阿雲の呼吸

 
阿部 敏郎 と 雲 黒斎

かわいいオヤジの、怪しい交換日記

あけましておめでとうございます

2011年01月03日 | 雲 黒斎




新年あけましておめでとうございます。



「ねぇ黒斎くん。いつ会社やめるの?」


阿部さんにそそのかされて、会社を辞めたのが半年前。

お陰様で、楽しい毎日を送っております(笑)


沖縄・広島・東京・大阪・名古屋…

昨年は、トークライブでも大変お世話になりました。

いつも打ち合わせなしのぶっつけ本番。

唯一それらしいものと言えば、初めてご一緒させて頂いた時の打ち合わせ。

僕がガチガチに緊張している中、舞台袖で呟かれた「僕が『雲 黒斎です』って挨拶するから、黒斎君は『阿部敏郎です』って挨拶してね」っていうこれです(笑)

せっかくなので、年賀状にしてみました。あはは。


実はね、会社を辞めるちょっと前に、ホントに辞めるかどうか考えていた時期があるんです。

どうしようかなぁって悩んでたら、そのとき雲さんに言われたんですよ。

「今からそんなに悩むなよ。本番は、来年からだぜ」って。


何が起きるのかはわかりませんが、その来年が、いよいよ今年になっちゃいました。

わくわくしますね。


とにもかくにも、今年も一年、どうぞよろしくお願いいたします!




 

↑ 本年も、どうぞよろしくお願い致します。

運命の地図

2010年12月31日 | 阿部 敏郎
ブログを始めて2ヶ月くらい経ったころだろうか。

もっと多くの人に見てもらうにはどうしたらいいんだろうって、僕よりアクセス数の多い人のブログを覗いたら、そこに「人気ブログランキング」のボタンが張り付いていた。

押してみて、それぞれのジャンルでのランキングがあることを知った。


ちなみにそのときの彼らのジャンルは、ファッションビューティーとプラモデルだったかな。

どちらのブログも上位にいたけれど、もっとすごいブログもたくさんあって驚いた。


それじゃ、僕はどこに入ればいいのかっていろいろ探して、見つけたのが「哲学・思想」

いまはスピ系を紹介するジャンルが幾つかあるけれど、その頃はそれ一つだけだった。


一位だったのが、「あの世の聞いた この世の仕組み」


実はあまり期待せずに、読んだんだけどね。


読んで最初の感想は、

「あっ、この人僕と同じ経験をしている」


へえ、そんな時代になったのか、こりゃ面白い、さっそく登録しようって、遅ればせながら参加したしだいで。


それが黒斎クンとの縁の始まりだったね。



それからしばらくして、札幌で僕の講演会を開いてくれた人がいて、その会に黒斎クンが来てくれた。

大勢いた中で、一目でわかったんだから、やっぱり何かを感じたんだと思う。


会ってみてやっぱり同じだったことがわかったから、その2ヵ月後には沖縄でコラボ講演会をやらせてもらった。


当日は押すな押すなの大盛況で、おお、僕らの話をこんなに多くの人たちが理解してくれるようになったかって、ちょっと感動したんだけど、どうやら半分くらいの人は話がチンプンカンプンだったみたい(笑)


でもさ、その後全国で開催していった「阿雲の呼吸」も大成功で、僕らの呼吸が文字通り阿吽になっていった。

書店にDVDが並んでいると、あまりの展開の速さに驚くよね。



さて、来年も楽しもう。

北海道と沖縄の二人が、期せずして来年は東京を拠点に活動を始めるのだから、どうなっていくかワクワクする。

だってお互いに相談して決めたわけじゃなくて、偶然同じタイミングだったんだもんね。


振り返ってみると、ブログを始めたのも同じ時期。


うふふ・・・偶然なんか無いことを知っているから、天は何をたくらんでいるのか・・・うふふだね(笑)




そんなわけで今年もお世話になりました。



黒斎クン、奥さん、そしてお嬢ちゃんの雲竹斎ちゃん。

来年がご一家にとって幸多からんことをお祈りしています。

引越しが終わったら遊びにおいでね。




そしてみなさん、一年間ありがとうございました。

一緒に未知なる時代に突入ですね。

励ましあっていきましょう(^^)






すっかり落ちてしまったランキングですが、押してもらえると励みになります。


 

アイデア

2010年09月22日 | 雲 黒斎
田嶋敏郎さん、おかえりなさい。(いまさらw)

>こんな私ですが、AKB48のメンバーに入れますか?

入りたいんですか(笑)


さて、ここ最近、「やっぱり」という感覚でおります。

それは「アイデア」について。

トークライブでも何度かお話させていただいているのですが、このところの自分の状況を照らし合わせてみても、「これは確実だ」という実感を得ています。

長らく広告の現場で色々なアイデアを模索していた日々。

その中で、僕はアイデアを「作りだそう」と必死になっていました。

でも今は、それが間違いだったことに気づきました。

「アイデア」や「理解」というものは、自分の意志で作り出せるものではないんです。

阿部さんも前回の更新で「発明というよりは発見っていう感じ」という言葉にされていましたが、まさにそうなんですよね。

「発見する」、「見つけ出すことができる」、ということは、それらはすでに、先に存在していたということ。

僕(自我)が作り出したものではありません。

すでにあったものを、ダウンロードしてくる感じです。

そして、その何かがあるのは「生命の根源」、「ソース」です。

そこから、いかにダウンロードしてこれるか。

それが、「自我」の仕組みと関連していきます。

「自我(分離意識)」が強まると、その「ソース」とのコネクションが阻まれ、その回線は細く、インターネット創生期のナローバンドの様になってしまいます。

ピーヒョロロ…といいながら、だらだら、少しずつしかダウンロード出来ない。

情報量の少ないデータしか受け取る事が出来ないので、これでは、YouTubeすら見られません。

しかし、一度その分離意識を手放し、「ソース」に身を委ねることができると、急激に回線が強化され、一気にブロードバンドへと変わります。

そうなると、「連続するインスピレーション」の世界に突入です。

どんなことだって可能だ!

心からそう思える状態の中で活動することが出来ます。


ただ……厄介なのは、一旦ブロードバンド回線が確保出来ても、常時そのままでいることが出来ない、ということ。

日々の生活の中で、ひょっこり「自我(分離意識)」が顔を出すと、とたんにナローバンドへと戻ってしまいます。

そうしてまた、しどろもどろ状態に(笑)


「極楽飯店」の連載も、まさにこの行ったり来たりの中で書いています。

書けるときは書ける。

でも、書けないときは、自分でもビックリするぐらい書けない。

で、ナローバンド状態の時に無理矢理書いてしまうと、本来ソースにあったアイデアとの整合性がとれなくなってしまうので、無理に書くと後で辻褄があわなくなっちゃう(笑)

もう少し、「ソース」との繋がりを確保し続けることができるといいのですが、こればっかりはね。

日々精進の、毎日でございます。



 

↑ 読者様との繋がりを確保し続けることもまた、日々の精進でございます…。

ひらめき

2010年09月19日 | 阿部 敏郎
こんにちは。

田嶋敏郎、56歳です。


あの田嶋君との共通点は、最近めっきりデブッたことと、見てるだけで誰もが殴りたくなる不思議な魅力の持ち主ってとこですかね。

最近、おなかの筋肉がプルプル揺れるようになりました。

かなり軟らかめの筋肉です。

こんな私ですが、AKB48のメンバーに入れますか?


(何のことかわからない人は、黒斎クンのメインブログを読んでください)



絶好調だね、黒斎君(^o^)


パソコンの前に座ると、次々に物語の続きが出てくるって、その感覚わかるよ。

書きながら、こんな荒唐無稽な流れをどうまとめりゃいいんだって思いながら、なかば捨て身の感覚でとりあえず頭に浮かんだままを書いていると、なぜか辻褄が合ってくる。

しかも、自分ではとうてい考えれるはずのない奇抜なアイデアが浮かんで、まるでジクソーパズルのピースがずっぽりはまるみたいな快感と共に、話が収まるんでしょ?


そういう時ってさ、自分が書いているんじゃないって感覚あるよね。

だからと言って、何かの力に書かされたっていう言い方もキザだから、そこんとこは黙っているけど、でも自分では内心そう思っている。


どうだ、ズボシだろ峰岸君。



新しいアイデアってどこから湧いてくるんだろう。

思いついてみると、最初からここにあったみたいに感じる。

それって科学部門でも音楽部門でも、クリエーターはみんな同じ体験しているんじゃなかろうか。

発明というよりは発見っていう感じ。


きっとすべての答えはすでに用意されていて、人が見つけてくれるのを待っているんだろうね。



この調子でバンバン書いてね。

僕も旅先で続きを楽しみにしています。



あっ、書籍化した時の印税は折半ということで・・・・・・根拠はないけど。




とりあえず、コレ押してくれると、喜びは二人で折半してます。

 

ただいま

2010年09月12日 | 阿部 敏郎
今日無事に帰国しました。

と言っても、先週の火曜日に一旦帰国したんだけど、その後すぐにヤボ用で香港に出かけていて、やっと明日から通常の生活に戻ります。


タイの長期瞑想は3回目だったけど、今回が一番長くて、今回が一番当たり前の日々だった。

どこにいても同じだね。

いつだって「ここ」にいる。


このことの説明は黒斎君がとてもうまく表現している。

ほら、コラボ講演会のとき、ホワイトボードを使ってさ、自分が北海道から東京に来ても、自分はいつも「ここ」にいて、動いたのは周囲の方であって、北海道から東京に地理的ポイントが動いただけだって。



僕が文字にしても上手く説明できないや。

やっぱり黒斎君じゃなきゃね。



一緒にやっていて思うのは、黒斎君は進学塾の人気教師みたいな人で、授業がわかり易いから生徒が集まってくるんだろうなって。

そこには伝えたいという熱意があって、それが心をつかむんだと思う。


これからますます活躍の場が広がるだろうけど、体力付けて頑張ってね

オヤジが絵文字使うと奇妙だけどいいかな?



やっぱりやめよっと




そうそう、今回は旅程の関係で、一旦中国に入ったのね。

そしたら、僕のブログにはアクセスできないようになっていた。

上海在住の人から聞いてはいたけど、実際に検閲にひっかっかっていると思うと、なんだか不気味だった。


チベット弾圧について中国政府を批判したからだけど、まだまだ世界は閉ざされていると思った。


日本にいると人類の目覚めは近いように思うけど、世界に出ると、その壁の厚さに驚きます。



やはり意識変革は日本から始まっていくのかな。

エゴと暴力に支配された世界から、愛と調和の世界への移行は必ず起こると信じているし、たとえ理想主義だと言われても、そこに向けて自分ができることをやっていこうと思いました。

一人ひとりの心に優しさが現れて、現実に対する認識の中から深刻さが抜け落ちれば世界が変わると思う。


みんなが幸せだといいなって、当たり前のことを感じている今日この頃です。


とりとめのない日記になっちゃったけど、今日はこんなところで。



ずっと書いていなかったのに、まだブログランキングに残っているんだね。

それって誰かが押してくれていたわけで、本当にありがとうございます。




このクリックが僕たちを励ましてくれています。

今日もよろしくお願いします。


 

不可思議

2010年08月25日 | 雲 黒斎
阿部さん、タイでの長期瞑想はいかがでしょうか。

お邪魔するのもどうかと思いこちらの更新を控えておりましたが、放って置きすぎるのもどうかと思い直し、こうしてキーボードを叩いております。

この記事へのお返事は、帰国後でも構いませんので、気兼ねなく瞑想をお楽しみください。

また気が向いたら、ここで一人、つぶやいてみることにします。


あのね、阿部さん。

最近、ちょっと不思議な感じなんです。

僕のメインブログの話なんですけど、どうもこれまでと勝手が違うんですよ。

実は、「苦しみ」をテーマにした記事を続けていたんですね、その流れで、古くから禅の世界で伝えられていると噂される、ある小話を紹介してみようと思ったんです。

で、折角だから、ちょっと僕なりに味付けして掲載してみようかなって思い書き始めたら、ちょっとどころじゃなくなっちゃって…

書けば書くほど、話が膨れあがっていくんです。

もう、当初書こうとしていた内容からかけ離れて、自分でもビックリするようなアイデアがどんどん入ってくるの。

小説って、そんなに読んだことが無いし、ましてや書いてみたこともない。

全く経験のないことなのに、不思議と言葉が浮かんでくるんです。

その感覚が、自分自身、不思議で不思議で…

もしかしたら、これって阿部さんが『随神』を書いたときに感じていた何かと、同じようなものなのでしょうか?

いい加減結論を書かなきゃって思う気持ちがあるんだけど、パソコンの前に座ると、物語の続きばかりが浮かんでしまう。

これって、一体なんなんですかね。

僕がこういう質問をすると、阿部さんはこう答えるのかな。

「それはね、起きているんだよ」って。(笑)


これがどうなっていくのかはわかりませんが、とりあえず、しばらくは浮かぶがままに書いてみようかと思っています。



 

↑ ゆるすぎる更新頻度ではありますが、ゆるいなりに応援していただけると幸いです。

Re:馬耳東風

2010年07月24日 | 阿部 敏郎
黒斎クンの言うコミュニケーションって、読者とのこと?

文章の解釈や理解は、その人が持つ言葉の意味範囲のことだし、それは人生経験や、タイミング、感情の様子によっても変わってしまうので、極めて難しいよね。

やはり相互理解というものは、言葉や文字では限界があると思う。

それでも意思が伝わることもあって、100に1つでもそういう現象が起きたとしたら、こうしてせっせとブログを書く行為も、やりがいが出てくるわけで。


僕たち二人は、すでに確認しなくても、コミュニケーションをとらなくても、阿雲の呼吸で通じている事が多いよね。

それは物理的な世界を超えた、ひとつなるところのコミュニオンがなせる業だと思う。

コミュニケーションは個と個の関係だけれど、コミュニオンは全体意識による意思疎通。

そこに共感が生まれ、交感が起こる。

おそらく、この先の高次の文化は、そのようなコミュニオンが底辺に流れているのではと思います。

したがって、これからの時代の流れは、いかに個が全体であることの実感を、個々の人生の中でつかんでいくかだと思う。


そこで僕たちみたいなおせっかいが、せめてその方向性を解説するわけ。

黒斎クンと僕の人生に起きていることは、単にそれだけだと思う。



そんな活動の結果、目指す世界が実現するか否かもわからず、そりゃあ実現したら何億年分も嬉しいけれど、実現しなくてもそれはそれ。

彼方なる意思に反することは決して起きないし、結果を作るのは全体だからね。


でも、彼方なる意思を徹底的に信頼して生きると、人生は考えられないくらいスムーズにシンプルになってくる。

僕がこの活動を始めて25年。

経済的なことや、仕事内容や、家族や、人間関係や、健康状態など、これ以上ないくらいに恵まれてきたけれど、まさに何か大きな力が守ってくれていて、これからも好きに生きろよって言ってくれている。

それが根底にあるから、人生が圧倒的に楽なのだと思う。


要は信頼。

信頼がゴール。

心を開けば、それがゴール。

潔く明け渡せば、そこがゴール。

そのゴールは、いつだって「いまここ」にある。


だからさ、気楽にいこうね。

言葉(スローガン)を持ち運んで自分の行動を決めるのではなく、その瞬間の感応によって、自由自在に生きるだけ。


僕がうまくいってきたノウハウや考え方は、全部無条件に公開してきたし、これからもそうしていきます。

幸せや成功は、運や才能や努力ではなく、ほんの少し意識のフォーカスを変えるだけのことです。

わかってみれば、ものすごく簡単なことです。


この一週間くらい、公私共に忙しすぎて、以前のように日中にブログに関わっている暇がありません。

母の引越し、タイへの渡航準備、そしてたまりにたまった原稿の執筆などなど・・・

コメント管理も、この数日間は信頼する第三者にお願いしていますが、もう少し様子を見て、自分が一番作りたいブログに近づけていく方法を探ってみます。


この50日の休暇は、また新たな気持ちでスタートする、いい機会になりそうです。






とりあえず押してくれたら、二人とも喜びます。

 

馬耳東風

2010年07月21日 | 雲 黒斎
ちょっと「前世」の話からずれてしまうのですが…

こういった類の話って言うのは、本当にコミュニケーションが取りづらいですよね。

と言うのも、話が核心に迫れば迫るほど、「聞き入れたくない内容」にならざるを得ないから。

「認めたくない現実」を認めなければ先に進めない話だから。


受信者側にインプット出来る体制が無い以上、発信者側がどんな表現でアウトプットしようともその意味が通じることはありません。

僕のブログでも書いたことがあるのですが、コミュニケーションってのは「双方向」ですよね。お互いに「理解しよう」という気持ちが無ければ成り立たないワケで。


このこと、阿部さんの著書「一瞬で幸せになる方法」にもありますよね。

第2章の冒頭、「判断せずに人の話を聞く」という話題。

少し抜粋させてください。


*****

話の意味というのは、その人が抱えている現実や、その人が経験から学んできた言葉の解釈によって、様々に違って聞こえます。だから言葉ってのは、すごく危ういものなんです。

人間には言葉以外にも、情報を感知する能力があって、たとえば僕がいま、機嫌がいいのか悪いのか、元気なのか元気じゃないのか、同じ言葉を喋っていても、そういう情報をキャッチする能力を、みんなが持ってる。その能力があれば、言葉では表し切れない情報も、互いに交感することができますね。

やり方としては、まずはその人に興味を持とうとすること。そして、その人に近づこうという気持ちを持つこと。その気持ちをお互いに持ち合えば、同じ空間を共有することが出来て、同じ解釈を共有できて、心が一致した状態になるんです。

僕はよくコンサートなんかやっていて、そう感じる時があります。
 
その時はまさに、それが出来ている。

言葉ってのは不思議で、言葉以上の力、意味がありますね。言葉そのものより、むしろその背景にある意味のようなものが、大事なわけです。

「お前、俺に向かって『馬鹿野郎』って言っただろう、だから悪いんだよ」って怒ってる人がいたとして、でも相手が馬鹿野郎って言ったその言葉の中には、もしかしたら愛が含まれていたかもしれない。

反対に「ありがとう」って言うのも、心を込めて「ありがとう」って言うのと、皮肉っぽく「ありがとう」って言うのとでは、意味が全然違いますよね。表面上の言葉だけでは、判断しきれないものがある。

そういうことが、誤解を生むことも多いんです。

僕は心を込めて、あなたを感じながら、いま何が必要なのかってことを整理していく。あなたのほうは、阿部はいま何を伝えようとしてるんだろう、そのことを感じようとして聞いてくれれば、お互いに有意義な時間を持つことができます。

何を伝えようとしているかを、感じながら聞くということは、言っていることが、合っているか間違っているか、自分にとっていいか悪いか、そういうことばかりを判断しながら聞かないってことでね。

このような態度が何故よくないかっていうと、判断するってことは、すでに自分は答えを持ってしまってる、ということなの。

そうなると、自分の過去の経験や知識以上のものは、入ってこない。

だから一旦自分の判断は脇に置いて、この人はいったい何を言おうとしてるのかなってことを、感じようとして聞けば、何か新しい発見があるかもしれない。

そう言いながら自分で、「そうだよな」って思ってる。結構いいことも、たまに言うんですよね(笑)。そうだよなって、どっかでみんなも思ってるでしょ。そういう気持ちで、時間を共有しましょう。

僕らは通常、自分じゃないものから、いかに自分を守るか、安全でいるかってことを考えています。だから僕たちは、なかなか一つになれないわけです。


*****


まさに、このことなんですよね。

僕のブログの内容も、阿部さんのブログの内容も、一般的な価値観から見たら、なかなか素直に「うん」とは言いづらいものですよね。

「苦しみは、自分自身が生み出しているんですよ」と言っても「そんな理不尽なことがあるか!」って言われちゃうし、「本当はみんなひとつのおなじものなんですよ」って言っても、「そんな言葉になんの意味があるっていうのさ。全然現実的じゃない」って受け入れてもらえないし、「あなたは今以上に幸せにはなりません」なんて話した日にゃ、思いっきりどん引きされちゃうし。

僕たちの言わんとしている意味が通じずに、その人の価値観の中で処理されてしまいます。


まぁ、とはいえ僕も昔はそうでしたからね。あまり偉そうなことも言えないのですが…。


僕ね、学生時代、すごく捻くれてたんですよ。

だから、自分で選んで通っている学校でも、先生に対して「勉強に興味のない俺に、教えられるものなら教えてみな」みたいな態度でね。

教わりたいんだか教わりたくないんだか(笑)。

先生から見たら「おまえ、一体何のために学校に通ってるんだよ」ってなりますわな。


とにもかくにも。結局は、話を聞いてくれる人にしか、お話することは出来ないんですよね。


「聞く」のは簡単。でも、「聞き入れる」のはなかなかに難しい。

スピリチュアル・精神世界うんぬんの前に、日常の夫婦間でだって「聞き入れられない」ってことがありますもん。


 

↑ 押してくれると嬉しいなぁ。(聞き入れてもらえますか?)

Re:Re:前世

2010年07月17日 | 阿部 敏郎
>話されている「内容」の次元と、その話が行われている「状況」の次元に大きな差があるので、そこに矛盾が生じます。

>どうにも話が通じないのは、その「状況」側の次元の認識を保持したまま、「内容」側の次元を理解しようとしてしまうことにありますよね。

>「内容」の側から「状況」を把握することは出来ても、「状況」の側から「内容」を理解することは出来ません。



まったくもって、そのとおり!!

う~ん、黒斎ちゃん、好き、好き!チュッ!



( ̄д ̄;) グゲッ



これって、前世の話だけじゃなく、僕たちが伝えたいと思っていることの全般に言えてるよね。

異論反論の多くが、このギャップから出ている。

でもそのことを言えば、また反論がきて、いつの間にか議論になってしまう。


僕は「砂糖は甘かった」って言っているのに、「そんなはずはない、違う可能性だってある!」って言う人がいるのね。

その人は悪気があるわけじゃなく、合理的思考からそういう結論を導き出している。

あるいは、砂糖じゃないものを舐めておいて、「自分は砂糖を舐めたけど、お前とは意見が違う」と言う人もいる。

でもその人が砂糖を舐めていないのは明白です。

だって、本当に舐めれば、「砂糖は甘い」って言うもの。




さて、前世の話ですけど、


時間も自己も存在しないということを理解すれば、前世なんて言葉は使わなくなる。

でも、時間の中を生きている堅固な実体としての自己が在るとなれば、前世があってもおかしくないことになる。

その堅固な自己が、生死を超えて連続的に生きているというわけだ。


でもさ、その人の自己が、僕の自己だった可能性はないんだろうか。

何を持って、それが自分だと言い切れるんだろう。

その自分って何?


あはは、わからなくなってきた。



僕が言えるのはただひとつ。

砂糖は甘いってこと。


ついでに言うと、「僕はあなたです」





それじゃ、またバトンタッチ(^o^)




押してもらえると、書き手は単純に嬉しいものなんですよ。

 

Re:前世

2010年07月15日 | 雲 黒斎
>こういうことって一言で言い切れない何かが残ってしまうけれど、黒斎クンはどう思う?


前世について一言で言い切れないのは、そのことを語る上で「どの次元を起点にして話を展開するのか」ということによって、結論に大きな違いが生まれてしまうからですよね。


「自我(今現在持ち得ている「自分」という認識)」をベースとした次元から話をすれば、そこには「僕」や「阿部さん」、またこれをご覧になっている「読者の皆さん」という別々のパーソナリティが存在しています。

その次元を起点として話をすれば、「時間も自己もあるのだから、前世(過去の自己)はある」という話になり、

「自己」や「時間」は幻想・観念でしかなく、本来は「全ては一つの同じものである(そもそも分離した自己などない)」、という認識で話を進めれば「前世うんぬんの以前に、生まれ変わる自己そのものがないし、過去もない」という話になります。



阿部さんがお話しされているものの多くは、後者側の次元をベースとしたメッセージですよね。

「時間」「空間」「分離」という認識を超えた次元のお話。

そこには「時間」も「自己」も存在しないのですから、当然「過去」も「生まれ変わる対象」も存在しません。

だからこそ

>だとしたら、なぜ前世などありえましょう。

という結論になります。


しかし、問題となるのは、そのことが語られているのが、「時間」や「自己」の存在が信じられた次元だからです。

話を「順を追って(時系列のなかで)」説明し、それを「語る側」と「聞き取る側」という分離された状況の中で行わざるを得ない。


話されている「内容」の次元と、その話が行われている「状況」の次元に大きな差があるので、そこに矛盾が生じます。

だからこそ、「一言では言い切れない」となってしまうんですよね。


まずは、この「内容」と「状況」の次元の差を、どのように解釈するかという前提を理解しておかなければ、話はいつまで経っても通じないワケですが…

どうにも話が通じないのは、その「状況」側の次元の認識を保持したまま、「内容」側の次元を理解しようとしてしまうことにありますよね。

でも、これはどんなに頑張っても無理な話。

「内容」の側から「状況」を把握することは出来ても、「状況」の側から「内容」を理解することは出来ません。


だから、結局のところ「前世」を理解するためには「前世はない」という次元に立たなければならないワケで…


う~ん。このパラドックス、もう少しわかりやすく説明できないものかなぁ…。




 

↑ このボタンの存在理由? うん、一言では言い切れないなぁ。