新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

東京国立博物館でお花見

2024-04-10 21:46:58 | 美術館・博物館・アート

好天に誘われて上野の東京国立博物館(トーハク)に行ってきました。

恒例の「博物館でお花見を」は先週日曜日で終わってしまい、行けずじまいでしたが、本物のサクラはまだまだ間に合う という次第です。

で、きょうの上野公園は、とても平日とは思えないほどの賑わい

そして、なんと外国人の多いこと
そして、人出が多いだけでなく、服装話す言葉多様性に満ちていました。

これだけでも十分に驚いたのですが、トーハクに入場すると、本館前の行列びっくり

これは、特別展「中尊寺金色堂」を観ようとする人たちの列で、なんでも「60分待ち」だとか
私がこの特別展を観た1月末には(記事)、行列することもなくすんなり展示室に入室できて、ゆっくりゆったり見物できたのですが、今週末が千穐楽ということもあってか、こりゃ早めに観に行ってよかった…と思ったのでした。

   

さて、きょうの私のトーハクでのお目当ては、敷地内のサクラでした。
トーハクには咲く時期の違う数種類のサクラが植えられていて、長い期間、サクラを楽しめるのです。

遅咲きのカンザンなんて、まだツボミの状態でした。

でも、私一番のお気に入りのイチヨウザクラは、ちょうど見頃を迎えていました。

ほんとかわいらしい花です

また、もう一つの私のお気に入りのオオシマザクラほぼ満開でした

一方で、葉桜になりつつあるソメイヨシノほどではないにしろ、ミカドヨシノも、盛りを過ぎた感じ…。

でも、これを眺めながら食したランチはなかなかオツなものでした

   

このように、「ソメイヨシノだけがサクラじゃない」
なのですが、「サクラだけが花じゃない」 でもあるわけで、サクラ以外の花も楽しんできましたので、そちらも紹介しましょう。

まずはこちら。

これを「花」と呼ぶのはどうかと思いますが2か月ほど前に花と香りを楽しませてくれたウメをつけていました。

また、こちらは「花」と呼ぶには地味すぎるカエデ

まぁ、今でこそ地味ですが、カエデ主役ですから…

ここまでウメ・サクラとくれば、モモを忘れてはいけません
九条館の前では、「ヒナタシダレ」が、まごうことない桃色の花見事に咲かせていました

私は、今週末、今シーズン初のドライブ帰省を予定しています。
この季節のドライブ帰省のお楽しみは、東北道沿線のサクラと、福島辺りモモの花なんですが、今回はどうでしょうか?

   

サクラの季節は、どうしてもばかりを見てしまうものですが、こちらで書いた皇居・乾通りで見かけた少年のように視線を変えると、思いがけないものを見つけるものです。
表慶館裏の日陰ではハナニラが咲きまくっていましたし、

九条館の傍らではシャガが咲きまくっていました。

ところで、「シャガ」という奇妙名前の由来はどういうものなのでしょうか?
Wikipediaを見てもよく判りませぬ
そのうち気が向いたら調べてみます

トーハクに着いてから約1時間半庭園レストランで過ごしてしまった私、この後、本館(日本ギャラリー)の展示も楽しんだのですが、そのことは、これまた気が向いたらブログに書くかもしれません

それはともかく、ここまで、歩いた楽しんだ

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流れ解散のような「MISIA星空のライヴXII」の幕引き

2024-04-09 16:33:32 | MISIA/ニュース

しばらくブログを書く気分になれなかったのだけれど、やはり先週のことは「備忘録に残しておかなくては と、ブログの編集画面を開いたら、あれま 編集画面がモデルチェンジしてる
これまでの機能は残しているのだろうけれど、とりあえず、旧バージョンの編集画面から入力することにします。

さて、今週は、台湾遠征記をブログに書いているはずだったのですが、私が台湾に出発する予定の前日、4月3日に発生した台湾東部沖地震のため、急遽、遠征をキャンセルしました

4月3日の朝、搭乗予定だった台北行きの飛行機の出発時刻まで24時間を切り、オンラインチェックインできるようになったのとほぼ同じタイミングで、地震が発生しました。

「翌朝の空港リムジンバスの中でチェックインしよう」という内容をポストするちょっと前に、TV沖縄で大きな地震があったというニュースを見ていたのですが、まさか直接自分に影響が及ぶ地震とは思いもよりませんでした

やがて、地震の震源台湾の東岸近くで、台湾・花蓮県などで大きな被害が出ていることが伝えられて、ちょっとマズいかも…と思うようになりました。

そして、地震発生から2時間というとんでもない早さで、「MISIA星空のライヴXII」台北公演の中止が発表されました

この発表を見たときは、「え"と完全に思考停止状態に陥りました。

そりゃねぇ、1月末「MISIA星空のライヴXII」のアジアツアーが発表されて以降、とっくに有効期限が切れていたパスポートを再取得するべく、秋田市役所から戸籍謄本:全部事項証明書を取り寄せることから始めて、こちらの記事で書いたように、2月2日には台湾のサイトでライヴチケットを購入し、マイレージ優待の航空券を申し込み、お高いホテルを予約し、と一連の作業をこなし、その後はガイドブックを購入したり、新橋の台湾観光協会まで出かけて観光リーフレットを集めたりと、着々と準備を進めてきたのに、まさか公演前日中止が決まってしまうとは…

で、どうする台湾遠征?

振り返れば、2011年3月には、東日本大震災「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL QUEST」関西公演3本(神戸・京都・大津)順延になったものの、京都遠征を決行したし(記事)2020年10月には、コロナ禍「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」ツアーが全面的に順延になったものの、北海道遠征(旭川・札幌)を決行(記事)と、2度も「空振り遠征を経験済みの私ですが、さて、今回はどうする?

しばらく検討した後、台湾遠征をキャンセルしました。

台北市内では、地震の被害は大きくなさそうだったものの、日本の気象庁発表で「M7.7」(冗談のような値)という大地震のあとだけに、余震があるだろうし、大災害に見舞われた直後の台湾にでかけて楽しめるのか? と思った次第です。

さっそく、重い気分で、ホテルと航空券キャンセルの手続きに取りかかりました。

航空券は、3,100円の手数料はかかったものの、サーチャージなどの税・手数料マイレージすべて返ってきました
参ったのは、ホテルの返金可能なキャンセル期限が先月末で、「お高い宿泊料」全額が回収不能だったこと。
エクスペディア電話してキャンセルしたのですが、すべて自動音声での対応で、淡々と「返金無し」を告げられるのは、ほんと、感じ悪かった
今後は、極力エクスペディア使わないようにします

残るはチケット代の返金なんですが、郵送料は返金されないのだろうな
などと考えながら、記念として、チケットをスキャンしました。

   

ところで、中止になった台北公演は、「MISIA星空のライヴXII ~Starry Night Fantasy~」ツアーファイナルになるはずでした。

私は、国内ツアーファイナルになった有明 2 daysにも行きました。そして、ツアー完走祝いつつも、ちょっと寂しさの混じった雰囲気を楽しんだのですが、それでも、正真正銘のファイナル・台北公演が控えていることもあり、私の気持ちの入れ方に油断があったような気がしています

それが、「流れ解散」のようにツアーがなんとなく終わってしまい、ちょっと気持ちの整理がつかない感じでした。
それでも、ようやく現実を受け入れて収録していた横浜2日目の模様がディスク化されることを楽しみにしています

ということで、ツアー全23公演のセットリストを載せましょう。
こちらの記事に載せたセットリストに香港公演分を追加しただけですが…

クリック/タップすると、PDFが開きます。

「25th Anniversary」としてアリーナツアーを2本もやってしまったMISIAは、今頃はふぅ~と、達成感脱力感につつみ込まれるような感覚なんじゃないかな? と想像しています。

その一方で、私を含む多くのファンは、次のツアーの発表を待っているんだと思います。
今年は「Misia Candle Night」を開催するのかな? ホールツアーをやらないかな? Birthday Liveはあるのかなとか…。
そうそう、「HELLO LOVE」以来のオリジナル・アルバムにも期待したいところです。

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好天の下、皇居の乾通りを歩いてきた

2024-03-27 19:04:02 | タウンウオッチング

きょうは青空が広がって気温も上がりこれは出かけねば ということで、東京都心に行ってきました。
目的は3つありまして、

台湾観光協会東京事務所台湾の観光資料を収集
和光ビルのディスプレイ見物
皇居・乾(いぬい)通りの一般公開に参加

でした。
来週木曜日に迫った台北遠征に向けての準備の一環で、

は今週土曜日に放送されるテレビ朝日ドラマプレミアム「黄金の刻」記念ディスプレイを見てこようという算段。

そして、銀座で昼食を摂った後(小籠包美味しかった)

この記事のメイン、皇居を目指しました。

   

私が皇居・乾通りを歩くのは、2018年3月25日(記事)大嘗宮の見学も兼ねた2019年12月3日(記事)以来、3度目です。
過去2回に比べて、人出はかなり少なく、行列を作ることなく、坂下門に至りました。

暖冬だったわりには、3月に入ってから寒い日が多く、サクラ開花が遅れていることが大きいのでしょうねぇ

実際、今回とほぼ同じタイミングで出かけた2018年のときと比べても、今回は、咲いているサクラごくわずかでした。

皇居内には、様々な品種のサクラが植えられているので、早咲きの品種なら、咲いていたりするわけです。

そんな中、「私が主役よとばかりに咲き誇っていたのがツバキでした。

   

過去2回の「乾通りの一般公開」では、途中から、西桔橋(にしはねばし)から本丸に登る」乾門(いぬいもん)から退場(下城)する」2コースを選べたのですが、今回は西桔橋閉鎖されていて、乾門から退場(下城)する」一択でした。
どうしてなんだろうな…

でも、本丸にも行ってみたい人は、乾門からすぐの北桔橋(きたはねばし)を渡れば天守台の裏手に出られるわけですから問題は小さい

でもでも、西桔橋を渡って急坂を登る経験はそんなにできることではないだけに、ちょっともったいない気がしないでもありませんでした。

   

さて、終盤になって、咲いているサクラが目につくようになってきました。

ベニシダレザクラとか、

ヨウコウ(陽光)とか、

コシノヒガンザクラとか…。

この「コシノヒガンザクラ」という品種名は、コシノさんという人が発見したからというのではなく「越の国・富山に自生している彼岸桜」という意味らしいです。

と、ほとんどの人たちがを眺めているのに、一人だけしゃがみ込んで地面を見つめている少年がいました。
いったい彼は何を見ているのだろうかと思ったら、小さな小さな花が咲いていました

PictureThisで調べると、これは「オオイヌノフグリ」なる珍妙な名前を持つ「侵入生物」でした
こんな名前を付けられた植物を不憫に思うと同時に、他の人とまったく違うものに興味を持って観察するこの少年感心しました。
なんか凄い

ということで、終点・乾門から娑婆に戻りました。

ここで、この乾門について、この記事を書く過程で知ったトリビアをご披露いたしましょう

私、江戸城の「乾(北西)の方角」にあるからそういう名前なんだろうな漠然と考えていたのですが、実はこの門、江戸城時代には無かったんだそうな

こちらのサイトによれば、

この門はもともと坂下門の内側にあった「西の丸裏門(西丸裏門)」ですが、1888年(明治21年)の明治宮殿造営に際して現在の場所に移設し、黒の薬医門形式の門に改築したそうです。
皇居から見て乾(いぬい)の方角にあるため、乾門と名づけられました。

だそうな

考えてみれば、江戸城の門は数多くあるものの、「方角」の名前がついている門は「乾門」だけ

江戸城では珍しく、高麗門櫓門とで枡形を構成するつくりになっていないことは気になっていましたけれど(現在の坂下門は、明治期に高麗門や橋が取り壊され、櫓門90°向きを変えて移築されたことは知っていました)、まさかこんな事実があったなんてねぇ

   

こうして「皇居・乾通りの一般公開」を体験し終えた私は、どこに立ち寄ることも無く、竹橋駅から東西線に乗って帰路につきました。

そうそう、竹橋門跡では菜の花どわぁ っと咲いていて、ここはでした。

「ここはでした」じゃない
乾通りヤナギ新緑がきれいで、を感じさせてくれてたのでした

それにしても今年は、近年稀なほどサクラ開花が遅いですなぁ。
ここ数年は、各地の「さくら祭り」が開催される頃には葉桜だったことが多かったのに…。
私の今年の花見は、台湾遠征から帰ってきてからですな
なお、「乾通りの一般公開」はこんどの日曜日(3月31日)までですから、咲き誇る乾通りのサクラを愛でるのは無理っぽい
「サクラの時期が終わるまで一般公開を延長してくれたらいいのにという声があるかもしれませんが、警備や場内整理・案内に費やされているマンパワーは相当なもので、おいそれと延長できるものではないと実感します。

まぁ、こんな年もありますよ

【追記】私の愛読書鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台に載っている江戸時代の江戸城のイラストを見たら、現在の乾門がある場所には、確かに門は無く、代わって「上覧所」という建物がありました。

千代田区のサイトによれば、

この場所には主に将軍が物事を見物する「上覧所」と呼ばれる施設がありました。旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄りました。

だそうです。(2024/03/28 21:00) 

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-5 【完結編】

2024-03-12 19:07:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4」のつづきです。

「新潟市歴史博物館みなとぴあ」本館を見学する前に、河岸のベンチに座ってひと休み。

朱鷺メッセHPのトップ画像は、ここから眺めた景色なんですな
ここから朱鷺メッセは、それこそ「目と鼻の先」ですが(冬期休業中だったウォーターシャトルなら約4分)、歩いて行こうとすると、のあるところまでぐるっと遠回りしなければなりませんので、20分以上はかかりそうです。
でも、まだ13:30でしたから、ゆっくりと本館を見学できそうだ と、のんびりと河辺の景色を楽しみました。

   

さて、みなとぴあ本館を見学

立派な建物です。
なにやら由緒ありそうな建物ですが、どこにも説明が無い
ミュージアムショップで購入したみなとぴあ総合ガイドブックに書かれていました。

博物館本館は、1911(明治44)年に西堀通6番町(現在のNEXT21所在地)に建てられた2代目の新潟市役所庁舎デザインを用いています。2代目庁舎は、道路に面してL字型の2階建ての建物でした。博物館本館はL字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています。

だそうです。
「L字の内側に展示・収蔵する3階建ての部分を付けています」とありますが、上手に背の高い部分を組み合わせているものだから、正面から見ると、なんの違和感もありません
別の角度から見るとこんな具合です。

みなとぴあ本館では、常設展に加えて、企画展「1964 -歓喜・悲嘆・奮励の366日ー」が開催中でした。

<span style="font-family: arial, helvetica, sans-serif; color: #0000ff;">1964年といえば、私にとっては「東京オリンピック」「阪神タイガースのリーグ優勝」の年のイメージでしたが、新潟にとっては、「国体と地震」の年だったんですねぇ。

企画展の展示は、「新潟国体」関係から始まります。

この年の国体(今年の冬季大会から名称が「国民体育大会(国体)」「国民スポーツ大会(国スポ)」と変更されたらしい) は、東京オリンピックとの兼ね合いから、秋季大会を春に前倒しして、6月6~11日に開催されたそうで、夏期大会(水泳)は地震のため中止とな。

展示されている当時の資料を見ると、国体開催を控えた地元は、今では想像できないほど盛り上がっていたことが察せられます。
そして、ほぼ新潟県内全域にわたって競技が行われ、全国から選手たちが参集するわけですから、当然ながらホテルや旅館ではまかないきれるはずはなく、民泊が当たり前だったようです。
そして、選手を受け入れた家庭には、推奨される食事のメニューやレシピが提供されていたなんて、まったく知らなかったし、考えにも及びませんでした

そして、春季大会がお開きになって、その余韻を味わう間もなく発生したのが「新潟地震」

新潟地震では、秋田でもかなり揺れたらしく(秋田市で当時基準の震度4)は、仕事で狭い路地をバイクで走っているときに新潟地震に遭遇して、「両側の家が倒れてくるんじゃないかと肝を冷やした」と語っていたことを思い出します。

地震の規模の割には亡くなった方26名だったものの、石油コンビナート数日間にわたって炎上する、約1か月前に開通したばかりの昭和大橋落橋する鉄筋コンクリートのアパートがゆっくりと横倒しになる、地面から水が吹き上がる、、とかなり衝撃的な映像・画像が残されています。

2017年7月に放送された「ブラタモリ」の新潟回のサブタイトルは「新潟は“砂”の町!?」でした。
新潟は信濃川阿賀野川の河口にできた町で、信濃川左岸の古くからの町は、信濃川の中州の上に作られたのだそうで、大きな地震が起これば「液状化」が起こっても不思議ではありません。
大震災のたびに発生する液状化現象、この現象が初めて脚光を浴びたのが新潟地震のときだったと聞いたことがあります。
こればかりは、住み始めたあとではどうしようもなく、液状化が起こりそうにない土地を選ぶしかなさそうです。

   

そんなことを考えながら企画展を見終えた私は、常設展示も観ました。

常設展示では、「水」と新潟の人々の営みとのかかわりを展示している。

とあるのですが、私にはどうもピンと来ませんでした
「ガイドブックをペラペラめくっても、「こんな展示があったっけ?」と、ほとんど頭に残っていないのです。

どうしてなんだろうな…

なお、写真・動画撮影は、「常設展示室内は、三脚・ストロボの使用がなければ可能です」らしいのですが、私は一枚も写真を撮っておりません。
これまた、どうしてなんだろうな…

このように、「う~む…という感じでみなとぴあ本館を出た私は、「旧新潟税関事務所」の真ん中の通路を抜けて、そして、みなとぴあの敷地から出ました。

「旧新潟税関事務所」1971年に復原工事を行ったあと、1972年から2003年3月まで「新潟市郷土資料館」として使われていたそうです。
その頃はもっと明るい照明が使われていたんでしょうね

で、みなとぴあ柵沿いに歩いていると、あれま ウメが咲いてる

そっかぁ~、新潟のウメのシーズンは今頃なのか…
秋田より1か月以上早い…

   

みなとぴあから朱鷺メッセへ行くには柳都大橋を渡ることになるのですが、クルマだとぐるっと大回りしないと柳都大橋を渡れませんし、朱鷺メッセへも大回りが必要です。
ですが、川岸から歩行者通路まで昇る歩行者用階段があることは遠征前に確認していましたので、まずは柳都大橋のたもとへ…。

そして、みなとぴあから徒歩約15分柳都大橋の歩道に到着しました。

一瞬、この橋の名前になっている「柳都」新潟の異名なのかな? と思いましたが、ここまでの「街巡り」を振り返れば、新潟の町にはかつてが巡らされていたことを実感して、川べりに植えられがちの木といえば、そう、「柳」 と思い至りました。
この記事を書くために調べたところ、こちらのページにこんな説明を見つけました。

新潟にはかつてはがはりめぐされ、その堀端の柳の下を座敷に向かう芸妓が通るという美しい風景がみられました。
今では堀は埋め立てられ柳が残るばかりですが、この風情ある町にふさわしい呼び名が残っています。それが「柳都」です。

やはり

こうして、ほぼ予定どおりの時刻に、朱鷺メッセに到着しました。

朱鷺メッセでの「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」新潟公演 2日目のことは「#M」で書きましたので省略します

   

私が朱鷺メッセに到着したときには傘を差そうかどうか迷うほどの小雨でしたが、ライヴが終わったときには本降りになっていました。
でも、もう本宅に帰るだけですから、ぜんぜん問題はありません。
逆に、よくぞ保ってくれたと、空に感謝です

朱鷺メッセからは、新潟駅行きのシャトルバスに乗って新潟駅へ。
前日は座れた(のんびりと一服したりしたから?) のですが、2日目立ったまま 一日中たぁ~っぷりと歩いて、ライヴではしゃいだこともあって、けっこうしんどかった

指定席を取っていた新幹線には余裕で乗れるタイミングで新潟駅に到着した私は、まずは南口の外にある(勝手知ったる)喫煙所一服 したあと、駅弁とビールを買い、コインロッカーからバッグを取り出して、新幹線に乗車
と、ミー友さんと同じ車両でした たまにあるんですよ、こういうこと…

車内アナウンスでは、「指定席は完売」とのことでしたが、新幹線は乗車率15%程度のスカスカ状態で発車しました。
さっそく、前日の昼前に大宮駅で買ったものの食べそびれていた消費期限切れ「国技館やきとり」で一杯

そして弁当を食べたのち、デザートとして「さわ山」さんの大福桜餅をいただきました。かなり変形していたけれど、美味しかった

各駅停車の新幹線は、各駅で主にスキー場帰りの人たちを乗せ、やがて満席

そして定刻に大宮駅に到着し、私は埼京線に乗り換えて、無事に帰宅したのでした。
めでたしめでたし…。

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4

2024-03-11 21:19:08 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3」のつづきです。

「新潟市歴史博物館みなとぴあ」(以下、みなとぴあ) は、旅行前から行くつもりだった数少ない場所の一つで、前日も、朱鷺メッセから信濃川対岸みなとぴあを眺めて、「あす行くぞと心に誓っていました(大げさ)

そして、到着しました

みなとぴあは、本館「旧新潟税関庁舎」とその付帯施設(石庫荷揚げ場)旧第四銀行住吉町支店3つの建物で構成されています。

この3つの建物はどれも魅力的
もっとも古い「旧新潟税関事務所」は、明治2(1869)年に建てられた擬洋風建築で、国の重要文化財
昭和41(1966)年まで税関として使われ、昭和46(1971)年に竣工当時の姿に復原された由。

切妻の屋根の上に塔屋が乗っかっている姿は、入母屋の屋根の上に塔屋が乗っかっている函館奉行所と似た感じです。

新潟市のサイトによると、

幕末の安政5(1858)年徳川幕府はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランスの五か国と修好通商条約を結び、新潟・横浜・函館・長崎・神戸の五港を開港することにしました。新潟港日本海側最大の港町であること、幕府領であることなどが理由で開港地に選ばれました。
しかし、開港が実現しないまま幕府は倒れ、明治新政府が新潟港を開港したのは明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)のことでした。

んん? 新潟が幕府領??

確か、信濃川左岸の新潟町は長岡藩、右岸の、現在の新潟駅の北側にある沼垂(ぬったり)町は新発田藩だったはずじゃ…?

調べると、天保年間(1834~1844年)に発覚した唐物抜荷事件(中国産品密輸事件)をきっかけとして、天保14(1943)年に、幕府が新潟町を長岡藩から上知(=没収)して天領(=幕府直轄地)にしたのだそうな。

ところで、新潟町が長岡藩領だった頃、長岡藩は新潟に町奉行を置いていて、かの河井継之助のご先祖様たちの何人かが、新潟町奉行を務めていたとか。
長岡藩の重要な金づるだった新潟町が、薩摩藩(新潟の商人たち)がしでかした抜荷事件をきっかけに幕府に取り上げられ、そして北越戦争では薩摩・長州の新幕府軍激戦を繰り広げるとは、さぞかし河井継之助薩摩うらみ骨髄に入って亡くなったんだろうな、と思います

かなり寄り道してしまいました

「旧新潟関税事務所」の北側には、石庫(=保税倉庫)がありました。

石庫も関税事務所(旧称:運上所)と同じ1869年に建てられたものの、老朽化のため、1963年に解体され、現在の建物は1982年に復原されたのだそうな。

なおMISIAサポーターにとって「聖地」のひとつ横浜赤レンガ倉庫「保税倉庫」。こちらは、時代は下って、2号館が19071号館は1908年の竣工です。
下のジオラマ(国立歴史民俗博物館蔵)でいえば、右上が2号館左下が1号館(関東大震災で半壊して、東半分だけ残存)です。

   

お次は「旧第四銀行住吉町支店」

この支店名、、、、そう、「#2-3」に載せたこの写真を撮った場所、私が背にしていた「第四北越銀行住吉町支店」先代の建物です

みなとぴあにある「旧第四(だいし)銀行住吉町支店」の建物は、建物内の説明板によると、

第四銀行住吉町支店は、1926(大正15)年に開設され、この建物は1927(昭和2)年に新築された。
同支店が建てられた住吉町周辺は米穀株式取引所を中心に卸商や有力な商店が軒を連ね、新潟の商業・金融業の中心地になっていた。地の利を得て発展した住吉町支店は、東京・新発田支店に並ぶ大支店となった。

だそうで、国道7号線の建設(拡幅?)計画のため、2002(平成14)年から翌年にかけて、みなとぴあ移築復原したのだとか。
この建物がかつて立っていた場所は、今、現在はセブンイレブン 新潟住吉町店になっているみたいです。

Googleマッププロットしてみますと、こんな具合。

AみなとぴあB旧第四銀行住吉町支店跡地C現・第四北越銀行住吉町支店です。
ということは、みなとぴあ復原された建物は、オリジナルからほぼ180°回転しているんですな

で、旧第四銀行住吉町支店の中に入り、説明板を読んだあと、旧営業室に入ると、思わず「ふおぅ~と声を漏らしてしまいました

天井が高ぁ~い

もう1

最近の銀行建築では、空間をこんなに贅沢に使うことは無さそうですが、昔は、預金者安心感・信頼感を与えるためにも、こんな風にしたんだろうなと思います。

でも、ふるさとの「秋田市立赤れんが郷土館」(旧「旧秋田銀行」本店)の方がもっと…とか思ったりして (訪問記)

まぁ、あちらは統合前とはいえ「本店」ですし…

話を新潟に戻しまして…

元の建物の筐体の鉄筋コンクリートから、それに貼られたタイル木彫を引っ剥がして、新しい筐体に貼りつけるのは大変だったろうな…

2階に上がると、「不思議な空間」がありました

金庫があるのは銀行として当然としても、「謎」なのはこちら

和室です
しかも、2間つづき

建物の外観からは想像できないのに加えて、どうして銀行の支店和室があるんでしょ???
どう使うことを想定して和室を作ったんだ???

私の乏しい想像力では、行員さんのサークル活動(お茶とか生花とか)に使うか、行員さんたちの宴会(仕出しを利用)くらいしか思いつかないんですけど
もしかすると、みなとぴあでの時間貸し用に、和室に改装したのか??

よく判らないまま、「#2-5」につづきます。
こんどこそ「完結編」の予定

つづき:2024/03/12 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-5 【完結編】

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

2024-03-10 16:48:00 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2」のつづきです。

吉野活版所の前を通り過ぎてからは、スマホのGoogleマップを頼りに、ひたすら新潟市歴史博物館みなとぴあを目指しました。
とはいえ、もうお昼時で、どこかで食事をしたい。
みなとぴあにはレストランなさそうで、Googleマップを見ても、私が歩く方向には食事ができるお店は2軒しか表示されません。
選択の余地は少ないな… と、ちょっと不安になりながら「御祭堀(五菜堀)」という道を東に歩いて行くと、その2軒のうちの最初の店がありました。

なにやら立派な建物です (この写真は第四北越銀行住吉町支店を背に撮ったもの。今にして思えば、この銀行の写真も撮っておくべきでした)
このお店は「魚や 片桐寅吉」という和食屋さんで、建物は登録有形文化財だそうな
ちょっと敷居が高そうでしたが、店頭に出された「お品書きを見ると、2,000円程度昼食がいただけるようなので、このお店で食べることにしました。
店内に入ると、古いけれど立派ひな飾りがあって(写真はありません)、いかにも「旧家」の雰囲気です。

このお店のリーフレットによると、

1885(明治18)「片桐鮮魚問屋」を立ち上げた片桐寅吉が晩年暮らした家屋でございます。
大海原を駆け巡り、北洋漁業をこよなく愛した寅吉は、やがて北陸でも一大問屋と言える鮮魚商となりました。
江戸時代より変わらぬ「魚や」として、現在までこだわってきた鮮度と味を、日本庭園を眺めながらご堪能ください。

だそうで、天井の高いお座敷にテーブルが並べられた作りになっていて、なにやらイイ感じ…

私が頂いたのは、銀だら「焼き魚定食」(1,900円)の味噌汁を豚汁にチェンジ(+200円)したもの。

銀だらは、「皮パリ & 身トロ」で、実に美味しかった
もちろん、ご飯美味しかった
きれいに整備されたを眺めながら旨い食事を摂る、、、、旅行らしい贅沢な気分に浸れるひとときでした

「X」に、「この店で昼食とポストしたところ、フォロワーさんから「近所に美味しい大福が買えるお店がある」という情報をいただきました。
さっそくググってみると、確かにそのお店「さわ山」は近い。
よし、寄ってみよう ということで、「魚や 片桐寅吉」をあとにしました。

   

ところで、「魚や 片桐寅吉」第四北越銀行 住吉町支店がある「御祭堀(五菜堀)」は、通りの名前っぽくありませんが、こちらのリーフレットによれば、

御祭堀(ごさいぼり):江戸時代、御祭堀という堀の両側に付けられた小路であり、古い絵図では「さい小路」「御菜堀」と記されることもあった。
堀は明治の町名改正で五番堀とされたが、戦後になって埋め立てられ道路となった。今は「五菜堀」と記されることが多い。

と、今では堀の名前ではなく通りの名前です。
さらに、

昔の新潟町は、地域ごとに職業が決められていました。風間小路から片桐小路、御祭堀のあたりは「肴(さかな)町」または「助賈(すけご=魚屋)町」と呼ばれる地域で、現在の本町通11番町の西側には「大助賈(おおすけご)」よばれる魚問屋が並んでいたといいます。
当時新潟町で魚の店売りができるのはここだけでした。

だそうです。
この地域のことは、またあとで触れることになります。
なお、という字を確認・入力するために、超久しぶり漢和辞典を引きました

   

「魚や 片桐寅吉」2ブロック北に、大きなお屋敷がありました。
「北前船の時代館」と公開されている「旧小澤家住宅」です。

この建物は、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家・小澤家の店舗兼住宅だそうで、広さはなんと1600平方メートル、敷地が正方形だとすれば40m四方もの大邸宅です

新潟市のサイトによると、

かつての新潟町における町家の典型例であり、かつ明治時代に成長した豪商の屋敷構えを構成する一連の施設がほぼそのまま残っていることから、建造物 7棟 (主屋、新座敷、離れ座敷、道具蔵、家財蔵、蔵前及び渡り廊下、門及び東塀) と敷地は、市指定文化財になっています。

とありますが、「町家」といえば、「狭い間口に長ぁ~い奥行き」のイメージですが、こんな長大な間口「新潟町における町家の典型例」なんですか…
「吉野活版所」の辺りは、私がイメージする「町家」そのものだったんだけど…

「北前船の時代館 旧小澤家住宅」内部が公開されていますが(観覧料は一般:200円)、13時になろうかという時刻だったことから(このあと大福を買って、みなとぴあを観て、15時頃には朱鷺メッセに着きたい)外観を眺めるだけにとどめ、「粋な黒塀、見越しの松に「お富さん」の冒頭を心の中で口ずさみながら「さわ山」さんを目指しました。

「さわ山」さんは簡単に見つかり、順番待ちする間に熟慮の末(繁盛しているお店でした)大福桜餅1個ずつ購入しました。
「新潟なら『笹団子』だろ」とも思ったのですが、「笹団子」はまたいつか…
なお大福桜餅は、このあとの私の行動の過程で、バッグの中でかなり変形してしまいましたが、帰りの新幹線の中で夕食のデザートとしていただきました。
とても美味しゅうございました

   

もと来た道をちょっと戻り、「この道の突き当たりが『みなとぴあ』」という通りを歩きました。
この通りがちょっと変わっていて、車道の幅に比べて、両側の歩道が異様に広い。しかも南側の歩道の横には小さな水路が流れています。
その「謎」は、案内板を見て解けた気がしました。

この通りは「早川堀通り」という名前で、ここもかつてはが流れていて、堀が車道に、両岸の道が歩道になったことが察せられました

さらに調べたところ、こちらのサイトによると、この道路は10年前に整備されたそうで、

新潟市が早川堀通りの整備に伴い、かつて堀のあった湊町の風情を感じられる水辺空間の創出に、地元との協議を重ね復元されたもの。

だとか。
さらに、

また、篠田市長は「新潟を象徴する素晴らしい通り。みなとピアと旧小澤家、下本町をつなぐラインであり、さらに磨きをかけて、新潟の名物通りに仕上げていただきたい。この通りがさらに楽しく、潤いの通りになるよう、我々も共に頑張りたい」と語った。

とのこと。
私が通ったときは、人通りもクルマの通りも少なく、ちょっと寂しかったのですが、でも、きれいな、歩いていて気持ちのよい通りでした。

ということで、新潟市歴史博物館みなとぴあまではあと少し。
つづきの「#2-4」は新潟遠征記の完結編の予定です。

【追記】「予定」はあくまでも「予定」でしかありません (2024/03/11 21:22)  

つづき:2024/03/11 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

2024-03-08 19:05:42 | 旅行記

1週間のインターバルをおいて、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1」のつづきです。

「ダイジェスト」にこの日の街探索ルートを載せましたが、「新潟市観光 mini MAP」にプロットした別バージョンを載せます。

西堀通(寺町)を右折して鍛冶小路に入り、ちょっと進むと、セブンイレブンの前で(私にとっては)珍しいものを見つけました。

横型歩行者用信号機です。

新潟市内の信号機縦型で、それは「雪国あるある」何の不思議もないのですが、横型歩行者用信号機なんて初めて見ました
ネットで調べてみたところ、道路交通法施行規則の別表第一(第四条関係)「備考」で、

道路の状況により必要があるとき又は主として歩行者のために設ける信号機(以下この表において「歩行者専用信号機」という。) 若しくは可搬式の信号機を設けるときは、二・五メートル以上の高さとすることができる。

と定められていて、逆に言えば、歩行者用信号機は、信号機の下端が地上から2.5m以上高くなければならないということ。
ところが、この交差点の歩道にはアーケードがあるため、ここにおなじみの縦型の信号機を設置することは法令違反になってしまうというわけ。

なるほどね… と、さらに寄り道して調べると、群馬・桐生市「樹徳高校入り口」交差点に、かなり例外的な歩行者用信号機があることを知り、Google Mapのストリートビューを見てみました。

ほぉ~、普通の交差点なのに、歩行者用信号機が横型で、しかも、異様に低い位置に取り付けられています。
実はこの辺り、かつて歩道にはアーケードがあって、この横型歩行者用信号機はそのなごりなのだとか。

やはり復習のブログ書き勉強になります

   

さて、このセブンイレブンでお茶を買ったあと、私は鍛冶小路をさらに進み、東堀通との交差点を左折して進路を北北東に変えました。

そして、東堀通と新津屋小路の交差点で、これまた変わった商店街をみつけました。

にいがた人情横丁

100数十mにわたって、背中合わせの棟割り長屋のように、間口の狭い商店が連なっています
ここは「本町中央市場商店街」、通称「にいがた人情横丁」というところらしい。
私が行った時は、「シャッター通り」になっていたのですが、どうやらここは基本的に「日曜定休」のようです

この「人情横丁」、まるで新津屋小路(にいつやこうじ)の中央分離帯が商店街化したように見えます。もともと新津屋小路は中央分離帯があるような広い道じゃないのに…

このは、新潟遠征の復習とブログ書きの参考にしようとして視た「ブラタモリ」「新潟~新潟は"砂"の町!?(2017/7/30放送) で解けました
初回放送を視たはずなのに、タモリさんと近江ちゃん()が、この人情横丁で雨宿りがてら銀だらの塩焼きを食べていたなんて、まったく記憶にありませんでした。
で、昔、新潟の街にはが縦横に通っていて(これは知ってた)、この人情横丁は、その(新津屋小路堀)を埋め立てた上に作られたのだそうな。そして、現在、人情横丁を挟んでいる 2本の狭い道路は、堀の両岸の道だったという…。
なるほど~ でした。
なお、歩いてきた西堀通東堀通には、まさに西堀・東堀が通っていた由。

さて、人情横丁はほとんどの店が閉まっていたので、前半のブロックだけで切り上げ、白竜大権現のところで左折し、本町通から大通りに出ました。

おぉ、国道7号線の始点だ

ふるさと秋田市には「旧国道」と呼ばれる市道と、「新国道」と呼ばれる県道がありますが、この「国道」とは国道7号線のことで、私の生家や入学した小学校「新国道」(当時は本物の国道だった)ほぼ沿線でした。

福島市でこれまたなじみ深い国道13号線の始点を見たとき、沼津国道246号線の終点を通ったとき以来の感動(大げさ)でした。

   

ここから東堀通に戻り、北に進んでいくと、右手に覚えのある屋号を掲げたビルが…
「さけ茶漬け」で有名な加島屋の本店です。(基本的に日曜日はお休みみたい)

加島屋 本店

以前から「さけ茶漬け」は旨いけど高いんだよなぁ と思っていたら、たまたま何かのTV番組で「さけ茶漬け」の製造過程をやっていて、それを視たら、これは安売りできない商品だ と思いましたとさ。

加島屋さんの筋向かいに、大きな木造の建物がありました。

3階建ての古い木造建築というだけでも珍しいのに、大通りに背を向けているというのも珍しい。

これはいわくありげだと思い、地図を見ると、どうやらこの建物は古町花街を代表する料亭「鍋茶屋」裏側らしい。

これは正面から拝見せねば と、来た道をちょっと戻り、新堀通から「新潟観光 mini MAP」「鍋茶屋通(古町花街)」と表記されている通りに入っていきました。

そして、鍋茶屋通に入ってすぐに、「鍋茶屋」さん。

いかにも「格を感じさせる風情です。
「ブラタモリ」で、タモさんがお座敷遊びを体験するシーンがあったことは記憶していましたが、見かえすと、その収録場所が、この「鍋茶屋」さんでした。
やはり遠征前に「ブラタモリ」を視ておくべきだったか…

 width=鍋茶屋通に面した鍋茶屋さんの正面から古町通にかけて「取付道路」のような道がありました。
これは、もしかして、運転手付きのクルマでやってきたお客さん用の駐車場に使うのかな?

かつての私の勤務先は「新橋の料亭街」近くにありまして、近所の高級料亭の周りの道路では、夜になると運転手さんが乗ったままの黒塗りのクルマ群れをなして駐車していましたっけ…

この辺りは基本的に「夜の街」のようで、私が歩いた「日曜日の正午近く」眠っているようでした。
ちょっと退屈しながら古町通を歩き続け、国道7号線を横断し、救世軍の向かいで、魅力的古い建物に出会いました。

看板建築です

見た目はしっかりと手入れされているようですが、人気(ひとけ)はありません
仕方ないので(?)、写真を撮るだけで通り過ぎましたが、この記事を書くにあたって調べたら、「コーヒー焙煎所とリソグラフ印刷スタジオ」として現役の建物でした (HP)

こちらのサイトによると、この建物は、1916年に、当時の吉野活版所の当主・吉野松次郎氏の設計で建てられたもので、2017年まで印刷業が営まれていたそうな。

「看板建築です」と断定してしまったものの、本当にそうか? と、Googleマップの航空写真を見ると、案の上、洋風のファサードの奥は、普通の三角屋根でした
でも、「看板建築」は、関東大震災(1923年) からの復興過程の東京が発祥とされているんだけど、この建物の竣工はそれに先立つ1916年…。はて…

難しいことは放っておきましてGoogleマップを見ていたら、吉野活版所ごく近くに、漫画家の高橋留美子さんの生家(産婦人科医院らしい) があることを知りました。

私、そんなことはつゆ知らず、そこ(現在は駐車場)を通り過ぎました

きょう、鳥山明さんの訃報が流れていました。急性硬膜下血腫による急逝ということで、同世代の高橋さんもショックを受けているんじゃなかろうか

「#2-3」につづきます。

つづき:2024/03/10 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

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「MISIA星空のライヴXII」の振り返り【後編】

2024-03-07 14:50:48 | MISIA

「『MISIA星空のライヴXII』の振り返り【前編】」のつづきです。

MISIAバンドバンマスが、クロタク、さらに現在の大林武司さんとJazz系ミュージシャンになって以降、それまでと大きく変わったのは、曲間の無音時間が劇的に減ったことと、公演ごとにアレンジやアドリブが違うという点だと思っています。
「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」でもこの特徴は変わらず、同じツアーなのに、何度行っても、新鮮な感覚で楽しむことができました。きょうはどんなアレンジなんだろ、どんなアドリブを聴かせてくれるんだろ、と。
また、「MISIA THE GREAT HOPE」ツアーがツイン・ドラムだったのに対して、「MISIA星空のライヴXII」は基本的にツイン・ギターに変わり、吉田サトシさんと石成正人さんが曲によってリードとサイドを交替で務めていて、二人のギターの音/フレーズの違いがとても楽しかった (名古屋公演での佐橋佳幸さんのギターも聴きたかった…)
また、国内ファイナル公演@有明アリーナのスペシャル曲「つつみ込むように…」で、ナリナリ・サトシ (by MISIA)による素晴らし過ぎる神々の饗宴のようなギター・バトルを聴けたのは最高の思い出の一つです
もちろん、Sax & Flute明男ちゃん(いろいろありました)も、ドラムのTOMOさんも、ベースの種子田健さんも、Strings弦一徹社中も、コーラスの星空シスターズも、ほんとに素晴らしいメンバーでした。
そして、みんな実に楽しそうに演奏しているのがねぇ。もっとも、あんな素晴らしい音楽をみんなで作っているのだと考えれば、楽しくないはずはありえません、恐らく(素人なんで…)
そうそう、MISIAの凄まじいボーカルをニコニコして見ているTiger姐さんが、ほほえましかった

   

今年の元旦能登半島地震が発生して、その約3週間後福井・越前市で行われた公演の翌日MISIAが奥能登に炊き出しに行ったという情報が流れていました。
MISIANHK FM「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」で語ったところによれば、公演終了後に化粧も落とさずに移動を開始して、「現地の人たちに『化粧が濃い』と言われないか心配した」そうですが、その翌週にも福岡公演があるというのに、なんという行動力なんでしょ
もちろん、地元との調整を行い、炊き出しの食料を整え、現地までの交通手段を確保した事務所の活躍があってこそですけれど、その後も2回目の炊き出しを行うなんてねぇ。
私も、「能登半島地震復興支援 Maple Leaf Pie」数個を購入させていただきました。

   

東日本大震災のあと、MISIA復興支援ソング「明日へ」を制作しました。
今回のツアーで、MISIA「明日へ」を歌ったのは、全22公演中、宮城・利府 2 days福井・越前公演 2日目、そして、新潟公演 2日目4公演だけでした。この「4公演だけ」というのがミソで、いずれも「意味のある地」
私が行った宮城・利府新潟での「明日へ」は、MISIAの想いが籠もりまくった歌声で、心に響きました

4公演でしか歌われなかった「明日へ」スペシャルでしたが、2公演だけ「傷だらけの王者」(宮城・利府 2 days)「MISSING AUTUMN」(札幌 2日目と大阪初日:聴けていない)「ゆびきりげんまん」(東京・有明 2 days)、そして、国内ファイナル1公演だけ「つつみ込むように…」スペシャルでした。
また、「Everything」が東京・有明 2 daysだけで歌われなかったことも、ある意味「Special」だったかもしれません

このうち、「ゆびきりげんまん」は、3月29日リリース新曲で、正真正銘の初披露でしたから、とびきりのSpecialでした

急遽、東京・有明 2 daysで歌うことを決めたそうで、急いでこのバンド用に編曲したみたい(大林さんが譜面を振り回していました)。
それなのに、初演から高い完成度で驚きました
この曲は、3月30日にテレビ朝日系列で放映されるプレミアムドラマ「黄金の刻~服部金太郎物語~」のために書き下ろされたものだそうで、MISIAは詞を書くにあたって、主人公の服部金太郎さんに関する資料や本を読み込んだのだとか。いかにもMISIAらしい
そして聴くと、まさにドラマ当て書きの歌詞で、とても春らしい曲でした。
早くまた聴きたいゾ

   

このツアーでは、本編ラストに、MISIAライオンと一緒にトロッコに乗って場内を「お練り」するという演出がありました。

これがとっても良かった

アリーナ前方盛り上がっても、アリーナ後方やスタンド席はそれほどでもないということは、ライヴではよくある話ですが、このときのスタンド席の人たちの盛り上がりようときたら
みんな良かったねぇ と「御同慶の至り」でした

このライオン「傷だらけの王者」のMVに登場したものだと思いますが、リアルに動くし、MISIAはペットを扱うようにスタンド席を指さしながら「ほら、見てごらん」と話しかけているように振る舞って、なんともcuteでした。
また、本物のライオン勘違いした観客ビビらないようにとの配慮なのか、ライオンぶっとい鎖でしっかりとトロッコに繋がれているのも面白かったなぁ

   

最後に、国内ファイナルとなった東京・有明 2 daysのことをちょっとだけ書きます。

新潟公演2日目に、ステージ上で派手に転倒したMISIAのその後が気になっていましたが、まったく問題は無いようで、一安心

で、2日間とも、とりわけ2日目は、めちゃくちゃ盛り上がりました
「星空のライヴ」史上最高盛り上がりだったと思います。
とにかく声援の多さ大きさが際だっていたし、コール&レスポンスが揃っていたし、「BELIEVE」とか2日目の「つつみ込むように…」とかは大合唱でした

そうだそうだ。「MISIAのおことば」を載せます。
まず初日

そして2日目。

なお、過去の「MISIAのおことば」は、こちら「横浜編」「新潟編」をご参照くださいませ。

ということで、「MISIA星空のライヴXII」国内ツアーお開きになりましたなぁ。あ~、良いツアーでした。
収録していた横浜 2日目のライヴが、どうかディスクされますように

そしてそして、私は台湾遠征楽しみじゃぁ~

コメント (2)
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「MISIA星空のライヴXII」の振り返り【前編】

2024-03-06 15:21:30 | MISIA

昨年11月に始まった「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」は、先週末(3月2-3日)有明アリーナ 2 daysで、国内公演のすべてが終了しました。

全11都市22公演のこのツアー、ご当地メロンパンダカプセルトイコンプできましたが、

私が行った公演は、静岡・袋井の初日と、さいたま宮城・利府横浜新潟東京の各 2 daysの合計11公演でした。
上の行の各都市名(袋井と東京を除く)から、感想その他を書いた記事に飛べるようにしてあります。

ここまで、ネタバレ無しで書こうとしてきましたから、なんとも制約が多くて、ムズムズしていました。書いている私もそうなら、読んでくださった方々もそうだったんじゃないかなと思います。
セットリストは、見たい人だけが見られるようにしてきましたが、ここで、ようやくドバッと載せます

画像をクリック/タップすると、各公演のセットリストと、各公演で歌われた曲・歌われなかった曲を整理したチャートを合わせてPDF化したものをご覧いただけます。

   

このツアーについてMISIAはNHK FM「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」「25周年にふさわしい『星空のライヴ』のベスト盤のようなものにしたい」と言っていましたが、セットリストを眺めるだけでも、その意図が十分に感じられるセットリストになっていました

最初の「星空のライヴ」(2001年10月) には行かなかった私ですが(今でも後悔してる)、その後のIIからは欠かさず行っているもので、「眠れぬ夜は君のせい」を聴くと「II」を、「月」を聴くと「III」(とりわけ岩見沢公演)を、や「BELIEVE」を聴くと「IV」とそのときのアレックスのドラミングを、「地平線の向こう側へ」を聴くと「V」を、「忘れない日々」を聴くと「VII」(とりわけ秋田公演)を、、、と、「星空のライヴ」の各ツアーリンクして記憶が甦ってきました。

「MISIA THE GREAT HOPE」「『THE TOUR OF MISIA』系のベスト盤のようなもの」だったのに対して、「星空のライヴXII」MISIAの想いのとおり、『星空のライヴ』のベスト盤になっていたと思います。ただ、CD「ベスト盤」は、過去の音源を持ってきて並べることが多いでしょうけれど、どちらのツアーも、超一流のサポートメンバーを揃えて過去を超えてくるという本当の意味での「ベストになっていたのがさすがでした。

ちょっと不思議だったのは、ツアー初日の冒頭で、多くの聴衆が「やはり来たと思ったはずの「星の降る丘」が、2日目には歌われなかった(らしい)こと。
MISIAアプリでこのことを知ったときは、「まさかと思いましたもの…
そして次のさいたま公演以降は、「星の降る丘」「不動の一番」として聴衆の心を震わせ続けた(であろう)ことを思うと、ツアー2日目は何だったんだろう と不思議に思うのですよ。
「星の降る丘」は、「星の銀貨」と共に「星空のライヴ」には欠かせない曲なのにね…

   

このツアー中のMISIAは、私が行っていない公演はよく判らないけれど、いつもBESTの状態をキープしていたと思います。10年以上前だと、不調の公演があったり、ちょいとうまくいかずにテクニックで補ったりしたこともあったのに、最近はいつでも安定して珠玉の歌声を披露しています。
何度も生MISIAの歌を聴いている私でも、しょっぱなから「すげぇ~と思っているのですから、初めてMISIAのライヴに行った人には衝撃だろうなと思います。「歌が上手い」なんて言葉じゃとても追いつきませんもの

しかも、近年は、昔ほどホイッスル or 超高音のファルセットを使わなくなっていて、「もうデビュー当時のようなホイッスルは難しいのかな?」なんて思っていたところ、このツアーでは、いわゆる「惜しげもなく」ホイッスル or 超高音のファルセットを放ってくれました
その最たるものが、横浜公演 2日目から帰ってきた私が、

とポストした「忘れない日々」でした。
この曲は、「THE TOUR OF MISIA 2004 MARS and ROSES」でのパフォーマンスが最高で、これを超えることは無いだろうと思っていたのに、このときの横浜公演で「過去最高を記録し、さらにその後の公演でも「過去最高」更新しつづけたように感じています。

「月」もまた、MISIAの歌声の「威力を存分に堪能できるパフォーマンスで、「星空のライヴXII」特徴づける一曲でした。
よく「声量が凄い」と言われるMISIAですが、私は常々MISIA『声量』だけで語るなと思っておりまして、ボリュームだけでなく、音の密度というか声の密度と、響きと、正確なピッチと、高度なテクニックと、そして何よりも美しさが、唯一無二の「威力になっているのだと思うのです。

   

「月」からの流れで、MISIA史上最大規模と思われる「照明装置」のこと。
「月」3つのリングで構成された巨大な吊り照明装置が面白かった。
「渾天儀」を連想させる姿になったかと思えば、逆さバースデーケーキみたいになったりと、様々な動きを見せてくれました。

その中で、秀逸だと思ったのが、「月」のときの動きでした。

曲が始まると、巨大スクリーンに満月が映し出されるのですが、照明装置のリングの一つが邪魔で月が良く見えません
せっかく満月を映しているのに…と思っていたら、曲の終盤でそのリングが動き出して満月の全体が見えるようになり、そしてまた別のリング満月を隠していって曲が終わりました。

ここで察しました 照明装置に見立てているのだと
満月を隠しているが流れていって、ようやく満月を見られるようになったかと思ったら、別の雲が流れてきて再びを隠す、、、という…。
ほんとにこんな意図を持った演出だとしたら、奥ゆかしいなぁ 風流だなぁ

う~む…、この調子では1本の記事ではまとまりそうもありませんな
ということで、「後編」につづきます。

つづき:2024/03/07 「MISIA星空のライヴXII」の振り返り【後編】

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1

2024-03-02 12:20:57 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-3」のつづき、新潟遠征 2日目のスタートです。

新潟2日目の朝は「目覚まし」に頼ることなく目覚め、カーテンを開けると、窓ガラスがびっしりと結露していました。結露した窓ガラスを見たのは久しぶりのような気がします。
本宅乾燥しまくりだし、別邸の寝室は結露する余地もないほど室温が下がりますからねぇ…
天気予報では、の見込みだそうで、気温は暖かくも寒くもないという、冬の新潟にしては、観光するのに悪くはなさそうです

でも、どこを巡る? どこに行く?
毎朝のルーティーン、アイスコーヒーを淹れて飲みながら、「新潟市観光 mini MAP」とにらめっこ。

考えがまとまらないまま朝食を摂りました。
コロナ禍のときは、定食のみだったり、ブカブカの手袋をしたりと、不自由だったホテルの朝食も、今ではすっかり「普通」に戻りました
このホテルの朝食は、副食は「3-」レベルでしたが、味噌汁は「4」ご飯は「4+」で、「魚沼産こしひかり」だというご飯が美味しかった

食後、部屋に戻ると、この日の行動の検討を再開
そして至った結論が、「ダイジェスト」で書いたように、

とりあえずバス白山公園前まで行き、そこから古くからの街を北東方向に、「新潟市観光 mini MAP」スマホのGoogleマップを頼りに、行き当たりばったりに歩いて、新潟市歴史博物館みなとぴあまで行くことにしました。

というものでした。

行動計画がある程度決まったところで、ホテルをチェックアウトして、まずは新潟駅まで行き、コインロッカーに荷物を入れて…のつもりだったのが、新潟駅のコインロッカーが少ない
いや、数は足りているのかもしれないけれど、設置場所が少ないのですよ。
私は万代口の東側から駅構内に入ったのですが、無い…
南口側をぐるっと廻って、ようやく見つけました。
私が見落としただけなのかと思って、さっき新潟駅の構内図を見たら、やはり2か所しか無い

今は駅舎の工事中だから少ないのか、はたまた、ずっとこの状態のままで行くのか、どちらなんでしょ

それはともかく、荷物をコインロッカーに入れて身軽になった私は、10:30発の観光循環バス(私が乗ったのは「What's Michael」号ではありませんでした)で出発

新潟駅前から、車内で流れる観光案内を聞きながら、10分強白山公園前に到着しました。

バス停の隣りといってもよい場所にある新潟県政記念館とは、3年ぶりの再会でしたが、やはりステキでした。

新潟県政記念館耐震改修工事のため、'22年12月から'28年3月末まで長期休館中
もっとも、3年前に、新潟県政記念館を外観・内部とも思う存分見学したことから(記事)、今回は予定にも入れていませんでした

さて、裁判所の角を右に曲がって西掘通に入りました。
この通りは、延々とお寺が続く「寺町」で、さっそくお寺の門前で気になるモノを見つけました。

これはアレではないか

聖獣大好き伊東忠太による本願寺伝導院(旧・真宗信徒生命保険)の周りを守る聖獣の一つだ (本願寺伝道院の訪問記)

ということは…
やはり、このお寺(本浄寺)浄土真宗本願寺派のお寺でした

そして、お隣の真浄寺さん(こちらは真宗大谷派)でも気になる建物がありました。
西堀寺町最古級に属するという本堂(1786年建立)もさることながら、その右手前の建物に注目

煉瓦造りの立方体の上に、本瓦葺き寄棟の屋根が乗っかっているこの建物は何??
正面から見ても、よく判りません
なお、真浄寺さんの梵鐘立派でした。

判らないまま、お隣の超願寺さん(真宗大谷派)の境内にお邪魔すると、ここにもありました

しかも、右から左へ「堂骨納」と書かれています。
そうかそうか、納骨堂だったのか…

   

ここまできて、気づいたことがあります。

それは、お寺も民家も、瓦葺きの建物が多いということです。
秋田辺りでは、凍害の懸念があり、かつ重い瓦葺きの建物は、最近こそ見かけるようになったとはいえ、ホントに少ないのです。
新潟市は、そのイメージに反して、積雪が少なく、それほど冷え込まないのかな? と疑問に思ったところ、こちらのサイトによると、1961-2001年の1~2月の平均積雪量は、2m超はザラ上越は別格として、長岡市でも80cm程度だというのに、新潟市30cm程度なんだ
この記事を書くまで知りませんでした

   

さて、寺町巡りの最後は、「名誉市民『會津八一』(秋艸道人)の墓と歌碑」があるという瑞光寺(曹洞宗)です。

會津八一は、本堂の前に、本堂と同じ方向を向いて立っていました(歌碑墓に向かって右側)

 width=

この場所は、境内の一等地だよねぇ。

會津八一の墓にお参りをしたあと、瑞光寺を出て、西堀通をちょっと歩いたところに、案内板がありました。

「400年の歴史を秘めた新潟の寺町」と題して、

永禄11年(1568年)の上杉謙信の書簡に、新潟という地名が出てきます。
これは、謙信にそむいた村上の本庄繁長を攻撃するため、謙信が部下に宛てて出した書簡です。
このことから、新潟という地名が一般に使われ、すでに交通の要地となっていたことが推測されます。
永禄11年頃すでに、善導寺、長善寺、宝亀院、不動院が開基し、次いで、元亀・天正年間に真浄寺、法音寺、長照寺、宗現寺、本覚寺が開基、その後、24の本寺と18の前寺・末寺が甍を並べるまでに至り、明治初年、西堀と町名改正になるまで、寺町と呼ばれ、しだれ柳の堀端に、新潟人の魂を守り続けてきました。

だそうです。
この案内板、最初に見たかった…。

というところで、寺町巡りはここまでにして、西堀通を横断して古町地区に入っていきました。
ここから先は、「#2-2」で書きます。

よし、きょうのブログ書きが終わった
有明に行く準備をしよ

【追記】諸般の事情により、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征」シリーズは数日お休み します  (2024/03/03 11:39) 

つづき:2024/04/08 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

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