日記

Hajime

今日はあめ

2015年06月27日 | Weblog

あ、ちょっと仕事を越えた
と思うことが最近はある

贅沢にも1日3本の映画の試写をし、
集まった人たちの集中して作品を観る姿や、
真剣に作品を選ぶ姿
大の大人がちゃんと自分たちで観て、ちゃんと自分たちで選んで、ちゃんと自分たちで決める
そんな姿を目の当たりにするのは仕事で映画を3本観れること以上に贅沢だなと思う

また、

不確定要素が多い中でつながった
東京のダンサーが今秋に再び島根に戻ってくる時に
滞在中に一緒に過ごした地元のダンサーに対して
島根でやるなら地元のそのダンサーも一緒に何かやりたいという要望があったこと
互いがそれぞれに身体表現という枠を越えて
純粋に一緒に行う時間をつくりたいという感覚
仕事として依頼しなくても少しずつ繋がっていく感じ

多分地元のダンサーはすごく喜ぶな、と思った瞬間に
あ、仕事を越えたな
と思う

予算やそういうものも大切だけどそれと同じく大事なものがあるな
と思う

企画よりも、人が全て
という月並みな言葉なのだけどあながち間違ってはないなとも思う

一瞬のイベントとは違って華やかではないけど
そういう繋がりを持とうとしてくれることが嬉しいと関係者に言われた時には
まだ何も形にできてはいないのだけど、贅沢な仕事をしているなと思う
それ以上に仕事を越える瞬間を見せてくれる熱意ある前向きなその方々に逆に感謝している

多分その積み上げ以外に芸術に関わる人が本当に高め合う方法はない気はしている
隣の芝生は青く見えるというけど、
羨ましいなと思う周りの地方のアートプロジェクトも基本的にあれこれ大変なんだろうな


Ben Folds Five - Brick

無題

2015年06月25日 | Weblog
夕方運転していたら猛烈に雨が降ってきてたちまち立ち往生
戻ってきたら雨の降っていた形跡はなし
往々にしてそういうもののような気はする

今日はいくつかの出会いがあった
いろいろと本気の人たちだ
話していて気持ちがいい


純粋理性批判の第2章 時間について
063認識の条件と時間
わたしたちは、「すべての事物が時間のうちにある」と語ることはできない。事物一般という概念のもとでは、事物を直感するすべての方法が無視されるからである。
しかしこの直感こそが、時間が対象の像に含まれるほんらいの条件なのである。


当然のことながら夜にカントを読むと寝れなくなる

SOIL&"PIMP"SESSIONSと椎名林檎/殺し屋危機一髪

雑食系

2015年06月23日 | Weblog

ずっと手につかなかった本を今さら読みあさっている
一時期小説という世界しかみていない頃があった
その頃はスタインベックやカミュ、カフカ、ヘッセやヘミングウェイ、カポーティや漱石や太宰に三島とか所謂王道と言われる作家を馬鹿みたいに読みあさっていた
何の脈略もなかったし、文学部でもなかったので古本屋に行っては読んだ作家の系統を自分勝手に想像してはその作家に影響を受けた、もしくは与えた作家らしき人の本を買って読んだ
おかげでまったくもって文学の歴史とは関係ない自分勝手な作家の系統を作っている気がする
よく疲れなかったものだ
好きというのは疲れるものではない、と改めて思う

また一時期ラジオしか聞いてない時期があった
夜中の三時に起きては朝までラジオを聞いていた
特にAMの方がよい

いろいろと懐かしんでいるわけではなくて、
そういうサイクルは一旦落ち着いても割と大きな、5年とか10年とかそういうスパンで再燃するのだと思う
今深夜のラジオは手放せないし、
そろそろ読みかけの本に手をつけようかと思って開いたカフカの「審判」は読書熱が冷めた6年前くらいにページを閉じたその時そのままの感覚がある
なので栞をひっぱってページを開くと審判の意味不明なほこりっぽく沈んで重たい世界にすっと戻るような気持ちなる

改めて数年前からストップさせている栞を挟み込んだまま本棚にしまってある本を手に取ってみる
審判だけではない、トルストイやギリシア神話や川端とか、もうあと数ページのところやまだ全然読み始めのページに栞が挟まっている本もあちこちにあり本棚が無法地帯であることに気がついた
しかし一冊一冊そういう風にして時が一気に進むのはやはりとても面白い
放置された数年を一瞬で飛び越えたように読みかけの本は読みかけたその時のままだった

自己啓発系の本は読まないのでそういうのはないけど
本棚や本棚に収まらない段ボールのなかの本たちは全く持ってつながりに脈略がなく
系統だってなく、この本棚の持ち主の読書傾向は本当に浅はかだなと自分でも思う

それと深夜特急が2巻と4巻しか置いていないのが本当に雑な読者だな、と思う


サカナクション - ユリイカ (MUSIC VIDEO)

イメージ

2015年06月21日 | Weblog
ここしばらく
本当の芸術というもの  に触れていると思う
生まれ育ったふるさとというところに以前より少し近いところにいて、
別にふるさとではない感覚で暮らしている
そういう意味では大阪や京都、東京で暮らしていたときや
アジアやヨーロッパやアラスカで点在していたころの感覚とあまり変わらない

ただ、ひとついえるのは最近、本当の芸術というもの  に触れる機会がある
ということ

それさえあればわりと問題ない


芸術家が田舎に滞在し、
その創作やそこに暮らす人々との交わりについて
それをサポートする、というのが役割と見せかけて
その目に見えない、少しの時間ではかなえられない相互の感情の解け合うような瞬間みたいなものがあって
どちらかというとそのサポートに見せかける行為自体が
私の作品づくりだとも思っている
第一線の芸術を生み出す力と文化的に優れているけれど生活サイクルの忙しなさゆえの芸術への追求に乏しい人々
その交わることのないような、交わっても本質的に理解し得ないような場をつくるのは楽しい
見ているのも楽しい。いびつにつながりあう不安定な形や決して約束されない不確定な時間も


ただそうではないものにも触れることも多々ある
けれどそれをあまり気にせずに振る舞えるのも成長したのだと思う
ちょっと前まではそれを気にしすぎていたようにも思う。商業的なものとか。
今はとてもどうでもいい
というよりそれを気にしすぎて不平不満をもらしていたこと自体なんだったのか今ではよく思い出せない
あまり私には関係ないので気にしてもしょうがないような気もする
それぞれに役割分担の違いがあるのがよく分かった

単純に美しいものを美しいと言えばいいし

音楽やダンスや演劇や映画で本当にそれが好きで
好きが故に苦しんだり、苦しむことや時間をかけてじりじりしながら作品をつくる共通点で話しができる人たちが増えたのだと思う

写真はあまり撮ってないけれど、
時間と空間を美しいと思えるような分かりづらい作品をつくれるようになったのと
様々なジャンルの創り手達と話し合える時間が増えてきたのがこの場所にいる価値だと思う











晩夏か初秋かわからん

2014年09月05日 | Weblog

あんな風にならないようにがんばる
と、
あんな風になりたいからがんばる

というのでは輝きが全然違う
ましてやそれが長い年月を経ると全く輝かないものとすごく輝いているものに同じ人間同士でもわかれていってしまう

他人が見て輝いているかどうかではなくて
自分が自分らしい輝きを失っていないか、というところ


先日、同じ職種の若手の飲み会を開いた
職場は違ってもやはり似たような悩みはある

であるならばこういう人が集まって作っていけばよいし
すごく抱えている想いも強い
であるならば形になるようにきっかけを作っていけばその経験は決して無駄にはならない
刻一刻と時間は過ぎていっているのである
何かしよう、プライベートでいいから何かしようと言い合って、また集まろうと言って解散したのだけど
けれど新しい何かをするためには今の三倍は知識を得ないとはじまらないし、新しいことは作れない


すっげーおもしろいそれ




そういえば実家に帰った時にちらっと祖母の写真を撮った
今までと違う感触がそこにあった
祖母の顔の皺や手の動き足の動き、体の動きが周囲の空気ととても調和していた
光にも影にもとけ込んでいた
どちらかというと周囲の光や影が祖母にとけ込んでいたのかもしれない
ずっと暮らしていた地に本当にずっと生きていると呼吸なのか時間なのか祖母自身の何かなのかその土地自体の何かなのか、おそらくそれらの全てなのだけど調和していた
庭にいる祖母、手押し車を押す姿、足元の花や遠くの山に目を細める姿
齢90を目前にして生まれてこのかたその場所で繰り返した何十回もの季節の繰り返しが多いのか少ないのか分からないのだけど何か様々なカテゴリーを越えた存在だった
しわしわだけどすごいな、美しい姿だな、と思う

何かこの感じどこかで味わったことがあるようなと思っていたら、
アラスカでシーカヤックで海に出た時にいきなり目の前に大きなクジラが現れた時のショックに似ていた
アラスカの冷たい海の底から呼吸をしに上がった黒く輝いたその巨体は、水面で大きく空気を吐き出し、また大きく吸い込んで一気に海の底まで潜り、シーカヤックを揺らす波だけがそこでクジラと私が出会った時間の証拠として残されたのだけど、またその波も黒いアラスカの海に飲まれていった
想像もつかないような海の底からごく当たり前のように浮かび上がって、私のことなど意に介さないその姿は、地球と繋がっているような気がしてとても人間がかなう相手ではない存在のような気がした
海の上でひとり乗りのシーカヤックに乗って息をのんでシャッターをきった
とても美しいシーンだった
それを思い出した

それを考えるとやっぱり祖母はすげえ
年季が違う


おもしろい






めいりん

2014年08月28日 | Weblog

倉吉市の明倫AIR2014のオープニングに参加した。

廃病院を活用してのレジデンス。

滞在アーティスト、地域のスタッフ、鳥取藝住祭のスタッフ、行政スタッフ、学生、とてもあざやかな連携。
丁寧なリサーチと受け入れる姿勢。

助成金や事業ということではなく、地域に必要だと思うからこの大変だけど有意義で地域が楽しくなるプロジェクトを継続して開催したいという思い。

それ以外はない。

芸術とかいいだすと深みにはまるので、毎年地域が盛り上がるイベントとしてのアートプロジェクトとして考えるととても意義のある取り組みだった。

私は特にレジデンスがしたいというわけではないが、持続可能なまちづくりのアートからのアプローチは今とこの先少しの間はレジデンスの取り組みが一番いい形だと思う。

けれどそれには地域をはじめ、理解と忍耐、リーダーと支える母体の成長が不可欠。

今、レジデンスと名付けられた事業を行っているが、とてもレジデンスとは言い難い。

一度リサーチからやりなおし、新しく取り組み直すべきだと思っている。

地域のかしこいリーダー達は行政やそれに付随する組織とパートナーシップを組むとろくでもないことになるので、NPOやチームを組んで自分達の町を自分達らしく盛り上げる為に行政の予算や事業を利用するという当たり前の話しを当たり前に自分に言われると、そういうそれぞれの肩書きを外すとみんな向かっている方向に大きな違いはないのだからそれぞれ丁寧に連携していける仕組みづくりを役割分担してやっていければいいな、と思う。

個人的に楽しいなと思うことにそれぞれ間違いや善悪などないし、きっと大人になればその楽しいことに専門性もでてくるはずで、ともすればそのチャンスをきちんと活用してもっと楽しくなるように丁寧な仕組みづくりと周囲の本当に望む声に耳を傾けてじっくりやっていけばよいのだろうなと思う。

誰の声に耳を傾けて、どこの何が良くなるようにしたいのかを自分をごまかさずに捉えて行動していかなければいつまでたってもそのまんまなのだと思う。
割と人生あっという間だしぶつくさいってる時間がもったいない気がした今日の廃病院の盛り上がり。

200

2014年08月24日 | Weblog

先日、大阪で10年前に活動を立ち上げた音楽活動を私が去って以降活動を継続していた方から連絡があった。

今年で10年を迎える、そして一旦この活動を終わらせる、そのために最後のライブを開催する。
そのライブの為にメッセージを送ってほしい、ということだった。
昨日そのライブの際に会場で流したというメッセージ映像が送られてきた。

元々、大阪のある場所で夜に地域の子どもを対象に勉強を教える活動をしていた10年前。
様々な問題を抱える子も多く通っていて、勉強をする意義や価値にたどり着くまでにはとても道のりは遠い気がしたし、そういう子どもたちにとって「勉強」を教える活動をしたとしても本当に身になるのだろうか、勉強じゃなくても何か自分の好きなことに熱中し、人にどういわれようと突き進んでいける何かを見つけることがまずは必要なんじゃないだろうかと思っていた。

そして、学習活動と同時に、写真で表現する活動と音楽で表現する活動の場を周囲の人に支えられ、協力しながら立ち上げ、写真の活動は写真展の開催、音楽の活動はライブの開催までこぎつけた。

ライブは小さいカフェで地域の人たちや仲間を集めたものだったけど、ちょうどそのすぐ後に私は大阪から東京へ旅立つ直前だったから「サヨナラライブ」というイベントとなった。
スーパーバタードッグのサヨナラカラーを皆で歌った。立ち上げたみんな、最初からずっと参加してくれた子ども、途中から一緒に音楽を楽しみはじめた子どもたち、東京行ってもがんばれよ大阪にいつでも帰ってこいよ、と子どもたちの活動の一環だったのに逆に励まされたライブだった。

あれから10年、彼らは継続し、大きなホールでライブをし、参加者も増え、東京でのライブは観にいった。
あの頃ギターが下手だったやつがとてもうまくなっていた。

10年の間ものを続けるのはとても大変だったと思う。
それ以上に10年続けたものを終わらせるのはもっと大変だったと思う。次へ進化させるために。
新しい場所に行くために。

しかし、尊敬する。






200567

しれない

2014年08月14日 | Weblog

最近は過疎化の進んだ中山間地の廃校で十数名のダンサーたちと過ごしていた

男子は体全体でなんだか大きな迫力
女子は細かいけれど滑らかでもある動き

そういうシーンを見ていると言葉にはならない身体表現の大胆さやしなやかさを取り込めるような気がした

元来あれこれと分解しがちというか分解する訓練を勝手にしていて
右手と左手、右足と左足、右手と右足、右手と左足、左手と左足、左手と右足、かかととつまさき、光と影やその中間のグラデーション地点の薄さや濃さ、それらの分解に意識が集中してしまうのだけど、それを束ねて身体で表現するダンサーってすごいなと思う

ひょっとして体の分解だけでなく時間や光の分解から、回路を再構築しているようなことなのかもしれない
それは見ていて興味深い



○○及び、棒

2014年05月12日 | Weblog


何かのアピールのために写真を撮っているわけではなくて

自分が嬉しいからとか悲しいからとかという理由があるから撮っているわけではなくて


ただ撮っているだけである

いいものに近づけようというのは、人に見てもらいたいというわけではなくて

あれだ、と思うものに近づけたいだけである

同士と形にするわけではなく虎視眈々と作業するのは楽だけど苦で、苦で楽である


砂浜をカメラをもってぼんやり歩いているとおばちゃんとかおじちゃんとかが後ろからついてきて、何を撮っているのか、いい写真を撮れる被写体でもあるのかとぞろぞろ



特には何もない

特には何もないのだけど研ぎすませていないわけではない


周りの声を受け入れつつ流されない


力を入れて力を入れない


理屈を積み上げるけど根元からけり倒す


今年中にインドに行くことを約束しているので
今年中にインドに行く

突き詰めつつ外から溶かす


狭まった時にインドを思い返すとあまりに広いのですごく精神に有効
新しい利用の仕方


砂とか空とかが結構気持ちよかった昨日








助けとかについての

2014年04月29日 | Weblog


このブログについて、書き方や意見を結構いただいたりして、本当に助かっています



 で、本当に私の為に踊ってくれるこの夏のダンス集団や

映像をつくってくださる方々

遠くから会いにきてくださる方々

本当に助けられていると思う

相乗効果的にも
ぐいぐい撮れてきている

ぎりぎりの断崖や夜の山に入って撮影するこの恥ずかしながらもぎりぎり感の
快楽ったらない

好きだから撮るとかつくるとか

苦しいけどそれも踏まえて撮るとかつくるとか

早さとか遅さとか

そういうのとかもどうでもよくて

納得のいく
ものをきちんと目の前に並べたいという

本当に
恥ずかしいし、
甘ったれた、社会と何の接点もない現象なのだけど


それすら気にしない

そうしていいものをつくっている人たちもいるし、繋がってきているし、そういう限られた人と出会えて助けられた事実はなかなかどうしてしょうもないと言われても事実であるので

書いている暇があればつくれということなので


そうすることにする

いろいろ助けられている、と実感