弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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杉並世田谷散歩徒然

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本佐倉城訪問

2024-04-15 15:26:59 | 趣味・読書
前号から続く。

本日は、前号に記載のようにまず佐倉城を訪問し、次いでタクシーで移動して本佐倉城を訪問しました。

本佐倉城は、下の地図にあるように、大佐倉駅の東方に位置しています。

本佐倉城跡付近の地図

現代の本佐倉城跡は、四方を田んぼと林に囲まれた場所に位置しています。

本佐倉城跡航空写真

タクシーは、国史跡本佐倉城跡観光案内所に到着しました。まずは続100名城のスタンプです。

本佐倉城跡
観光案内所は、小さな建物ですが、中は展示が充実しています。まずはビデオ鑑賞です。何枚ものパンフレットが用意されていて、係の人から説明も受けました。そして、われわれが実際に東山から城山を歩くのにもつきあっていただきました。
以下では、上の地図の赤数字で、1番付近から2番、4番、5番~9番と進む順で写真を上げています。
下の写真は、城の北側の田んぼ地帯から、東山を眺めています。中央の台地が東山です。その中央の切れ目が赤2番の東山虎口です。

北方の東光寺ビョウ付近から2番の東山虎口を見る


2番の東山虎口

東山虎口の途中から北方を見たのが下の写真です。

2番の東山虎口から北方の印旛沼方面
はるか北方の丘の上に建っているビルは、順天堂大学のさくらキャンパスのようです。江戸時代末期に佐倉城主の堀田正睦が順天堂を佐倉に招致した事情と、現代の順天堂大学さくらキャンパスが本佐倉城の北方に位置していることとの間には、何らかの関連があるのかないのか。

上の写真で遠方の順天堂大学よりも手前、左右に連なる土手が見えます。この土手が京成線の線路です。戦国時代は、印旛沼がこの線路の付近まで広がっていたそうです。そして印旛沼は太平洋まで繋がっており、印旛浦を形成していました。印旛浦は水運が盛んであり、また敵は印旛浦を経由して攻めてくることもできます。本佐倉城は、印旛浦からの攻撃に備え、北側の防御を固めていたそうです。

東山虎口を抜けると、下の写真のような段々の地帯となります。「Ⅳ郭」と呼ばれています。説明書には「利用不明の郭」とあります。

Ⅳ郭方向
上の東山虎口は、厳重に守られていて侵入は難しくなっています。一方で、東山と城山の間の地帯、東山馬場からⅣ郭にかけては、何の防備も見当たりません。北方から侵入した敵は、東山虎口の固い守りを突破するのではなく、東山を時計回りに回って東山馬場からⅣ郭を突破することとすれば、苦もなく5番の大堀切まで到達できそうです。どうなっているのでしょうか。


5番の大堀切から6番の城山通路方向
5番の大堀切、6番の城山通路、7番の城山虎口、8番の城山門跡を経由して、城山まで到達します。

城山

下の写真は、城山から北方を見ています。左遠方が東山の東端で、中央、駐車場右の建物は国史跡本佐倉城跡案内所です。

城山から北方

さて、本佐倉城の来歴です。
本佐倉城跡は、今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小田原の北条側についていた千葉氏は滅亡し、本佐倉城はここから長い眠りにつきます。
そして現代、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているとのことです。

関東一円の戦国時代の城主で、北条側についていたために豊臣秀吉の小田原攻めの際に滅ぼされ、城も廃城となった、というお城を、私はもう一つ知っています。
世田谷区豪徳寺の南側に位置する世田谷城跡がそれです。世田谷城跡をご参照ください。

帰りは、城の北側の東山虎口を降り、徒歩で京成の大佐倉駅まで歩きました。京成本線を京成八幡で降り、そこから都営新宿線の本八幡駅まで歩き、都営新宿線で帰宅しました。
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佐倉城訪問

2024-04-14 17:35:26 | 趣味・読書
ブログ更新が滞っていました。3月は年度末で仕事が山積して繁忙期であったこと、健康上の理由、などが重なりました。

4月になって繁忙期も終了し、健康も回復しました。そこで4月13日火曜日、日本200名城めぐりを再開しました。
今回は、佐倉城(100名城)、本佐倉城(続100名城)を訪問しました。

まずは佐倉城です。東京から京成本線を利用し、京成佐倉駅で降ります。南口の駅近くに観光案内所があったので、そこに立ち寄りました。係の方がとても親切に説明してくださいました。
下の図は観光案内図です。上部中央が京成佐倉駅、そこから西へ地図の緑色ルートを進みました。地図の左上に国立歴史民俗博物館、その南西に佐倉城址公園です。

佐倉城址公園付近の地図


佐倉城址公園付近の地図

上の図で左上に国立歴史民俗博物館があります。まずはここのロビーで100名城のスタンプをゲットしました。
上の図で下(南)に下ると、馬出し空堀、そしてその南方に本丸跡を中心とした佐倉城址が広がっています。

佐倉城

下の写真は、馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物が見えます。馬出空堀の手前が、椎の木門跡のはずです。

馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物


椎の木門跡から本丸跡に向かう


佐倉城址出土の礎石


本丸跡

佐倉城は、現在の国立歴史民俗博物館を含む広い領域が外側を堀(水堀)で囲まれ、その内側については、随所に空堀が設けられて本丸地域を防御する構造になっているようです。

佐倉城は、江戸時代初期、家康の命で家康家臣の土井利勝が築城しました。
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を伺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
江戸時代末期には堀田氏が封ぜられました。
堀田正睦は、幕末に老中としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭し、鎖国から開国へと導きました。また、順天堂の開設に尽力し、順天堂は一時佐倉に位置していました。

タウンゼント・ハリス像           堀田正睦像


空堀


三の門跡付近の空堀

佐倉城址を一回りしたあと、われわれは東の方向に歩き、一番上の地図で朱色の経路を大手門までたどり、さらに東方に進んで、地図中央の麻賀多神社のそば、地図上9番のおそば屋さんに入りました。
房州屋本店です。京成佐倉駅前の観光案内所で、このおそば屋さんを紹介されたのです。小さな店ですが、入ってみると大勢の人が順番待ちしていました。結局、店に入ってから食事にありつけるまでに2時間ぐらい待ったでしょうか。皆さんじっと待っています。「長時間待ってでも食べたい」という強い意志を感じました。
われわれにも順番が回ってきました。下の写真の三味そばを注文しました。

房州屋の三味そば
食べてみると、とてもおいしいおそばでした。天ぷらそば、とろろそば、なめこそばの3つの味を楽しむことができます。おそらく、この店は味がおいしいこと有名で、お客さんが集まってくるのでしょう。

たっぷりのおそばで満腹になりました。
ここから本佐倉城までの移動は、「京成佐倉駅まで徒歩-一駅先の大佐倉駅まで電車-本佐倉城まで徒歩」という経路をたどることもできますが、もう疲労困憊です。京成佐倉駅前の観光案内所では、タクシーの頼み方も教わっていました。そこで電話で配車を依頼しました。タクシーはすぐに来ました。

以下次号
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パソコンの変遷とエヌビディア

2024-02-28 17:16:55 | サイエンス・パソコン
日経平均「バブル最高値超え」で4万5000円突破の現実味
2/24
日経平均株価がバブル最高値を超えました。
日本株価上昇の原動力は、アメリカの株価上昇だといいます。
そしてアメリカの株価上昇の原動力は、たった一つの会社の業績向上とそれに基づくその会社の株価上昇、時価総額の上昇だといいます。
そのたった一つの会社とは、半導体メーカーであるnVIDIA(エヌビディア)です。

エヌビディアは、AIに特化した半導体の独占的なメーカーであり、最近のAIの進歩に伴って業績が急速に伸びているといいます。

私は、エヌビディアの存在については、2007年頃から知っていました。
以前、パソコンのOSがWindows95に代わった以降、パソコンの拡張ボードにグラフィックボード(ビデオボード)が接続されているのが常でした。ウインドウズの高解像度の画面を制御するには、それ専用の半導体が必要とされ、グラフィックボードによってその機能を満たしていたのです。

1998年以降の私のパソコンについて、グラフィックボードの変遷をたどってみました。以下に、M/Bと書いたのはマザーボード、 CPUと書いたのはいわゆるCPU、そしてGPUと書いたのがグラフィックボードを意味します。GPUは「グラフィックスプロセッサーユニット」の略です。

1998年から2007年にかけては、グラフィックボードのメーカーとしては、Creative Labs、Diamond、Matrox、Canopus、NVIDIA、ASUSなどが入り乱れています。
2008~2013の時代、NVIDIAの一人勝ちになりました。
2013年以降は、CPUの性能が向上したのでしょう。グラフィックボードは搭載されないようになりました。

以上のように、2008~2013に私が所有していたパソコンにおいて、グラフィックボードはエヌビディアの一人勝ちである、というのが私の印象でした。よっぽど傑出した技術を保持していたのでしょう。

数年前、またエヌビディアの名前を聞きました。クルマの自動運転のニュースです。クルマの自動運転の開発において、エヌビディアのGPUに関する技術が役立っている、というニュースでした。パソコンのグラフィックスの技術を持っているのだから、それが理由だろうと納得していました。

それがこの1,2年、エヌビディアの技術がAIで役立っているというニュースに取って代わりました。
たった1社の業績によって、世界の株価が多大な影響を受けている、という事実には驚くばかりです。

以下に、私が所有していたパソコンの構成をリストアップします。
1998
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Graphics Blaster Exxtreme (Creative Labs)

1998
CPU AMD K6 232MHz
GPU Diamond Stealth 3D 2000Pro

1999
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Matrox Millennium G200 SD PCI

2007
M/B P3B-F
CPU Pentium III 1000MHz
GPU Canopus SPECTRA5400 Premium Edition

2007
M/B P4B533-V
CPU Pentium4 2542MHz
GPU MSI MS-StarForce GeForce4 MX 440/MX 440SE (NVIDIA GeForce4 MX 440/MX 440SE)
2007
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Pentium4 2542MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU Canopus SPECTRA Light G64

2007
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7300 GS

2007
M/B P5B
CPU Core2 Duo E6420
GPU GeForce 7300GS 256MB

2008
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7600 GS

2009
M/B P5Q PRO
CPU Core 2 Quad
GPU NVIDIA GeForce GTS 250

2011
M/B P8P67
CPU nVIDIA GeForce GTX 550 Ti
GPU

2013
M/B Inspiron 17R Turbo(7720)BTX
CPU Core i7-3630QM
GPU NVIDIA GeForce GT 650M GDDR 2GM

2013
M/B P8Z77-V
CPU Core i7-3770
GPU なし

2019
M/B ASRocK B360M
CPU Core i5-8400
GPU なし

2023
CPU Core i5-10500
GPU なし
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品川台場訪問

2024-02-24 20:36:07 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つきを購入し、小田原城と川越城を訪問した記録を以前アップしました。
さらに、続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つきという書籍が出ており、こちらも購入しました。
続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本100名城に引き続き、101~200番までの名城が紹介されています。

2月24日、124番「品川台場」を、訪問しました。
書籍では以下のように紹介されています。
『1853年のペリー艦隊来航を受けて、伊豆韮山代官江川英龍による品川台場の造営工事が開始された。約12基の台場が計画されたが、完成は6基のみで、一度も砲門が火を吹かぬまま明治を迎えた。
品川台場は純粋な軍事上の拠点であり、個々の台場内には砲台、玉置き場、玉薬置き場、兵舎など必要最低限の施設が設けられた。・・砲台には佐賀藩などで鋳造した洋式大砲が配備されていた。』
われわれが訪問するのは第三台場です。

ゆりかもめをお台場海浜公園駅で降り、海岸をぐるっと半周して第三台場に到着します。

第三台場遠景

途中、満開の花をつけた木々があります。川津桜のようでした。




海岸から、直接第三台場に接続しています。

第三台場近景

土手を上がると、第三台場の内部全体が見渡せます。第三台場は、四周が土塁で取り囲まれ、内部が凹地になっていました。

第三台場内部の全景


火薬庫跡?

凹地内に整然と置かれた礎石。ここに、勤番者の住居地として建物が建造されていたようです。

陣屋跡

第三台場から、近くにある第六台場を見ることができます。陸地とは連続しておらず、一般の立ち入りは禁止されています。

第六台場

昭和3年の公園の開園に伴い設置された大谷石製の八角形のかまどとあります。

かまど跡

台場から東京湾を望む方角に、土塁上に砲台が配置されています。昭和8年に復元されたものです。

砲台

第六台場の全景については、隣接するレインボーブリッジから見るのがベストなようです。今回、ゆりかもめがレインボーブリッジを通過したのですが、残念ながら車窓からは橋の構造物が邪魔をして撮影できませんでした。ウィキペディアの写真を拝借します。
福原邦展

帰り道、砂浜の金属を金属探知機で探している外人さんがおられました。たまたま、小さい女の子がおじさんに代わって探知機を操作していました。


続100名城のスタンプは、お台場海浜公園マリンハウス受付で押すことができました。
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川越城訪問

2024-02-18 15:39:27 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき」を購入し、お城めぐりとスタンプ集めを始めています。
先週は小田原城を訪問し、「小田原城訪問 2024-02-12」で記事にしました。

その1週間後、2月17日に川越城(ウィキ)を訪問しました。

下は、川越駅でもらったマップの一部です。

川越マップ

まず、タクシーで川越城本丸御殿に向かいました。
上記書籍では、川越城について以下のように説明しています。
『《主な遺構》本丸御殿、家老詰め所、富士見櫓跡、中ノ門堀跡、土塁
《見どころ》
川(河)越城は扇谷上杉氏の家宰太田道真・太田道灌父子が築城したことに始まる。江戸入府後、この城を重視した徳川家康は譜代の家臣を入城させた。
大改修が行われたのは松平信綱のときである。信綱は城域を拡大して近世城郭に変貌させるとともに、城下町を整備した。遺構は別記のように少ないが、城下町のたたずまいは今も残る。御殿近くの三芳野神社は童謡「とおりゃんせ」発祥の地と伝わる。』

下は、本丸御殿の中に展示してあった、川越城全図です。

川越城全図

現在、川越城の建物としては、本丸御殿のみが残存しています。上の川越城全図のうち、右隅あたりに位置しています。その本丸御殿も、江戸時代の全体のうち、下記「本丸御殿全図」の右下の一部(太線枠部分)のみが現存しています。

本丸御殿全図

現存しているその一部でも、正面から見ると、下写真のように立派な建物です。




本丸御殿玄関を入ったところに受付、そこに100名城のスタンプが置いてあったので、まずはスタンプです。




下の写真は、藩のご家老が、江戸湾警備についての相談をしている状況だそうです。

説明によると、江戸時代末期の川越藩は三浦半島に領地を持っていたため、相模の沿岸警備を命じられていました。ペリーが浦賀に来航すると、江戸湾周辺の警備が強化され、川越藩は新たに建造された品川台場に警備の変更を命じられた、と説明されています。

本丸御殿の直ぐ東に三芳野神社があります。

三芳野神社
説明によると、ここ三芳野神社は、わらべ唄「通りゃんせ」の舞台である、とあります。
三芳野神社は幕府直営で一般の参拝はできず、外宮が一般参拝可能でした。その外宮も城内(田曲輪)なので南大手門から城内に入り、怖い警護の侍が詰めている細道を外宮の門まで行かなければなりません。その様子を描いたのが「通りゃんせ」だ、ということです。
三芳野神社は菅原道真公をおまつりしているとあり、確かに天神さまです。
しかし、ネットで「通りゃんせ」を調べても、「川越の三芳野神社がルーツ」との説明はほとんどなされていません。少なくとも通説にはなっていないようです。

本丸御殿の北側には土塁と堀が築かれており、本丸と二の丸を隔てる北門が設けられていました。その土塁の一部が残っています(下写真)。

土塁

川越城の空堀の一部が、中ノ門堀跡として保存されています。

中ノ門堀跡


中ノ門堀跡

城内側の勾配は60°で、敵の行く手を阻んでいた、と説明されています。

中ノ門堀跡から西進して、川越市役所に至ると、太田道灌像が建っています。川越城の発祥が太田道真・太田道灌父子の時代であり、太田道灌は江戸城を作った人として有名です。

太田道灌像

川越の街の象徴といえば時の鐘です。

時の鐘
川越のパンフレットによると、
『江戸時代の寛永年間(1624~44)に、川越藩主、酒井忠勝によって建てられました。現存の鐘楼は、明治時代の川越大火の直後に再建されたもの。約390年もの間、時を刻み、今は1日4回(6時・正午・15時・18時)、由緒ある音をきくことができます。』とあります。

時の鐘

《蔵造りの町並み》
川越のパンフレットによると、
『川越の中心にあり、趣深い町並みが残ります。
江戸時代の初期の街割の上に、主として明治26年(1893)の大火後、耐火建築である「蔵造り」が採用され、今の町並みが出来上がりました。
現在も約20棟の蔵造りが軒を連ねます。』


大沢家住宅
『川越にある最古の蔵造り。寛政4年(1792)に豪商、近江屋半右衛門が呉服太物を商うための店舗として建てた商家です。』とあります。


川越まつり会館
川越まつりで曳かれる山車を展示しているとのことですが、今回は素通りしました。

蔵造りの家2軒の写真を下に掲載します。




蓮馨寺(れんけいじ)パス停でバスに乗り、川越駅-東武東上線の経路で帰途につきました。
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小田原城訪問

2024-02-12 13:37:28 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
上記書籍を購入しており、お城めぐりスタンプ集めを計画していました。2月11日、その初回として妻と小田原城を訪問しました。

新幹線で小田原駅に到着すると、小田原城正規登城ルートに従うべく、出発点に向かいました。

案内図

上の案内図は現在の地形です。小田原城の最盛期、どのような城郭だったのかがなかなか把握できません。以下を参照しました。

立体模型

小田原城全体図


学橋(まなびばし)


めがね橋と馬出門

めがね橋を渡って馬出門に至ると、いよいよ登城ルートの出発点です。
お堀の馬出門から天守閣までの間には、3つの枡形が形成されています。馬出門の枡形、銅門の枡形、そして常磐木門の枡形です。


馬出門枡形の内部

馬出門の枡形を抜け、馬屋曲輪を経て、住吉橋を渡り、手前の内仕切門を入ると銅門(あかがねもん)の枡形です。

住吉橋と銅門枡形入り口


銅門(枡形の中から)


銅門広場は梅が見頃でした。

銅門広場から二の丸広場を経由すると、最後のお堀(現在は花菖蒲園)を常磐木橋で渡り、常磐木門の枡形に至ります。

常磐木門(枡形の中から)

常磐木門を出たところが、本丸広場です。その北端に天守閣がそびえています。

天守閣


天守閣

天守閣に上り、360°の眺望を楽しみました。

天守閣から
天守閣からは、常磐木門枡形、銅門枡形、馬出門枡形を同じ方向に一望できます(上写真)。
写真の右端に見える巨木は、「天然記念物 ・小田原城跡本丸の巨松」と呼ばれる松のようです。


ゲットしたスタンプ

こうして、日本100名城スタンプ旅の第1回を終了しました。
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英国富士通の冤罪事件

2024-01-31 15:43:44 | 歴史・社会
富士通が関与している英国での冤罪事件について、このブログでも
英国郵便局での冤罪事件 2024-01-14で記事にしました。

日経新聞に記事が掲載されました。
富士通子会社、英郵便冤罪に加担 不具合隠し訴追手助け
2024年1月31日 日経新聞
『郵便局を舞台にした英国史上最大の冤罪(えんざい)事件を巡り、欠陥のある会計システムを納めた富士通側の責任が浮上している。富士通の英子会社は1999年の納入当初からシステムの不具合を把握しつつ、その事実を隠して郵便局長らの訴追に加担してきた。幹部らの証言で明らかになった。
「不具合があることは配備の当初からわかっていた」。富士通の執行役員で欧州地域の共同最高経営責任者(CEO)を務めるポール・パターソン氏は19日、ロンドンでの公聴会で証言した。「このような恐ろしい冤罪に加担したことを申し訳なく思う」と謝罪した。
99年から全英の郵便局で、窓口の現金がシステム上の残高よりも復亡くなる問題が頻発した。国有企業ポストオフィスは公訴権を使って局長らを次々に訴追。2015年までに700人以上が横領や不正経理の罪に問われた。
のちに残高の不一致は富士通の英子会社、富士通サービシーズが納入した会計システム「ホライゾン」の不具合が原因だと判明した。』
富士通サービシーズの本社には「不正・訴追支援室」が置かれ、支援室のメンバーらは郵便局長の訴追に使われると知りつつ、データを送り続けました。データの信頼性に疑いがあることは社内に認識されていましたが、正しく記載すべきとの意見は黙殺されました。パターソン氏は富士通サービシーズ(以下「英国富士通」と呼びます。)の情報隠蔽について「理由は分からない。恥ずべきことだ」と語りました。
『富士通は1981年、英国の国策コンピューター会社だったICLと技術提携した。日本の通産省(当時)を介して英政府から持ちかけられたICL立て直しの要請に応じた。これが事件に関わるきっかけとなった。
90年に株式の80%を取得、98年に完全子会社化。』
『買収後もICLの多くの役員が残り、富士通本体の統制が利きにくかった、とされる。』

少しずつ、今回の問題が新聞紙上で語られ始めました。しかし、まだ分からない部分は多々あります。
ホライゾンのデータの不具合について、英国富士通は認識していたとして、国営ポストオフィス社にも報告していたのか、それともポストオフィス社にはデータの不具合を一切隠していたのか。ポストオフィス社に隠していたとしたら、英国富士通の責任は極めて重大になるでしょう。
ポストオフィス社には正直に不具合を報告していたとしたら、それを無視して郵便局長を訴追し続けたポストオフィス社の責任は重大です。その場合、英国富士通の責任はどの程度か。日本での当たり前の対応であれば、ポストオフィス社が不具合を知った後も訴追し続けた点はポストオフィス社の罪であり、英国富士通は道義的責任を負う程度でしょう。
ただし、英国富士通に設置された「不正・訴追支援室」が、不正データと知りつつ送り続けていたのだとしたら、英国富士通の責任は道義的責任にとどまらないでしょう。

『富士通は1981年、英国の国策コンピューター会社だったICLと技術提携した。日本の通産省(当時)を介して英政府から持ちかけられたICL立て直しの要請に応じた。』
また通産省(経産省)ですか。
東芝は、アメリカのウェスチングハウス社買収が重荷になって潰れました。この買収にも、裏で通産省が動いていた、との噂があります。
通産省(経産省)は、日本の大企業にとってとんでもなくやっかいなことをしてくれますね。
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自衛隊ヘリコプターの実働機数

2024-01-30 15:36:30 | 歴史・社会
1月1日に発生した能登半島地震は、能登半島山間部および海岸部の集落を直撃しました。陸路は寸断され、港も隆起して海路も寸断されています。自衛隊の中型ヘリコプターを大量導入して、迅速な救援・復興活動が必要であると痛感しました。しかし、ヘリコプターの大量活用についてのニュースが流れません。

1月9日には『能登半島への災害派遣が遅れている! 2024-01-09』にて
『ニュースで現地からの報道をしょっちゅう見るのですが、不思議なことに、ヘリコプターの爆音が聞こえてきません。上記のようなヘリの活動が最大限行われているのであれば、上空には間断なくヘリの爆音が響いているはずです。これだけヘリの爆音が聞こえていないということは、実はヘリの投入が非常に少ないのではないか・・・と勘ぐっていました。』
としました。

1月19日には『自衛隊のヘリコプターは実働何機が救難活動中か 2024-01-17』にて
『その後、自衛隊のヘリコプターが、機種ごとに、どの程度災害復旧活動に投入されているのか、定量的なデータにお目に掛かることがありません。
自衛隊の調達数において、UH-60 ブラックホークを合計で140機弱、UH-1を130機とあります。CH-47 チヌークの保有機数は65機のようです。いずれもウィキペディアから。
機種ごとに、現在の保有機数は何機で、そのうちの何機が震災復旧活動に従事しているのか、そこが知りたいです。』
としました。

最近になって、防衛省の『令和6年能登半島地震への対応|主な活動状況等一覧』を見つけました。活動状況が日報になっており、ヘリコプターの機種ごとに、その日の機数と活動内容が記されています。そこで、この日報の記載から、日々のヘリコプターの機種別活動機数を拾ってみることにしました。
(延べ機数、UH-60はSH-60を含む)
      UH-1 UH-60 CH-47 航空機計
1月2日   5   1    2    
1月3日   0   3    1    22
1月4日   1   3    0    33
1月5日   2   5    1    30
1月6日   2   11   9     30
1月7日   6    3   1    30
1月8日   0    2   0    40
1月9日   1    4   2    40
1月10日  6    3   5     
1月11日  5    2   3     
○ 11日(木)以降、孤立地域からの被災者の二次避難に係る輸送支援を推進
1月12日  1    0   0     
1月13日  3    1   0     
1月14日  0    0   0     
1月15日  1    2   0     
1月16日  0    3   1     
1月17日  0    0   0     
〇 17日(水)、在日米軍の航空機が被災者支援物資の輸送を実施。
1月18日  5    0   2    
1月19日  1    2   0     
〇 回転翼機による孤立地域からの希望者の輸送は終了
1月20日  0    0   3     
〇 孤立集落の実質的解消に伴い、回転翼機による孤立地域からの希望者の輸送は終了
在日米軍の航空機(UH-60)が被災者支援物資を能登空港まで輸送。
1月21日  0    0   0     
1月22日  0    0   0     
1月23日  0    0   1     
1月24日  0    0   0     
1月25日  0    0   0     
1月26日  0    0   0     
1月27日  0    0   0     
1月28日  0    0   0     
1月29日  0    0   0     

陸海空自衛隊は、合計で機種ごとに60~100機を運用していると思われますが、それにしては能登半島での活動機数が少なすぎるように思います。何が機数の増加を阻んでいるのか、そこは未だにわかりません。

在日米軍の航空機(UH-60)が活動した1月20日前後も、自衛隊の実働機数は極めてわずかです。なぜ在日米軍の支援が必要になったのでしょうか。

UH-60 ブラックホーク

UH-1

後方の安全地帯から能登半島の中核拠点までは、CH-47 チヌークで大量輸送が可能です。
CH-47 チヌーク
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JAL機はなぜ全損したのか

2024-01-29 15:47:04 | 歴史・社会
消火栓が使えれば 輪島の火災、なぜ拡大 元消防団員「初期消火で消せたはず」 能登地震
2024年1月25日 朝日新聞
『能登半島地震に伴う大規模火災で、地元の海産物や野菜が並ぶ観光名所「輪島朝市」(石川県輪島市)は壊滅状態となった。なぜ炎は燃え広がったのか。消防団員らの証言からたどった。』
『消火栓が使えていれば』
『元消防団員「初期消火で消せたはず」』
あの大地震と大津波の直後でしたが、消防団員は現場に駆けつけ、消火に励んでいたのですね。ただし消火栓が使えず、あれだけの大火事になってしまいました。

私は、1月1日の輪島における大火事と同様、1月2日の羽田空港事故におけるJAL機の火災が気になりました。
衝突の日航機、全損事故は初 専門家、複合材の性能「検証を」
2024年1月13日 16時49分 (共同通信)
全損したJAL機の写真
『羽田空港で海上保安庁と日航の航空機が衝突、炎上した事故で、日航の機体は欧州航空機大手エアバスの最新鋭機A350―900型だった。軽量化で燃費向上を図るため、炭素繊維と樹脂を組み合わせた複合材料を多く使っているのが特徴で、エアバスによると、A350の全損事故は初めて。専門家は炭素繊維複合材の性能について検証し、安全性向上に生かすべきだとしている。』

私は、羽田航空機事故経緯 2024-01-07に書いたように、事故の直後から、JAL機が燃える状況をリアルタイムでテレビで見ていました。事故発生(17時47分頃)から30分後あたりからずっとです。JAL機の左側です。その当初は、火が出ているものの左エンジン付近でちょろちょろ、右側については良く分かりませんが右翼付近に火が出て切るようでした。いずれにしろ、胴体からは火が出ていません。そのうち、後部付近の窓二つが赤く染まり、人力の放水がその窓めがけてなされるようになりました。
機内からの人命救助に奔走しているような人は見当たりません。機内の全員が脱出したことを、消防も把握していたはずです。しかし消火活動は、極めておとなしい、遠慮がち、に行われていました。機体の側面の多数の窓のうち、後方の二つが赤く染まったら、消防士が手持ちのホースでその窓に放水する、といった程度です。機体の近くには消防車も配置されています。機体の上部から煙が立ち上ると、その煙の部分のみをめがけて消防車からの消化剤散布がなされます。煙はすぐにおさまり、その後はその消防車は消化剤を散布せずに火災を傍観しています。

そうこうするうちに機体の全体に火が回り、最終的に機体は完全に燃え落ちました。

消防車による消化剤散布活動は、何であんなに遠慮がちだったのだろうか。とても不思議でした。
そしてその結果として、機体は全損です。主翼の両端のみが燃えずに残りました。

今回の機体の全損は、消火活動が消極的、遠慮がちであったことが原因と思います。上記ニュースでは、『エアバスによると、A350の全損事故は初めて』とし、全損の理由が機体の材質にある、との推測です。『消火活動が消極的であったため』との推論は全くなされていません。一体どうなっているのでしょうか。
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