京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『古鏡のひみつ』

2024年04月17日 | KIMURAの読書ノート

『古鏡のひみつ』
荒井悟 編著 河出書房新社 2018年

去る3月30日~4月7日まで橿原考古学研究所附属博物館で昨年奈良市の富雄丸山古墳で発見された蛇行剣が一般公開されたため、見学してきた。この蛇行剣は国宝級の発見と言われているが、この古墳で発見された国宝級のものはこれだけではない。もう1つが「盾形銅鏡」で現在は「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」と名づけられている。という訳で今回も考古学の本を取り上げる。残念ながら見学した「剣」に絡むものではなく、今後一般公開をしてくれるであろうと期待している「鏡」に関するものである。

古墳からの出土品に鏡が出てくることはしばしあることは知識と知っていたし、これまでも博物館で数多く目にしてきた。しかし、その役割というのを深く考えたことはなかった。ましてや、鏡の裏の数々の文様に意味を持たせているということなど、はなから意識の中に組み込まれてさえいなかった。ただのデザインとしての意味合い程度だったというのが正直なところである。そのため、最初の小見出しに「実用品とは違う『鏡』の姿」というのを目にした時、言葉につまってしまった。私としては「姿見」とまでは思わなくても、グリムの昔話「白雪姫」に出てくる「魔法の鏡」程度、つまりどのような場面であれ「人を映す」というのが第一番の使い道だろうと思っていたからである。本書によると古代の人たちは鏡面以上に鏡背(鏡の裏側)に神秘の力を感じていたという。この言葉を枕にたくさんのカラーで掲載された鏡が余すとところなくページを埋めている。そして、説明書きを見なくとも、鏡背の文様がここまで異なっているのかと見せつけられる。

鏡の歴史としては4000年前の新石器時代の中国、斉家(せいか)文化まで遡るらしい。そして、殷周時代を経て春秋戦国時代に精巧な金属製の鏡が制作されるようになったと説明されている。この金属製が太陽の光を浴びて輝くため、このことが古代の人々は神秘の力と感じ取ったようである。日本には弥生時代前期に大陸からもたらされ、弥生時代中期に日本列島各地の社会に広がっている。
 
本書は中国で出土した鏡と日本で見つかった鏡それぞれを歴史と共に行きつ戻りつしながら、説明されており、それは古代だけでなく、中世に入っても神格化された鏡としての位置付けにまで考察は及んでいる。そして、それは19世紀後半まで続いていたということを史料から読み取ることができると本書では説明されていた。

が、それは説明文を読まずしても掲載されている数々の鏡の文様を目にするだけで、鏡が特別な存在であったということが分かる。そして、その文様はただただ「素敵」という言葉ひとつで片づけても何らおかしくなく、今の日常からは考えられない程、精密で丁寧で独特のデザイン性を持っており、どれも魅了されるものばかりである。

さて、日本における四世紀は国内でも、大陸でもその記録がない「空白の四世紀」と言われている。富雄丸山古墳から発見された数々の出土品はその四世紀の時代のものである。今年の3月時点の情報では出土された鏡についてはまだ背面が確認されていない(クリーニング作業が終わっていない)状況だという。もし、この背面に何かしらの文字や意味を示す文様が刻まれていたらと思うと、今からわくわくした気持ちが抑えられない。調査結果と一般公開が待ち遠しい。


========文責 木村綾子





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KIMURA の読書ノート『考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話』

2024年04月04日 | KIMURAの読書ノート

『考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話』
大城道則 芝田幸一郎 角道亮介 著 ポプラ社 2023年7月

現在、古代日本についてどっぷり、沼にはまっている私ですが、小学生の頃は古代日本よりは世界の古代遺跡にどっぷりとはまっていました。正確に言えば、「世界のミステリー」と銘打った本を読み漁っていましたので、その中にはマチュピチュやイースター島、イギリスのストーンサークルなどの記述があり、知らず知らずのうちにその世界を妄想していたという訳です。もちろん、現在も関心は薄れてはおりません。日本の古代遺跡のように、歩き回ってフィールドワークということができないので未だ知識ばかりを詰め込んでいますが、関連した本に出合った時は家にお連れするという状況です。という訳で、今回はまさにそれに関連する1冊です。

3人の著者は大城氏が古代エジプト、芝田氏が南米ペルー、角道氏は中国殷周時代がそれぞれ専門分野。彼らが現地で発掘調査をしている際に起こった出来事がエッセイ風に綴られています。「怖い目」というと、「幽霊」にあったとか、「強盗」にあったなどをうっかり想像してしまいますが、考古学者ならではの「怖い目」はそれだけではありませんでした。
 
例えば、かつてツタンカーメンの発掘調査に関わった人が、次々と死亡したということを引き合いに出し、現在も地下での発掘調査を行った後に1カ月熱が下がらなかったこととか、やはり地下での発掘調査で、2週間その地下にこもって人骨と共に過ごしたこと。別の現場では共に過ごしたどころではなく、地下に閉じ込められた話。笑えるけれど深刻なトイレの事情。食文化から伝統神事に関して日本ではありえないこと。何よりも海外で発掘調査を行うために申請する書類が100ページを超えること。この中には全く命にはかかわらない話題もありますが、どれもこれも考古学者にとっては「怖い目」。まさに聞いてみないと分からない話ばかりです。

しかし、最後に執筆を担当している芝田氏のエンディングはまさに身の毛のよだつような「怖い目」。未だ科学的には解明されていないことです。そのようなことって本当にあるのだと、ただただ読みながら呆然としつつ、やはり、さもありなんか……と思ったりもします。そして、私が幼き頃の読んでいた「世界のミステリー」にそれがつながっていく不思議な感覚がありました。これだからこそ、古代遺跡から関心を外すことができないのだなーと一人で納得した次第です。

本書はこれだけに特化したものではなく、全体的には世界を飛び回る考古学者の仕事はどのようなものなのかということがエッセイの中で綴られていて、そこには全く想像のできなかった世界(業務内容)が広がっております。そして、読了後に思ってしまったことは「この職業、気力、体力、時の運の3拍子揃ったものを持っていないと務まらないな」ということ。この3拍子を持ち合わせた考古学者なしには、私たちが果てしない世界の歴史を見て妄想することができないのだ思うと、ただただ頭が下がったのでありました。

=====文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『災害にあったペットを救え』

2024年03月18日 | KIMURAの読書ノート

『災害にあったペットを救え』
高橋うらら 著 小峰書店 2019年

今年のお正月に能登半島で巨大な地震が起こったことは誰もが知っていることである。そして、地震が起こった直後すぐに派遣されたのがDMATである。DMATは「災害派遣医療チーム」のことであり、被災した人達の生命を守るために被災地に駆けつけ救急治療を行う団体である。この団体に関しては多くのメディアで報道されていたので、知っている人は多いと思われる。しかし、このチームだけでなく、DHEAT(災害時健康危機管理支援チーム)、JRAT(大規模災害リハビリテーション支援関連団体協議会)など、表で報道はされていないが、多くの専門支援団体が直後から現地に入って活動を行っており、そしてそれは震災から3ヶ月近くたった今も継続している。これら専門団体は、1995(平成7)年に起こった阪神淡路大震災や2011(平成23)年の東日本大震災の反省を踏まえた上で、国や行政などが組織的に創設したものである。と、ここまでは人間に対する専門支援に関することである。

翻って今や「家族」として認知されつつある犬や猫はどうなっているのだろうか。実は東日本大震災をきっかけに動物たちを救助・保護する団体が各自治体の獣医師単位で結成されていた。それがVMAT(災害派遣獣医療チーム)。そして、本書はこの医療チームが立ち上がるまでの軌跡を綴ったものである。

VMATが創設された時、あちこちから「VMATの理想としてはすばらしいけれど、災害が起きたときは人命優先にあるから、実際にうまく活動するのはむずかしいんじゃないか(p146)」という声があちこちから聞こえたようである。確かに人命が優先されるのは当たり前なのであるが、例えば、DMATはあくまでも人への治療が目的で支援に入るが、倒壊した家屋から治療しなければならない人を救助するのはDMATではなく、消防隊や自衛隊の人たちである。なぜなら、それが彼らの専門だからである。先に挙げたDHEATもすぐに現場に向かうがそれは避難所などの衛生を保つためであったり、薬がない人たちの対応をするためである。そして、JRATは避難所で日常の生活ができず体を動かすことが困難な状況に置かれた被災者がそれに伴い死亡(災害関連死)するのを予防するために支援する。全ての専門団体が治療をする訳ではなく、それぞれの専門性のある分野で支援していくわけである。そうなると、獣医師が被災現場に入った場合、もちろん人間を診察できるわけではないので、動物を支援していくというのは理にかなったことなのである。逆に現場にいる医師や保健師、理学療法士の人が目の前にけがをした動物たちがいても、治療できる術をもっていない。また、動物を支援していく理由は他にもある。本書でこのように記されている。「動物の死体が山積みになり、のら犬やのらネコがふえ、伝染病がはやり、状況はますますひどくなり、すべての復興が終わるまでに、よけい時間がかかってしまうのです(p147)」そして、続いて「ペットを助けることは、飼い主を助けることにつながります。人間を救うのは人間をみる医師ですが、獣医師は、動物をみることで、飼い主の精神的ショックをやわらげることができます。緊急時には人命優先が当然とはいえ、今後VMATが全国で組織され、出動するしくみが整えられれば、きっと多くの飼い主が救われるにちがいありません(p148)」

本書は2019年に刊行されたもので、東日本大震災後に起こった熊本地震での支援活動については記述されている。今回の能登半島地震での活動については、その報告を待つばかりである。そして、VMATではないが、今回の地震では多くの動物保護団体が被災地に入り、迷子になった犬や猫の捜索にあたっている。そして震災から1ヶ月以上経ってからも、無事に救出した嬉しい報告がSNS上に流れてきている。また、環境省も早々に動物対策本部を立上げ、 各市町の避難所において、置き去りにされたペットの存在等の課題を把握するようにしていた。

先月の読書ノート『福田村事件』で私自身「被災者の行動様式の変容には大きな進化があることをこうして対比するものがあるからこそ気付くことがある」と書いたが、支援する側も間違いなく大きな進化が見てとれる。しかし、まだ復興には長い時間がかかると思われる。少しでも被災者とその家族としての犬や猫が安心して生活できるように祈るばかりである。
=======  文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『ざんねんな万葉集』

2024年03月02日 | KIMURAの読書ノート

『ざんねんな万葉集』
岡本梨奈 著 飛鳥新社 2019年

何匹目のドジョウを狙う気なのかとお𠮟りを受けることは、簡単に想像ができましたが、やはりあまりにも可笑しくて、しかし、人間味有りすぎて、ここに紹介しなければもったいないと思ってしまいました。かつてのドジョウの言葉を借りれば、今回は『万葉集』の「超現代語訳」。しかも、本書はこれまでとは異なり、教科書では「絶対」と言い切っていい程、登場することはない歌ばかりが掲載されています。本書で出逢わなければ、どこで出逢うのと言っていい程のものばかりです。これを上梓した著者は冒頭でこのように説明しています。「万葉集は日本最古の和歌集で歌の収録数は日本最多の4516首!もはや、集めすぎたと言っても過言ではありません。ですから微妙な歌もたくさんあって、カスな奴らが、身勝手なイタい歌を詠んでいたりするのです(p5)」

そして、いちばん最初に登場する歌が作者未詳のこちらとなります。
「愛しと 我が思ふ妹は はやも死なぬか 生けりとも 我に寄るべしと 人の言うはなくに(うるはしと あがおもふいもは はやもしなぬか いけりとも あれによるべしと ひとのいはなくに)」
これの一般的な現代語訳は次のようになります。
「美しいと 私が思う愛しいあの娘は 早く死なないかなぁ 生きているとしても 『私になびくだろう』と 誰も言ってくれないので」
現代語訳ですら、すでに不穏な空気が流れてきており、と言うか、超現代語訳は必要ないと言っていい程十分に詠み人の意図は伝わります。そして、そこに風情も優雅さもありません。それでも、とりあえず超現代語訳ではどうなるのか。
「付き合ってくれないなら死ね」

「春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ」
こちらは万葉集を編纂した人の1人とされている大伴家持の歌で、私が中学生の時の教科書に掲載されていた歌でもあります。私が記憶する限り、桃の花の可愛さを描写することにより、その下に立っている少女の可愛さが更に強調され、雅な歌の1つとして学びました。しかし、本書によると、彼は当時かなり女性からもてていたようで、この万葉集に女性からもらったラブレター、つまり家持宛の歌を数多く載せたそうです。それだけならまだしも、それらに対して自ら以下のような歌を詠んで、しかも自身でちゃっかり掲載させたというのです。
「なかなかに 黙もあらましを なにすとか 相見そめけむ 遂げざらまくに」
(現代語訳:いっそ黙っていればよかったなぁ。どういう理由で逢いはじめたのだろうか。最後まで愛しぬくなんてできないであろうに。超現代語訳:口説いた女がめんどくさい)
更に家持は自身が編者であることを良いことに、この万葉集に自らの歌を479首載せているそうです。つまり、1割以上が家持の歌。

更に付け加えておきますと、同じく編者である山上憶良に関してもかなり目の当てられない歌を詠んでいます。教科書では貧窮問答歌を詠んだ、弱い者に対して目を向ける社会派的な人として教えられたはずなのですが、「超現代語訳:一万円あげるからこの子を天国へ」。もう、学校で学んだことは木端微塵。本来の和歌ではどのように詠んでいるのかは是非本書を手にしてみて下さい。超現代語訳が突拍子ではないことが一目(一読)瞭然です。

本書はここ最近の古典ブームに乗っかって刊行されたのかと思っていたのですが、6年前に元号が「令和」に変わった時、その出典が万葉集からということで、より身近に感じるようにとその時に刊行したようです。令和になって以降の「超訳」としては先駆的な本でもありました。それにしても、「万葉集」という和歌集は編纂することにより、ずっと読み継がれるであろうということは編者たちには分かっていたはず。それでも自らの危ない歌を掲載してしまう辺り、よほどナルシストだったのだろうかと想像してしまいました。ただ、これらが残ることで現代も1300年前も人間臭さというのは何も変わらないということをここでも教えてもらうのでした。

=======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『48歳で認知症になった母』

2024年02月15日 | KIMURAの読書ノート

『48歳で認知症になった母』
美齊津康弘 原作 吉田美紀子 漫画 KADOKAWA 2022年

原作者、つまりこの作品の主人公である美齊津氏の経歴は一見華々しく見える。1973年福井県出身。防衛大学卒業後、実業団のアメリカンフットボール選手として活躍。その後介護の道に進むのであるが、彼が防衛大学校に入学することになったのも、タイトルにもなっているようにお母様の認知症が大きく関わっていることを知ると驚くのではないだろうか。本書は母親の認知症発症時から現在までの様子をコミックエッセイという形で表された作品である。

原作者が小学5年生の時、母親の認知症が発覚。原作者は父親、母親、姉、兄の5人家族であったが、父親は会社を経営しており、その片腕として働いていた母親(妻)が病気になったため、全てを一人でやりくりをするため朝早くから夜遅くまで働くこととなり、家には寝に帰るような状態となる。姉はすでに結婚をし、夫の家族との同居で帰省するのもままならず、兄は高校生であったが、自室に引きこもるようになる。そのような状況下で自然と原作者が学校から帰ると母親の見守りをする立場となる。彼が中学生になると兄は県外の大学に進学。これまで以上に原作者に負荷がかかってくる。

今、社会問題となっている1つ、そして子どもに対する虐待という認識にもなってきている「ヤングケアラー」はまさに原作者自身のことであった。この作品には複数の視点が用意されている。ヤングケアラーとしての原作者の視点。認知症を患った母親の視点。会社を抱える父親の視点。家事を担うことになった叔母の視点。そして、原作者の姉、兄の視点。正直誰も幸せな未来を描くことも出来なくなっている現実がそこにあった。とりわけ当時は介護保険があった訳でもなく、身内が病気になった場合は身内でカバーするしかない状況は今とは比べものにならない程である。原作者は現在介護の道を選びケアマネージャとして日々奮闘しながら、「うちにもケアマネジャーがいたら僕たちは救われたかもしれません」と語っている。

しかし、今ヤングケアラーとして家族の介護をしている子ども達に、介護保険のことを知っている子はどれくらいいるだろうか。もし知っていたとしても果たして申請を子どもだけでできるのであろうか。そもそも親の病気が介護保険を利用できるものなのかどうか。多くの疑問が残る。周囲の大人が先に手を差し伸べなくては何も動かないのは、介護保険があろうとなかろうと変わらないのである。それを見過ごしてしまうとどうなるのか。それがこの作品の中の原作者の姿である。恐らく、現実の世界はこの作品で描かれている状況よりもかなり過酷なのではないだろうか。この作品を読んで、子どもがどのような現状に置かれているのかという一端を知るには大切な1冊であると感じる。と同時に、現在このような境遇に置かれている子どもたちをどうしたら早く各自治体の福祉につなげることが可能か、改めて考える必要性がある。

     ===文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『福田村事件』

2024年02月04日 | KIMURAの読書ノート


『福田村事件』
辻野弥生 著 五月書房新社 2023年7月

昨年9月に公開された映画『福田村事件』。かなり話題になったのだが鑑賞する機会を得ることが出来なかったため、その基となった本書を遅ればせながら手にした。ご存じの方も多いだろうが、この「福田村事件」は関東大震災のあった5日後(1923‐大正12年9月6日)千葉県福田村(現在の野田市)で香川県から来ていた薬の行商の一行15人が地元の人たちに襲われて9人が亡くなったという事件である。正確には妊婦さんもいたためお腹の子を含めると10人が殺害されたことになる。

この事件の背後には明治政府がアジアにおける植民地支配競争に乗っかってしまったことにある。1910(明治48)年日本は大韓民国を併合し大韓民国は消滅。以降、35年間の日本の植民地支配となる(この時から「朝鮮」と呼ばれるようになる)。韓国を併合した日本が韓国における政策は「愚民化政策」とも言われるほどひどいものであった。そのため朝鮮では食べていけなくなった多くの人たちが日本に流れ込む結果となり、強制連行で日本に連れてこられた人たちも含むと230万人にものぼったという。そこで朝鮮人に待ち受けていたのが日本人の差別と偏見と悪条件による肉体労働である。それに対しての朝鮮人による激しい抵抗運動。日本国内は常に緊張状態となった。このような中で「関東大震災」が起きたことで誰ともなく流した「朝鮮人来襲」というデマが飛び交い、あたかもそれが真実のように人々の間に駆け巡ってしまう。そして、日本人を朝鮮人と間違えて殺してしまうという事件へと発展していくのである。

が、ここで間違えてはいけないのは、「日本人は殺してはならず、朝鮮人はいいのか」という論法である。当然、日本人であろうと朝鮮人であろうと殺してはいけないのは当然である。そして、ここには事件の背後にある朝鮮の人たちへの差別と偏見が明白なものであることが分かるのだが、更に別の差別が複雑に絡み合っていることが分かっている。これらの差別に関しての歴史や論考は本書を含めて多くの本が出版されているので、そちらに譲りたい。

本書を読んで私がいちばん驚いたことは実はこの差別ではなかった(差別を軽視している訳ではない。これまでにこれらに関する本を幾つか読んでいるため知識を少し持っていたためである)。私が驚いたのは関東大震災が起こった直後の被災者の行動様式である。被災者は大八車に荷物を載せて逃げたという。そして、地震発生がお昼時だったため、あちこちから火の手が上がったという。本書によると江戸時代から消火作業の妨げになるため、火事の場合家財道具を持ちだすことは禁止となっていたらしい。それでも、人々はそのことを守らず大八車にそれらを載せて逃げてしまったため、それら荷物に火の粉が移り大火災になったというのである。火事が原因での死者の割合は全体の55%になるらしい。また、𠮷原で働く女性は「商品」として扱われていたためこのような事態においても、女性が廓外に逃げ出さないよう、廓内に閉じ込めたという。

奇しくもこのお正月に能登で地震が起きた。沿岸部のスーパーの店長さんはその直後に従業員やお客さんたちを素早く高台に避難させた(車で来ていた人は車をそのまま放置させ手ぶらで)ことにより全員津波による被害から免れている。そして同様のケースが幾つか報道された。決してスーパーにとって貴重なお客さんだからと言って、店内に閉じ込めておくようなことはしていない。これは決して笑い事ではない。わずか100年前にはそれをやっていた事実があるのである。振り返れば、まだ関東大震災から100年しか経っていないのに被災者の行動様式の変容には大きな進化があることをこうして対比するものがあるからこそ気付くことがある。そして政府の動きもまさにそうである。大震災時はこのデマを政治利用して、巧みに日本人をあおり、朝鮮の人たちを悪者扱いにしているのである。しかし、今回の能登地震での政府の対応は目を見張るほどの速さだと感じている。人間どころかペットにまで心を配る対応をしてくれている。勿論それが十分であるとは言えないし、まだまだ復興には時間がかかるとは思う。それでも、今回の震災に関しては被災者も支援する側も歴史から学んだことが活かされていると感じる。そして政府は更に歴史から得るものを吸収して、この復興に全力投球して欲しいと願う。

       文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『うちの犬(コ)が認知症になりまして』

2024年01月16日 | KIMURAの読書ノート

『うちの犬(コ)が認知症になりまして』
今西乃子 著 青春出版 2023年

これまで「猫」に関する本は幾度となく取り上げたことはありました。なぜならご存じのように2年前に看取った息子(猫)を溺愛していたことから、完全な猫派の信奉者となってしまったからです(もちろん現在進行形)。それでは「犬」はどうなのかというと、嫌いではなく関心がないわけでもありません。そもそもは犬派だったわけですので。ただ、猫に気持ちが持っていかれてしまっているので、優先順位が犬よりも猫なのです。しかし、その優先順位をすっ飛ばしてでも読みたいと思わせてくれる本が現れました。それが本書です。

タイトル通り、家族の一員として共に生活をしていた未来(犬・雌)が認知症を患い、その介護の記録をまとめたものです。猫に比べて犬の方が認知症に罹患しやすい印象を持ちますが、データ的には共に罹患率は50%のようです。しかし、猫よりも犬の方が圧倒的に早い時期から罹患するケースが多く、大型犬だと6~7歳で罹患すると言われています(猫は11歳以降)。また、犬種では日本犬が多く全体の30%。その中でも柴犬の占める割合は80%となっています。また、これは私の感覚なのですが、彼らが認知症に罹患した場合、その症状として夜泣き(夜鳴き?)があり、犬の場合は遠吠えになってしまうコも多く、その鳴き声が家の外にまで響いてしまうことが多いため目立ってしまう。そして、早いコだと6歳から発症するため必然的に介護生活が長くなり、結果犬の方が罹患率が高いという印象を持たせるのだろうと推測しています。

その未来はデータに反することなく柴犬でした。それでも老いの兆しが見え始めたのは16歳というのですから、人間に例えたら80歳。ある意味ここまで老いの兆しがなく生活をしていたのかと思えばとても立派なものです。しかも、彼女は著者と共に「命の授業」として我が身に降りかかった出来事を小学校などを巡回して話していた(「話す」のは著者ですが)というお仕事を14歳(人間だと72歳)まで現役で勤めています。我が身に降りかかった出来事とは、生後2か月(推定)以前(つまり保護されるまで)に、右目負傷、1つの脚が足首から下切断、もう一方の脚は指から先が切断と言う虐待を受けていたというもの。この状態で動物愛護センターに収容され、そこから著者の家族となっています。

人間で言うところの80歳なのですから、認知症になっても仕方ないよねーと思う反面、犬であろうと、猫であろうと、人間であろうと介護する側にとっては思った以上に死活問題です。しかも、人間でもそうですが、症状は個々によって違うために何が正解なのかという道筋が一切立ちません。未来の場合、トイレの失敗から始まり、徘徊、夜鳴き、昼夜逆転現象とまさに認知症らしい症状が次々と現れています。そして、夜鳴きに関しては著者がそれにより「鬱病」発症と、人間における介護者と瓜二つ。このような状況に介護者がなっても、被介護者(犬)の症状が治まってくれるわけではありません。そのような中で著者はどのように介護を行っていったのか、そして未来を看取った後の想いが丁寧に綴られています。

これは未来の認知症における介護記録ではありますが、前述したように未来はハンデを持って著者の家族となっています。そのため家族になった時点からそのハンデがあっても快適に生活できるために著者は未来に多くのサポートをしています。つまり、未来は認知症に罹患する以前からというか、著者の家族になった時点から被介護者(犬)なのです。その部分も簡単にではありますが、記されています。介護をするということはどういうことなのか、そして「命を預かった責任」というものを本書を通して今一度考えて欲しいと思いました。

====== 文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『もしも徳川家康が総理大臣になったら』

2024年01月03日 | KIMURAの読書ノート

『もしも徳川家康が総理大臣になったら』
眞邊明人 作 サンマーク出版 2021年

新年あけましておめでとうございます。何年目に突入したか分からなくなってしまいましたが、こちらのコーナーで書く機会を頂き、軽く20年を突破。それでも尽きることなく本は出版されていますので、本年も変わらず継続させて頂きます。

さて、今年の目標ですが、2年間目標を立てても未到達ですので、さすがに今回は立てずに読書に励もうと思います。ただ、昨年同様に「山岳信仰」系の本を中心に突っ走っていくつもりです。こちらの方はこのコーナーで取り上げることができるかは定かではありませんが、読書以外にはじめて見つけた私の推し活はまだまだ枯れることがなく、本から得た知識をフィールドワークで確認し、更にはこの恩恵としての自分の筋肉の変化を感じ取っていきたいと思います。「山岳信仰」に関してはもちろん推し活ですので、先にも書いたように関連本は手放せませんが、それ以外にも関心事はてんこ盛り。その中から自分がより関心を持った本をここで取り上げていきます。皆さんに楽しさや面白さが伝わっているかどうかはわかりませんが、それでもみなさんに伝わるべく努力をしていきますので、今年もお付き合い下されば嬉しいと思っております。どうぞ本年もよろしくお願いします。

時は2020年4月1日。日本だけでなく海外でも新型コロナウイルスが猛威を振るっていたこの時期(いや、現在も沈静化は全くしておりませんが)、世界初のAIと最新ホログラム技術で復活した歴史上の偉人たちで構成された最強内閣の最初の閣議が行われました。この偉人たちの中にはお互いに生きていた時代に因縁の間柄となっている者もいますが、それに関しては、あらかじめこれらの因縁が思考や行動に影響を及ぼさないようにプログラミングされているばかりか、同僚となる偉人たちの経歴や事績、能力などもインプットされています。そのようにして構成された内閣はの任務は、コロナ禍において日本が危機的状況に陥ったのを救うため。前総理はコロナ感染のため命を落とし、感染を防ごうにも最初から後手に回り、国の統制がとれなくなっている状況がこの時期の日本でした。

コロナ禍での最強内閣が行った政策は、当時私たちが心の中でそうであって欲しいと考えていたことをそのまま実現させているようなものでした。例えば、国をロックダウンさせる代わりに行った補償金の支給。金額もさることながら、多少のミスや正しさは後回しにして、10日以内に全国民に支給してしまいます。もちろん、その方法が克明につづられている訳ですが、なぜ当時の政府はこれを行わなかったのか。これを担ったのは豊臣秀吉の家臣、石田三成。「不正があれば、後から正せばよい」と叫んでいます。他、織田信長、福沢諭吉、平賀源内、北条政子、緒方洪庵などなど。適材適所に偉人たちが活躍していきます。また後半はこの偉人たちは所詮プログラミングした人物。その中にプログラミングのバグがある偉人がいるということが突き止められます。このバグがどのように影響を及ぼしていくのかということが争点となっていき、物語はエンディングに向かって行きます。

この作品は今年の夏映画化されます。昨年の大河の「家康」は少々こけたみたいですが、この映画化では「家康」はどのような存在となるのでしょうか。今からわくわくと期待しています。自分たちが生きた時代と現代の社会との隔たりを理解していきながら、かなり大胆な政策を打ち立て国を立て直していく先人たちのパワフルさに新年から力を与えてもらえます。

====  文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 『世界の国境を歩いてみたら…』

2023年12月15日 | KIMURAの読書ノート


『世界の国境を歩いてみたら…』

「世界の国境を歩いてみたら…」番組取材班 著 河出書房新社 2018年

 今年も残すところ半月となりました。まず最初に年明けに掲げました『猫の本棚』(高野一江・編著 郵研社 2021年)に掲載されている293作品を全て読むという目標について。きっぱりと申し上げます、1冊も読んでおりません。すでに読了の作品を除いてということと、掲載されていない猫本は読みましたが、上記リストは全く意識できませんでした。というもの、一昨年末より関心をもった「山岳信仰」や「修験道」などに関する本を最優先に読んでしまいまして、11月末現在でそれらの読了冊数だけで100冊を超えております。お陰で上記の内容や古代日本についてはそこそこの知識を得ることができました。そして、これらについてはフィールドワークも週1で行い、これまでの人生インドア派だったために筋肉というものと無関係でしたが、とても素敵な筋肉も得ることをできました。これらについてはまだまだ沼から抜け出しそうにありません。そのような訳で目標は何処へという1年になってしまいました。

 さて今回取り上げる本は上記のことと少しだけ被るところがあります。それは「フィールドワーク」という部分。こちらはかつてBS11で放送されていた「世界の国境を歩いてみたら…」の中から、厳選した国境を取り上げたものです。それではそもそもなぜこのような作品が生まれたかということですが、まえがきによると新しい番組を企画するために議論を繰り返した時に出てきた合言葉が「他局にはない新しい視点」。その時に知り合いの制作会社から提案されたのが「国境線って報道されるのはほんの一面で、実際に行ってみるとしたたかな人たちの色々な顔が出るんです。そんな旅の企画はいかがでしょう」というものだったようです。

 私が知っている国境線というのはやはり危険地帯というものがいちばんに脳裏に浮かんできます。本書ではそのようなところも取り上げられていますが、なかなかユニークな国境線も多くそれは全く想像のできない世界でした。まず、大前提としてお伝えしておくことは、国境線は長いということ。当然のことと言えば当然なのですが、陸続きの国境を持つことのない日本では案外抜け落ちる前提だと思います。本書で取り上げられている国境でいちばん短いものが80㎞(シンガポールとマレーシア)。長いものはアメリカとカナダ。9000㎞あります。ちなみにこの国境の長さは世界一でもあります。取材もこの長さが活かせるように、何カ所かでかつ両国側から行われています。しかもこの長い国境に沿ってずっと検閲所があるわけではありません。その検閲所のないところでの両国の人たちはどのような生活を送っているのか、本書の肝はまさにそこにあります。

 陸続きの国境線と先程書きましたが、ベトナムとカンボジアの場合、東南アジア最大のメコン川が国境になっている部分があります。この部分ではベトナム側には川沿いまで家々が立ち並んでいるのに、カンボジア側は見渡す限り原野なのだそうです。また別の場所では国境を境にアスファルトと土煙の舞う地道。両国の状況が物語られています。このような感じで、南アフリカとモザンビーク、ノルウェーとスウェーデン、パナマとコスタリカ、タイとラオスなど全部で12国境線が掲載されています。

 本書を読むだけでも目から鱗のようなことばかりでワクワクします。それが目の前で繰り広げられたらより高揚し、本の中からはみ出した部分を発見した時には舞い上がってしまう事間違いなし。だから、私もフィールドワークがやめられないのよねーと自分の今の状況とうっかり重ね合わせてしまいました。ただ、残念なのはこの番組を見逃しているということ。文字でこれだけ面白いのですから、映像はもっと面白かったのではないかと思います。BS番組はこれだから侮れません。これまで以上にもっとBS番組に目を向けなければとこの年末に猛省するのでありました。それでは皆様、よいお年を!
         =====文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『あなたの日本語だいじょうぶ?』

2023年12月02日 | KIMURAの読書ノート

『あなたの日本語だいじょうぶ?』
金田一秀穂 著 暮らしの手帖社 2023年7月10日

祖父が金田一京助、父親が金田一春彦で著者も言語学者というのは、誰もが知っていることである。その著者のエッセイが本書。但し、エッセイと言っても書かれている内容はすべて「日本語」についてである。

第1章から第3章まではコロナ禍においての「日本語」及びAIについて書かれてある。不要不急の日常となり、大学の講義や仕事はリモートとなり、日常が大きく変わった時、言葉はどのようにリモートの中で変化していったのか、そして改めて日本語の持っている本質というのが浮き彫りになっていることが綴られている。更にはAIが発展する中で外国語教育は必要なのかというところまで言及している。そして第4章は巷で見聞きする日本語について綴られている。

その中で印象的だったが幾つかあるが、その1つが若い人が創り出していく言葉についてである。まず、どの言葉に関しても著者はそれを肯定しているという点で驚き、更にそれらの幾つかを分析し、結論に至っている。その方法というのは、とても筋道のたったもので、特例があるものの現在構築されている文法に基づいて言葉は変化しているということを改めて知ることとなった。またコロナ禍において頻繁に耳にした「不要不急」という言葉。この言葉に対して、テレビのコメンテーターたちが『「不要不急」の定義を示せ』と言っていたが、このような発言は「愚か」だと著者は一蹴している。日本語は日本の文化の上に成り立っていて、その曖昧さが秩序として保たれてきた伝統があると語る。更には自分の行為がどうなのか、自分で判断できなくてどうする、自分で考え、自分で判断し、自分で表現できるような人になることが教育の目的と言及している。

本書を読んで日本語に限らず言語は流動的だということを改めて感じた。「今の若い者は」と今も昔も流行りの言葉を使うと大人はついそのようなことを言いがちであるが、それを言う事自体がナンセンスでその流行り言葉がその時代を作り、新たな言葉の形成の役割を担っていることを知った。著者の軽快な文章に躍らせられるように読みがちになってしまうが、どの項目も一旦立ち止まってその言葉と今の社会の状況を照らし合わせざるを得ない内容となっている。

そして、最後の項目は「卒業」についてである。テレビを観ているとアイドルグループの1人がそのグループから「卒業」するというのをしばし目にする。これに関して著者は「終わることを卒業と言い換えている」とし、卒業は何らかの学業を終えてこれから先は一人前になるという節目だとしている。それだったら、これまでのアイドルグループの活動は練習か、もしくは半人前の修業期間だったのか、そのような状態に自分たちは付き合わされていたのかと疑問を呈している。そう思われないためにも政治家は「卒業」とは言わないと言う。なるほど、政治活動中、うっかりと暴言や差別的な発言をした人でも確かに辞める時だけは「引退」と言う。そこを間違えたら、もっと叩かれることを無意識に知っているのだ。このことは、「終わりよければ全て良し」ということが身に付いてしまっているとも考えられないだろうか。この考えが政治家の中に植え付けられているとしたら、「引退」という言葉さえきちんと言えれば、活動中は何を発言しても構わないということであろう。そんなことをつい思ってしまった。そして、気持ちは暗澹となるのである。

             文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『地図バカ』

2023年11月15日 | 大原の里だより

『地図バカ』
今尾恵介 著 中央公論新社 2023年9月

恐らく我が家は一般家庭より「地図」を多く持っていると勝手に思っている。そもそも私も夫もバイクや車で遠出することを苦としないため、目的地が決まったらそこに至るまでの道路地図を購入する。今ではカーナビで道案内をしてもらうが、行き先によっては電波が届かないところもしばしあるため「地図帳」は必ず持参である。そうこうしているうちにいわゆる「道路地図」というのが本棚にてんこ盛りになったわけだが、学校の副教材として用いられていたような「地図帳」も手放せない。基本、地図を眺めるのが好きなのである。無人島に1冊のみ何か持参してもいいと言われたら本好き・活字好きの私であるが、迷いなく「地図帳」か「道路地図」を持っていく自信がある。それ位地図は眺めていて飽きない「本」なのである。

世の中に読書とは別に「地図」が好きという人がどのくらいいるのか分からないが本書のサブタイトルになっている「地図好きの地図好きによる地図好きのための本」が刊行され、現在重版が繰り返されているということを知ると、かなりの人数似た者がいるのだろうと想像する。そしてそのサブタイトルにまんまと引っ掛かって私も手にした。本書の著者はもちろん地図好きであるが、好きが高じて、誰にも頼まれていないのに軽井沢のイラストマップを作成し、それを自ら売り込みに行ったことが転機となり地図研究家としての第1歩を踏み出した経緯がある。

第1章では幼い頃からどのくらい地図が好きであったかということが延々と書き連られ、第2章では地図好きの先人の紹介。第3章ではお宝的地図を取り上げ、第4章では机上旅行へ誘ってくれる。第5章では地図上に記載された地名や駅名を掘り下げ、第6章では地図から歴史を紐解く。そして、最後第7章は地図から災害をどう捉えていくかという論考で構成されている。

この中で興味惹かれたのは明治30年に北海道庁地理課が発行した北海道地図。この地図は地名がアイヌ語の発音表記で記している。もともと北海道はアイヌ民族の拠点だった地。地名はもちろんアイヌ語由来がほとんどである。例えば、現在の「札幌」。これをローマ字表記すると「SAPPORO」となるが、この地図では「SATPORO」と記されている。これは「サッ【乾いた】」と「ポロ(ペッ)【大きな(川)】」を意味する。この地図を眺めているだけで、もともとの地名がどのように発音されていたのかということが分かるだけでなく、日本語からアイヌ語に取り入れられた単語、またその逆でアイヌ語から日本語に取り入れれたものが分かり、地図で有りながら言語学が学べてしまうのである。そして、何よりも北海道がアイヌ民族の土地であったという史実がはっきりとここからも浮き彫りになるのである。

日本大百科全書によると「地図」は「地球表面の全部または一部の状態を、記号や文字を用い、縮小して、一般には平面上に描き表したもの。地図は、複雑に分布する土地の情報を伝える優れた手段であり、各種の調査、計画、行政、教育、レクリエーションなど、われわれの活動や日常生活に不可欠のものとなっている」と記されているが、土地情報だけでない多くの情報を間違いなく私たちに与えてくれるものである。是非この1冊を手にして地図の世界を堪能して欲しい。  

   文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』

2023年11月02日 | KIMURAの読書ノート

『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』
石澤義裕 著 WAVE出版 2023年1月

本書は紀行文である。しかし、これが刊行された年明けの時点ではその旅は終わっていない。しかもこの旅、2005年から始まっている。かれこれ18年。そのうちの2015年から綴られているのが本書。そもそもこの旅を始めた理由が、夫婦で一生に一度くらいは海外暮らしをしたいという意見が一致。仕事を辞めて海外に出たそうである。ここで、いの一番に資金はどうしたのだろうという疑問が浮かぶと思うのだが、著者の職業はデザイナー。引退宣言をしたが、クライアントから「どこ旅しているの。暇でしょ」とメールが送られてきて、そこからリモートワークが始まったということである。文明の利器万歳というところであろうか。「海外」はもしかしたら、かつての時代よりもかなり近くなったばかりでなく、とても「軽い」ものになったのかもしれないと、「はじめに」を読むだけでそう思わせてくれた。しかし、18年も海外をうろついているのに、まだ定住先が見つからないということは、軽くなった分、地に足のつかないものになったのかもしれないとすら思ってしまう。

最初の旅立ちではスクーターを購入してアラスカからアルゼンチン、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、そして東南アジアを廻っている。そして、本書スタートとなる2015年は軽自動車を購入してロシアを突っ切り、南アフリカを目指しながら、定住地を探すという旅。読者としては面白くないわけがないと期待してページをめくる。

どの国をピックアップしようか悩むほど、第三者的にはとても楽しく読めるものばかりであるが、当事者は命がけであることが最初に上陸したサハリンからそれが分かる。町を少しでも抜けると廃墟が覆う雑草のみが生えている道をひたすら走る。そして、そこで夜になる。当然のようにそこには街灯の1つでもあるわけでもなく、闇夜の中を走る訳には行かない。キャンプ場かもしくは安ホテルを探すしかないが、そんなに簡単にこれらの場所が見つかる訳でもない。そのような中で灯のともる民家をみつけ、事情を伝えると「近くのキャンプ場があるから、ついて来い」とそこの主人先導で車を走らせること2時間半。距離にして140㎞。北海道でも「すぐ近く」は10㎞先ということはしばしあるが、これだけで世界はワイルドワイドであることが分かる。しかし、著者は誘拐されているのではないかと気が気ではなく、一時は先導車を見送ってそこにとどまってみるものの、先導車はUターンして著者に「ついて来い」と声をかける。正直逃げるにも逃げられない状況である。そして、無事にたどり着いたキャンプ場が「すぐ」という140㎞先。それでも、この件については「おじさんの親切はギネス級です。絶対に道案内の世界記録です。(p27)」と綴っているから笑い話で済むのであるが、幸運以外の何ものでもない。

笑い話にもならない国もあった。それはモーリタニア。西サハラからモーリタニアに入国して、諸手続きを終わらせ、車にエンジンをかけ、走り出したところ、後ろから何人も人たちが血相を変えて走って追いかけてくる。そして一言「案内するって言っているだろう」と壮絶に怒られる。誰でも利用している国境は地雷地帯だったのである。ここを抜けるには案内人がいないと間違いなく「地雷を踏む」という場所。著者は重くならないようにこの時のことを綴っているが、ただの「イミグレーション」が地雷地帯なんて、少なからず多くの日本人が想像することはないだろう。実は本書、このように想像をまずすることが出来ない、しかし知ってしまったらそこで立ち止まって世界の状況を考えるしかない出来事ばかりが満載なのである。約450ページにもなる本書を読み終わった頃にはただただ脳みそが右往左往してしまっている状態というのが、本当のところかもしれない。

タイトルの『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』だが、恐らく「お知らせは来る」と私は思っている。なぜなら、著者はパソコンを持って世界を巡りつつ仕事をしているからである。きっとメールでお知らせは来るだろう。それを教えてくれたのは、何よりもこの本書ではないか。世界は広くて近い。

=======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 図解でスッと頭に入る 紫式部と源氏物語

2023年10月18日 | KIMURAの読書ノート

『図解でスッと頭に入る 紫式部と源氏物語』
竹内正彦 監修 昭文社  2023年8月

来月1日は「古典の日」ということで、前回に続き、古典に関する本を取り上げます。本書は「図解でスッと頭に入る」シリーズの中の1冊ですが、いや、これを読んで頭にスッと入るかと笑いながらページをめくってしまいました。

オールカラーでイラストもふんだんに入り、源氏物語に入る前にまずは紫式部の背景についてドンと記されているのですが、相関図だらけでこれが異様に複雑で、幾ら可愛いイラストでも無理という感じでした。

まず最初に表れる相関図が平安後期の紫式部と藤原道長周辺の状況。紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕え、清少納言が同じく一条天皇の中宮定子に仕えているというのは分かります。が、平安後期の出来事ですから、ここだけでなく、それ以前の花山天皇、円融天皇、冷泉天皇について誰が入内したのかとその入内した娘は誰の子なのか、一条天皇の後の天皇についても同様。もう、これは図解してあってもそこまではいきなり脳みそに入らないと思う訳ですが、そこに藤原家がずっと関与していたということだけは十分すぎる程分かりました。

そして、お次は藤原家の相関図。藤原不比等(中臣鎌足、つまり藤原鎌足の息子)からスタートしています。後宮サロンの相関図もあります。

もうこの時点でお腹いっぱいになる訳ですが、その後、今度は宮殿内の建物のイラストが表されています。誰がどこに住まわっていたかということが描かれている訳です。更には平安京の碁盤の目が記されていて、ここでは、紫式部の都内での動きが表されます。これに関しては現在の京都市内の地理が脳内に入っていれば、イメージしやすく、これまでの相関図や敷地内の見取り図による苦行からは解き放たれるかもしれません。

ここまでで、だいたい半分。その後ようやく源氏物語に入ってくるわけですが、光源氏の生涯を幾つかにわけて、相関図がその度に出てきます。もう光源氏は若き日から多くの人と関係を持ちすぎているため、相関図の複雑さにげんなりしてきます。そして、宮殿内の見取り図。更には都内での登場人物の動き。こちらも紫式部の時同様に現在の京都市内の地理がイメージできれば楽しいばかりですけどね。でも、一歩引き、俯瞰しておかなければならないのは、紫式部に関するこれらのことは一応現実世界。しかし、源氏物語はあくまでもフィクション。1冊に両者をまとめているため、どちらも現実世界のように思えてきます。いや、すでに現在の京都市内を散策すると五条上ル路地のところに「夕顔の居宅址」とか、高瀬川沿いには「六条御息所の住まい址」などという碑が建っているので、現在の京都市内がそもそも論として虚構の世界かも知れないなんてうっかりと思ったりします。それだけ、紫式部は1000年以上経っても一つの都市に莫大な影響を及ぼしている作品を残したという現実は圧巻としか言いようがありません。

年明けから始まるNHKの大河ドラマは紫式部がモチーフとなっていますし、まずは予習がてら本書を手にいてみるのはいかがでしょうか。

         文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『超訳古今和歌集』

2023年10月02日 | KIMURAの読書ノート


『超訳古今和歌集』
noritamamai 著 ハーパーコリンズ・ジャパン 2023年7月

夏前頃から書店では「超訳」となる古文の本があちこち平積みで配架されているのを目にする。以前から読書ノートでも取り上げ書いていることであるが、簡単に古文が読めるならそれに越したことはない。これまでは、古文の物語を読んできたが、今回は数ある超訳の本の中から和歌に手を出してみた。

そもそも「超訳」というのはどういうことなのか。本書にはこのように書かれている。

「超訳とは……原歌を現代語訳したものを、さらに意訳。2段階の訳を経て、読みやすくかみ砕いたものです。そのため、必ずしも原歌どおりに正しく訳すのではなく、意味合いを重視した訳になっています。
【原歌】⇒【忠実な訳】⇒【意訳】」(p6)

とりあえず、古今和歌集の中から誰でも耳にしたことのある和歌を取り上げてみる。まずは百人一首にも選ばれている小野小町の和歌。
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
超訳になると、
「昔はかわいいかわいい言われて結構モテたんだけどな~」
確かこれを直訳すると「桜の花の色がすっかり色あせてしまったように、私の容姿もすっかり衰えてしまった。春の長雨が降り続き、私がもの思いにふけっている間に」のような感じだったはずである。しかし、超訳になるとこの歌を詠んだと思われる季節はあっさり削除。小野小町の想いだけを表に出したものになっているが、結局はこれがいちばん言いたいことだろうということがとてもよく分かる。それと同時に超訳だと、小野小町の時代も今の時代も考えていることが一緒であるということまで明確に分かってくる。

これを踏まえた上で、私が納得したり笑わせてもらったりしたものを幾つかピックアップする。

物部吉名
原歌:「世の憂き目 見えぬ山路へ 入らむには 思ふ人こそ ほだしなりけれ」
超訳:「転職してー てか、仕事したくねー でも辞めたら、嫁に殺されるー」

凡河内躬恒
原歌:「世を捨てて 山に入る人 山にても なほ憂き時は いづち行くらむ」
超訳:「あいつ、また仕事辞めたってよ もう行くとこないんじゃね?」

大江千里
原歌:「月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど」
超訳:「月見たら 泣けてきちゃうんだ ボクってほんと繊細」

壬生忠岑
原歌:「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」
超訳:「徹夜明けの月を見ると 振られたときのこと 思い出すんだよね ……(T_T)」

本書の超訳を読んでいて気付いたことは和歌を詠んでいる男性陣がかなり女々しいということ。でも、それを心にしまうのではなく、歌として気持ちを表に出しているのは何とも微笑ましくも感じるが、ふとこれって今のX(旧Twitter)と同じ手法。そう考えると「超訳」は突拍子な訳ではないということではないだろうか。

そして最後に、国歌「君が代」の元となった歌を紹介する。
原歌:「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
超訳:「たいせつなあなた 長生きして元気に暮らしてください あの小さな石が いつか大きな岩になる、その日まで」
素直に「国歌万歳」と思ってしまった。そして、この国歌の単純明快な想いに沿った政治を宜しくとも思う

=====文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『ぼくはうそをついた』

2023年09月17日 | KIMURAの読書ノート

『ぼくはうそをついた』
西村すぐり 作 中島花野 絵 ポプラ社 2023年6月

8月末に広島に帰省した時のことである。時間が出来たので幾つかの書店をぷらぷらと巡ったところ、本書が平積みや、面出しで置いてあったりと、かなり目立つ配架となっていた。広島から自宅に戻って自分が住んでいる周辺の書店を廻ってみたが本書を目にすることはほぼなかった。それが逆に気になり、読むこととなった。

新学期から小学6年生になるリョウタは河川敷で『ヘロゥばぁ』と呼ばれるおばあさんに遭遇する。『ヘロゥばぁ』に手をつかまれた子は不幸になると子ども達の間でささやかれていた。河川敷で遊んでいた子は一斉にその場から逃げたが、リョウタはそこでツクシを取り続けた。そうしていると、土手の階段を駆け下りる一人の少女を目にした。その少女はリョウタより1学年上でリョウタと同じバレーボールクラブに所属しており、女子チームのキャプテンを担っていたレイであった。彼女はプレイヤーとして期待されており、強豪校からの誘いもあるという。リョウタはレイが『ヘロゥばぁ』に近づき手をとろうとするところを見てしまう。自宅に戻ったリョウタは同居する母方の祖父が手にした小さな箱を持っていることに気付く。その箱には祖父の父親、リョウタにとっては曾祖父からの遺言がこの箱には入っているということを教えてもらう。そして、祖父は自身の父親のことをリョウタに話し始める。次の日、リョウタはレイから『ヘロゥばぁ』が自分の曾祖母であり、夏が近づくとおかしくなると打ち明けられる。

原爆にまつわる物語である。8月の読書ノート『かげふみ』で私は主人公が被爆3世になっていることが衝撃的だったと書いたが、この作品の人物設定にはもっと驚かされることとなった。これまでの物語は祖父母が原爆にあったこととして物語が進んでいたが、この作品の物語のキーとなるのが、曾祖父母たちなのである。つまり、主人公であるリョウタやレイが被爆3世であることには変わりないが、キーとなる曾祖父母は被爆当時すでに大人なのである。しかも高齢化社会のため、曾祖父母が健在という家庭は少なくない。このような中で物語は展開する訳である。

作中でリョウタの祖父が、自身が体験した原爆当時の話をリョウタに語る場面がある。その時祖父は小学4年生であったが、担任は新任でしかも17歳だったという。このことについて「あとがき」で作者がこのモデルになったのは自分自身の母親であると記している。17歳で教壇に立つだけでなく、学校で子ども達と一緒にいるところを原爆にあい、子どもたちの運命を背負わなければならなくなった17歳の少女はどのような思いだったのだろうかと考えると胸が痛くなる。そして、同様にリョウタやレイの曾祖父母が原爆で我が子を亡くしたことで心に重たいものを抱えてしまう描写には切なくなってしまう。それを今の時代のリョウタやレイは小学生でありながら受け止めなければならない現実。それを見事に描き切ったこの作品、広島だけでなく全国の書店で平積み、もしくは面出しで配架してもらいたいと切に願う。


========== 文責 木村綾子


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