その瞬間、僕は思ったんだ。
“ああ、そうだ。やっぱ、ココなんだな”と。
僕ちきんという人間は、本当に両親、友人、先輩、後輩、師
をはじめ多くの方に迷惑と心配をかけながら、25年間(先日210の日にアラサーになりました。)生きてきたわけだが、
その25年間の中でも一番に迷惑・心配をかけた事象は間違いなく
2007年1月10日のあの出来事だ。
当時、ダイビングサークルに所属していた僕は年明け1発目の練習に参加していた。
その日はすこぶる体調が良く、アップでもやけに良いペースで泳ぎ、なんてこともなく入部から3年間代り映えのしないメニューをこなしていた。
約10本ほどのメニューをこなし、“フィン回収”というフィンを水中に沈め、それを水中で回収、足に装着し上がってくるという、名が全てを表すメニューの最中のことだった。
いつも通りに潜水し、
いつも通りに後輩のフィンをパクり遠くに移動させ、
いつも通りに後輩にばれ、
いつも通りに「ニヤっ」と笑い
いつも通りに自分フィンを回収した時、
いつも通りでは無いことが起こった。
僕の記憶はそこから断続的で、
プールサイドで人に囲まれている記憶
救急車の中で傍らに後輩がいる記憶
病院の処置室で何本もの点滴の針を入れられる記憶
そんな断片の記憶だけが残っている。
その瞬間、当人の僕は翌日の実験とカテキョの心配しかしていなかったわけだけれども。
やっちまったなー、何時に帰れるかなーとかしか考えていなかったわけだけれども。
当人がそんな馬鹿なことしか考えていない中、
首都高なんて走ったこともないおかんは、ナビを頼りに日付が変わるかどうかの時間に2時間車をぶっ飛ばし茨城の病院に向かい、着いたら着いたで医者に
「今夜が山です。控え室もありますので…」
と。ぼんやりとそのやり取りも覚えている。
月から金まで午前様で土日はゴルフというオトンも茨城まで来たし、
友人、先輩、後輩、先生、たくさんのヒトがお見舞いに来てくれた。
もちろん、そんな事故を起こしてしまったサークルは1ヶ月以上の間活動停止になり、
ひとつ下の部長をはじめ、新しい代になった後輩たちにどれだけの迷惑をかけたかは計り知れない。
僕自身は16日間の入院生活を経て退院。
以前ほど息が持たなくなったりもしたけど、すこぶる元気になり、
半年後には、プールにも復帰した。
けれど、当然のことながら僕がダイビングをやる事は親族全員からの反対にあっており、
会うたびに
「やっていないでしょうね?」
そう言われる。
それは今も変わらない。
そんな反対や、周囲にかけた迷惑の大きさから潜るなんて言うこともやることも出来ず、
ただただ、“潜りたい”そんな気持ちは消えることなく、
潜りたい、潜れないの葛藤をする夢を見たり、
潜りもしないのに後輩たちの合宿に着いて行き、陸から見ていたり
潜りもしないのに先輩たちの徳島ツアーに着いて行き、陸で釣りをしていたり(釣れなかったけど。)
ただ一つの自分勝手な想いを胸に4年と1ヶ月、そんな日々が続く。
←ブログなんて書くの、久しぶり過ぎて本題に入れなかった。あっ、それは以前からですね。
“ああ、そうだ。やっぱ、ココなんだな”と。
僕ちきんという人間は、本当に両親、友人、先輩、後輩、師
をはじめ多くの方に迷惑と心配をかけながら、25年間(先日210の日にアラサーになりました。)生きてきたわけだが、
その25年間の中でも一番に迷惑・心配をかけた事象は間違いなく
2007年1月10日のあの出来事だ。
当時、ダイビングサークルに所属していた僕は年明け1発目の練習に参加していた。
その日はすこぶる体調が良く、アップでもやけに良いペースで泳ぎ、なんてこともなく入部から3年間代り映えのしないメニューをこなしていた。
約10本ほどのメニューをこなし、“フィン回収”というフィンを水中に沈め、それを水中で回収、足に装着し上がってくるという、名が全てを表すメニューの最中のことだった。
いつも通りに潜水し、
いつも通りに後輩のフィンをパクり遠くに移動させ、
いつも通りに後輩にばれ、
いつも通りに「ニヤっ」と笑い
いつも通りに自分フィンを回収した時、
いつも通りでは無いことが起こった。
僕の記憶はそこから断続的で、
プールサイドで人に囲まれている記憶
救急車の中で傍らに後輩がいる記憶
病院の処置室で何本もの点滴の針を入れられる記憶
そんな断片の記憶だけが残っている。
その瞬間、当人の僕は翌日の実験とカテキョの心配しかしていなかったわけだけれども。
やっちまったなー、何時に帰れるかなーとかしか考えていなかったわけだけれども。
当人がそんな馬鹿なことしか考えていない中、
首都高なんて走ったこともないおかんは、ナビを頼りに日付が変わるかどうかの時間に2時間車をぶっ飛ばし茨城の病院に向かい、着いたら着いたで医者に
「今夜が山です。控え室もありますので…」
と。ぼんやりとそのやり取りも覚えている。
月から金まで午前様で土日はゴルフというオトンも茨城まで来たし、
友人、先輩、後輩、先生、たくさんのヒトがお見舞いに来てくれた。
もちろん、そんな事故を起こしてしまったサークルは1ヶ月以上の間活動停止になり、
ひとつ下の部長をはじめ、新しい代になった後輩たちにどれだけの迷惑をかけたかは計り知れない。
僕自身は16日間の入院生活を経て退院。
以前ほど息が持たなくなったりもしたけど、すこぶる元気になり、
半年後には、プールにも復帰した。
けれど、当然のことながら僕がダイビングをやる事は親族全員からの反対にあっており、
会うたびに
「やっていないでしょうね?」
そう言われる。
それは今も変わらない。
そんな反対や、周囲にかけた迷惑の大きさから潜るなんて言うこともやることも出来ず、
ただただ、“潜りたい”そんな気持ちは消えることなく、
潜りたい、潜れないの葛藤をする夢を見たり、
潜りもしないのに後輩たちの合宿に着いて行き、陸から見ていたり
潜りもしないのに先輩たちの徳島ツアーに着いて行き、陸で釣りをしていたり(釣れなかったけど。)
ただ一つの自分勝手な想いを胸に4年と1ヶ月、そんな日々が続く。
←ブログなんて書くの、久しぶり過ぎて本題に入れなかった。あっ、それは以前からですね。