満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

200のハディースその38

2013-07-31 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

現世の生活(さまざまなハディースより⑬)


《アブー・バルザ・ナドラ・イブン・ウバイド・アルアスラミー(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「人は(審判の日)ずっと立ち続けたあとで、人生について、それをどのように過ごしたか、また知識について、それをどのように用いたか、また財産について、それをどのようにして入手してどのように費やしたか、また体について、それをどのように使ったかを問われます。」》(アッティルミズィーによる伝承)


(注:人々の生前の行いは逐一アッラーの御前に記録されている。これらの問いは、人々が自分の過ちに気づくためになされる)

 このハディースは、人生の生き方、知識の活かし方、お金や物などの取得と消費の仕方、どれだけ身体を大切したかなどの重要な事柄を問いかけています。


 1.人生の生き方、過ごし方については、人それぞれの答えがあるでしょう。私は、命を頂き、この世に送られた者、招かれた者の一人として考えました。招かれた者の立場としては招かれたお方に対してお礼を述べるのが礼儀です。それで、今言えることは、この素晴らしい世界に生を受けたことに感謝の言葉を申し上げ、人生を楽しく過ごさせて頂いております、となります。というのは、アッラーは、クルアーンを人生の導きの書として下されました。また、み使い(صلى الله عليه و سلم)がイスラーム的生活のあり方を具体的に体現してくれたので、それを模範として過ごせるからです。

 2.さまざまな知識の中から、ここでは宗教的知識を知ることを考えました。宗教的知識とは、神を知る知識です。クルアーンに、【だから知れ、アッラーの他に神はないことを。】(47-19)【アッラーのしもべの中で知識のある者だけがかれを畏れる。】(36-28)とあるように、アッラーは、私たちに知識ある人間になることを望まれています。それで、クルアーンを学び、信仰を磐石にすることを求められます。

 3. 誰でも、働いて報酬を得た時、それは正しい方法で得たか、という取得についての倫理感覚は持ち合わせています。ところが、貯めたお金を使う段になると、自分の稼いだものだから、何に、どう使おうと自分の勝手と考えたり、まだ金さえ払えば物事は済むと安易に考えたりするなど、支出や支払のあり方に対し倫理意識を持っている人は少ないと思われます。クルアーンに、【信仰する者よ、あなたがたの財産を、不正にあなたがたの間で消費してはならない】(4-29)とあるように、イスラームでは、節度ある支出、消費に対する倫理意識を持つことを問われています。

 4. 人は、怪我をした時、痛みのない体がいかに素晴らしいことなのか、また病気になった時、健康なことがどれだけ有難いことか教えられます。それで、自分の肉体が正常に働いてくれることは、大きな恵みであることがかわります。また、肉体は命と同じく、アッラーからお預かりしているものです。そう考えると、からだを大切にし、いたわることが必要となります。そのため、規則正しい生活で体調を整えたり、不摂生を避けたりすることが求められます。からだが元気であれば、からだのあらゆる部分を使って善行をすることが可能となります。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその37

2013-03-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

現世の生活(さまざまなハディースより⑫)


《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「現世は、信者に牢獄、不信仰者の天国です。」》(ムスリムによる伝承)(注:信者には、不信仰者とは異なり、信仰上様々な規則や義務が課せられることを意味する。)




 牢獄とは、罪人を監禁する所であり、一日中拘束され、自由な行動はできず、看守の指示に従い、座ったり立ったり、与えられた食べ物を飲み食いしなければなりません。命令に従わない場合は罰を受けます。訳注では、信仰者には宗教的義務や規則があり、それに従わなければならないから、現世は牢獄だとしています。

 しかし、慈愛あまねくアッラーが、この世で牢獄の生活をさせるために、人間を創ったのではないので、このハディースは、来世での天国の素晴らしさを強調するために、現世は牢獄にようだという表現をしたものと私は理解しました。また不信仰者の天国という言い方も、来世での地獄の苦しみと比較すると、現世での苦難は天国のようなものだと思います。つまり、天国で祝福された生活は、現世の幸福とは比べものにならないほど大きく、現世での苦難は来世の懲罰に比べたら、取るに足らない事ということです。

 クルアーンには、天国や地獄についての記述がいくつもあります。たとえば、
 【現世の生活の楽しみは、来世に比べれば微少なものに過ぎない。】(9-38)【現世の生活は、遊びか戯れに過ぎない。だが主を畏れる者には、来世の住まいこそ最も優れている。】(6-32)【かれらに対しては、現世の生活でも罰が科せられる。だが来世の懲罰は更に厳しい。】(13:34)
 さて、ムスリムには宗教規定や行動規定があり、それが牢獄の規則と同じではないかという見方についてですが、イスラームは信徒に苦行を勧めたり、修道院生活のような禁欲を強いたりすることはありません。反対にそのような生き方を否定します。
 たとえば、次のようなハディースがあります。
 
 「三人の男が、それぞれ「わたしは夜通し祈ろうと思う」、また「わたしは絶えず断食し、決して食べない」、また「わたしは女を避け、決して結婚しない」と言った。そこへ預言者(صلى الله عليه و سلم)が来られて、《なぜあなたがたはそのようなことを言うんですか。わたしは誰よりも神を恐れ畏んでいるが、断食しては食べ、礼拝して眠り、また女を娶りもする。この私の慣行を嫌う者はわたしの仲間ではない》とおっしゃった。」(ブハーリーによる伝承)


このように、宗教的な行と生活が調和することが求められます。
 そして、神の代理者(2章30節)として、地上のすべての物は人間のために創られた(2章29節)ので、人間はアッラーの恵みを享受することが許されているのです。そうしますと、信仰者の現世は、来世で天国という報奨を得るための場所と考えて、少しでも長く現世に留まり、アッラーに感謝し、善行を積み重ねることではないかと思います。
アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその36

2012-12-01 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم


السلام عليكم


疑わしいことは避ける(さまざまなハディースより⑪)

 《アン=ヌアマーン・イブン・バシール(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「許されたことは明らかであり、禁じられたことも明らかですが、二つの間には人々の多くが知りえない疑わしい事柄があります。疑わしいことを避ける者には信仰(宗教)と名誉が守られますが、疑わしいことに手を出す者は禁じられた行為を犯します。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)。《「疑わしいことは捨て置いて、疑いのないことを取りなさい。真実は心を安らげ、虚偽は心をかき乱します。」》(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)(注:アラビア語では、許されたことをハラール、禁じられたことをハラーム、疑義をシュブハという。)




 ムスリムには、生活する上で合法なことや禁じられたことを、クルアーンとスンナ(預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の言行)を通じて教えられており、それらの法を守ることが信仰を実践していることになります。法と信仰については次のような預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の言葉があります。
 シャービル(رضى الله عنه)によると、ヌアマーン・ビン・カウファル(رضى الله عنه)が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の処に来てこういった。「もしも私が礼拝義務を守り、シャリーア(イスラーム法)で禁じるものを避け、許すものを守ってゆけば、私は天国に入れるでしょうか。」これに対し預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は《その通りです》と言われた。(ムスリムによる伝承、信仰の書より)
 この言葉から分かるように、イスラームの法を守ることは、礼拝や喜捨(ザカート)などと同じく、信仰を実践(体言)していると評価されます。
 今回のハディースは、生活の中で、合法なのか禁じられていることなのか確信できない疑わしい事柄に直面し、判断をせまられる場合には、どう対応すべきかの心構えが説かれています。
 物事を判断するときに、これから行なおうとしていることが、許されるのか、善なのか悪なのか、この事柄はアッラーの目から見て、正しいのか。これをすることにより、信仰の道から外れることになりはしないかと、疑問や迷いが、生じたら、疑わしいことは捨て、疑いのないことを選択すること。それが、あなたの信仰と名誉を守る道だ、と説明されています。理由は、疑わしいことは、悪に通じるからです。
 時には、私利私欲のために、疑わしくても受け入れ、自分の都合のいい口実を見つけて正当化しようとしますが、疑わしいことに手を出した先に待っているのは、自分の軽率さとやましさからくる後悔の念だけです。ですから、疑わしさが感じられる物については、これを選択することはイスラームでは禁じられており、正しい道から逸脱し悪の道に陥ると考えて避けるべきです。
 わたちたちは、ハディースに述べられているように、シャリーアを守ることで、天国に入れて頂けることに感謝し、シャリーアを日々の生活の中で体現しながら信仰をゆるぎないものにしましょう。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام




預言者さま(サッラッラーフ アライヒ ワサッラム)の好まれた食べ物

2012-10-15 | ハディース&子どものための物語

بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم 



<アナス・ビン・マーリク(رضى الله عنه)は伝えている
ある仕立屋が食事を用意し、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)を招いた。
私はその御方と一緒に行った。
彼は大麦のパンとかぼちゃの入ったスープ、それと保存された乾燥肉をふるまった。
私はアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が皿の両側の、しかも御自分に近い方からそのかぼちゃを次々とお取りになるのを見た。
それで私はその日以後ずっとかぼちゃを好んで食べている。>
(ムスリム伝承 第3巻 154P)

この「かぼちゃ」をサヒーフムスリムの英語版は「pumpkin」と表示している。
アル=ブハーリーは日本語訳は「かぼちゃ」英語版は「gourd」

アラビア語原文では
「الدُّبَّاء」


「pumpkin」のアラビア語は
「قَرْع عَسَلِي」
(カルア アサリー)かぼちゃは 中央アメリカ原産で、西欧に紹介されたのは16世紀ではないかと思う。
預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の時代には アラビア半島には 中央アメリカ原産の かぼちゃは なかったはず。
この
「الدُّبَّاء」
は うり科であることは 確かだと思うのですが、「かぼちゃ」と日本語訳をあてるのは どうでしょうか。

スクワッシュとかズッキーニはアラビア語では
「قرع」「كوسة」

辞書には他に
「يَقطِين」
ともあります。



このフォーラムでは「スクワッシュ」になっていますね。

このサイトには「gourd」でも「bottle gourd」(夕顔)と特定しやすい表現になっています。「夕顔(かんぴょうの材料になる)」はもちが悪いのでスンナとして食べるなら冬瓜(wax gourd)でも可でしょうか。
アッラーフ アアラム

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

台座(玉座)の節

2012-10-15 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم


السلام عليكم

台座(玉座)節(アーヤト=ル=クルシー)

第2章 雌牛章 255節
この台座(kursi)の語に因んで、この節は「台座(または玉座)の節」と呼ばれ、クルアーンの中で最も功徳のある節として尊重されている。「台座(kursi)」はアッラーの「玉座(‘arsh)」の下にあるとされている。(訳解 クルアーン52p)

この節はクルアーンの中で最も優れた節で、どんな節の読誦よりも報償が多い。それは、この節が神性の諸命題と神の肯定的表現による諸属性を合わせ含むからで、そのような節はほかにはない。アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。《クルアーンで最も大いなる節はクルシー(台座)の節である。これを読んだ者にアッラーは天使を遣わし、その天使はその時間から翌日まで彼の善行を書き留め、彼の悪行を消す。》《『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』を毎回の義務の礼拝の後に読んだ者に楽園を阻止するものは死だけである(死んでいないためにまだ入っていないだけである)。それを欠かさず行い続ける者は篤信者と崇拝者のほかにはいない。床に就く前にこれを読んだ者にアッラーは、彼自身と彼の隣人とその隣人と周囲の家々に安全をもたらし給う》
アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。《朝を迎えた時に『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』と第40章の〔ガーフィル〕の冒頭3節を読んだ者はその日は夕まで守り給う。そして夜にこれらを読んだ者はその晩は朝まで守り給う》。
《家で『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』を読んだ者は30日シャイターンが彼から遠ざかり、40夜悪魔使いが家に入らない。アリーよ、この節をおまえの子供と家の者と隣人に教えよ。これほど大きな節が下されたことはないのである》。
《アリーよ、人間の頭はアーダム(عليه السلام)であり、アラブの頭はムハンマド(صلى الله عليه و سلم)である。自慢で言うのではない。また、ペルシャ人の頭はサルマーン(رضى الله عنه)であり、ローマ人の頭はスハイブ(رضى الله عنه)で、エチオピア人の頭はビラール(رضى الله عنه)である。山の頭はシナイ山で、曜日の頭は金曜で、言葉の頭はクルアーンで、クルアーンの頭は雌牛章で、雌牛章の頭は『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』である》。(ジャラーライン 110p&111 アル=ジャマル脚注)

ウバイユ・ビン・カアブ(رضى الله عنه)は言った。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は《アブー・ムンズィルよ、あなたはクルアーンの中のどの節が最も偉大であるか知っていますか》と聞かれた。私は「アッラーとそのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が最も良く御存知です」と言った。み使い(صلى الله عليه و سلم)は再び《アブー・ムンズィルよ、あなたはクルアーンの中のどの節が最も偉大であるか知っていますか》と言われた。私は「【アッラー、彼の外に神はなく、永生に自在される御方】」(クルアーン第2章255節)」と言った。するとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は、私の胸をお打ちになり《アブー・ムンズィルよ、その知識があなたに有益なものであるように》とおっしゃった(注)。
(注)これはアブー・ムンズィルが正しい答えをしたのに対する祝福である
(サヒーフ・ムスリム 第1巻551p)

アブーフライラ(رضى الله عنه)は語った。アッラーの使徒(صلى الله عليه و سلم)が私にラマダーンの喜捨の管理をお任せになっていたとき、或る者が来てその一部をとろうとしたので、わたしはその者を捉えて、「お前をアッラーの使徒Sの前につきだしてやる」と言った。すると、その者は「夜寝る前に『玉座』の節を唱えなさい。そうすれば、アッラーのもとから天使が来て絶えずあなたを護り、朝になるまでシャイターンは近づかないだろう」と言った。それを伝え聞いた預言者(صلى الله عليه و سلم)は《あれはシャイターンで大嘘つきだが、お前に言ったことは本当だ》とおっしゃった。(アル=ブハーリー 第4巻555p)

玉座節には アッラーの偉大な美名がある
アスマ・ビント・ヤズィード・ビン・ア=ッ=サカン(رعني الله عنها)は言った。
「私はこの二つの節について預言者さま(صلى الله عليه و سلم)がコメントなさるのを聞きました」
【اللّهُ لاَ إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ الْحَيُّ الْقَيُّومُ】
『アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。』
【اللّهُ لا إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ الْحَيُّ الْقَيُّومُ】【الم】
『アリフ・ラーム・ミーム、アッラー、かれの外に神はなく、永生し自存される御方であられる。』
《この二つにはアッラーの偉大な御名が含まれている》
(イマーム・アハマド)

玉座節の中には アラビア語の完全な10の文がある

1.【اللّهُ لاَ إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ】
アッラーフ ラーーーー イラーハ イッラー フ(ワ)
『アッラー、かれの外に神はなく』→ アッラーは唯一にして被創造物にとってたったひとつの崇める神である。
存在の中に、真に仕えるべき対象はアッラーをおいてない。(ジャラーライン111p)

2.【الْحَيُّ الْقَيُّومُ】
(ア)ル=ハイユ=ル=カイユー(ーーー)ム
『永生に自存される御方。』
アッラーは決して死なず、永遠に存続される御方で、全ての者やものを養われ、支えられている。全ての被造物は富める御方であるアッラーを必要としており、アッラーに頼っているが、アッラーご自身が必要とする被造物はない。

【وَمِنْ آيَاتِهِ أَن تَقُومَ السَّمَاء وَالْأَرْضُ بِأَمْرِهِ】
『またかれが、御意志によって、天と地を打ち建てられたのは、かれの印の一つである。
』(第30章ビザンチン章25節)

3.【لاَ تَأْخُذُهُ سِنَةٌ وَلاَ نَوْمٌ】
ラー タ・フズフ スィナトゥーーワ ラー ナウ(ーーーー)ム
『仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。』
短所や無用心さや無意識といったことがアッラーに起こることは決してなく、むしろアッラーは常に覚醒されていてあらゆる魂が稼ぐことを制御なさっていて、森羅万象をあますことなくご覧になっていて、アッラーの知悉から漏れるものは一切なく、どんな秘密もアッラーにとっては秘密ではない。アッラーの完璧な性質のひとつとして、うたた寝も熟睡もアッラーには、効力がない。そのため、アッラーの御言葉に
【لاَ تَأْخُذُهُ سِنَةٌ】
『仮眠もかれをとらえることは出来ない』
うたた寝による無意識がアッラーを襲うことはないということであり、更にアッラーは続けて
【وَلاَ نَوْمٌ】
『熟睡も(かれをとらえることは出来ない)』
熟睡は(意識がなくなることは)仮眠よりも更に強く起こりえる。
つかの間の眠りも長い眠りも彼をとらえることはない。常に維持し給う御方であることの理由付けである。まどろみとは眠りに先立つ状態で、感覚が完全には去っていない。眠りの状態では、物事の知覚が絶え、それゆえ、眠りは死の兄弟と呼ばれる。(ジャラーライン111pアル=ジャマル脚注)
サヒーフ・ムスリムのハディースによると、
アブー・ムーサー(رضى الله عنه)は伝えている。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は私たちの問に立ってアッラーに関し、五つの事をこうお話しになった。すなわち《アッラーはお眠りにならない。また、眠りを必要とされない方である。アッラーはしもべらの所行を判定するための秤を低めたり、高めたりなさる方である。夜の行為は昼の行為の前に、また、昼の行為は夜の行為の前に、アッラーの許に報告される。》アッラーの覆い(ベール)は光りである〔アブー・バクル(رضى الله عنه)の伝えるハディースによると、“光り”ではなく“火”となっている〕もしアッラーがその覆い(ベール)をはずすようなことがあれば、お顔の輝きのため、その御目が届く範囲にあるアッラーの創造物は、全て焼き尽されるだろう》第1巻141P

4. 【لَّهُ مَا فِي السَّمَاوَاتِ وَمَا فِي الأَرْضِ】
ラフー マー フィ=ッ=サマーワーティ ワ マー フィ=ル=アルド
『天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。』
全ての者はアッラーの僕であり、彼の王国の一部であり、彼の権力と権威の許にいる。
同様なアッラーの御言葉に
【إِن كُلُّ مَن فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ إِلَّا آتِي الرَّحْمَنِ عَبْدًا】
【لَقَدْ أَحْصَاهُمْ وَعَدَّهُمْ عَدًّا】
【وَكُلُّهُمْ آتِيهِ يَوْمَ الْقِيَامَةِ فَرْدًا】

『天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、罷り出ない者は唯の1人もないのである。本当にかれは、かれらの(すべて)を計算し、かれらの数を数えられる。また審判の日には、かれらは各々一人でかれの御許に罷り出る。』(第19章マルヤム章93~95節)

5. 【مَن ذَا الَّذِي يَشْفَعُ عِنْدَهُ إِلاَّ بِإِذْنِهِ】
マンーーザ=ッ=ラディー ヤシュファウ インダーフーーーー 
イッラー ビ=イズニ(ヒ)
『かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。』
同様なアッラーの御言葉に
【وَكَم مِّن مَّلَكٍ فِي السَّمَاوَاتِ لَا تُغْنِي شَفَاعَتُهُمْ شَيْئًا】
【إِلَّا مِن بَعْدِ أَن يَأْذَنَ اللَّهُ لِمَن يَشَاء وَيَرْضَى】

『天に如何に天使がいても、アッラーが望まれ、その御喜びにあずかる者にたいする御許しがでた後でなければ、かれら(天使)の執り成しは何の役にも立たない。』(第53章星章26節)
【وَلَا يَشْفَعُونَ إِلَّا لِمَنِ ارْتَضَى】
『かれが受け入れる者の外は、執り成しをしない。』(第21章預言者章28節)
この節はアッラーの偉大さ、誇り、品格の高さ、そしてアッラーのお許しが無ければいかなる者であろうと彼に執り成しを挑むものはいない。実際に、執り成しについてハディースで預言者さま(صلى الله عليه و سلم)も仰っている。
《私は主の許に出かけ、玉座の下に来て、主を拝し平伏すると、主は、お望みのままに私をその状態に置かれた後、こういわれる。『ムハンマドよ、頭を上げよ。いうことがあれば聞き、頼み事があれば与え、執り成しがあれば受け入れるであろう』といわれる。アッラーは私が天国に入れる者のために平伏することをお許しなる》(サヒーフ・ムスリム第1巻166p一部)

6. 【يَعْلَمُ مَا بَيْنَ أَيْدِيهِمْ وَمَا خَلْفَهُمْ】
ヤアラム マー バイナ アイディーヒム ワ マー ハルファフム
『かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。』
これはアッラーが被造物について完全な知識をお持ちであることを言及している。過去についても現在についても未来についてもご存知である。同様なアッラーの御言葉に
【وَمَا نَتَنَزَّلُ إِلَّا بِأَمْرِ رَبِّكَ لَهُ مَا بَيْنَ أَيْدِينَا وَمَا خَلْفَنَا】
【وَمَا بَيْنَ ذَلِكَ وَمَا كَانَ رَبُّكَ نَسِيًّا】

『.(天使たちは言う。)「わたしたちは、主の御命令による外は下らない。わたしたち以前のこと、わたしたち以後のこと、またその間の凡てのことは、かれの統べられるところ。あなたがたの主は決して忘れられない。」(第19章64節)

7. 【وَلاَ يُحِيطُونَ بِشَيْءٍ مِّنْ عِلْمِهِ إِلاَّ بِمَا شَاء】
ワ ラー ユヒートゥーナ ビ=シャイイン(m)ーーーーミン イルミヒーーーー
イッラー ビマー シャーーーーー(ア)
『かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。』
アッラーの伝達とお許しがなければアッラーの御知識は誰も得ることがないという真理を言い切っている。誰もアッラーが伝えようとなさなければ、アッラーの御知識をアッラーの特質を習得できない。同様なアッラーの御言葉に
【وَلَا يُحِيطُونَ بِهِ عِلْمًا】
『だがかれら(人間)の知識では、それを計り知ることは出来ない。』(第20章ターハー章110節)

8. 【وَسِعَ كُرْسِيُّهُ السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضَ】
ワスィア クルシーユフ=ッ=サマーワーティ ワ=ル=アルド
『かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、』
ワキーのタフスィール(解説)で、
イブン・アッバース(رضى الله عنه)は伝えている。《台座(クルシー)とは丸椅子のことであり、アッラーの玉座(アルシ)にすべき配慮を与えることは誰もできない》(アッタバラニー)アッダッハーク伝承ではイブン・アッバース(رضى الله عنه)は伝えている《もし7つの天と地と平らにして横につなげ広げ、その大きさを台座に比較すると、砂漠にある指輪ほどにしかならない》(イブン・アブー・ハキーム)
「台座に対する7つの天は、太陽の表面に投げ入れられた7つの銀貨でしかない」(ジャラーライン111p)
イブン・アッバース(رضى الله عنه)によると『彼の台座』とはアッラーの知識のことである。アッラーの玉座(アルシュ)の支え手の天使を台座(クルシー)の支え手の天使の間には70の陰からなる覆いと70の光からなる覆いがあり、一つの覆いは通り抜けるのに500年を要する厚さである。この覆いがなければ、台座の支え手は玉座の支え手の光に燃えてしまったであろう。(ジャラーライン第1巻111pアル=ジャマル脚注)

9. 【وَلاَ يَؤُودُهُ حِفْظُهُمَا】
ワ ラー ヤウードフー ヒフズフマー
『この2つを守って、疲れも覚えられない。』
天と地、またその間にあるものを守護することは、アッラーには全く重荷ではなく、またそれをすることに疲れを覚えることもない。むしろアッラーにとっては容易いことある。
その上、アッラーは全てのものを支え、すべてのものを余すところ無くご覧になり、彼の御知識から漏れるものはなく、何事もアッラーには秘密にはできない。全ての事象は彼の御前では明白となり、慎ましく、謙虚である。彼は最も豊かであり、全ての賛美を受けるのに値する御方である。彼はお望みのことをなし、自分たちがアッラーに尋ねられることはあっても、彼のなすことについて誰も彼に尋ねることはできない。アッラーは全てを凌駕する最高の権力をお持ちで、最も偉大である、彼以外に崇める価値のある神格者はなく、アッラー以上の主権者はいない。

10. 【وَهُوَ الْعَلِيُّ الْعَظِيمُ】
ワ フワ=ル=アリーユ=ル=アズィーム

『かれは至高にして至大であられる。』
【الْكَبِيرُ الْمُتَعَالِ】
『偉大にして至高の方であられる。』(第13章雷電章9節)


アッラーの祝福とご加護がありますように
والسلام

200のハディースその35

2012-09-22 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

強い信者と弱い信者(さまざまなハディースより⑩)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い様(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「強い信者と弱い信者とでは、双方ともに良い点があるとしても、強い信者の方がより良く、威力並びなきアッラーも強い信者をより愛で給います。双方とも良いのですが、自分のためになることを追求しなさい。アッラーの助けを乞い願いなさい。闘いにおいて逃げ腰になってはいけません。何か、災難があっても、『もしあの時ああしていれば云々。』と言ってはなりません。『アッラーが予定していらしたのです。アッラーがお望みになったことをさなったのです。قَدَرُ اللهَِ ما شاءَ فَعَلَ』と言いなさい。『もし』という言葉は悪魔の仕事を開始させるのです。」(ムスリムによる伝承)(注:強い信者とは、心身ともに健全な信者のこと。闘いとは、軍事的衝突のほか、日常におけるあらゆる努力を意味する。)


 アッラーは、戦いなど非常時において、率先して行動する者を強い信者として愛でられ、戦いに参加するものの、弱音を吐き逃げ腰になる者を弱い信者とみなします。弱い信者の一例として、過去にこだわる人の例が述べられています。
 終わってしまっている過去は誰にも変えることはできません。災難に遭い、「もしあの時ああしていれば・・・」と後悔し、自分を責めて落ち込んだり、あの時のことを思い出して愚痴を言う人たちは弱い信者になります。あの時、あなたにそのような出来事が起きたことは、すでにアッラーが予定されたことであり、アッラーが望まれていたことだと理解しなければなりません。あの時の行為は自分にとって最良の選択であったと思うことです。それは、アッラーが私にお与えになったもので、私の人生なのだと前向きに受け入れることです。別のハディースには、こうあります。「イスラームに帰依した者、生活可能限度の糧を与えられている者、そしてアッラーがお与えになったもので満足している者は成功した者である。」(ムスリムの伝承)
 ですから、私たちが過去に対して、「もし」という言葉を発することは、アッラーの計らいに対し不満を述べることになります。また、「もし」という言葉を言い続ける限り、悪魔と歩調を合わせることになるので、厳しく慎まなければなりません。
 一方、平時における強い信者を考えてみますと、社会的に影響力を持つ人とは、財力を持っている人や、その人の言動が社会に影響を及ぼす人たちです。財力のある人はザカートやサダカを通して、マスジドや学校などの建設資金を提供したり、援助を必要としている人たちに金銭面で支援したりしてムスリム社会に貢献します。また、政治や教育、文化活動や伝道活動を通してムスリム間の連帯や啓蒙に貢献する人たちも社会的に影響力を持つ人たちです。
 真っ当な人とは、目立った財力や社会的影響力がなくても、自分の与えられた仕事に誇りを持って、たんたんとこなし、自己を高める人のことです。この社会的影響力を持つ人と真っ当な人たちが信者として自覚を持って行動すれば、ムスリム共同体は強固なものになるでしょう。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



最後の審判 最終回

2012-05-03 | ハルカ
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم 

前回まで、死後に起こることを順番に見てきました。
①死の天使が、体から魂を抜き取る。 → ②(墓の中の)バルザフの世界  → ③最初のラッパ(生きている物がすべて死ぬ) → ④2回目のラッパ(全員復活) → ⑤預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のハウド(水飲み場) → ⑥全人類の結集  → ⑦預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の取成し → ⑧アッラーから記録書の授与 → ⑨自分の行いがはかりにかけられる → ⑩スィラート(地獄にかかる橋)を渡る → ⑪報奨(天国と地獄)


最後の審判の日を信仰することの影響

1.常にアッラーを心に留めること:


例えば、万引きしようと思った人が、万引きをしたら100%どんな例外もなく確実に職場や家庭に連絡されて警察に引き渡される、とわかっていたら、やめるでしょう。その確信が100%ではなく、もしかしたら見つからないかもしれない、ばれないかもしれない、また見つかっても支払えば許してもらえるだろうと思っていれば万引きしてしまうかもしれません。最後の審判の日に対する信仰も同じで、その確信が深まれば深まるほど、100%確実にアッラーにお会いして絶対に問われる、ということがわかることで、常に自分を客観的に見て清算することができるという効果があります。

アッラーの判定は絶対に公正で、自分のした事で何一つ見逃してしまうようなことはなく、アッラーはすべてご存知で、その日には自分の行いがすべて書かれた記録書、もしくは録画されたビデオのようなものを見せられて、何も言い訳をすることができない、そしてその判決によって、天国に行く人たちと地獄に行く人たちに分かれると100%わかっていれば、日ごろから何かをするときに、そのことを思い出してアッラーのことを心に留めることができます。ですから最後の審判の日を信仰する人は、人々の前であっても、誰も見ていないところであっても、アッラーを心に留めて、アッラーの目の前でしても恥ずかしくないことをしようと心がけます。そして、あの世で清算される前に、自分を常に清算して、審判の日の準備をすることができます。

【 あなたがたは、アッラーに帰される日のために(かれを)畏れなさい。
その時、各人が稼いだ分に対し清算され、誰も不当に扱われることはないであろう。】クルアーン雌牛章281節
【كُلُّ نَفْسٍ مَّا كَسَبَتْ وَهُمْ لاَ يُظْلَمُون  وَاتَّقُواْ يَوْمًا تُرْجَعُونَ فِيهِ إِلَى اللّهِ ثُمَّ تُوَفَّى】



2.行動が正される:


 アッラーの元で自分の行いが清算されるということを確信を持って知ることで、犠牲を払ってでも善いことをがんばってしようという気持ちが増えます。善いことをするのは、時にはすごく難しいかもしれません。善いこととわかっていても簡単にはできないこともあるかもしれません。それでも、必ずアッラーが見ていてくださって、それについて近い将来ご褒美がもらえると確信を持って知っていることは、善い事をするための努力をする強い原動力になります。また、必ずアッラーがご覧になっていて、近い将来、そのことを問われると知っていることは、悪い事をするのを何とかしてやめようと努力する原動力にもなります。そうした努力をすることによって、結局、善行が増え、悪行が減ることになり、審判の日には自分の記録書を右手でもらえる人の中に入り、彼の報奨は人々に公にされて、人々が見ている前で天国入りのチケットを授かる名誉を与えられることになります。

【それで右手にその(行状)記を渡される者は言う。「ここに(来て)、あなたがたはわたしの(行状)記を読みなさい。」(彼は言います。)「いずれ私は、清算(審判)に合うことが、本当に分っていました。」こうしてかれは至福な生活に浸り、高い(丘の)園の中で、様々な果実が手近にある。「あなたがたは、過ぎ去った日(現世)で行った(善行の)ために、満悦して食べ、且つ飲みなさい。」(と言われよう)。】クルアーン 真実章 19~24節
فَأَمَّا مَنْ أُوتِيَ كِتَابَهُ بِيَمِينِهِ فَيَقُولُ هَاؤُمُ اقْرَؤُوا كِتَابِيهْ إِنِّي ظَنَنتُ أَنِّي مُلَاقٍ حِسَابِيهْ19فَهُوَ فِي عِيشَةٍ رَّاضِيَةٍ فِي جَنَّة】ٍ
【 ِ عَالِيَةٍ21قُطُوفُهَا دَانِيَةٌكُلُوا وَاشْرَبُوا هَنِيئًا بِمَا أَسْلَفْتُمْفِي الْأَيَّامِ الْخَالِيَة



3.現世のための行いと来世のための行いのバランスをとる:


 現世というのは、私たちが試される所で、来世の種を植え育てる所です。信仰する人は、現世の装飾に騙されてそれだけを大切にしてそれに振り回されて溺れる人生を送ることはなく、また現世を欲しがる欲に従って来世を台無しにするということがないように注意することができます。そうかと言って、現世の生活を全く省みず、家に篭ってお祈りだけして、他の人に食べさせてもらって生活し、ただ来世への望みだけの中に生きるということもありません。イスラームにおける中庸の教えを守り、現世と来世のどちらも大切にします。

【アッラーがあなたに与えられたもので、来世の住まいを請い求め、この世におけるあなたの(務むべき)部分を忘れてはなりません。そしてアッラーがあなたに善いものを与えられているように、あなたも善行をなし、地上において悪事に励んではなりません。本当にアッラーは悪事を行う者を御好みになりません。】クルアーン 物語章77節
وَابْتَغِ فِيمَا آتَاكَ اللَّهُ الدَّارَ الْآخِرَةَ وَلَا تَنسَ نَصِيبَكَ مِنَ الدُّنْيَا 】
【وَأَحْسِن كَمَا أَحْسَنَ اللَّهُ إِلَيْكَ وَلَا تَبْغِ الْفَسَادَ فِي الْأَرْضِ إِنَّ اللَّهَ لَا يُحِبُّ الْمُفْسِدِينَ


4.アッラーの公正さに対する信仰が深まる:


信仰する人は、私たちが今いる現世というのは、ずっと住むわけではなく、ただ通り過ぎる場所だという事を知っています。日本語で仮の住まいと言いますが、まさに現世は私たちの仮の住まいです。現世というのは、報奨を受ける場所でもなければ、永遠に私達が住む場所でもありません。また、現世というものは、常に不足していて、満ち足りる事がなく、いろいろな種類の災難や不幸がたくさん起こる場所で、来世に比べてそんなに大きな価値を置くべき所ではないということを知っています。預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のハディースで、
≪もし現世が、ハエの羽ほどの価値があったなら、不信者は水一杯も飲むことはできないでしょう。≫
というものがあります。つまり、それほどアッラーの元では現世の喜びというのは、来世の喜びに比べて比較にならないものだということです。ハエの羽一枚よりも価値のないものだということです。

一方、来世は、報奨と公正さの実現する場所であり、公正で絶対に正しい基準のある場所です。そこでは、アッラーの公正さが実現され、誰一人不公平に扱われる事は決してありません。アッラーの判決によって権利を侵害されたり、虐げられたりする人は1人もいません。また、アッラーの判決によって、報奨が確定された人の報奨は必ず与えられ、誰もそれを邪魔する事はできません。これは、アッラーがお約束なさった事で、アッラーのお約束は必ず実現します。

【(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなたがたは見るでしょう。かれらは言います。「ああ、情けない。この書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。」かれらはその行った(凡ての)ことが、かれらの前にあるのを見ます。あなたの主は誰も不当に扱われません。】クルアーン 洞窟章 49節
وَوُضِعَ الْكِتَابُ فَتَرَى الْمُجْرِمِينَ مُشْفِقِينَ مِمَّا فِيهِ وَيَقُولُونَ يَا وَيْلَتَنَا مَالِ هَذَا الْكِتَابِ لَا يُغَادِرُ】
【صَغِيرَةً وَلَا كَبِيرَةً إِلَّا أَحْصَاهَا وَوَجَدُوا مَا عَمِلُوا حَاضِرًا وَلَا يَظْلِمُ رَبُّكَ أَحَدًا



 こうして、最後の審判の日の信仰を持つことによって、アッラーの公正さへの信頼が高まり、その日に、すべての公正さは実現し、現世での不平等や不公平の清算が必ずあるということに信仰する人は安心感を覚えます。現世で不当に扱われ苦しみ泣いていた人たちも、その日はこれまでの報奨を受け取り、笑うことになり、現世で不正を働いて笑っていた人たちは、自分のした事の罰を受け泣くことになります。これは必ずそうなります。アッラーの公正さは、現世だけで実現されるのではなく、来世とセットになって実現されるものだからです。最後の審判の日を信じることは、アッラーの公正さを信じることにつながり、現世で信仰する人にやすらぎを与えます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام




200のハディースその34

2012-05-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم


満腹を避ける(さまざまなハディースより⑨)

 《アブー・カリーマ・アル=ミクダーム・イブン・マアディーカリブ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い様(صلى الله عليه و سلم)が、「人にとって最もいけないことは満腹になることです。背筋を真っすぐに保つには少量の食べ物で十分です。それが無理なら、三分の一を食べ物のため、三分の一を飲み物のため、三分の一を呼吸のために空けておきなさい。」といわれるのを聞いた。》(アッティルミズィーによる伝承)




 食は生命を保つ本源でありますが、食の取り方が、体のみならず人間の生き方にも大きな影響があることが、このハディースから学ぶことが出来ます。
 腹八分目に医者要らずといわれ、満腹になるまで食べず、適量に済ませばお腹をこわすこともなく、医者にかからなくて済むことは、多くの人が知るところです。医食同源という言葉もあり、食を慎むことは健康維持につながります。
 このハディースでは、食べ物と飲み物に三分の一ずつとありますから、腹八分目より少なく、腹六分目を勧めています。その効用については、医者が、小食は健康の原点であるとして、小食療法を取り入れ、治療に応用していますから、科学的根拠があります。
 満腹により、腹の皮が張れば、目の皮がたるむ、と言うように、多く食べると眠くなります。食べすぎると、背筋がまっすぐにし、仕事をすることが難しくなります。
 そして、食べ物を頂くときですが、他のハディースに、「隣人がかたわらで空腹を抱えている時に腹一杯食べる物は、信者ではなりません。」アルバイハキー「信仰集成」)とあります。種類豊富な食べ物に囲まれているわたしたちは、アッラーに感謝すると同時に、日々ひもじい思いをしている人に思いをはせる飲食マナーが求められます。食を通じて慎み深さを養い、飽食したり、美食を追い求めることを避けなければなりません。
 また、食事の作法について、次のようなハディースがあります。「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は食事をされた時には使用された三本の指をお嘗めになっていた。そして『誰のものでも一口程の食べ物が落ちた時は、付いたものを取り除いて食すがよい。シャイターン(サタン)にそれを放置してはならぬ。』と仰った。そしてわれわれに皿に付いている物もきれいに食すことをお命じになり『まことに、あなた方が食べ物のいずれの部分に祝福があるのか分からないであろう』と仰った。」(ムスリムによる伝承)
 お皿に盛られた食べ物を頂くマナーがあり、それも、盛り付け前の使われていないお皿のようにすることを聞いて、深く考えさせられました。そのあまりの謙虚さに驚くばかりです。“もったいない”の極地と言ってもよいでしょう。
 これらのハディースから、飲食の慎みによって身を正し、人格が養われることが理解できます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその33

2012-01-15 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

自ら死を望んではいけない(さまざまなハディースより⑧)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「誰でも死を望んではいけません。善人は善行を増すかもしれず、悪人は悪行を改める機会に出会うかもしれないのですから。」》(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承。引用はアル=ブハーリーの表現)
 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「誰も死を望んではいけません。死が来る前に死を祈願してはなりません。死んでしまえばその者の行為は中断されてしまいます。信者が長生きすることは、唯唯良いことなのです。」》(引用はムスリムによる表現)




 始めのハディースは、人間には人生の最後まで、善き人間になる機会が与えられていること、二つ目のハディースでは、アッラーは、何の条件もつけず、人間が長生きすることを望まれているのだと受け止めました。
 人生に絶望し、生きる目標を失い死んでしまいたい、という衝動に駆られたら、このハディースの言葉を思い出しましょう。

 アッラーは、常に当人にとってプラスになる機会を与えてくださるからです。そのプラスの内容が、当人にはすぐに理解できないことがあります。聖クルアーンに、
【自分たちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーはご存知です。】(2章雌牛章216節)
とあります。

 自分の好むことが、必ずしも自分に良い結果をもたらすとは限らず、反対に自分の嫌悪することが、実は自分にとって良い結果につながっていくかも知れないのです。自分に降りかかる出来事を自分の好き嫌いの感情で判断してはならないのです。現実を淡々と受け止めることです。

 アッラーは向上のための機会を与えてくださる。このハディースは、人生の目的の一つである人格の向上を思い起こさせ、死への思いを引き止める言葉として語られています。
 
 気持ちが落ち着いたら、「私の命は誰から与えられたか。」、「人生の意味を与えられたのは誰か。」と考えましょう。そこには、アッラーしかいないのではないでしょうか。ですから、人は
【アッラーの慈悲に対して絶望してはならない】(39章集団章53節)
のです。

 二番目のハディースの、信者が長生きすることは、ただただ良いこととは、アッラーに感謝する人、頂いた命を大切にする人たちは、生きることそのもの、生きる行為が善であると言われている気がします。長生きし、生きていて良かったと感謝の気持ちを持ち、人間は生かされていることに気づくだけでも人格の向上の一つにつながると思います。アッラーの慈悲に対し、長寿を感謝しましょう。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその32

2012-01-04 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

試験を受け入れる(さまざまなハディースより⑦)

 《アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーが誰かに良きことを望まれると、その者に苦難を与えて試されます。」》(アル=ブハーリーによる伝承)
 《アナス(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーが僕に良きことが望まれると、その者の罪に対する懲罰を審判の日に執行するまでに保留されます。」預言者(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「大きな報酬は大きな試練と共にあります。至高なるアッラーは、人を愛すればこそ試されるのです。そして、その試練に満足する者はアッラーの御満足を得ます。また、その試練を不満とする者は、アッラーの怒りを得ます。」》(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)




 人は人生において様々な試練を受けますが、自分の願いや目標を達成するために予想される試練は、ある程度は納得し我慢できます。しかし時として、予想もしない苦難を伴う試練に出会うことがあります。たとえば嘆く以外になすすべもないような苦難に遭遇した時、どこにも逃げ場がないような境遇に置かれた時、耐え忍ぶ以外に方法がない時などです。
 なぜ、私は、こんな目にあわなければならないのか、自分には非は無いのに、と疑問が生じた時、実はそれには、深い意味があるのだと、このハディースが教えてくれます。
 その意味は、苦難を伴う試練はアッラーからのお試しであり、それに耐える人には、多大な報奨が約束されるということです。また、試練を受ける人は、その人がアッラーに愛され、導かれる人であるというのです。また、苦難は、アッラーがその人に良き事を望まれるためでもあると述べられています。そして、導かれる人は、自分が犯した罪を、審判の日にではなく、前もって現世で精算を済ましてくれるというのです。審判の日に何も心配することがないことは素晴らしいことです。
 試練を、アッラーに仕える者の証として素直に受け入れ、耐え忍べば、必ず良いことが待っているのです。その良きことは、現世で実現するかもしれませんが、来世では必ず実現するでしょう。試練は未来を保証されるためにあると、受け止めることです。
 もし、このハディースの教えを知らなかったら、この世は不公平だらけだとして、人を恨み、社会を恨み、自分の人生を呪っていたかもしれません。しかし、今や、苦難の意味を理解した人は、どんな苦難に直面しても窮することはありません。最悪の事態に陥ったとしても、決して落胆せず、不満をいわず、受け入れるでしょう。アッラーのご配慮により、自分に最も相応しい所に行き着くことを知っているからです。
 試練にあっても、全てをアッラーにお任せすれば、一番良い方向に導いていただけることが、このハディースを通して理解することが出来ます。私たちはどのような事態になっても、恐れることなく、アッラーに感謝する気持ちを持ちたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام