三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

代替医療(2)

2024年04月14日 | 問題のある考え
 ⑥ 通常医療と代替医療の比較
通常治療は検査や実験の再現などで有効性や安全性が証明されている。
もし医師が無責任なことを言い、効果が証明されていないどころか危険な薬を患者に投与すれば、医師免許を剥奪されるか、裁判の被告席に座ることになる。
また、薬は厳しく規制され、承認されるまで時間も費用もかけている。
しかし、代替医療は効果があるかはっきりしないし、安全性にも問題がある。

代替医療の診断法にはこんなものがあります。
・バイオレゾナンス 患者の身体から出る電磁放射と電流を電子的に記録することにより、アレルギーからホルモンの乱れまで、あらゆることを診断する。

・虹彩診断法 眼球の虹彩の点はすべて、どれかの器官に対応しており、虹彩の不規則性は、その位置に対応する器官に問題があることを示している。

・キネシオロジー 手で触れて筋肉の強さを調べると内臓の健康状態がわかる。

・ベガ診断 電子的な診断装置でアレルギーからガンまでさまざまな病状を検出できる。

サプリメントは安全性や効果を証明する必要がない。
日本でもアメリカにならってサプリは食品だという前提で、薬事法の規制を受けない。
さらに、政府が規制緩和をすすめて機能性表示食品が認められた。

代替医療やサプリメントがノーチェックでいいわけがない。
どんな療法でも厳しい立証基準が課せられなくてはならない。

代替医療は健康を害するだけでなく、食い物にされて金を失う恐れがある。
なぜなら、保険が適用されないので一回の治療費が高額で、しかも何回も治療を受けなければならない。
しかも、高いサプリを大量に長期間飲み続け、効果のない健康器具を買わされる。
安くて安全、効果がある通常医療のほうが代替医療よりすぐれている。

 ⑦ なぜ代替医療にはまるのか
アメリカ人の50%は何らかの形で代替医療を利用し、ビタミンやサプリメントを摂り、10%は子供にも使わせている。

・現代医療や医師への不信
代替医療を使うきっかけの一つは通常医療への失望である。
患者は理解と共感を示してくれることを求めている。

ところが、通常医療の医者は患者のために時間を割いてくれず、冷淡で尊大で、思いやりや共感を感じない。
患者は自分が人間ではなく数字として扱われているような気分になる。

代替医療の治療師は一人の人間として患者を気づかい、時間をかけて親切に話を聞き、心を安らがせてくれる。
人からの指示や規制を不快に思う患者は、自分の健康は自分で管理できるし、医者にいちいち指示される必要はないと考える。
その一方、代替医療の治療師が、いつ何を食べ、どういう運動をし、シャンプーや洗剤は何を利用するか、料理の作り方、病気の対処の仕方まで具体的に正しいやり方をはっきり教えてくれることを喜ぶ。

代替医療の治療師は高額の料金を請求するので、一人の患者に時間をかけることができるが、通常医療の場合は一人の患者に長時間を費やすことが難しいことは考慮しない。

・有名人が代替医療を勧めるから
研究者(ノーベル賞受賞者もいる)、医師、俳優、歌手、政治家、スポーツ選手などが代替医療を持ち上げている。
チャールズ国王もその一人。

どこの国でもテレビや雑誌などのメディアは代替医療に肯定的で、好意的に取り上げる。
代替医療が新聞や雑誌に取り上げられると、科学的根拠とは真っ向から対立する内容になっていることが多い。
オプラ・ウィンフリーたち人気司会者が自分の番組で代替医療の宣伝をしている。
代替医療の治療者をテレビに登場させ、デタラメを言わせる。
その場合、通常医療の専門家を立ち会わせない。

積極的に代替医療を勧める研究者、医師もいます。
メフメット・オズはコロンビア大学医療センター心臓血管外科学の正教授で、年間250の手術を執刀し、400以上の論文と専門書の項目を書いた。
『タイム』の最も影響力のある100人、世界経済フォーラムの次世代グローバルリーダーなどに選ばれている。
メフメット・オズは自分の番組で、自然療法、ホメオパシー、鍼治療、手当療法、信仰療法、カイロプラクティックから死者との対話まで、多岐にわたる代替医療を勧めている。

ノーベル化学賞と平和賞を受賞したライナス・ポーリングは、インチキ科学者の助言によってビタミンで風邪を予防すると信じ、さらには大量のビタミンとサプリの摂取でどんな病気も治せると説くようになった。

代替医療に対して何もしない研究者が多い。
なぜなら代替医療の検証は手間暇かかるわりに評価されないから。

アメリカの6000の病院に対して行われた調査では、42%が何らかの代替医療を提供していた。
一般医の半数が患者を代替医療のセラピストに差し向ける。
患者が健康食品や代替療法コーナーで売られている薬を試したいと患者に言われたら、多くの医師は肯定的な反応をする。

イギリスには代替医療で学位を授与する大学が16校ある。

・人間の弱い心につけ込む
本人や家族が病気になって心が弱り、治るなら何だってお金を払おうと思った人は、科学的に検証されていない話に騙されてしまいがち。

1990年代後半、自閉症にセクレチンが効果があると言い出す人がいてブームになった。
ところが、検証の結果、セクレチンを処方された親も、生理食塩水を処方された親も、ほとんどが子供は進歩を見せたと評価した。
親たちはセクレチンと生理食塩水の結果は変わらなかったことを告げられたが、69%が引き続き薬を使いたいと答えた。
効果がないとわかった薬のために何百マイルも旅して何千ドルも払いたいと希望したのである。
親はそのくらい切実なのだ。親たちは自宅を担保に入れてローンをして、老後資金を解約して、偽りであっても希望を約束してくれる人を探す。親の愛を利用してその生涯の蓄えをむしり取る開業医療者ほど下劣なものはない。

弱い心につけ込んでだますことは犯罪だと思います。
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代替医療(1)

2024年04月09日 | 問題のある考え
小林製薬の機能性表示食品で腎疾患などの健康被害が発生し、死亡された方もいます。
機能性表示食品は企業が届け出すれば、国の審査がないので効果や安全性が保証されていません。
しかも、企業が健康被害を行政に報告する直接的な法令はないそうです。

以前に書きましたが、絵門ゆう子さんは乳がんの告知を受けたのに、手術や抗ガン剤治療を拒否し、大金を払って代替医療を受け続けました。
病状が悪化しても、なかなか病院を訪れることをしていません。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6920d93d7a8de481d63ae6632980d614

代替医療のどこが魅力なのか不思議で、サイモン・シン、エツァート・エルンスト『代替医療解剖』とポール・オフィット『代替医療の光と闇 魔法を信じるかい?』を読んでみました。

代替医療の問題点は3つあると思います。
・効果のない治療をする
・安全性のない治療をする
・効果が検証されている治療を否定する

 ① 代替医療とは何か
代替医療とは、現代の科学によっては理解できないメカニズムで効果があると主張する治療法で、多くの科学者や医師が受け入れていないもの。

 ② 代替医療にはどんなものがあるか
カイロプラクティック、ホメオパシー、気功、ハーブ治療、アーユルヴェーダ、アロマセラピー、催眠療法、スピリチュアル・ヒーリング、デトックス、風水、レイキなどなど。
漢方、鍼灸、指圧も代替医療だそうです。

 ③ 代替医療の効果や安全性は
臨床試験でその治療が安全で有効だと証明されれば、それは代替医療ではなく通常医療になる。
効かないという結果が出れば医療ではない。

つまり、代替医療とは、
・検証を受けてない
・効果が証明されていない
・効果のないことが証明されている
・微々たる効果しかない
のどれかだということになります。

ノコギリヤシは前立腺を小さくしない。
コンドロイチンとグルコサミンは関節痛の治療にならない。
ニンニクとコレステロール、イチョウと認知症とは無関係。
指圧は通常のマッサージと同等の効果しかない、などなど。

 ④ 代替医療はどんな害があるか
有害なものを摂取して健康を損ねたり、有効な治療を受けずに命にかかわることがある。

カイロプラクティックスの施術で動脈が裂けたり、マヒを起こすことがある。
鍼でウイルス感染が起きたり、肺や肝臓や心臓に刺さることがある。
メガビタミン(ビタミンを大量に摂取する)でガンや心臓病のリスクが高まる。
ビタミンは人間に必要だが、普通の食事で十分。
栄養サプリで出血、精神障害、心臓の不整脈、脳腫脹が引き起こされることがある。

 ⑤ なぜ効いたと思うのか
病気はよくなるか悪くなるかのどちらかで、時間が経てば自然に治ることもある。
なんらかの症状が出ている時に代替医療で具合がよくなれば、効果があったと思う。
百万人の1%、すなわち1万人がたまたま調子がよくなってもおかしくはない。
通常医療の薬の服用、食事や生活習慣の改善、リラックスする時間を持つなどの効果かもしれない。
医者が患者に何か言ったり、患者が何を信じるかによって、たとえウソであっても患者の状態がよくなることがある。

ハリエット・ホール「多くの病気はそのうち治り、そうでない病気もよくなったり悪くなったりを繰り返す。病気がたまたまよくなる時期にあたっていたとしても、よくなったのはそのとき使った薬のおかげだと、患者は思ってしまうだろう」

代替医療で治ったと思いこんだ人は確証バイアス(何が起こっても先入観を強めるよう解釈する傾向)を持ちやすいから、科学的根拠は重みを持たない。

私は鍼で腰痛が治ったことがあります。
しかし、原因のはっきりしない腰痛の場合、約90%は6週間ほどで大幅に改善するそうです。
腰痛の治療で何回か通ったので、自然に治ったのかもしれません。

代替医療が効果があるとしたら、その多くはプラセボ効果によるものです。
プラセボ効果とは偽薬効果ともいい、小麦粉を「薬だ」と偽って飲ませたら病気が治ったということです。

プラセボ効果の逆がノセボ効果で、偽の治療を受けた被験者の約4分の1に頭痛、吐き気、不眠、疲労感が見られる。
プラセボはラテン語の「私は喜ばせるであろう」という意味で、ノセボは「私は害をなすであろう」という意味。
通常医療の薬もプラセボ効果があるので、医療そのものの効果にプラスされる。

ホメオパシーの薬(レメディ)は原材料から抽出した母液をアルコールと水の混合液で原材料の分子が存在しないようになるまで薄める。
つまりは単なる水だから、効果はプラセボ効果以上はない。

また、平均への回帰といって、病気はよい状態の時と悪い状態があり、平均な状態になる。
だから、少しでもよくなれば、最悪の時に試したのが効いたと考える。

状態が悪くなれば好転反応(毒が排出されるなどの理由で、患者の状態がいったん悪くなってから改善するということ)だと言えばいい。
ホメオパス(レメディーを処方する人)は「適切なレメディを摂取すると、体内の毒素が排出されて、症状が一時的に悪化することがある」と説明する。
デトックス(体内から毒素や老廃物を取り除くこと)を勧める人は「毒素が出ているあいだはかえって気分が悪くなるかもしれない」と答える。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(13)

2024年04月01日 | 死刑
⑮ 死刑と裁判員裁判
裁判員裁判が行われるようになってから厳罰化しているそうです。
裁判員が被害者に同情し、応報感情や正義感情を持つからではないかと言われています。

しかし、被害者が処罰感情を持っているとしても、裁判員が被害者感情に同調して判決を決めるべきではありません。
自分の子供が殺されたらと考えることと、殺人事件の裁判員になることは違います。
裁判員にとってそれは難しいことだそうです。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』で、精神鑑定医である村松太郎慶応大学医学部准教授が裁判員裁判について語っています。
精神障害の症状が影響した複雑な事件の判断を、裁判員に委ねるには無理があります。無理を通すために事件が単純化されている。法廷に出てくる前に、複雑な部分が削ぎ落とされてしまう。裁判員裁判が素人判断だからよくないのではなく、裁判員に提出されるデータが限られることが深刻な問題です。限られたデータによって事件が単純化された時点で、もはや真実は分からなくなっていると思います。
鑑定が増えている大きな理由のひとつとしては、裁判員には判断が難しい責任能力のことは、公判前に済ませたいという裁判所の狙いが見え隠れしています。
村松太郎さんは「裁判員裁判にはまったく反対」と明言し、「廃止すべきか、適用を見直すべき」と明言しています。

残酷な殺し方をするのは脳の機能のひとつ。
前頭葉が脳腫瘍、または、血管障害や外傷などで損傷を受けた人は、後天性サイコパスになり得る。
前頭側頭型認知症などの認知症の変性疾患もそのひとつとされ、倫理機能の低下をもたらすことがある。
そういった症状があって犯罪を犯した時、それが本人の責任だとどこまで言えるのか。突き詰めると、先天的にそういう脳を持って生まれた人の責任をどう考えるのかという話になりますが、追及していくと誰の責任でもなくなるのです。
自分は絶対にそんなことをしないと思っていても、脳の損傷などでそんなことをすることがあるかもしれないわけです。

重大事件を起こした人が精神疾患患者だったとしても、極刑が避けられないと思うことがあるかという質問に、このように答えています。
精神鑑定の作業を進めて被告人の病気がよく分かるようになるにつれ、病気がなければこの人は絶対こんなことはやらなかったはずで、それなのに死刑にしていいのか、と思うこともあります。しかしそうすると、次の瞬間に、病気じゃない人は死刑にしていのかという問いが出てきて、私はこれに応えられない状態です。

心神喪失(精神の障害によって自己の行為の善悪を判断できないか、判断したように行動する能力がない者)は無罪とされます。
あるいは、アルコールや薬物の依存症者が事件を起こし、事件のことを覚えていないと主張することがあります。
そうした場合、情状酌量すべきかどうか判断を裁判員はできないと思います。

⑯ 暴力と話しあい
世界各地で争いが絶えません。
スーダン内戦は1983年から。
ソマリア内戦は1988年から。
シリア内戦は2011年から。
イエメン内戦は2015年から。
ミャンマーのクーデターは2021年。
ロシアのウクライナ侵攻は2022年。
イスラエルのガザ攻撃は2023年。

毎田周一「暴力は言葉の放棄だ」という言葉があります。
紛争が起きたら、暴力(武力)ではなく言葉(外交)で問題解決を図るべきです。
しかし、現実は力の強い者の勝ちという状況です。

平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
本来、人間の社会の中では、自分の意思を実現させたい時、相手と話し合いをしなければなりません。自分がこうしたいと思っても、そうしたくないと思う人もいる。その時には、相手の意見を聞いて、相手を説得したり、あるいは、自分が譲歩したりという様々なプロセスを経て、たとえ少しであっても、自分の意思が実現できる方向に動いていくわけです。民主主義的な社会の最も基本的な仕組みとも言えます。
ところが、暴力というのは、そうした複雑なプロセスを経ることのない、非常に単純な方法です。相手を力でねじ伏せて自分の言うことを通してしまう。非常に単純であるが故に、無理の大きい方法です。到底受け入れられないと感じている人を従わせるわけですから、これでは、正しいことも、通らなくなるし、そもそも何が正しいのかという議論も失われてしまいます。

犯罪を犯した人に対して、口で言ってもわからないなら、体に教え込むしかないというやり方は間違いです。
力で抑えつけることで犯罪が減り、犯罪者が更生するとは思えません。

入江杏さんはこのように言っています。
最後に私が到達したのは、殺人には殺人で、暴力には暴力で報いたなら、凶悪犯罪が引き起こした暴力の連鎖を断ちきることはできない、という想いだ。人間同士の許しあいは、犯罪の事実をうやむやにすることでも、正しい裁判を行わずに犯罪者を野放しにすることでもない。「ゆるし」とは一つの長い「あゆみ」だ。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

人を殺さない、傷つけないという原則を守っていきたいです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(12)

2024年03月27日 | 死刑
⑭ 死刑は誰のためにあるのか
「死刑囚表現展」のアンートに「死刑は誰のためにあるのか」と問題提起するものがありました。
被害者や遺族のためというより、復讐が善だと考える第三者のためにあるように思います。

宮下洋一さんの死刑についての考えが『死刑のある国で生きる』に書かれています。
欧米人が死刑を廃止できたのは、人権という理想が、「赦し」という宗教的価値観に支えられているからではないのか。日本人の大半は、凶悪殺人犯を「赦す」ための信仰心は、備えていないように思える。
加害者をゆるすキリスト教文化圏の欧米とは日本は文化が違うということでしょうか。

バド・ウェルチさんとジョニー・カーターさんが加害者をゆるし、死刑に反対するのはキリスト教の影響が大きいと思います。
だからといって、恨みや憎しみを忘れずに敵討ちをすることが日本の文化ではありません。
菊池寛『恩讐の彼方に』に感動するわけですから。

イスラム教国の多くは死刑制度があります。
しかし、マレーシア(イスラム教が64%、キリスト教が9%)では2018年以来、死刑を執行されていません。
しかも2023年には、マレーシアの下院は殺人やテロを含む11の犯罪に必ず死刑を適用してきた強制死刑制度を撤廃する法案を可決しました。
死刑の存廃は文化、宗教で決まるわけではありません。

また、加害者に怒りや憎しみを持つことと、死刑を望まないことは矛盾しません。
平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これらは両立可能なのです。

犯罪被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的。
逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同じ。
どちらも被害者に勝手な思い込みを押し付けている。
怒りや恨みという感情と、死刑制度の是非は分けて考えるべきだと思います。

ところが、被害者が怒り、恨み、憎しみを持つのは当然だと考える人がいます。
平野啓一郎さんもこう語っています。
私たちは、被害者の感情を、ただ犯人への憎しみという一点だけに単純化して、憎しみを通じてだけ、被害者と連帯しようとしているのではないでしょうか?。

社会は、被害者は加害者を憎んで当然であり、憎まなければならないと思い込んでいる。
だから、被害者遺族が死刑を望んでいないと話すと、「身内が殺されたのに相手が憎くないのか」「愛する人が殺されたのに、死刑を望まないなんておかしい」「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃないか」などと非難する人がいる。
そのため、ゆるすという形で苦しみを終わらせたいと思っている人が、苦しみを終わらせることができなくなってしまう。

犯人をゆるすなんて信じられないという人は、憎しみは理解できるから共感するが、ゆるしはわからないと突き放すのか。
偽善であり、本心じゃないはずだと批判するのか。

死刑に反対する被害者遺族の原田正治さんは非難されたことがあるそうです。
「良い被害者」と「悪い被害者」とがあるんです。仏壇に手を合わせ、冥福を祈り、黙って悲しみに耐えていく犯罪被害者が「良い被害者」なんです。「悪い被害者」というのは、表に出て、声を出し、国に文句を言い、自分の主張していく人です。さしずめ僕なんか悪い被害者なんでしょうね。僕みたいに声を出す被害者は異常なんです。直接面と向かって言われたこともありました。

平野啓一郎さんはこう問います。
もし、皆さんが殺されて、あの世から残された家族を見守っているとします。その時、家族の周りにただ、犯人への憎しみにだけ共感する人たちが集まり寄っている様が見えたとして、それは本当に喜ばしいことでしょうか?

「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、「憎しみ」の部分にしか興味がなく、それ以外の部分で被害者の悲しみをどう癒やすかにはコミットしようとしない。

社会が被害者の抱えている憎しみ以外の複雑で繊細な思いを無視して被害者とかかわろうとするのなら、被害者と社会との接点は憎しみの一点だけになってしまう。
被害者は憎しみだけに拘束されるとしたら、それはあまりに残酷なことではないか。
手助けをしてくれる人たちが気づかってくれるなら、それは憎しみの連帯よりも望ましい。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(11)

2024年03月23日 | 死刑
⑬ 遺族の恨み、怒り、憎しみ

光市事件の遺族である本村洋さんはこう書いています。
犯人に対する怒り、憎しみを抱き続けて生きていくことを改めて心に誓ったのです。(「週刊新潮」1999年9月)

しかし、怒り、憎しみ、恨みを抱え続けることはしんどいものです。
怒ってもすっきりしないどころか、逆に後悔の念にかられることもあります。
それはわかっていても、怒りや恨みを手放すことが困難だからこそ、恨みや怒りを手放すための支援が必要だと思います。

平野啓一郎さんも『死刑について』にそのことを語っています。
復讐心を抱いて、相手を憎み続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させます。被害者を、その人生の喜びから遠ざけてしまうことになります。

連邦ビル爆破事件で娘を失ったバド・ウェルチさんはこのように語っています。
怒りや憎しみ、復讐の気持ちを持ったままでは、癒しのプロセスには入れません。癒しに入るためには、それを越えなければいけないのです。なぜそう言えるのか。私もその道を通ってきたからです。ですから、まだ数家族の人たちが怒りや憎しみ、復讐の気持ちにとらわれていることは、とても悲しいことです。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

娘の死によって死刑賛成に気持ちが傾いたバド・ウェルチさんがが、再び死刑に反対するようになったのは、主犯のティモシー・マクヴェイが犯行に至った動機を考えたからだと、布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」にあります。
湾岸戦争に出征したティモシー・マクヴェイは心に深い傷を受け、政府を恨んだことが連邦ビル爆破事件の大きな動機になっている。

バド・ウェルチさんは最終的にこういう考えに至ります。
マクヴェイを死刑に追いやることは、彼が娘のジュリーら168人を殺した理由と同じ、復讐と憎しみから死刑に追いやることになる。つまり、因果応報と怒りというのは、人を悪の行動に駆り立てるだけだ。

もう一つ大きな契機はティモシー・マクヴェイの父と妹に会ったことです。
テレビに映った父親の陰鬱な表情を見て、「彼も同じ犠牲者の一人なんだ。息子の犯行によって、心の傷を受けている」と感じた。
「マクヴェイのお父さんは毎朝起きると、自分の息子だけでなく、ジュリーと167人の犠牲者のことがまず頭に浮かぶに違いない。とすれば、一人の娘を失った自分以上の被害者じゃないか」と考えるに至った。

爆破事件の3年半後、バド・ウェルチさんはマクヴェイの父と妹を訪ね、3人で肩を寄せて泣きじゃくった。
そして、「僕ら3人は同じ気持ちだよ。君のお兄さんを死なせたくはない。そのためにできることは何でもするから」と言った。
バド・ウェルチさんは「この時ほど自分が神のそばに引き寄せられたと感じた瞬間はない」と思った。

1990年、ジョニー・カーターさんの孫娘キャサリン(7歳)は性的暴行を受けた後に刺殺されました。
犯人のフロイド・メドロック(19歳)を「この手であの男を絞め殺してやりたい」と思った。

ところが、その年の暮れから2ヵ月間、放射線治療のため入院生活を送る中で命について深く考え、そのうち変化が起き始めた。
そして、足が遠のいていた教会に再び通い、孫娘の命を奪った男への「ゆるし」ということについて、牧師と対話を重ねた。
あらためて気づいたのは、「物事には全て両面がある」ということ。

フロイド・メドロックは幼少時代、性的・精神的に家族らの虐待を受け、高校を中退し、友だちもほとんどいなかった。
家庭環境とか教育環境はフロイド・メドロックが自分の意思で選んだものじゃない。

ジョニーさんは「彼に対する怒りにさいなまれて生きていくよりは、彼をゆるして、多くの人が知らない彼の内面を理解しよう」と思うようになりました。死刑よりは仮出所なしの終身刑を望むようになり、地元の死刑反対グループに参加し、メドロックと文通を始めました。

入江杏さんは中谷加代子さんにゆるしについて質問しています。(「刑事司法と被害者遺族」)
『ゆるし』は加害者のためというより、『被害者』のためにある、と私は思うのです。もし私が、更生教育の一端を担えるなら、加害者の中の被害性に呼びかけるしか、できない気がします。

中谷加代子さんの返事。
被害者から加害者に対しての『赦し』は、こだわりを持っている被害者がそれを手放すことが出来れば、救われるのは『被害者』。また、同じことが加害者にも言えると思います。加害者が、事件を起こしてしまった自分を赦せるかどうか。これを赦すことができる最後の一人は、きっと加害者本人だと。被害者からの赦しは、加害者の力にはなるけれど、それが全てではないと思っています。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

平野啓一郎さんは、憎しみにのみ共感を示すのではなく、それ以外の部分で被害者をサポートしていくことで、被害者の気持ちに寄り添っていくことが可能なのではないかと言います。
子どもたちが父親を殺された恨みを抱えながら、人生の大半の時間を費やして生きていく姿を見たとしたら、僕は彼らに「一度しかない人生だし、もっとほかのことに時間を使ったほうがいいよ」と声をかけてあげたいと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(10)

2024年03月18日 | 死刑
⑪ 死刑執行と気持ちの区切り

死刑執行が遺族にとっての慰めや癒やし、あるいは気持ちの区切りになるでしょうか。

平野啓一郎『死刑について』は否定します。
社会は勝手に、遺族は死刑にならないことには収まりがつかないし、死刑になったらそれで一つ区切りがつくと考えて、犯人が死刑宣告を受けて死刑にされたら、途端に遺族のことはすっかり忘れてしまいます。しかし、実はその時にこそ、遺族は社会の中で最も孤独を感じているかもしれない。加害者を憎むということにおいてのみ被害者の側に立った人たちは、加害者に死刑が執行された途端に、被害者への興味を一切失ってしまいます。

加害者が死亡すれば、恨みや怒り、悲しみが消えるのかというと、そうは思えません。
大山友之さん(坂本都子さんの父親)は「殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない」と語り、強盗殺人で妻を失った方は「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね」と話しています。

布施勇如「米国の犯罪被害者支援―新聞記者の視点から」に、孫娘を殺されたジョニー・カーターさんへのインタビューが書かれています。
ジョニー・カーターさんにメドロックの死刑執行によって区切りがついたのかどうかと尋ねますと、「たしかに私はメドロックをゆるしはした。だけれども、事件や悲しみを決して忘れることはできない。死刑によって区切りがつくなんて、私には想像できない」と言っています。

名古屋の闇サイト殺人事件では、1人が死刑(すでに執行)、2人が無期懲役となり、無期の1人は他の事件で死刑になりました。
娘さんを殺された磯谷富美子さんはこのように語っています。
事件は忘れたくても、大切な娘を失った悲しみは、時間の経過に関係なく、薄れる事も無くなることもありません。深い悲しみに形を変えるだけです。一日たりとも、涙を流さぬ日はありません。だからといって、泣いてばかりでも、憎しみに満ちた生活を送っている訳でもありません。表向きは、ここにいらっしゃる皆様と同じように過ごしています。でも、二度と幸せを感じる事はありません。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)
この喪失感を死刑執行で埋めることはできないと思います。

⑫ 遺族へのケア

弟さんを殺された原田正治さんは被害者への支援を訴えています。
被害者は平穏な生活の中から、加害者やその家族と一緒にがけの下に突き落とされる。で、「助けてくれ」と、がけの上に向かって声をあげる。ところが、「死刑は当たり前なんだ。なくちゃいけない」と言う人たちは、誰一人として下にいる我々に手を差し伸べてくれない。手を差し伸べようとする感覚さえない。そして、加害者を死刑にして、これで終わったと思っている。我々はがけの下に放り出されたまま。

日本では被害者に対するケアが不十分だと、平野啓一郎さんは『死刑について』で批判しています。
被害者がほとんど社会からケアされていない状況では、「死刑制度は反対」とか「加害者にも人権がある」という声に、社会は非常に強く反発します。「被害に遭った人たちはあんなにかわいそうな目に遭っているのに、なんで加害者の人権が守られなきゃいけないんだ」と。僕はこの反応は、ある意味では一理あると思います。しかし、よく考えてください。被害者のケアを怠っているのは、国だけじゃありません。「準当事者」である僕たちですよ。僕たちは、ニュースで見た犯罪被害者のために、一体、何をしているのでしょうか?。
犯罪被害者は犯罪に巻き込まれたうえ、社会からも置き去りにされている現実がある。
傷ついた人たちを受け入れていくという意思を社会が明確に示し、生きていく上で困らない金銭的、精神的、現実的な支援をすべき。
ところが被害者の気持ちを考えろという世間は、被害者への支援制度改革の要望には無関心である。

金銭面についてですが、家計を支えていた家族が死亡すれば収入がなくなります。
被害者が損害賠償を求めても、加害者が支払った賠償金の割合は、傷害致死で16%、殺人で13.3%、強盗殺人で1.2%。
犯罪被害者給付金の額は320万円~2964万5000円で、年齢や被害者の収入額などから算定され、家族の生計を支えている場合はその人数に応じて加算されるそうです。

青木理さんの話だと、日本は予算が少なくて遺族給付金の平均額は約600万円だが、欧米では数百億円規模の予算を組んでいて、日本とは桁が違うとのことです。
死刑を声高に主張するより、生活面の心配を共有し手助けしてくれる人の存在が重要だと思います。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(9)

2024年03月13日 | 死刑
⑨ 被害者遺族の気持ち

被害者や遺族の思いは複雑で、時間の経過とともに気持ちが変わることがあれば、いつまで経っても変わらない部分もあり、一人ひとりが違うそうです。

絶対に死刑、すぐに処刑してほしい人。
死刑とは言い切れない人。
死刑に反対の人。
死刑を望まない理由もさまざまです。
罪に向き合ってほしいと考える人。
執行で区切りがついた人。
執行で区切りがつかない人。
執行されても許せない人。

家族の中でも考えが違います。
オウム真理教の死刑囚が死刑執行された時の、坂本堤弁護士の家族のコメントです。
坂本ちよさん(坂本堤さんの母親)
私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります。

大山友之さん(坂本都子さんの父親)
殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない。

大山やいさん(坂本都子さんの母親)
私は死刑を喜ぶ人間ではない。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/574b14ef16537139c29feaf54c6519f0

妹一家4人が殺された入江杏さんは「亡夫もそうでしたが、息子も応報・厳罰派です」と書き、さらに「私は揺れています」とも記しています。
入江杏「刑事司法と被害者遺族」にこうあります。
世間の「被害者遺族はこうあるべき」という「べき論」には違和感を抱いてきた。被害者遺族の中に、憎しみが生きる糧になっている人がいてもいいし、加害者やその家族に寄り添うという考えの人がいてもいい、というのが私の立ち位置だ。刑罰・司法に関して、「厳罰か、修復か」、死刑に関して、「存続か、廃止か」、という二項対立ではなく、柔軟で豊かな論議を望む。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

⑩ 死刑と終身刑

死刑に反対の遺族がおられます。
中谷加代子さんの娘さんは同級生に殺され、加害者は自殺しました。
死刑制度について、私は、「死刑は国家による合法的な殺人」だと考えています。罪を犯してしまった人に必要なのは、向き合い、反省、謝罪、更生、そして本来の自分を生きることであり、そのための時間です。「死刑」は、その贖罪の機会を奪ってしまうことになります。
死刑ではなく、加害者の更生を望んでいるのです。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf

終身刑を望む遺族もいます。
仮釈放中の強盗殺人事件のもう一人の被害者遺族への宮下洋一さんのインタビューです。
宮下「もし、遺族の心に平安が訪れないとなると、死刑は何のためにあるのでしょうか」
息子「僕の中では、何も解決しません。西口が死のうが生きようが、母親は帰ってこないわけですからね」
宮下「ならば、死刑でなくとも、仮釈放のない終身刑という考え方もあると思うのですが」
夫「それやったら、まだ分からなくないです。その代わり恩赦がなく、死ぬまで監獄生活。(略)悪い環境の中で一生暮らすなら、いいんやないですか。一瞬にして死刑を受けるよりも、きっと苦しくて、それが死ぬまで続くことを考えればですね」
宮下「酷い殺され方なら、遺族は、何が何でも犯人の死を求めていると思っていたのですが、それは……」
息子「その思いは変わらないですよ。要は犯人が、死ぬ死なんよりも、苦しみを受けろと。それが死刑(の執行)がいつ来るのか分からんという恐怖に慄くのか、一生普通の生活ができないか、どっちのほうが苦しいのかということです」
宮下「苦しむならどんな手段であれ、それを肯定したいということですか」
夫「そうですね。むしろそうですね」
宮下「死んでしまえば、もう相手を苦しませることはできないですよね」
夫「死刑になったら、そこで相手の苦しみはなくなるし、我々も空虚になるだけですよね。(略)死刑をなくすけれど終身刑に置き替える。それやったら考えられんことはないですね」(『死刑のある国で生きる』) 

テキサス大学元教授マリリン・ピーターソンと、ミネソタ大学教授マーク・ウンブライトは、極刑が遺族の感情にどう影響を及ぼすかの研究を行なった。
死刑があるテキサス州と、仮釈放のない終身刑を最高刑とするミネソタ州の遺族を比較している。
調査結果によると、ミネソタ州の遺族のほうが体力的、心理的、行動的に健康であることが分かった。
死刑がある州では、裁判が長引いたり、死刑判決が覆ったりするなどの影響もあり、遺族のストレスが継続する特徴があることを証明した。

日本とアメリカは事情が違いますが、死刑が遺族の負担になることもあるようです。

内閣府による死刑制度に対する世論調査(2019年)によると、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと答えた者の割合が35.1%です。
https://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-houseido/2-2.html
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(8)

2024年03月06日 | 日記
⑧ 被害者感情と死刑

「死刑囚表現展」のアンケートに「被害者の方のことを考えると廃止とは言い切れません」と書いている人がいます。
死刑制度に反対できない一番の理由は被害者感情だと思います。

自分の家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問う人は多いです。
宮下洋一さんがインタビューした川上賢正弁護士はこう言っています。
死刑はよくないとおっしゃるお坊さんには、私は、「もしあなたのご家族が殺害されたとしても、死刑はよくないと言い切れますか」と意地悪な質問をします。すると、大抵のお坊さんは黙ってしまうのです。(『死刑のある国で生きる』)
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家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問われたことがあり、もし自分や家族が加害者になったらと想像してほしいと、私は答えました。
人間は縁によっては何をするかわからないからです。

平野啓一郎さんも同じことを聞かれるそうです。
死刑廃止の立場に立って話をすると、「自分の家族を殺されても犯人をゆるすことができるのか」とよく聞かれます。僕はこれに対しては自信がありません。犯人をゆるすことができないかもしれません。(『死刑について』)
しかし、死刑を求めないということと、犯人をゆるしということは切り離して考えるべき。
犯人をゆるせないなら死刑を求めて当然だということにはならない。

「調和を目指す殺人被害者遺族の会」(事件に巻き込まれて家族を失いながらも、死刑に反対する家族の会)の中心メンバーとして活躍されているバッド・ウェルチさんはこのように語っています。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

1995年、ティモシー・マクベイがオクラホマシティにある連邦ビルを爆破し、168人が亡くなった。
バド・ウェルチさんはこの事件で娘のジュリーさんを失った。
娘を失った後、酒を飲み過ぎて二日酔い、頭痛という生活が30日間続いた。
私はジュリーが殺されるまで、ずっと死刑反対の信念を持っていました。でも、娘が殺されてから1年間、私は死刑賛成になりました。1年かかってやっと、「このままじゃいけない」という気持ちになったのです。どうしてそう思ったのかというと、処刑の日、二人の犯人を自分の手で処刑台に送ることを想像してみたら、それは自分にとって決して癒しのプロセスにはならない、ということに気がついたのです。犯人を葬りたいという気持ちは、私にとって復讐以外の何ものでもない。この復讐という気持ちこそ、犯人が犯行に及んだ原因だったのです。

事件の6ヵ月後のアンケートでは、被害者家族の85%が死刑に賛成だった。
事件から6年2ヵ月後にマクベイの処刑が行われた時点で、2000人以上の犠牲者家族の50%は死刑反対になった。
ですから、被害者家族として一番大切なのは時間なんです。ある人は2年かかった。他の人は、3年、4年、5年かけて死刑反対になった。6ヵ月の時点ですでに死刑反対だった人も15%いたんです。

当初は死刑を望みながら、次第に悩む人もいます。
小学1年の娘さんを殺された木下建一さんも同じことを言われています。
加害者は無期懲役が確定し、
極刑を主張し続けた建一さんは「あいりのことを思うと、『許せない』という気持ちは強い。しかし、人の命を奪う主張をすることは非常に苦しかった」と、複雑な胸中を明かした。

あいりちゃんの「敵討ち」だと信じていたが、その言葉を口にするたびに重圧を感じていた。
「極刑を主張することは殺すことと同じ。それではヤギ受刑者と同じことになるのではないか」との思いがぬぐえなかった。

差し戻し控訴審の判決後、「あいりに申し訳ない。死刑判決が必ず出されるものと思っていた」と語っている。
それから3カ月余り。「人の命を左右するようなことにかかわらなくなり、非常にほっとしている」との思いが正直な気持ちという」(毎日新聞2010年11月16日)
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/42fad59584941d42c1fcb1209651ff7f

2011年、仮釈放中の男が2件の強盗殺人事件を起こした。
被害男性の姪は裁判で「被告に極刑を望みます」と断言したが、本音は違った。
宮下洋一さんのインタビューです。
姪「心の中では、(加害者が)死ぬからといって何が変わるの、という気持ちでした。でも、その時にはそれしか選べないじゃないですか。償って出てきなさい、なんて言えないじゃないですか」
宮下「望むのは終身刑ですか」
姪「そうですね。でも、今までに悪事を働いて出所してきた人って、実際はどうなんでしょうね。そりゃあ、ちゃんと善人になって帰ってきてほしいですけど。また同じことをするなら、終身刑で全うしてほしいという思いがあります」

加害者を「奴」と呼ぶ。
姪「今日、死ぬのだろうか、毎日、奴が考えていると思うと辛いですよ。たとえ叔父が殺されたとしてもです。どんな殺され方であったとしても、私が極刑と言ったことによって奴が殺されたとしても、私は嬉しくないよね。(略)
極刑と言ったけど、私はそれを望みませんわ。人が人を殺せるなんて、いくら悪いことをした人に対してもできないじゃないですか」

遺族の気持ちは揺らぐものですし、時間の経過とともに変化が生じるようです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(7)

2024年03月02日 | 死刑
⑦ 加害者の更生

被害者は加害者の更生への努力をどう考えるでしょうか。
加害者が更生するということも、被害者の側にとって本当によいことなのかは、単純には言えないことだと思います。
このように平野啓一郎さんは『死刑について』で語っていますが、加害者の更生を考える遺族もいます。

入江杏「刑事司法と被害者遺族」に、犯罪を犯した人に被害者の経験を伝える人権の翼のメンバーである小森美登里さんと中谷加代子さんの言葉が引用されています。
中谷さんは「(加害者も)幸せになっていい」、小森さんは加害者を「責める」ことなく、常に「寄り添う」、と言う。どうしてそんなことができるのか、なぜ、そんな道を選んだのか、と思う人も多いだろう。

小森美登里さんの長女は高校1年生の時にいじめを受けて自ら命を絶ちました。
死を選ぶ4日前の香澄さんの言葉は、「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていない(いじめている)あの子たちの方がかわいそうなんだ。

中谷加代子さんは刑務所や少年院で話をしています。
入江杏さんは中谷加代子さんの話を聞いた感想を書いています。
私は、中谷さんが受刑者の人に語りかける言葉を聞く機会を得た。中谷さんの真摯な姿に感銘を受けた。「事件はなぜ起きたのか。環境や生い立ちがあなたを追い詰めたのかもしれません。」、「苦しかったですね。」、「皆、弱いんだから」。中谷さんが声をかけると、俯き、涙ぐむ受刑者もいた。更生を願わずにはいられなくなるのだ。

中谷加代子さん。
初めて美祢社会復帰促進センターに行ったときは、お話しすることで精一杯でした。現在ほど加害者寄りの感情を持っていたわけではありません。実際に行ってみると、目の前の受刑者は、『どこにでもいそうな』、『普通の人』でした。
矯正教育の末端に参加させてもらって、幸せに蓋をして、それでも生きなくてはならない人がいることを知って、やっぱり、この人たちにきちんと生きてほしいと思いました。(略)
目の前の受刑者に、生き直してほしい。幸せを感じてほしい。100%加害者、100%被害者はいない。人間ってみんな弱いものだし、加害者・被害者と今の立場は違うけど、いつ反対になるかわからない。違わないとこもいっぱいある、と思っています。

中谷加代子さんへの入江杏さんの質問
厳罰・応報、死刑存置へと向かう御遺族がおいでなのに、なぜ、かよちゃんが、『自己肯定感を持ち、自分の人生を主体的に生きることが、本物の反省・心からの謝罪に繋がっていく。』と思い至っていくのか?お聞かせください。

中谷加代子さんの返事
もし、私が加害者だったら、『どうしたら反省や謝罪に至れるか』。私なら、温かい言葉をかけてもらったとき、ゆるしてもらったとき、初めて、相手のことを考える余裕が生まれると思いました。反省する気があっても、強要されたり、責め続けられていたら、心は反省から遠のいて、ひいては自暴自棄になるかも。逆効果だと思う。
私なら、反省できるような状態においてほしいし、教育も受けたいです。『自分が加害者なら』と考えられたら、きっと理解してもらえると思うけど、相手を憎んでいるときは、『自分なら』と考えるのが難しいんでしょうね。

アンケートに「処刑されたら罪をつぐなえなくなる」という感想がありました。
償いについて中谷加代子さんはこう書いています。
奪ってしまった命を償うことは、自分の命を犠牲にしてもできません。償うことができるとしたら、それは、加害者がその後の人生をどう生きるのか、加害者の人生の中にこそ「償い」があると、私は思います。罪を償いたいと思う加害者には、残りの人生を無駄に生きるのではなく、充実して生きてほしいと思います。
https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/09/07.pdf
加害者の更生は償いにつながるように思いました。

宮下洋一さんは欧米の人と日本人との違いを言います。
結局、日本人は、欧米人のそれとは異なる正義や道徳の中で暮らしていることになる。だからこそ、西側先進国の流れに合わせて、死刑を廃止することは、たとえ政治的に実現不可能ではなくとも、日本人にとっての正義を根底から揺るがすことになりかねない。
人を殺した人間を死刑にすることが日本人にとっての正義だということでしょうか。

過ちを犯した人間は死をもって償うべきだという価値観について、平野啓一郎さんは反論します。
この価値観においては、死なずに生き続けていることは無責任であり、罪を自覚していない、社会に対して本気で謝罪していないことと受け止められます。

死んでお詫びをするという言葉がありますが、中谷加代子さんの娘さんを殺した加害者は自殺しています。
自殺することがお詫びになるでしょうか。
遺族はそれで気が休まるのでしょうか。
死をもって償うのではなく、どう生きるかが償いにつながるという中谷加代子さんの考えはもっともだと思います。
反省は更生につながらないと意味がありません。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(6)

2024年02月25日 | 日記
⑥加害者の反省

死刑は加害者に反省を促し、命の尊さを教えると主張する人がいます。
宮下洋一さんも死刑によって反省するという考えです。
私は、人の命の大切さに重きを置くならば、重大犯罪に手を染めた者たちが、「より良く生きる」ためにも、極刑に向き合うべきだと改めて考えるようになった。死刑囚は、そうすることで、生の尊さを知ると思うのだ。(『死刑のある国で生きる』)
せっかく「生の尊さ」を知っても、死刑が執行されたら「より良く生きる」ことは不可能になります。
生の尊さを知っても、結局は執行するなら、反省を求めるのはおかしいと思います。

平野啓一郎さんは『死刑について』で、死刑が反省を促すという考えに反対します。
死刑について、死という恐怖に直面させることによって、加害者に深い反省や改悛をさせるという考え方に、僕は懐疑的です。暴力が引き起こす恐怖を以て反省を強要するという方法は、人間の更生のあり方として正しいとは思えません。
人を殺した人間に対して、死と直面させ、同じ恐怖を味わわせるべきだという意見もありますが、それも賛同できません。

「死刑囚表現展」のアンケートに「どの絵や表現にもあまり反省している様子は伺われず、自己主張のかたまりのような気がしました」という声があります。
では、どんな絵を描いたら反省していると認めるのでしょうか。

高橋正人弁護士は宮下洋一さんのインタビューの中で、「反省するような人間だったら、人なんか殺しはしませんから」と語っています。
弁護人の任務とは、依頼者である被告人に誠実に尽くすこと、すなわち、誠実義務にほかならない。(佐藤啓史「展開講座 刑事弁護の技術と倫理」)
弁護人は被告の話を十分に聞いて弁護を行わないといけないのに、殺人犯は反省などしないと決めつけていたら、ちゃんとした弁護ができるのでしょうか。
高橋正人さんが刑事事件の弁護を依頼されたら、どう弁護するのかと思います。

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』にあるように、無理強いさせられた反省では更生には逆効果です。
娘さんを殺された中谷加代子さんは加害者の反省についてこう語っています。
裁判にあたり、被告が反省しているかどうかを情状酌量の材料にしているのは、正しい判断の妨げになるのではないか。また、被告の更生にも逆効果になるのではないか、と考えています。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)

反省が形だけになっていると中谷加代子さんは指摘します。
事件・事故を起こした直後、加害者は、被害者のことではなく、「自分はこれからどうなるのだろう。」と考えるのではないでしょうか。少しでも刑を軽くしたいと考えるのは自然なことです。被害者に対する想いが醸成されていない段階で、性急に反省を求めても、その反省は書かされた反省文のようなもので、中身のないものになるように思います。

谷川弥一元議員が辞任した時の記者会見を見ますと、41分すぎぐらいから不機嫌そうに「私が悪いんです」を連発し、さらには「死ぬしかない」などと言っているのを見ると、本当に反省しているのかと感じます。

検事が死刑を求刑し、裁判官が死刑判決を下す際、「矯正は不可能」「更生の可能性は著しく低い」などと言います。
しかし、正田昭さんや島秋人さんの死刑囚の文章を読むと、反省してないとか更生の可能性がないとか言えません。

島秋人さんは歌人として知られており、『遺愛集』が出版されています。
「微笑みの おのずと生(あ)るる 愛しさを 幸の極みと 生きて悟(し)り得る」
「許さるる 事なく死ぬ身の ことのひとつを しきりと成して 逝きたし」
「良き人の 憶ひかさなる 年賀状 人に恵まれ 去年(こぞ)より多き」

支援者の前坂和子さん宛の手紙。
耳にしもやけが出来ました。かゆいし、あついです。冷たい指をあたためるのに一寸べんりだなあ。(略)
現在の生活は苦しい事の多い中に人に知られない喜びもあることを知ったことをとてもうれしく思うのです。太陽の光が細くさし込む金網の窓に顔をよせて、めをつむると、こんな幸せは僕以外に知らないだろうなあーと思うのです。両の手のひらに日ざしを受けて掌の汗が小さく光っている時、いのちって尊いなあー、見れる事はうれしいなあー、あたたかいなあーとつぶやきたくなるのです。光は掌の玩具です。しもやけになりかけの耳や足指、この指のかゆみも気持の好いものとなる夜の布団の中です。(略)
にくむべき罪人であっても極悪ではない。極善と言う人が居りますか? おそらく人間としてないだろうと思います。

絶対的悪人はいません。
人は誰でも生き直すことができます。
自分が大事にされている、他人に認められているという感情を持つことで、人に対する思いやりや罪の意識を持つことができるようになるそうです。
しかし、一人では難しいです。

坂上香『プリズン・サークル』は島根あさひ社会復帰促進センターで行われている回復共同体のプログラムを受ける受刑者を追ったドキュメンタリーです。
自分の過去を振り返り、プログラムを受ける仲間たちに貧困や虐待などの被害体験を語る中で、自分自身と向き合うことによって更生の気持ちが生まれてくるのです。
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