おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

小説・エッセー。編著書100余冊、歴史小説『命燃ゆー養珠院お万の方と家康公』(幻冬舎ルネッサンス)好評!重版書店販売。

小説「命燃ゆ」を講談に!

2015-08-24 08:21:44 | 小説
 知人に勧められて小説を講談用にまとめましたので、あとは文体を工夫して仕上げてもらいます 

講談 養珠院お万の方 あらすじ

「徳川御三家」と言えば泣く子も黙る尾張と紀州と水戸藩でありまする。この紀州家と水戸家の藩祖は、房総正木家の息女お万さまのお子さまであります。
映画やテレビで「この紋所が目に入らぬか!」と、葵の紋の印籠(いんろう)を掲げるのは、水戸黄門様の付け人の助さん、格さんのお役目ですが、この黄門さまは、じつは房総勝浦城の領主正木家の御息女お万さまのお孫の一人なのです。

お万さまは、天正5年春の4月に勝浦城で産声をあげられました。幼い時から利発で可愛いので城中の者たちの人気者で御座いました。ところが、3歳の時のことであります。にわかにご城内が騒がしくなり、お万さまはお母上に背負われて落ち延びるのであります。これは、今でも土地の人々に語り継がれる「お万布さらし」の話であります。
またこんな歌も御座います。
三つとせぇ
身の毛もよだつ絶壁を
布をさらしてお母様
背負うて城を抜け出だす

これは、大多喜城の正木大膳亮憲時(まさきたいぜんのりとき)が安房上総を自分の領地にしようと兵を挙げたこの争いは、お万さまのお父上の正木頼忠(よりただ)と、安房の里見氏によって無事に治められたのですが、幼いお万さまには、いかほどに怖いことでありましょうか、後々までこの世の平和を願い、各地にお寺を寄進された理由は、この幼心からで御座いましょう。

お万様は、戦国の世のならいで戦火を逃れ、苦労に苦労を重ねられますが、三島の宿で徳川家康公に見初められて、めでたく大奥に入ります。何しろ近郷近在に誰知らぬ者のいない器量よしで働き者で御座います。
それは、徳川家の記録には、このように書かれております。
「背丈高くして、器量よく、博学多識にして、文筆を良くし、謡曲音楽を好み、薙刀(なぎなた)は達人の域にあり、仏教を研鑽して信心深く、じつに優れたる大賢婦なり」とあります。
まぁ言ってみれば、マリリンモンロウとブリジットバルドウとオードリィヘップバーンを足して、壇密を掛けても余りある才色兼備の女性でありました。
何しろ土地の者たちは
「お万髪の毛 七尋八尋(ななひろやひろ) 
三つつなげば 江戸までとどく」
とまで歌われております。それほどの評判の美女でありましたから権勢並ぶもののない家康公も一目ぼれであったのです。家康公51歳、お万さま18歳の時に御座いますが、家康公には正室が長い間おりませんから若いお万さまを「万よ、万よ」と可愛がられたのです。
仲人を務めた人物は、韮山(にらやま)の代官として名高い第28代江川太郎左衛門英長さまです。
この江川家は、大御所の覚え目出度く、江戸時代の2百数十年にわたって代々韮山の代官の地位にありましたが、こういう例はほかにはないのです。
みなさんは「韮山の反射炉」が世界文化遺産に推薦されたことをご存知でしょう。あれも幕末の江川代官家の大事業で、第36代目の英龍(えいりゅう・ひでたつ)様と37代目の英敏(ひでとし)様によってなされたのです。
ところで、なかなか子宝に恵まれないお万の方は、家康公のお許しを得て子宝の湯として有名な伊豆の吉奈の湯に出向きました。ここはお万さまがお母上と弟と娘時代に暮らした思い出の地であります。この温泉でゆっくりとして、近くの善名寺(ぜんみょうじ)に「どうか、子宝に恵まれますように」と、朝に夕べにお祈りして、家康公のおられる伏見城に帰られたのです。
天城小唄には、こう歌われております。
「所かわれば吉奈にござれ
 吉奈子宝 湯の香り
 さっても昔のお坊様
 ここに杖突き お湯が出て
 お湯が出たのでお万さま
 来ればめでたや 子が出来て」

関ヶ原や大阪の陣の戦いが終わると、この日本は戦国乱世の世から世界にも稀な平和な国になりましたが、その礎を築いたのは、大御所家康公と、信仰心の厚い側室お万の方に御座います。
家康公も落ち着いてお万さまと伏見城で仲睦まじくお暮しになられましたので、2年続けてお万さまはご懐妊なされ、男のお子さま「長福丸」君と「鶴千代」君の二人をもうけられたのであります。これは、側室にとっては大手柄のことで、ますます大御所様のご寵愛を独り占めに致しました。
世界の王侯貴族は、多くの女性を抱えておりましたが、その理由の一つには子孫を絶やさないためと言うことがありましたから続けて二人のお世継ぎを出生なされたお万さまは、大奥に並ぶもののない存在となりました。
大御所様は、すでに60歳にもなられていて、急に二人もの男の子を授かりましたからそれはそれは大変なお喜びようで御座いました。お忙しいのにもかかわらず朝に夕べにお子さまのご様子をのぞきに来ました。それはもうおじい様と孫のような年齢の差ですからこれを「孫かわいがり」と言うのでしょうか。
「おお、よしよし。笑いおった」
「兄の方は、白い歯が出て来たではないか」
「乳は足りておるかのう」
「風邪をひかすではないぞ」
などと、毎日うるさいぐらいのです。
侍女たちは「大御所様の子煩悩にもお困り申しまする」などと陰口をきいているほどでした。

江戸から駿府城に移られて、お子様もお元気な日々でしたが、一大事が起こったのであります。
それは、お万さまが若いころより帰依なさっておられる身延山久遠寺のご住職日遠上人が大御所様のお怒りに触れてしまったのです。
徳川家の信仰する芝増上寺の浄土宗のお坊様と、お万さまの信仰する日蓮宗のお坊様とが宗派論争を江戸城で行ったのであります。その時、日蓮宗の主張が負けたので、身延山の日遠上人がもう1度論争をさせてほしいと申し出たのです。大御所様は「もう宗派の論争はやめることじゃ」と前もって言い渡してあったので激怒なされて、日遠上人を安倍川の河原で打ち首にすることを命じたのであります。
愛するお万さまが、いくら取り成しても大御所様のお怒りは解けずに処刑の日が近づきました。
お万さまは、白装束を2着、心を籠めて手縫いをして、1着を身延山の日遠上人にお届けなされ、処刑の日を待っておりました。
とうとうその日がまいりました。お万さまは、白装束を身につけて朝早くに大御所様のお部屋にうかがいました。
「何じゃ、お万よ、こんな早朝に?」
と大御所様が振り返ると、白装束のお万さまが、額を床に擦り付けて
「今朝は今生のお別れに参りました。わが子、二人の行く末をよろしゅうお願い致しまする」
と、きっぱりと申しました。
「ううむ、そちは、そこまで信仰が厚いのでじゃな。困ったことよのう」
大御所様は絶句なされて静かに目をつむられていたそうに御座りまする。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
お万さまは、早駕籠で処刑場の安倍川を目指した。日遠上人と共にお命を絶とうと言う思いが募るばかりであった。
今にも上人様が磔柱に縛られようとした時であった。
ドッ、ドッ、ドッ、ド、ド、ド、早馬が駆けつけて来て
「上意、上意、処刑を待たれよ!」
と言う大声がした。
竹矢来の外でお題目を唱えていた多くの人々は、その声の方を見た。駿府城の御家老様が、馬上から降りて来られて申し伝えた。
「大御所様のご上意であるぞ。日遠上人の処刑はなきものとする」
そこへお万さまもお着きになって、日遠上人に申された。
「宜しゅう御座りまするか、ご上人様、しばらくは伊豆の下田の乗安寺にてご静養下され。このお駕籠をお使い下されば、今日中にはお着きになられると存じまする」
今でもこの時のお駕籠は乗安寺に置かれているので河津桜の花時にお寄り下されよ。
このお万の方のお話は、口から口へと伝えられて、ついには京の都の後陽成天皇のお耳にまでも達したので、帝はとても感激なされて「南無妙法蓮華経」と書かれた大きな書と、直筆の御書状を賜われたのでありまする。

慶長14年、お万さまは、かねてより念願の菩提寺を身延山の麓の大野に建立し、「大野山本遠寺」と名付け、ここに日遠上人を後にお迎えします。
日蓮聖人の「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」にならい、ご自分もこの地にお墓を考えたのでありまする。
元和2年4月17日家康公は駿府城にてご逝去なさり、「東照大権現」として久能山に埋葬されまする。後に日光東照宮が造営されて、ますます家康公の御遺徳は世に広まりまする。
お万の方は感応寺にて受戒剃髪をなさり「養珠院」と称しまするが、当時の女人貴族は、連れ合いの逝去にともない院号をいただくのが常でありました。
寛永17年、家康公の25回忌を本遠寺にて行い、崇敬なさる七面大天女の祀られる七面山に周囲の反対を押し切り登山を致します。女人禁制の修験道の1400メートル余りのきついお山でありまするが、養珠夫人の御威光にてそれ以後は女人も登れるようになりまする。日蓮聖人の教えには、男女の差別はないと言うかねてからの思いを実行なされたのでありまする。
晩年の養珠院さまは、江戸の紀州家屋敷にお暮しになられ、水戸家の孫の光坊(のちの徳川光圀)などに囲まれ、文筆と読経三昧の生活をしておりましたが,承応2年8月21日、御長男の紀州家藩祖頼宜(よりのぶ)公、次男の水戸家藩祖頼房(よりふさ)公などに看取られてご逝去なされまする。享年77歳、波乱万丈の清廉潔白の生涯でありまする。
その間、身延山久遠寺や小湊誕生寺、さらに八日市場飯高寺など全国各地の寺院数百か所への喜捨と三島玉沢の妙法華寺を初めとする多くの寺院の建立に浄財を献じ、さらに世の弱者へのいたわりの救済は数を知れず、人々から惜しまれて永遠の眠りに就かれたのであります。
「養珠院妙紹日心大姉」の御戒名は大野山本遠寺の小高い墓地の石碑に今も刻まれて参詣の人を静かに見守っておられまする。
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※本遠寺=ほんのんじ 養珠院=ようじゅいん 久遠寺=くおんじ 七面山=しちめんざん
 修験道=しゅげんどう 日遠上人=にちおんしょうにん 駿府城=すんぷじょう 
飯高寺=はんこうじ 吉奈=よしな

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2015-08-24 08:17:12 | 小説

硫黄島の悲劇ー果たして戦死者は英霊か?

2015-08-16 19:17:46 | エッセー
 テレビの4チャン「みやねや」で現地からの放送があった。そこへ元防衛大臣が出演して「英霊の抵抗のお蔭で米軍は本土上陸をあきらめた」と言うようなことを発言していた。
 こういう見方もあるのだな、と思ったが、それは自衛隊出身の政治家の見方であって、私などは、無駄な犠牲を強いた権力者の視点であると考える。
 それにしても無力な国民は、陸軍などの権力の前には、まったく手も足も出ないのだ。
 今、国会で論議されている集団的自衛権についてもそれは権力者の都合でどうにでもなるにちがいないのだ。多数の陣笠議員の賛成で悪法も通れば国民を縛るのである。それは政権の思うつぼであるから野党側は少数ではあるが粘り強く論議を続けてほしい。国民もそうは甘くないので次の選挙では陣笠議員のほとんどを落選させるに違いない、と私は期待している。
 公明党も創価学会員の心ある人たちの声を聞かないと安倍政権の補完勢力にさらに落ちてしまうので、次の選挙では大敗するであろう。
 70年談話を政府が安倍主導で出したが、その内容は「戦後レジュームからの脱却」を主張していた首相の言とは思えないオブラートにくるんだ毒薬だったから世の識者と中国・韓国は、眉唾の長広舌にあきれているのである。
 女性を大事にする発言も慰安婦問題を避けて通ろうとしたものだが、靖国参拝は現職大臣は女性3人だけが大臣ではのこのこと出かけている。これは、安倍の意向をくんでのことであろう。これに女性の党総務部長が加われば、この人物たちが、与えられた役職にしがみついている無様さだけが国民には見えてくるのである。
 もう国民はだまされないであろう!

敗戦日を詠む

2015-08-15 10:53:18 | 俳句
 敗戦日 ぽろぽろ 手足もげて逝く
松の樹脂 採れば たらりと敗戦日
雑音放送 村の子どもの脳天に(玉音放送)
洗脳の軍歌ひたすら 疑わず
沖よりの怒涛に向かうサーファーよ
 君らも僕も特攻ならず

子ども心の戦争体験6ー予科練の映画

2015-08-11 18:18:38 | エッセー
 ある時、露天の映画会に茨城県霞ケ浦の予科練の練習の様子が上映された。早朝の起床から始まって就寝するまでの厳しい鍛錬の様子だが、わたしのような意気地なしにはとても出来そうもない指導内容であった。とくに高い飛び込み台からプールに飛び込む様子や、泳げない者にロープをつけて訓練するなどと言う恐ろしい特訓は、思い出しても身震いする。わたしは、もう数年経ったらこういう訓練を受けるのかと思うと、恐怖心に襲われるのであった。
しかも映像に重ねて「若鷲の歌」が流されていて、鍛えられた青年兵の制服の格好良さには、憧れを通り越して畏敬するのみであった。
若鷲の歌」作詞:西條八十  作曲:古関裕而
1 若い血潮の 予科練の  七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ  でかい希望の 雲が湧く
2  燃える元気な 予科練の  腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて  行くぞ敵陣 なぐり込み
3  仰ぐ先輩 予科練の  手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神  大和魂にゃ 敵はない
4  生命惜しまぬ 予科練の  意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を  母へ写真で 送りたい


こうして、ラジオ放送と映画で若者たちを洗脳して、戦場へと駆り出す体制を作って行ったのであろう。

子ども心の戦争体験5-シベリア帰りのリーダー

2015-08-10 18:44:46 | エッセー
ニイヤの葬式―おばぁさんのつぶやき>―シベリア帰りのリーダーの共同作業
太郎の家の1軒隣の自作農のニイヤには、お嫁をもらった長男タダタカさんと、未婚のおじい(弟)が2人いた。太郎の3歳下の遊び仲間のとし君は、その家の子どもで、太郎の妹の早苗と同年の遊び友達である。
田植え時分のある日、二人はニイヤの庭で仲良く遊んでいて、庭の小さな池に落ちた。とし君は、あわてて前の田で働いている女中のオサキさんを大声で呼んだので妹の早苗は助かった。
戦争が激しくなると、ニイヤの三人の男たちは、若い順に出征して行った。小さな集落だが、働き盛りの青年たちには、次から次へと徴兵令場が送られて来て、家族や近所の者たちに見送られて、上総牛久駅から出征したので農業作業をやるのは、老人と女性たちだけになってしまった。
ある夜のことだが、わが家に遊びに来たナカゴウのこうぞう兄ちゃんが、
「おれもそろそろ徴兵されるけども戦場で死にたくねぇよ。いくらお国のための名誉の戦死だって褒められても死んでしまえば終わりがからよ。」と、泣きべそ顔で母に話したのを幼い太郎は今でも覚えている。
 ナカゴウの兄ちゃんは、とうとう復員して来なかったが、どこでどう言う戦死をしたかも分からないままに封筒に髪の毛の入った物だけが送られて来た。それで簡素な葬式を行った。
 ニイヤの三人の兄弟は、その後どうなったかは分からなかったが、一番下のおじいには戦死の通知が届けられた。しばらくすると二人目のおじいは、重い病気になって家に帰され、しばらく患っていたが亡くなった。
 集落では、小作人と自作農の家は「向こんでぇ(向こうの台)」の共同墓地に埋葬するのが通例で、高台に屋敷を構える三軒の地主だけは、それぞれ自前の墓地を持っていた。
 ニイヤのお婆さんは、葬列が向こんでぇの山坂を登っていくのを庭先で見送っていたが、
「みんないねぇなってしまった。」
と、ぽつんと呟いたのを太郎は、お婆さんの隣で聞いて辛かった。
 まだ、とし君のお父さんは、どこにいるのか、生きているのか、死んでしまったのかも分からなかったのだが、おばぁさんは、亡くなってしまったと思いこんでいるのだろう。坊さんを先頭にした葬列が遺体を戸板のような物に乗せて、曲がりくねった急な山坂をゆっくりと登って行くのを太郎は今でもありありと思い出す。それは、子ども心にもじつに悲しく寂しいい情景であった。
 葬儀が終わって一年ぐらいがたったある日、ニイヤのただたかさんが帰って来ると言う手紙が届いた。狭い集落だからその日のうちにその朗報は全戸に伝わった。何でも遠いソヴィエトのシベリアに抑留されていると言う。これは、疲弊している集落にとって喜びであった。旧制中学校を出ているニイヤのおとっつぁんは、集落の唯一のリーダーである。その人材が帰還するのである。
 復員して来て数ケ月がたった。
 集会所の行屋に集まった男たちにシベリア帰りのニイヤのおとっつぁんから提案が出された。
「若い衆もいないこの集落が農業で生きていくには、今まで以上に助け合いが必要だ。まず取り掛かりは向こんでぇに行く急な山道を共同作業で広く緩やかにすることだ。そうすればみんなも苦労しないで畑に行けるし、作物の運搬も楽に出来る。」
 集落の者たちは、だが、因習と長いものには巻かれる習性を持つ小作人たちだから渋々と同意したが、今までそんな大工事をしたことがないのだから本心では困っていた。
「シベリア帰りは、アカだから共同作業を言うのだっぺ。だけども自分のうちの畑はほとんど削らねぇで、おれたちの土地はだいぶ削られる。」などと、図面を広げてぶつぶつと文句を言い合っていた。
 それでも秋のおわりの農閑期になると、共同作業は始められた。急峻な坂道を避けて、迂回する道路を造成するので難工事だったが、田植えの農繁期には、何とか出来上がった。
 この山坂には、集落の者たちはとても苦労していた。農家は、便所の下肥(しもごえ)を田畑の肥料として撒布して有機肥料としていた。集落で最も広い耕地は、向こんでぇにあるから下肥を桶に汲んで担ぎ上げる。「たんご」と言う天秤棒の前と後ろに下げた木の桶が液体の運搬には使われていて、バランスをとって担ぐので、かなりの力がいる。あまりもの急な坂でうっかり足をすべらすと、転倒してまともに下肥を頭から浴びてしまう。毎年のようにそう言う失敗が繰り返されていた。
 この坂が広くて緩やかな勾配になったので集落の者たちは結果的には助かったのである。ニイヤのシベリア帰りのおとっつぁんは、共産主義者でもなく、ただ農地の改良に目覚めて帰国してきた人物であった。おそらく厳しいシベリアの未開の地を捕虜として頑張った良心的な日本兵であったのであろう。
 ニイヤのお婆さんも諦めていた長男が帰国したので、だいぶ明るさを取り戻したようだった。
 後に義兄となる久男兄もシベリア抑留から帰国してきて村役場に勤めたのであった。ただ駐在所の警官はシベリア帰りの人たちの身辺を探っていたようであったが、それは戦時中の習性からか、中央からの指令かは子どもには分からないのであった。
 その頃、国民の多くが欠かさずに聞いたラジオ放送は、日曜日午後の「のど自慢」であった。太郎が寝転がって放送を聞いていると、知らない歌が歌われて、合格の鐘が三つ鳴った。その合格者の話を聞くと、何とシベリアの抑留者は帰国を願って、厳しい労働の合間にはよく歌っていたと言う。その望郷の思いに太郎も感動したのであった。この歌は、瞬く間に日本全国で歌われるようになり、その歌詞は誰もが覚えたのである。
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☆「異国の丘」(NHKのど自慢で)
増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。唄:竹山逸郎/中村耕造
1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る
2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る
3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで
※1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。原題は『昨日も今日も』である。
シベリアから帰還した兵士の一人中村耕造が『NHKのど自慢』に出て歌ったことから有名となった

子ども心の戦争体験その4 お国のために死んでもらう

2015-08-09 14:42:04 | エッセー
☆特攻隊入隊の挨拶―「お国のために死んでもらう」
 太郎の祖父は、ふた山越えた長生郡西村佐坪から婿入りして来た。昔は車もバスもないから山道を馬か徒歩で行き来したので、約2時間ぐらいかかった。
 太郎が家で留守をしていたら祖父の兄が馬に乗り、軍服を凛々しく来た立派な若者を連れてやって来た。電話もない時代なので突然現れたように感じたので、ちょっとあわてた。
この小柄な祖父の兄は、鼻下に白いひげを生やしていて、修験道の祈祷師として近郷近在では有名だった。何でも富士山と出羽三山には、合計百回以上登っているので神通力があると思われていて難病にかかるかなりの遠方からも依頼があった。山奥の村々には、病院や診療所はほとんどなかったから難病にかかると招かれてる。わが家でも母が長く寝込んだ時には祈祷してもらったことがある。山村では、富山の行商の置き薬や漢方薬を飲むか、祈祷するかしかなかった。
母の枕元には山の奇妙な顔の仙人(蜂子の皇子?)の絵が掲げられ、簡単な祭壇が設けられた。祈祷師(行者)の隣には「より人」と呼ばれる隣集落のお婆さんが座る。太郎はその様子を隣の部屋から眺めていた。行者は数珠をまさぐりながら呪文を唱えている。「六根清浄~あぶらうんけん、そわか」という文句だけは聞き取れたが、それ以外の呪文は全く分からなかった。ただ、いつもは物静かなより人のお婆さんが、そのうちにふてぶてしい言葉遣いをし出して祈祷師とやり合いだしたのにはちょっとびっくりした。
「おれ様はな、この辺りでは知らねぇ者のいねぇ狐様だぞ!この病人にはよ、この間牛久の駅前にいたからついて来ただぞ。駅前には大きな犬がいたのでおっかなかったけどもよ。」
「お前は、よく悪さをする狐か?早く退散しねぇといてぇ目に合わせるからな。」
「何を、このもうろく爺がおれ様をやっつけられるもんかよ。おれ様を誰だと思っているだい。」
 こんなやり取りが、しばらくあって、祈祷師は宣言した。
「それでは、おまえを竹筒に封じ込めて火あぶりにするから覚悟しろ!」
「ふん、出来るもんならやってもらおうじゃねぇかよ。」
 いつもは物静かなおばぁさんが、啖呵を切ったのである。
行者は、竹山から孟宗竹の太いのを切って来させて、その一節を祭壇に供え、呪文を唱えていると、より人は徐々に静かになって行き、終いにはその場に倒れてしまった。
「やっと狐を封じ込めたから庭で火を燃やして竹を焼いてしまいなさい。古狐でしぶとかったが、もう大丈夫だ。病人は二、三日で起きられるようになるよ。」
 と言うと、お茶をうまそうに飲んで、より人と世間話をしながら帰って行った。

 この祈祷師のお爺さんが、息子さんを我が家に別れの挨拶に連れて来たので、太郎はあわてて田畑をまわって家の者を呼び集めた。
「特攻隊に志願して合格したので、お国のために立派に死んでもらうのだ」
祈祷師のお爺さんが、誇らしげに言ったので、わたしは驚いてしまった。わが子を平然と至極当たり前のように「死んでもらう!」と言うとは、子どもの太郎には考えられないのだった。
その年の夏に戦争は多くの犠牲者を出して終わった。戦乱の後は、祖父は実家との親戚づきあいもなくなり、祭りの時の行き来もなくなった。
特攻隊に行った青年は、無事に帰って来たのかどうか、敗戦の混乱の中では分からなかったが、噂によると、生きて帰って来て警官になったと言う話は聞いて少しほっとしたのである。
歳月がたち、新聞の警官異動の記事を見ていると、大きな町の警察署長に熊切某と言う名前があったので、太郎は「お国のために死んでもらう」と言う祈祷師の人命軽視の言葉を思い出した。
月に1度ぐらい巡回して来る映画会で、日本軍がジャングルの中を命がけで行軍する光景を目にした太郎は、そこで歌われている物悲しい軍歌を今も忘れられない。攻撃や疲労で倒れた兵士は、そのまま湿地の水の流れに置き去りにされるのであった。

 海ゆかば
海(うみ)行(ゆ)かば 水(み)漬(づ)く屍(かばね)  山(やま)行(ゆ)かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね)
大(おお)君(きみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ かへりみはせじ(長閑(のど)には死(し)なじ)

 忠君愛国の生命軽視の教えが、特攻隊の精神には物悲しくも包み込まれていて、当時の青年をマインドコントロールで戦場へ駆り出したのであろう。

子ども心に映った戦争体験3-隣の庄作さんを送る

2015-08-08 12:47:02 | エッセー
☆隣家の庄作さんの出征
 太郎が生まれて初めて歌ったのは、「勝って来るぞと勇ましく、ちかって国を出たからは~」でした。それも途中からは「れろれろれろ~」という意味不明瞭な幼児語でした。
 母は、その歌を2~3歳の太郎にうたわせては、お客を喜ばすのです。きっと長男の成長が得意で歌わせたのでしょう。それにしても幼い子が覚えてしまうほどにこの歌は周りで歌われていたのでしょう。もしかすると、ラジオで一日中放送されていたのかもしれません。この歌は国民のマインドコントロールにとても向いていますから。
 隣家の庄作さんが、二十歳を過ぎたので出征することになりました。
 手作りの日の丸の小旗を手に持って、集落の人たちは、駅まで見送りに行きました。2~3本ののぼり旗には「祝出征 関氏庄作君」と書かれています。小さな集落の十数人のさびしい行列でした。
 先頭には、軍服に身を固めた庄作さんが、「武運長久」と筆で大きく書かれたタスキを肩からかけていました。野良道を4キロほど歩いて行きましたが、道々では「勝って来るぞと勇ましく~」の歌を声を合わせて歌います。14戸の小さな集落ですからあまり気勢は上がりません。ほかの集落の行列は大勢で見送りに来ていますから気勢がありましたから太郎は悲しくなりました。
小湊鉄道の上総牛久の駅に着くと、庄作さんは
「本日は、送って下さりありがとうございました。必ずやお国のために頑張ってまいります」
と堂々と挨拶されたので、太郎はびっくりしました。それは、いつもの田畑を耕す温厚な隣の家の青年とは思えない堂々としたものだったからです。
「庄作君の武運長久を祈り、万歳三唱をいたします。」
 集落のリーダーの音頭で両手を高く上げて、ほかのグループに負けない大声で、万歳を三唱しました。太郎もちょっと恥ずかしかったのですが、大きな声で「ばんざい!」と叫びました。
 その後、庄作さんがどこに配属されたかは家族も教えられないままに戦争は終わりました。出征した人たちの生死は、分からないままでした。
 数日がたつと、電報が届き、庄作さんが帰って来るしらせが届きましたから近所の人たちもみんな喜びました。
「九十九里海岸で敵の上陸を防ぐために毎日防空壕を掘っていたよ。勝ち目のない戦争だったね。」
 庄作さんは、集落のみなさんにこう話して、目をしょぼしょぼさせていました。
 太郎が小学四~五年生ぐらいの時のことでした。

露営の歌 作詞:藪内喜一郎 作曲:古関裕而
1  勝って来るぞと 勇ましく誓って 国を 出たからにゃ 
  手柄たてずに 死なりょうか
  進軍ラッパ聞く度に まぶたに浮かぶ 旗の波
2 土も草木も火と燃える 果てなき曠野 踏み分けて
  進む日の丸 鉄兜
  馬のたてがみ なでながら 明日の命を 誰か知る
3 弾丸(たま)も タンクも 銃剣も
  しばし 露営の 草枕
 夢に出てきた 父上に 死んで 還れと 励まされ
 覚めて睨むは 敵の空
4 思えば 今日の 戦いに 朱(あけ)に 染まって
 にっこりと 笑って死んだ 戦友が
 天皇陛下万歳と 残した 声が 忘らりょうか
5 戦争(いくさ)する身は かねてから 
 捨てる 覚悟で いるものを
 鳴いてくれるな 草の虫
 東洋平和の ためならば なんの命が 惜しかろう

 こう言う狂奔の時代には、生命は建前では軽く扱われるのだが、それを誰も認めてはいないのである。ことに日本人は、本音と建前を巧みに使い分ける習性をいつのころからか身に着けて来たのだ。それは、おそらく弱者の防御本能なのではないかと思う。

 

子ども心の戦争体験その2 担ぎ屋ー東京ブギウギ

2015-08-07 10:39:05 | エッセー
 勝さんが帰り道で歌う笠置シズ子の歌は、パンチがきいていて、暗い世相を吹き飛ばすような勢いがあり、私までも覚えてしまった。
 ただ時々彼の帰宅時間になっても歌声の聞こえないことがあった。それは、彼が意気消沈している時であった。彼のような商売を「担ぎ屋」と言うのだが、コメなどの生活物資は政府によって統制されていて自由に売買してはいけなかった。ところが、都会の人は配給制度だけでは生活できないので担ぎ屋から物資を買ったり、休日に大きなリュックを背負って農村までやって来て生活必需品を求めた。それを自由にやらせては政府としては統制が取れないので、乗換駅までで取り締まって禁制品は没収してしまった。生活のために売買する物資をもとめているのだが、取締官(主に警察官)は無慈悲にも没収してしまう。それは月に数回あるのでその網の目を潜り抜けられるかどうかは時の運なのだ。農家にもコメなどの供出制度があって、隠しておくと手入れがあって没収されるので、自分の収穫した穀物なども自由に売ったり、食べたり出来なかった。だから私の家でも白米ご飯は口に出来なかった。いつも麦やサツマイモ・ジャガイモを混ぜた物だった。
母は「今日は歌声が聞こえねぇが、また没収されたんだろうよ。」と、同情していた。わたしは、生きるためにやっているのを勝手に取り上げる取締官を批判的に見ていたのだった。

東京ブギウギ 鈴木 勝 作詞 服部良一 作曲
1東京ブギウギ リズムうきうき 心ずきずき わくわく
海を渡り響くは 東京ブギウギ
ブギのおどりは 世界の踊り
二人の夢の あの歌
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も月の下で
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世紀の歌心の歌 東京ブギウギ
(ヘイ)
2さあさブギウギ 太鼓たたいて
派手に踊ろよ 歌およ
君も僕も愉快な 東京ブギウギ
ブギを踊れば 世界は一つ
おなじリズムと メロディーよ
手拍子取って歌おう ブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も星を浴びて
東京ブギウギ リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世界の歌楽しい歌 東京ブギウギ
3ブギウギー陽気な歌 東京ブギウギ
ブギウギー世紀の歌
歌え踊れよ ブギウギー
母は貸本屋の探偵小説などを借りて来てもらい、代金を渡して読書していたので、わたしも江戸川乱歩全集や山手樹一郎の時代劇、金色夜叉や不如帰など大人の小説を乱読した。

子ども心に映った戦争体験その1

2015-08-06 15:54:02 | エッセー
☆東京大空襲―焼け出され家族
 肌寒い夜であった。西の空が夕焼けのように真っ赤に染まっている。塔教科千葉市の方向だが、いったいどうしてだろうか?と村人たちは、西空を眺めていたが、理由は分からないままに布団に入った。
 翌朝、起きてみると、庭先や田んぼに燃え残りの紙や布切れが散らばっていて、ラジオのニュースで東京であることが分かった。登校すると、校庭に全校児童があつめられて、関根校長から話があった。
「道端に落ちていた燃え残りは、教科書の切れ端でした。東京の子どもたちは、空襲にあい、勉強道具も燃えてしまったし、命も分からず。みなさんは、空襲にあわないのだから東京の子どもたちの分まで頑張って、鬼畜米英を負かすために勉強しなさい。」
と言うようなことを言われた。だが、すでに学校では勉強をする場所もなければ、先生もいなかったから登校して出席をとっただけで帰宅するのだった。
 その日の夕方だった。仁平の家に山崎さん家族が焼け出されてやって来た。この家族は、男4人、女2人に親たちの8人家族であった。小作人の家は、2間と土間しかないので、狭い部屋に詰め込まれて生活することになった。初めのうちは、東京から持って来た家事道具や衣類を食べ物と交換して生活していたが、長続きはしなかった。しかも長男は、18、9歳ぐらいになっていて勤めていたのだが、会社も焼けて失業してしまった。しかも栄養不足で肺結核に侵されていた。次男は高等科2年生だから16歳ぐらいであった。3男と4男は小学生で、その下にまだ学齢に達していない女の子がいた。
 狭い2間の家に2家族だから実家とはいえお互いに不満が重なってとうとう衝突して行き場がなくなってしまい、母がひどく同情してわが家の物置を提供した。そして、屋敷の裏の竹林に材木もわが家の杉林の丸太を提供して、家を建てさせた。2間の掘っ立て小屋に荒壁の家だが、それでも感謝された。
 岩崎家の次男の勝さんは、田舎の農作物(米・麦・イモ類など)を大きな風呂敷に包み、自転車で上総牛久駅まで3キロ走り、早朝の1番列車で東京まで運び、それを売っては生活物資を買って夜遅く帰宅した。我が家の下の野良道を自転車をこぎながら大声で当時はやっていた流行歌を歌って帰るのだった。それを両親が農家に売って利潤を得ていたから青年期に差しかかったばかりの勝さんが、家計を担っていたのだった。だが、母親のおカネさんは病魔に侵されて死亡してしまい、家庭生活は悲惨であった。子ども心にも同情していたが何も私には出来なかった。