礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

八の太郎は蛇体に変り十和田湖の主となったが

2024-04-30 04:14:18 | コラムと名言

◎八の太郎は蛇体に変り十和田湖の主となったが

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第二節「池の名と伝説」を紹介している。第二節の紹介としては、本日が三回目。{  }は、割り注を示す。

 野守池 【略】

 各務原をがせの池 【略】

 不忍池 江戸の湯島新花町〈シンハナチョウ〉に麹屋平兵衛と云ふ男が住んでゐたが、網猟が好きであつてある夜禁を犯して不忍池〈シノバズノイケ〉に網を入れてたくさんの鯉をとつた。そして帰らうとするといつっの間にか一人の子供が来て、その捕つた鯉を全部私に呉れろと云ふので平兵衛は一匹もやるわけにはゆかぬと強硬に断ると、そのとたんに子供は池に飛び込んで姿はたちまち大蛇に変つて平兵衛を睨みすゑた。物凄かつたその有様に肝をつぶして網だけをかゝへて何も彼も投げすてゝ家に逃げ帰つた。やつと落ちついて網を見るとなほそれば三尺ばかりの蛇であつたので二度びつくりをしたが、しかも蛇はしつかりと平兵衛のからだに纏り〈マトワリ〉ついてゐたと云ふ。

 八郎潟と田沢湖の主 何百年のむかしだと云ふ、十和田湖の附近鹿角〈カヅノ〉郡錦木村〈ニシキギムラ〉に八の太郎と云ふ猟師がゐた。獵期に入つた秋の頃獲物を求めて村の近所の山へ来たが、生憎〈アイニク〉小鳥一匹もとれなかつた。ふと咽喉〈ノド〉の渇きを覚えて谷間の清水を飲んでゐると清流が急に水量を増してみるみるうちに大きな湖となつた。これがいまの十和田湖であるが、そして八の太郎はそのまゝいつしか蛇体に変つてこの湖の主となつた。しかし彼は間もなく修験者南祖坊〈ナンソノボウ〉なるものと七日七夜の闘ひに敗れて十和田湖を去り、近くの八郎湖に移り棲むことゝなつた。これが大同二年〔807〕のことで南祖坊とは斗賀〈トガ〉の霊験堂の衆徒であつて天文十五年〔1546〕より八百余年の昔のことだと東日流〈ツガル〉伝記の筆者が記してゐる。十和田湖は一方が羽後の鹿角郡に属し、一方は陸奥の北郡〔青森県北郡〕についてゐるが羽後の方の伝説では、むかし僧侶があつて婦人を恨むことがあり、この湖に入つて悪蛇となつた。そして婦人の一族を取り殺したのでその霊を慰めんとして湖中に小社を建て、権現と云つたと伝へる。そのためか湖中に生物が入れば必ず死ぬので村民達も権現へは参詣するが湖へは接近しないさうである。これは水質の関係だとされてゐる。しかし僧侶が湖の主になつた話しは甚だ珍らしいことであるがなにか附近の月山〈ガッサン〉などの宗教関係が影響してゐるのではないかと思ふ。さて新たに八郎湖に住みついた八の太郎蛇はそのうちに、湖底の深くどこかへ通じる一つの連絡路を発見した。これはいまの田沢湖に達する道であつた。{こゝで田沢湖の主の田鶴子との関係を生じる。そして冬の結氷の話しに移る。そのことは田中阿歌麿氏の湖沼巡礼に記してゐる。}この伝説で二つの湖の連りを説くがこれは地質的関係に結ばれる伝説であると考へてよからうし、八の太郎が清流に嗽いで〈クチススイデ〉ゐたとき突如として起つた増水とそれが湖水になつた話も池沼の成因を伝ヘるのでもあらうか。

 最後のほうにある割り注に、「田中阿歌麿氏の湖沼巡礼」とあるが、田中阿歌麿著『趣味と伝説 湖沼巡礼』(日本学術普及会、1927)を指す。田中阿歌麿(たなか・あかまろ、1869~1944)は、地理学者、湖沼学者。

*このブログの人気記事 2024・4・30(10位の清水幾太郎は久しぶり、8・9位に極めて珍しいものが)

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旅僧は久米田池へ何用かと尋ね返した

2024-04-29 00:06:54 | コラムと名言

◎旅僧は久米田池へ何用かと尋ね返した

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第二節「池の名と伝説」を紹介している。第二節の紹介としては、本日が二回目。

 ひれふり峯の池 【略】

 狭山池と久米田池 むかし河内の狭山池〈サヤマイケ〉の堤を通る旅人があつた。よびとめて一通の手紙を頼んだ男がある。和泉の久米田池〈クメダイケ〉の堤に一人の若い女が此手紙を受取るために待つてゐるから渡して呉れとの事であつた。旅人は何心なくそれを引受けたが、久米田池の堤に達する前に道がわからなくなり、困つてゐるところへ一人の旅僧が来たので久米田他へゆく道を聞いた、旅僧は久米田池へ何用かと尋ね返したから私は先刻狭山池の堤でこの手紙を托されたと見せたところ、旅僧は不審さうにその手紙を見てゐたが遂に開封をして内容を読んで驚いて旅人に云ふには、この手紙は狭山池の主の大蛇からその妻である久米の主に宛てたもので、君がもしこれを久米田池にゐる若い女と云ふものにこれを渡したなら、そのために食はれるのであるから早く逃げなさいと教へた。旅人は意外のことにびつくりしたが旅僧のおかげで命拾ひをした。この話しはよくある二つの池の主の夫婦伝説である。
 狭山池でいま一つの伝説。鎌倉時代の末、附近に住む武士に鷺池平九郎と云ふのがあつた。ある日狭山池の堤で釣の糸を垂れてゐると急にあたりが真闇く〈マックラク〉なつて来て怪異を感じたので腰刀を抜いてまはりを斬りまくつた。しかし彼はそのまゝそこに気を失つて倒れた。ちやうどまたその時堤を通り合せた一人の武士があつた。見ると大蛇が一匹腹を切り割かれて死んで居り、傍らに武士が倒れてゐるので薬を与へて手当をして蘇生させた。平九郎はやうやく先程からの話をして狭山池の大蛇に呑まれたことがわかつた。
 その通りかゝつた武士と云ふのは金剛山の下に住む楠正成〈クスノキ・マサシゲ〉であつた。平九郎はこの再生の恩義に謝して正成に仕へることになり、遂に正成の戦死に殉じた。この話は河内に多い大楠公〈ダイナンコウ〉に取材したものであるが、これも一つの地方伝説の特長とも云へよう。

 書き写してみるとわかるが、末永雅雄は、ナミの文章家ではない。本日、紹介した話では、「旅僧は久米田池へ何用かと尋ね返したから私は先刻狭山池の堤でこの手紙を托されたと見せたところ……」といったあたり、習おうとして習えるような文章ではない。

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池はどんな名で呼ばれてきたか

2024-04-28 00:59:02 | コラムと名言

◎池はどんな名で呼ばれてきたか

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)を紹介している。
 このあとは、しばらく、第二章「池の景観」の第二節「池の名と伝説」を紹介してゆきたい。この節は、かなり長いので、ところどころ割愛しながら紹介することになるだろう。
 なお、{  }は、割り注を示す。

       二 池 の 名 と 伝 説

 池の名と伝説はある場合には一連を成すこともあつて、その名から池の築造成因を察知することが出来、また伝説がその池の推移や歴史事実を物語ることも尠くない。単なる水に対する或は他の環境より来る恐怖的伝説や、架空的な池の主などを取扱つた伝説なども池の名とまた相応ずることにもなる。先づ池の名はどんな風に呼び慣はされてゐるかを見たのち伝説を説くことゝする。名を分類してみると次の様に大別することが出来る。
一、地名を冠する名  狭山池 恵曇【ゑども】池 久米田池
一、地形地質から  谷山池 原池 石池
一、池の形から  桝池 鏡池 双池 細池 長池 竿池 鎌池(これらは池の平面から)
         大池 小池 摺鉢池 池皿(池の大小、岸高、水深などから)
一、位置から  上池 下池 中池 高池 奥池 前ケ池 東池 西池 
一、水質から  鏡池 清澄池 血ノ池 青池 みとり池 渋池 大浪池 
一、地質や泥から  みどろ(深泥、水泥)池 水なしの池 湧玉池(?)
一、築造年代から  天正池 大正池 明治池 新池 今池 
一、附近の地物や建築、伝説から  宮ノ池 墓辺池 明法寺池 寺池
                 親王池 盾列池 猿沢池 大館池
一、築造者から  大師池 清意坊池 坊ケ池 韓人池 唐人池
一、祭神などから  弁天池
一、池中に遺物埋没を伝へ、或は予想して  剣池 宝池 黄金池(?)
一、水中及附近の生物から  蓮池 菰池 菅池 椎井池 あしまの池 貝池 鶴亀池
一、信仰的に  神霊池 明星池 星ケ池 すがたの池 
一、池の主から  おたねが池 鬼ケ池 
一、池の性能的に  益田池 萬農池 
 右のうち最も多いのは地名をとつたものである。しかし古典にその名があつても今日その所在の知れない池もある。つぎは地形と池の形、位置などから名づけたのが相当にある。信仰や池中に遺宝が埋没してあると云ふ様な事柄やまた池に棲息する魚類を取扱つたのは非常に少い。これは後に記す今昔物語に満濃池が徒ら〈イタズラ〉な魚穫の為に荒廃の原因がつくられた話しがあつて後人を戒めてゐるが、池を大切に守つてゆくために自然とさうした方面の名や伝説が淘汰せられた結果ではないかと思ふ。延暦十九年〔800〕の太政官符に、国を益す道は務めて農に勤むるにあり、池を築くことは、もとより田に灌ぐためであるにも拘らず漁を好む猾民〈カツミン〉にしてほしいまゝに池水を排して、遂に池の水を涸渇せしむるものあるを停めてゐるのも注意されなけれはならぬ。これは単にこの時に限らずいつの世でも同様であるが、さうした意識のもとに池の名にも影響があるのではないかと考へる。古墳には金鶏や金瓦が埋められてあると云ふ伝説はあるが、池にはさうした意味の話しを持たなかつたのかも知れぬ。つぎに伝説を尋ねてみよう。尤もこれらの池の名と全然無関係のものもある。しかしまた池の名を伝説が物語るものも尠くないし、その伝説の在り方によつて池がいかに取扱はれたかを知ることにもなると思ふ。{但し本項に関する限り資料価値は史実でなく伝説を主とするから事項、地名等の点について異動があるかも知れぬそれは諒されたい。}

*このブログの人気記事 2024・4・28(8位の石原莞爾、9位の川内康範は、ともに久しぶり)

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かたわらの神社は池の信仰を具体化したもの

2024-04-27 01:59:37 | コラムと名言

◎かたわらの神社は池の信仰を具体化したもの

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第一節「池と信仰」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
 
 かゝる神霊池への思想は以後永く伝統し何か社会に事のあるときには異変を表はすものとされてゐた。明月記の筆者藤原定家〈フジワラノサダイエ〉はこの池を称して希代勝絶〈キタイショウゼツ〉の池なりとして崇敬し、信仰的態度をとること文中に屡々見るところである。しかしこの池の異変を解釈すれば、それは火口池として阿蘇の噴火と関連するのであらうが、平安朝以来時の人々には不可解とされる突如たる異変は遂に畏敬と信仰をなさしめたものである。俊頼歌集に、世にわびて波たちまちにあるなればあそのみ池にぬさたてまつる、の歌は都人〈ミヤコビト〉にもかゝる池への信仰が見られると云へよう。
 この阿蘇の神霊池はかやうな点で池としても灌漑を目的とするものではなかつたが、続後紀承和七年九月の項に、宜しく陂池〈ヒチ〉を修理し灌漑を乏しくする勿れの詔がある。やはり信仰され崇敬されながらもなほ灌漑の大切なことを説く点にその当時の農業振興に対する態度が推察せられる。
 この神霊池が一種の公的信仰を有したのに対して、土俗的或は民衆的信仰を以て尊崇された池として、吉野の奥の上北山村〈カミキタヤマムラ〉池原に池峯池と云ふ神秘の環境をもつ池がある。これは大台ケ原の麓〈フモト〉熊野への下り口にあり、その名が示す様に峯の頂上にそれこそ千古の碧水を湛へてゐる。うつさうとした森林に囲まれて静寂の限りを超えた存在である。池中には太い枯損木が重なり合つてお陥ち込みすべてそのまゝ手をつけられずにあるのは非常に凄い感じを受ける。池中のものには手をつけない昔からの伝統が守られてゐるからではあるがこの環境に至れば自ら〈オノズカラ〉さうさせることになるであらう。透徹した池水の中に杉檜などの巨幹がるいるいとして、横はつて〈ヨコタワッテ〉沈んであるのは大蛇を連想させる。その間を大きな鯉や緋鯉が悠々と群れ泳いでゐるのも一層の凄さを与へる。庭園の池で小さな魚の泳ぐのとは違つて環境と相応じて恐怖を感じないものはなからうと思ふ。かうしたところに原始人の感じた自然への信仰が思はず考へさせられることであつて、今のわれわれにも一種の霊の存在を感じ時にそれが慄然たる気持の迫ることを覚ゆる。そしてこゝには傍ら〈カタワラ〉に池峯神社が祭られ池への信仰の対象となつてゐる。故に阿蘇の神霊池にしろ、池峯池にしろ傍らに神社のあることは池の信仰を具体化したものと云へよう。
 かくの如く池そのものへの信仰に相応じて挙げなければならぬものは、前き〈さき〉に記した大和の磯城〈シキ〉郡川東村〈カワフガシムラ〉にある池坐朝霧黄幡比売〈イケニマスアサギリキハタヒメ〉神社である。いまは池中に鎮座するわけではないが池に坐す〈イマス〉その事が云ふまでもなく池への信仰を語るものであり、黄幡比売は、神として崇敬されて他に坐すが池こそ祭神のあるところである。この社の創建年代は明かでないが式内社であつて、平安朝の初め貞観元年〔859〕五月従五位上を授けられてゐる。恐らく此時代には盛に〈サカンニ〉他が築造され修理を施してゐるので、生産的立場からの信仰にもまた深いものがあつたと考へられるから、この神社の如きはむしろ生産方面よりの信仰が考へられるのではなからうか。
 河内の依網池〈ヨサミノイケ〉のある大依網神社、狭山池〈サヤマイケ〉の堤神社などは直接池に対する信仰ではなくむしろ池の鎮守であらうが、注意すべき事項として近畿地方の郷社が湖、沼、池、川などの灌漑に関係をもつ地域に多数散在する点を考へなければならぬと思ふ。近江では水田の最も発達しに湖東地方に郷社が集まつてゐる。これは水利と農民と郷社との結合が考へられるものであらう。郷社は原則的に農村を対象とする傾向をもち農村は水利に便な地理的環境を撰び或は池を築造して水利灌漑を整備し、郷社はさうした間にあつて鎮守たるの信仰を有した。前きに記した池坐朝霧黄幡比売神社の如きもかゝる意味からの信仰的存在が考へられると同時に、多くの郷社にも相似た信仰が推察されるのではないかと思ふ。恐らく灌漑の円滑を祈願するための信仰的対象に郷社が尊崇される場合もあつた様である。これは池そのものへの信仰ではないが一連の連り〈ツナガリ〉は考へてもよいのではなからうか。
 かやうに池に対する信仰は池を神聖視する原始信仰的な阿蘇の神霊池や吉野の池峯池と、池を生活の一部に取入れて尊崇する場合がかなり多い様に思ふ。しかしまた次項池と伝説に挙げたものゝ中には俗伝としての単なる物語りと、加賀の白山の御厨池〈ミクリガイケ〉や神泉苑〈シンセンエン〉などの様にその伝承する内容に仏教的信仰の対象となるものもある。これは龍の思想が池と結合して且つそれが仏教信仰を説くことにもあるが、平安朝における池に対する一つの信仰的現れと云へよう。

 最初のほうに「俊頼歌集」とあるのは、平安後期の歌人・源俊頼(みなもとのとしより)の歌集の意味。源俊頼の家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)を指すか。
 最後のほうにある「神泉苑」とは、京都にある庭園で、苑内に大池がある。平安時代に「禁苑」として造営された。

*このブログの人気記事 2024・4・27(9位になぜかジラード事件、8・10位になぜか帝銀事件)

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末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

2024-04-26 01:36:53 | コラムと名言

◎末永雅雄の『池の文化』(1947)を読む

 今月の初め、中央線沿線の某古書店で、末永雅雄著『池の文化』(創元社、1947)を入手した。「百花文庫」の21、本文206ページ、定価37円、古書価110円。
 考古学者・末永雅雄の名前は聞いたことがあったが、彼が「池」の研究家であることは、この本を読むまで知らなかった。また、末永雅雄が学者らしからぬ文章家であることも、この本を読むまで気づかなかった。
 紹介したいところは、いろいろあるが、本日および明日は、第二章「池の景観」の第一節「池と信仰」を、前後に二回に分けて紹介してみたい。

   第二章 池 の 景 観

       一 池 と 信 仰

 池にする信仰は、水に対する原始信仰を伝へるものと、池そのものは生産の源泉であると云ふ意味からの信仰と池の主の伝説や水への恐怖感から生れる俗信などがある。随つて内容的にも同じでなく地方的差違も多い。しかし地方的な差は地方の特色なり環境を示すことにもなる。或場合には池そのものゝ信仰と云ふより池を介して対象が求められ、それが地方での特色ある人物とか伝説中のあるものがとりあげられてゐる。例へば水に縁の深い龍王神の信仰は殆ど俗伝と結ばれる。池全体が信仰されるのは、原始生活において、天体、山嶽、巨石等が信仰されたと同様に雄大な巨石や山嶽に対する、池沼〈チショウ〉の引き込まれる様な静けさを湛へた凄い恐怖的な環境をもつ碧潭〈ヘキタン〉において信仰を深めるのであらうと思ふ。
 続紀〔続日本紀〕、後紀〔日本後紀〕などの記載によるとしばしば池水〈チスイ〉異変のことがあつて注意せられてゐる。これは平安朝の怪異思想の一端を表はすものとも思はれるが、皇極天皇二年〔643〕七月から九月へかけて河内〈カワチ〉の茨田池〈マンダノイケ〉の水が大に臭くまた異形の虫が現はれた。あるときは藍汁〈アイシル〉の如くに変じた。その為虫が死し虫の為に大小の魚が腐爛して喫へない〈クエナイ〉。九月になつてこんどは白色に変じ漸く臭気が去り、十月に至つて池水が清く澄んでもとに還つた〈カエッタ〉。また或は天応元年〔781〕七月河内の尺度池水血色に変ずることを記してゐる。これらは単に池水変化の記録をなしたに止まるとも見られ、池への信仰とは必ずしも直接の関係がないのかも知れないけれども物の鳴動、水の異変に対しては意味を考へようとしてゐたのではなからうか。
 しかしこれとは違つて阿蘇山頂の神霊池〈シンレイノイケ〉や吉野の奥の池峯池〈イケミネイケ〉の如きは古くより神聖視されまた信仰されてゐた。神霊池はまたの名を神の他とも云ひその池に対する信仰的表はれは、日本後紀〈ニホンコウキ〉あたりより以後かなり多く、恐らく池と信仰を考へるに最も具体的な例であると思ふ。日本後紀延暦〈エンリャク〉十五年〔796〕詔〈ミコトノリ〉して曰く〈ノタマワク〉近頃太宰府の申言〈モウシゴト〉によると、肥後国阿蘇の山上にある沼はその名を神霊池と云ひ、永い年代を経て来てゐるが未だ涸れた〈カレタ〉ことがなかつた。しかしこのたび二十余丈も減水したので卜はせて〈ウラナワセテ〉みると旱疫があると云ふ、とあつて池水異変はある災厄を予報するの徴證として扱はれてゐる。
 また続後紀〔続日本後紀〕承和〈ジョウワ〉七年〔840〕九月に阿蘇の建磐龍命〈タケイワタツノミコト〉の神霊池は未だかつて水の増減を見なかつたが、いま四十丈の減水をしたので、十二月使〈ツカイ〉を伊勢太神宮〈イセダイジングウ〉に遣はしてこの事を述べ国異として懼れ〈オソレ〉られたことがあり、三代実録貞観〈ジョウガン〉六年〔864〕十二月、神霊池に声あり、震動し、池水空中に沸騰し東西に飛び、その東に落ちたものは幕を布いた様で広さ十余町水の色が漿の如く、草木に粘着して数日とれなかつた。これを卜ふに水疫の災があるだらうと現はれたとされて、甚だその池水異変が畏れられたのであつた。【以下、次回】

 最後のところに、「水の色が漿の如く」とあるが、この「漿」は、意味・読みともに不明。あるいは、「鉄漿」(かね)のことか。

*このブログの人気記事 2024・4・26(8位になぜか山本有三、9位に極めて珍しいものが)

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