礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ

2024-04-25 02:22:58 | コラムと名言

◎大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ

 大月康弘さんの『ヨーロッパ史』(岩波新書、2024年1月)を読んだ。久しぶりに、快い知的刺激を受けた。
 タイトルの『ヨーロッパ史』は漠然としているというか、本書の面白さを反映していない。
 本書は、ビザンツ帝国史を専門とする著者が書いた、ユニークにして興味深いヨーロッパ論である。読む前と読んだ後とでは、ヨーロッパのイメージが大きく変わる。
 読んでいて、驚くこと、学ばされることが多かった。西暦(Anno Domini)が誕生したのはユスティニアヌス帝の時代で、それ以前には世界歴(Anno Mundi)が使われていたという。ちなみに、西暦元年は、世界歴5509年に当たるという。
 地動説で知られるコペルニクスが初めて世に問うた書物は、シモカテス著・コペルニクス訳の『道徳風、田舎風、恋愛風書簡集』だった。これは、ビザンツ文化人のひとりシモカテスが中世ギリシア語で書いた『倫理書簡集』を、コペルニクスがラテン語に翻訳した本だという。
 コペルニクスがボローニャ大学でローマ法を修めたことは「よく知られている」とあった。寡聞にして私は知らなかった。彼が天文学に関心を持ったのは、「暦」の研究がキッカケだったとあったが、そのことも、この本を読むまでは知らなかった。
 収穫の多い一冊だったが、一点だけ、気になった箇所があった。221ページにある、「かの地〔ドイツ〕の領邦国家体制と、日本の幕藩体制は、諸国分立の点で確かに似通っていた」という一行である。
 幕末における「王政復古」運動は、郡県思想に支えられており、封建制度の撤廃を目指していた(浅井清『明治維新と郡県思想』)。実際に明治維新は、版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)という過程をたどっている。むしろここでは、中央集権化に成功した明治維新政権と、中央集権国家・フランスとのアナロジーが必要だったのではないか(谷川稔『国民国家とナショナリズム』)。
 本書の巻末には、人名・地名・事項という三種類の索引がついている。これは、専門書でもなかなか見られない行きとどいた配慮と言える。
 この本は、「あとがき」から読むとよいと思う。著者が本書で意図したところがよくわかる。「あとがき」のみは、ですます体で書かれているが、見倣いたい工夫である。「あとがき」の最後に謝辞があるが、その対象は、編集担当者と恩師の両名に絞られていた。潔いと思った。

今日の名言 2024・4・25

◎真実と虚偽は、ことばの属性であって、ものごとの属性ではない

 イギリスの哲学者ホッブズの言葉。このあと、「そして、ことばがないところには、真実も虚偽もない」と続く。『ヨーロッパ史』の226ページに引用されていた。このホッブズの言葉は、『リヴァイアサン』の中にあるという。

*このブログの人気記事 2024・4・25(8位の川内康範は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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象徴天皇も国家たる法人の機関である(成宮嘉造)

2024-04-24 00:46:33 | コラムと名言

◎象徴天皇も国家たる法人の機関である(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。
 本日、紹介するのは、「7.ポッダム宣言受諾と国体護持」の章のうちの「第4 幣原内閣の国体護持と日本国憲法」の節(全文)、および「第5 日本国憲法における国体の変更」の節(全文)、そして「8.結」の章(全文)である。

第4 幣原内閣の国体護持と日本国憲法
 20年〔1945〕10月9日,新内閣の首相となった幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉は,マッカーサーの前記「政治的宗教的政治的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」の具体化を断行した.それで,天皇機関説は国禁から解放され,議会制民主主義に立つ政党が蘇生した.更に,マッカーサーは,同月11日に改めて憲法改正を指示した.
 同内閣は,同月27日国務大臣・松本烝治博士を主任とする憲法改正調査会を設けた.
 天皇は21年〔1946〕元旦に「人間宣言」を以て自己の神権性を否定し,1月には美濃部〔達吉〕博士は枢密顧問官に任ぜられ,2月1日内閣は改憲案(松本案)を総司令部に提出した.
 この案は,浜口〔雄幸〕内閣以来懲りた統帥権の独立を退け,国務大臣輔弼を国務全部として統帥権の独立を撤除しているが⑴,極めて保守的であったので,マッカーサーは驚怒してこの松本案を拒否し,総司令部で憲法草案を約1週間で作成し,これを2月13日,日本政府に交手した.これが多少の修正を経て日本国憲法となった.

 (1)宮沢俊義「全訂日本国憲法」〔日本評論社、1978〕8頁・43頁.

第5 日本国憲法における国体の変更
 第90回帝国議会で,国務大臣・金森徳次郎は,国体の意義を多岐にとらえ⑴,「3千年以来,天皇をもって憧れの中心とする」という意味の「国体は変っていない」と答弁.この国体は伝統的国家道徳的心理的意識で,決して法上の国体でない.彼が法制局長官の時,国体の本義と説いた国体とは明らかに変っている.国体の変更を早くから主張したのは宮沢俊義教授であった⑵.

 (1)金森徳次郎「憲法遺言」〔学陽書房、1959〕22~7頁.
 (2)時事通信社「日本国憲法」35頁,宮沢俊義・前掲・47頁.

 8.結
 現行憲法上,「天皇とは,主権の存する日本国民の総意に基づく(1条2文),日本国及び日本国民統合の象徴であり(同上),且つ内閣の助言又は承認により国事に関する行為のみを機能とする(3条,4条1項),世襲による独任制(2条,典範1~4条)の国家機関である」概念づけ得る.
 この象徴天皇は,国民主権主義(前文,1条)により明冶憲法の元首天皇と異なり統治即ち国政一般に関与する機能なく(4条1項),加えるに戦争放棄(9条)により統帥大権はなく,明治憲法の如く世襲の独任制であるが,単に内閣の助言又は承認を要する国事行為のみを機能とする(3条・4条・6条・7条・96条2項)国家機関である.このように,象徴天皇も,国家たる法人の機関であるから,天皇機関説はここにもなお依然として妥当しているのである. 〔完〕

「第5 日本国憲法における国体の変更」の中に、「彼が法制局長官の時」とある。金森徳次郎は、岡田啓介内閣の法制局長官を務めていたが、過去の著作『帝国憲法要綱』(巌松堂書店、1921)が「天皇機関説的である」と批判され、途中で辞任している(任期は、1934年7月10日~1936年1月11日)。

*このブログの人気記事 2024・4・24(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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大蔵栄一の上海事務所で大詔を聴いた(成宮嘉造)

2024-04-23 02:28:10 | コラムと名言

◎大蔵栄一の上海事務所で大詔を聴いた(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その十回目。
 本日、紹介するのは、「7.ポッダム宣言受諾と国体護持」の章の「第2 ポッダム宣言受諾決定」の節(全文)、および「第3 東久邇宮内閣の総辞職と松本改憲案」の節(全文)である。
 文中、「ポッダム宣言」とあるのは、原文のまま。理由はわからないが、本論文では、一貫してこの表記が用いられている。

 7.ポッダム宣言受諾と国体護持
第1 ポッダム宣言受諾直前の容相 【略】
 
第2 ポッダム宣言受諾決定
 かかる容相なので,宮廷グループ,持に近衛文麿は,敗戦よりも左翼革命による皇位の廃絶を危惧し,反共国体護持の目的で,20年〔1945〕2月14日,終戦を奏上し,終戦を急いだ.
 天皇は熟慮の末,8月9日午前,御前会議―出席者は首・外・陸・海の4相に陸海両統帥部長―を開いたが,破局的最終段階にあるにも拘らず渋滞したので,会議を一旦打切った.
 その夜11時50分頃,御前会議再召集,前会議出席者に平沼〔騏一郎〕枢密院議長を勅許で加へて開会した.結局,「天皇の国法上の地位の変更に関する要求は右(ポッダム)宣言に包含せざるものとす」=国体護持を留保る条件で,ポッダム宣言受諾(東郷〔茂徳〕外相の甲案)に決定.この議事に於て,阿南〔惟幾〕陸相は反対,次に米内〔光政〕海相は同意,つづく平沼枢相は同意,次に陸海両統帥部長は反対,計,同意3,反対3.それで,議長決裁を避け鈴木首相は「前例もなく,畏れ多いきわみであるが,この際,陛下の御思召〈オンオボシメシ〉を伺い,それに基いて会議の決定をみたい」と提案し,全員の賛成を経て聖断を仰いだ.時,既に翌日〔8月10日〕午前2時30分.天皇は,「皆は,私のことを心配してくれているが,私はどうなってもかまはない」,「国民全体を救い,国家を維持するにはポッダム宣言を忍ばねばならぬ」と,この聖旨に国体護持を条件とし,ポッダム宣言受諾と,僅か7人の支配階級代表を経て決定された.
 この条件でポッダム宣言受諾を連合国に申出た.8月13日に申出承認の回答があったが,国体護持は無視された.それで,翌14日に御前会議が開かれ,国体護持なき限り1億玉砕が叫ばれたが,宣言受諾の確認を決定・通知し,15日に天皇の「終戦の大詔」がラジオで放送された.
 私は,この大詔を2.26事件で禁錮4年を受刑した大蔵栄一元大尉と彼の上海事務所で聴いた.彼は,「絶対反対だ」と今村均・中支派遣総司令官の所へ走った.

第3 東久邇宮内閣の総辞職と松本改憲案
 最後の戦時内閣の継ぎに,平和建設を使命とする東久邇宮〔稔彦王〕内閣が8月17日に成立.マッカーサー元帥は,10月14日,国務大臣・近衛文麿に憲法改正を慫慂し,同日内閣に「政治的宗教的政治的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発令した.その結果,天皇も自由な議論の対象と化し,治安維持法・治安警察法等の撤廃,内務大臣以下警察官約5,000名の罷免,共産党の合法化,政治犯や思想犯の即時釈放等を断行せねばならぬこととなり,首相の使命観に全く反するので,翌5日に内閣総辞職に踏切った.その使命観は,恐らくポッダム宣言の国民主権の実現をできるだけ押え国体護持に奉任するにあったのであろう.当時の新聞は「辞職の最大の原因は,天皇・皇室制度にたいする自由討議,自由制限の撤廃の指示であった」と(20,10,9毎日).

 この間、記事の掲載の順番に、不手際がありました。この三日間の記事は、第九回(昨日)→第八回(一昨日)→第十回(本日)の順に読んでいただければ幸いです。

*このブログの人気記事 2024・4・23(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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少数の白色人種の国際支配は困る(松井石根)

2024-04-22 00:12:58 | コラムと名言

◎少数の白色人種の国際支配は困る(松井石根)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介しています。本日は、その九回目。
 昨日、八回目として、「但し憲法の担当はできなかった(成宮嘉造)」という記事を載せましたが、順序としては、その前に、本日の記事「少数の白色人種の国際支配は困る(松井石根)」を載せるべきところでした。不手際をお詫びします。
「4.天皇・西園寺公望・渡辺錠太郎の天皇機関説」のあとは、「5.2.26事件」の章ですが、この章はすべて割愛し、本日は、「6.2.26事件後の軍事ファシズム」の章の「第1 西園寺公望と近衛文麿との相異」の節(全文)を紹介します。

 5.2.26事件
第1 緒 【略】
第2 2.26事件の勃発 【略】
第3 2.26事件の目的 【略】
第4 川島陸相と真崎大将の策謀 【略】
第5 川島陸相の奏上と聖断―速時鎮定 【略】
第6 軍事参議官会議と陸軍大臣告示 【略】
第7 断乎鎮圧策を採る海軍司令部 【略】
第8 戒厳令と奉勅命令 【略】
第9 教育総監更迭(真崎→渡辺)の件 【略】
第10 叛乱将校等に対する判決と死刑執行 【略】
第11 真崎甚三郎大将に対する判決 【略】

 6.2.26事件後の軍事ファシズム
第1 西園寺公望と近衛文麿との相異
 近衛文麿(当時,貴族院議長)は内大臣就任の交渉を受けたが,健康を理由で辞退.それから数日を経て3月4日,西園寺は天皇の下命で,内閣総理就任を近衛にもちかけたが,近衛は内大臣より激務の総理は困ると逃げた.だが,西園寺は近衛を奏請し,天皇は近衛に組閣を命じたが,近衛は再度拝謁して「健康上,自信なし」と拝辞.実は,それは西園寺と近衛との政治見解相異からであった.
 近衛が西園寺を知ったのは,京大学生のとき,京都の清風荘を訪れてからのことで,それ以来,西園寺は家柄であり,父〔近衛篤麿〕が元貴族院議長で,東亜同文書院の創立者であったので,将来を期待した.やがて,西園寺が第1次大戦のパリ講和会議の主席全権となった.近衛はその随員としてパリに随行が許された.この世界的会議で感得した体験から近衛は,「英米本位の平和主義を排す」と題する論文を発表(大7年)した.私はこの論文を読んでいないが,その要旨は伝聞している⑴.要は,植民地の多い帝国主義国のための現状維持の英米の平和主義と違い,資源植民地の殆どない後進国のための現状打破の闘争主義に拠らねばならぬと言うにある.この点では,対外内に英米協調主義,対内的に議会制民主主義に拠る西園寺とは合わない筈であった.
 同じくパリ講和会議に陸軍代表の全権として出席された松井石根〈イワネ〉中将が台湾軍司令官として私の宅(台北市錦町)の近くの官邸に居られた.或る日曜日に,そこを訪ねた.司令官は心よく迎へられ,例の「大アジア主義」を高調され,「少数の白色人種の国際支配は困る.多数の有色人種は植民地から離脱して多数の独立国と成り,国際会議を合理化すべきである.先ず日本の支援によりアジアから始めよ」と説かれた⑵.これは近衛の論文と共通する所が広く,近衛の東亜共栄・日独伊軍事同盟への歩みは,現状打破に憧れる少壮軍人の響鳴を呼んだ.

 (1)利根川裕・前掲〔私論・天皇機関説〕・118~20頁参照,
 (2)拙著「法学概論」(2版)45~6頁,

 東京裁判で死刑判決を受けた松井石根は、1933年(昭和8)8月から1934年(昭和9)8月まで、台湾軍総司令官を務めていた。成宮嘉造が松井石根を訪ねたのは、この間のことになる。成宮は1933年1月、台北市栄町にあった新高堂書店から、『日本憲法概論』を上梓している。松井訪問の際、成宮は『日本憲法概論』を持参したかもしれない。
 天皇機関説事件が起きたのは、1935年(昭和10)2月、衆議院で山本悌二郎が、成宮嘉造著『日本憲法概論』を問題にしたのは、同年3月のことだった。
 注の(2)に、拙著「法学概論」(2版)とあるが、出版社・出版年代ともに未詳。

*このブログの人気記事 2024・4・22(8・9位は、ともに久しぶり、10位に極めて珍しいものが)

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但し憲法の担当はできなかった(成宮嘉造)

2024-04-21 02:05:46 | コラムと名言

◎但し憲法の担当はできなかった(成宮嘉造)

 成宮論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)の紹介に戻る。本日は、その八回目。
 本日、紹介するのは、「6.2.26事件後の軍事ファシズム」の章の「第4 私の教授就任と蘆溝橋事件」の節の全文、および「第5 上海附近の日中戦争と将来への影響」の節の全文である。

第2 準戦時体制への進展 【略】
第3 宇垣流産内閣と近衛内閣の成立 【略】

第4 私の教授就任と蘆溝橋事件
 私は,12年〔1937〕4月に近衛文麿・阿部信行を理事首脳とする東亜同文書院の教授に採用され,上海に赴任した.当時,天皇機関説で馘〈クビ〉になった男を採用する学校は殆どなかった.ここに書院の大きさと強さがあった.院長は近衛家の信頼する大内暢三〈チョウゾウ〉で,推薦者は同郷の馬場鍬太郎〈ショウタロウ〉教頭であった,但し憲法の担当はできなかった.上海・北京には大正14-15年〔1925~1926〕に海老名弾正〈エビナ・ダンジョウ〉同志社大学総長や馬場源十郎・丸紅取締役の援助で長期滞在研究したことがある.
 夏休直前の7月7日,北京西南部の蘆溝橋附近で,ささいな事から日中両軍の衝突となった.成立直後の近衛内閣は直ちに「局地不拡大」方針を声明.私は満洲事変以来の陸軍の実跡や中国最近の抗日民族統一戦線の発展から局地不拡大方針に疑いを持ち,7月9日,日本陸戦隊を訪ねた.海軍少将・大川内伝七〈オオコウチ・デンシチ〉司令官は,初対面の私を心よく迎へられた.私は率直に,「私は蘆溝橋事件の局地不拡大方針を信用できない,閣下は如何に」と,尋ねた.司令官は自分はそれを信ずる」と答えたので,私は「現在の中国は従来の支那浪人の見るように甘いものでなく,抗日民族統一戦線が昨年〔1936〕から展開され,最近10年以来,全中国に国家統一意識が現実に普及している.大正14年頃の中国は国慶日〈コッケイジツ〉に国旗を全然掲げなかったが,現在国慶日には必ず各家に国旗を出し,実に満艦飾〈マンカンショク〉然としている.局地解決は日本軍側からばかりでなく,中国側からでも必ず崩解する危険性がある.閣下は如何に御判断?」と申上げた.司令官は「自分は個人として貴方と同感だ.この危険に当る覚悟と準備は日頃からできている.だから居留民は安心して下さい」と答えられ,別れに臨み「また,おいで下さい」と.
 この事件は北支事変と呼ばれたが,全面的日中戦争と発展し,日本を危機に運んだ.

第5 上海附近の日中戦争と将来への影響
 中国では,7月15日,国共合作による全面抗日統一戦線が絶叫され,遂に蒋介石も之に応ずるに至り,8月13日,上海も激戦地と化し,精鋭な陸戦隊も衆寡敵せず,書院のある虹橋路〈コウキョウロ〉附近等は棄てられ黄浦江〈コウホコウ〉線に最後的集約戦を固持した.ために書院校舎・職員住宅も掠奪放火され,日本に帰省していた私達は裸にされた.
 近衛首相は,7月15日,断乎措置を声明,全面戦争となり,上海方面には松井石根大将を司令官とする兵団が派遣されたが膠着化したので,11月杭州湾から柳川兵団が上陸し,12月には南京を占領した.
 この11月上旬に,戦争長期化を虞れた参謀本部第1部長・石原莞爾等は全面停戦を駐華ドイツ大使を通じて策動したが失敗し,反対に翌年〔1938〕1月15日に近衛首相は「爾後国民政府を対手にせず」と中外に声明した.

第6 総力戦と東条首相の参謀長兼任 【略】

 第4の節中に、「抗日民族統一戦線が昨年から展開され」とあるのは原文のまま。「抗日民族統一戦線」が結成されたのは、1937年(昭和12)9月だが、そのキッカケとなったのは、1936年(昭和11)12月の西安事件であった。
 同節中、「大川内伝七司令官」とあるところは、原文では「大河内伝四郎司令官」と誤記されていた。映画俳優の大河内伝次郎と混同したものか。

*このブログの人気記事 2024・4・21(8・9位になぜか野村秋介、10位は読んでいただきたい記事)

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