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夏の詩人 13  花鳥と燈

2015年07月07日 13時09分14秒 | 文学全部
夏の詩人13  花鳥と燈


詩集『夏花』は、『わがひとに与ふる哀歌』(昭和十年)と『春のいそぎ』(昭和十八年)の間、昭和十五年に刊行されている。全二十一篇から成る。この詩集について伊東は、次のように述べている。

『詩集夏花』は、一部を大阪市内の狭い露地の家で、大部分を、堺市北三国ヶ丘の斜面に立つてゐる家で書いた。ここに引越すとすぐ大陸の戦争が起こつた。坂下の大道路を幾日も大軍団が通るのを眺めた。――<中略>――私は毎日のやうに子供をつれて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあはあと息づき強く、我慢出来ず興奮したりした。そんななかで、わたしの書く詩は、依然として、花や鳥の詩になるのであつた。 
              (『コギト』昭和十五年五月  傍点筆者)

 この「依然として」という言葉であるが、詩人のこれまでの作品傾向のモチーフを語っているのではないだろう。この四年半前に出版された『わがひとに与ふる哀歌』を見ても、「花や鳥」が材となっている作品はそれほど多くはない。むしろ詩人の想念に浮かぶ叙景をしるした作品を多く見受けられる。そうすれば、「依然として」と述べた意味合いは、むしろ「そんななかで」という時流の空気に反したひとつの釈明として語られているように感じられる。つまり「依然として」とは、『哀歌』刊行以後の昭和十年から、十四年までのより激化する戦中の空気に対応した言葉であろうと思われる。
 それから、引用末尾の言葉「なるのであつた」も気になる。これは、詩人が意図して「花や鳥」を材として書いたというよりも、むしろ消極的な意味において、なぜだかそう「なるのであつた」と述懐しているようにも読める。
 さて、詩集『夏花』であるが、全21編の作品をひと通り眺めていけば、ほとんどすべてといっていいくらいに、花、鳥、虫、魚などの生き物の気配があらわれる。

 草むらに子供は踠(ルビもが)く小鳥を見つけた。
 子供はのがしはしなかつた。
 けれど何か瀕死に傷いた小鳥の方でも
 はげしくその指に噛みついた。

 子供はハツトその愛撫を裏切られて
 小鳥を力まかせに投げつけた。
 小鳥は奇妙につよく空(ルビくう)を蹴り
 飜り 自然にかたへの枝をえらんだ。

 自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
 礫(ルビこいし)のやうにそれが地上に落ちるのを。
 そこに小鳥はらくらくと仰けにね転んだ。
               (『自然に、充分自然に』全編)

 伊東の代表作ともいえる『水中花』の次に配された作品。『水中花』においては描かれた材が、色彩的にも音楽的にもある種の象徴力をもって微細に描写されているのに比べて、本作は意図して淡彩に描写されているように思える。「小鳥」に対する視線としては、冷徹でもあり、薄情にも思える。
 詩人が見た、情景が実際のものであったか、想像上のものであるかはわからない。ただ、この作品で描かれていることは、とても単純である。子供がいる。傷を負った小鳥を見つけ一度は手にとったが、小鳥はその手を逃れ、一旦は樹木の枝にとまったが、地に落ちて死んでしまった。これだけである。しかしよくよく詩篇を見てみると、4行ずつの3連、全12行から成る作品に「小鳥」という言葉が5回、「子供」が4回も記されている。これは、ある種の客観的記述に徹しようとする姿勢であろうか。それとも観察文や写生文に模して、極力、主観的な「思い入れ」を抑制したのだろう。これは、『水中花』に向かう
姿勢とまったく異なっている。
 そしてこの姿勢とはどこに因があるかを見つめるとき、昭和4年に書かれた詩人の卒業論文『子規の俳論』に行き当たる。

 しかして子規は芸術に於ける主観を知識的なものにまで堕せしめないもつともよき方
 法として、先づ主観を没せよ、只ありの儘に自然を見、そのまま模倣せよと言ふ写生
 主義を唱へたのである。――<中略>――次に「理想の弊害」として彼は知識的主観
 のほかに今一つ陳腐なる「感情的主観」も指摘してゐる。
                           (『子規の俳論』)

 「依然として」「なるのであつた」、「花や鳥」とは、主観を排した、それは、冷徹な目で向けられた、時代の状況、もしくは、その潮流に無言のまま流されて生きる民の喩えであろうか。そう私には読める。また、この詩篇の題『自然に、充分自然に』という言葉もまた、卒業論文の文中にある「先づ主観を没せよ、只ありの儘に自然を見、そのまま模倣せよ」に照応しているように読める。
 ただ、いくら冷徹に淡々と小鳥と子供のいる光景を写生したとしても、否、淡々と描写しているからこそ、それを見つめる作者の位置と姿が、逆に反照されて浮かび上がってくる。

 彼の写生といふことが単に在外物象の何等主観の裏づけなき写真術的模倣にとどまら
ず、それを通過して、その最も反極に立つ所の物象の内的真といふこと、客観を描く
ことによつて自己の態き主観を表現しようとする様な境地にまで飛躍しつつあること
を認め得るといふことである。
                           (同)

 写生する客観的対象としてある、「花や鳥」にもはや、伊東静雄の思い入れ(「感情的主観」)はない。それは、時代の大局という背景をあらわす気配といってもよい。では、それらを透徹してさらに、あぶりだされる「自己の主観」とはどこにあるのだろうか。
 詩集『夏花』の詩篇を見ていると、「花や鳥」のほかにもうひとつの重要な像が浮かびあがってくる。それは、「光や燈」のイメージだ。

 万象のこれは自(ルビみづか)ら光る明るさの時刻(ルビとき)。 (『水中花』)

 燈台の頂には、気附かれず緑の光が点(ルビとも)される。   (『夕の海』)

 あゝわれら自(ルビみづか)ら弧寂(ルビこせき)なる発光体なり! (『八月の石にすがりて』)

 燈台の緑のひかりが 彷徨(ルビさまよ)ふ  (『燈台の光を見つつ』)

 仔細に見ればさらに多く、この光の像が散見される。たとえば、燈台、光を発するものは、弧寂ではあるが、透明で繊細で鋭敏で強い意志も感じられる。角度を変えてみれば、ほとんど思い入れのない写生の対象である「花や鳥」の反極とも言えるこれこそが、伊東の喩的身体(内的真)なのではないか。
 伊東静雄における「花や鳥」そして「光や燈」は、けっして彼の詩における“抒情の具”ではない。たとえば吉増剛造は、伊東の詩を読んだ印象として次のように述べている。

 まず気づいたことは、全く予想に反して、伊東静雄の詩から季節感が感じられなかっ
 たことだ。
               (思潮社・現代詩文庫『伊東静雄詩集』)

 そこに描かれた、「花や鳥」は主観的に託された喩えではない。ましてや、日本的な古雅の象徴でもなんでもない。ある種名を与えられた生き物であり、光景の中の事物に近いと言ってもいい。伊東はむしろ、そこを貫いたその先(奥)にある、鋭敏でこわれやすい発光する我を現出させたかったのだろう。

夏の詩人 15  内声と外声

2015年07月07日 12時44分42秒 | 文学全部
夏の詩人 15    内声と外声


 「春の雪」で語られている些景の奥行は、浅い。詩人がその時住んでいた、堺市三国ヶ丘の御陵に、雪が降る。木にうっすら積もった雪が、光に透けている。「ながめゐしわれが想ひ」は、「下草のしめりもかすか」と体感し「春來むと」「ゆきふるあした」の今にいることを確かめている。
 些景と言ったが、それは景物の描写に頼らないがための詩人の細い感性が選択した詩法であったろう。たとえば、俳諧における名辞や事物の象徴性に仮託させる方法に近しい。象徴性を高めるために、景物描写のまわりで修飾される雅語は、けっして浅くない。詩の内、つまり言葉の内声において、「些」であったとしても、一篇の数行を通して渡る時、そこに外なる声も響かせている。
 では、外なる声とはなんだろう。

 みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく聲のけさはきこえず
まなこ閉じ百(ルビもも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

        (詩集『春のいそぎ』「春の雪」全三連のうちの前二連)
 
 詩とは、言葉によって書かれていることがすべてであるという考え方もあるだろう。伊東の場合その「すべて」が「些」にすぎない。それを内声といってしまい、書かれた詩の余情や、漏れ出る行間からの声を、外声といって、考えてみると見えてくるものがある。
 もちろん伊東詩の本質を、内と外どちらに見るかといったことを考えることの方法的な正否は、別にしてである。
 外の声といって、まず考えられるのが、詩人の存在を包む時代の気分があげられる。この詩が書かれたのは、戦中のまさにその最中であろう。住まいの近隣へ歩み出で、浅き春の雪に出会う。その雪は、積りもせずただ、朝の光を受けて解けはじめている。光景は、まばゆいばかりの光に満ちてはいるが、それだけにしだいに淡彩に均されて見える。圧倒的な光、そして淡く薄い眼前の様子。詩篇の行末の言葉は、「消え」である。詩人はもう、光景とともに、消滅への予感を察知している。
 たとえば、この一冊の詩集の標題である『春のいそぎ』の「いそぎ」という言葉を取り出してみてもいい。詩集の標題とは、詩人の内と外を繋ぐ、特別な声なのである。仮に、この「春の雪」一篇との接点を考えてみる。「いそぎ」とは、この些景でもある儚い春の光景への没入ととらえてみよう。つまり景と情が、詩において溶解し、一つになる方途を、伊東は望んでいたのではないか。「いそぎ」「消え」、これこそが、溶解への願望と私には読める。そして外の声を想像してみると、そこに、生と滅へ急(ルビせ)くことの運命的な受苦を感ずる。

*

同『春のいそぎ』より、同じ頃に書かれたであろう、もう一篇の春の詩を引く。

 春淺き  

あゝ暗(ルビくら)と まみひそめ  
をさなきものの  
室(ルビしつ)に入りくる  

いつ暮れし        
机のほとり  
ひぢつきてわれ幾刻(ルビいくとき)をありけむ  

ひとりして摘みけりと  
ほこりがほ子が差しいだす  
あはれ野の草の一握り  

その花の名をいへといふなり  
わが子よかの野の上は  
なほひかりありしや   

目とむれば  
げに花ともいへぬ
花著(ルビつ)けり

春淺き雑草の
固くいとちさき  
實(ルビみ)ににたる花の數(ルビかず)なり  

名をいへと汝(ルビなれ)はせがめど  
いかにせむ  
ちちは知らざり  

すべなしや  
わが子よ さなりこは  
しろ花 黄い花とぞいふ  

そをききて点頭(ルビうなづ)ける  
をさなきものの  
あはれなるこころ足らひは  

しろばな きいばな  
こゑ高くうたになしつつ  
走りさる ははのゐる厨の方(ルビかた)へ

             (同詩集「春淺き」全篇)

 伊東の詩の中でも、最も私が好んでいる一篇である。詩集『春のいそぎ』の中に詩人がひそませた、佳篇。ある日の家族の光景ととらえることができる。詩人が暗い書斎にいると、外から娘が帰ってくる。手には雑草を持っている。あどけない子は、光を帯びている。冒頭の「あゝ暗」という関西風のリアルな口語が、一気に光と闇のあざやかな対比を見せる。子は、光につつまれ、詩人は、闇につつまれている。闇は、そこにいる室内の闇だけではない。詩人の心中のすみずみにまで溶解している。
 また、この対比は、花の名称というモチーフを接点とした、親子のつながりの内にも投影されている。子にとっては、その時、切実に知りたいと願っている花の名称が、詩人にとっては、朧な心中に混濁させてしまいたいと思うほどに、そのことは、些事にすぎない。
 この一篇にも、些事や些景の内声が綿密な細工で描かれている。おそらく実際にここで描かれていることは事実であると思う。子は、「あゝ暗」とつぶやいてもいただろう。それは、全篇全行によって示された言葉で、確かに見えてくる。ただ、ここでも私は、伊東の外声の余情を聞いてしまう。作品の終行、末尾の言葉は、またしても描かれた些景から、「走りさる」という生と滅への急きが吐露される。
 あるいは、大胆に、この一篇の詩行を読み終えた後の外声を想像してみる。光の場所と闇の場所、それが接している。私は闇の場所にいる。あるいは、闇の場所にいたいと欲している。そうしたことを意識したのは、ある時、子がふいに発した詰問であった。闇にいる私は、その時いっさいの煩わしい想を捨てて、いそぐように朧な闇を選択した。そして、闇の中に、光も色も、それから花の名辞もすべてが一束となって消えて行く。子の姿とともに。外声とは、これらが瞬く間に消えていく様子のことである。
 些事や些景とともに、急くように消滅することを願う。これが伊東詩における、内外をひっくるめた詩の声である。虚無のあらわれなどといってしまうと、それで済むようなことだろうが、秀逸なのは、それらが実際の詩の構えにおいては、端正にそして淡彩にしかも薄情に仕立てられていることだ。詩人は、一篇の詩を書き終えた後、つまり最終行に至って、結ぶように、光景ともどもそれと溶解するための消滅を希求する。私は、この詩人の特質が、単に書かれた時代の気分などではないと思っている。

*

六月の夜(ルビよ)と晝のあはひに  
萬象のこれは自(ルビみづか)ら光る明るさの時刻(ルビとき)。  
遂(ルビつ)ひ逢はざりし人の面影  
一莖(ルビいっけい)の葵(ルビあふひ)の花の前に立て。  
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。  
金魚の影もそこに閃きつ。  
すべてのものは吾にむかひて  
死ねといふ、  
わが水無月のなどかくはうつくしき。             
(詩集『夏花』「水中花」より後半)

 些事や些景といっては、あまりにも鮮烈であるかもしれない。光彩に満ちた透明な時間。ガラス、水、夜の灯。結びの三行で、光景への消滅的な同化が希求されている。
 詩人は、何になりたいか。こう問うてみた時、伊東ならばこう答えると思う。
 私は、詩になりたい。詩の光景となって滅んでいきたいと。

夏の詩人 14  詠嘆と叙述

2015年07月07日 12時39分53秒 | 文学全部
夏の詩人  14     詠嘆と叙述




 中野重治の『歌』という詩作品は、かつてアジテーションのように聴こえた。しかし、私がこの作品にはじめて接した時から、現在までの歳月を経てこれを読み返してみると、詩人自身への自戒めいた宣言であったように読めてくる。

 お前は歌うな
 お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
 すべてのひよわなもの
 すべてのうそうそとしたもの
 すべての物憂げなものを撥(ルビはじ)き去れ
 すべての風情(ルビふぜい)を擯斥(ルビひんせき)せよ
 もつぱら正直のところを
 腹の足(ルビた)しになるところを
 胸先きを突き上げて來るぎりぎりのところを歌え
 たたかれることによつて彈(ルビは)ねかえる歌を
 恥辱の底から勇氣をくみ來る歌を
 それらの歌々を
 咽喉(ルビのど)をふくらまして嚴しい韻律に歌い上げよ
 それらの歌々を
 行く行く人々の胸郭(ルビきようかく)にたたきこめ
           (『中野重治詩集』より「歌」全篇)

 岩波文庫版の『後書き』には、「私は室生犀星の弟子の一人である」と記している。また東京大学で一年後輩であった、堀辰雄との知己のいきさつについてもふれられている。中野が、自ら抑制したものとは、何なのか。あるいは、自封しようと強く語ったのは一体何なのか。書かれた作品の内にそれはある。たとえば「歌うな」と否定したものとは、「赤ままの花」であり、「ひよわ」で「うそうそとし」「物憂げ」なものであり、逆に「歌え」と肯定したものは、「正直のところ」「腹の足しになる」と対比している。
 この腑分けは、ある種明確である。一方に配置したのは、伝統的な日本的抒情の否定であり、他方肯定したのは、新しき社会主義的リアリズムであったろう。ただ、この対比は、単純にイデオロギーによる表層的な対比にすぎない。なぜかというと、これらの二項は、詩における本質的な位置や姿勢を言っているのではないからだ。これは、詩において「何」を書くかという題材を語っている。言いかえれば、ここでの中野は、自らの詩のある圏域が、状況的なイデオロギーによる倫理にとらわれているだけなのだ。詩に、そうした表層的な倫理の振る舞いは無用である。
 では、詩人という書き手の本質的な位置や姿勢、つまり志向しているところは、どこかと言えば、これも明確に「胸先きを突き上げて來るぎりぎりのところ」であり、「咽喉(ルビのど)をふくらまして嚴しい韻律」を「人々の胸郭(ルビきようかく)にたたきこめ」と激しく語られている。否定したのは、目先という状況への配慮であり、肯定し志向しようとしている詩人の身体は、そこに充満した情と熱を、「突き上げ」「ふくらませ」「たたきこめ」と言っているのである。そうしてつぶさにこの詩を読んでいけば、書きだしの激しい抒情否定の姿勢に反して、自戒ののちに語られる心底において激しい「抒情的姿勢」の肯定を発露しているように私には、読める。
 
 私はこのしずかな水邊(ルビすいへん)を去りましよう
 今日は水さえも私をいとうている
 水の心はおとなしい故
 それとみずからは言い出さない
 ただ私が向うの方へ行くならば
 水は彼自身のしめやかな歌をうたい始めるでしよう
 私はしずかなこの水邊を去りましよう
 水がそれを乞うているようです
            (同「水邊を去る」全篇)

 あきらかに、この詩においては、題材さえも「ひよわ」で「うそうそとし」「物憂げ」で「風情」がある。しかもこの寂しさや憂いの情景への接触は、読むものに迫ってくる。中野は、これを戒めたのだ。



 中野重治は、明治三十五年生まれ。伊東静雄は、その四年後の明治三十九年生まれである。同じ時代を生きた詩人と言える。伊東の詩を引いてみる。

 みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく聲のけさはきこえず
まなこ閉じ百(ルビもも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春來むとゆきふるあした
        (詩集『春のいそぎ』「春の雪」全篇)

 中野の「水邊を去る」が書かれたのは、大正から昭和の初めにかけてであり、すでに全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成していた。伊東の「春の雪」は、昭和十七年。この時間の隔たりは、到底看過できるものではない。しかし、この二つの情景を感受する二人の詩人の詩人たる身体の脈に、同質の何かを読みとることができる。
 伊東が、この当時住んでいたのは大阪、堺市の北三国ヶ丘である。この地のことを語った文に次のようなものがある。
 「前の所とはすつかり趣の違つた所で、横は廣大な反正御陵、裏は堺市が一望の下に見渡される高爽の地で、夜などはご陵のお濠で變な聲で鳥がなき、近所の原つぱではお化けが出るといふ噂です」(昭和十二年一月付 酒井ゆり子宛書簡より)
 また、次のような作品でも、おそらく同じ景色を描写している。

 この夜更(ルビよふけ)に、わたしの眠をさましたものは何の氣配(ルビけはひ)か。
 硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵(ルビみみはらごりよう)の丘の斜面で
 火が燃えてゐる。
              <中略>
 それは現(ルビうつつ)の目でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、
  透明さ。
 そして庭には白い木の花が、夕陽(ルビゆふひ)の中に咲いてゐた
 わが幼時の思ひ出の取縋る術(ルビすべ)もないほどに端然(ルビたんぜん)と……。
 あゝこのわたしの夢を覺したのは、さうだ、あの怪しく獣(ルビけもの)めく
 御陵(ルビみささぎ)の夜鳥(ルビやちよう)の叫びではなかつたのだ。
           (詩集『夏花』「夢からさめて」部分)

 伊東の詩を読んで、つくづく思うことではあるが、詩人は、何かを叙述し伝えようとしていない。もちろん、詩に書かれた情景を頭の中に浮かべているのだろうが、その情景はきわめて、小さく薄い。それは、些末や些事という言葉があるように、まさに“些景”といった態だ。またこの傾向は、口語で書かれた作品よりも、文語もしくは雅語で修飾された作品において特に顕著である。
 詩人が転居して住んだ住居、すぐ脇に御陵(「みささぎ」)がある。そこは、当然のように夕照につつまれるし、浅い春の頃には雪がふることもあるだろう。御陵を囲む濠には、水
鳥も棲息しているだろう。その小さな些景を言葉の細工で装飾する。もちろん、その細工を私は否定するつもりはない。そこに、造形された文字による視覚的な美しさも、朗詠することで浮かびたつ音楽もある。またそうした細工への情と熱は、秀逸である。
 ただ、細工され、造形された些景の深部、そして底部を掘って味読するとき、何か確信に満ちた、弧寂にたどりつく。それは、具体的に言葉として作品に顕現しているかというと、つねに翻って、破れ、消えようとしているかのようなのだ。一篇の作品、行の渡りのすべてが、むしろ弧寂の隠喩のように端坐しているとも言える。存外、詠嘆がそこに顕著かと言うと、そうでもない。そうした詠い嘆く、強い言葉は作品中に極力抑制されて、一語に託されている場合が多い。
 中野の「水邊を去る」においても、ほぼ同様の、些景を細工しつつ造形していく手際を見ることができる。
 詩の本然、あるいは、詩人の深い所の姿勢にたどりつくとき、そこに題材や景物の描写のための手際など、つねに副次的なものなのだ。詠嘆であろうが、淡々とした叙述であろうが、それもまた副次にすぎない。
 「お前は歌うな / お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな」と語りだしているが、実は『四季派』と言われた詩人たちの作品において、そうした花鳥風月をのみ歌ったものなど存在したのだろうかと、私は考えてしまう。そう、詩における題材など、それはつねに副次的なのだ。そして、詩人の心根の外包にまとわりついているイデオロギーもまた意匠のひとつにすぎない。

岩成達也「みどり、その日々を過ぎて。」を読んで

2013年09月12日 12時52分56秒 | 文学全部

初出誌「びーぐる」


齟齬の代替  『みどり、その日々を過ぎて。』を読んで。

             萩原健次郎


カメラのファインダーをのぞく。肉眼とは、違った世界の肌理が見える。この自然の中で、私は、その欠片であっても、ひとつの数として存在しているのだろうか。あるいは、すくなくとも、レンズの枠内に、それこそ今この時の自然の姿がとらえられているのだから、強いられた事実として在るということになるのだろうと考えたりする。
 私は、見ている。見ている私は、その時の夕暮れの空の下にいる。写真機に記された映像は、いたという事実の証にもなる。しかし、証になるのは、たとえ数秒後であっても過去の証となる。もしも私が身体的な事情で、眼が見えないのならどうだろう。過去の証は、聴こえてくる音となり、声となり言葉となる。あるいは、わずかな光量の変化は察知できるかもしれない。空気や風に混じる匂いに頼るかもしれない。手や肌のふれる感触にも、記されるだろう。人間のこうした五感を交えた行いは、それでも過去の証をただ反芻しているにすぎない。なぜなら、器官から得た情報は、ひと時に紡がれて混在し錯綜し、ときには紛れて失ってしまうかもしれない。これが、さみしさやはかなさの、私たちの濃密に堆積するある種の感情の正体なのかもしれない。紡ぐという営みの明滅や、反芻、そして繰り返される齟齬と紛失。
 岩成達也さんの『みどり、その日々を過ぎて。』を読みながら、ずいぶん以前に岩成さんとともに、みどりさんにお目にかかった日のことを思い出していた。それは、ある集まりでのほんの短い時間であったが、私が感じたことが、この一冊の書物にそっくり収まっていると思った。そのとき、岩成さんは奥様に対して、終始やわらかく微笑み、優しく見つめているようであった。こうした日常の光景を語ることを岩成さんは、嫌うかもしれない。
 本書のあとがきには、次のように記されている「従来、私は私的なことを作品にしたてることは極力避けてきた。というのは、感慨表出や感情吐露ということに、心から嫌悪を覚えていたからである」と。「私的な」と言えば、一冊すべてが、表面上は過ぎた時間がそのまま記されているのだからそうとも言える。しかし、ここには、少なくとも主題となる部分において、「感慨」や「感情」やその「吐露」を聴くことはない。はじめに一書を読了した印象を述べれば、そこに静謐に堆積した時間の森が、言葉で記されていると言ったらいいだろうか。その森は、外縁は定かではないが、緻密に塑型されている。記述は、詩人の記憶に添って正確に、見たものや起きたできごととして記されている。みどりさんが好きであった路傍のスミレのことや、句会で記した句や、旅先で見たもの起こったこと、そして、偶発的な数字の縁起など。木や花や、衣服などの名称とともに列記されていく。それらは、事物の、そして名の断片であるとともに、切実な時間の欠片でもある。この断片こそが、本詩集における主題に用意された設えであるかもしれない。事実、読む者は、そうであるかのように、感慨や感情以上に、自分とはまったく関わりのない事物や名が明瞭に堆積した形姿となって顕現するのを強く望見する。また、この時間の記述は、けっして「物語」や「説話」へと浪漫の嵩を上げようとしない。こうした物語といった仮構体の「糖衣」を避けることで、時に淡々とつづられる回想譚のように読めるかもしれない。さらには、過ぎた時を慈しむ、「哀惜」や「哀悼」のそう「愛」(あえて言えば)の記述と読むこともできる。
 ただ、本書を微細に読みすすめていくとわかるのだが、愛や物語や回想といった感情の脈がどこにも、言葉として結節していないことを覚る。あるいはこうも言える。事物や名や、事実として記された書簡文などは、いったん言葉として作品上結節しているように見える。しかし、振り返ってその光景を見渡すと「明瞭な輪郭のない」「遠い森」として、はるかに茫洋と、光を放って照り返してくるのである。
 それは、虚(齟齬による)を把捉した暫時の塑型物だ。あるいは、もはや態の無い光の気配であるかもしれない。言葉で結節しえないもの、事物の列記でも結節しえないものを、それでもその先の白地点に、質量の無い無彩の態として印していこうとする、詩人の営みがここにある。
 茫洋としているが、虚の森の堆積は、深い。そしてその基層には熱い温度帯がある。輪郭は無いが、着実に層は、事後に重なり幾重にも膨らみを増しているようにも思える。その熱は、時間を記述する手の熱なのだ。そこから未知へ持続する飽くなき齟齬の結節点。存在することの代替として、どこかに、だれかに捧げられている。

■SANAAという建築家プロジェクト、非術というアクション。。

2013年01月20日 12時11分41秒 | 世間批評
NHKの番組で「SANAA-建築の冒険-」を見た。SANAAとは、妹島和世と西沢立衛、ふたりの建築家による、社名でありPT名であり、試みのためのコンビである。ほとんど無名であったふたりが、ルーブルのランス館のコンペで勝利する。金沢や豊島美術館などの設計もする。彼らの、ぶれることのない、独創は、けっして芸術でも表現でもない。ひとことでいえば、自分たちの道を歩むという「営為」ということだろう。ただそうした彼らの営みを評価する人たちが一部の日本人を除いて、海外からであることに嘆息する。
ただ、彼らの営為に向かう眼差しに、はかりしれない勇気をいただいた。テレビの画像で映し出された、その空間にぜひとも行ってみたいと強く思った。とくに、豊島美術館の内藤礼の作品(ただ一作品しか展示されていないそうだが)には、感銘を受けた。建築とは、外見(そとみ)ではなく、それが内包する、あるいはそこから開放し発する「内実」なのだとごくあたりまえのことを思った。とにかく、とても低次元の言にはなるが、「仕事」するという「営為」の支えを知らされた。ただ、番組のサブタイトルにある「冒険」という言葉はあまりに浅薄に思えた。彼らは、冒険などしていない。営んでいるだけなのだ。
朝になっても、昨晩の「SANAA」のことを考えている。妹島も西沢も、若くはない。しかし、眼差しの強さと直線的な視線が強烈な印象を感じさせる。ふたりの考え方は、決して一致していない。当たり前だが、どこかで熾烈に個性が衝突している。ただ眼差しは同じだ。
それは、映像で流れた、内藤礼の作品に似ている。水滴がいくつも自然(じねん)の姿態のまま流れて、つながりひとつになりたがっているように、思念の太い幹となり茎となり樹となっていく。
この映像を見ていて、ひとつ確かに納得したことがある。昨晩は「営為」などとあいまいなことを言ったが、こういうことだと思う。
彼らのどこにも「術」という概念がないのである。「優位」「競合」「虚名欲」そうしたものを支える方法の模索というよりも、あくまでも現在と未来の「実」を具現化することに力を注いでいる。芸術、技術、戦術、、、、、などと、私たちは、この術の錬磨に時間を弄してきたのではないか。たとえば、言葉遊びになるが、これからは、「芸実」や「技実」や「戦実」が求められる時代になるのではないかと覚った。
といえば、これもまた「術」となってしまうトートロジーにはまってしまうが、とにかく一度、眼差しのさきの目的を定めたうえで、私たちにとって求められる「実」にむかって今一度錬磨の時間を費やさなければならないのではないかと思った。
これは、コミュニケーションの実態においても言いうることで、SNSやメールなどという道具の進化によって私たちは淺く合理的な対話の「術」は得たかもしれない。しかし「実」の感触がすっかり後退した。
「なんのために」「だれのために」その実こそが肝心なのだろうな。
東京、国立競技場のコンペの模様が映されていた。SANAAは、結果的にイギリスの建築家に敗れるのだが、「実」と「術」のせめぎあう場面を見た。
はじめ、スタッフ間の競作で選ばれた作品は、競技場全体が周囲の環境に解き放たれた、境界があいまいな建物だった。そこで妹島が発言する。「観客が競技の観戦に集中できないのではないか」と。その作品は、私には素晴らしい構想に思えた。一方のイギリス人の作品は、空間をソリッドに固定したインパクトのある、シンボリックなオブジェ態だった。
審査委員長の安藤忠雄はこう発言する。「境界があいまいな空間では、競技者が集中できないのではないか」と。目的は、各者の拠って立つ場によってパラレルに分かれる。でも
どこかに「オリンピック招致」への「術」が介在しているような。それにSANAA作は、無配慮でむしろ反発しているようにも感じられた。それよりも環境と周辺住民への配慮が先行したのだろう。そして、コンペには敗れる。
「実」とは、己と対象(目的)への「近しい信」ではないだろうか。
今朝のテレビでは、75歳の芥川賞作家、黒田夏子さんのことが紹介されていた。「己と対象への近しい信」という意味で、彼女もまた、「非術」の「実人」なのだろう。