Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

「これからのブランディングのための5つのポイント」

2010年07月18日 12時53分30秒 | ブランディング
銀座に「ロオジエ」というフランス料理の店があります。
もちろんおいしい店なのですが、そこで食事をする人は、ミシュランで三つ星を取ったとか、雅子妃がそこで食事されたとか、資生堂の経営であるとか、この店にまつわるさまざまなうんちくをスパイス代わりに料理を楽しみます。情報が料理のおいしさを倍加させるのです。
ベンツはすばらしい車ですが、この車が人々をひきつけるのは車自体の性能もさることながら、この車を持つことが成功者の証しであるとの定評が大きな要因になっています。
このように私たちは商品そのものの持つ物理的機能だけでなく、関連情報がもたらす心理的な魅力をも一緒に消費していると考えられます。
優れたブランドは例外なく、機能的な魅力とともに、ブランド情報のもたらす心理的魅力を備えています。
ブランディングとは機能的側面と心理的側面の二つの魅力を顧客の認識に印象付けることであり、その尖兵として、広報の持つ役割は大きいといわざるを得ません。特に心理的魅力の創造は多く広報の努力によっているのです。
ブランディングとは、つまるところ情報創造と伝達のプロセスでもあるのです。

とはいえ、それは決してたやすいことではありません。
特に昨今、情報量が幾何級数的に増加し、せっかく生み出した情報が顧客に届きにくい状況が生まれてきました。
総務省は前身の郵政省の時代から40年近く「情報流通センサス」という調査を続けていましたが、95年から2005年までの10年間で、われわれがアクセスできる情報の量は410倍に増大したという結果が出ています。このデータにはコンピュータ同士をつなぐ信号も含まれていますので、必ずし生活実感とフィットしているわけではありませんが、われわれが大変な情報洪水に巻き込まれていることは異論の無いところでしょう。

この状況をもたらした最大の要因はインターネットです。しかも、2006年以降ブログやツイッターなど消費者発信型メディアが猛烈な勢いで成長し、後戻りできないゾーンに突入しています。電子的クチコミを生み出す消費者発信型メディアは最近「ソーシャルメディア」と呼ばれ、大きな影響力を持つに至りました。
これとうらはらに、2008年以降のマスメディアの退潮傾向は明らかで、マスメディアに頼った広報の限界が明らかになっています。
加えて、企業は自社のウェブサイトや携帯サイト、メールなどを通じて顧客との情報受発信を行うことが容易になりました。かつて自社メディアといえばPR誌や展示会など、特定少数を対象としたものに限られていましたが、不特定多数を対象とすることが可能となったのです。これら自社メディアを、わたしは「マイメディア」と整理しています。
また、マスメディアとの接触の少ない若者にアプローチするために、交通広告や看板、イベントなど、街を舞台としたメディアが注目されています。昨今デジタルサイネージと呼ばれる電子的映像情報も第五のメディアとして、スーパー店頭や、電車内、エレベータ、街頭で見かけることが多くなり、大いに期待されているようです。これらは「マチメディア」といえるでしょう。
つまり20世紀の広報の業務でマスメディアとのリレーションは大きな比重を占めていたものが、21世紀にはいると、「マスメディア」「マイメディア」「マチメディア」の3つを使いこなし、それら情報の「ソーシャルメディア」を通じての社会的増幅をも計算することが求められるようになってきたのです。

一方、企業そのものの変化もダイナミックです。
松田聖子と中島みゆきを起用した、フジフイルムの化粧品『アスタリフト』のCMを最近よく眼にします。カメラがほとんどデジカメに置き換わった今、同社が写真フイルムの会社だとの認識は急速に薄れているようです。そういえば、同社の関連会社である富士ゼロックスのことを最近の学生は知りません。コピーといえばキヤノンやエプソンやリコーは思い出すものの、ゼロックスでコピーをとる経験が学生にはないからです。
ところで、サントリーって何屋さんなのでしょう?
最近こそハイボールで気を吐いているものの、テレビで見る限りは、ビールと非アルコール飲料の会社で、うっかりするとコンドロイチンやセサミンなどの健康サプリの会社と受け止められても不思議ではありません。
消費者の認識は変わらないのに、企業自体は大きく変わっているのです。商品についても同様な傾向を多く観察することが出来ます。

ブランディングとは情報創造だといいましたが、情報の主体である企業や商品の変化が進み、情報を伝えるメディアの構造が地殻変動を起こし、顧客の情報行動や消費行動の変化もあいまって、ブランディングの手法は今、大きな転換期に差し掛かっているのです。
そこで変化の中での今日的なブランディングの条件を5つのポイントにまとめてみましょう。

1)まず、どのようなブランドを目指すのか、そのコンセプトをはっきりさせようということです。訴求ポイントを絞らなければ、情報洪水に押し流され、伝わるはずのものも伝わりません。いろいろ伝えたいことはあっても、「捨てる勇気」が今まで以上に重要です。

2)次に、そのコンセプトに集約できるよう、さまざまなネタや情報を創造し、手を替え品を替え訴求することが効果的です。一つのコンセプトを伝えるために多様なコンテンツを創造するということです。
ブランドがらみのさまざまなコンテンツは、これまでファクトブックとして広報担当者が手許に置くことが多かったと思います。最近はそれらをウェブサイトで公開することで、地味な素材でも、検索を通じアクセスされることが多くなりました。

3)ここ数年広告クリエーティブの世界で聞かれるようになったのが、「トーカビリティ」というキーワードです。話題にしたくなる、誰かに話したくなるといった意味合いです。「せんとくん」はトーカビリティの高い素材でした。最初は奇異の念を抱かせたものの、彼のおかげで平城京1300年はほとんどの国民が認知するようになり、ライバルのキャラクターはみな忘れられてしまったのです。沢尻エリカのエステのキャンペーンもトーカビリティの高い仕事でした。

4)これまでの常識にとらわれず、「マスメディア」「マイメディア」「マチメディア」と「ソーシャルメディア」全般に眼を配ってください。特にソーシャルメディアについては炎上をおそれて躊躇する企業も多かったようですが、炎上の危険性は必ずしも高くありません。

5)最後に、ブランディングを成功に導く究極の決め手は、担当者の人柄であり情熱であるようです。特に広報の担当者の人間力はコミュニケーションの成否の重要な分かれ道になります。業務をこなすというスタンスではなく、ブランドにのめりこむことが周囲を巻き込みプロジェクトを成し遂げるための必須条件です。これだけは、どんなに時代が変わろうと永遠の真理ではないでしょうか。


マーケティングとPRの実践ネット戦略

2010年02月06日 17時03分35秒 | PR戦略
2010年元旦。鳩山総理は『ツイッター』を使っての情報発信を始めた。
140字という短い文字数で、その時々の感想や行動をつぶやくツイッターというミニブログサービスは、2006年にアメリカでスタートしたが、いまや全世界で7500万人のユーザーを擁するに至った。日本でも2009年夏ごろから大ブレークし、国会議員の間では異常と思われるほどのブーム状況を呈し、企業もPRメディアとして活用しはじめている。
ネットメディアの世界には次々と新しいサービスが生まれており、キャッチアップするのもなかなか大変である。思い起こせば2007年には『セカンドライフ』という3Dの仮想空間が注目を浴び、多くの企業が相次いで参入したが、いまやその話題も全く聞かなくなっている。
果たしてこの『ツイッター』は今後ネットメディアに定着していくのだろうか。

個々のサービスの盛衰はともかく、インターネットの成長に伴いメディア環境が激変していることに誰しも異論はないだろう。
私は、今日の企業コミュニケーションは、<マスメディア><マイメディア><ソーシャルメディア>の3つのメディアを同時に視野に納めなければならないと感じている。
20世紀において、<マスメディア>の存在感は圧倒的だった。
ところが世紀の変わり目に、企業は相次いでウェブサイトを開設し、マスメディアに頼らずとも自らのメディアで情報発信する手段を手に入れた。ウェブやメールなど企業が自ら発信できるメディアを私は<マイメディア>と整理している。
加えて06年頃から顕著なのが<ソーシャルメディア>の伸長である。ブログ、ポッドキャスト、SNS、ウィキなどを通じ、個人が容易に情報発信をしはじめ、それらの発言が相互に結びつき、無視しえないメディアへと成長したのである。
企業からの情報は、マスメディアを介さずともマイメディアで発信され、ソーシャルメディアで増幅する回路が生まれた。もとよりマスメディア経由の情報も効果的だが、それのみで完結するのではなく、ソーシャルメディアでの反響が情報伝播の大きな役割を担い始めているし、最近の学生は新聞記事をミクシイで閲覧することも稀ではない。

ところで、ネットは単に情報メディアとしてのみ存在しているわけではない、企業にとってはオンラインショッピングも重要である。つまりは、ネットはメディアであると同時に販売チャネルとしての性格も有している。さらには決済や物流のコントロール機能も備え、クレームの窓口でもある。
となれば、インターネットの成長が単にPRや広告などの企業コミュニケーションに影響を与えるだけでなく、マーケティング全体にインパクトを与えていることは容易に理解できるだろう。
本書は、この環境変化に対応し、マーケティング視点でもPR視点でもパラダイムを一新させなければならないと説いている。
著者は「多くの人がウェブという新しいメディアに対し、古ぼけた広告手法やメディアの考え方を当てはめようとして、目も当てられない結果に終わっている。」と語り、あらゆる組織が顧客と直接コミュニケーションをとれるようになった結果、マーケティングとPRの間の境界は消滅し、新しいルールが生まれていると主張する。
この主張の傍証となりうるのが、本書の成立過程かもしれない。

著者のデヴィッド・マーマン・スコットはオンラインのニュースサイトのマーケティング担当役員を経て独立。2004年頃から自らのブログで本書のもととなる内容を書き連ねた。数千のフォロワーがそのブログを購読し、何人もがコメントやメールで意見を送ってきた。このようにして練り上げられた本書は、2006年にまず電子ブックとして公開されたが、1週間で数千人がアクセスしたといわれる。やがて出版されるや1年以上アマゾンのビジネス書ジャンルでベスト100以内をキープし続けた。
たまたま、この原著を読んだ外資系PR会社社員のブログに著名ブロガーであるいしたにまさきが眼を止め、監修者の神原弥奈子に紹介したことが、日本にブログを紹介した功労者のひとりである平田大治による日本語版翻訳のきっかけだったという。
日本語版出版に際しては、発行元の日経BP社のサイトで試読版として1章がまるまる無料公開され、また献本を受けたアルファブロガーの多くが自らのブログで書評を掲載している。
ブログにより新しいつながりが次々に生まれ、出版プロジェクトが見る見る進展するダイナミズムと、バイラルで本書の評判が広がるプロセスはネット時代の特質と新しいルールを見事に体現している。

本書は次の3章で構成されている。
PART-1 ウェブはマーケティングとP Rをどう変えたか?
PART-2 ウェブでどのようにして直接リーチするか?
PART-3 ウェブの力を利用するアクションプラン
特徴的なのはPART-3でウェブやソーシャルメディアを活用する具体的手順について詳細に述べていることである。
もとより日米のネット文化の相違や原著の発行された2007年以来の変化は存在するものの、書かれている内容は現在でも充分活用出来るだろう。





GHQが主導した日本の行政広報

2009年10月13日 18時48分07秒 | 広報史
1947(昭和22)年から翌48年にかけて、各都道府県単位に置かれたGHQの軍政部は日本政府の頭越しに都道府県に「PRO設立のサゼッション」を行った。
PROとはパブリックリレーションズオフィスのこと。このサゼッションが、一般の日本人がPRを知る最初のきっかけであった。
GHQは、行政施策を国民にきめ細かく周知するとともに国民の声を行政に反映させるために、各都道府県に対しPRに本格的に取り組むことを推奨したのである。
しかしPRの概念は当時の日本人にはまったくいっていいほど浸透していない。「いったいGHQは何をしろといっているのか?」とその意図を探ることが、日本における近代的広報導入にあたっての最初の課題だったのである。
ところでGHQはGeneral Headquartersの略で、連合国最高司令官総司令部を意味する。GHQは日本の占領にあたり、沖縄県を除く日本本土では間接統治方式を採用した。すなわち、「命令は一括して最高司令官が日本政府に出し、日本政府が責任をもってその命令の施行を代行する」という方式である。
この間接統治方式の中で、都道府県単位に置かれた軍政部の役割は、地方レベルでの占領政策の履行の状態を監視し指導することであった。チェック機関である軍政部が、中央政府の頭越しに都道府県にサゼッションを行うということはGHQの建前からはイレギュラーな状況である。
ただし、このように、軍政部がその分限を超えて直接地方行政に介入することはしばしば見られたという。例えばPTAの導入や婦人運動の活性化には有形無形で軍政部の示唆があったとされる。
ではサゼッションとは何なのか、GHQの統治は、総司令官のメモランダム、指令、命令、セクションメモ、口頭命令、示唆(サゼッション)などさまざまな形式をとってなされたが、その中でも最も強制力の希薄なものが示唆(サゼッション)である。
しかし、都道府県の行政マンにとってはサゼッションは単なる示唆にとどまらず、指示・命令と同様に受け止められた。占領当時はGHQの権力は絶大だったのである。
当時富山県渉外課長でこのサゼッションへの対応を行った樋上亮一が著した「官庁PR草分けのころ」から富山県が受け取ったサゼッションの内容を見てみよう。
・ 当軍政部ハ、県行政ノ民主的ナ運営ヲ推進スルタメニ、知事室ニP・R・Oヲ設置サレルコトヲ希望スル。
・ P・R・Oハ政策ニツイテ正確ナ資料ヲ県民ニ提供シ、県民自身ニソレヲ判断サセ、県民ノ自由ナ意志ヲ発表サセルコトニツトメナケレバナラナイ。
・ P・R・Oハ知事が外来者トノ面接ニ要スル時間ヲ、可及的ニ少ナクスルコトニツトムベキデアル。
・ P・R・Oノチーフハ、次ノヨウナ条件ヲ備エルコトヲ必要トスル。
 .. 知事ノナソウトスル施策ガヨクワカル人デアルコト
 .. 人好キサレ、押出シノキク人デアルコト
 .. 新聞報道ニ理解ガアリ、新聞記者ニ親シマレル人柄デアルコト
. . アル程度、英語ガワカルコト
このように富山県に対するサゼッションは具体的であり、PROのチーフの資質についても言及している。
しかし、これは特殊例のようだ。富山県には知事室にPROを設置していることを求めているが、群馬の軍政部は群馬県に対してPROを知事部局に設置することを拒否している。知事の宣伝機関になる懸念があるというのがその理由である。
このように、GHQの指導は地区や軍政部の担当者により、かなりの差がみられる。
GHQのサゼッションの時期は件によって異なる。早い部類に入ると思われる埼玉県には6月中か遅くとも7月初めにはサゼッションを受けている。石川県も同じ頃のようだがが、先ほどの富山県は暮れも押し詰まった12月。隣同士の県でも半年近い時間差がある。
ところで、サゼッションのなされた1947年とはどのような年なのであろう。日本国憲法が前年11月3日に発布され、この年5月3日から施行される。新憲法の着地に向け、4月1日からは63制の義務教育がスタートし、5日には初めての知事の公選や市町村長の選挙、20日に第一回参議院議員選挙等が行われている。いわば日本の民主主義体制のスタートの時期にあたる。
PRO設立のサゼッションは、この時選ばれた公選知事により具体化され、49年ごろまでにはほとんどの都道府県に広報担当組織が置かれることになる。。

快眠健康法

2009年10月05日 10時34分50秒 | Weblog
電車で座るとすぐ寝てしまう。本を読むと睡魔に襲われる。果ては運転中に眠くなる。ともかくいつも眠いんです。
また、妻からは就寝中のイビキでしょっちゅう起されると文句を言われます。
さてはと思い病院で検査をしてもらいました。診断は案の定『睡眠時無呼吸症候群』。睡眠中に喉の筋肉がゆるんで気道をふさぎ、熟睡できなくなるという病気です。今の横綱白鵬も昔の大乃国も同じ病気とか。
私の場合は1時間に平均46回、長いときは78秒間、つまり1分以上も呼吸が止まっていました。
このまま止まりっぱなしになっても不思議ではないし、睡眠不足で車の運転中に事故も起こしかねません。危ないところでしたね。
医師が治療法として勧めてくれたのが陽圧療法。
眠るときに蛇腹のチューブで機械につながった鼻マスクを着用し、そこから持続的に鼻へ空気を送り込むことで喉の気道が閉じないよう圧力をかけるというものです。
鼻マスクを着けた寝姿は、おどろおどろしいものですが、この療法を始めてからは極めて快眠。何より寝覚めの爽やかさが違います。以来、1日たりとも手放せなくなりました。
今は、1泊の旅行でもキャリー付きのバックをごろごろ転がし、本体装置ごと持ち歩いています。
ご賢察の通りこの療法は対症療法に過ぎません。たとえば体重を少し減らすだけでも状況は好転するとのこと。
しかし、この療法があまりに簡単で快適なため、根本的治癒には取り掛かろうとの意欲がわきません。これではあまり健康法として胸は張れませんね。


目覚めよ知的好奇心

2009年09月02日 16時43分04秒 | Weblog
若い日の私は、まったく勉強せずに遊びまわる怠惰な学生でした。
40年ほど前の大学は、今ほど出席にうるさくないこともあり、毎日のように仲間と麻雀荘に入り浸っていました。
大学を卒業し広告会社に入社した私は、5年ほどして母校を担当する営業になり、再び大学に足を運ぶことになったのです。
遅い春のある日、時間が余った私は何の気なしに教室に入り、たまたまそこで行われていた授業に耳を傾けたのです。
衝撃的な経験でした。授業の内容が良くわかったし、しかも面白かったのです。
たまたま面白い授業だったということでしょう。しかしそれ以上に、5年間の社会人としての経験が授業への理解力や共感力を高めてくれたのです。
私は4年前からマスコミ学科で教鞭をとる一方、サテライトセンターの所長を務めています。大学時代に授業をサボっていた私が後日教員に転身するきっかけの最初のひとつが、この晩春の衝撃でした。
今日、生涯学習の重要性が叫ばれる理由がここにあります。学生のみならず、社会人や定年後のシルバー層など社会のさまざまな対象の知的好奇心に応えることも、大学の重要な社会的役割なのです。
江戸川大学の「サテライトセンター」は、地域のみなさまを主対象とした社会人学習の施設として、昨年より流山おおたかの森駅に隣接して開設されています。駒木会の会員は優待制度により半額で受講できます。
さまざまな講座を開講していますので、何かのついでにぜひのぞいてみてください。あなたに衝撃を与える運命のプログラムが含まれているかもしれません。


大衆消費社会の変遷

2009年08月01日 11時06分32秒 | 広報史
焼跡からの復興
「りんごの歌」が流れる焼跡。瓦礫の中の壊れた水道管からは水が漏れ出し、その上には、ただ青い空が広がっていた。
そんな焼跡を舞台に、早くもユニークなPR作戦が敢行されている。
「結婚とは何ぞや」「角萬とは何ぞや」。
廃墟の壁のあちこちに、この不思議な問いかけが落書きのようにペンキで書かれ、なんだろうと話題になった。
大塚の結婚式場「角萬」のキャンペーンである。自由恋愛の時代の到来を告げるかのようなその文字は、最盛期には都内を中心に600ヶ所に書かれていたという。
「りんごの歌」と「角萬」。それは、戦争が終わった安堵感と新時代の幕開けを飾る奇妙な明るさの象徴だった。

とはいえ、国民生活はどん底である。なにしろ食べるものがない。
田を耕すべき人は兵隊に取られ、肥料や農機具は不足。折からの冷害で食糧生産力は落ちていた。45年の米の収穫量は大正・昭和期を通じ最大の凶作であり、漁獲量も昭和期最低を記録している。
さらに流通機能は壊滅的打撃を受けており、都会での食糧の配給は恒常的に滞っていた。郊外に買出しに行かなければ食糧は手に入らないありさま。
そこへ、戦地や外地から、復員兵・引揚者が戻ってきたのだから、食糧への需要は高まるばかり。
悪性のインフレや新円への切り替えなどにともなう経済の混乱が加わり、重度の食糧難に陥った。
46年5月にスタートしたNHKラジオ「街頭録音」の第一回は、銀座資生堂前からの生中継だが、司会の藤倉修一アナウンサーの質問は「あなたはどうして食べていますか」だった。職も無く、食糧も手に入らず日本中が飢えていたのだ。
この放送の2週間後に皇居前広場に25万人が集結した食糧メーデーでは、参加者の一部が皇居に突入し、食糧事情改善を訴える騒ぎだった。
食糧管理法により闇での食糧の売買は禁止されていたものの、誰もが闇経済に頼らねば生きてはいけない。そんな中で、裁判官の良心を守るため闇米に手を出さず、しかも配給食糧を2人の幼子に優先的にまわしたため、自らは栄養失調で餓死した東京地裁の山口判事の日記が朝日新聞に掲載され大きな話題となったのは、47年秋のことである。
このような日本の食糧事情を救おうと、サンフランシスコ在住の日系人が中心になり設立された「日本難民救済会」が日本に送った救援物資が「ララ物資」である。その中身は長期間の輸送を考慮し、衣類と脱脂粉乳だった。戦後に育った子どもたちの多くが忌まわしい思い出としてその不味さを忘れない脱脂粉乳の給食はこのときから始まった。

そんな食うや食わずの国民生活が成長への階段を上り始めるきっかけとなったのが朝鮮戦争特需である。
1950年6月25日。北朝鮮の奇襲に始まるこの戦争は、3日で首都ソウルが陥落し、米軍を主力とする国連軍と韓国軍とは、8月のはじめには釜山周辺にまで追い詰められた。
この戦争で日本は国連軍への補給や修理を一手に引き受け、兵站基地の役割を担ったが、これが日本経済へのカンフル剤となった。この年日本の実質成長率は対前年2桁の伸びを記録する。
これが引き金となり、1952年には、まず紙パルプ・繊維・砂糖産業などが潤いはじめた。これらはいずれも白色の製品であることから「三白景気(肥料を数えることもある)」と呼ばれ、将来への明るい展望をうかがわせた。
こうして1946年に吉田内閣が国策として採用し、基幹産業に重点的に資金を投ずるという傾斜生産方式は一定の成果を挙げた。
農林水産業の生産高は50年には戦前の水準に達し、翌51年には鉱工業生産も戦前水準を凌駕した。肝心の生活水準の回復は特に都市部においてなかなか進まなかったものの、やがて特需景気の余波は消費生活にも着実に及びはじめたのである。


大衆消費社会の到来
日本人にとり、消費生活の憧れであり、お手本がアメリカである。
1949年から51年にかけて、朝日新聞朝刊に『ブロンディ』というアメリカの4コマ漫画が連載されていた。主役であるブロンディの夫ダグウッドは食べることと寝ることが趣味である。パンと具が何重にも重ねられたサンドイッチを食べる場面がよく登場した。当時の読者は空腹を抱えながらアメリカ流の生活への憧れを抱いたのだ。
後年、テレビが普及するなか、その勢いに危機感を覚えた映画会社は五社協定を結び、1961年10月1日を期してテレビへの劇映画提供を打ち切り、専属俳優のテレビドラマ出演も制限する。その穴を埋めるため、アメリカのテレビ番組が音声吹き替えで数多く放送された。「パパは何でも知っている」(54~63年)、「うちのママは世界一」(58~66年)、「サンセット77」(60年)、「サーフサイド6」(61年)、「ルート66」(62年)等がそれだが、ここに描き出されたアメリカンライフは当時の日本人にとってはまぶしすぎるシーンだった。大型冷蔵庫から取り出された大きな牛乳瓶は豊かさの象徴に感じられた。

電灯、ラジオは戦前から馴染んでいたが、アメリカの家庭をお手本とした電化生活は、アイロン、トースター、電熱器、ミキサー、扇風機、電話、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、テレビなど多くの耐久消費財を次々に日本中の家庭に送り届け、ついには日本オリジナルとも言える電気炊飯器を生み出すに至る。
その先陣を切ったのが洗濯機。1953年に三洋電機が従来の半額の価格で角型噴流式洗濯機を発売したことで電化ブームに火がついた。この年にはテレビ放送が始まり、家庭用冷蔵庫も発売されている。
そんなことから評論家の大宅壮一は1953年を「電化元年」と名づけた。

翌54年に景気は一時足踏み状態となるものの、55年には空前の好景気が訪れる。初代の神武天皇即位以来の好況ということから「神武景気」名づけられた好景気の中、大量生産大量消費社会が本格的に幕を開けた。1956年の経済白書の「もはや戦後ではない」のことばは、大衆消費社会の開始を告げるファンファーレだった。
この当時、人気の電化製品は神武天皇になぞらえ「三種の神器」と呼ばれた。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫がそれである。それぞれの品目の普及率を総理府の消費動向調査で見ると、白黒テレビの普及率が50%を越えるのが1961年、同じく洗濯機が61年、電気冷蔵庫が65年である。
これらの普及が一巡すると、カー(自動車)、クーラー、カラーテレビが新三種の神器、またはその頭文字をとり、3Cと呼ばれて消費生活を牽引した。それぞれの品目の普及率50%越えは、カラーテレビが72年、自動車78年、クーラー85年である。

大衆消費社会の定着の背景を整理してみよう。
1955年に生産性本部が派遣した「トップマネジメント視察団」(石坂泰三団長)が日本に紹介したマーケティングが理論的な裏づけを与えた。
消費生活の拡大を支える厚い中間層が存在した。なかでも団塊の世代に注目する必要があるだろう。アメリカのベビーブーマーが1946年から64年生まれまで19年の幅を持っているのに対し、日本の団塊世代は、49年の優生保護法改正で経済的な理由での妊娠中絶が容認されたことから出生数が減少し、1947年から49年生まれの3年の幅でしかない。しかし、この3年間の800万人に及ぶボリュームゾーンの存在は大きく、常にマーケットの中心ターゲットでありつづけた。
マスメディアの成長も大きな要因である。53年にテレビ放送がはじまり、56年の週刊新潮発売を契機に59年にかけて週刊誌の創刊が相次ぐなど、本格的メディア時代もまた幕を開けたのだ。
別項で述べるよう、この状況を背景に、50年代後半から日本にも専門PR会社が相次いで誕生する。しかし時代の花形はマスメディアを使った広告であり、広報はパブリシティを中心に広告の保管機能としての役割を求められることが多かった。
電通PRセンターの創立は61年だが、創立当初はそのようなパブリシティが売上の9割を占めていた。クライアントの依頼を受け、社員や嘱託の取材記者(その中には直木賞候補作家や、雑誌記者などが含まれていた。)が猛烈に筆を走らせて記事を書き、それを新聞社や雑誌社に送稿し掲載を依頼するスタイルが中心だったという。

朝日新聞が63年7月から8月にかけて「商品誕生」企画記事を連載している。この中から当時のPR活動の痕跡を探ってみよう。
62年12月、厚木ナイロンは「伝線しないシームレス」と名づけたストッキングを発売した。選考する競合他社に対抗するため、同社は新聞全ページ広告、雑誌18誌とテレビ広告も積極的に実施。さらに当時の費用で1.5億円を投じて、全国50万人の高校卒業する女性にサンプルを配布した。これにより「ノーランは厚木」という定評を確立した。

ソニーが画期的なテレビを開発しているとの噂は61年春から兜町でささやかれていた。その年の暮れになりソニーは突如テレビ工場の見学ラインを閉鎖する。天皇皇后の本社工場見学の折にも視察ルートからはずす念の入れようだ。
62年4月になり、ソニーは僅か5インチの白黒テレビの発売を発表した。百人を超えるアメリカからの証券視察団の来日直後だったこともあり、ソニーの株価は劇的に上昇した。
また、テレビが一家に一台の時代から2台目のテレビが家庭に入り始める時期だったこともあり、国内でも輸出でもこの商品は爆発的な反響を呼んだ。
同社は、前年10月にニューヨーク五番街にショールームを開設している。これはアメリカ市場攻略のためのマーケティング拠点であることはもちろんだが、国際資金調達のためのIRの一環でもあった。国際銘柄ソニーの先見性を示すPR事例といえよう。

かつて家の前には、コンクリート製や黒いタールで塗られた木製のゴミ箱が備えられていた。オリンピックを契機に東京の街からはゴミ箱が消えポリ容器に替わった。
このポリ容器は積水化学の製品である。同社の専務がニューヨーク出張の折に目にした金属製のゴミ容器にヒントを得て試作を行っていたものだ。
61年正月、東龍太郎東京都知事はオリンピックまでに町をきれいにしようと都民に呼びかけた。これを聞いた積水化学は仕事始めの1月5日にポリ容器を知事室に持ち込む。たまたま、東京都ではニューヨークの清掃局長からゴミ容器の改善が機械化の大前提とのアドバイスを受けていたとのことで、直ちにテストを行い、8月にはポリ容器を推奨する都の方針も決まった。
これを受け積水化学は社内に「街を清潔にする運動推進本部」を設け、パンフレットやPR映画を作成。東京都にとどまらず、市町村、教育委員会、婦人会などに対し「ゴミ箱はハエや蚊の巣となり不衛生なばかりか、悪臭のもとであり、都市の美観を損ね、交通の障害ともなる」と働きかけ、一挙にポリ容器を普及させた。こうして企業と行政の連携は生活習慣を変えた。

人並み消費から差別化消費へ
『オリンピックをカラーで見たいカラーで見せたい』。
1964年の三菱電機の新聞広告のキャッチフレーズである。この年、テレビの普及率は87.8%。皆がカラーテレビで見るなら我が家もカラーテレビを買いたい。横並び発想の『人並み消費』がこのころの消費の特徴である。この年に若者向けの週刊誌『平凡パンチ』が創刊されるが、この影響で男子大学生はみなアイビールックで着飾るようになる。
女性ファッションを見ると、1965年英国のマリー・クワントが発表したミニスカートは67年イギリス出身のモデル、ツイッギーが来日すると日本でもブームとなり、老いも若きもミニスカートを着用するようになる。
美空ひばりまでがミニスカートで『真っ赤な太陽』を歌う始末だ。

ミニスカートの大流行が終わると、多様化の時代に突入する。スカートでいえば、ミディやマキシなどそれぞれの個性に応じ裾の長さを選択する時代に入った。いわば差別化消費の時代の到来である。
『となりの車が小さく見えます。』は、70年の日産サニー1200の広告のキャッチフレーズである。となりの車とはライバルのトヨタカローラ。カローラが1100CCのエンジンを搭載し『プラス100の余裕』をキーワードに市場を席巻したのに対抗し、排気量をそれまでの1000から1200CCに増強し、巻き返しを図ったのだ。

高度成長期は、各社が技術革新や新商品開発により差別化をはかり、熾烈な競争を繰り広げた時代であった。時計市場を見てみよう、この市場のトップリーダーはセイコー、そしてチャレンジャーはシチズンだった。
三愛グループの総帥でリコーの創業者である市村清は、59年の伊勢湾台風で甚大な被害を受け業績低迷していた名古屋の時計メーカー高野精密工業の再建に乗り出し、リコー時計に社名を変更の上先行するセイコー、シチズン追撃にかかった。
当時はまだ竜頭でゼンマイを巻いて動力とする機械式の時計の時代。進みすぎたり遅れたり、時計は狂いやすいものだった。時間を正確に刻むためには磨耗しやすいムーブメントの軸受けにダイヤモンドなどの宝石を使っており、各社は14石や21石などと、使用している宝石の数を表示することで正確であることをアピールしていた。
リコー時計の市村清は、先行するセイコー、シチズン追撃のため、当時欧州で出始めていた、カレンダー機能と自動巻機能に加え、国産品最多の33石を使った「リコーダイナミックオート33」を62年に思い切った低価格で市場に投入する。
新発売に合わせ広告やPRを集中し、また百貨店での販売促進に注力したことが図にあたり、発売直後にある都内主要百貨店では1日59個の売上新記録を達成しヒット商品に名乗りを上げた。
技術革新という点ではシチズンも負けてはいない。
衝撃に強い耐震性能を「パラショック」と名付け、1956年6月10日の時の記念日に、大阪でヘリコプターから10個の時計を投下しその性能を証明した。この成功に気をよくした同社は、以降、全国各都市で市役所・公会堂・新聞社などの屋上から、あるいは試合開始前の野球場でセスナやヘリコプターから投下実験を行い、止まらなかった時計の数を当てる懸賞企画などを連動させPRにつなげた。
60年には、名古屋のテレビ塔からの投下実験がCBCからニュースとして全国18局のネットで放送された。たまたま、安保騒動の節目の一つである「ハガチー事件」の当日の放送だったことから、期待を上回る視聴率だったという。またこの日、北海道で行った実験の模様は、後日、週刊文春でパブリシティ記事として掲載された。
シチズンは防水機能を「パラウォーター」と名付けている。このPRのためにシチズンが防水性の実証および黒潮海流調査を掲げ実施したイベントが太平洋横断テストである。
1963年「フレンドシップくろしお’63」と名付けた木製ブイ合計130個に調査票とパラウォーターの時計を取り付け、房総半島野島崎沖から黒潮に投下した。また翌年3月には日本海を流れる対馬海流に、6月にはプラスチック製に改めたブイを犬吠岬沖から再び黒潮に投下した。これらのブイのうちいくつかはアメリカ大陸など各地に漂着し黒潮の動態データを明らかにするとともに、パラウォーターの機能を証明することに成功した。このブイ投下キャンペーンは1974年まで続くが、1983年になりオーストラリアのロングリーフビーチでフジツボが付着した同社の時計が動いたままで発見されたという。

シチズンやリコー時計からの挑戦を受けてたつ時計業界のリーダー企業はいうまでもなくセイコー=服部時計店である。1881年創業の服部時計店は、1913年には国産初の腕時計を発売。以来一貫して業界トップの地位にあった。1953年8月初の民放テレビとして日本テレビが開局した折には、日本初のテレビCMを放送している。まだ技術が未熟なテレビはCMのフィルムを裏返しに映写機にかけてしまい、時報の秒針が逆周りとなり、日本初のCMは日本初の放送事故だったという笑えないエピソードも残している。
また、昭和時代の大晦日から元旦にかけては、民放テレビはすべて「ゆく年くる年」という共同制作の同じ番組を放送していた。NHKも同じ題名の番組を編成しているが、民放のものとは別である。この「ゆく年くる年」のスポンサーは、第一回から最終回までセイコーの一社提供だった。つまり昭和時代のセイコーは、時計業界だけでなく、広告主としてもリーダーの一社だったのである。
そして、そのセイコーが国内にとどまらず国際的にも時計業界のリーダーとなったのが、東京オリンピックの公式計時である。それまで戦後一貫して担当していたオメガに替わりセイコーが担当したのだ。セイコーの時計の品質と計時の正確さの賜物である。
そのセイコーが1969 年に世界の時計業界に更なる激震を与えたのが、水晶振動子を精度の核として据えたクオーツウオッチの発売である。これをきっかけに時計の精度は飛躍的に向上し時間が狂わなくなった。
技術の平準化により時計が狂わないようになり、カレンダー表示、防水機能、耐震機能、自動巻などの付加機能も一般化してくると、時計を技術や機能で差別化することが困難になっていった。デザインや企業イメージ、ブランドなどモノそのもの以外の要素で差別化せざるを得なくなってくるのだ。企業イメージの確立を目指すCI=コーポレート・アイデンティティブーム到来の背景の一つがここにもある。


個性化消費の進展と大衆の消滅
1973年と79年の二度のオイルショックにより、日本経済は高度成長から安定成長へと軌道を変える。
実質経済成長はそれまでの2桁成長から1桁に落ち込み、74年度は-1.2%にとどまる。耐久消費財がすでに普及していたこともあり、消費生活は足踏みを余儀なくされる。
国民生活の需要喚起のためにはこれまでのマーケティングは通用せず、新たな取り組みが模索されるようになった。こうしていくつかの新しい考え方が注目を浴びる。
例えば、ライフスタイルマーケティングであり、モノ消費からコト消費への転換である。
いずれも60年代から一部で取り組まれていた手法が安定成長時代のマーケティングとして浮上したものだ。

井関利明が1975年に『ライフスタイル発想法』を上梓し紹介したライフスタイルマーケティングは、商品を売るより商品のある生活を売ろうという発想で、企業はこの考えに立って、消費者に生活提案を行うようになった。
サントリーは1970年ごろから「二本箸作戦」と称して、サントリーオールドをこれまで日本酒しか置いていなかった、寿司屋、天ぷら屋、割烹などの和食店に置き、さらには家庭にも浸透させようとした。この戦略が成功し、70年に100万ケース前後だったオールドは、74年に500万ケース、78年に 1000万ケースの大台に到達する。「和食にも洋酒を」という生活提案が受け入れられた事例である。
また、キッコーマンの吉田節夫(後に専務取締役を務めた)は、食を、「食糧」「健康」「文化」の3つのレベルでとらえ、食文化戦略の推進を広報戦略の柱に据えた。料理教室の開催や野菜など素材の特性を訴える広告の展開などを通じ、キッコーマン流の食文化の訴求によるキッコーマン商品の拡販を狙ったのだ。

総理府(現内閣府)は『国民生活に関する世論調査』を毎年実施し、その中で物の豊かさと心の豊かさのどちらをより重視するかという項目を設けている。1972年のアンケート結果では物の豊かさを重視するもの40.6%で、心の豊かさの37.3%を上回っているが、76年頃から79年にかけて、両方の答えがいずれも40%前後で拮抗し、80年代に入ると心の豊かさの回答が一貫して増加し始めた。低成長下のものあまりの中、精神的な充実が求められるようになったのである。こうしてモノ消費からコト消費が注目されるようになったのである。大阪万博後の旅客の落ち込み対策として当時の国鉄が展開したディスカバージャパンキャンペーンが火をつけ、アンアンやノンノなどの女性誌が積極的にとりあげた旅行は代表的なコト消費である。

日本楽器は1959年以来、ピアノ、オルガンやエレクトーンをはじめとする楽器の拡販のため、ヤマハ音楽教室を開設していたが、コト消費のニーズに応えるため身近な音楽を普及させようと、69年には「ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」を開催。また、三重県志摩市に「合歓の郷」、静岡県掛川市に「つま恋」、縄県竹富町に「はいむるぶし」等のリゾートをオープンした。さらに、スキー板やレジャーボート、アーチェリーなど余暇関連商品を次々に開発、雑誌やテレビのタイアップなどを駆使してコト消費の旗手となった。

ライフスタイルマーケティングやコト消費の旗手といえば、セゾングループを忘れるわけにはいかない。
西武百貨店池袋店は1975年に9期リニューアルを行い新装オープンするが、当時ニューファミリーと呼ばれた団塊世代を意識し、これまでの百貨店の常識を打ち破る店作りを行った。
百貨店から専門大店への転換を標榜したこの改装で、デザイナーブランドのショップインショップや、書籍やスポーツ用品の圧倒的品揃えを行い、さらには西武美術館やスポーツ施設を店内に開設。「遊休知美」をテーマに「モノ」から「コト」に至る品揃えを充実させた。また、アメニティを重視し、百貨店の新しい方向を示した。
この店作りの延長線上で、糸井重里のコピーを前面に出したイメージ戦略を展開する。
「じぶん、新発見。」(81年)、「不思議、大好き。」(81年)、「おいしい生活。」(82-83年)と続く同社のキャンペーンは、消費そのものが自己実現の手段として個性化の時代に入ったことを指し示すものだった。
個性化が行き着くところは、マスの論理の破綻である。電通の藤岡和賀夫は1984にその著書「さよなら、大衆。」の中で少衆論を展開した。85年には博報堂生活総合研究所が「分衆の誕生」を上梓する。大衆消費社会を支えた大衆そのものが転機を迎え分衆・少衆に再編されたのだ。
そしてメーカーは大量生産方式から多品種少量生産へと舵を切る。
かくして大衆消費社会は解体され、時代はバブル景気を迎える。

選挙とイメージ戦略

2009年08月01日 11時04分59秒 | 広報史
1.アメリカ大統領とマスメディア

超大国アメリカに若き大統領ジョン・F・ケネディが登場した。当時43歳。70歳のアイゼンハワー前大統領からは30歳近い若返りである。
1961年1月20日の就任式に臨んだケネディは、国民に対し『国がなにをしてくれるかではなく、諸君が国のために何が出来るかを問い直して欲しい』と呼びかけ、『たいまつは若い世代に引き継がれた』と宣言し国民の熱狂的な支持を獲得した。
ケネディが、ニクソンとの史上稀に見る伯仲した選挙戦を勝ち抜く決め手となったのが、「グレート・ディベート」と呼ばれた候補同士の討論会である。前後4回行われた討論の模様はラジオ・テレビを通じ全国に放送された。特に1960年9月26日シカゴで行われた第一回の討論は、有権者の60~65%が視聴したといわれる。
白熱した第一回討論の勝敗は微妙だったようだ。ラジオで聴いた人はニクソンの勝利と思い、テレビで見た人はケネディに軍配をあげたとの説もある。
その理由は、ダークな色調のスーツにテレビ用のメーキャップを施したケネディの溌剌とした印象に比べ、背景に溶け込むような淡いグレーのスーツで、疲れきり顔色の優れないニクソンは弱々しくやつれて見えたからだそうである。
ケネディは、前政権で副大統領としての経験を積みスピーチも巧みな対立候補ニクソンと互角に渡り合うことで、若く未熟なカトリック教徒という評判を払拭する契機とし、僅差ながらもニクソンを凌駕する結果につなげたのである。

ところで、アメリカの政治はいつも最新のメディアを取り入れることに貪欲である。
時代を遡れば20世紀初頭、ピュリッツァやハーストなどのイエロージャーナリズムにより新聞メディアが勃興した。世界初のPRエージェンシーといわれる「パーカー&リー社」もこの時期に設立される。この潮流をいち早く取り入れたのは1901年に就任したセオドア・ルーズベルトである。彼は「新聞の見出しで政治を行う大統領」と評された。
二代後のウッドロー・ウィルソン大統領は、第一次世界大戦への参戦にネガティブなアメリカの国論を転換するために「クリール委員会」と呼ばれる世論操作のためのプロジェクトを組織し、PRの手法を本格的に政治に取り入れた。
やがてラジオが当時のニューメディアとして登場する。これをフル活用し、「炉辺談話」と名付けられた生番組を通じて国民へ直接語りかけたのがフランクリン・ルーズベルトである。
テレビへの注目も早い。1952年の大統領選挙では、共和党が広告会社のBBDOを起用しアイゼンハワー候補のテレビCMを流している。さらに1956年には民主党もテレビを中心にすえたキャンペーンに本格的に参戦し、共和党との間でテレビCMの空中戦が華々しく繰り広げられた。当時中心となったのは、5~10分のスポットCMで、「瞬間演説」と呼ばれていた。今日の政党テレビCMが15秒か30秒であることを思うと、隔世の感がある。
このように、選挙戦へのテレビメディアの活用は、必ずしもケネディ=ニクソン対決から始まったわけではなく、その前史があることに留意する必要がある。しかし、テレビの特性をはっきり生かしきり、使いこなしたのはケネディであった。


2.タレント議員の誕生

ケネディ=ニクソン対決の前年にあたる1959年4月10日。日本では皇太子殿下(今上天皇)ご成婚があり、テレビの普及が進んだ。また週刊誌の創刊も相次ぎ、わが国でも本格的メディア時代が幕開けを迎えていた。
テレビの世帯普及率をNHKの契約データからたどると、58年には10.4%に過ぎなかったが、59年には23.6%と倍増し、ケネディの就任した61年には62.5%とうなぎのぼりに普及している。そして、テレビの普及率が79.4%に達した1962年に行われたのが第6回参議院選挙である。

この参議院選で初めて、テレビの作り上げたタレント議員第一号が誕生する。
参議院全国区は『残酷区』といわれるほど候補者に過酷な選挙戦を強いる選挙区で、全国的な組織票を背景とした候補がくつわを並べるのが常だった。
そこに立候補したのが、当時、NHKのお化けクイズ番組『私の秘密』(月曜19:30-20:00)のレギュラー回答者としてお茶の間の高い知名度と人気を誇っていた藤原あきである。
藤原あきは、和服姿のすずやかな物腰とうらはらに、それまで数奇な人生経験を重ねてきた女性だった。
三井財閥の大番頭中上川彦次郎の娘として生まれ、福沢諭吉の姉の孫にあたる。
若くして歳上の医者と親の決めた結婚をしていた藤原あきは「われらがテナー」と呼ばれた人気オペラ歌手藤原義江と恋に落ち、スキャンダルとして満天下の話題をさらう。やがて彼女は二児を残して婚家を出奔し、藤原義江を追ってミラノに赴く。
藤原義江と再婚したあきは、彼の主宰する藤原歌劇団の運営に尽力するが、夫の女性関係に疲れて離婚。資生堂の美容部長を勤めながら、私の秘密に出演していた。

このテレビ人気に目を付けたのが、彼女のいとこに当たり同じ福沢諭吉山脈に連なる藤山愛一郎だった。
藤山コンツェルンの御曹司である藤山は、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、日本航空初代会長、大日本製糖社長などを務める財界重鎮であったが、岸内閣の外務大臣に就任したことを契機に政界に転身し、当時は藤山派を率いていた。
藤原あきの選挙事務所の事務長は小泉純一郎の父・純也代議士。しかし、実質的に選挙運動を仕切ったのは後に政治評論家として活躍する飯島清だった。
ケネディの選挙戦の分析などを通じ、近代的選挙戦術を模索し、仲間と提言をまとめていた飯島は、藤山愛一郎の求めに応じ、自らの選挙理論の実験の場として、藤原あきを担いで、参議院選挙に挑戦したのだ。
選挙戦に突入すると、特に下町の主婦に藤原あきの人気は絶大だった。結果としてそれまでの最高記録を塗り替える116万票を獲得し、全国区でトップ当選を飾る。テレビ番組の人気を議席につなげた第一号のタレント議員である。


3.革新都政

首長選挙でのイメージ戦略のエポックとなったのが1967年の東京都知事選挙である。
1960年に始まった日本の高度経済成長は、池田内閣の策定した全国総合開発計画に導かれ世界史的に見ても前例のない発展を示した。その牽引力となったのが太平洋ベルト地帯の開発であり、高度経済成長期前半の頂点が1964年の東京オリンピックだった。
オリンピックに向け、代々木や駒沢に競技施設が整備され、新幹線やモノレール、高速道路が開通し、東京は大きく変貌した。
しかし、急激な発展の裏には成長のひずみが潜んでいた。
まず、オリンピック優先のために後回しにされた都市環境の問題である。交通渋滞は慢性化し排気ガス公害も問題となった。都心部の川の表面には、メタンガスの泡が常に湧き上がっていた。また、人口の一極集中化にかかわらず住宅整備は立ち遅れ、遠く高く狭い住宅への不満が鬱積していた。
次にオリンピック後の不況である。
施設や交通の整備が終わり建設需要が冷え込んだ。カラーテレビの売れ行きも一巡した。諸物価高騰の中で景気は低迷し、高度経済成長は踊り場を迎える。
山陽特殊鋼などの大型倒産が相次ぎ、とうとう当時の四大証券会社の一角を占めていた山一證券が破綻の危機に追い込まれた。田中角栄蔵相の決断により、日銀が特別に資金を融資することでようやく踏みとどまった。
3番目に政治不信の高まりである。
国政レベルでは、田中彰治衆議院決算委員長が小佐野賢治国際興業会長を脅迫し逮捕されたり、荒船清十郎運輸大臣が選挙区に急行列車が停まるようむりやり国鉄に圧力をかけたり、社会党の相沢重明参議院議員が共和製糖に関連した国会質問に絡み金銭を受け取るなどの事件が相次ぎ、一連の黒い霧として問題化し、ついに佐藤総理は人心一新のため、1966年末に国会を解散する。「黒い霧解散」である。
都政のレベルでは黒い霧はさらに深刻だった。都庁は「伏魔殿」と呼ばれ、行政・議会・業者の癒着がかねてから噂されていたが、1965年には都議会議長選挙を巡る買収事件が発覚し17議員ガ起訴されるにいたり、議会機能は麻痺し、紆余曲折の末解散した結果、自民党は社会党に次ぐ都議会第二党に転落した。

こうした状況を背景に、都知事選挙が行われた、上げ潮に乗る野党は社会党と共産党が協定を結び東京教育大学教授美濃部亮吉を擁立する。美濃部はマルクス経済学者で、NHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者を務め、ブラウン管から見せる柔らかな笑顔はお茶の間から親しまれていた。戦前に天皇機関説を理由に軍部や右翼から攻撃された美濃部達吉の長男にあたることもあり、名前も顔も売れた学者だった。
テレビ出演を通じて大衆のこころをつかむことに長けた美濃部は、斬新な戦法を導入する。日本にCI戦略が導入されるのは1970年前後だが。それにさきがけてCI的手法を展開したのだ。
まず、候補者名の「美濃部」が覚えにくいとして、かな書きで表記する。
選挙戦にシンボルマークを導入したことも斬新だった。マークのデザインは真中を白く抜いた円。いわゆる蛇の目紋だ。青空をイメージさせるライトブルーがシンボルカラーとして採用される。
このシンボルカラーは、宣伝カー、パンフレット、看板、候補者のネクタイ、運動員の腕章、事務所のくずかごに至るまで、すべてに統一的に展開された。マークのバッジは5万個つくったといわれる。今日の選挙では、運動員がおそろいのTシャツを着用することが珍しくないが、その祖形はこのときの選挙にある。
美濃部に敗れたのが前立教大学総長松下正寿。美濃部220万票に対し206万票という僅差であった。
自民党は当初東龍太郎前知事の下で副知事を務めていた鈴木俊一を候補に考えていたが断念。民社党推薦の松下候補に相乗りし「馬の尻尾にハエがとまるのではなく、ハエの尻尾に馬がとまった。」といわれた。
松下陣営もイメージ選挙には力を入れた。専属のスタイリストをつけ、スーツやワイシャツを選び、メガネも取り替えさせたという。目つき、口元、タバコの吸い方についてもアドバイスをする。あきらかにケネディ選挙を意識した対策である。
さらに、テーマソングとして「松下正寿の歌」もつくり、宣伝カーや演説会場で流したという。
このように、タレント候補の擁立にとどまらず、選挙運動そのものがイメージ重視のキャンペーン型に変化してきたのである。

4.タレント候補ブーム

テレビで名前と顔が売れている候補が選挙に強いことはもはや明らかだ。美濃部都知事当選の翌年、1968年に行われた参議院選挙で、自民党は全国区に有名人の候補者を複数擁立した。
芥川賞作家、石原慎太郎(301万票=得票数、以下同じ)、直木賞作家の今東光(102万票)、東京オリンピックで女子バレーボールに金メダルをもたらした大松博文監督(82万票)である。
また、無所属からは、ブラウン管に顔を出す放送作家の青島幸男(120万票)とお笑いの漫画トリオのリーダーである横山ノック(67万票)とが殴りこみをかけ、このいずれもが議席を得る結果となった。

トップ当選を果たした石原の300万票を超える得票はいまだに破られない最高記録である。35歳の石原慎太郎を空前の得票に導いた選挙参謀が、藤原あきの116万票を支えた飯島清である。飯島は後年、その著書「~科学的選挙戦術応用~ 人の心をつかむ法」でこのときの選挙の裏側を披露している。その中から飯島戦略のポイントを拾ってみよう。
選挙参謀を依頼されてすぐに飯島は2000サンプルのアンケート調査により、石原候補のイメージ特性を調べた。
すると、都市部に強いものの地方では名前も顔も売れていないことが明らかになった。都市部でさえ名前を知っているのは60%、顔を知っているのは10%にとどまっている。
しかし、弟の裕次郎は全国平均で90%が名前も顔も知っている。そこで、裕次郎を応援弁士として活用し、公示の半年前から全国くまなく回ることから事前運動をスタートした。裕次郎人気によりどこも満員の盛況で、開場前にいかないと入れないとの噂が広範にながれた。
アンケート結果から浮かび上がった石原のイメージプロフィールは、「若くてスマートで有能。だけどちょっと冷たい」というものだった。
この冷たいイメージは払拭しなければならない。そこで、20本のテレビ番組に出演の機会をつくり本人の素顔を見せ、人間的な温かいイメージを浸透させた。さらに夫人と4人の子息を雑誌取材などの折には前面に出した。35歳にして4人の子沢山、しかも全部男の子というのは、当時でも珍しく、家庭的イメージを演出することができた。
公示後は、胸に日の丸をつけた白のジャケットで颯爽と登場させ、若さとさわやかさを強調する。また、ケネディ戦術に範を取り積極的な握手戦術を展開した。
ポスターは都市部用のアート感覚を活かしたものと、地方用のオーソドックスなものを使い分ける。宣伝カーから流す呼びかけのテープは、元気な朝バージョン、いたわりの夜バージョンなど、朝昼晩で3種類を使い分けるというきめ細かさだ。

調査結果の分析を踏まえターゲットを明確に絞り込み、しっかりとしたポジショニングに基づきキャンペーンを展開していることが理解できよう。日本で始めて選挙に近代的マーケティングを持ち込んだのが、1968年参議院選の石原慎太郎だった。
そればかりではない、舞台裏では組織の応援も受けている。資生堂、東洋工業、ヤクルト、日本生命、霊友会、裏千家、小原流、長崎屋などであるが、飯島はこの組織で120万票を固めきったと語っている。

石原陣営の緻密でシステマティックな展開に比べ、無所属の二人は行き当たりばったりだ。横山ノックの選挙事務所は千里ニュータウンの自宅。60万円の選挙資金と6人の運動員のみ。時には寝袋で野宿しながら全国を車で回り、当選にこぎつけた。
青島幸男も中野ブロードウェイの自宅マンションを事務所に、改造したフォルクスワーゲンを駆って、応援組織の無いまま20都道府県を回る選挙戦だった。かかった総費用は120万円。ワーゲンの上に組んだやぐらにあぐらをかいて聴衆に語りかけ、話し終わると車から飛び降りて聴衆と対話を重ねた。

東大紛争がおこり、巷にミニスカートの溢れていたこの年のテレビの世帯普及率は既に96.4%に達していた。
テレビッ子世代とも呼ばれた団塊の世代は1947から49年に生まれている。この世代の先頭ランナーが初めて選挙権を行使したのがこの選挙だった。
また、高度成長の進展に伴い、人口は都市に集中し、旧来の地縁血縁に頼る組織選挙が都市部では機能しなくなり始めていたのである。
テレビの浸透と都市化の進展。この時代の風を受けて大空に翻った2つの凧が青島・ノックであった。ことによると、石原より、青島・ノックの方が時代の変化をを敏感に反映していたのかもしれない。タレントが安直に立候補し、安直に当選する構図はこれ以降国政選挙のたびに見られるようになる。


5.選挙に活かす広告キャンペーン手法

社会党の論客だった飛鳥田一雄は1963年に横浜市長に当選していた。これを皮切りに全国各地に革新首長が誕生する。その中で迎えた1971年の統一地方選挙は各地で保守対革新の激突が見られた。
その中で飛鳥田は横浜市長として三選を果たした。
東京は美濃部知事の2期目にあたる。美濃部は『ストップ・ザ・サトウ』を掲げ、中央との対立の構図を鮮明にすることにより佐藤栄作長期政権に倦んだ都民の気持ちを捉えて362万票を獲得、保守系で194万票集めた秦野章を一蹴した。
そして、東京と横浜にはさまれた川崎の市長に、保守系の金刺不二太郎の七選を阻んで当選し京浜革新ベルトを完成させたのが伊藤三郎だった。
一見、人の良い村夫子然とした伊藤は川崎市の職員組合の中央執行委員長を務め、自治労でも活躍していた典型的組合幹部だった。その彼が温厚で誠実な人柄と強い責任感を買われ、多選批判の中、むりやり候補に擁立されたのだ。
伊藤は公害対策、母と子と老人を大切にする社会福祉の充実、市民による市政の3点を公約に掲げ立候補したが、当初は無名の候補に過ぎず現職有利と思われていた。
その票読みに反し劇的な逆転劇を演じた舞台裏にはひとりのアドマンがいた。
当時38歳。シマ・クリエイティブハウス社長の島崎保彦である。幼い女の子に「おか~さ~ん」と叫ばせるCMによって、業界120位にすぎなかったハナマルキ味噌を、一挙に3位に押し上げた実績を持っていた。
島崎は産経新聞や東京放送を経て、1964年に広告会社のシマ・クリエイティブを起こしていた。ちなみに島崎の父は、電通の専務取締役として営業の責任者を務めた島崎千里である。
島崎保彦は伊藤と何度も話し合い、また、川崎の町を歩いて戦略を考える。
当時の川崎は京浜工業地帯のど真ん中。1,000本の煙突から1平方キロあたり30トン以上の煤塵が降るといわれた公害の町だった。川崎の駅をおりると鼻をつく異臭が漂い、いつもスモッグに閉ざされたような環境だった。
島崎は、候補者本人より、その政策を前面に押し出すことを考えた。そして作ったのがそれまでの選挙ポスターの概念を打ち破るユニークなポスターである。
白地の多いポスターの下部に、伊藤の写真と名前が控え目に配されている。上部には「雲をみたい まっ白な雲を」とキャッチフレーズが書かれ、その下にブルーの鳩のイラストがシンボルキャラクターとして添えられている。鳩の中に「みんなでつくろう、みんなの川崎」のスローガンを読み取れる。
白地の多いポスターは公害に苦しむ灰色の町川崎でよく目立ち、そのメッセージは深い共感を呼んだ。ポスターを撤去するなら自宅に飾りたいとの申し出る人もいた。
候補者の写真と名前をこれでもかというばかりに大きく扱うことが当たり前の選挙の中で、伊藤三郎のポスターは、政策訴求であり、コンセプトのアッピールであった。そしてこの表現を通して伊藤三郎の人柄がじわりと伝わっていった。たった一枚のポスターが選挙戦の流れを変えたのである。


ネットPRの現在

2009年07月05日 13時54分21秒 | PR戦略
■オバマ選挙のメディア戦略

大統領選挙でネットを本格的に活用したのは、04年の予備選でジョン・ケリーに敗れた民主党のディーン候補である。彼は選挙にブログや動画サイトを活用し、草の根の支持を獲得するだけでなく多大な選挙資金の獲得につなげた。
それから4年。ネット環境は大きく変化した。
ブロードバンド化で動画の視聴は容易になり、またWEB2.0をキーワードに一般ユーザーの参加型サイトが隆盛を極めるようになっていた。
08年のオバマ陣営はこのような変化をいち早く取り入れ、ネット時代のキャンペーンの輪郭をくっきりと描き出した。
そのメディア戦略を簡単にスケッチしてみよう。
まず伝統的メディアである「マスメディア」の積極的活用は選挙戦略の基礎である。
マケインの選挙費用3億6900万ドルに対し、オバマは今回の大統領選で、倍以上の7億4500万ドル(≒715億円)を集めているが、この豊富な選挙資金を原資にテレビスポットCMを大量に投下している。
それだけではなく大統領選挙投票日の6日前には約5億円の費用を投じ、全米7局で30分のインフォマーシャル番組を放送し、勝利に向け駄目押しをしている。
特筆すべきは「マイメディア」の積極的活用である。
マイメディアとはあまり聞かれない言葉だが、ウェブサイトやメルマガなど社会と直接受発信できる、自分のメディアと定義しておこう。
候補者が自分のウェブサイトを立ち上げるのは日本でも当たり前になっている。オバマのユニークさはそれに加えて、YOUTUBEに自分のチャンネルを開設し積極的に活用したことだ。
テレビでオンエアされる前のCMがYOUTUBEにアップロードされた。オバマのさまざまな演説、選挙スタッフからの応援要請も動画にまとめられた。1800本以上が公開され、合計で1億回以上ダウンロードされたという。
その他にもメールや携帯電話のアプリなどさまざまなネット機能を使い、迅速性・透明性・参加性を重視しつつ、市民に情報を公開していったのである。
また、このマイメディアは個人献金を受け付ける窓口でもあった。
オバマサイドからの情報発信を受け、支持者の中にネット内口コミが発生し始めた。いわゆる「バイラル効果」である。
支持者の個人ブログに加え、マイスペース、フェースブック、ツイッター、ディグ、アイフォンのアプリなど、人気のネットワークサービスがフル稼働した。これらのユーザー自身が情報を発信するメディアは、ソーシャルメディアとかCGMなどと呼ばれている。
私は、ソーシャルメディアとは、『擬似当事者』を生み出す仕組みだと思っている。ソーシャルメディアに投稿したり、動画を公開したり、献金した人間はそのテーマにいやでも関心を持たざるを得ず、あたかも当事者のような意識を抱くようになるのだ。
こうしてオバマ選挙は熱狂的なエバンジェリストやネット内有名人を生み出していった。彼らは時として自分たちで動画を作り、勝手に公開する。
例えばアップルの著名なCMをパロディにしたヒラリー・クリントン中傷動画はそのクオリティの高さもあって大きな話題となったが、その作者は普通の会社員だった。「オバマガール」と呼ばれる勝手連的動画もYOUTUBEに投稿され多くのアクセスを稼いだが、歌い踊った女性はこれを足がかりにテレビタレントへの道を歩んだ。
このようにしてオバマは社会現象となり、支持を広げ、献金を積み上げ、全米に「Yes We Can!」をキーワードとした熱狂を生み出し、大統領に登りつめたのである。

■ネット時代のキャンペーンの構図
オバマの選挙戦術に、1)マスメディア、2)マイメディア、3)ソーシャルメディアがミックスして使われたことは前項で確認した。この構図は選挙に限らず、キャンペーンの一般的モデルとして捉えられる。マスメディアやマイメディアを介した情報発信が対象者に届き、その情報がソーシャルメディアにとりあげられ自己増殖し、その話題が再びマスメディアに取り上げられることでなおさらソーシャルメディアが活気付くという連鎖の構図である。
そして、わが国でもこのようなキャンペーンを行うためのインフラ整備が進み、さまざまな事例が生まれ始めている。
まず、企業のサイトなどのマイメディアの状況を見てみよう。
インターネット広告推進協議会(JIAA)は、03年以来毎年東京インタラクティブ・アド・アワードを開催しており、この受賞作品が企業のウェブサイトの時々の動向を示すショーケースとなっている。
今年のグランプリは郵便会社がミクシィと手を組んだ「ミクシィ年賀状」。相手の住所を知らなくともミクシィを通じて年賀状配送の手続きをすれば、相手が自分で住所を書き込んで紙の年賀状を受け取るという仕掛けである。70万通の年賀状がこの方式で送られた。
リアルとバーチャルをつなげ、ユーザーのすぐれたしかけである。
この特集で事例として取り上げている「ラブ・ディスタンス」も受賞している。
目を世界に転ずれば、クリオ賞、カンヌ国際広告祭、ワンショーなどにインタラクティブ部門が設けられ、それぞれ優秀サイトを審査し表彰している。日本企業の受賞も数多い。前述の「ミクシィ年賀状」はカンヌで銅賞に輝いている。
このようにして、WEBサイトのクオリティは向上し続けている。ご興味があればそれぞれの受賞作品のサイトはチェックしておくべきだろう。
最近の傾向を見ると、1)ブランドごとに個別のサイトを公開する。2)企業からの一方通行の情報提供ではなく消費者が参加でき遊べるプラットフォームを提供している。3)他人に紹介しやすく紹介したくなるシンプルな内容とする。
以上3つのポイントを指摘できよう。

■ソーシャルメディアのちから
「WOWエフェクト」という言葉がある。
もともとは低音域をくっきりと再生する音響技術を意味していたが、最近は「ワオッ!」という新鮮な驚きを与えるという意味でも使われるようになった。バイラルとはウィルスが広がるように口コミが広がるという意味だが、バイラルを生み出す必要条件の一つがWOWである。オバマは候補者そのものがWOWであったし、政党が相次いでYOUTUBEにチャンネルを開く中、ニコニコ動画を活用した小沢一郎戦略もひときわ話題となるWOWをそなえている。WOWがなければ、ソーシャルメディアではひろがらない。
そして、いち早くWOWを見つけ出し、バイラルとして話題を広げる媒体となるのが、ブログやSNSなどのソーシャルメディアである。
世界中のブログの37%が日本語で、英語の36%を上回っているという06年の調査がある。日本はブログ大国なのである。数多いブログの中から、面白く参考となるブログがアクセスを集め、メディアとしての力を持ち始めてきた。そのようなブログの執筆者は、この特集でインタビューしている徳力基彦氏によりアルファブロガーと名づけられたが、これらブロガーにさまざまな情報を提供する「ブロガーミーティング」が、記者発表と並ぶ定番PR手法として定着し始めている。

■健全なブログマーケティングの模索
しかし、ソーシャルメディアが情報伝播力を備えるにつれ、メディアとしての信頼性をどう担保するかが問題として浮上してきた。
企業が個人ブロガーを装ってやらせ記事を書いたりライバル企業を誹謗中傷する懸念。個人ブロガーが企業から金銭を含めた対価を得つつちょうちん記事を書くケース。メディアとしての力を持てば持つほどジャーナリズムの倫理が求められることになる。
この問題を解決しようと、バイラルを仕掛ける側の企業やエージェンシー、有力ブロガー、研究者などがあつまり、ブログマーケティングを健全に進めるためのガイドラインの制定が進んでいる。
問題意識を同じくする個人同士がネットを媒介につながり、運動として形を作り始めてきたプロセスをみると、オバマ支持者が横につながりオバマ現象を生み出していく流れを想起させる。
ソーシャルメディアの活用の方策は、自律的に分散している個人が互いに協調しつつ一定の秩序を生み出して行くプロセスのマネジメントである。
ネット時代の戦略的PRとは、マスメディア、マイメディア、ソーシャルメディアの3つの領域をひとつの視野に収め、その相互作用を計算しつつブームを作るフレームを構築することといえよう。その意味で、広告と広報の垣根を超え社会心理を読みきる洞察力がより一層求められているのである。

ネット内の評判作りをより健全に

2009年03月30日 16時17分56秒 | PR戦略
評判づくりにとってインターネットの存在は、いまや無視できない。
ダイエット情報はユーザーの体験ブログのほうが雑誌の広告より信用できそうな気がするはずだ。
「アマゾン」のユーザー書評、「価格COM」や、化粧品の情報交換サイト「@コスメ」の書き込み、「MIXI」での何気ないつぶやきが、確実に消費行動に影響を与えている。
ブログや掲示板、SNSなど一般の人たちが書き込むことで成立しているサイトは、CGM(コンシューマジェネレーテッドメディア)とかソーシャルメディアと呼ばれているが、 “デジタルクチコミ”媒体として、迅速且つ広範に評判を伝播させる力を備えた。
しかしながら、これらの情報は、時として匿名の陰に隠れ、その信頼度は必ずしも高くない。ライバル企業が意図的に特定ブランドの誹謗中傷を流すとか、金銭の授受を伴い実態とかけはなれた提灯記事をブログにアップするような情報操作も存在している。
テレビ番組で“やらせ”が許されないのと同様に、ネットでも素人を隠れ蓑とした不純な動機の情報は排除されてしかるべきである。
とはいえ、発信元が特定できるマスメディアと違い、不特定多数から発信されるネット情報をチェックすることは物理的に困難だ。他方、ブロガーに試供品を提供しそれぞれのブログへの記事掲載を依頼し、投稿された場合に何らかの対価を支払う「ペイパーポスト(Pay Per Post)」と呼ばれるサービスは既にビジネスとして成立している。
さてこのような状況下で、どうすればネット上の評判の健全性・有用性を担保できるのだろう。

アメリカにWOMMA=ウォンマと呼ばれるNPOがある。Word Of Mouth Marketing Associationの頭文字で、クチコミマーケティング協会と訳せよう。このWOMMAは、クチコミを広めるに当たっての倫理基準を定め、その基準の採用を企業やブロガーに呼びかけることを通じで健全化に寄与しようとしている。
たとえば、その倫理基準の中の特徴的なものとして「Honesty ROI」がある。
ROIは投資収益率にあらずして、Relationship、Opinion、Identityのそれぞれの頭文字。
ブログの筆者ととりあげる題材との関係、つまり、商品の提供や報酬があるなら正直にその事実を明示すべき(Relationship)、自分の意見をはっきりと述べるべき(Opinion)、自分の正体を偽ってはならない(Identity)。以上3つの正直を守る原則を意味している。
それぞれのブログが「Honesty ROI」を宣言し表示することを推奨し、信頼度の高いサイトを増やして行こうとの取り組みである。
確かにこの原則を守れば「Pay Per Post」の投稿も消費者にとって有益な情報となり、信頼性も増すはずだ。新聞雑誌の記事体広告のノンブルに【PRのページ】と表示されているのを目にすることは多いが、これをネットに適用したものといえるかもしれない。
このWOMMAの取り組みを参考に、日本の風土にマッチした倫理基準の検討を進めようとの動きが、昨08年暮れから浮上してきた。(http://womj.jp/)
面白いのはいかにもネットらしく、この問題に関心を持つ有志が個人の立場で集まり、横に広がりつつあることだ。今年前半には日本版のたたき台をまとめようとしている。
この動き自体がどれだけの広がりを持ちうるかは未知数だが、ネット評判の健全な発展のためにはこのような努力が地道に重ねられることが必要だろう。

ラヂオの時間

2008年10月23日 22時59分58秒 | Weblog
今から70年前の1938年10月30日。ちょうどハロウィーンの前夜のことです。CBSラジオから流れていたラ・クンパラシータの音楽が突如中断し、臨時ニュースに切り替わりました。
ニューヨークから程近いニュージャージー州に巨大な隕石が落ち、中から火星人が現れ、地球の侵略を始めたというのです。
これを聞いた多くのアメリカ人がパニックに陥りました。
隕石が落ちたと報じられた町では直ちに自警団が結成され、火星人と間違えて風車に発砲する始末です。森に逃げ込む人、毒ガスマスクを買い求めようと店を駆けずり回る人、ヒステリーを起こして失神し病院に担ぎ込まれる人・・・・。騒ぎは全米に広がりました。
この放送は、後に『市民ケーン』や『第三の男』などの映画で知られるようになる若き日のオーソン・ウェルズが、『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ作)の火星人襲来シーンをラジオドラマに仕立てたものだったのです。
その手の込んだ演出手腕が迫真のリアリティを生み出したのはもちろんですが、ラジオという、聴取者のイマジネーションを掻き立てるメディア特性が、このような大きな反響につながったといえるでしょう。

ラジオの楽しさがここにあります。
音声だけという限界が、聴取者の『想像の翼』を大きく広げてくれるのです。
テレビと異なり、たった一人でも作れる手軽さが、個人の『創造の魂』を形にしてくれるのです。
加えて、最近はポッドキャスティングなどで自由に情報発信できるようになりました。
テレビに比べ地味に見えるラジオですが、表現メディアとしてむしろ多様な可能性を秘めているのかもしれません。
私も高校時代放送研究会に属し、ラジオ番組を制作していました。
最近こそ制作する機会に恵まれませんが、いつか『一人放送局』を作って、ラジオ放送を流してやろうと、密かにたくらんでいます。