僚上司にも 恵まれました。
有難かったです。みんな良い人たちでした。 
こんな事が実際あったのです。 [2024年03月16日(Sat)]
こんな事が実際あったのです。
ウソのようですが本当なのです。
シンプルに・淡々と・うまずたゆまず
努力し続けた結果です。有難いことです。
IMG_0310.jpg 
教え子たちの進路 [2024年03月16日(Sat)]
        教え子たちの進路

 大学の進学は親の経済力と意識によることが多いようです。
かなりできる子でも、お金に余裕ががないため進学できない場合もあります。

 私の勤務校はいずれも裕福とは言えない地域でした。しかし、子どもたちは、のびのびと成長し、環境を乗り越え克服し、進路を切り拓いてくれました。

  進学する子も進学しない子も、努力しその天性を伸ばしてくれました。
有難いことです。

 以下は、進学を選んだ子どもたちです。学力・偏差値だけでなく、家計も考え選んでいることがわかります。就職した子もみな頑張っています。本当にありがたいことです。

 東 大   3人・・・八木 俊哲、松尾 君(児童会長)、
          柿沼 優花(東大卒後ハーバード大学へ)
 一橋大  1人・・・堀金 靖 
 千葉大  2人・・・若林 雅夫、富岡 太一
 埼玉大  3人・・・小沢 裕樹、渡辺 稔、渡辺 正俊
 電通大  1人・・・宮内 馨
 都立大  1人・・・田中 君
 早稲田大 3人・・・池田 秀人、宮壽 和宏、赤荻 隆
 慶応大   3人・・・小川 秀樹、小原 秀志、山本 寛 
 上智大  1人・・・杉山 幸平
   日本医科大 1人・・・中里 桂子
 立教大  1人・・・藤井 達矢
 国立音楽大学 1人・・・平柳 みどり
 北海道の歯科大1人・・・松本 剛
 日大・獣医学部 1人・・・品川 泰枝
   法政大  1人・・・小林 洋八
 東洋大  1人・・・須田 敏
 駒沢大  1人・・・相内 隆之
 専修大  1人・・・増田 潔 
 日本体育大  1人・・・金子 慎也、 星野 悟
 高千穂商科大 1人・・・水野 勤
 大東文化大  1人・・・岩本 章太郎 
 東京家政大  2人・・・押田 亜紀、栗原 明子 
 文化女子大 1人・・・佐藤 由佳
 日本女子大  2人・・・望月 由香、佐々木 舞
 大妻女子大学 1人・・・円通 淑子
   高等看護学院 1人・・・赤池 直美
 朝霞市議会議員 1人・・・榎本 健司
  わかった範囲の情報です。

 多くの教え子です。進路先のわからない人も多いはずです。わかった範囲で記してみました。
この資料は、「教育」や「人間の成長」に関心がある人にとって、また教育関係者にとっては貴重な資料になると思います。確かな事実です。在ったことです。事実は、誰であっても消すことはできません。誤魔化すこともできません。

 教育は政治ではありません。改ざんなどできません。

 振り返ってみれば、戦後の歩みは、私利私欲の役人や教育を知らない政治家や教員が「教育現場」をグチャグチャにした歴史のようです。「文部省と組合」の激突、「人間知」のない共産主義の跋扈等、それが悲しい「戦後教育の歴史」でした。「生煮えの民主主義教育」の姿でした。

 徳田哲二君と堤田正俊君は浦高からどこに行ったのでしょうか。根本真紀さん・宇田川桂子さんは浦和第一女子高からどこにったのでしょうか。

 知りたいです。知っている人は教えてください。お願いします。
我が家の事 A 再掲 [2024年03月15日(Fri)]
         我が家の事 A

 また、我が家は、巡礼のお坊様が泊まる家でした。
お坊様の名前は藤井健蜂様でした。約束の日が来ると、夕方を待ち 村はずれまで迎えにいきました。

 お坊様が家に着くと、準備していたお湯を玄関先まで持っていき、洗い桶で足を洗ってもらいました。洗い終わると家に入ってお風呂に入っていただきました。
 お坊様は、お風呂をでるとすぐ仏壇の前でお経を読んでくださいました。

 夕食が終わると旅のよもやま話をしてくれました。それはそれは楽しい話ばかりであったのです。
興味深々でした。私は黙って聞いていました。
 我が家の裏山は、後に上杉景勝が生まれた坂戸山でした。登山の表口は坂戸、裏口は坂井(我が家がある部落・15軒)です。山頂には館が、麓には城がありました。坂戸城といいました。

 この城は関東への進出拠点で上杉謙信の居城・春日山城とともに戦略上重要な城でした。

 先祖は城の番将を務め、桐沢但馬守を倒し権力を握ったそうです。1qほど離れた岩崎部落には、桐沢但馬守の墓があります。史跡として残っています。立派な墓です。

 桐沢家は村を離れ、20q程離れた浦佐の近くに移っていきました。
今でも桐沢部落として残っています。お盆には毎年墓参りにきていました。一族がそろってお参りに来たこともありました。

  私の実家にも立ち寄り、祖父と一緒に楽しそうに酒を飲んでいたこともありました。あと取りの長兄とも会っていました。

 我が家は、史書によれば「桑原 右近太夫 源助」と名乗っていたようです。
今でも屋号は「源助」です。
DNAについて  [2024年03月11日(Mon)]
         DNAについて

DNAのレベルで考えると、ヒト・チンパンジー・マウスの違いは小さいのです。遺伝子数でみるとヒトはチンパンジーよりマウスに近いのです。生物進化の歴史もDNAの歴史から探ると面白いことがわかるようです。


     ヒト

・遺伝子数:26808
 塩基数 :32億5400万pb

 1遺伝子=1213pb 
 遺伝子1個は平均でも 塩基 1312 個 から成り立っている。


    チンバンジー

・遺伝子数:21824
 塩基数 :28億4300万pb

 1遺伝子=1302pb 
 遺伝子1個は平均でも 塩基 1302 個 から成り立っている。


      マウス

・遺伝子数:23459
 塩基数 :27億3800万pb

 1遺伝子=1167pb 
 遺伝子1個は平均でも塩基 1167 個 から成り立っている。

家のDNA [2024年02月29日(Thu)]
 家にはそれぞれのDNAがあります。
栄枯盛衰を繰り返しながら、
DNAでつながっていきます。
昔はそれを血筋とか血統とか言っていました。

当然のことながら我が家にも我が家のDNAがあります。
DNAでつながった血統があります。
それが、遺伝子として流れているのです。
「家風」としても引き継がれています。

・桑原右近太夫源助(記録に残っている先祖)

・ 江戸時代以前 坂戸城の番将を務めていたようです。
・ 江戸上代   上杉景勝に従って会津に行った人と
                     残って農家になった人に分かれました。
                     我が家の菩提寺は 曹洞宗雲洞庵の
        末寺 万松寺です。  
・ 江戸末期   松太郎(祖祖父)
・ 明治時代   積太郎(祖父)
・ 大正時代   正作(父) 
・ 昭和時代   清夫(兄)
・   〃       正樹(現在)

 歴史は延々とバトンタッチされていくのです。
 繋がっていくのです。

 しかし、
 直系以外の人間関係は薄れていきます。
 関係が薄れてもDNAの片鱗としては残っていくのです。
       
我が家の事 @ [2024年02月22日(Thu)]
          我が家の事 @

 兄の死は、日頃考えることのなかった先祖のことを考えるきっかけとなった。

 我が家は、昔から続いた古い家であった。
天和2年(1682年)の書類も残っていた。殿様からもらったという書付もあった。
「これは大事なものだ」と菩提寺の住職は言っていた。

 母はいろいろ調べていた。時折ぽそりぽそり教えてくれた。
また、母は 毎日、日記を書いていた。
  農事日記でもあった。
  よもよも日記でもあった。
  農山村の記録でもあった。
 今にすると、貴重な記録である。

  維新政府は地租改正を断行した。
    租税は物納から金納に変えた。
    地券を発行した。
 その地券もたくさん家にはあった。
  維新期の硬貨も紙幣もあった。

 昔 千両箱だったという金具の鍵のついた箱もあった。
私たちはそれにぺち(めんこ)を入れて遊んでいた。

 大人になって里帰りすると、いつの間にか、貴重な文物は全部なくなっていた。
戦前には、立派な刀もあったという。それも今はない。
   なぜか槍だけ残っているようだ。

 普通選挙法ができる前から我が家には選挙権もあった。
選挙権は国税15円を納めている家にしか与えられていなかった。
そんな時代だった。

選挙権は戸主一人一票だけであった。

 祖父はよく
 「家は上納(国税)を納めていた」
 と言っていた。

自負があったのだろう。

   国税を納めている家はごくわずか、国民の1%ぐらいだったという。
 私の実感として我が家は決して「金持ち」ではなかった。

 蒲原地方のような平野はない。山間の狭い盆地である。
冬は長い。豪雪である。豊かになりようがない。
雪に埋もれてひっそりと暮らしていた。

我が家は、そんな中でも「普通」の家であった。
鳴かず飛ばずの家だった。
いつになっても変わらない家だった。

今の代になって、少しずつ変わってきたように見える。
六日町観光協会につとめ、教育出販社の教科書「5年 社会ー日本農業ー」に協力もしているという。嬉しいことだ。いつの時代でも社会貢献は大事な仕事である。

兄と三味線 [2024年02月18日(Sun)]
 兄は、三味線に生涯を懸けていた。

 どこへ行くときも三味線を手ばなさなかった。
新潟の実家に行くときも手離さなかった。

 お盆に帰郷しても、村人たちに請われると、嫌がることなく弾いてやっていた。
村の人たちは、兄の三味線を楽しみにしていたのだ。

 母が世話になった養護施設の人たちにも演奏してやっていた。
園内放送で

「三味線の演奏会があります。聴きたい人は集まってください。」

と流すと一ぱいの人たちが聴きに集まってきた。

兄の演奏は、皆さんに喜ばれた。毎年のことだったので年中行事になっていた。

 私の学校にも来て演奏してくれた。
誰が知らせたのか、保護者も民謡サークルの人たちも聞きつけてきた。

 近くにあった老人施設でも演奏してくれた。
みんなに喜ばれていた。本当に喜ばれていた。

 兄のやることは何もかも偉かった。本当に偉かった。
三味線に人生の全てをかけていた。
 兄の生涯は三味線とともにあった。

 津軽三味線の全国大会で2位にもなった。
尊敬する兄がなくなった。兄の社会貢献 [2024年02月17日(Sat)]
 2月13日 尊敬する兄がなくなった。82歳。残念であった。天命だ。ただ受け止める以外に手はない。
岡崎まで、すぐ駆けつけた。14日 通夜、15日 告別式

 平成21年10月18日 靖国神社創立140年記念に三味線の演奏を奉納したという。私は知らなかった。名誉らしいことは言わない人だった。
京極高晴 第6代宮司から戴いた感謝状があった。お棺の中に入れてあげた。
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 兄は、三味線のお師匠をしながら、岡崎市内外のお祭りやエベントで数多くの演奏をしていた。一人のこともあったし、お弟子さんたちを連れての演奏もあった。

 お弟子さんたちは回を重ね、場を重ねるごとに腕を上げた。めきめき上達をした。兄はそれをことのほか喜んだ。「 育ての心 」が豊かな人であった。

 お弟子さんたちにも尊敬され、喜ばれていた。みんなに喜ばれた。
近隣の人たちにも尊敬されていた。

 まだ若かった頃、勤めていた日本レーヨンと近くの東洋レーヨンの人に呼びかけ、協力し、まだ鬱蒼としていた山林を買い、開発し、家を建て、岡崎市八王子という村に創り上げた。その牽引者、リーダーであった。

 区画分割の時も、まず先に、みんなに良い土地をあげた。自分の家は最後に残った土地を選んだ。

「 自分が・自分が 」と言い張ったら、「 まとまることもまとまらない 」と言っていた。

市役所の人はその行動力に驚いたという。その進め方にも驚いたという。

 告別式では岡崎市長からも弔電が寄せられた。

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      祭りでは三味線を披露した。 前列中央が兄

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     お弟子さんとともに花見に行く

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     お弟子さんたちに囲まれて幸せだった。   
     
  三味線の道でも生き方や物事の進め方は変わらなかった。 

 お師匠として、自らの修練を怠ることは無かった。

 「 毎日、弟子の何倍も何倍も練習をしている」

 と言っていた。

 「 自ら精進しない人はダメだ」 

 とも言っていた。

 「 努力の人 」「誠実の人」であった。

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 新潟の実家(南魚沼郡六日町大字津久野字坂井)で三味線を弾く兄。まだ若い時の写真である。聴いているのは母、懐かしい写真である。
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懐かしい師友人 [2024年02月12日(Mon)]
懐かしい師友人です。宝のような人たちです。
小田切信男先生 33歳でガンに倒れ、3回も手術・入院、以来、世話になり続けました。一切無償でした。治療費は受け取りませんでした。
「清水先生が大事になさっている桑原先生。最善を尽くします」とおっしゃっていました。昭和天皇の侍従医を務めていました。
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中瀬正臣先生
埼玉県立浦和西高等学校の校長先生でした。初任研の講師でした。
こんな先生がいるのか。直球をビッシ ビッシと投げ続けてきました。
一発で心を打たれました。以来公私ともにお世話になりました。
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東京弁護士会長の宮原守男先生にも親しくお世話になりました。
先生は創価学会の池田大作氏の弁護団長でもありました。
中々引き受ける方がいなくて、先生が引き受けることになったそうです。
世の中って本当に難しいものです。
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教育を考える会の仲間、おさなご園 園長 丸山雅子先生
川口市の華道連盟会長・保育所会会長・里親会会長など多くの
要職を担われました。
我が2人の息子も面倒を見ていただきました。いい先生でした。
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