カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

再び、おやっさんと建てる家

2019年06月16日 | 大工のこと


集まった大工の平均年齢が61歳の建前、というと最近はめずらしいかもしれません。
心配していた天候にも恵まれて、無事に建前が進行中です。

「煎じて、煎じて、煎じて、あとはカン」で紹介した、80坪の本家普請です。
年明けから墨付け・手刻みを進めていましたが、ようやく上棟することができました。



「おやっさん」とは、岐阜県関市上之保の私の親方です。今年68歳です。
私が小僧(大工見習い)の頃と比べて、変わったことといえば、眼鏡をかけていることぐらいでしょうか。

2階の桁に丸太梁を架ける時などは、ひるむ私を尻目に「俺が行くから」と先陣を切って桁の上を歩いていきます。
大屋根に登っていたのは、私とおやっさんと、72歳の大工さんです。スーパーマンみたいな方々です。



二階の大屋根の庇を支えるのは、上之保村で「せんがい」と呼ばれる方法です。
柱に腕木と持ち送りを差し、その上に出桁を載せ掛け、軒を大きく出すのです。こうすることで、独特の屋根の景観が生まれます。



大屋根のせんがい軒と縁側の磨丸太桁を、ルーフィングを届けに来てくれた瓦葺き師さんが、腕組みをしながら「うーむ」とひとしきり眺めていたのですが、「せんがいなんて見るのは本当に久しぶりやな~これは最後のせんがいかもしれんな~」、と言い残して去っていきました。

その後の一服の時に、皆で「最後って言ってたけど、どういう意味やろうね?瓦屋さんにとって最後?このあたりの建物として最後?令和時代で最後?まだ始まったばかりだけど・・」と話していたら、おやっさんが「どれにしても最後だなんてさみしい、俺はまだまだやるよ」と頼もしい言葉を発してくれました。



今回の建前に集まった大工は9人。おやっさんの3兄弟大工を始めとして、私の大工人生の中でずっと関わってきた大工さんたちばかりです。
カネサダ番匠の30歳代の若い衆を除いた平均年齢は61歳になります。皆さんがほとんど60歳代ということです(ちなみに私は今年50歳。まだまだ若造です・・)。

こんなメンバーですから、一服の話題に上るのが、手刻みのこと、昔の現場のこと、かんながけはこのようにする、ボルトの長さの勘定はこうしてやる・・などなど、みなさんウンチクを熱く語ってくれます。そのどれもが、みんなが「分かる分かる」というものです。もちろん私にとっても「分かる分かる」ということばかりで、ためになることばかりです。こういう時は、それぞれの場所で仕事をこなしてきた大工が感じてきたことは、皆さん同じなんだな~、と感心します。



これは通し柱の墨付け風景です。通し柱とは1階から2階までに通して伸びている柱です。2間(約3.6メートル)おきに配置するのが通例です。
通し柱は6寸角(18センチ角)です。最近のプレカットを主とした木造住宅の通し柱の一般的な寸法は4寸5分角(13.5センチ角)です。

これは大工であれば誰でも分かっていることなのですが、13.5センチ角の通し柱をトラックから下ろす時に荷台から誤って落としたとしたら、下手をすると真ん中で折れてしまいます。これは胴差しという部材が取りつく部分の加工穴の欠損が非常に大きいためです。こんな通し柱で大地震が来たら・・想像に難くありません。

もちろんこのリスクを下げるために、外壁側に構造用合板などの面材を張ることや、柱・筋違い(構造用合板を使用する場合は筋違いは入れません)などを金物でしっかりと留めつけることが現在では一般的(建築基準法に定められています)ですが、合板の寿命はいいところ(条件によってはまちまちですが)30年~40年程です。新築時はいいとしても、30年後に大地震が来たとしたら・・これも想像に難くありませんよね。

実験では、通し柱を6寸角以上にすれば、胴差しの仕口で折れる可能性はぐんと下がります。私は通し柱はまず6寸角以上を使用します。



これは大黒柱です。大黒柱は一尺角(30センチ角)です。これを手かんなで丁寧に仕上げます。



最近は新しい工法や法律などの変化が目まぐるしく、正直なところを申しますと、60歳代以上の大工や職人はその変化についていけていないかもしれません。
しかし、新しいことが全て正しいのか、というとそうではない、と私は思っています(かといって、新しいこと全てを否定するわけでもありません)。新しいことに足りないことは、時代や時間の淘汰を受けていない、ということです。新出の工法や建材が30~40年後にどうなっているのか、誰に予測できるというのでしょうか?

おやっさんを含め、年季の入った大工さんは、50年以上の経験と勘と実績を持ち合わせています。おやっさんのおやっさん、そのまたおやっさんを含めるとどうでしょうか。木造建築に限って言えば、私はこのような大工の言う言葉の方が頷けるし、正しいと思えるのです。

私の目標は生涯現役です。ずっと私自身の手で家を刻んで建て続けたい、そう願っています。
おやっさんや先輩大工さんたちと仕事をするにつけ、いつも勇気づけられるのです。
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郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その6

2019年02月08日 | カネサダ番匠が作った家


郡上八幡の山あいに「皆佛」(カイブツ)という集落があります。
皆佛、という地名は親鸞上人が開祖の浄土真宗が、郡上で盛んだった頃(現在でも多くのお寺が浄土真宗です)を彷彿させる地名です。

仏教においては「皆」が指すのは人間だけではありません。山川草木、吹く風や立つ浪(ナミ)の音までも、皆佛様だというのです。
実際に集落内を歩いてみると、皆佛という名をこの地に付けた理由が納得できるような、物静かでありながら、美しく端正な山あいの農村の風景が広がっています。



その昔、私が郡上八幡を初めて訪れた時に、妻が一番目に「見て欲しい場所がある」と案内してくれたのが、この皆佛でした。
郡上に特有の「出登り造り」と呼ばれる家々が山の斜面に点在するさまは、日本の典型的な農村風景をそのまま絵にした様な美しいものでした。何よりも私の目を捉えて離さなかったのは、登り梁が端正に並んで入った家そのものの美しさ、格好の良さでした。

「これらの家々や、郡上の美しい景色を守りたい」という妻の言葉に大いに共感したものです。
私も皆佛集落の登り梁の家を見ながら、「いつか自分たちの手で、この様な家を建ててみたい」と思っていました。

全般に、日本の民家は全国のどの地域のものでも端正でバランスのとれた美しい姿をしています。
何百年もかけて、その土地の気候風土に合わせて、また材料も全てその地に産するものを使い、住み手や職人が改良を続けてきたわけですから、一番その土地の暮らしや風景に馴染み、溶け込んだものになっているのです。何よりも、全て人々の手で作り上げた、というのが大きいと思います。



実は、再びこの皆佛を、くまなく一日かけて歩く機会に図らずも恵まれたのです。

一年ちょっと前になりますが、郡上八幡市街に在住の高齢の女性が、歩いて外出したまま行方不明になる事件が発生したのです。
早速、郡上八幡の各分団に出動命令が出され、私の所属する部に割り当てられたのが、この皆佛集落内を歩いて捜索する、というものでした。捜索ですので、各お宅の庭先にまで入っていって、家の周りや物陰、付近の倉庫や田畑にいたるまで、くまなく捜しまわります。
女性の姿を捜しながらも、同時に私の目には、昔に見た皆佛集落の家々の端正な姿も入ってきました。やはり、美しい。

しかし、女性は一体どこへ行ってしまったのか?捜索は続きました。
この皆佛周辺が捜索候補に挙がったのには理由があります。女性のご出身は、この皆佛から山一つ隔てた郡上市大和町でした。現在は車道はありませんが、山村の昔の行き来は山の谷筋や峠道です。八幡市街からこの方面に女性が歩く姿も目撃されていました。
女性はもしかして、昔見慣れた懐かしく、美しい景色を求めて故郷への道を記憶を頼りに歩いて行ったのではないか?と、私は歩きながら思い始めていました。そして、その土地や場所の風景において、家の存在が果たす役割はとても大きなものではないか?人の心や思い出においても、家を含めた景色はずっと残り続けるのではないか?そんなことを、お会いしたことはない女性の心境にも重ね合わせて考えながら、皆佛の家々を縫うように歩いていきました。

同じことは「郡上の登り梁の家」を建築中にも感じていました。
家の建つ様は、風景に溶け込んだものであって欲しい、人々の記憶にずっと残るものであって欲しい、そんなことを願いながら取り組んだ、「郡上の登り梁の家」。少し建前の様子をご紹介しましょうか。



郡上の伝統的な家には、「大ザス」(オオザス)という大きな梁が妻行きに入ります。
大抵のお宅は、玄関を入るとまず、この大ザスが目に入ってきます。この大ザスの大きさが家の家格を表わしているようなものです。



大ザスには、次に桁行き方向に大梁を架けます。まず大きく十文字に梁を架けるのです。この中心が大黒柱です。ですから、大黒柱は通し柱にはなりません。



少し分かりづらいのですが、写真の右下に褐色のベンガラを塗った土台が敷いてあるのが分かりますか?これは家の裏側なのですが、郡上はもとより飛騨地方にかけては、家の周囲に土台を敷き並べ、内部の柱を石場建てにする手法がとられてきました。
ですから建前時には、建物全体を土台の高さ以上に浮かせておいて組み上げ、組み終えてから全体を所定の位置に落とし込んでいきます。宙に浮いた状態で組むわけですから(実際には柱の下部にパッキンを敷いてあります)、足元の位置が定まっておらず、上下左右同時に息を合わせて組んでいかないと、建物自体がまとまっていきません。この時に大活躍するのが、以前ご紹介したシャチ栓です。



建物の隅の部分はこのようにホゾが柱から飛び出してきます。ここには端セン(ハナセン、鼻センとも)を使用して部材を引き寄せます。

お手伝いに来ていただいた大工さんからは、「兼定くーん、こりゃ大変やけど、この長いほぞ切ってもええか?」との怒号?が連発でした。最後に「あ、もういいですよー!どうしても入らなければ切ってくださーい!」と答えると、「ここまで来たんやで、そら切らん方がええわな~」。あー、良かった。一本のホゾも切られませんでした。皆さんの奮闘に感謝・感謝です。





登り梁は下で組んで、一気に大屋根に上げていきます。登り梁同士もシャチ栓で引き寄せてから、胴栓を打って固定します。建前時には、シャチ栓や端栓のみを打ち、込栓や胴栓は荒壁塗りや瓦葺きが終わり、造作を進めていく段階で順次打ちます。しかし、登り梁をクレーンで吊り上げる場合はいきなり大きな力が継手にかかりますので、前もって胴栓を打っておきます。





登り梁は桧の太鼓挽き丸太を使っています。昔の登り梁といえば全て松でしたが、細い松丸太はものすごく捻れるので、今回は桧を採用しています。桁から先の外部に見える部分は全部同じ形に作り出しています。





垂木を打てばゴールは間近です。





建前は無事に終了しました。これから続く荒壁塗りや造作工事も紹介していきます。

さて、女性の捜索の行方なのですが、残念ながら皆佛集落から少し離れた谷の途中で、息を引き取った状態で発見されました。
見つかるきっかけは、谷筋へと下りる道端の岩の上に、ポツンと置かれた一つのリンゴであったそうです。

女性はお宮さんの角を曲がり、故郷へと続く山道へと分け入っていったのです。
悲しい結果に終わってしまったのですが、私には女性の耳には遠い昔に何度も聞いた祭囃子の音が確かに聞こえていたのではないか、という気がしています。
道すがらの建ち並ぶ家々も、子供の頃から見慣れた姿そのままで、心はずませながら生まれ故郷への道をたどっていったのではないか、と思います。
複雑な心境でしたが、私にとっても、大切なことを学ばせていただいた一日になりました。

私たちが建てる家も、風景に溶け込み、家族や人々の記憶に残り続けるたたずまいであって欲しい。
そんな願いを抱きながら、これからも家づくりに取り組みたいと思っています。
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煎じて、煎じて、煎じて、あとはカン

2019年01月27日 | 大工のこと


正月休み明けから、80坪の新築住宅の墨付けを始めています。
最近ではめずらしく、施主様からの手刻みの要望です。
岐阜県では『本家普請』(ホンヤブシン)という言い方をするのですが、入母屋屋根、瓦葺き、センガイ軒の堂々たる建物です。

私は墨付けを始める前には、まず絵図板(エズイタ)を作ります。地方によっては看板板とも呼ばれます。



絵図板には、2階建で在来工法でしたら6種の図を書きます。足固めや差し鴨居を入れる伝統構法になると8種は必要です。
今回の場合ですと、左上から1階平面図、土台伏図、2階桁・梁伏図、右上に移り2階平面図・1階小屋伏図、腰・1階桁梁伏図、2階大屋根小屋伏図となります。

木造住宅で1、2階境の胴差し(ドウザシ)と呼ばれる部材や2階床梁が入る部分を、特に腰と呼びます。大地震で住宅が倒壊するのは、ほぼこの腰が破壊されて倒壊に至るということが原因です。ではどうすればいいのか?については、またの機会に譲りましょう。

さて、昔ならともかく、最近では確認申請時には図面を提出しますから、図面があります。
図面があるのに、何故大工が再び絵図板を作るのか?と思われるでしょう。でも墨付けを進めていくのには、絵図板はなくてはならないものなのです。

絵図板には、墨付けをする部材を全て書き込みます。この、全て、というのが大事なんです。つまり、この家に使用する部材は、数や部材寸法、長さ、継手位置、仕口、組み方、そしてそれらの部材の墨付けや刻みの進行具合も含め、絵図板を見るだけで、全て分かるようになっています。いえ、一目で分かるようにするために、わざわざ絵図板を作る、とも言えます。ですから、墨付けをする間中に絵図板を、何百回、何千回も見ることになります。



もう一つ、絵図板を書く理由があります。
今回は瓦葺きで入母屋屋根です。入母屋屋根は破風を建てる位置は瓦の寸法を元に決めなければなりません。梁間によって、見栄えのいいバランスのとれた破風の位置を経験則によって決めていきます。大屋根、下屋(1階屋根)は梁間は4~5間(間はケン、と読みます。1間=1.82メートルです)ですので、軒先から瓦割りで4枚奥に入ったところで破風を建てます。

母屋割りも重要です。そのことを説明するために、前置きとして、柱間・梁間についての話をします。
岐阜県の本家普請では「コミを入れる」ということをする場合があります。
現在の木造住宅では、910㎜(昔では3尺)の倍数で間取りを計画するのが一般的です。和室が分かりやすいので、和室を例に話しますと(もともとは畳の寸法が基準です)、この間取りを江戸間、関東間と言います。江戸間では8畳間といっても、実は4坪ありません(3.738坪)。

岐阜県や中部地方には中京間というのがあります。中京間の畳は3尺×6尺ですから、8畳間はぴったり4坪になります。
柱間を関東間で12尺にしてしまうと、柱の太さ分、畳が小さくなります。ですから、岐阜県あたりでは、和室回りに柱1本分の「コミを入れる」のです。管柱は本家普請の場合4寸が基本ですから、「4寸のコミを入れる」ことになります。柱間12尺4寸です。郡上では昔の農家は12尺6寸が多いです。これは通し柱が6寸であったためです。郡上八幡の町屋などでは12尺3寸5分で、これも管柱の寸法が3寸5分だからです。この規則と尺・寸を知っていると、古い家の調査をする時に、とてもすんなりと寸法が分かります。㎜で計測すると、わけが分からなくなります。

ついでですから、関西間についてもお話しすると、関西間の畳寸法は3尺1寸5分×6尺3寸(これがもともと本来の畳の寸法です)。これに柱1本分足します。柱を4寸とすると8畳間では柱間13尺。4.41坪になります。同じ8畳間といっても、面積で関東間→中京間で約7%、中京間→関西間で約10%、つまり関東間→関西間では、なんと約18パーセントもの差が出ます。その差は0.672坪ですから(1坪=中京畳2枚)、1畳以上の差が出てくることになります。尾張の人もよく考え出したと思いますが、江戸の人はさらに考えたんですね~、コスト削減を。

母屋割りに話を戻します。
柱間(梁間)が12尺なら、整数で母屋割り(母屋を入れるピッチの割り付け)ができますが、「コミが入る」とそういうわけにもいきません。母屋を化粧(木部を見せる場合)で均等に割り付けるために、絵図板を書きながら、柱・梁・桁の位置も検討しつつ、母屋を入れていく場所を決めていきます。絵図板では、間取りの寸法を黒で、母屋や小屋組みの割り付け寸法を赤で書いてあります(書き方は十人十色です)。これらの寸法やズレをきちんと把握するためにも、絵図板上で正確に寸法の割り出しをしていきます。以上が絵図板を書くもう一つの理由です。



絵図板を作成したら、次に間竿(ケンザオ)を作ります。写真で絵図板と墨壺の間にある3センチ角の、いわば定規です。
間竿は3種作ります。縦間竿、横間竿、小屋間竿です。長さは4メートル(大工はこの長さを13尺2寸であることから、丈三二(ジョウサンニ)と呼びます。10尺=1丈です)。これもメジャーがあるでしょう?とお思いでしょうが、間竿には水平方向と垂直方向の寸法を全て描き込んでいきます。これを材木に当てがい、継手の位置や仕口の位置を決めた上で、間竿の長さや寸法を写して墨を付けていきます。全ての部材の中で、間竿を当てがわない部材はない、ということになります。

これらの準備作業を終えて、やっと墨付けに取り掛かることになります。
昼間は材木の検品や削り作業をしていますので、絵図板は家に持ち帰って、夜なべに書き続けていくことになります。正月休み明けから、この作業をずっとしていますので、頭の中は四六時中この家のことでいっぱいです。頭を傾けたら、こぼれ落ちそうで、昔受験生だった頃みたいです。

こうやって、一つの建物に時間をかけて向き合っていくと、だんだんこの建物が自分の頭や身体に入ってきます。部材の抜け落ちや、補足したほうがいい箇所も自然と分かってきます。同時にこの建物に対する責任感も生まれます。いつも一軒の家を建て終える頃には、その建物は自分の分身のように思えてくるのですが、こうやって時間をかけて、自分の手で刻んで家を建てるということは、私は大工にとっての最大の魅力であり、やりがいであると思っています。

「煎じて、煎じて、煎じて、あとはカン」とは、法隆寺の宮大工であった、西岡常一氏の言われた言葉です。
時間をかけて建物に向き合い、いろんな物事を煎じて考えて、今までの経験に照らし合わせて、その場その時に最善の判断を下していく。私も、今回の上棟でもきちんと責任を果たせるように、煎じて、煎じて、煎じていきたいと思います。



カネサダ番匠の作事場には、私が今までに上棟した建物の絵図板が掲げられています。どれもこれも思い出深い、私の分身たちです。これらの絵図板がいつも私を見守ってくれていますので、心強い限りですが、いつもながら下手なことはできません。ひとつひとつの部材への墨付けを大切に積み上げていくのです。
どのような形の建物になるか、は上棟を待っていてください。またご報告します。

いかがですか?大工のすることって、本当にアナログなことでしょう。しかし、これはこれで極めて正確な仕事ができるんです。
奥の手の、二番煎じ、とヤマカンは使いませんよ・・

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屏風に始まり、屏風に終わる

2019年01月04日 | 家具・建具のこと
新年あけましておめでとうございます。
お正月らしく、金色の屏風にまつわる話をご紹介いたします。



私の手元にある、大小一対づつの金色の屏風。
これは襖(フスマ)職人であった私の父親の形見です。座敷の襖も同じくです。
父は6年前に癌で亡くなりました。今年は早や7回忌を迎えます。これらの屏風や襖は父の生前の最後の仕事になりました。



さて、大工である私は、生まれは神戸市、育ちは兵庫県丹波市(旧氷上郡)です。
父親の出身は和歌山市、母親も同じく和歌山県の紀の川市(旧那賀郡)です。

「屏風」が今回の話のテーマなのですが、父親には屏風に対する強い思い入れがあったようです。
その理由は父の出自をたどってみることで、分かってきます。



これは和歌山県岩出市森に鎮座する荒田神社です。和歌山県指定文化財です。
祭神は高魂命(タカミタマノミコト)並びに剣根命(ツルギネノミコト)です。
ここ和歌山県岩出市森は平安期の那賀郡荒田村の中心地であり、そこには辻埜(ツジノ)氏(後に辻野氏)が代々居住していました。
そう、私の旧姓は辻野であり、もちろん父の姓も辻野です。

元和5年(1619年)当時の当主であった辻野門太夫は『荒田比咩(ヒメ)由来』という荒田神社の縁起を書き残しています。
これは辻野門太夫本人に荒田神社の社伝を書くべき家系の人物であるとの自覚があったからでしょう。
荒田神社の名称は荒田直(アラタノアタエ、直とは古代の姓の一種という意味)の祖先神を祀ることから来ています。辻埜(辻野)氏は荒田直の主要な臣下と目されます。

荒田神社の歴史はとんでもなく古いのですが、平安時代の延喜式神名帳には既に「那賀郡荒田神社二座」と前記の祭神の記載があります。
さらに荒田直(アラタノアタエ)は平安初期の弘仁5年(814年)に成立した『新撰姓氏録』に記載されています。
古代の姓氏名は、大抵は地名に由来したり、発祥の地名が特定できます。その他には職名に由来するものや、名代(ナシロ、大化の改新以前の皇室の私有民)の名称に由来するものがあります。

では、荒田直の発祥の地は?といいますと、九州は豊後の国日田郡(ヒタノコオリ)です。現在の大分県日田市です。
日田郡には五つの郷がありましたが、その一つ在田(アリタ)郷が荒田直の居住区でその地名に由来すると考えられます。現在の日田市有田町一帯です。
いつ紀の国の那賀郡荒田村の地に移動してきたのかというと、「神武東征」の時だというのですから、2600年も前の話です!
その東征の時に、荒田部隊を含めた葛城氏の軍を実際に率いていたのが、荒田神社の祭神でもある剣根命(実在の人物)であろうと思われます。

以上、父や私(辻野家)の直接の祖先であろうと思われる荒田直の歴史について、少し長い説明をさせていただきましたが、実は現在の荒田神社の公式の由緒とは違っています。
ではなぜ違うのか?を話し出すと、歴史のミステリーめいた話になってきます。辻野家の歴史に関する私的な「単なるメモ」と受け止めていただければ、と思います。(実は大阪府堺市陶器に「陶(スエ)荒田神社」があり、岩出市の荒田神社と全く同じ祭神です。そして、周辺の地名は「辻之(ツジノ)」なんです。こちらも話出すと横道にそれますので、今回は割愛します。)



和歌山県岩出市森の荒田神社本殿に話を戻しましょうか。
この本殿は三間社流造り(サンゲンシャナガレヅクリ)、桧皮葺(ヒワダブキ)の建物で、寛永元年(1624年)に再建されたものと考えられています。もともとは西坂本(現在の根来)をも含む広大なこの地域の総産土神(ウブスナノカミ)であったのですが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の根来攻めの際、焼き討ちに遭い周辺の寺社とともに灰燼に帰しています。寛永元年の再建の際には10分の1に縮小して再建されました。

本殿は丹塗り(タンヌリ)なのですが、彫刻類だけは白木(シラキ、何も塗っていないこと)です。本殿前面向拝(コウハイ、ゴハイとも)上部にも白木の彫刻(今は黒っぽく見えますよね)があります。これらは蛙股(カエルマタ)と呼ばれます。かなり繊細で華麗な彫刻です。



これらの彫刻は、西坂本(現在の根来)の出身で、当時江戸で活躍していた大工「塀内正信(平内政信)」が江戸で製作し寄進したものではないかと推測されています。平内政信は寛永9年に江戸幕府作事方大棟梁の職に就くことになるのですが、当時を代表する名工でした。
『匠明(ショウメイ)』という、日本の建築で一番有名な木割書(キワリショ、社寺建築を始め、木造建築に関する部材の比率などを記した、現在でも必読書と言われる書物)があるのですが、平内政信はその著者である、と言うほうが、ピンとくる方が多いと思います。私も荒田神社(子孫の辻野家)と平内政信の関係に大いに興味のあるところですが、これに関しての情報は残念ながら何もありません。

何だ、きらびやかな先祖の自慢話か、とお思いかもしれませんが、問題はここからなんです。
私の曽祖父、辻野兼助の時代までは、辻野家には岩出市(旧根来村)一帯や和歌山市中心部にまだまだ広大な土地と莫大な財産がありました。
ところが、曽祖父はかなり人のいい放蕩家で(ひいおじいさん、ごめんなさい・・)全ての財産を博打の保証人になったことで失ってしまいます。
私の祖父(つまり私の父の父親)辻野兼蔵は岩出市森(旧那賀郡根来村大字森)の辻野本家の長男に生まれながらも、何とついには和歌山城下の橋の下に住んでいたというのです。



何か生活の手立てとなるものはないか・・と探していたところ、ある日祖父は和歌山城下の古道具屋で一対の屏風を見つけます。
その屏風をなけなしのお金で買って帰り、一枚づつ紙をめくってはどのようになっているのかを調べ、見よう見まねで紙貼りを始めます。

それが襖屋の始まりとなりました。屋号を南フスマといいました。
私の父は四男でしたが、父を含め男兄弟3人とも皆襖職人でした。(次男は戦時中に亡くなっています)

それでも極貧は続いたといいます。私が父から聞かされた昔話は、この極貧にまつわる話が多かったです。
昭和20年7月9日に和歌山大空襲がありましたが、当時3歳だった父親は背中に負われて逃げる最中に見た焼夷弾の閃光をありありと憶えてると言っていました。この空襲で自宅も、高級な襖材料も全て焼失してしまいます。

終戦直後の全ての人が貧乏であったであろう時代に、小学校のクラスで制服を着ていないのは唯一父だけだったといいます。弁当はいつも麩(フスマ、襖屋の息子だからフスマ、なんて冗談じゃありません。小麦の製粉後の皮の屑、牛馬の飼料です)で、いつも皆にかくして食べていたとか。修学旅行にも旅費が払えないからという理由で、父だけが行けませんでした。

私が子供の頃、和歌山市の父の実家に立ち寄った際に、近くのある坂に差し掛かった時に、父が話してくれたことがあります。
父は小学校の授業が終わった後に、薪の運搬のアルバイトを親に言いつけられていました。同級生は皆遊びに行くのに、父はその言いつけがいやでしようがなかったそうです。ある日リヤカーに薪を満載にして、その坂に差し掛かった時に、あいにくその日の薪の量が特に多く、体の小さな父親がどう頑張っても、その坂が登れなかったそうです。ついに坂の途中で立ち往生してしまいます。周りの通行人の大人は誰も助けてくれない。その時ちょうど同じクラスのあこがれの女の子がそこに通りがかりました。父はあまりの恥ずかしさにとっさに顔をかくしたい、と思ったそうです。するとその女の子は、黙って父のリヤカーの後ろを坂の上まで押してくれたそうです。

この時の経験は、「一番情けなく、くやしかった」と生前何度か父に聞かされました。
その時の女の子が、実は今の私の母親なんです・・と言いたいところなのですが、まあ違います。



私が大工になる、と言い出した時、父は賛成してくれました。
その後、岐阜県郡上市で設計士の妻と二人で独立して工務店を始めてからは、私が建てた家に父の襖を入れてもらうようになりました。
その間は3、4年でした。私も嬉しかったし、父も嬉しかったんじゃないかと思っています。

父が癌の告知を受けた時、私が最初に思ったことは、「間に合わない・・どうしよう」でした。
その頃、郡上市で登り梁の家(このブログで紹介している「郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる」、まさにこの家です)を計画中で、まだ図面の段階でした。どうも父の癌はステージⅣ(最終段階)という。私はこの登り梁の家に襖を入れられるのには、少なくとも3年はかかると思っていたからです。

普通、家の建前をして、造作(内装工事)が終わってから初めて建具や襖の寸法を測ります。
3年後には父はおそらく生きてないだろう、と思った私はすぐに、父に「郡上の家の襖を作って欲しい、そしてその襖を伝統的なやりかたで、父が最高の仕事だと自分で思えるものを作って欲しい」と依頼します。

父は「よし、分かった」と快諾してくれます。
私が依頼したのは、郡上の家に入れる襖(今回写真で紹介している襖です)だったのですが、父は私が依頼していない、大小一対づつの屏風の手配も始めます。

父がこの屏風製作に込めた思いは何だったのでしょうか?
これらの屏風と襖の製作の過程をこれからみなさんにご紹介します。
次回をお楽しみに!
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郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その5

2018年12月16日 | カネサダ番匠が作った家
万葉集に、このような歌があります。

 云<々> 物者不念 斐太人乃 打墨縄之 直一道二

 かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道に

 かにかくに ものはおもはじ ひだひとの うつすみなわの ただひとみちに

意味はと申しますと、「あれやこれやと思い悩むことはいたすまい。飛騨の匠が打つ墨縄のように、ただ一筋に」。
私の好きな歌のひとつです。

また、親鸞上人の法語を集めた「歎異抄」にも一道が出てきます。
第七条 念仏は無碍の一道なり、にです。
この場合は一道(いちどう)と読みます。「南無阿弥陀仏を唱える念仏者は、如何なる障害にもさまたげられず、絶対唯一の道、すなわち無碍(むげ)の一道(いちどう)を行く者なり。」との記述があります。

わたしはこの二つの意味をとって、息子に一道(ひとみち)と名付けました。何でもいいので、自分の好きなこと、熱中できることに一筋に打ち込める人になって欲しい。その願いを込めているのですが、この思いは私自身に通じる思いでもあります。



さて、郡上の登り梁の家の丸太梁の仮組み風景です。
私は上之保村の親方に、「大工なんてものは、丸太の仮組みなんてしないものだ。一発勝負できちんと納めるのが大工というものだ!」と教わりました。
しかし、丸太にも長いホゾを付けて組み上げていくので、もし間違えると解体不可能なので、おそろしくてできません。すみません、親方、小心者で・・





よく他の方に、「大工さんって、くねくね曲がった木を、よくきちんと組み上げられるね~」と言われることがあります。



基本的に、木材に墨付けをする場合には3種類の情報を描き込みます。
たて・よこ・高さ、の3種です。たて・よこ、は座標の位置です。真墨、芯墨(シンズミ)と呼びます。x軸をいろはに通り、y軸を一二三四通りと定め、例えば、い一、た五、などで表します。あとの高さzは水墨(ミズズミ)、陸墨(ロクズミ)と言います。桁に屋根の垂木が乗っかる部分、ここで桁の真墨と垂木の下端が交わる高さを特に「峠」「峠水」といい、小屋組などの部材の水墨は全てこの「峠水」の高さを基準にして墨を打っていきます。



これら3種類の墨を、墨つぼ、墨さし、さしがねを使って付けていくのです。



また、木材の長手方向に長さをとるのには、間竿(ケンザオ)を使用します。いわば長い物差しです。
材木の上に乗っかっている3センチ角の細長い木が間竿です。



墨つぼ(巻きつけてある絹の糸を、墨に浸してある真綿(絹の綿)を通して伸ばしていき、その糸をはじくことで木材に真っ直ぐな線を引くための道具。発祥は遥か昔のギリシャやローマ帝国)を使っての墨打ちの要領を、上之保の親方はこう教えてくれました。
①右足を少し前に出して、体重は右足の親指の付け根に掛ける
②次に墨を打つ方向を見定めて、目からビームを出す

むむむ、ビームなんて出るものですか?と思いつつ、何百本も何千本も墨を打っていると、あることに気が付きました。
①体重を足の親指にかけることで、上体が起き上がる
②その上で、自分が墨を打つ方向に顔と身体(腕も含めて)をまっすぐに向ける
ということです。こうやって墨を打つと、ほぼ間違いなく真っ直ぐに墨が打てます。なるほど親方は上手く教えてくれたものです。私の目からビームはきちんと出ていますか?



その他の仮差し、仮組みも建前までに順次済ませていきます。
これは腰庇の腕木。





丸太の長ホゾも、いちど柱に差して具合を見ておきます。



差し鴨居も化粧(ケショウ、かんながけして見える部分を化粧と呼びます)の部分は全て仮差ししておきます。



継手も同じく。これは2階の桁の継手です。通し柱のホゾが重ホゾ(ジュウホゾ、二重になったホゾ)となって桁を突き抜けて、登り梁にまで伸びていくので、この部分は2枚ホゾにしてあります。
これらの作業が終わると、いよいよ建前です。

あ、最後にもうひとつ。
冒頭で紹介した、ただ一道に、の歌ですが、この歌には直接書かれていない、ある心情が込められています。

「あれやこれやと思い悩むことはいたすまい。飛騨の匠が打つ墨縄のように、ただ一筋に(あの人を思い続けよう)」

実はこの歌は、恋こがれる人に向けて詠ったものなのです。
この3つ目(といいますか、この歌の本題)は息子には伝えていいものか、どうか・・
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ニシン釜御殿

2018年11月28日 | 街並みのこと
北海道では江戸時代から昭和初期にかけて、ニシンの漁獲量が大変多かったので食糧としてはもちろんのこと、ニシン油やニシンカスと呼ばれる肥料づくりが盛んでした。ニシンカスは栄養価が高いことから重宝され、北前船で全国各地へ運ばれました。

当時の北海道の豪商は、「ニシン御殿」と呼ばれる立派な家を建てたのですが、遥か遠く離れた富山県高岡市では「ニシン釜御殿」が多く作られます。その交流の歴史をご紹介しましょう。



富山県高岡市金屋町(カナヤマチ)は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。略して重伝建、または伝建地区ともいいます。
私の住む岐阜県郡上市の中心部、郡上八幡北町(グジョウハチマンキタマチ)も伝建地区に指定されています。実は金屋町と郡上八幡北町が伝建地区に指定されたのは、平成24年12月28日で同じ日です。誕生日が同じなんです。

伝建地区は平成30年(2018年)4月1日現在、全国に117地区あります。保存地区は特徴により大きな分類があり、集落、宿場の町並み、港と結びついた町並み、商家の町並み、産業と結びついた町並み、社寺を中心とした町並み、茶屋の町並み、武家を中心とした町並み、があります。郡上八幡北町は城下町として、そして今日ご紹介する高岡市金屋町は鋳物師町(イモジマチ)として指定されています。

それでは、金屋町をご案内いたしましょう。



見事な登り梁の家が軒を連ねています。登り梁構造ですから非常に軒が深く、出は1.8メートル程もあります。
金屋町の家々は、ほぼ明治以後の建物です。やはりこれだけ立派な建物は幕藩体制下ではおいそれと許されるものではなかったでしょう。

ほとんどのお宅は通りに面した店舗部分を除いては、今でも住居に使われていますので、なかなか中を覗き見ることはできませんが、かなり贅沢な造作や調度品がしつらえてあるとのことです。「ウナギの寝床」と呼ばれるように細長い土地に、正面道路に面した主屋から立派な中庭を挟んで奥には背面道路にかけて2,3棟の土蔵があり、鋳物を作る作業場が併設してある家もあり、現役で鋳物製作に使われているところもあります。



金屋町の主屋の特徴ですが、化粧貫に漆喰の真壁塗り(シンカベヌリ・柱を見せて仕上げる塗り方)です。大屋根(2階の屋根)に登り梁が掛かっていますが、これが太いんです。巾は5寸(15センチ)以上、成は9寸(27センチ)程はあります。登り梁のすぐ下に水平の部材が見えるでしょう。これは桁に見えますが、じつは長押(ナゲシ・格の高い建物や部屋に意匠的にとりつけられる部材)なんです。
分厚い板が2重になった腰庇があり、その上に乗っているのは笄(コウガイ)と呼ばれる雪止めの部材です。

柱の上にすぐ登り梁が乗っかっていますよね。その登り梁の上に桁を乗せる、こういう構造を折置(オリオキ)といいます。逆に柱の上に桁を乗せて、それから梁を掛ける構造を京呂(キョウロ)といいます。現在の木造住宅はほとんどが京呂組みです。この京呂は柱の位置に関係なく梁を掛けれますので、間取りの自由度が高く、それがために現在のほとんどの住宅に採用されているのですが、実は構造的に弱いという欠陥をもっています。そのために現在の住宅ではボルトを併用せざるを得なくなるのですが、この話はまたの機会にいたしましょう。

折置組みの特徴はなんといっても、規則性。柱を規則正しく配置し、梁を規則正しく架ける。一軒の家がその規則性を持ち、通りに面してさらに家々が規則正しく立ち並ぶ、その様がいかにも日本的な景色と風景を作り出すんです。昔の木造建築は全てが折置組です。だから日本の建築や町並みは美しいんです。構造的にも強く、規則性・統一性を生み出す。英語で言うと、ワンパターンになってしまいますが・・そんな安っぽい言葉では言い表せない美しさですよね。だから私も断然、折置きなんです。



何故こんなに立派な建物が多いのか?当時の鋳物師(イモジ)が何故これほどの財力を有したのかを探るには、歴史をふり帰ってみましょう。

現在の高岡の町の骨格は、慶長14年(1609年)に加賀前田家2代当主前田利長が高岡に城を築き、城下町を開いたことが始まりです。
富山県なのに、加賀前田家?今の富山県は当時は加賀藩領だったんです。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利を収めます。西軍の豊臣家は慶長19年(1614年)の大阪冬の陣、慶長20年の大阪夏の陣まで続くのですが、江戸の徳川家に対して、大阪の豊臣家と、二重公儀体制というのが続きます。

2代前田利長は関ヶ原の戦い後は本城である金沢城に居たのですが、徳川家の目を恐れて慶長10年(1605年)に富山城に隠居してしまいます。しかし4年後の慶長14年(1609年)に富山城が焼けてしまいます。ぼやぼやしていると徳川家につぶされかねません。前田利長は慌てて高岡城を作ります。東京ドーム4.5個分の敷地に、高岡城その他の建物を土木工事も含めて、わずか6ヶ月の突貫で作ったというのですから、その慌てぶりがうかがえます。

高岡の産業の振興のために、前田利長は慶長16年(1611年)7人の鋳物師を呼び寄せ、拝領地を与え鋳物づくりに専念させます。これが高岡の鋳物師の発祥です。利長は金屋町の鋳物師衆に特権を与えます。税金や諸役の免除、専売権、全国の関所を通行(行商販売)できる自由などです。これらの特権は平安時代以降に天皇家によって全国の鋳物師衆に与えられていた特権ですが、江戸時代以降は各藩はその特権を取り上げてしまいます。唯一加賀前田藩はそれをしませんでした。そのために高岡では鋳物業が発展し、現在に至るまで日本の鋳物生産の中心であり続けるのです。

金屋町の鋳物師衆は江戸時代初期は鍋・釜・鉄瓶、城門や橋の鉄製金具や釘等の「鉄鋳物」を作ります。江戸中期頃からは梵鐘(釣鐘)や灯篭といった「銅鋳物」を作り、江戸後期にはそれらが香炉・花瓶・火鉢・仏具等、文化的な意匠に富んだものへと発展し北前船に運ばれ全国へ販路を拡大します。



明治期から昭和初期にかけて、金屋町鋳物師衆にとっての最大ヒット商品が生まれます。それがこのニシン釜なんです。高岡産のニシン釜は薄くて軽量なのに高熱に強く、当時ニシン漁が盛んであった北海道で大人気で飛ぶように売れたのです(水揚げしたニシンを加工するのにまず茹でる必要があったのです)。このニシン釜を北海道に運んだのは北前船で、そのニシン釜で作ったニシンカスを全国に運んだのも北前船だったのです。
このニシン釜、ゆうに1メートルを超える大きさなんです!

まあもちろんニシン釜だけのおかげではないでしょうが、江戸時代を通して発展した鋳物業によって金屋町の鋳物師衆は相当な財力を得たのです。
最後に当時の鋳物師が地金を溶かす時に「たたら」と呼ばれる大きな「ふいご」を足で踏む時に歌った「やがえふ」と言われる弥栄節を紹介します。

 河内丹南鋳物の起こり
 (ヤガエー)
 今じゃ高岡金屋町エー
 (エンヤシャ ヤッシャイ)
 今じゃ高岡金屋町エー
 (エンヤシャ ヤッシャイ)

 火の粉吹き出すあの火の下に
 いとし主さんタタラ踏むエー
 いとし主さんタタラ踏むエー

 タタラ踏み踏みやがえふ唄うや
 鉄も湯となる釜となるエー
 鉄も湯となる釜となるエー

 めでためでたの鍋宮様よ
 鋳物栄えて世も映えるエー
 鋳物栄えて世も映えるエー

これで今日のお話しはおしまいです。
金屋町にこられー!まっとっちゃー!
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郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その4

2018年11月26日 | カネサダ番匠が作った家


そろそろ建前のご紹介を、と思うのですが、その前に車知栓(シャチセン)の話をさせてください。



伝統的な継手(ツギテ)に車知継ぎ(シャチツギ)というのがあります。
これはホゾの部分に車知栓を打って、お互いの部材を引きつけ、継ぐものです。

写真の車知栓は菱形ですよね。これは関西型です。では関東型は?というと長方形です。どちらがいいの?とは言えませんが、関西型は材の墨つけや刻みは楽ですが、車知栓を菱に作らないといけませんから(もちろん自分で作ります)、少し手間がかかります。一方関東型は墨つけと刻みは少し手間がかかりますが、車知栓を作るのは長方形ですから楽です。ちなみに岐阜県では関西型を使います。

車知栓の語源については、ホゾに対して斜めに打つので「斜置(シャチ)」とも、串(サシ)の転訛とも言われます。車地、車知、鯱、などと書きます。金沢地方では「しの」とも呼ぶそうですが、岐阜でもそう言う人がいます。

この車知栓と車知継ですが、構造実験などで引っ張り試験をした際にあっさりと壊れてしまいます。
これをもって「車知栓など古い時代の弱いものだ!伝統構法がいい、などと息まくのは時代遅れだ!」ともっぱら肩身のせまい存在に押しやられてしまいます。

いいえ、全然違うのです。車知がどれほどすばらしいもので、とんでもない力を秘めているのかを、ご説明いたしましょう。

トップの写真をもう一度ご覧ください。伝統的な構法では鴨居差し(カモイザシ)とも言われるように、上から胴差し(ドウザシ)、差し鴨居(サシカモイ)、足固め(根差し・ネザシ、とも)の3丁の部材(クレーンで吊っている部分)を同時に差していかなければなりません。今ならクレーンがありますが、昔はほぼ人力ですよね・・こんな重たい塊を落っことそうものなら大変なことになります。

ですから、組む順番を、常にカブセにして組んでいきます。写真では通し柱から長ホゾが突き出しているのが分かりますか?この長ホゾに次の部材をかぶせるように組んでいくのです。そうすれば、部材が落下することはあり得なくなります。



下から見上げると、こういう状態になります。これは組みあがった状態ですから、きちんとくっついていますが、建前の時は完全にはくっついていません。ここで、車知の出番です。胴差しや鴨居をはさむ柱と柱の両側から、掛矢(カケヤ・大きな木槌)で声を合わせてドーン!ドーン!と叩きながら同時に車知栓を打っていきます。部材が少しでも引き寄せあってると、車知が入っていくのが打ちながらの手の感覚で分かります。実はびっくりするぐらい引き寄せます。車知は何のために打つのかというと、部材を水平に引き寄せるため、この一点です。

ですから、引き寄せた後に、部材が離れないようにもう一本の栓を打ちます。2枚目、3枚目の写真にある、横から打ってある長方形の込栓、これを特に胴栓と呼びます。この胴栓を打つことは車知継ぎにおいては一番重要なことです。胴栓がないと、鎌継ぎと同じようなもので、あっさり壊れてしまいます。胴栓を打つと、例えば追っ掛け大栓継ぎ(継手としては一番強い部類)と同じくらいの強度が出ます。実験では6トンの荷重をかけてやっと壊れたくらいです。



さて、ちなみに差し鴨居が3方や4方から差さる場合、溝が突いてあるので下から車知が打てない場合があります。しかし直交する部材の双方に上端から車知栓を打つことは不可能です。どちらかの長ホゾが上打ちで、もう一方が下打ちにならないといけないからです。



そんな場合には「眼鏡ホゾ」を使います。一方のホゾに横穴を通してもう一方のホゾを差し、双方とも同じ方向から車知を打てるようにします。



このように様々な工夫をしながら、車知栓、胴栓、端栓(ハナセン)、込栓などを駆使しながら、家を組み上げていくのです。



車知栓は構造部材だけではなく、造作部材にも威力を発揮します。これは出窓の框です。





直交する框のお互いに車知道(シャチミチ・車知を打ち込む穴)を彫っておきます。



框と柱を組み込みます。



そして内側から車知栓(この場合は関東型)を打ち込みます。



すると驚くほどぴったりと寄せ合ってくっつきます。ボルトなんて目じゃありません。

車知のことをいろいろと熱く語っているうちに時間が尽きてしまいました。
しかし、私は車知の復権を大きな声で叫びたいのです!建前の様子は次回以降にご紹介いたしますね~


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豪壮、かつ華麗

2018年11月22日 | 木構造のこと


最近、国宝の犬山城に通っています。耐震補強工事のお手伝いを微力ながらさせていただいています。郡上からは車で1時間20分程です。
岐阜県の各務原市から木曽川に掛かるライン大橋を渡ると犬山城はもう目の前。木曽川から急峻に立ち上がる断崖の上に建つ犬山城の景色は素晴らしいものです。



犬山城の創建は天文6年(1537年)です。織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。
小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に登り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦っています。
戦国時代には何代も城主が変わりますが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきます。

現在の犬山城天守が建てられたのは慶長6年(1601年)です。
犬山城天守は3重4階の望楼型、と呼ばれるものです。(ちなみに姫路城も望楼型で、一方名古屋城や江戸城などは層塔型と呼ばれます。)
この天守は、下の2重2階の主屋がまず慶長6年に建てられ、のち元和6年(1620年)ごろ3重の3,4階を増築し、さらにその十数年後に唐破風(カラハフ、最上階の真下に見える曲線の形をした屋根の部分)の付加などが行われて、ほぼ今のような姿になりました。



これは天守2階に展示してある犬山城の構造模型です。ん?なんか下部の2重2階に比べて、3重の3,4階がやけに小さいと思いませんか?
これは上記のような造営の経過をたどった結果なんです。この天守は以前は室町時代の創建とされ、天守の古い形態の典型と考えられてきました。
しかし、昭和36年(1961年)から4年をかけて行われた解体修理によって、増築の過程が明らかとなったのです。大きな入母屋造(イリモヤズクリ)の上に望楼を載せた外観は、実は当初からの意図ではなかったのです。でも現在の姿は美しくて、かっこいいですよね。

私は木造のお城が大好きです。とにかく、木組みがシンプルでいて豪壮。かつ屋根の入母屋や唐破風は装飾的で華麗。この、構造の木組みの力強さがそのまま意匠にも生かされているのは、日本の木造建築の最大の特徴といってもいいでしょう。



見てください。これが以前に「郡上に伝統構法で登り梁の家を建てる その2」https://blog.goo.ne.jp/bansho1969/e/3ffddcb7daf5e5bb9717106205bf9364
でご紹介した、船櫂(セガイ)造りです。壁から梁(腕木)を跳ね出して、さらに出桁(ダシゲタ)を載せかけて、屋根の軒をうんと出しているでしょう。



お城の屋根には、例えばお寺の屋根に使われている桔木(ハネギ、てこの原理で屋根・小屋を支える部材。平安時代以降の社寺建築の屋根にはほぼこの桔木が使われています。)は入っていません。垂木(タルキ)だけで屋根を支えています。とにかく、垂木が太い!この屋根の掛けかたは法隆寺などでも同じです。



これは3階部分を支える梁組みです。写真だけでは分からないかもしれませんが、これもやっぱり太くて豪壮。力強いです。



2重の入母屋屋根の隅木部分です。丸太の曲がった部分をうまく使っていますね。

さて、話は戻りますが、犬山城は江戸時代に尾張藩の付家老、成瀬隼人正成が元和3年(1617年)に城主となってからは、成瀬家が代々受け継いで明治に至っています。
明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門などの、天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいます。
明治24年(1891年)の濃尾震災では天守閣の東南角の付櫓などがひどく壊れてしまいます。これを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。

今現在でも犬山城は成瀬家のご子孫様の所有です(正式には財団法人犬山城白帝文庫の所有です)。
ですから、成瀬様の犬山城に対する愛着と、今回の耐震補強工事に対する思い入れには並々ならぬものが、おありのご様子です。

もし、工事期間中に城内でピンクのヘルメットをかぶったお方を見かけられたら、それはきっとご城主様です。


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一円相の心

2018年11月14日 | カネサダ番匠が作った小作品


カネサダ番匠では、建築はもちろんなのですが、小作品もけっこう作らせていただきます。

三重県桑名市のお寺の老師様に「鉦鼓台(ショウコダイ)を作っていただけませんか?」と依頼されました。鉦(ショウ)とは銅鑼(ドラ)のことです。どういう形のものを、どういった材木で、いくらで、みたいな御指示は一切ありません。

それからというもの、ずっと頭の中で鉦鼓台のことを考え続けていました。
依頼を受けた老師様というのは、専光坊の霊雲軒禅月秀慧老師様です。実は私は霊雲軒老師様に座禅と念仏の指導を受けているのですが、次のお正月で18年目に入ろうとしています。

どれぐらいの日にちが過ぎたのでしょう、ふっと「一円相」だ!と思い立ちました。
一円相(イチエンソウ)の説明をするのは私では全然役不足なのですが、そもそも言葉では言い表せない仏教の真理をあらわしたもの、とでもいうのでしょうか?禅寺に行くと、〇(マル)、と描いた書が掲げられてあるのを見たことはありませんか?あれが一円相です。



作業の様子を見ていただきましょうか。

私は建築であれ、小作品であれ、まず原寸図を描いてみます。設計士さん(うちの所長など)からすると、「考えられない・・」というのですが、実は大工にとっては原寸図が一番考えやすいんです。形や大きさやバランスは原寸図を描かないことには分かりません(かなりアナログ思考なのです)。特に木と木を組む場合は、原寸図で継手や仕口を検討します。この原寸図で納めてしまえば(答えを出してしまえば)、現物の加工や組み立ては、ほぼ間違いなく納まります。



この時のために材木市で欅(ケヤキ)の古木(コボク、年数の経った木)を買って乾燥させてありました。
欅の古木は、いわゆる普通の欅とは、色も年輪の細かさも全然違います。樹齢は数百年でしょう。



一円相の部分は六つの部材を組み上げて円形に組み上げていきます。







継手はこのようになっています。継手部分に独鈷(ドッコ)を打って、お互いの部材を引き合わせます。写真の左にちょこんと立っているのが独鈷です。この独鈷、というのはもともとは仏具の独鈷に形が似ているので、ここから来た呼び名です。



台座の部分は丸のみ(彫刻のみ)を使って丁寧に仕上げます。中央部に背峯を作って、このようにとんがった形に削った部分を「鎬」(シノギ)といいます。まさに鎬を削る思いで腕を磨いていく所存です。



部材と部材を丁寧にすり合わせて組み上げていき、最後の仕上げには蜜蝋(ミツロウ)と荏油(エノアブラ、荏胡麻の油)をブレンドしたワックスを塗り込みます。欅の古木はこのワックスをかけると底光りしてきます。



銅鑼を掛けると完成です。原寸図通りに納まりました。

ある老師様の、一円相をうたった古歌にこういうのがあります。

 「この丸は月か団子か桶の輪か

  角の取れたる人の心ぞ」

18年間、霊雲軒老師様のご指導のもと、細々とではありますが座り続けています。今度のお正月にも恒例ですが、年越しで座りに行きます。
まだまだ光明は見えずにいます。それどころか、心は角ばってばかりで、毎日あれやこれやと問題がたくさん起きてきます。

気が短くて飽き性で、小さい頃から何を始めても三日坊主ばかりだった私が、続けられているのが大工(26年目)と座禅・念仏(18年目)、この二つです。
一円相の心を求めて、私の修行はまだまだ続くのです。勉励々々。

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一番古い家が実は一番新しい家だった!

2018年11月03日 | 家のこと


「シロアリ様なのか?シロアリ野郎なのか?」で紹介した、郡上の登り梁の家で、柱の根継(ネツギ)作業を行っています。
シロアリによる被害のため、柱の足元が傷んでしまい、ひどいところでは4.5センチも高さが下がってしまっています。郡上市内でも雪の多い地区なので、冬場には建具が全く動かなくなってしまうとのこと。

明治時代に建てられた(約120年前)と思われるこの家は、石場建てです。ごらんのように大きな基礎石の上に柱が建っているのですが、この石の形をそっくり柱に写し取る作業が必要です。そのやりかたは昔と今でもほとんど変わりません。



これは「口引き(クチヒキ)」という道具です。板金屋さんに作ってもらったものですが、ステンレス板(銅板も可)を折り曲げ、先を少し曲げたタタミ針が溶接してあります。そこに鉛筆をはさんで石をなぞって形をベニヤ板に写し取っていきます。写真のように常に垂直に持った状態で使用するのがコツです。この作業を「ひかる」・「ひかりつけ」といいます。ベニヤ板の無い昔は、杉の薄板、特に白太(シラタ・中心部の赤身に対して外周部の白い部分をいいます)の薄板を使用しました。口引きは竹を松葉の形に割ったものに墨をつけて使用したのです。

ベニヤ板をひかった鉛筆の跡のとおりに、のみで形を加工し、それを柱の根継材にあてて墨をつけます。この作業を柱の4面に対して行います。あとは墨のとおりに柱を加工すればいいのですが、石は平らではないですよね。ふくらんでいたり、中にはへこんでいたりするものもあります。この柱のひかりつけで一番大切なことは、柱を石の形のとおりに加工するのはもちろんですが、柱の中心部を必ず石に密着させることです。どうしても柱の表面をくっつけるのに神経を使い、柱の中心部を少し余分にとりがちです。1本の柱にかかる荷重は何トンにもなります。最初は表面がぴったりとくっついていても、中心部に荷重がかかってないと時を経るにしたがって、柱が沈んだり、柱が割れてきてしまう恐れがあります。

では石の中心部のクセをどうやって取ってピタリと合わせていくのか?これぐらいは企業秘密にしておきましょうか。



あとはジャッキアップを慎重に行い、古い柱を切り取って、新しい根継材をはめ込みます。



これは切り取った古い柱です。左から杉(赤身)、栗、松です。材木の調達上の理由でしょうが、この3種の柱が使われています。



ひっくり返すとこうです。つまり、柱が石に接していた部分です。一概に樹種の違いだけではなく、場所の影響もあるでしょうが一番シロアリの被害がひどいのが松でした。栗は水には強いのですがシロアリに食べられています。全く変化がないのが杉でした。杉の赤身は全然食べられてません。杉の白太はダメです。材木全般にいえることですが、白太は水に弱く、カビや腐朽菌にも弱いものです。



さて、場面は変わって、これはカネサダ番匠で建てさせていただいたY様邸(郡上市内)です。全ての材木(杉・桧)が郡上市産材で、金物を使わない木組みの家です。





玄関のポーチ柱に自然石を据え、ひかりつけを行っています。
新築の場合はこのひかりつけの作業は少し難しくなってきます。前述の根継の場合は既に建っている柱に型板を当てて、ひかればいいので位置の特定がしやすく、加工する材も小さいものです。
しかし新築の場合は石を据えつけてからのひかりつけです。石から上は垂直に柱を建てなくてはいけませんし、上部の材との取り合い部が既に加工してあります。あっ、くっつかないからもう一回やりなおし、なんてやってると高さも合わなくなってきます。

この場合のひかりつけも、昔も今も変わりありません。実際に柱を現場の基礎石の上に垂直に建て、ひかりつけては柱を倒して加工し、また柱を垂直に建てて合わない部分をもう一度クセをとってと、気の遠くなる大変な作業が必要になります。型板を何とか垂直に立てて、ある程度のクセをとっておくことは可能です。しかし、最後には実際の柱をその場に建てて微調整しないと、まずぴたりとくっつかないのです。全ての柱のそれらの作業を終えてからでないと、建前に移れないのです。

この家のお施主様(Y様)の実家が近所にあります。郡上八幡の山奥の平家の落人伝説のある集落なのですが、やはり郡上の登り梁の家なので見せていただきに行きました。Y様のお父様の説明によると、そのお宅が建てられたのは幕末の慶応元年(西暦1865年)とのこと。150年前ではありませんか。へぇー!すごいじゃないですか!と驚いていると、「いや、同じ集落のあの家は実はこの辺でも一番古い家なんだよ」と教えて下さいました。では早速、とお伺いしました。



これがこの辺り(郡上八幡の旧相生村地域)で一番古いお宅の玄関先です。柱がこのように手斧(チョウナ)ハツリで仕上げてある家は、江戸時代以前です。明治以降も床下材や屋根材の加工には手斧は使い続けられましたが、柱はカンナ仕上げになってきます。このお宅は少なくとも築150年以上、180年近くになるかもしれません。

この地域の歴史にも詳しい、Y様のお父様のお話しによると、実はこの家は180年前の昔、「この辺りで最新の家が建った!」といって、近在やかなり遠くからも見学の人が多く訪れたというのです。
何が最新だったのかというと、「石の上に家を建てた」という理由でした。その当時のこの辺りの家は全て掘立柱、つまり地面に柱を埋めて建てるものだった、ということです。伊勢神宮も掘立柱です。日本古来の建物は全て掘立柱です。

石の上に建物を建てる技術ははるか昔の飛鳥時代(7世紀頃)に寺院建築とともに中国や朝鮮半島から伝わっています。その技術が郡上八幡の民家にまで採用されるようになるまで、実に1200年近くの時間を要しています。飛鳥時代に寺院建築を見た人々は度胆を抜かれたんでしょうが、江戸時代に石場建ての家を見た郡上八幡の人々も、きっと度胆を抜かれたんでしょうね。

ですから、郡上八幡に限って言えば、石場建てで民家が作られた期間は、江戸時代末期から昭和30年代頃までの、わずか120年間程だったということになります。本当に長持ちする家は、石場建てです。これしかありません。しかし、今の時代にその技術を使うには制約がたくさんあります。基礎へのコンクリートの使用は大前提となります。われわれカネサダ番匠も昔の技術も守りながら、今の時代に合った方法も考えていきたいと思っています。

しかし、驚きでしょう。この辺りで一番古い家が、実は当時は一番新しい家だったというのは!
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