礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

機関説を悪いと断言する必要はない(渡辺錠太郎)

2024-04-19 02:58:16 | コラムと名言

◎機関説を悪いと断言する必要はない(渡辺錠太郎)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その六回目。
本日、紹介するのは、「4.天皇・西園寺公望・渡辺錠太郎の天皇機関説」の章の「第3 渡辺錠太郎陸軍大将の天皇機関説」の節の全文である。

第3 渡辺錠太郎陸軍大将の天皇機関説
 渡辺大将は,軍に珍らしい学者であった.当時,内務省警保局長であった唐沢俊樹は,「渡辺を殺せ」という情報がひんぴんと入るので,渡辺大将に面会に行った.「私ははじめて会ってえらい人と思いましたね」,「ちっとも軍人くさいところかなかった」と.また,機関説担当検事であった戸沢重雄も「りっぱでしたね」と賞めている⑴.遂に渡辺大将は2.26事件で射殺された.その理由に,1.天皇機関説を正当していたこと,2.真崎〔甚三郎〕追放後の教育総監になったことか挙げ得る.
 渡辺大将は,昭和10年〔1935〕10月3日,天皇機関説排撃華やかな頃,名古屋の偕行社で,第3師団管下の部隊将校を集め,次のような旨の訓示をした.
 「機関説が不都合であるというのは,今や天下の輿論であって,万人無条件にこれをうけいれている.しかしながら機関説は明治43年〔1910〕ごろから問題で,当時,山県〔有朋〕元帥の副官であった渡辺はその事情を詳知している1人である.元帥は上杉〔慎吉〕博士の進言によって当時の憲法学者を集め研究を重ねた結果,これに対してきわめて慎重な態度をとられ,ついに今日におよんだのである.機関説という言葉が悪いという世論であるが,小生は悪いと断言する必要はないと思う.御勅諭の中に『朕ヲ頭首ト仰ギ』とおおせられている.頭首とは有機体の一機関である.天皇を機関とあおぎ奉ると思えば,なんの不都合もないではないか.天皇機関説排撃,国体明徴とあまり騒ぎまわることはよくない」⑵と.
 この訓示を聴いた青年将校は,これを印刷して全国の連隊に宣伝した.

 (1)宮沢俊義・前掲〔天皇機関説事件〕・644~5頁.
 (2)高橋正衛「2.26事件」〔中公新書、1965〕153~4頁.

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西園寺公望、シュタインから国家有機体説を学ぶ

2024-04-18 00:01:22 | コラムと名言

◎西園寺公望、シュタインから国家有機体説を学ぶ

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その六回目。
 本日、紹介するのは、「4.天皇・西園寺公望・渡辺錠太郎の天皇機関説」の章の「第2 西園寺公望の天皇機関説」の節の全文である。

第2 西園寺公望の天皇機関説
 西園寺公望は,天皇と等様に国家有機体説に拠り,国家法人説・天皇機関説に立ち,「自分は,陛下の御見識の頗る〈スコブル〉高いことにまことに感激し,また今日の情勢が陛下の御意見に頗る添わないことはかゆく思い」と,次の説を続けている(「西園寺公と政局」4巻〔岩波書店、1951〕237~9頁).
 私(西園寺)が,憲法取調の際,ヨーロッパで聴いたSteinの説では,「国家というものは体軀のようなもので,要するに天子は首,即ち元首であるというような話をしたが,なにもスタインばかりでなく,支那あたりでも元首とか,股肱〈ココウ〉旺ん〈サカン〉なる哉〈カナ〉という言葉なんかがあるじゃあないか」と,実に高遠な知識である.
 国家を元首股肱による有機体とみる国家法人説は,既に明治天皇が明治15年〔1882〕賜わった「軍人勅諭」に,「朕は汝等軍人の大元帥で,頭首であり,汝等軍人は股肱である」旨を述べ,下剋上的放伐革命回避の親縁を希求され,更に明治憲法第四条の立憲的元首天皇制を欽定されたのである.
 元首股肱説は.西園寺の指摘のように中国に発する.これは中国最古の経典「書経」(「尚書」虞書益稷)に見え,舜時代の説である.そこに,「股肱嘉哉,元首起哉,百工煕哉」、「元首明哉,股肱良哉,庶事康哉」,「元首叢脞哉,股肱惰哉,万事堕哉」と,元首股肱の関係を述べている.「史記」司馬相如伝,「漢書」司馬相如伝に「君明,臣良」に用いられ,「漢書」によれば歴代の皇帝の詔に「書経」の古文が引用され,「経諝,君為元首,臣為股肱,明其一体,相而成」(「漢書」魏相丙吉伝)と人体的国家有機体説が遺憾なく説かれている⑴.

 (1)拙稿「前漢までの革命論とその回避論」東海大学論叢・商経研究・21号〔1968年10月〕

 ここに出てくるスタイン(Stein)とは、オーストリアの公法学者ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein,1815-1890)のことである。
 1882年(明治15)、伊藤博文参議らの一行は、「憲法取調」のためヨーロッパを歴訪した。この一行には西園寺公望も加わっており、ウィーンでは、伊藤とともに、ローレンツ・フォン・シュタインの講義を聞いたという(ウィキペディア「西園寺公望」)。

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天皇は国家の元首云々は即ち機関なり(昭和天皇)

2024-04-17 03:46:05 | コラムと名言

◎天皇は国家の元首云々は即ち機関なり(昭和天皇)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その五回目。
本日、紹介するのは、「4.天皇・西園寺公望・渡辺錠太郎の天皇機関説」の章の「第1 天皇の天皇機関説」の節の全文である。

 4.天皇・西園寺公望・渡辺錠太郎の天皇機関説
第1 天皇の天皇機関説
 「天皇自身機関説に立っていた」と認められている⑴.それは天皇親ら〈ミズカラ〉「憲法第4条に天皇は国家の元首云々は,即ち機関なり,之が改正を要するとせば,憲法を改正せざるべからさることとなるべし.又伊藤〔博文〕の憲法義解には天皇は国家に臨御〈リンギョ〉し云々と説ありと仰せらる」(「本庄日記」3月20日).かく天皇は天皇即国家説を採らず,天皇機関説を認めらる.従って天皇を国の元首とする説悪いというなれば,憲法第4条の改正を要求することとなると仰せられ,「要するに,天皇を国家の生命を司る首脳と見,爾他のものを首脳の命ずる処によって行動する手足と看るは,美濃部等の云う根本観念と別に変りなく,敢て我国体に悖る〈モトル〉ものと考えられず,……若し主権は国家にあらずして君主にありとせば,専制政治の譏り〈ソシリ〉を招くに至るべく,又国際的条約,国際債務等の場合には困難な立場に陥るべし」と仰せられ,美濃部博士と同旨である.
 更に,天皇は「在郷軍人の機関説排撃パンフレット」につき憂慮あそばされ,御下問された.陛下は,「もし思想信念をもって科学を抑圧し去らんとするときは,世界の進歩は遅るべし,進化論のごときを覆えさぎるを得ざるが如きこととなるべし.さりとて思想信念はもとより必要なり.結局,思想と科学は平行して進むべきものと想う,と抑せらる」(「本庄日記」4月25日)と.天皇は,主観的な信念で科学,例へば客観的進化論を否定すべきでないと,当時の軍部や右翼の信念による学説否定を正しくないと所断されていたのであろう.

(1)利根川裕「私論・天皇機関説」〔学芸書林、1977〕27頁.

 本庄日記によれば、昭和天皇は「天皇機関説を改める場合には、帝国憲法を改正する必要がある」という見解を持っていたという。この鋭い憲法観は、刮目に値する。
 日本政府は、二度の國體明徴声明により、天皇機関説を、国家として否定したのである。しかし、帝国憲法第四条が改正されることはなかった。
 このことは何を意味するのか。――天皇機関説の否定により、帝国憲法が、事実上「改憲」された、あるいは「解釈改憲」がなされたことを意味するのではないか。
 当時、あるいは、その後において、そのような憲法観を表明した憲法学者、ないし知識人はいなかったのだろうか。この点、博雅のご教示が得られれば幸いである。

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排撃者には無抵抗主義で徹底した(成宮嘉造)

2024-04-16 05:40:54 | コラムと名言

◎排撃者には無抵抗主義で徹底した(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その四回目。
 本日、紹介するのは、「3.天皇機関説排撃の政治」の章の「第8 台湾の機関説排撃と私への処分」の節の全文である。

第8 台湾の機関説排撃と私への処分
 上述した私〔成宮〕に関する問題に呼応して台湾の右翼浪人某,その他は地方小新聞・雑誌・赤字手紙・総督府への措置要求等で,私の機関説排撃を再三再四,執拗に繰返した.だが,私は彼等は論争相手として不適当と断定し,全く無抵抗主義で徹底した.然し,私を告発する者はなく,大新聞には攻撃記事が全くなかったが,僅かに総督府から昭和10年晩秋に弁明書を求められた.私は仔細に弁明書を認めて提出したが,全然反響がなかった.
 私は貧乏なので,右翼浪人は私と懇親な同郷の宇治原志郎富豪にたかっていた.時に一度,警察から呼出を受けた.出頭すれは,全く意外.警察官は「貴方は右翼ゴロに脅迫されているだろう.そんな時は隣の電話で連絡ください.直ちに参上致しますから」と,好意的であった. 
 私は,翌年〔1936年〕3月末までに依願退職する旨を懇切な切田太郎〈キリタ・タロウ〉校長に表示していたし,排撃者に完全無抵抗主義であったのと小粒なので,次のような直接行動とは無縁であった.
 貴族院で美濃部博士の一身上の弁明に拍手した小野塚喜平次〈キヘイジ〉・伊沢多喜男〈イサワ・タキオ〉・織田萬〈オダ・ヨロズ〉・田中館愛橘〈タナカダテ・アイキツ〉につけられた警察護衛,美濃部支持者と見られて襲われた芦田均〈アシダ・ヒトシ〉,3月23日一木枢密院議長邸を襲うた菊地大八(当時21歳)やその教唆者・藤吉男(当時30歳),美濃部博士宅は警官多数で護衛されていたが10月30日暗殺予備で検挙された樋口敏雄(当時21歳)・翌年2月21日美濃部博士を狙撃した小田十壮(当時31歳)等のような心配は私にはなかった.

「美濃部博士を狙撃した小田十壮」とあるが、小田十壮は、美濃部達吉を狙撃していない。たしかに小田は、ピストルで美濃部を狙撃せんとした。しかし、その弾は美濃部に当たっていない。美濃部に当たった弾は、護衛の警官が犯人を撃とうとして放った弾だったらしい。当ブログ記事「美濃部達吉銃撃事件の真相」(2017・5・3)参照。

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江藤源九郎、美濃部達吉を不敬罪で告発

2024-04-15 02:09:51 | コラムと名言

◎江藤源九郎、美濃部達吉を不敬罪で告発

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その三回目。
 本日、紹介するのは、「3.天皇機関説排撃の政治」の章の「第7 機関説に対する行政処分と司法処分」の節の全文である。

第5 貴族院の建議と衆議院の決議並に国体明徴 【略】
第6 政府の国体明徴の声明 【略】

第7 機関説に対する行政処分と司法処分
 (1) 行政処分
 内務省は閣議を経て4月9日,美濃部博士の3著書―「逐条憲法精義」・「憲法撮要」・「日本憲法の基本主義」―を発禁,2著書を改版処分とし,美濃部博士以外の著書は特に問題にしない.文部拓務両大臣は地方長官・官公私の大学・専門学校・高校に訓令を発した.時に東京朝日新聞は,これを学説の国定と正当にも批判した(10.4.12東朝).
 (2) 司法処分
 2月9日江藤源九郎が美濃部達吉を不敬罪で告発したので,東京地検は4月7日美濃部を16時にわたり取調した.その結果,不敬罪は不起訴,著書は起訴・不起訴が問題となり,9月14日に美濃部の再取調となった.
 美濃部は松本烝治博士の勧告に従い,上申書を提出したので,9月18日起訴猶予となった.続いて勅選議員の辞表を提出した.
 金森〔徳次郎〕法制局長官,また美濃部達吉も告発されたが,金森は不起訴,12月16日美濃部は起訴猶予となった.
 なお,高木正治は,10月16日に一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉を告発し,11月13日に私を含む次の15名を告発したが,12月28日いづれも不起訴となった⑴.
 成宮嘉造,末弘厳太郎〈イズタロウ〉,森口繁治〈モリグチ・シゲハル〉,佐々木惣一,野村淳治〈ジュンジ〉,野村信孝〈ノブタカ〉,浅井清,市村光恵〈ミツエ〉,岡田啓介,金森徳次郎,清水澄〈トオル〉,宮沢俊義〈トシヨシ〉,美濃部達吉,副島義一〈ソエジマ・ギイチ〉,竹内雄.

(1)玉沢光三郎・前掲〔『所謂「天皇機関説」を契機とする国体明徴運動』東洋文化社、1975〕・328~9頁.宮沢俊義・前掲・422~3頁.

 美濃部達吉を不敬罪で告発した江藤源九郎は、衆議院議員、陸軍少将。その父・源作は、江藤新平の弟という。 
 一木喜徳郎、成宮嘉造らを告発した高木正治については未詳。

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