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ふろむ京都・播州山麓

京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

能登の震災と原発

2024-01-28 | Weblog

 甚大な被害を受けた能登地震。被災者と関係者、そして活動が始まったボランティアの皆さまにエールを送ります。
 ところで能登半島にも原子力発電所があります。立地は半島西南部の志賀町(しかまち)。北陸電力志賀原発。運転停止中でもあり、幸い大事故には至らなかった。しかし問題は多いという。
 震度でみても<7>とされているのが、震源地の珠洲市と、遠く離れた志賀町。そして遅い発表で1月25日は輪島も<7>に追加された。震度<7>はこの三か所である。
 津波は志賀町で5.1mが観測された(京大防災研調べ)。同町での隆起は2.5mが確認されている。国土地理院の解析では、珠洲市から輪島市、志賀町にかけて、沿岸部の海底が総延長約85キロにわたって隆起して陸地になっている。連動した活断層は、能登半島北側から南西に伸びる150キロ程度。大きな地殻変動を起こしたのは震源より遠い、半島西部という。志賀町の近辺である。
原発敷地内の断層は10本ある。敷地内では、地面に35㎝の段差ができたそうだ。

 さて、門外漢のわたしでは今回の大災について考察を述べることは困難です。識者の発表をダイジェストで紹介します。

 日本海側は活断層の密集地域で、原発について、長期評価や強振動評価を行う必要がある。(東北大災害科学国際研・地震学/遠田晋次教授)

 周辺には多くの断層がある。どれかが動けば、影響を受ける可能性は高い。北陸電力は不適切な場所に原発を建ててしまったことを認めて、廃炉にするべきだ。(原子力資料情報室・上沢千尋)

 地震で設備のあちこちに破損があり、弱っている。もう一度大きな余震があった場合に、設備がそれに耐えられるか。(元原子力委員会委員長代理・原子力工学/長崎大鈴木達治郎教授)

 志賀原発建設以前に、建設が計画されていたのが、珠洲原発である。住民による根強い反対運動で中止になったが、もし建設していたら大変なことになっていたと思う。(金沢大・五十嵐正博名誉教授)

 原発拡大政策は、後は野となれ山となれ、これを文字通りに行うことに他ならない。放射性廃棄物の処分は、国内ではまったく不可能。そして原子力発電推進の愚行は、地殻変動が多い日本列島では最初から無理だったのだ。(五月書房刊『原発と日本列島』)・地質学者土井和巳著)

                                                                         2024年1月28日 南浦邦仁
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サンタさんと池田大作氏

2023-12-01 | Weblog
「サンタ・クロースさん」
 師走です。早速12月1日にクリスマスの話を聞きました。講師は小栗栖健治先生。ご専門は、日本史学・民俗学/播磨学研究所所長。

 サンタ・クロースのモデルは、セント・ニコラスだったというのが定説になっているそうです。聖ニコラス、あるいはニコラウス。オランダ語読みでずばり「サンタ・クロース」。4世紀の小アジア、ミュラで人気だった実在の司教らしい。
 <子どもたちに贈り物をするので大変な人気者だった>(以下<括弧>は小栗栖文引用)
 かつて毎年12月にミュラの町で、子供たちに人気を博したニコラスは、<冠をかぶり、長いコートを着て、杖を片手にロバに乗り、ひげのある顔で人々の前に現れた。>
 サンタさんは、ロバの背中に<ご褒美の袋、手には鞭を持っていました。よい子にはご褒美を、悪い子には鞭が与えられた。>

 サンタさんの乗り物は、トナカイではなくロバだったのですね。読者は「ロバのパン」をご存じでしょうか? 昭和30年代をピークに、国内各地で活躍したロバ・馬での移動販売のパン屋「ロバのパン屋」さんでした。現在でも数店が活躍していますが、どれもロバではなく、販売用自動車を利用されています。さすがに現代では、ロバや小型馬での行商は、困難でしょう。

 それから日本の正月行事と、比較してみましょう。<悪い子を懲らしめる秋田県の「なまはげ」は鬼の面をつけ、藁の着物を着て「悪い子はいないか」と村の中を練り歩きます。播磨で行われている鬼追いの鬼もこの仲間で、淡路島のヤマドッサンもやはりこの仲間になります。>


「池田大作氏」
 まったく異なる話ですが、日本の宗教者をみてみよう。「週刊新潮」23年12月7日号、最新版が故人・池田大作創価学会名誉会長を特集している。
 サンタ・クロースと並べるのは奇異にも思えるが、同じ宗教者として共通する面を強く感じるのは、筆者だけであろうか。

 元創価学会員のタレントで西東京市議の、長井秀和氏(53)はこう語っている。
 当時創価小学校低学年だったが<池田先生はしょっちゅう小平市の創価学園に来ていたんです。運動会などのイベントに来ては簡単な挨拶をする。下校しようとすると、“いま、先生が来校しています”とのアナウンスが流れることがある。職員室に行くと池田先生がいて「“おかあさんによろしくね”『走れメロス』とか読んで勉強しなさいよ」と、3千円のお小遣いをくれるんですよ。嬉しくて仕方なかった。今日は池田先生が来そうだなという予感ががあると、僕は下校しないで学校でお待ちしていました。>
 わたしには、セント・ニコラスの像と二重重ねになってしまいます。
 また元公明党参院議員の福本潤一氏(74)は大学生の時、池田会長が集会に来て、<この中に親のない子はいるか?」と。手を挙げた学生に2千円を渡し…>

 しかし、サンタさんもそうだったが、プレゼントだけを持ってやって来るのではない。
片手には鞭も握られていた。きびしさも持ち合わせていた。

 池田氏は<学会について批判めいた意見を述べた幹部職員数人を名指しして“裏切り者!”とつるし上げたことです。千人以上いる前で、“〇〇”お前はこんなことを言っていたな“と鬼の形相で怒鳴り、罵った。叱られた方は直立し、恐怖で震え上がっていましたよ。>

 大人物のご両人を並べ立てることに、わたし自身あきれかえり、不謹慎とも心底思っておりますが、偉大なる宗教者の二面性を考えるための、一助にでもなればと感じています。 <2023年12月1日 南浦邦仁>
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若冲 略年譜

2017-09-06 | Weblog
 半年間も更新せず、ブログのことをほとんど忘れかけておりました。
ところが間もなく、9月10日が到来します。伊藤若冲の命日。伏見深草の石峰寺では恒例の「若冲忌」が催されます。
本来は、若冲年譜を5回分割で連載し、とっくに「若冲の謎」を終えているはずでした。反省しきりです。

 若冲忌の後、10日の昼食会では大阪から来られるグループのみなさんに、簡略版で若冲の生涯を話すことになりました。
話しが苦手で、赤面のいたりなのですが、彼が還暦の前に、なぜ相国寺を離れ、萬福寺と黄檗の寺・石峰寺に身命をそそいだのか?
錦市場事件を中心に、概略だけでもお伝えできれば、と思ったりしております。
 以下は、当日の説明用資料です。読んでいただければ説明など不要かもしれませんが・・・。

 なお「若冲忌」は、石峰寺で10日10時半からの開催です。詳細は石峰寺のホームページをご覧ください。
たくさんの皆さまのご来臨をお待ち申し上げております。



<伊藤若冲の生涯 略年表>  月日は旧暦・数え年齢
   
1716年 正徳6年2月8日 京 錦通の大店青物商「桝屋」、伊藤家の長男に生まれる。

1738年 元文3年9月29日 父三代伊藤源左衛門が逝去。42歳。若冲は若干23歳にして桝源(桝屋の通称)の当主、四代伊藤源左衛門を継ぐ。

1752年 宝暦2年1月 37歳 
 作品にはじめての雅号「若冲」が確認される。この名は、32歳から36歳の間に命名された。市井の文人僧「売茶翁」と、後に若冲の親友になる相国寺「大典」和尚とのつながりからつけられた。字「若冲」は老子「大盈若冲其用不窮」からとった。「本当に満ちて充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
 なお「若冲」名の直前に、誤って「若中」印を使用した形跡がある。

1755年 宝暦5年1月 若冲は40歳を機に桝屋家督を次弟の宗巌白歳に譲る。若冲は源左衛門から茂右衛門に改名した。

1766年 明和3年秋 51歳 最大傑作「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」、計33幅が相国寺に完納された。

1768年 明和5年3月 53歳 この年にはじめて刊行された『平安人物誌』において、若冲は応挙、大雅、蕪村らとともに、京を代表する画家と評価されている。

1771年 明和8年12月22日 56歳
 京都東町奉行所より突然、錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。錦市場での営業権は本来正当なものであるのか、返答書を求められたが、実はライバルである五条問屋市場の謀略であった。同月24日付の返答書に「高倉四条上ル丁/年寄/若冲」の署名が残っている。 

1772年 明和9年 57歳
 正月から錦での営業が禁止された。この年に若冲が語った言葉とされるのが、「市場は差し止められ、わたしは町年寄りとして末代まで汚名を残すことになる。また数千人の農民百姓町民たちが難儀している」。そして若冲は江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。幕府への直訴は自らの命を賭すことになるが、若冲は「どのようなことがあっても、わたしが責任をとる」、「関東に下って幕府に訴え出る覚悟がある」と決意を語っている。

1773年 安永2年 58歳 前年と同様、この年も錦市場での営業停止の処分が続いた。
 夏、若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服をあらためんことを乞う。よってすなわち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。なお古きを去り新しきを取るがごとし。ここに余命ずるに革を以てする所以なり。汝それこれを勉めよ。……」。「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
 伯珣偈頌全文を故加藤正俊和尚にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書」

1774年 安永3年 59歳
8月29日 東町奉行所がやっと、錦高倉青物市場四町の営業再開を認めた。ところで宇治の黄檗山萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持(明人)の選任には幕府が当たっていた。京五山の相国寺よりもむしろ、萬福寺こそ幕府との強い接点を当時もっていたとも考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願った可能性もあろう。また幕府に直訴するなら、伯珣から与えられた僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。
 また三年近い紛争の間、彼は画筆をとらなかったと思われる。錦市場再開決定のころ、久しぶりに描いた画作は傑作「猿猴摘桃図」だが、萬福寺の伯珣照浩が賛した。

1776年 安永5年 61歳(還暦)
10月23日 萬福寺20代住持の伯珣没。享年82歳。
若冲はこの年から石峰寺石仏群の造営を開始したと思われる。石峰寺は伏見深草、伏見稲荷のすぐ南に位置する黄檗山萬福寺の末寺。伯珣の師が同寺の開祖である。

1787年 天明7年 72歳
『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」

1788年 天明8年 73歳
1月28日 皆川淇園は円山応挙や呉月渓(呉春)らと連れ立って伏見に梅見に出かけた。途次、応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物。あいにく若冲は不在であった。
 皆川淇園は「梅渓紀行」に記す。「境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に遊戯神通と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなし」
 そして1月30日、応仁の乱以降で京都最大最悪の大火災、「天明の大火」が京街の八割以上を焼き尽くす。一町屋からの失火が原因といわれている。錦の屋敷を失った若冲は、石峰寺門前に終の棲家を構えた。

1800年 寛政12年 85歳
9月10日 石峰寺門前の庵で伊藤若冲没。享年85。石峰寺に土葬。

※還暦のころからはじめた石峰寺の石像群造営、そして観音堂建立など、莫大な建造費用の捻出のためにたくさんの作画製作。そして庶民からのいくばくかの喜捨への礼としても、85歳で亡くなるまでの25年間に膨大な絵画作品を、石峰寺門前の画室で書き続けた。
<2017年9月6日>




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若冲の謎 第13回 <年齢加算 後編>

2017-02-22 | Weblog
<歌川広重>

「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・歌川広重(1797~1858)は幕府定火消同心の安藤源右衛門の長男であった。父は下級武士で三十俵二人扶持という微禄。安藤家は代々、幕府の定火消役人をつとめる。
 広重十三歳の文化六年(1809)、彼は母をそして父を相ついで亡くした。やむなく年齢を四歳加算する。急ぎ元服を終え、家督を相続した。士分の家を守るための急な成人式、年齢加算であった。
 そして実年齢十五歳にして、幕臣のまま浮世絵師の歌川豊広に入門した。翌年にはその腕を認められ、十六歳で早くも歌川広重の名を許される。司馬江漢も十代、まったく同様に浮世絵師を経験している。ふたりはともに家計を支えるための売画、そして浮世絵画の修行であった。
 その後、広重は定火消の役を親戚の安藤仲次郎にゆずり、自身は画業に専念する。なお広重は歌川だが、本名から安藤広重ともよばれたようだ。
 ところで広重の没年齢は六十二歳だが、六十五歳と六十六歳説がある。これは十代にして、やむなく家督相続のために四歳を加算し、そのまま年齢をかさ上げした歳を引きずっていたためと思う。役人としての彼は、四歳加えた年齢を称さざるを得なかった。家督断絶を防ぐために少年が年齢を四歳も足す。年齢加算にはいろいろなケースがあるものだ。


 参考までに江戸火消の組織を記す。
 三組織があった。まず大名火消。なかでも加賀藩前田家の加賀火消と、播州赤穂浅野家の大名火消が有名である。赤穂義士の討ち入りの姿は火消装束だったそうだが、おそらく浅野家の誇るべき火消役の誇示、あるいは火消装束がために夜間に大路を自由に行進できたからであろうか。
 そして二つ目の組織が、いろは組。五十に近い組で有名な町火消である。江戸の華と呼ばれた。
 三番目が定火消(じょうびけし)。幕府直轄の火消組織である。広重のころ、定火消隊は江戸に十組あり、各組の長は旗本で五千石級。江戸城内の菊の間敷居外詰で、一万から二万石の城なし大名同等の待遇であった。火事出動のさいには、組の長の定火消役は銀筋星兜の火事頭巾と火事装束をつけて騎馬で駆けつけ、現場の床几に腰をかけた。
 各定火消役・組旗本の配下にあったのが、下級旗本の与力である。騎乗することが許された与力が、一組に六人ついた。その下に広重らの徒歩同心三十人がいる。同心は御家人で、旗本とちがって将軍お目見えも許されない。身分の低い下級武士である。幕臣とは名ばかりで、生活困窮者が多かった。
 定火消部隊の出動時、一隊の構成は、上番十人、下番五人、水番十人、残番十人、纏番十二人、玄蕃桶持ち六人、梯子番十六人、ポンプの竜吐水持ち八人、鳶口持ち十人、籠長持ち二人、用箱持ち一人、部屋頭三人、役割二人の合計九十四人。彼ら隊員は「臥煙」(がえん)と呼ばれたが、日勤常時だいたい百人くらい。定火消屋敷に詰める彼らは三交代制なので、一組で総定員約三百人の組織になる。江戸全体では十組計三千人以上。
 これらの臥煙たちを実質、直接指揮していたのは、薄給の広重ら御火消御役同心であった。一組に三十人所属した同心は、三十俵三人扶持から十五表二人扶持まであり六人いた上司旗本の定火消御役与力の八十俵高よりもずっと低かった。


<木喰行道上人>

 木彫仏で有名な木喰行道上人、明満仙人(1728~1810)は、遊行僧として北海道から九州薩摩まで巡った。そして各地にたくさんの微笑仏を残したが、彼は六十六歳のときに一気に十歳を加算し、それ以降ずっと十歳上の年齢を押し通す。そのため実享年は八十三歳だが、どの古記録にも九十三歳と記されている。
 木喰は六十六歳の年に念願の五智如来像を完成させたが、自らの名を「五行菩薩」に改名し年齢も十歳加算した。小島梯次氏は「大きな懸案事項を成し遂げた充実感の中での心機一転のために改名に連動して改年齢が行われたと思われる」


<狩野永岳>

 狩野永岳(1790~1867)は六十五歳のときに六十七歳と款記し、その後もずっと二歳の加算を通している。彼も改元とは無縁である。京から江戸に出向いた折り、天気晴朗のなかで不二の山を往復で二度拝んだからではないかとも言われているが、理由は不明である。
 狩野永岳は、幕末期に京を中心に活躍した画家。京狩野家第九代として、激動する幕末期に京狩野派を再興した人物である。生年寛政二年(1790)は、若冲没の十年前。亡くなったのは慶応三年一月二日、同一八六七年は明治改元の前年、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが非業の死をとげた動乱の同じ年である。
 永岳は朝廷禁裏、摂家九条家、東本願寺、紀州徳川家、譜代筆頭彦根伊井家、臨済や真言の本末寺などの御用絵師をつとめる。また近江長浜や飛騨高山などの豪商富農たちとも深い絆をもっていた。狩野派の絵描き集団、工房の連中を養うことは九代当主として、かなりの重荷であったろうと推察する。

  永岳は、慶応三年(1867)正月二日に没した。享年七十八歳であった。高木文恵氏によると、京狩野派の菩提寺は真宗大谷派の浄慶寺で、墓所は東山の泉涌寺の裏山にある。永岳の年齢については、ひとつの謎がある。六十四歳までは実年齢を称しているのに、六十五歳からは二歳加えた年齢を称していることである。年紀はないが、七十八歳で亡くなったはずなのに七十九歳と記す作品があり、京狩野派に伝わる資料では、永岳が八十歳まで存命したことになっている。これらはいずれも二歳加齢したためと考えられる。どのような理由からなのか、今後の検討を必要とする。(高木著『伝統と革新―京都画壇の華 狩野永岳―』)

 また脇坂淳氏は「狩野永岳の年齢加算問題」に記しておられる。
 狩野永岳の作品は今日、相当数が知られるようになり、彼の作品の中には制作時期を示す年紀、あるいは制作した時の年齢を記した作品が存在する。…一八五三年三月までは通年の数え年を表記し、翌年の一八五四年二月になると急に年齢を増す。永岳は六十四歳から新年を迎えると六十五歳になるのが普通であるが、[そのうえにニ歳を加算して]一気に六十七歳という年齢を標榜するのである。そして以降は年が変わるたびに六十七歳に一歳ずつを加えて八十歳の年に没する。実年齢は七十八歳であった。

 嘉永七年十一月二十七日、安政に改元された。しかし彼の年齢加算は、改元の九ヶ月も前である。また嘉永以降の改元は永楽没の慶応三年までに、安政、万延、文久、元治、慶応と五度もあった。しかし永岳の加齢は、嘉永六年から七年にかけての一年足らず間の、実年一歳プラス二歳のみで、度々の改元とは無縁である。両年加算の後、永岳はただ単に一歳をふつうに足しただけである。
 狩野家資料には「禁裏御内、狩野縫殿助(永岳)、八十歳」。ボストン美術館蔵「雪景山水図」には「金門(禁裏)畫史狩野永岳八十翁筆」とあるという。

 狩野永岳の近年発見された「郭子儀図」が興味深い。箱書きには自筆で「一百五十歳半翁」とある。百五十歳の半分、すなわち七十五歳である。七十五歳が長寿の大きな節目と考えられていたようだ。ところが箱に収められた「郭子儀図」には「七十有二」すなわち七十二歳の年齢書きである。箱に七十五歳と記したのは、作画の三年後だったのか。


<年齢加算のむすび>

 若冲の年齢書きは、七十五歳からはじまった。それ以前に年齢を記した作品はない。狩野永岳と同じ「一百五十歳半翁」の「七十五」であろうか。若冲も七十五歳にかなりのこだわりを持っていたことは確かであろう。

 七十三歳の正月晦日には、驚愕の天明の大火があった。京の市街地は焼き尽くされてしまった。彼は年齢を画に記すにあって、実年齢七十三歳時から開始したであろうが、あまりにも不幸であった天明の大火の七十三歳を嫌ったのではないか。
 昔は大きな不幸があると、家族や集落をあげて餅を搗き、いち早く年を越してしまうという歳違えの習俗があった。伊藤家だけではなく、たくさんの京のひとたちも歳違えを実行し、どん底のこの凶年をやり過ごしたのではないだろうか。
翌年の七十四歳について辻惟雄氏は、若冲は死に通ずる四を忌避したのではないかとされる。 
 実年齢七十五歳の夏、若冲は大病を患った。相国寺の記録では寛政二年六月、寺からの見舞いが若冲の自宅を訪れている。実年七十五歳の年、特に後半は大作を描くことは困難であったろう。七十三歳と七十四歳のときにも、「七十五歳画」は制作されたのではなかろうか。

 通説「還暦すぎては年はなし」は、確かのように思う。還暦を過ぎてしまえば、何歳からでも、数は好きなだけ加えてもよい。そのような習俗があったのではなかろうか。

 しかし改元ごとに一歳加算するという説には、納得しかねる。
 川上不白について岡田秀之氏は年齢書きのある遺墨を調査した結果、どの作も「実年齢に一歳加算しているだけで、不白が改元ごとに一歳ずつ加算したような事実は確認できなかった」としておられる。
 数え還暦の六十一歳までは正確に数えるが、それを過ぎれば年齢加算は個々人の勝手で、自由だったように思う。改元年に加算した人物は、いまだに誰ひとりも確認されていない。

 ところで上記のどの人物も江戸後期の生まれだ。そのころ画家文人や宗教者などには、還暦後の加算は特殊なことではなかったのではないだろうか。
生年は若冲1716年、川上不白1719年、木喰上人1728年、司馬江漢1747年、狩野永岳1790年、富岡鐵斎1837年など。紹介できた実例はこの程度だが、大悟散人も含め圧倒的に十八世紀の生まれが多い。
 これからもっとたくさんの人物の加算例が発見報告されることであろう。それらによっていつかは解明されるだろうが、年齢加算にはさまざまの個人の事情がありそうだ。若冲の年齢問題も、きっと近い内に解決し確定するという予感がある。
<2017年2月22日>


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若冲の謎 第12回 <年齢加算 前編>

2017-02-03 | Weblog
 若冲はいまだに謎の多い人物である。謎のひとつに年齢加算の難問がある。享年は数え年齢で八十五歳であった。ところが八十六、八十七とか八十八歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に最大三歳を加算している。

 狩野博幸氏は、還暦以降の改元に際してその都度一歳を加算したという「改元一歳加算説」をとなえておられる。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で、二歳か三歳を加算しているが、どうも改元ごとに一歳ずつを足したようだ。
「昔は還暦の後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。狩野氏のこの解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。

 若冲が還暦以降に迎えた改元は二度。安永から天明へ、天明から寛政へ、二回の改元であった。二度の改元では八十七歳止まりであり、三年上乗せの八十八歳には届かない。

 もうひとつの説を辻惟雄氏が提唱しておられる。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説である。六十五、七十五、八十五歳。この三度の一歳加算で享年は八十八歳になったとする。

 岡田秀之氏は「伊藤若冲の年齢加算について」(「國華」1408号)でより詳しく論じておられる。
 まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介する。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
 また文献史学からは平山敏次郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、史料からたくさんの例をあげている。
 耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人にはその死を知らせずに、あわててモチをつく。そして正月をいち早く迎え、一歳加齢してしまう。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
 また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に二度正月祝いをすれば年齢加算になってしまう。
 民俗学や文献史学にみえる「年違」(としたがえ)の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。

 さてつぎに歴史上の人物で、明らかに年齢を加算しているいくつかの例を、年代をかまわずランダムに紹介してみよう。


<富岡鐵斎と常煕興燄>

 画家の富岡鐵斎(1837~1924)は、大正十三年大晦日、数え八十九歳で亡くなった。後一日たてば元旦であり、目出度く卆寿九十歳を迎えるはずだった。ところが彼は生前にいち早く九十歳と年記している。実は八十九歳の夏ころに予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて九十歳にしていたのである。

 予祝では常煕興燄(じょうきこうえん/1582~1660)も同様である。彼は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物である。七十九歳の七月ころ、病のために起きることあたわず。九月早々、傘寿八十歳を予祝。九月二十九日に示寂。


<司馬江漢>

 司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に九歳を一気に加算している。そのため享年は七十二歳説と八十一歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱している。
 江漢の一気加算は文化五年(1809)、六十二歳になった正月である。その後、没年までこの九歳の下駄履き上げ底を通した。以降は毎年、ふつうに一歳ずつ加算している。実享年は七十二歳だが、彼が称した年齢では、没年は八十一歳であった。彼もまた改元加算には無縁だ。
 昔は数えで歳を数える。還暦は六十一歳。江漢は還暦を過ぎた直後、翌正月元旦に通常の一歳にプラス九歳も加齢した。「還暦過ぎれば年知らず」、どうもこの文言は正しいのかもしれない。ただ、改元ごとに一歳加算したという説には、まだ納得がいかない。

 江漢の人生をざっとみてみよう。画作はまず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様のようである。そして父を亡くした十代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして二十歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に並ぶほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれている。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためであった。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いている。
 その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、師友の平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始した。独自の油画も生み出す。
 蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献している。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名である。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。彼の兄貴分であった平賀源内のつながりであろう。
 文人としても多く書き残しているが、自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとであった。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、畸才であった。
 また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはある。

 さて司馬江漢の九歳加算について、成瀬不二雄氏が紹介する細野正信氏の二説がある。
 まず崎陽隠士輯『巷説集』(天明2年刊 元長崎県立図書館蔵)の記載。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうだ。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて話しを知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」
著者の崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる。

 そしてもうひとつの説は江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第二七)の「九年而大妙」に細野氏は注目された。
「顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました」
 『荘子』原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」
細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」

 いずれも説得力のある見解だ。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがある。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としているが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記している。江漢は、老荘思想と禅に親しんだ。
 彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとであった。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と自ら記している。
 幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようだ。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐、面壁九年という。
 江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのであろうか。


<鈴木春信>





 司馬江漢の画師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(~明和7年6月14日か15日 1770年)だが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物である。ただ司馬江漢のもうひとりの師であった平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信であった。当時、三人はみな非常に近い関係だったのである。
 春信の没年齢については、四十六歳、五十三歳、六十七歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。四十余にしてにわかに病死」
 享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では四十六歳没という説に落ち着いているそうだが、確たる根拠はなさそうだ。
 春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論ではないか。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるように思う。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がない。
 確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録である。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようだ。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかった。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれるが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまう。また享年の歳を記されてもその年齢は、加算や偽年かもしれない。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないようだ。
<2017年2月3日>

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若冲の謎 第11回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 後編>

2017-01-15 | Weblog
<聞中浄復>

 黄檗僧の聞中浄復(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(1758)、二十歳のときに相国寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は十四年もの長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
 ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(1771)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年明和九年のことではないかと思う。大典が聞中に苦言を呈した。
 同九年四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。聞中は開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。聞中三十三歳、大典五十四歳、若冲五十七歳の年である。
おそらくこの年、若冲と大典の間に大きな溝ができた。

 聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」

 若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみて、どのように感じたであろう。号泣したのではないか。
 ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。

 聞中の描いた「芦雁図」だが、はじめて発見されミホミュージアムで開催された「若冲ワンダーランド」展に出品された。実は、わたしが出品の手伝いをしただけに感慨深い。
 余談だが若冲画「亀図」の賛は、聞中が記している。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とある。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳であった。みな驚くほど長命だ。それともだれもかれも、年齢加算をしていたのだろうか。


<伯珣照浩>

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会ったのは、安永二年夏(1773)のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(1772)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中らの手引きで、若冲は伯珣に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯珣が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらう。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名「雪舟」について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動と静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。

 若冲も伯珣から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られた。一部を意訳してみよう。
 若冲が黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……黄檗賜紫八十翁伯珣書」
 これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。
 過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。

「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。偈頌は若冲の出家を意味している。

 そして「幼にして丹青を学び…絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されているが、この夏、若冲は五十八歳であった。彼が画を習い始めたのは、十歳になる前であったのであろうか。古来、子どもの習い事始めは六歳の六月六日からという風習がある。

 若冲が久しぶりに描いた「猿猴摘桃図」に伯珣の賛も得ている。安永三年(1774)、錦市場の事件が解決した八月二十九日の後の作画であろう。
 賛「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。彼が石峰寺門前に居を構え、亡くなった弟の妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。男児は若冲の孫のようでもある。

 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆(せんがい)禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯珣から出されたのではないかとわたしは想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(1772)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。

 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶(1648~1710)の開基であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。元慶の師、鉄眼は一切経、すなわち大蔵経の刻版完成で知られる。元慶の五百羅漢はすでに江戸で黄檗を知らしめた。師と弟子、ふたりともに不撓不屈の黄檗僧であった。
 伯珣が石像五百羅漢造営を、それも千呆禅師開創の石峰寺に望んだとしても不思議ではない。

 若冲は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁高遊外のように、晩年の彼も勧進のため、またささやかな清貧の暮しの糧のため、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺への勧進であった。
 彼は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。伯珣が与えた「革叟」という出家名は、錦市場事件が無事に解決したために、もう用いる必要がなくなったのであろう。若冲は出家し、この法名でもって幕府に直訴するつもりだったとわたしは考えている。だが無事を得て、革叟の名は大切に密封された。
 錦の事件については、別記後述の年譜を参照していただきたい(1771年~1774年)。また伏見義民事件(1785~1788)も年譜に記載したが、驚かざるを得ない。

 ところで黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧の月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2017年1月15日>
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若冲の謎 第10回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 前編>

2017-01-05 | Weblog
<宝蔵寺・相国寺・萬福寺・石峰寺>

 伊藤若冲は八十五年の生涯、三ヵ寺に深く関わった。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓がある。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはない。だがおそらく四十歳で隠居するまでは、彼もこの寺の信徒であったろうと思う。

 つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺だ。三十歳代なかば、売茶翁に出会い、翁の仲立ちで相国寺の大典和尚を知ったと、わたしは考えている。
 本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺である。
 しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相国寺と袂をわかち、絶縁してしまう。相国寺墓所には、若冲の墓もある。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいない。

 そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」である。
 還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、亡くなる八十五歳まで四半世紀を超える歳月を晩年の力すべてを注ぎ込んだ。
通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」であった。


<売茶翁再び>

 売茶翁は京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。しかし佛教の僧侶が物品を売った代金を生活の糧にすることは、戒律で禁じられていた。だが翁はかまわずに売りつづける。
 彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」

 十八世紀の京都、文化の百華が繚乱する。学術芸術はルネッサンスを迎えた。空に輝く綺羅星のごとく、たくさんの才能たちが輩出し、大活躍した。
文壇画壇のルネッサンスは、売茶翁の影響からはじまったとされる。だいぶ後のことだが、藤岡作太郎が著作『近世絵画史』で「画壇の旧風革新」と呼んだ時期である。多士済々、京都文化が光り輝いた活気あふれる文化豊穣の画期であった。売茶翁によって、この時代人は本当の自由を知り、文芸芸術が開花した。
 当時の京都は、非僧非俗の売茶翁を文化軸の中心に回転した。江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからであろう。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であった。早川聞多氏は「売茶翁といふ事件」と称しておられる。
 高橋博巳氏は「売茶翁の自由がなかったら、六如の詩にしろ大雅や若冲の絵にしろ、それらの創造の部分が変質していたのではないか」と記す。

 三十歳代のなかばころ、若冲は尊敬する売茶翁を通じて、相国寺の大典を知ったはずだ。そして若冲は菩提寺の宝蔵寺から離れ、大典を通じて相国寺と密接な関係を持つ。大典は、若冲にとって深い親交をもった無二の友であったろうと思う。相国寺との親密な関係は以降、二十年ほども続く。

 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁は延宝三年五月十六日(1675)、九州肥前の神崎郡蓮池に生まれた。幼名は菊泉。地元佐賀の龍津寺において禅師化霖道龍のもとで得度した。黄檗の道号は月海、法号を元昭、のちに高遊外(こうゆうがい)と名のる。売茶翁と呼ばれるのは、還暦のころに京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことである。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことだが彼は病をえ、一念発起した。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ」
 そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげむ。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都の鑑真和尚からはじまる律学まで修した。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートであった。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれている。
 ところが晩年、六十歳を前にして、久方ぶりに帰って来た肥前を去る。寺は法弟の大潮元皓にゆずり、京に向かった。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまう。彼は「三非道人」を自称する。非僧非道非儒だが、佛教でも道教でも儒教でもないとした。
 当時の宗教界は、いまと同様であろうか、堕落していた。六十一歳、数え年の当時は六十をひとつ過ぎた年が還暦である。この年ころ、彼は京で突然に茶舗をはじめた。そして天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしたが、もっぱら日々移動する。荷茶屋という。

 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判である。いやしい職業にはげむ売茶翁は、時代を代表する知識人であった。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だった。
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場や長梅雨の時期、何度も喰う米にもこと欠き生活は困窮した。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人、亀田窮楽は長梅雨のある日、岡崎村から双が岡の翁のあばら家へ、米を携え売茶翁を訪ねた。「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように想像したりもする。

 そして大典が二十九歳、翁七十三歳のとき、売茶翁の茶器・注子に若き和尚は「大盈若冲」云々の文字を記した。京の避暑地として有名な糺の森での余興であった。ちなみに、この注子はいまも残っているがこの年、若冲は三十二歳であった。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思う。しかし大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできない。

 宝暦十三年七月十六日(1763)、売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠した。鴨川の左岸ほとりの小庵、幻幻庵で没した。享年八十九。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流された。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうだ。いかにも売茶翁らしい己の始末であった。


  若冲画 売茶翁像



「大典和尚」

 若冲は三十歳代なかばから、大典和尚との親交を通して、相国寺と密接な関係にあった。期間はほぼ二十年におよぶ。それが六十歳を前にして、若冲は萬福寺に接近し、黄檗の石峰寺にその後、晩年を捧げ尽くす。相国寺を離れた理由のひとつは、大典を取り巻く周辺環境の変化でなかろうか。

 大典和尚の生涯をざっと見ておこう。大典は享保四年五月九日(1919)、近江神崎郡伊庭郷に生まれた。滋賀県の湖東、いまの東近江市能登川町伊庭。若冲の三歳年下であった。
 俗姓は今堀氏。字(あざな)は梅荘。諱(いみな)は顕常。大典と号し、また蕉中、北禅などとも号す。東湖、不生主人、淡海竺常ともいう。淡海は生国近江の琵琶湖のことである。幼名は大次郎。
 八歳のとき、黄檗山萬福寺の塔頭・華厳院にあずけられたが、兄弟子との不和がおきる。
 毎夜遅くまで勉学にはげむ大典だったが、兄弟子の瑞倪が隣室から「おい、まだ本を読んでいるのか」といった。
 大典は「いいえ、読んでいるのではなく、看(み)ているのです。」
よくあることだが、できのよい若者は、不出来な先輩からいじめられる。禅寺において、師匠なり兄弟子との不和は、ふたりの将来のために不幸であり致命的なことである。
 大典の父は不仲を知り、彼が十歳のときに萬福寺から、旧知の相国寺塔頭、慈雲院の独峯慈秀和尚のもとに移した。そして享保十四年三月(1729)、十歳のときに独峯和尚によって得度し、名を大次郎から顕常にあらためた。
 黄檗の詩僧・大潮和尚について文学を学ぶが、大潮は売茶翁の弟弟子である。また儒は宇野明霞・字士新の門で研鑽を積む。ちなみに大坂の片山北海も明霞の弟子である。北海を中心に結成された大坂の詩文社「混沌社」には、大坂文化のネットワーカー・木村蒹葭堂が有力なメンバーとして加わっていた。蒹葭堂は京でも売茶翁や大典、聞中、池大雅、そして若冲たちと交流があった。
 そして独峯和尚引退の後を受けて大典は慈雲院の住持となるが、独峯の死後、大典は師の三回忌を終えたのち、病と偽って相国寺を辞し京の郊外に閑居す。宝暦九年二月十二日(1759)、大典和四十一歳のときであった。そして十三年間、鷹峰、山端、華頂山下などに住まいして市井にまじり、詩作、文筆著述業に専念した。彼は佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の文人であり学僧であった。
 この年、三歳違いの若冲は四十四歳。時代を代表する学者で文人である僧大典が、なぜか寺を出、栄達を拒む。若冲はそのような彼を尊敬していた。また大典は若冲に画の天才を見抜きそのひとと才能を愛する。
 大典の蔭からの推挙で、鹿苑寺大書院の障壁画を描いたのは宝暦九年、大典が寺を出る年である。

 明和四年(1767)、相国寺は連環結制を営む。全国の雲水修行僧が同寺に参集することになった。本山は大典に帰山をうながすのだが、彼はなおも承諾しなかった。すでに四十九歳である。
 そして明和九年四月、再三の復帰要請を断ることもついにかなわず、大典は相国寺慈雲院に戻る。大典五十四歳、若冲五十七歳であった。
安永七年(1770)には幕府より朝鮮修文職に任ぜられた。翌年には相国寺第百十三世住持に、そして五山碩学にも推挙された。天明元年(1781)、以酊庵輪住の任にあたり対馬に着任。約三年間の任期をつとめる。そして天明八年の大火の後には寺復興のために全力を投入し、享和元年二月八日(1801)、若冲没の半年ほど後、友を追うように慈雲院で没した。
 大典の命日二月八日は、くしくも若冲が錦街で生まれた誕生日であった。

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若冲の謎 第9回 <天井画 後編>

2016-12-30 | Weblog
<湖南蕉門>

 かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年二月七日(1856)、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまったという。
 大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し、再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。『長等の櫻』に抄文が紹介されているが、参考までに全文を記載する。
  右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
  紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 清六作 外ニ 青磁香炉 
  天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
  春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
  再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
  翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
  同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
  義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/

 これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
 まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく、孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
 維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
 鶯のはつかしそうな初音かな

 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。俳名通六は「魚屋」の目片善六であり、鮮魚問屋と料亭を商っていた。魚屋は琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。強風の比良おろしのもと、冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一。彼の没後ではないか。

 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。2006年の堂修理の際に発見された。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(1859)のことであった。寄進者は魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
 いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。

 それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろうと思う。観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣ではないか。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六こと目方善六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けたのではないか。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。


<もうひとりの蝶夢>

 俳僧蝶夢のことは記したが、明治大正期に京都で活躍した同名の蝶夢が、もうひとりいる。小松宮が羅漢像を所望した旨の文書を紹介したが、同書で信徒総代に名を連ねた雨森菊太郎である。雨森家は代々、石峰寺の檀家である。彼は儒学者月洲岩垣六蔵の次男として、安政五年七月七日(1858)、義仲寺翁堂焼失の翌年に生まれた。後に雨森善四郎の養子となる。同家は近江国伊香郡の出であり、江戸前期の儒者・雨森芳洲の一族に繋がる。号は蝶夢。

 菊太郎は幼いころから、儒学を父親から学ぶ。その俊才が槇村正直京都府知事の目にとまり、抜擢を受けて城北中学校に通い、かたわら独逸学校で語学を習得する。新島襄とともに同志社を設立した創設者のひとり、山本覚馬について政治経済の要旨を修め、漢学を菊池三渓と石津潅園に学んだ。これらの修練・和独漢政経学が、その後の活躍の土壌になったと蝶夢本人は語っている。
 明治十年(1877)に京都府に出仕するが、六年後に致士退官する。そして十六年に日出新聞(京都新聞の前身)に、社長の浜岡光哲に乞われて入社した。その後、亡くなる大正九年(1920)まで、二十年近く社長を続ける。「京都第一の新聞」という市民の評価を在任中に得た功績は大きい。
 十八年には京都府会議員に当選。三十一年に衆議院議員当選のために府会を辞任するまで在任した。なお師の山本覚馬は、明治二年から十年まで京都府顧問をつとめている。そして二十二年の市制実施に伴い、雨森は市会議員に当選し、さらに市会議長を十一年もの長きに亘って続ける。
 彼はまた、請われて多数の会社の役員・社長の任を受け、京都政財界のリーダーと呼ばれた。さらには教育や美術工芸の振興のためにも尽力した。たくさんの学校の創設や運営にもかかわったが、なかでも京都府画学校、いまの京都市立芸術大学であるが、同校の基礎を築き発展に貢献した業績も大きい。二十二年の市制実施にともない市立になった画学校に、雨森は親友の市長・内貴甚三郎らとともに常設委員に任じられた。彼は没年まで、同校の評議員を続ける。明治二十二年、京都美術協会創立にも尽力した。また彼の書画鑑識の目が確かであったことも、同時代人には驚異であった。
 また忘れてはならないのが、社寺に対する擁護の活動であった。明治になって衰退した各寺と什宝を守り復興するために、蝶夢が取った行動は目を見張るものがある。彼がつとめた信徒総代は五社寺を越え、評議委員や社寺会役員も同数ほど、宗派に拘わらず社寺のために力を尽くした。

 明治初年、相国寺も疲弊した。禅宗各寺を支えたのは、将軍家や大名、武士階級、そして豪商や知識人などが主であった。それら階級の没落とともに、同寺も頽廃する。本山境内周囲にあった塔頭は廃寺になってしまった。明治二十二年(1889)、住持独園禅師の大英断で、相国寺は若冲の最大傑作「動植綵絵」三十幅を宮中に献納する。そして宮内省からは、金一万円が寺に下賜される。相国寺はこれを資金に、人手に渡らんとしていた周囲の廃寺跡を買い戻し、現在の寺域を保つことができた。
 相国寺では毎年九月十五日、いまも一山総出頭のもとに斗米庵若冲居士忌を修行している。そして各塔頭でも、朝課の回向に必ず斗米庵若冲居士の戒名を読み込んでいる。同寺においては若冲の業績は、その名とともに永遠である。

 「動植綵絵」斡旋には、北垣国道知事と土方久方宮内大臣の力があったといわれている。しかしふたり以外にも、陰で尽力したと思われる人物がいる。日本美術行政の第一人者の男爵九鬼隆一と、蝶夢雨森菊太郎である。蝶夢は当然、若冲と「動植綵絵」のことに精通していた。おそらく義仲寺を再建した、同じ号をもつ蝶夢和尚と翁堂の若冲天井画のことも、知っていたであろう。
 明治二十三年、『若冲画譜』が刊行される。信行寺の天井絵百六十八枚のうち、百画を選んで木版で摺った版彩色全四冊である。題字序は帝国博物館総長で、前年に美術雑誌『國華』を創刊した九鬼隆一。序の「國華」の太い字が躍る。なお精巧なカラー印刷技術のない当時、色刷りは版画によった。
 雨森は『若冲画譜』の後書き、跋文を書いている。「最近、京都の美術工芸が新時代に対応して改良が求められ、織工、陶工たちが古名画を争って利用適用し、新しい作品の資としているが、この若冲画譜は、画家のためばかりでなく、これら各種美術工芸家の模範となるであろう」。美術工芸の振興や教育に尽力した蝶夢の故事がしのばれる。
 跋文は長い漢文であるが一部、末尾原文を引く。なお[榮土]は墓の意、應真は羅漢、居士は若冲である。「余家先[榮土]在石峯寺正與居士塚及其所造應真像地相密邇則余於居士不為全無縁因者况余亦居常屬望美術之振興者乃此譜之成安得[受辛]而不一言於是乎跋/明治二十三年四月/蝶夢散史識」
 なおこの本は、明治四十二年に芸艸堂(うんそうどう)から再刊されたが、同社は初版の版木百枚すべてを所蔵し、現在も明治二十三年版「若冲木版花卉画」を摺っておられる。

 蝶夢雨森菊太郎没後、七回忌に追悼集『蝶夢居士』が刊行されたが、同書の序も九鬼隆一が書いている。ふたりは社寺保存、什宝調査等、連携協力していたのである。
 日本美術界の恩人、フェノロサの墓は大津市の園城寺・三井寺法明院にある。一周忌供養のために、美術振興を企図する絵画展が三井寺円満院で開かれた。明治四十二年のことであるが、発起人には九鬼隆一、岡倉覚三、高崎親章、益田孝、本山彦一などとともに、雨森菊太郎と親友の内貴甚三郎の名もある。なお高崎はそのころ大阪府知事だが、小松宮羅漢申請書を受け取った元京都府知事である。
 また円満院はかつて、近江の応挙寺として知られた祐常門主の門跡寺院だが、昭和四十年まで義仲寺は円満院の末寺であった。歴史の奇遇には、驚かされることが多い。

 雨森は大正九年五月四日(1920)に亡くなった。墓は石峰寺にある。羅漢たちと若冲の墓にはさまれた中間の位置、洛南と洛西を見晴るかす高台にある。まるで羅漢たちと若冲を見守るごとくである。雨森蝶夢が慕った俳人の四明翁(1849~1917)が石峰寺筆塚を読んだ句が印象深い。
  若沖の筆塚古りて萩芒(すすき)

 文末に際して、『荘子』の胡蝶がみたであろう百華の夢のことを思う。それは彼岸の花園のごとく、見事に美しい。
 <2016年12月30日>


 信行寺 天井画


※この稿を最初に書いたのは、もう10年ほども前のこと。萬福寺文華殿発行の年報『黄檗文華』(2007年126号)に「若冲逸話」と題して寄稿した。その後、若干は書き加えたが、ほぼ原文通りである。
 ところが最近になって、異説が出だした。石峰寺から東大路仁王門の信行寺に移った花卉図167枚と款記1枚、全168面の天井画がいつ移動したかという、新しい疑問である。これまでは明治初年に石峰寺が手放したというのが定説だったが。
 新説では「明治になってからではなく、幕末に石峰寺から信行寺に移ったようだ」。そのようにいわれだしたのは、2015年秋にはじめて信行寺天井画が公開されたのが機縁である。複数の専門家や当事者の声のみで、記されたものはまだないようだが、寄贈者の井上氏は過去帳によると、どうも維新以前に亡くなっているという。現在も檀家である井上家には、幕末に寄贈した記録があるらしい。
 詳細は一切不明だが、ぜひ調査の結果を公表していただきたいと思う。

 なお廃仏毀釈以前に石峰寺が手放した理由がわからないが、京を襲った大地震で観音堂が損壊したためということも考えられる。文政13年7月(天保元年 1830)、京都は大地震に揺れた。文政の地震は翌天保2年まで大きな余震が続く。
 この地震のことは、天保4年(1833)に石峰寺の若冲墓横に建立された筆塚にも記されている。「三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた」。この大地震で観音堂も大きな被害をうけたのであろうか。

 その後、安政年間の日本列島各地は大地震と大津波に相次いで襲われ、おびただしい数の国民が甚大な被害にあった。安政元年(嘉永7年 1854)6月にまず伊賀上野地震、同年11月4日には安政南海地震。その32時間後の5日には、安政東海地震が連動した。安政2年には江戸、3年には八戸、5年には飛越の大地震と続く。幕末安政は大地震津波の激動期でもあった。義仲寺翁堂に15枚の天井画がおさまったのは安政6年6月である。(12月30日 追記)
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若冲の謎 第8回 <天井画 前編>

2016-12-28 | Weblog
 伏見深草の石峰寺は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉(かき)図と款記(かんき)一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていた。しかし明治七年から九年の間のいつか、廃仏毀釈の嵐のなか、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したのである。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だった。

 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」(そさいずおしえはりびょうぶ)に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年(1798)夏、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた<畸>(き)を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。

 ところで「畸」なり「畸人」の語は当時、よく用いられたが、出典は『荘子』「第六大宗師篇」によるとされる。「子貢が曰く、敢て畸人を問ふ。曰く、畸人は人にして畸にして、しかして天にひとし」


<義仲寺と蝶夢>

 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺(ぎちゅうじ)に現存する。同寺の翁堂の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し、庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって芭蕉の遺体は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄(ゆうげん)の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな

 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は相国寺の東に位置する阿弥陀寺、帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)、六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵(とべいあん)と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升

 斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語』(ばいさおうげご/1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮楽が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。

 大正四年(1915)十一月十五日、鴎外森林太郎は、史伝『北条霞亭』(かてい)を書く前、霞亭の師・皆川淇園の墓に詣でた。「寺町通今出川上る阿弥陀寺なる皆川淇園の墓を訪ふ」。蝶夢和尚の墓も同地にある。なお森鴎外は史伝『北条霞亭』の新聞連載のはじまった大正六年、陸軍軍医総監を退き、帝室博物館総長に就任する。九鬼隆一がかつてつとめた任であった。
 ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話』(かっしやわ)の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
 霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈(おい)を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人の柏原瓦全と親友であった。

 蝶夢和尚も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。天明四年二月二十六日(1784)から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊(ばんこうけい)、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。句友だけでなく、交友の広い人物だった。
 また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。

 ところで江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛(みくまかてん)が天明八年春(1788)、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、かつて飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
 なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。『近世畸人伝』ともに両書は当時、大ベストセラーになった。名文である。


義仲寺 翁堂


<翁堂天井画>

 話しが脱線してしまったが、蝶夢和尚が再興した近江大津馬場、義仲寺の若冲花卉図の謎を考えてみよう。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。

 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青(ぐんじょう)が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(1860)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
<2016年12月28日>
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若冲の謎 第7回 <石峰寺五百羅漢 その4>

2016-12-19 | Weblog
<石亭画談>

 明治十七年(1884)、竹本正興石亭が『石亭画談』に書いている。
 近時伏見に遊び百丈山石峯寺に到り、親しく寺中をめぐるに、本堂の右、小高き所に一小楼門あり。漸次山にのぼるに、その石像、もっぱら五百羅漢に止らず。阿弥陀三尊観音地蔵釈迦誕生および涅槃、その他諸仏獣畜等、ことごとくこれを山間樹隙に点続し、配置の位置などにも工夫をなして東西南北に布列す。また若冲の墓あり。これは貫名海屋撰文の若冲の小伝である。すべて一奇観というべし。惜しいかな、これを保存するに意を用いるものなく、苔癬剥蝕(タイセンハクショク)あるいは破壊し、あるいは崖下に転落するものもあり。散失もまた疑いなきなり。寺に入り主僧と話す。主僧いわく、寺は資力に乏しく、これらを保存することが困難であると。ともにその荒廃につくを嘆いて別れる。
 寺では石像諸仏布列の図を版画にし、信者のためにこれを施している。山中精一後に書する所の詩、また載せて図上にあり。その詩にいう。「斗米先生画才有リ、雲ヲ被ヒ石ヲ刻ミ像ハ奇ナリ、峯頭活溌霊気ヲ発ス、五百ノ群ニ成リ羅漢来ル」。その図は実に若冲七十五歳の筆である。好事の士は、必ず寺に詣て石像をみてその奇なるを知るべし。

 なお石峰寺は竹本石亭が記した版画を二枚所蔵しておられる。一枚は複写だが、扁額に「遊戯神通」と明記されており、もう一枚は画はほとんど同じで、額に「遊戯」とのみ記されている。

 同寺はいまも、版画「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」を頒布している。現在使用している版木は大正七年(1918)、原摺画よりの再刻だが、大正四年の同寺火災で版木元版を焼失してしまったためである。門も扁額も描かれていない。
 参考までに、大正七年新版木・裏面の記載を紹介しておく。「寄附洛南深草里百丈山/石峰禪寺蔵版/為、亡兄宣東宗興居士/十七回忌居士菩提也/大正七年五月十九日/洛東五條袋町住/平野保三郎/敬白」

 さらに大正十五年には、秋山光男が京都の錦市場に出向き、当時は雑穀商を営んでいた橋本屋の主人、安井源六に取材している。若冲の伊藤家は幕末に衰退し、あとは親戚筋の安井家が同家の後を継ぎ、近くの宝蔵寺にある伊藤家の菩提も弔っていた。秋山著『若冲研究序説』によれば、安井家には「若冲下絵の版画横物、石峯寺五百羅漢図に長崎僧、桃中一の着賛したものがあった。その箱の底裏には米斗庵所蔵と書かれていた」。横物とは横長の画で、版画を軸装にしていたのであろうが、それらは失われてしまった。

 ただ現在の石峰寺版画には、余白がない。大正期に再刻した折、トリミングしてしまったのだろうか。画面に詩を彫りこむ余地がない。
そして明治二十二年刊の「絵画叢誌」にも五百羅漢の記述があるが、筆者は寺に来ることもせず、伝聞をもとに記述しているので割愛する。


  大正7年版「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」




<『京都府寺誌稿』>

 石峰寺の若冲五百羅漢について、もっとも詳しく正確な明治期の資料は『京都府寺誌稿』である。明治二十四年に北垣国道京都府知事の提唱により、府内の有名各寺に寺の来歴や什宝、原状などを報告させた資料をまとめた寺誌集である。石峰寺の原稿は、住持拙門和尚によって、二十四年か翌年に記されたものであろう。石峰寺が提出した文書のなかの「五百羅漢石像」項を意訳してみるが、やはり後山はかつて、釈尊一代記のパノラマであり、佛伝テーマパークとでも呼ぶべき、石像数は千体を超す壮大な光景であった。

 「長さは六尺八寸から二尺五寸ほど、現在おおよそ六百体あり。羅漢建立の年度は安永末年で寛政年間に竣成したという。当時石峰寺前所に閑居していた斗米庵伊藤若冲が画類を描き、石像を石川石をもって造った。石峰寺六世俊岳哲和尚が願主となり、そして第七世密山修和尚が洛中洛外、近隣の国郡にも出向いて、首に勧進の函箱を懸けて鉢を持ち、鐘を叩き“深草石峰寺五百羅漢建立”と、東奔西走し金銭米穀、有信の施物を仰ぎ、その喜捨浄財をもって星霜十余年を経過し、竣切したとのこと。一体の像でも、一人あるいは二人三人の寄附によって建立された石像群である」

 若冲の石像造営作善は、わずか数年にして当初の完成をみた。第一期五百羅漢完工を成し得たのには、密山和尚の勧進勧化、粉骨砕身の尽力が大きかったことが知られる。若冲が画を米一斗と交換していただけでは、これだけの短期間に事業を完遂することはできなかったであろう。第二期以降も、密山和尚の勧進業、民衆の喜捨、それらが合力されての十数年にわたる事業が完成された。
 また若冲の大作モザイク画「鳥獣花木図屏風」「樹花鳥獣図屏風」などは、石像山の造営資金を集めるために、若冲工房の総力を動員して制作されたのではないかと思う。画の升目描きには西陣織との関連が指摘されているが寛政十二年、相国寺主催の若冲四十九日法要に、西陣の富商・金田忠平衛とおぼしき人物が招かれている。金田がこの屏風制作に関わり、勧進に貢献したことも推測される。豪商たち、パトロンもかかわっていたであろう。

 深草石峰寺の拙門和尚によると、後山の若冲石像の配置は世尊在世中の逸事を形取り、第一画題は世尊の誕生。第二は世尊が王家嫡男である系統を捨てて入山。第三画題は、雪山(せっせん)での六年間におよぶ苦行を終え、山を降りての出山外道教化。第四は華厳教悦法。第五は般若浄土。第六は霊山會上。第七は祇園精舎二十五菩薩雍護。第八は法華教授。第九が涅槃。第十は塔所に至る。世尊に附帯表順させて羅漢を配置している。 
 それ故に諸佛や羅漢、そして鳥獣などを合わせて合計千体を超える。すべて石峰寺山上に羅列し、また山間渓谷に橋梁を架け、二十四橋を構え、実に壮厳に造り上げている。見る人すべてが驚嘆した。
 ちなみに塔所とは、石峰寺歴代住持の墓所である。いまも一般墓地とは離れ、西方の少し低い地に一角を占める。開山僧・千呆禅師の遺骨も埋葬されている。

 そして拙門和尚は語る。願主の俊岳和尚は寛政八年(1796)に、若冲居士は同十二年に、密山和尚は文化十二年(1815)に、おのおの物故してしまった。そして経ること百余年の今日に至り、破戒僧および奸僧のために石造物は散乱し、往時の盛観を失ってしまった。現今は十画題の内、誕生佛、霊山会上、涅槃、塔所の四所のみを残すのみになってしまった。六百余個が在しているが、四百個以上が売却され、三都や地方の有数の邸園に翫弄物として散在してしまったのである。

 ところで石峰寺が明治前期にこれほど凋落してしまった原因のひとつは、寺の大きな収入源であった伏見船から得ていた運上が、幕府の瓦解とともに失われたためである。伏見の港を中心とする伏見舟は、淀川船すなわち過書船同様に、淀川や宇治川に就航した人荷運搬船である。伏見船の運上益金は、正徳四年(1714)に伏見の郷士・坪井喜六益秋が、幕府から与えられた免許権利の一部を寺に寄進したものである。淀川通船のうち、小回り船三十艘の運上を寺門香燈の資として、坪井が永代寄附したことによる。また福建省から長崎に来航する支那船からの香燈金収入も、伏見船以上に大きかった。
 黒川創氏によると、幕末期の石峰寺収入は、まず支那船の香燈金が年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合わせて年四百両ちかい。

 明治初期、廃仏毀釈と上知令の嵐が、寺宝流失や堂の破却にも拍車をかけた。拙門和尚から破戒僧と名指された二代にわたる住職が、かつて俊岳と密山両和尚の勧進、若冲の奉仕や、たくさんの庶民の浄財喜捨でもって完成された石峰寺と石像らを、それこそ破壊してしまったのである。
 しかし、そのころに全国の宗教界を突如襲った激流を振り返ってみて、ふたりの和尚だけを責めるのは、あまりにも酷であるとも思う。



<『京都府紀伊郡誌』と『新撰京都名所圖會』>

 大正四年刊『京都府紀伊郡誌』によると、同年一月六日に石峰寺は火を発し焼燼してしまったが、残っている山門、小門ともに漢風に擬し形状は頗る奇巧である。後山には釈尊槃像(坐像六尺ばかり)を中央に安置し、周囲に十六羅漢、五百大弟の石像を置く。風餐雨食、彫鑽粗朴、わずかにその面目を認るのみ。
 その後、昭和の初年になって、拙門和尚の後を継いだ、第十六世龍門和尚が山を整備し、数少なくなっていた石像を、現在の配列に並べかえた。吉井勇がかつてみた若冲の羅漢たちは、現在われわれが目にする様子とほぼ同じである。
 ちなみに昭和三十八年刊『新撰京都名所圖會』では、石像群を九所に分けて記載している。釈迦誕生、来迎諸菩薩、出山釈迦、十八羅漢、説法場、羅漢座禅窟、托鉢修行、釈迦涅槃、賽の河原である。この分類は、石峰寺にて頒布している現在の寺案内冊子と同じである。


 若冲五百羅漢に興味ある方はぜひ、伏見深草の石峰寺を訪れてみてください。寺は伏見稲荷の南東、徒歩わずか十分たらずに位置しています。そして若冲の墓にも参拝に立ち寄りください。
 また石峰寺と若冲五百羅漢を守るための「石峰寺伊藤若冲顕彰会」(年会費三千円)への入会もおすすめします。同寺で年ニ回開催される若冲画展と、九月十日の若冲忌にも招待されます。

  どの駅からも徒歩10分以内です。



<2016年12月19日>
〇お知らせ:TVで「若冲特番」が放送されます。
  BS朝日 12月22日木曜 19時~21時 
  「いのちの不思議を見つめた絵師 若冲は生きている」
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若冲の謎 第6回 <石峰寺五百羅漢 その3>

2016-12-16 | Weblog
〇お知らせ:TVで「若冲特番」が放送されます。
  BS朝日 12月22日木曜 19時~21時 
  仮題「生命を見つめた絵師 若冲は生きている」



<遊戯神通>

 横井清著『中世民衆の生活文化』に、遊び・遊戯・遊戯神通について次のような記述がある。
 橋本峰雄氏によれば、日本人の遊びの精神の転変をつらぬいてその根本にあるものは、実に大乗遊戯(ゆげ)なのであり、それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」の語に表現されるような、仏教的な遊びの精神でありながら、容易に、人生すべて遊びであるという、自由とゆとりの精神として世俗化できるものだという。
 「遊戯三昧」は「思いを労せず無碍自在(むげじざい)に往来すること」、また「優游(ゆうゆう)自在なること」。そして類似の語「遊戯神通」は、「仏・菩薩が神通に遊んで人を化(か)し、以て自ら娯楽する」をいう。

 多田道太郎氏は、橋本峰雄氏の「神遊びから大乗遊戯まで」は、ヨーロッパと日本の世俗化の二つの道を示している。そしてこの二つの道は、橋本氏によれば、ともに大乗遊戯の精神にいたる可能性を今日もっているのである。

 『岩波仏教辞典』では、<遊戯>(ゆげ)は、仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれないことをいう。漢語の<遊戯>(ゆうぎ)については、『史記』荘子伝の用例で、何ものにも束縛されることのない自由な境地を意味しており、『荘子』逍遥遊に代表される<遊>の思想を踏まえたものであろう。その意味では、書画や文章をはじめ芸術における自由無碍の境地を称して用いられる<遊戯>は、仏語によるよりもさかのぼって『荘子』の<遊>の思想に系譜づけることができる。この項は福永光司氏の記述であろう。

 『梁塵秘抄』には「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」。「遊戯」は自由自在のようである。



  河治和香著 小説『遊戯神通 伊藤若冲』小学館 2016年刊 本体1650円



<天明の大火>

 皆川淇園や応挙たちが石峰寺を訪れたニ日後、応仁の乱以来の大災が京の都を襲う。天明の大火である。正月三十日未明、鴨川の東岸、四条大橋の南の宮川町団栗辻子(どんぐりのづし)新道角、某両替店より失火した。折りからの強風で、火は鴨川を越えて寺町四条近辺に飛び火する。それより三方北西南に広がり、二昼夜焼け続けた。禁裏御所、二条城はじめ三十七社、二百寺、町数千四百余、町家三万七千軒、罹災世帯六万五千余戸と、京の五分の四以上を焼き尽くした。
 この大火の記録は数多く残るが、例えば「東風小、大変、京洛中、不残大火、不残、未聞之事とも、筆紙難尽次第」。若冲の師友であった相国寺の大典和尚は幕府公務のために江戸に赴いていたが、三月三日に帰京し「燃亡する者、十が九、実に未曾有の大変異と謂ふ可し」。後に述べる俳僧、蝶夢和尚は「火災など申にては無之、応仁後の大変にて候」「宗長法師が紀行に、粟田口より見れば上下の家、むかし見し十が一も見えず」と手紙に書いている。

 当然だが、若冲も錦街の家屋敷を失った。それまで京都有数の青物問屋「枡源」の若隠居として、弟に商売を任せきり、自由気ままに絵ばかり描いていた暮らしも一変する。錦市場に二軒あった大きな屋敷を人に貸し、その家賃で生活していた若冲だが、収入も途絶える。また弟の八百屋業も危機に瀕したが、若冲は京を去り、知己を頼り大坂そして豊中の西福寺に仮寓する。七十三歳の年であった。石峰寺の石像造営の事業は当然、中断したであろう。


  「天明の大火」京市街の八割以上が消失してしまった。



「蕉斎筆記」

 天明の大火の五年後、石峰寺門前に居を構える若冲のことを、寛政五年(1793)に広島浅野藩の平賀白山が、大坂の奉時堂松本周助からの聞き伝えとして記している。
 今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後の山の中へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立している。それで斗米翁と落款を書いている。金銭だと、相場によらず一斗換算、銀六匁ずつを取る。すぐに石工の手に渡し、依頼者の好みの草画を一枚ずつ贈る。妹もありて、外へ嫁居していたが、後家となり、一人の子を連れて若冲と同居している。尼になっており心寂という。和歌を好み、石摺版画をこしらえて売っている。他人は若冲の妻なりという者もある。

 翌年の寛政六年、平賀白山は十月十八日に、はじめて石峰寺門前の若冲を訪ねる。「百丈山石峰寺へ参る。是には若冲居士門前に居住せり。しばらく咄をきゝぬ。ふすまに石摺のやうに蓮を書けり。面白き物好き也。五百羅漢を一見しぬ。是は山上に自然石を集め形り(ママ)に若冲彫付たり。段々迂回して道を作れり。其外涅槃像もあり。甚面白き事なり。又其山の入口に新に亭を建たり。是も若冲の物好き也。寺の左に若冲の古庵あり。庭もさびておもしろし。妹を眞寂尼といふて両人住居せり。」

 罹災の数年後には、若冲は後山の石像群造成の作業を再開していた。その費用捻出は、墨絵を相手の希望にあわせて描き、米一斗あるいは銭六匁と交換することであったという。衆生の作善であろう。この時、白山は若冲に詩を贈っているが、「本来無二畫禅師」と記している。畫禅師という言葉には後で触れる。
 それと興味深い記載がある。旧庵である。大火の後に、門前に居を構える前、寺の左、すなわち北隣の地に、アトリエを兼ねた小さな住居があったのだろう。後に観音堂が建つ場所辺である。

<画乗要略>

 そして三十年ほど後、天保二年(1831)に刊行された『画乗要略』では、「しかるに形似に務めず、写意を貴しとする。居を深草石峰寺のかたわらに構え晩閑す。その画をもって一斗米に換え、よって自ら斗米庵と号す。石像五百羅漢を造り、その像をいま見るに、往々その自然にしたがい、彫琢を加えず。また似に務めず」とある。

<筆形石碑>

 天保四年(1833)、石峰寺に若冲の遺言という筆塚が立てられた。文政十三年(天保元年)に京都に大地震が起き、石像群も被害を受けた。多くは倒れ、崖から転落するものもあった。そして震災の三年後に、筆塚が若冲の墓のすぐ横に据えられたのであるが、謎が多い。幕末三筆のひとり、貫名海屋(ぬきなかいおく)の碑文、筆形石碑銘撰の一部を意訳する。
 「その心霊、その腕の妙は、仙爪の所に至る。ついに仏経中の諸変相を描き出し、よって宇宙の秘を開き発した。幻の技はここまでに至った。…遺言によって墓を筆形に造り銘を記す。いまも居士のなつかしさを忘れることが出来ない。悲しいかな。三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた。そして私をして、それらの由を墓表に記させた。居士には孫があるのである。貫名海屋撰」

 若冲は妻を娶らなかった。子も孫もいなかったはずだ。しかし白山は、清房を若冲の孫と断じている。筆塚の銘原文なり草稿は、清房が記したに違いない。
しかし宝蔵寺過去帳から、清房は若冲の次弟である白歳の孫とされている。平賀白山が若冲は、妹らしき尼と一人の男児と同居していると記していたその子ではないかと推測する。筆塚建立の天保四年、清房は四十三歳。平賀白山が石峰寺に若冲を訪れたのは、清房四歳のときである。

 しかし若冲の立派な墓は既にあった。なぜ遺言として彼の没後三十三年も経ってから、それも筆形にして再度、清房は墓横に建てる必要があったのだろうか。
 ひとつには三十三回忌であろう。かつて「動植綵絵」の相国寺献納を終えたのも、ちょうど若冲の父の三十三回忌に合わせている。また絵は総数三十三枚であるが、観音三十三身、観音霊場三十三所にも、ちなむのであろうか。若冲は、三十三という数字にこだわった。
 真寂と清房のことと、筆塚のことは、いまだに謎である。

<2016年12月16日>
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若冲の謎 第5回 <石峰寺五百羅漢 その2>

2016-12-13 | Weblog
〇お知らせ:TVで「若冲特番」が放送されます。
  BS朝日 12月22日木曜 19時~21時 
  仮題「生命を見つめた絵師 若冲は生きている」


<『都名所圖會』再板版>

 さてここからは、石峰寺の五百羅漢が造られてからの記述を、時系列で追ってみよう。初出は天明六年(1786)に刊行された『都名所圖會』再刻版である。その六年前に発行された『都名所圖會』初版が、まず大ベストセラーになり、若干の変更を加えて後に再板再刻発行された。
 初版刊行時には、羅漢建造は進行中であった。そのため図にも本文にも羅漢の記載はない。ところが天明版再版では、「近年当百丈山には石像の五百羅漢を造立し霊鷲山のここにうつれ」と山上の図の余白に記され、羅漢が並んでいる。
 この記述は、意味のわかりにくい文だが、「近年、百丈山・石峰寺に石像五百羅漢が建立された。お釈迦様がかつて仏法を説いたところの霊鷲山(りょうじゅせん)よ。インド・天竺よりここに移り来たれ」という意味であろうか。
 本文の一部を現代語で紹介すると、「開山は黄檗の六世千呆(せんがい)和尚なり(退院の後この地に住す)。…また左右に聯あり、ともに千呆の筆なり。表門の額は即非の筆にして、高着眼と書す。」


   『都名所圖會』天明六年再刻版


 このページに、石峰寺の朱印がふたつ押されている『都名所圖會』再刻版を発見した。筆者が偶然、京都府立総合資料館でみつけた押印本『都名所圖會』再板全六卷だが、持ち主はかつてこの本を御朱印帳として利用し、京の各寺を巡っておられた。面白い発想だと思う。全冊に押された印を調べてみたが、寺社等の数は六十八、印判は百六十六個にのぼる。印章から推定するに、押印の時期は残念ながら江戸時代ではない。後世それも昭和十年ころの、巡礼行脚だったようだ。寺社以外にも、宇治橋の通圓茶屋、一条戻り橋の御餅屋山口五兵衛、方広寺大佛前の餅屋隅田屋の印まで押してある。相当の甘党だったのでしょう。ところでこの本は、傷みの少ない美本。持ち出すときには大切に扱い、自宅では仏壇に納めておられたのではないかと想像してしまった。


<『拾遺都名所圖會』>

 『都名所圖會』再刻版発行の翌年、天明七年(1787)には『拾遺都名所圖會』が刊行された。都名所図会がたいへんなベストセラーになったため、柳の下のドジョウを狙って、続編が出たわけである。このあたりの思惑は、現代の出版事情とかわらないようだ。以下本文を意訳する。なお本冊に図はない。
 「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
 安永年間は十年間であったので多分、安永五年(1776)であろうか。若冲六十一歳、還暦のころに制作を開始した。昔の年齢は数えなので、還暦は六十一歳である。
 そして天明のはじめ、六十六歳か六十七歳の時、おおよそ五年か六年ほどの歳月をかけて、第一期の造作を完了したと思われる。
 石峰寺の石像群は五百羅漢と呼ぶにふさわしくない。このことは何人もの先学が指摘しておられる。明治期以前には千体以上の石像が後山にあったのだが、それを五百羅漢と称した原因は、最初に若冲が完成させた初期石像群が、上記のごとく、五百体余であったからであろう。


<天明七年石峰寺図>

 石峰寺の五百羅漢についてのもうひとつの古い記述は、天明七年(一七八七)の小川多左衛門の書付である。石峰寺が所蔵する掛軸画「天明七年石峰寺図(仮称)」の裏面に貼られていた。「洛南深草石峰禅寺/有石佛五百羅漢/予命画師令寫祈置也/山科梅本寺主俊類和尚依需/為亡息悦堂祖閣居士/菩提喜捨正与者也」。子息の菩提を弔うために、画師に依頼して石峰寺の五百羅漢を描かせ、山科の梅本寺に寄進したものであるという。
 天明のはじめに釈迦牟尼を五百羅漢たちが取り囲む景観が完成した後、わずか五年か六年ほどにして、壮大な数え切れないほど多数の石像群が、後山を覆っている。この図はたぶん、将来計画を含んだ設計図を参考に、若冲工房の弟子のだれかが描いたのではないかと思う。もっと検討が必要だが、おそらくこの画に近い無数の石像群の景観が、石峰寺裏山に出来上がっていたであろう。
 ところで小川多左衛門という人物だが、代々多左衛門を名のる本屋である。屋号は小河屋、軒号は柳枝軒。黄檗僧の語録を数多く出版した。


<皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見>

 天明八年正月二十八日(1788)、当時の京を代表する儒学者・文人の皆川淇園が石峰寺を訪れた。伏見に住む門人の寅こと米谷金城と、誘い合わせた画家の仲選、すなわち円山応挙や呉月渓らと連れ立って伏見に梅見に出かけたのである。途次、応挙の案内で、深草の石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した。ところで呉月渓とは画家の呉春である。後に応挙の円山派をしのぐほどの評価を得、四条派と称される。
 なおこの日、若冲は不在であったが、淇園が釈若冲と記しているのが興味深い。淇園も応挙も、若冲を出家者・僧とみなしているのである。釈は釈迦の弟子であり出家僧をいう。皆川淇園著「梅渓紀行」の五百羅漢感想記の大略は、

 境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に「遊戯神通」と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなしと、淇園はいう。
 この原文は、これまであまり紹介されていない。参考までに紹介しよう。

 路左見一寺ヲ望石表有云、百丈山石峰禅寺、仲選云、此釈若冲造構ヲ成ス、山上ノ石羅漢、皆其レ手刻ヲ成ス、同行之ヲ聞ク、皆往観ヲ欲ス、乃寺ニ入リ、、大路ヲ距テ里許、石磴山門旗杆鐘楼略備ル、境静神清、堂後ノ小山、阪高一二丈、上ニ小竹門ヲ設、扁ノ云、遊戯神通、阪上ニ門ヲ過、門内小径、壑ヲ右ニシ山径ヲ左ニシ、山ニ沿テ屈曲升降八九轉、其間或ハ渓ニ架橋ヲ設、或嶺ヲ繞シ磴ヲ築ク而旁乃置ク石羅漢ヲ羅、或ハ三五、或七八、岩掩林ニ映、高下乱置、率皆高二三尺過不、皆其石質ノ天然ニ因テ、略ク彫工ヲ施、以テ之ヲ為、是以其殊形異ノ状怪ノ貌奇態、往往人意表ニ出、殆ト観者ヲシ為ニ倒絶ヲ令、最後一大臥石ヲ彫、涅槃像ヲ作、左右諸天菩薩、眉目態度、其略刻麁鑿之間、亦皆彷佛哭泣之姿ヲ見、其下獅虎牛馬羊犬兎鶏、大小或ハ倫不者有、然レモ造意之工、無人奇歓者令不、観尽キ則道己ニ於前阪門下ニ到、乃寺門ヲ出、途ヲ南頭ニ取、而復大路ニ就、(筆者による読み下し)

 この時には、釈尊が霊鷲山においてたくさんの衆生や羅漢を前に法を説く姿だけでなく、釈迦涅槃の像や複数の橋も完成していたことが知れる。獅子、虎、牛、馬、羊、犬、兎、鶏などの石像もたくさん並んでいた。


   円山応挙「雪松図屏風」天明六年(三井記念美術館蔵 国宝)


 ところで、小さな竹の門に「遊戯神通」の扁額があったという記述は興味深い。石峰寺に木版画「城南深草百丈山石像之図」複写がある。米斗翁七十五歳画の行年、藤汝鈞印、若冲居士の印まで揃っている。描かれた諸仏羅漢天女鳥獣たちは、表情豊かで実に楽しい。後山の入口に描かれた黄檗風の門には、「遊戯神通」の扁額が明瞭である。若冲下絵による木版画であろう。なお同寺には、図はほとんど同じだが、扁額「遊戯」の版画もある。
 明治十七年刊『石亭画談』では、この版画を紹介している。かなり後世まで、これらの扁額はあった可能性が高い。

「若冲ワンダーランド展」(MIHO MUSEUM 2009年)ではじめて公開された若冲筆の石峰寺「五百羅漢図」には、入口の門扁額に「遊戯」と記されている。画は京都国立博物館所蔵の若冲画「石峰寺図」(扁額は無地で白)によく似ており、制作年はともに同じ寛政元年(1789)とみられる。
「遊戯」の図には賛が記されている。大徳寺僧の大徹宗斗(1765~1828)が「般若大徹叟/額字応需/書之(花押)」と画の右下隅に小さくある。額字の「遊戯」は大徳寺四三〇世・大徹宗斗の書である。賛が書き込まれたのはだいぶ後、おそらく十九世紀はじめであろう。

 萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代・石峰寺開山の千呆(せんがい1636~1705)和尚の書があった。大坂の明楽寺蔵の図巻題字「遊戯神通」である。千呆の書「遊戯神通」を、石峰寺後山入口門の扁額に使用したのであろう。なお深草・石峰寺の創立は十八世紀早々である。

<2016年12月13日>
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若冲の謎 第4回 <石峰寺五百羅漢 その1>

2016-12-10 | Weblog
<吉井勇が愛した五百羅漢>
 
 深草伏見稲荷のすぐ南に黄檗の禅寺、百丈山石峰寺(せきほうじ)がある。江戸時代の画家、伊藤若冲が寛政十二年九月十日(1800)に没し土葬された墓と、三十三回忌に建てられた筆塚が、境内の見晴らしのいい一角にたたずんでいる。彼は晩年、亡くなる八十五歳の年まで三十年近い歳月、心血熱情をこの寺に注ぎ尽くした。
石峰寺は、若冲の遺作である石像五百羅漢で有名だ。かつて歌人の吉井勇は、若冲の五百羅漢をこよなく愛した。吉井の随筆「羅漢の夢」を引用する。

 うとうとしているとわたしは、ひとつの不思議な夢を見た。それはいかにも伏見の石峰寺の裏山らしい。どっちを向いても石の羅漢だらけで、目を閉じているもの、腕を組んでいるもの、口を開けているもの、寝ころんでいるもの、立っているもの、あぐらをかいているもの、首をかしげているもの、空を仰いでいるもの、うつむいているもの、このほかありとあらゆる形と顔つきとをした羅漢が、そこら一面に群がっていました。それが何かの拍子にいっせいにこっちを向いて、大きな声を立てて笑った、と思ったら夢が覚めました。
  羅漢図をうつらうつらに描くなり病めば心も寒きなるべし

 昭和十七年六月二十六日の夢だが同月五日、吉井は盲腸周囲炎のために京都大学病院に入院した。そして月なかばまで危篤におちいり、生死の境をさまよった。彼はこの夢を回復直後、洛東の病床でみた。小さな自分というものが、何か大きなもののなかに、楽しく融け込んでいく思いを体験したと語っている。

  『若冲 五百羅漢 石峰寺』 芸艸堂 2013年刊

 東京人の吉井がはじめて石峰寺を訪ねたのは、昭和十三年十一月、京の北白川に越してきた翌月、歌の友数人に案内されてのことであった。
「わたしの目を驚かしたのは、その落葉におおわれた丘のうえばかりでなく、すぐ近くの深い谷間にまで、累々として横たわっている、無数の石の羅漢像であった。わたしは遠く愛宕につづく西山に落ちかかっている秋の日を眺めながら、立ったり、倒れたり、坐つたりしている羅漢像を、この世を離れた仙境にでも来たような心持で、ひとつびとつ見て歩いた。」

 質の粗い石にごく稚拙な手法で彫ってあるので、長い年月の間に櫛風沐雨(しっぷうもくう)、磨ったり、欠け損じたり、あるいは苔が生えたり、土に埋もれてしまって、いまではもう原形をとどめないものも多い。吉井は、かえってその方が飄逸洒脱(ひょういつしゃだつ)な味があるという。
 そして、なかでも彼が最も親しみを感じたのは、悠然と坐って大きい腹を撫でるような格好で空をあおいでいる羅漢であった。
  みずからの命楽しむごとくにも 太腹羅漢空を仰げる

 なおこの石、白川石は京都東山・白川の山中でとれる石材だが、岩質のあらい、風化しやすい花崗岩である。若冲は、歳月とともに丸みを帯びる石を、あえて選んだのかもしれない。石や岩ですら、永遠不滅ではない。いつかは丸くなりそして砂にかえっていく。
 阪田良介住職に聞いたが、コケが大敵だそうだ。苔が石をすこしずつ砕いていくとのこと。防止するには、ピンセットで一本ずつコケを引き抜く。石像は五百体をこえるので、この作業には気が遠くなる。訓練をうけた多人数のボランティアが集まらなくてはできない業であろう。「あと二百年もしないうちに、石像はほぼすべてが、単なる石ころになってしまう」。和尚は話しておられた。

 ところで吉井勇が京都に住みついて、静かな晩年を送ることが出来るようになったのは、この太腹羅漢をみてから、人生というものに対する考えが変わったためではないだろうかという。ゆきずりの住居と思っていた京都に、ずっと長く住みつき、ここを終のすみかとするようになったのも、あるいは羅漢たちが、離してくれないからではないか。石峰寺の羅漢と何か因縁があるのではないかと、彼は記している。
 京都北白川に越して来、その翌月に羅漢たちにはじめて出会ってから二十二年の後、昭和三十五年十一月十九日寂。かつて羅漢の夢をみた、同じ京都大学病院の病床で息をひきとった。最後の言葉は「歌を……歌を……」。来迎の羅漢たちに、彼は話しかけたのではないだろうか。享年七十三。


<椿山荘の羅漢>

 東京の椿山荘にも若冲の石造羅漢像が、いまも十九体ある。江戸時代に京都深草でつくられた石像羅漢が、なぜ東京にあるのか。最初知ったとき、不思議だった。若冲の石像は江戸時代には、京都から流出していないはずである。外部に出たのは明治のはじめに違いない。
 椿山荘の羅漢は石峰寺と同じく、若冲の下絵にもとづき、あるいは素石に彼が線を墨で描き、石工によって彫られた石像である。大きさや姿形石質、伝承ともすべて一致する。

  椿山荘の羅漢たち

 ところで、これと関わりが推測される文書が、黄檗山萬福寺に残っている。若冲没後、ちょうど百年にあたる明治三十三年(1900)、京都府知事宛書状の控写しである。なお文書には関係者全員が自署捺印している。

羅漢献上之儀ニ付御願 
京都府下紀伊郡深草村石峰寺   
一當寺境内山上ニ有之石像五百羅漢之内数拾壱体
小松宮殿下御所望ニ付取調候処尤モ全体無之且大意ニ破摧シ當時維持困難ノ折柄幸ヒ
殿下御所望速ニ献上仕度依テ檀信徒及組寺法類等逐協議候処双方異儀無之仍而連署ヲ以テ上願仕候間何分ノ御指令相成度此段願上候也
明治三十三年六月廿八日
右石峰寺住職 阪田拙門 
右寺檀信徒総代
 石岡幸次郎 
 玉田安之助
 石田喜助
 雨森菊太郎
仝 京都府下上京區鞍馬口 閑臥菴住職 法類 辻無染
仝 京都府下紀伊郡堀内村海宝寺住職 組寺 荒木太觀
仝 郡仝村 聖恩寺住職 第十五區 黄檗宗務取締 林田翆巌
京都府知事高崎親章殿

 同日付けの似た文書がもう一通ある。要訳すると、石峰寺境内山上にある石造五百羅漢のうち、数十一体を小松宮彰仁親王がご所望につき献上したく、組寺、法類、檀信徒は協議し合意したので、連署をもってお願い申し上げる。ただこの文書には、破砕のため当寺は維持が困難である旨の文言はない。
 署名捺印は前記と同じで、阪田拙門、石岡幸次郎、玉田安之助、石田喜助、雨森菊太郎、辻無染、荒木太觀。記載事項に相違なしとして林田翠巌。宛名は黄檗宗管長堂頭大教正吉井虎林だ。
 当然、府知事は承諾したはずだ。宮様が所望し、関係するすべての寺が、檀信徒総代全員も同意している。ただ京都府に問い合わせたところ、受理された文書は現在見当たらないとのことだった。しかし間違いなく、羅漢石像数十体は宮家にもらわれていったはずである。

 さて椿山荘だが、明治期は維新の元勲・山縣有朋邸だった。その後、大正期に新興財閥の藤田組に譲られた敷地面積一万八千坪、広大豪壮な庭園邸宅である。藤田組の創業者は男爵藤田伝三郎、長州出身の政商。彼は明治十年(1877)の西南戦争で巨利を得、本拠が同じ大阪の住友家にも比肩する財閥を、一代で築いた英傑である。椿山荘は現在、藤田観光のホテルで、深い森に囲まれた都心の別天地として有名だ。
 小松宮は羅漢像を石峰寺から譲渡された後、三年ほどへた明治三十六年に亡くなった。その後、羅漢たちは山縣有朋の手に渡ったのでないか。そして藤田が引き継いだのだろう、と筆者は勝手に推測したのだが、実はそうではなさそうである。

 若冲の石像羅漢像を所望した小松宮彰仁親王について、略歴をみておこう。彼は親王家筆頭の伏見宮家邦家親王の第八子として、弘化三年(1846)に生まれた。安政五年(1858)に親王宣下、仁和寺門跡となる。幕末動乱のなか、慶応三年十二月(1867)に天皇より復飾を命ぜられ、環俗して嘉彰と称し議定に任じられた。翌慶応四年・明治元年には軍事総裁、ついで外国事務総裁、海陸軍務総督、兵部卿、会津征討総督。そして陸軍大将などをつとめる。
 明治十五年(1882)に小松宮に改称し、名を彰仁に改めた。日清戦争では参謀総長有栖川宮熾仁の薨去により、後任を命ぜられる。このふたりは、ともに維新と明治前半期の軍を象徴する宮であった。

 錦の御旗をひるがえした両宮の江戸進軍を歌にしたのが日本初の進軍歌「風流トコトンヤレ節」。宮サンとは、有栖川宮熾仁親王と小松宮彰仁親王、ふたりの宮である。歌は、長州藩士の品川弥次郎がつくったという。♪宮サン宮サン…オ馬ノ前デ、ヒラヒラスルノハナンジャイナ…アレハ朝敵征伐セヨトノ錦ノ御旗ジャ知ラナイカ…トコトンヤレナ。
 小松宮家本邸は、はじめ神田駿河台にあったが後に赤坂葵町に移る。そして宮は晩年に浅草区橋場に別邸を構える。京都別邸は丸太町通川端東入ル、現在は天理教河原町大教会になっている広大な土地にあった。最初この屋敷は桜木御殿と呼ばれ近衛家抱邸だったが、小松宮に譲られ、明治二十年代には山階宮家に移り、明治三十三年に天理教が購入している。
 宮がこの邸宅を手放したのはおそらく別邸「楽寿園」の建設のためであろうと思う。明治二十四年から翌年にかけて築造された静岡県三島市の楽寿園は、じつに広大な庭園、豪邸である。現在は三島市立公園になっている。
 しかし不思議だが、宮の本邸跡にも別邸跡にも一切、羅漢たちの痕跡がない。なお晩年、京都では旅館川田別邸などを常宿にしていたが、この旅館はいまはない。
 小松宮は明治三十六年二月十八日に没す。死因は過労が原因の脳充血発作であった。前年には体調不良をおして、英国皇帝戴冠式参列のために明治天皇の名代として渡航している。行年五十八歳、国葬で送られた。なお小松宮には子がなく、宮家は一代で絶えた。

ところで椿山荘だが、もとは上総国久留里藩黒田家の下屋敷だった。明治十一年(1878)に公爵山縣有朋が入手し、もとの地名「椿山」にちなんで椿山荘と名づける。なお彼の別邸は京都に無隣庵が新旧二庵あるが、いずれにも羅漢の痕跡は見当たらない。
 椿山荘は大正七年(1918)に、山縣から藤田組二代目の男爵藤田平太郎に譲られた。理由は、晩年を過ごすには広すぎるから。また丹精をこめて造りあげた名園を永久に保存してくれる人物として、同じ長州出身の故藤田伝三郎の長子、平太郎は適任であった。
 藤田平太郎の妻、富子は『椿山荘記』に記している。椿山荘にはかつて一休禅師の建立という開山堂があった。山城国相楽郡の薪寺から移築したものだが、「堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。」
 富子は伯爵芳川顯正の三女として明治十五年に生まれた。父顯正は幕末、伊藤俊輔、のちの伊藤博文に英語を教えたひとである。明治期には東京府知事、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを歴任。彼も長州閥に属したひとである。
 平太郎が富子と結婚したのは明治三十四年二月である。網島のふたりの新居は、日本郵船の大阪支店長だった吉川泰次郎の屋敷を、藤田伝三郎が明治十九年に購入し、まわりの地を買い足した広大な敷地であった。富子は結婚当初から網島の豪邸で暮らす。大阪網島は近松門左衛門『心中天の網島』で知られる。
 小松宮が羅漢を所望したのは明治三十三年だった。その翌年に結婚した富子は「羅漢は古くより大阪網島の庭園にありました」と記している。椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、宮とは別の経路を通じて、深草石峰寺から大阪網島をへて、大正年間に東京椿山荘へ移されたのであろう。
 それと、もと高麗橋通にあった藤田旧邸から網島に移った可能性も考えられる。また吉川泰次郎の庭に、明治十九年以前からあったのかもしれない。移動経路は不明だが、石峰寺から明治のはじめ、廃仏毀釈の時期に出たに違いない。江戸時代には、若冲石像が石峰寺から流出したという記録は一切ない。
 ちなみに網島の旧藤田本邸は現在、藤田観光太閤園、藤田美術館、大阪市長公館、藤田邸跡桜之宮公園などが並ぶ地である。なかでも藤田伝三郎が親子二代にわたって集めた美術品は、大阪空襲にも幸い耐え残ったが、質量ともに実に見事な逸品揃いである。昭和初年の金融恐慌時にいくらか売却され散失したが、それでも同家所蔵品は数千点、うち国宝重要文化財は五十点をこえる。それらを収蔵する財団法人藤田美術館の設立に尽力したのは富子と義妹の治子であった。昭和二十九年に開館した同館初代館長は、藤田富子がつとめた。

<2016年12月10日>

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若冲の謎 第3回 <若冲という名前 後編>

2016-12-05 | Weblog
<さまざまの名前>

 さて若冲は、いろいろな名をもっていた。まず春教である。伊藤若冲は二十代後半から町狩野の大岡春卜(1680~1763)について習ったと一般にいわれている。しかし師からもらった春教の落款のある作品は、まだ発見されていない。春教という名は本当にあったのかどうか、疑問が残る。
 若冲はもっと幼い子どものころ、十歳になる前から師匠について描画を習ったはずである。三十歳に近づいてからでは遅すぎる。このことは後述するが、青木左衛門言明が師であるという説もある。古来よりの風習で、京の子どもたちは習い事を、六歳の六月六日から始めるを常のこととした。
なお、両親からもらった幼名は不明である。

 若冲五十一歳のとき、大典はこう書いている。「若冲居士の名は汝鈞、字(あざな)は景和、平安(京都)の人なり。本姓は伊藤、あらためて藤氏となす。享保元年二月八日(1716)、錦街(錦市場)に生まれた。」
 なお享保元年は六月の改元なので、正しくは二月は正徳六年であろう。

 つぎに俗名をみると、若冲は二十三歳で父を亡くし、長男の若冲は稼業の大店・青物問屋「枡源」の四代目伊藤源左衛門を名のる。決して商売など好きではなかったはずの若冲だが、若い父を失いやむをえず名と家業を継いだ。
 そして四十歳にして、待望の隠居になることができた。商売は次弟に譲り、名を茂右衛門とあらため、画業に専心する。当然、弟の白歳が五代目源左衛門を名のった。ところで弟の号の白歳だが、家業の八百屋から野菜の白菜に引っ掛けたのだろうといわれている。また百歳から横棒の一を引いて、九十九歳は白歳になる。九十九はツクモともいうが、若冲の作とされる「付喪神図」(つくもがみず)もある。

 もうひとつ、彼には注目すべき名がある。出家名と断定してよい道名「革叟」(かくそう)だ。嵐山の故加藤正俊和尚が命名の軸をおもちで、ご自坊にて見せていただいたことがある。黄檗山萬福寺住持だった伯珣が若冲に与えた書である。一部を意訳してみる。
 「京の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々、錦街に居す。幼くして丹青(絵画)を学び、稼業をつがず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精妙を称される。平素、世のことに欲もなく足ることを知る。…絵事の業はすでになる。…よってすなわち命ずるに革叟をもってし、わたしの僧衣を脱いでこれを与える。かえりみるにそれ身を世俗より脱して、こころを禅道に留めよ。そして古きを去り、新しきを取るがごとし、ここにわたしが革をもってする所以である。汝よ、それ、これにつとめよ……」
 若冲五十八歳。「絵事に刻苦することほとんど五十年」。やはり幼時から絵事に励んだのであろう。
 相国寺と大典に距離をおき、黄檗の萬福寺そして深草の石峰寺に接近していったころの、彼の感動の一日であった。しかし不思議なことに、若冲は革叟の名を、一度も使った痕跡がない。この件も錦市場事件と合わせて後述する。

<売茶翁>

 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁(ばいさおう)をみてみよう。
 ちょうど還暦を迎えるころ、大秀才の学僧で文学僧、また儒教にも道教にも通じた翁は京で、突然に茶舗をはじめた。そして天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は桜の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしたが、もっぱら日々移動する。荷茶屋というそうだ。しかし僧侶が物品を売って生活費を得ることは、許されない行為であった。
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判であった。売茶翁は時代を代表する知識人であった。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だったのである。
 売茶翁はこういっている。わずかの学業学識をひけらかして、師匠だの宗匠などとみずから称すことなど、まことに恥ずかしい。
 また僧侶にたいしては、立派な僧衣をまとい、おのれは佛につかえる身、佛弟子などと上段にかまえ、理も知らぬ庶民に高額な布施を要求して生きる。わたしには、とてもできない。
 「春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、みずから茶具を担ひ至り、席を設けて客を待つ」
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場や梅雨の季節、何度も喰う米にもこと欠き生活は困窮した。しかし翁はそのような生活を良しとした。


   若冲居士印「売茶翁像」


 売茶翁は京洛のあちらこちらをうろつき、たくさんのひとたちと交わった高潔の非僧非俗、俗塵のなかの茶人である。「大盈若冲」云々と大典が書いた道具には、都人が何度も接していた。画業見習い中の錦の若旦那もしかりであろう。
 「貴きもいやしきも、身分はありません。茶代のあるなしも問いません。世のなかの物語など、楽しくのどやかに、みなでいたしましょう」と売茶翁はおだやかに語りかけた。そのようになごやかに庶民と話す、売茶翁は都名物のオジイサン、こころが透明で温かい、にこやかな人物だった。
 「茶銭は黄金百鎰より半文銭まで、くれ次第。ただで飲むも勝手。ただよりは負け申さず」。百鎰(いつ)とは、二千両のことという。一文は寛永通宝一枚、いまの一円つまり金銭の最小単位である。割りようがない。

 十八世紀の京都文化は、売茶翁を軸の中心に回転した。当時、江戸期最高の京文化が百華繚乱したのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからである。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であった。
 ところで、存命中の人物をほとんど画に描かなかった若冲だが、売茶翁の絵だけはたくさん残している。翁は若冲がこころより敬愛する人物であった。


<若中の出現>

 ところで驚いたことに、とんでもない若冲画が一般公開された。相国寺承天閣美術館で2007年に開催された「若冲展」に展示された「松樹群鶴図」一幅である。
 この展覧会のいちばんの目玉は、「動植綵絵」三十幅。美術館の入口は長蛇の列で、一時間や二時間の待機は当たり前の大混雑だった。わたしの友人など、あまりの人だかりにあきれ返り、観ずに帰ってしまった。
 「動植綵絵」や「鹿苑寺大書院障壁画」などは圧巻だったが、わたしにとっていちばん興味深く、また驚かされたのが「松樹群鶴図」であった。印章は「若中」。サンズイでもニスイでもない、ナカ「中」なのだ。この画は真筆で、印もだれかが勝手に押したのではなく、画家若冲が捺印したに違いない。「若冲展」図録の解説を抄録しよう。

 この作品はいまだに生硬な画風で款記「平安藤汝鈞製」とあります。字は細く頼りなげで、若冲初期作品にまま見られるこのアンバランスな款記から、若冲の作品のなかでもかなり早い時期に制作されたものと考えられます。
 どこの画を手本にしたかは不明ですが、おそらく朝鮮絵画を写したものでしょう。若冲はいつも対象物に接近して描くタイプの画家です。しかしこの画は遠くから俯瞰(ふかん)するという、彼にはない構図です。いまだ固有の画風を確立するに至っていない、若冲の発展途上の作品として貴重な例。また使用例がない白文方印<汝鈞字景和>と、朱文方印<若中>の二印を捺す。

 「若中」とは……。わたしは、たいへんなショックを受けた。『老子』からは、若冲や若沖、あるいは古字の若盅が生まれても、若中はありえない。
 ということは、彼は初期作品に「景和」「汝鈞」あるいは「女鈞」などの名を用い、おそらく同時期に「若中」の名をほんの一時使用した。そして後に「若冲」「若冲居士」へと変化していったのであろう。あまりにも唐突な「中」字の出現に、唖然としながら、そのように考えざるを得なくなってしまった。
 いずれにしろ、「若中」名をほんの短期間にしろ使ったのは、やはり彼が三十二歳から数年の間のいつかであったろう。

 そして宝暦七年(1757)、若冲は大作「動植綵絵」にこの年から着手したとみられる。第一作は「芍薬群蝶図」。<平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室>と記されている。若冲四十二歳。
 また同年には若冲画「売茶翁像」に売茶翁高遊外が賛をした。印章は「若冲」ではなく驚いたことに、またデタラメな同印「若中」であり「中」字使用の二例目である。この画は2009年にMIHO MUSEUMで開催された「若冲展」ではじめて公開された。
 当時の売茶翁は高齢と腰痛のため書に自信がなかった。誤字脱字を起こしては申し訳ないと、依頼主にはいつも賛を辞退していた。この時に売茶翁が賛を依頼する主に送った断りたいという手紙に「拙筆之儀ニ候ヘ者、書損或落字抔、有之候故、書キ直シ之不成物ハ、一向書不申候」
 しかし若冲はあえて誤印「若中」を捺すことによって、自分の印章もそうだが、間違いや失敗を恐れないようにと売茶翁を温かく励ましたのではないか。同じ姿のよく似た売茶翁像が多数現存しているが、賛に失敗しても代替の画があると、彼は何枚も翁に見せたのでなかろうか。
 『老子』を誤解して作ってしまった「若中」印をあえて再度、ほぼ十年ぶりに使用した若冲の翁へのこころ配りを感じるのは筆者だけか。
 
 かつて若冲が三十二歳か三十三歳かその翌年のころ、朝鮮画を模写した習作「松樹群鶴図」に誤印「若中」を押して、売茶翁に見せたことがあるはずだ。翁は笑ってこういったであろう。「大盈若冲を<中がからっぽのごとし>と、わたしはあなたに説明しましたが、雅号にするならば、若中より若冲がよろしかろう」。筆者はふたりの会話をまるで横で聞いていたかのように、いま光景として描ける。若中の名をそのように確信している。
 大典を知るのはその少しあと、売茶翁が和尚に「若中」の笑話を語ってからであろう。「若中」名は、三人の絆を築いた。そのようにわたしは考えている。

 大典は宝暦九年(1758)四十三歳のときまで相国寺慈雲庵に住まいした。売茶翁は寛保四年(1744)からほぼ十年間、相国寺林光院に寄寓した。若冲の名が確定した三十二歳から三十六歳の期間、売茶翁も大典も糺の森のすぐ西に位置する相国寺に居住していた。

 ところで若冲画「売茶翁像」だが、高遊外が賛を無事に書き終えて依頼主に送った手紙に、翁はつぎのように記している。「痛い腰をかがめて書きましたので、格好のよい字とはなりませんでした。字を抜かすことはありませんでしたが、もともとうまくない字です。今回はいっそううまくありませんでした…」。宝暦五年以降、売茶翁は腰痛に悩んでいた。
 なお翁賛の若冲画を受け取った人物は、ノーマン・ワデル氏によると泉州貝塚の文人武士である松波治部之進、別名を津田治部之進という。売茶翁をはじめ、京坂の文人たちと深い交流を持つ人物であった。

<2016年12月6日>
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若冲の謎  第2回  <若冲という名前 前編>

2016-12-03 | Weblog
 十八世紀後半の江戸時代、円山応挙らとともに京を代表する画家だった伊藤若冲の「若冲」とは、変わった名である。そしてこの名には、謎が多い。
 彼の墓はふたつある。伏見深草の石峰寺には土葬された墓、もうひとつは御所のすぐ北の相国寺墓地内。後者は寿蔵・生前墓であるが、墓表の字はともにまったく同じ。相国寺の大典和尚が記したもので、「斗米菴若沖居士墓」と彫られている。若「冲」はニスイのはずなのに、墓はサンズイだ。冲が沖とは、これいかに?
 石峰寺住職のご母堂の阪田育子氏から聞いたのだが、若冲の墓前に立ち止まった若い女性観光客たちが「ワカオキさんて、だれ?」。確かに、サンズイの墓表「若沖」では、そう読まれても仕方がない。近年でこそ、若冲も超有名人だが、ブーム以前には若冲を「じゃくちゅう」と読めるひとは決して多くはなかった。


<大盈若冲>

 「若冲」の字は、中国古典『老子』による。『老子』第四十五章には、
「大成若缺。其用不弊。大盈若冲。其用不窮。大直若屈。大巧若拙……。」
以下、福永光司編著『老子』に依る。
 大成は欠けたるが若(ごと)く、其の用弊(やぶ)れず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用窮(きわ)まらず。大直(たいちょく)は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(せつ)なるが若し。
 本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。本当に満ち充実しているものは、一見、無内容(からっぽ)に見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。真の意味で真っ直(す)ぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。

 冲字は、沖(チュウ)の俗字とされるが、沖は「盅」字の借字である。読みは同じくチュウである。
 サンズイの沖はチュウだが、「おき」と読み、海の沖とするのは日本の勝手である。本来の中国には、海の意味もオキの読みもない。
 冲も沖も盅とも同音で同意字であるが、意味は、むなしい、からっぽ、なにもない、ふかい、ふかくひろいなど。水のサンズイが付く中を、深く広い沖「おき」と読ませた最初の日本人がだれかはわからないが、彼の着想は当を得ている。字意を心得ての当て字である。
海のおきは、この国の古語であろう。沖(おき)は奥(おく)と同根で、万葉以前の時代、「奥」は「おき」とも発音されたという。空間的には遠い場所をいうそうだ。松浦佐用比売の意吉(おき)は海の奥(おく)のようだ。
 海原のおき(意吉)ゆく舟を帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 
 松浦佐用比売(まつらさよひめ) 『万葉集』八七四

 話がまた横道にそれてしまったが、老子の「大巧若拙」についてひとこと。鈴木大拙先生は名を、ここから採っておられる。若拙ではなく大拙とされたのだが、「大盈若冲」による若冲も、大冲でなかったのが面白い。ところで、大拙先生は名前の親である老子の子、義兄弟に当たる若冲のことをご存知であったかどうか、少し気になる。

 『老子』第四十五章が、若冲の名の出所であるが、『老子』そのものが混乱している。福永光司本は冲ニスイ。木村英一・武内義雄・金谷治・小川環樹各氏の本では、サンズイの沖と記されている。ニスイ冲は、福永・山室三良氏など、少数派である。
 『老子』の古いテキストには二系統がある。どちらも中国の古い本だが、「王弼(おうひつ)注本」と「河上公(かじょうこう)注本」の『老子道徳経』である。漢字ばかりの両書を一読したが、王弼はサンズイの沖、河上公はニスイの冲を載せる。どちらのテキストを底本に用いるかで、沖と冲がわかれるようだ。
 江戸時代の明和七年(1770)に、宇佐美本「王注老子道徳経」が江戸で刊行された。この本は日本における決定版になるのだが、若冲五十五歳、相国寺に「動植綵絵」三十幅を寄進した年である。なおサンズイ沖の寿蔵は明和三年に建てられている。宇佐見本は「王注」なのでサンズイのはずである。
 だが『老子』は、テキストに異同が多い。宇佐見本を使う訳者も、ニスイにしたりしておられる。わたしには正直なところ、よくわからない。若冲は作品にサンズイ「若沖」と署名したり、押印してもよかったのではなかろうか。大典はその通り、墓表にはサンズイ沖を記している。

 ところで、面白い本を見つけた。明徳出版社刊『馬王堆老子』である。湖南省長沙で、四十年ほど前に発掘された古墓で発見された、驚くべき『老子』絹本である。四十五章は欠字が多いが、「…盈如沖、其…」と書かれている。約二千二百年も昔にさかのぼる一級の本である。これだと若冲は「如沖」になってしまうが、意味は同じく「チュウなるがごとし」
 さらには、郭店楚墓は馬王堆より百年ほども古いそうだが、竹簡には「大盈若盅、其用不窮」。1997年の出土である。ごく最近に知ったので、あわてて追記挿入しておく。
 それらはジャクチュウかジョチュウか、ニョチュウになるのであろうか。盅も沖も冲も、読みはチュウで同じ意味である。


<若冲名の誕生>

 若冲の「冲」字のことは、いくらかわかってきた。もうひとつの謎はだれが命名したかという点である。
 定説のようになっているのが、若冲三十五歳の前後に、相国寺の大典和尚が名づけたという説だ。当然だが、『老子』からとった名であることはいうまでもない。ただ若冲には老荘に親しむような、教養はなかった。本人が老子本から選択したのではない。

 延享四年(1747)夏のこと、大典和尚が親交のあった尊敬する売茶翁高遊外の茶器「注子」(ちゅうす)に銘を記した。「去濁抱清。縦其灑落。大盈若冲。君子所酌」。糺の森でのこと。下鴨神社の糺の森は、京の納涼地として有名である。この年、数え年で大典二十九歳、売茶翁七十三歳。若冲は三十二歳だった。
若冲三十歳代のなかばころ、若冲と大典の交流がはじまり、そして名をもらい「若冲」が誕生したと、一般には認識されている。

 錦街の自宅画室で彼は一枚の画「松樹番鶏図」を仕上げた。宝暦二年の年記から若冲三十七歳。これが若冲名の確認されたはじめての作品である。
 完成した画を前に彼は、署名押印をまだ暗い早朝になした。昔の京、冬の底冷えはきびしい。彼はこう記した。「宝暦二年正月の明け方、寒いアトリエの京都錦街<独楽窩>において、凍った筆を息で吹き温めながら記す 若冲居士」と書いている。「独楽窩」(どくらくか)とは、ひとりで楽しむ穴蔵の意味。彼の画室は、錦市場の伊藤家土蔵のなかだったのかもしれない。
 若いころの若冲の字は、決して上手とはいえない。そのような自分の字を、言い訳ぽく表現したのであろうか。寒さで手が震えるなか、正月早々の款記、書初めだった。
 ということは、「若冲」という名は、前年までに決定していたと考えられる。款記は正月のおそらく元旦であるから、同年一月に確定したのではなく、前年三十六歳のときまでには、用いていたはずである。
<2016年12月3日>

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