秋雪映画メモ

秋ヒロトと雪村幸太郎が同じ映画を見て、色々と感想を述べます。

映画メモ第二回 お題「サイコサスペンス」

2006年03月08日 | 映画メモ
 やっと軌道に乗ってきたか? の第二回です。
 今回は「サイコサスペンス」。デヴィット・フィンチャー監督『ゲーム』と黒沢清監督『CURE』です。それではどうぞ。
(点数は10点満点です。)

1本目
『ゲーム』
1997年 アメリカ映画
監督:デヴィット・フィンチャー
脚本:ジョン・ブランカトー マイケル・フェリス
出演:マイケル・ダグラス ショーン・ベン デボラ・カーラ・アンガー ジェームズ・レブホーン

・秋ヒロト 8点
 『セブン』『ファイト・クラブ』『パニック・ルーム』などで有名なデヴィッド・フィンチャー監督作品。
 こうやって振り返って考えると、いずれ劣らぬ面白い映画ぞろい(特に『ファイト・クラブ』)。今までデヴィッド・リンチとかぶってるとか思っててごめんね。
 まあそういうわけで、初めて『ゲーム』を観た時は、とりわけデヴィッド・フィンチャー監督作品ということを意識していなかった。それだけに面白い映画を「発掘」したような喜びがあった。

 『ゲーム』は面白い映画である。
 誰しも個人的に好きなタイプの映画、嫌いなタイプの映画(要するに好みのジャンル)があると思う。僕はホラーとかサスペンス系の映画を別に好きではない(だから観ていてあまりのめり込まない)のだが、そういう好みなどという柵を越えて夢中になって観た。
 この映画の「面白さ」というのは、いわゆる「娯楽としての面白さ(観ていて興奮するような感じ)」だとか「映画としての面白さ(感動、あるいは心を動かされるような感じ)」というよりはむしろ、ミステリーで言うところの「犯人」、恋愛映画で言うところの、男女のカップルが最後にどうなるのか(結ばれてハッピーエンドか否か)という、つまり映画のオチを読む「頭脳系の面白さ」である。
 ちなみに僕はホラーもサスペンスも別に好きではないと書いたが、頭脳系の映画は大好きだ(『CUBE』とか『ユージュアル・サスペクツ』とか、古いところで言えば『スティング』とか)。
 「頭脳系」の映画が好きな人は、どんな映画を観ても大概オチを読んで、当たれば大喜び、外れれば映画の作り手に賞賛の拍手を贈ったり、腹を立てたりして楽しむものだ。

 主人公(マイケル・ダグラス)は弟(ショーン・ペン)から誕生日のプレゼントに、CRSという会社の電話番号の書かれたカードを貰う。その会社は、顧客にあった「ゲーム」を供給するというのだ。
 「ゲーム」と言ってもTVゲームではなく、実際に何が起こるのかは分らない。 やがて主人公の身の回りに奇妙なことが起こり始める。落ち着いた、かなり完成度の高い映像でじわじわ映画は進み、観客はそれぞれのオチやCRSの会社についての推理を働かせながら、何が起こるのかわくわくしながら待つ。後半になると段々テンションが上がり、映画全体のスピード感も上がっていく。
 特筆すべきは、ラスト前の膠着状態。映画のテンションは最高に盛り上がる。これほど瞬間的な盛り上がりはそうそう見られない。この段階ではまだオチが明らかになっていないので、間違いなく、全ての観客が固唾をのんで見守った瞬間だろう。
 映画の中で、「ゲーム」を評する言葉として引用されている、ヨハネの福音書第9章第25節「私は盲目であったが今は見える」という言葉が、最後には主人公と重なるのが印象深い。

・雪村幸太郎 5点
 とにかく見ている最中は映像のクオリティの高さもあってのめり込め、最後にはものすごいどんでん返しがあるので、楽しめることは楽しめるんですが……そのラストがあまりにも一発芸的で、2度目を見ても「あー、主人公はかなり頑張っているけれど、結局あれなんだよなあ」となって楽しめないという、結果として私の中では映画としてはワンランク下がってしまいました。
それとネタばれになりそうなので詳しくは言えませんが、「人間ってそんなに簡単か?」ということ。見た方はこの意見の賛否はともかく、何を言いたいのかは分かると思います。こういうオチ重視の作品でネタばれ無しで感想を書くのは大変です……。
ともあれ、一回目を見ている間はなかなか楽しめる上質な娯楽作品だと思いますので、興味を持たれた方は見て損するということは無いでしょう。もう一歩色々な部分に踏み込んでくれれば、娯楽作品以上の作品としての深みを持つことが出来たのでは無いか、と思うと少々残念です。
最後、個人的には主人公にアイツをぶん殴って欲しかったです(笑)。これは私がああなったら殴るだろうなというだけですから、あれでいいと言う人の方が多いとは思いますが。

2本目
『CURE』
1997年 日本映画
監督・脚本:黒沢清
出演:役所広司 萩原聖人 うじきつよし 中川安奈

・秋ヒロト 5点
 『回路』『ドッペルゲンガー』『アカルイミライ』のなどの黒沢清監督作品。 僕がまだ邦画に全く興味が無かった頃、大学で映画に関する授業を幾つかとっていたことがある。その時のクラスの中では「好きな映画監督は黒沢清だ」という人が多かった。
 当然黒沢清を知らない僕と、その人たちとで話が合うわけもなかったが、たとえ今改めてその人たちと会って話をしたとしても、やっぱり会話は盛り上がらないと思う。
 要するに黒沢清の映画は、観る人によって「とてつもなく好きな映画(よく分らないけどとにかく面白い)」か「別に悪くもないけど良くもない映画(面白くないわけではないが、どこが面白いか分らない)」という極端な反応に分かれてしまうのだ。
 まあ点数から見ても分るように僕は後者の方で、その「面白いと思う感覚」が分らなかった以上、これからもずっと分らないと思う。相性が悪かったと思って諦めるしかない。

 『CURE』のストーリーの軸は、連続殺人事件である。連続殺人事件とは言っても、一人の犯人が複数の殺人事件を起こす話(これがミステリーによくある普通のやつ)ではなく、複数の殺人事件(当然犯人は別)の手口が共通という話だ。 ミステリーとなると、主人公は大抵、その事件を推理する人物になる。今回はその事件を担当している刑事(役所広司)が主人公。 普通のミステリーの場合、①殺人事件が起こる→②探偵役の主人公が事件捜査に乗り出す→③徐々に事件の真相が明らかになっていく(観客は犯人やトリックを推理して楽しむ)→④意外な真犯人が判明して一件落着、という展開を辿ることになる。
 つまりミステリーの醍醐味と言えばずばり、犯人やトリックを推理することにあるのだが、この映画は一味違う。一味どころか全然違う。
 映画のラスト十分で、事件の真相を推理している(推理していなくても、どういうオチか期待している)観客は、怒涛の展開により完全に置いてけぼりをくらう。
 『ドッペルゲンガー』もまたそうなのだが、黒沢清は意図的に乱雑なカット繋ぎを使って、観客によるストーリーの安易な納得を拒絶しているのだ。
 恐らく大部分の観客は、何体かの死体について、①何故そうなったのか、②誰が犯人なのか理解不能で、そうなると「催眠療法」という手法(あるいは能力)に関しても、①何がどうだったのか、②何がどうなったのか分らず、従って映画全体を見失ってしまうという結果になる。
 映画全体を見失った観客は、オチ(最早どれがオチであるかすら分らないが)の解釈を色々考えるが、どれも決定的な納得足りえない。
 そこで観客の反応は大体三つに分かれる。①オチの意味不明さに消化不良と怒りを感じる人、②雰囲気(おどろおどろしい感じだとか)を振り返って、すごく好きな映画だと感じる人、③結局何が何だか良く分らなかったが、特に面白くなかったわけではない、かといって面白かったとも感じない人。僕はこれ。
 ミステリーの場合、結局、「事件の発生→事件の終結」という想定内の公式になってしまう。それを崩した点に関して、あるいはそこにこの映画の新しさがあると言えるのかも知れない。

・雪村幸太郎 7点
 所謂サイコサスペンス作品ですが、この作品で注目するべきは何といっても主人公の高部賢一を演じる役所広司の演技力でしょう。
本人にはもしかしたら嬉しくないかもしれませんが、役所広司は『平均的中年日本人男性』を演じさせたら日本一だと私は思っています。スター性は有りませんが、リアルさを感じることが出来ます。
そんなどこにでもいそうな中年男性が次第に自分の中の暴力性を剥き出しにしていく様は、あまりにも悲惨で、ホラーとは違った種類の恐怖を感じます。
役所広司はこの作品の前年にあの『shall we ダンス!?』に出ていて、あの作品でも平均的中年男性を演じています。……この違いは何なのか。奥さんが精神異常になってしまったからなのか。記憶喪失の大学生・間宮に出会ってしまったからなのか。別の監督の作品ですから比べたりするものでは無いのですが、私は作品を最後まで見た後、『shall we ダンス!?』を思い出して「なんでこんなことになってしまったのだろう?」という絶望感がより増幅されてしまいました。
 それと黒沢清監督独特の銃を撃つシーン。「カメラをかなり引く」「銃声はやたら乾いている」というやり方も、この作品においてはかなり良い効果を生み出しているのでは無いでしょうか。アクションとしての爽快感は微塵もありませんが、「人間はこんなに簡単に死ぬんだな」という空しさは痛いほど感じました。