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マーティン・ガードナーの『数学ゲーム』シリーズは、Scientific American 誌に連載されたパズルやゲームなど様々な遊びにまつわる数学的興趣を紹介したコラムをまとめたもので、数学コラムの金字塔とされている。

かつては講談社ブルーバックスに『数学ゲーム I』『数学ゲーム II』の2巻が収録されており、私はこの2冊に小学生の頃に出会い、ボロボロになるまで読み込んでいた。私の数学力は結果としてはたいしたものにはならなかったが、数学の世界に親しむことはできた。同書がきっかけで数学の世界に飛び込んだ数学者も少なくないそうだ。

ブルーバックス版はながらく入手困難となっていたのだが、2015年に完全版全15巻の計画が日本評論社から発表され、2017年までに4巻が刊行されたのだが、残念なことに続刊が出ていない。

もし刊行が止まっている理由が、売れ行きが芳しくないが故なのだとしたらそれは大変もったいない。全国の小中学校の図書館に同書を配備するだけでどれほどの素晴しい影響を未来の社会に与えうるか。そのためにもなんとか刊行を続けて欲しい。

という訳でここでは、同シリーズの魅力をお伝えし、続刊の刊行を応援したい。

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アイザック・ニュートンと言えば、林檎が落ちるのを見て万有引力を発見したという逸話が有名だが、どうしてリンゴの落下が万有引力と結びついたのか、とは誰もが一度は疑問に思うところだろう。

それのどこが疑問なのか、と思われる方のために補足しておくと、リンゴを地球に引きつける力、すなわち「重力」の存在を仮定すると落下運動を説明しやすい、というのはニュートン以前からもよく知られていたので、リンゴが落ちるのを見てそこに見えない力を発見した、という説明は間違っている。ニュートンの万有引力とは、同じ力がリンゴ側にも備わっている、すなわちリンゴも地球を引き付ける力を有しているという発見であり、だからこそ万有引力とそれは呼ばれている。

では、ニュートンは本当に、リンゴが木から落ちるのを見てそれを発想できたのだろうか。

この疑問について、ニュートンの友人であったウィリアム・ステュークリ (William Stukeley) は後年このような回想を記している

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「本は読めないものだから心配するな」「殺人ジョーク」「バベルの図書館」

管啓次郎先生より、ちくま文庫入りした『本は読めないものだから心配するな』をいただいた。僕はかつて明治大学の新領域創造専攻に在籍していて、管先生とはそこで一緒になった。僕が指導していた修士学生の副査をしていただいたこともあった。たしかその頃だったかと思うが、専門書をうまく読みこなせないと悩んでいた学生にご自身の『本は読めないものだから心配するな』を引き合いにして助言されていたのをよく覚えている。

さて、文庫化された同書には巻末に「本を書き写すことをめぐる三つの態度について(文庫版あとがきに代えて)」というエッセイが加わっていた。管啓次郎の散文としては最新作とも言えるこの作品がとても刺激的だった。

同エッセイにはまず、とある本に魅せられた人々が三人紹介される。それぞれ、その本をそのまま書き写したり、あるいは書き写すときに自分の言葉を付け加えて自分だけの版を作ったり、あるいは文言を削ぎ落とすことに苦心したりと、三者三様にその本に向き合う。互いに顔を合わすこともなければその存在を知るでもない。

そこに、四人目が登場する。この人もまた前の三人の営みのことなど全く知らず、独自の取り組みを始める。本文から引用しよう。

作品を構成するひとつひとつの文字を、一枚一枚の半紙に筆を使って書く。するとたとえば四万字の作品だったら、すべてを写し終えたときには四万枚の紙の山に置き換えられているわけ。 (p. 285)

この四人目の営みを読んで即座に連想したのが、『モンティ・パイソン』の「殺人ジョーク」というコントだ。舞台は第二次大戦中のイギリス。ある売れないコメディ作家がある日書き上げたジョークが、読むとあまりの面白さに笑い過ぎて死んでしまうほどのもので、作者本人も書き上げた直後に笑い死にしてしまう。このジョークの存在はやがてイギリス軍の知るところとなり、軍はこれを兵器として転用する作戦を開始する。すなわち、このジョークをドイツ語に翻訳し、対ドイツ軍の決戦兵器として戦場に投入したのである。

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「誰も〜する」考

はしだのりひことシューベルツによる1969年のヒット曲『風』(作詞: 北山修・作曲:端田宣彦)の冒頭、

人は誰もただ一人 旅に出る 人は誰もふるさとを ふりかえる

という歌詞中の「誰も」にどうしても違和感を覚える。まぁ歌のことなのでこの種の文法をちょっと逸脱した表現をいちいち気にするものでもないのだが、なぜ違和感を覚えるのだろうか、という興味が出てきたのだ。

ネットで検索してみるとこれを考察した記事に、小島剛一氏の「人は誰も・・・」があり、日本語文法に照らしてそのおかしさを指摘している。氏ははっきりとこれを誤用とした上で、「誰でも」もしくは「誰しも」とするべきだ、と述べている。

文法上の議論については私はまったく明るくないので追うことはできないが、「誰でも」あるいは「誰しも」に置き換えた方が通りがよいという指摘については納得できる。

ただ、では「誰も」が「誰でも」あるいは「誰しも」から「で」や「し」を脱落させた表現なのだろうかというと、それとは違う仮説を私は持っている。

思うに、「誰も彼も」という慣用句のうち、「彼も」を語調を合わせるために落して生まれてしまったのが、この「誰も」なのではなかろうか。だからといってこれが誤用ではない、ということではもちろんないのだが、こっちの方が説明がつきやすいようになんとなく思っている。

その仮説を支持する材料がないかと思って、青空文庫に収録されたテキストやらなんやらを漁ってみたのだが、直接それを示唆するものは見つけられなかった(というか、どんな例が見つかれば直接的な証拠になるかすら見当がつかない)。

さておき、「誰も」を肯定の文脈で使った例がちょこちょこと見つかった。

普通教育を受けた者なら誰も知っているであろう
(丘浅次郎「自然界の虚偽」)

さればとて少女と申す者誰も戦争ぎらひに候
(与謝野晶子「ひらきぶみ」)

誰も之に近づくを避く
(大町桂月「三里塚の櫻」)

誰もそのアトリエには這入ることさへ避けるやうにしてゐた
(堀辰雄「おもかげ」)

誰もみなコーヒーが好き花曇
(星野立子)

それぞれみな誰も眼をぎょろぎょろ開いたまま私の顔を眺めているのだ
(横光利一「時間」)

大町や与謝野の文は否定の意味を含んだものなのでまだ慣用的表現の範疇にあるともいえそうだが、丘や星野のはまったくの肯定文である。

どうやら現代に入って生まれた誤用、ということでもなさそうなので、おそらくはこれに着目した研究があるだろうと思って論文を漁ってみたのだが、どうやら助詞「も」の扱いは簡単ではないらしく、いろいろな論が見つかる。

ただ、冒頭に挙げた歌を聞いたときに覚えた違和感から考えるに、まったく日常語に溶け込んだ表現ということでもなさそうで、時間ができたらもう少し事例を集めて考察してみたい。

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グループ別のビデオ会議で隣のグループの雰囲気が伝わる小細工

オンラインのビデオ会議がどこでも行われるようになり、大学でも講義やゼミをどのように運用するか、試行錯誤しながら進めています。

そんな中で課題となっているのが、グループディスカッションをどうやって運用するかです。教室でグループに分かれて議論をしてもらう場面では、教員は全体の進行状況や議論の盛り上がり方を俯瞰して眺める必要がありますし、学生も隣のグループがどんな話題で盛り上がっているのか、漏れ伝わってくる声や動きを通してなんとなく把握しながら議論を進めます。

グループの雰囲気は周囲のグループの雰囲気に引きずられやすいものです。静かなグループであっても賑やかなグループに囲まれていれば自然に議論が盛り上がることもあります。グループ間に非明示的な刺激がある環境は、教育効果が高いのです。

しかしながら現状のビデオ会議システムでは、こうしたグループ間の情報の漏れが起きません。グループに分かれたが最後、お互いの雰囲気がつかめないまま、孤立した状態で議論を進めざるをえません。

それを補うために、情報の漏れを意図的に起こす仕組みを作りました。実装の仕方が一目で分かるアナログハックです。大学の入構制限が厳しくなる前に慌てて作業してきたので、かなりのやっつけ仕事です。

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こんな感じでノートPCを向かいあわせ、それぞれで一つずつビデオ会議室を割り当てて、接続しておきます。グループ別ディスカッションが始まったら、グループ別にそれぞれの会議室に分かれて接続してもらうと、それぞれのカメラからはこんな風に他の会議室の様子が見えるようになります。(ここでは Google Hangouts Meet を使用)

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このように左右の会議室でどんな人が話しているのか、表情までははっきりはわかりませんがなんとなくは分かります(写真はさらに顔にモザイクをかけているのでより分かりにくくなっていますが)。

また、それぞれの会議室からの音はマイクで拾うことができるので、これまた隣でなにを喋っているのかはよく分からないけど盛り上がっているかどうかぐらいは伝わってきます。

このように、隣のグループの様子がはっきりは分からないが雰囲気は伝わってくるという、同室でのグループ別ディスカッションでは自然に発生する状況を擬似的に再現することができます。

どの映像がどの会議室のものなのか、パッと見で分かりやすくなるよう、各カメラの正面にはその辺に転がっていた目印を置いてあります。

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(余談ながら、各会議室はそれぞれ「ゼーレ1〜3」と名前をつけています。理由は自明なので省略)

これを使って研究室ゼミの時間に試験的に、3グループに分かれてのディスカッションをやってみたところ、以下のような意見が出てきました。

  • 他のグループで楽しそうに話をしているかどうかは分かる
  • 何を喋っているかはまったく分からないので、聞こうと思ったときにはもう少し明瞭に聞こえた方がよい
  • 実験室の様子が見えるのはちょっと嬉しい

また、実際にやってみると音量調節にコツがいることがわかりました。下手に音量を大きくすると議論が混線してしまいますし、ハウリングの原因にもなりかねません。かといって小さいと漏れ伝わり方が弱まります。本気でやるならこれを議論中に微調整していく必要があります。今回はすべてのマシンに VNC を入れておいたので、外からいじって調整はしていたのですが、グループディスカッションのたびにこれをやるのはなかなか面倒そうです。

今回はこんな感じで慌ててアナログハックでお茶を濁しましたが、本気でこれを実装すれば、グループ間の情報の漏れはよりうまく制御できるでしょう。(クライアント側でそれをやると通信量の問題が生じそうなので、サーバー側でなんとかしてくれると有り難い)

応用としては、オンライン飲み会なんかには向いていそうです。

本システムで採用した、カメラでディスプレイを映せば自然に解像度や画質が低下していい感じにぼんやりさせられるという発想は、下記研究を参考にしました。

  • 高田敏弘, 原田康徳「引用可能なビデオメッセージ~時空間を超える会議システム~」インタラクティブシステムとソフトウェアⅥ (WISS’98 論文集), 近代科学社 (1998)