くもりときどき思案・2

アイウエオ順に思い出すあのひとのこと。
あのころのこと。

205 みどりさん

2009-06-08 23:52:45 | あのひと
人生の終着駅の改札で、
「あなたの親友の名前は?」と訊かれたら
わたしは迷いなく、
このひとの名前を口にするだろう。
たくさんの感謝とともに。


そんな書き出しで、
みどりさんと過ごしてきた時間の
長い長いおはなしを
書き残しておきたいと思っている。

いつか、ね。



204 ミヨさん

2009-03-30 00:43:28 | あのひと
他所より転載

カルチャーの朗読教室にミヨさんがいる。
いくつですか?と聞いたことはないが
話から察すると、たぶん70歳前後だろう。

今日の朗読でミヨさんは「金子みすず」の詩を読んだ。
決して美しい朗読ではないが
嗄れたようなミヨさんの声が
「みんなちがって みんないい」と読むと
それはきれいごとではなく
時空を跨いだ告白のようにも聞こえた。


ミヨさんは、色白の細面にめがねをかけている。
化粧気のない顔の真ん中、小鼻の上に飛び出たほくろがある。
そのほくろはミヨさんを少しばかり気難しいひとに見せる。

いつもグレーの洋服を着て
白髪交じりの長い髪を一本の三つ編みにしているミヨさんは
なんというか、事務の仕事が似合いそうな雰囲気だ。

ミヨさんとは駅前から同じバスに乗ることが多いので、
並んで座っていろんなことを話す。
朗読のこと、家庭のこと、病気のこと、年金のことなど。

ミヨさんは、よくマナーを知らないひとのことを嘆く。
「ひとの立場に立てないのよね」
こちらはうなづくばかりだ。


今日は、ミヨさんの趣味の話になった。
朗読のほかにデッサンの教室に通っているそうだ。
年に2回ある展示会にもデッサンと水彩画を出展している。

「昔は、いろいろやったけど、もう、そんな元気はないわ」
「なにをやってたんですか?」
「恥ずかしいから、聞かないで」
「そういわれると、よけい聞きたいです」

「・・・バイオリン」

予想外の答えだった。
ミヨさんの持つ生真面目そうな雰囲気から
その答えは思いつかなかった。

ホラこれ、と言って見せた小指にタコが出来ていた。
「手が小さいのに、G線をしゃかりきになって押さえてたから」

「すごい!どのくらいやってたんですか?」
「聞かないで。キコキコやってものになんないから辞めちゃった」

「ほかにもなにかされてんたんですか?」
「陶芸もやった。これも手がかぶれて湿疹ができたからやめたの」
そういってミヨさんは小さな手をこすり合わせた。

ご主人を亡くして、製菓会社に勤めに出て
ひとり息子さんを育てあげた。

その退職後「ずっとやりたかったから」とやり始めた
バイオリンと陶芸と絵画と朗読。

その取り合わせが、わたしにはなんだか切なかった。

あこがれ続けたものを手の中に収めてみても
それをずっと抱き続けることはできないんだな
などと思ったりした。


ひとりぐらしのミヨさんは家でラジオを聴く。
深夜もつけたままで、眠る。

「なにも音がないとさびしいから。
耳鳴り聞いて寝るよりいいから」

ときどき、夜中の浪曲で目が覚めたりするらしい。
今夜はどんなラジオを聴いているんだろう。


203 み・・さん

2008-11-20 00:59:17 | あのひと
結婚というのはふたりだけの問題ではなく
相手の家族と繋がるということであり
それは喜ばしいことばかりではなく
たくさんの問題も生じてくる。

その問題のなかでも、
お金のことは実にやっかいだ。
いいひとばがりが損をする。

み・・さんの結婚も自分たち以外の問題がたくさんあった。
親戚の金の無心にほとほと疲れ果て
そのひとたちと縁を切るには・・・と考え、離婚を選んだ。

そして、腕に覚えのある技術を生かす仕事につき
再婚もしないで女手ひとつでお子さんを大学院までいれ、教職につかせた。

そんなに聡明でなんでもできるのにみ・・さんの自己評価は低い。
謙虚さもあるが、理想が高いのだろうとも思う。

「もしも誰かが自分をすきになってくれたとしても
こんな自分をすきになるなんてって思うから
そのひとのことすきになれない」

そんな言葉をかなしく聞いた記憶がある。


シングルなのだから自由に遊べる立場なのに
夕方になると早く家に帰らなくっちゃと思うのだそうだ。

小学校からミッション系の女子校に通った彼女の背骨を
まっすぐ貫く躾なのだろう。

60歳が近いみ・・さんには
そんな少女のような横顔がある。






202 もうひとりのますだくん

2008-11-06 01:56:12 | あのひと
高校が同じだったますだくんのことを
クラスがいっしょにならなかったこともあって
在学中はほとんど知らなかった。

それが横浜に住んでいたとき、展覧会のはがきを貰って初めて
ああこんなひとがあの高校にいたんだと知った。

ますだくんは京都在住で
三島手という技法を駆使する陶芸家だ。


鎌倉の展示会場で初めて会った。
3年間同じクラスになったことがなかったので
お互いの顔に見覚えがなかった。

彼は長い髪をひとつに束ね
ひげを蓄えた芸術家の風貌だったが
話してみれば、徐々に
同じ場所で青春を送ったものの公約数を見つけ出すことができる。

あの子のことこの子のこと。
わたしの仲良しブーチンと同じ地区からかよっていたので
共通の友人の話で垣根がとれた。

それから話は彼の生い立ちにおよび
彼のおとうさんが公務員で
小さいときは京都の博物館のなかの宿舎に住んでいたのだと聞いた。
朝学校に行くときは「考えるひと」と守衛さんに送られていくのだとか。
それはなんだかうらやましかった。

それから話は互いの今に及び
彼自身の結婚も紆余曲折があったらしいことや
陶芸家の経済のたいへんさなども聞いた。

三島手という技法は土鍋などに使われている
小さな印を押していくものだ。
その印を自分で創り、フリーハンドで器に押していく。

茶碗を持っている。
写真がそれだ。
地がグレーのものが多いのだが
これはかわいいピンクなのが気に入っている。

フルネーム「増田繁臣」で検索すると
いろんな場所で展示会をしているのがわかる。
ネットでも買えるようだ。
(http://www.to-an.com/osusume.html)

陶芸家と職人の境界線をよく言われるのだというが
フリーハンドでぴたっと納まるその技術と
その美しさをいっしょに味わっている。

展示会が東京の画廊でひらかれたとき
会場でばったりまゆみさんにあった。
ふたりは同じクラスだったそうで
東京在住のまゆみさんはよく展示会に顔を見せているそうだ。

ちいさな同窓会でいろんなひとの消息を聞いた。
そのときのますだくんはひげはそのままだったが
おつむはスキンヘッドになっていた。
とてもあたまのかたちの美しいひとだなと思っていた。



201 ますだくん

2008-10-29 08:11:27 | あのひと
中学からバス通学だった。
バスは桂川沿いの集落を通って京阪電車の駅まで走る。

カズエちゃんは羽束師橋の向こうから乗ってきた。
橋のこちらがわが私の住む横大路で
左に折れてまっすぐ旧千本通りを行くと下鳥羽というところに至る。

その下鳥羽のバス停から毎朝同じ時間に乗ってくる男子学生に
カズエちゃんはあこがれていた。

名前も知らない色白で大きな眸の美しいそのひとを
カズエちゃんは「しもとば」と呼び
時間をみはからっていつも同じバスに乗っていた。

折り目正しく着ている制服から
そのひとが私立の学校に通っていることが知れたが
ほかのことはなにもわからなかった。

その制服は最近はときどきラグビーで花園大会に出ている
クリスチャン系の大阪の学校のものだった。

どのくらいたってからかも
どういうツテからかもわすれてしまったのだが
カズエちゃんはそのひとの名前を突き止めてきた。

ますだくん、だという。

真偽のほどはわからないが
下鳥羽にある有名な造り酒屋の息子さんらしいということだった。

名前を知り
こっそり「ますだくん」と声に出してみると
そのひとはなんだか近いひとになった。


そんなふうに「しもとば」が「ますだくん」になっても
当時のカズエちゃんが
自分から積極的に距離を縮めることはなかったのだが
見つめる視線は熱を帯びた。

「朝、ますだくんといっしょのバスだった」だとか
「今日は自分の前に立った」だとかを誰かに報告すると、
その日はなんだか晴れやかな気分になるみたいだった。

そのころ、ただあこがれる日々は他の子にもあった。
思うひとの顔が見られたというだけでこころが弾んだ。
見つめる先のなにげないしぐさに一喜一憂した。

そんなことを打ち明けあってくすくすと笑いあっていた
幼く、他愛なく、それでも真剣で純な時間。
だれの胸にもある打ち明けることなく終わったあこがれ。

ますだくんはカズエちゃんのあこがれでした。





200 まぶちセンセイ

2008-10-27 02:11:12 | あのひと
まぶちセンセイは
かつて朝日カルチャーのエッセイコラム教室で教わった師であり
ネットでも文章ご指南していただいています。

まぶちセンセイが
作文を読んで「へんですねえ」と言ったら
それは喜ばしいことです。

それはありきたりでない、
という折り紙をつけてもらったということだからです。

「誰にでも書けることや
もう誰かが書いてしまったことを書いても仕方がない。
発見のない文章は読みたくもない。
サンドイッチのパンではなく
具のような文章を書きなさい」
とおっしゃるセンセイですからです。

かつてわたしが「へんですねえ」といってもらった作文は
超能力の姉のことを書いたものでした。

わたしには恥ずかしながらへんな家族がたくさんいて
子供の頃からずっと、やれやれだなあと思っていたのだけれど
センセイに教わってから
へんな家族は書ける!と気づくと
それはそれでありがたいのかもしれんと
オセロの駒のように
過去の出来事の色相がぱちりと変わるのでした。

とはいえ、
そうヘンなことばかりは見つからなくて
センセイのおめがねにかなう作文は
そうそう書けないのだけれど
この「くもりときどき思案」は
あいうえお順というのがいい、と言われました。
そこがヘンなんでしょうね。

「たいていのひとは
こんなに長く続けられませんから」
とも言われました。

たしかに飽きもせず
書きも書いたりですね。

そんなふうに書き続けることがヘンなことなのなら
やっぱり書き続けるしかないなあ、と思ったりしているのでした。

そうそう
センセイには「文章は筋肉である」と教わったのですから
だから筋トレ続けましょう。
差しさわりのない範囲で・・・。





199 まりセンセイ

2008-08-27 07:39:49 | あのひと
高校3年の担任まりセンセイのメトロノームは
とてもゆっくり振れるような気がしていた。
アダージョのひと。

ねむたげな眸はやわらかに事物を捕らえ
こころはあたたかに反応する。
その鷹揚な気配が生徒を安心させた。

高校の校門の門柱に造反有理なんてペンキで落書きされていた時代の
すぐあとにそこをくぐったわたしたちは
そんな紛争の欠片など微塵も持たない三無主義の集団だった。

声高に相手を攻撃することなく
必死の形相になることもなく
穏便にラクチンに日々が送れればそれでよかった。

やらねばならぬことはわかっていた。
いずれそういう戦いの場に出て行くのだとも知っていた。
そういう予感を抱きながらもそこからは遠くにいたかった。
一日は倦怠感とともに過ぎていった。

だから家畜の放牧のような、まりセンセイのクラス運営がありがたかった。
だからこそ、受験前の文化祭で「かくやひめ」なんて
ドタバタ劇にみんなが夢中になったりしたのかもしれない。
そこには緩やかな連帯があった。

卒業後30数年がたって同窓会でお会いしたまりセンセイが意外にお若くて
逆算すると、担任をされていたころはすごく若かったんだなと思い至り、驚いた。
結婚されて間もなかったのかもしれない。
そんなころにあんなに落ち着いておられたのかと感心する。

宇治市が主宰する紫式部賞の市民文化賞を取られた詩集「撫順」には
大陸から引き上げてくるときのことが描かれていた。
そういう厳しい状況を潜り抜けてこられた体験が
その落ち着きをかもし出していたのかもしれない。

また、日比野五鳳というかたを書の師に持ち、書道に励んでこられた。
幼い日にその門を叩いた日からの交流を描いた本も出されている。
師と交わした言葉を鮮明に再生させた
その文章のやわからさがまさにまりセンセイだと思う。

わたしは取るに足らない生徒だっただろうな。
クラスにはセンセイの家を訪ねた子もいたし
センセイのお子さんになつかれた子もいたという。
そんな交流があったこともしらなかった。

わたしにとってのまりセンセイは
透明な空気のかたまりの向こうで
ゆったり微笑んでいるひとだった。


198 欠番

2008-08-23 09:47:33 | あのひと
調整中

197 もうひとりのまちこさん

2008-08-20 02:33:46 | あのひと
もうひとりのまちこさんは1950年生まれだ。
東大入試がなかった年に受験して
早稲田の政経に入ったという才媛である。

専門学校の講師を経て大学院へ入り資格を得て
今は水戸のほうの大学のセンセイをしているらしいが
詳しいことはよくわからない。


12年前
横浜の朝日カルチャーのエッセイコラムの教室で出会った。

その頃専門学校で文章術も教えていた彼女は
カルチャーで教わったことを自転車操業のように学生に教えていた。

何に対しても積極的で、ある意味貪欲で
いわゆる「いっちょがみ」体質の彼女がどういうわけか、
その対極にいるような片頬のわたしを気に入ったらしく、
よく話したし、いっしょに出かけたりもした。

片頬になって間のないのわたしは
そんなふうにまたひととつながることができることに
安堵していた。

湘南のカルチャーに移ったときもいっしょだった。
江ノ島や大磯へも連れだっていった。
せっかくだからと洞窟まで歩いて龍の姿まで拝んできた。

どうしてそんなにアクティブに動けるのかと聞いたことがあった。

「だって、年取って縁側で孫に話せることが
たくさんあったほうがいいでしょう?」
という答えだった。

そうねえ、とうなづきながら、実はわたしは
年取ったら孫の話を聞いてやるばあちゃんのほうがいいな
と思っていた。

話のなかでわたしがよく親友みどりさんの話をするので
会ってみたいと彼女が言った。
みどりさんも了解したので桜木町で会った。

観覧車に3人で乗った。

3人になると空気が変わった。
ふたりの聡明な女性は、互いが似ているせいか
ときどき言葉がカツンカツンとぶつかった。
そのたびに居心地が悪くなった。

そのあと、みどりさんに病気が見つかった。
わたしはショックでまちこさんに相談した。

するとまちこさんはわたしには告げずに
みどりさんにポラロイドカメラを送った。

わたしには理解できないのだが
切除する前のきれいな姿をとどめておくといい、
という意味だった。

その行為にこれから手術を受けるみどりさんは深く傷ついた。
まちこさんからの手紙を手渡すみどりさんの目が濡れていた。
そんな思いにさせたことが申し訳なかった。

わたしは、まちこさんと絶交した。
それがわたしのたいせつなものの順番だった。

196 まちこさん

2008-08-19 08:54:08 | あのひと
横浜元町そばに麦田トンネルがある。
そこを抜けた右側にある三角とんがり屋根の3階建てが
テニス仲間だったまちこさんの家だ。

一階は散髪屋さんで上が住まいになっている。
ご主人は航空会社に勤めていてお子さんはふたり。

したの息子さんがうちの息子2と同じ幼稚園だった。

なんというかまちこさんはわたしの友人のなかでは
ダントツに垢抜けてかっこいい。
生粋の浜っ子だ。

後にタクシーの運転を生業とするまちこさんのおとうさんは
米軍の基地で働いていて
同じくそこで働くおかあさんと知り合ったのだと聞いた。

まちこさんの顔は小顔で彫りが深くて、
折れそうに細くて足が長くて
おしゃれでセンスもいいし
手先が器用でなんでも作れるし
テニスもアクティブで、スマッシュの切れ味がよかった。
あまり聞いたことのないスマートな外車に乗っていた。

自分の対極にいるようなべっぴんまちこさんと
なんで友達になったかというと
お互いテニスをしていたからだ。

お互い練習嫌いの試合好きだから、
なにしろ試合がしたいのだが
メンバーがいないと試合ができない。
じゃあ、というのでいっしょにすることになった。

たぶんテニスをしていなかったら
口もきかなかっただろう。
すれちがっても住む世界が違うとおもっていただろう。

だけど、何年も敵になったり味方になったりして
ひとつのボールを追いかけているうちに
たがいの気心がわかってきて

まちこさんの面倒見のよさや
そのわりに事なかれ主義だったりすることなんかを
感じ取ってくるのだった。

まちこさんはまちこさんで
わたしのジョークを面白がった。
そう、自分で言うのもなんだが
ときどきわたしはものすごく面白い。

テニス帰りに元町を歩いて
入ったこともないブティックに入って
聞いたこともないブランドを教えてもらって
ふむふむとうなづきながら
それはサイズがあわんなと思ったりしながら
おばかなことを言って笑いあった。

それは部活のノリで
ああ、そういえば中学のときの軟式テニス部にも
テニスのうまいべっぴんさんがいたなと思い出した。
仲間だったけど
中学3年のときわたしが部活をやめると疎遠になった。

片頬になって
テニスコートが遠くなって
まちこさんも遠いひとになってしまった。

きっと彼女はいまでも眼医者さんの受付で
54歳には見えない美貌でにこやかに
「保険証、おねがいします」なんていって
居並ぶおじいさんたちの胸をときめかせているにちがいない。