元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ウィスキー」

2024-04-19 06:08:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WHISKY)2004年ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン合作。監督のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは“南米のアキ・カウリスマキ”と言われているそうで、冴えない中年男女を主人公にしている点や徹底的にストイックな作劇には共通点がある。だが、北欧の巨匠の作品群よりも上映時間は若干長く、それだけに登場人物の追い詰め方は堂に入っている。同年の東京国際映画祭でコンペティション部門のグランプリと主演女優賞を受賞。第57回カンヌ国際映画祭でも“ある視点”部門のオリジナル視点賞を獲得している。

 ウルグアイの下町で零細な靴下工場を経営するユダヤ人の主人公ハコポは、控え目だが忠実な中年女性マルタを工場で雇い入れている。ハコポとマルタが一緒に仕事をするようになってから長い年月が経っているのだが、2人は必要最小限の会話しか交さない。そんな中、ブラジルで成功したハコポの弟エルマンから訪ねてくることになる。

 ハコボは長らく疎遠になっていた弟が滞在する間、マルタに夫婦のフリをして欲しいと頼み込み、了承を得る。早速2人は偽装夫婦の準備を始め、結婚指輪をはめて一緒に写真を撮りに行く。こうしてエルマンを迎えることになるのだが、事態は思わぬ方向に転がり出す。

 結局、人間は見かけはどうあれ中身は千差万別なのだ。ハコポとマルタは単調な日常を送るだけの退屈な人物に見えるが、エルマンの滞在を切っ掛けに、2人は実は正反対の性格だったことが明らかになるという、その玄妙さ。

 陽気で如才ない弟から仕事を手伝いたいとの申し出を受け、それが自分の利益になることを分かっていながら、今までの単調な生活を崩したくないため断ってしまう主人公の被虐的なキャラクターと、チャンスさえあればどんどん外の世界に出て行きたいという欲求を抑えたまま生きてきたヒロインとの対比は、残酷なまでに鮮烈だ。

 これがハリウッド映画ならば、二人は夫婦の真似事をするうちに相思相愛になるという手垢にまみれたハッピーエンドに持って行くところだろうが、本作はストーリーが進むほどにそんな予定調和から遠ざかってゆく。フィルムが断ち切られたようなラストも秀逸だ。ウルグアイとブラジルとの国情の違いや、ユダヤ人の“法事”みたいな風習が紹介されるのも興味深い。

 アンドレス・パソスにミレージャ・パスクアル、ホルヘ・ボラーニといったキャストはもちろん馴染みが無いが、皆良い演技をしている。なおタイトルの意味は、日本では写真を撮影するときに被写体の人の笑顔を撮るため“チーズ”と言わせるが、南米ではそれが“ウィスキー”になるところに由来している。
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「12日の殺人」

2024-04-15 06:07:18 | 映画の感想(英数)
 (原題:LA NUIT DU 12 )似たようなテイストを持つジュスティーヌ・トリエ監督「落下の解剖学」よりも、こっちの方が面白い。同じフランス映画であるだけでなく、物語の舞台も共通しているのだが、題材の料理の仕方によってこうも出来映えが違ってくるのだ。諸般の事情で米アカデミー賞には絡んではいないが、2023年の第48回セザール賞で作品賞をはじめ6部門で受賞しているので、世評も決して悪くはない。

 10月12日の夜、フランス南東部の山間部の町で、女子大生クララの焼死体が発見される。何者かが彼女にガソリンをかけ、火を付けたらしい。捜査を担当するのは、昇進したばかりの刑事ヨアンとベテラン刑事マルソーだ。2人は早速被害者の周囲の者たちに聞き込みを開始するが、何とクララはいわゆる“お盛んな女子”で、交際範囲はけっこう広いことが分かってくる。



 当然のことながらクララと痴話ゲンカの間柄になる男も複数存在しており、計画的な犯行であることから遅からず容疑者が特定されると思われた。だが、決定的な証拠が出てこない。捜査が行き詰まり、ヨアンの表情も焦りの色を濃くしてゆく。2020年に出版されたポーリーヌ・ゲナによるノンフィクションを元ネタにしている。

 冒頭、この事件が未解決であることが示される。ある意味ネタバレなのだが、何かあると思わせて実は何も無かった「落下の解剖学」に比べると実に潔い。それどころか映画自体がミステリー的興趣を否定していることにより、観客の興味を別の方向へ誘導させる仕掛けが上手く機能している。それは何かというと、事件の“背景”である。

 この山あいの町は風光明媚ではあるものの、かなり閉鎖的で多様な価値観を認めない。特に男女差別は深刻で、後半にヨアンの同僚となる女性刑事はそのポストに就くまでに辛酸を嘗めた。劇中、関係者が洩らす“クララはどうして殺されたか。それは女の子だったからだ”という身も蓋もないセリフがシャレにならない重さを伴ってくる。また、社会の一般的なレールから外れた者に対する仕打ちも酷い。

 マルソーは家庭の問題を抱えているが、誰も救いの手を差し伸べない。終盤に重要参考人と目される者が現われるが、当人の境遇も哀れなものだ。ヨアンはスポーツバイクに乗ることが趣味で、暇を見つけては屋内の競技用施設で汗を流している。だが、屋外やオフロードに出向くことは無いのだ。そもそも彼はいい年なのに独身で、交友関係も充実しているとは言えない。この、どこにも捌け口が見出せない状況こそが事件の核心であるという作者の視点は、高い普遍性を獲得していると思う。

 ドミニク・モルの演出は堅牢で、作劇に余計なスキを見せない。ヨアン役のバスティアン・ブイヨンをはじめ、マルソーに扮するブーリ・ランネール、またテオ・チョルビやヨハン・ディオネ、ムーナ・スアレム、ポーリーヌ・セリエ、そしてクララを演じるルーラ・コットン=フラピエなど、馴染みは薄いが皆良い演技をしている。ヨアンがそれまでとは違う生活スタイルに踏み込むことを決断するラストは、強い印象を残す。
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「カルテット」

2024-04-14 06:09:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:QUARTET )81年イギリス=フランス合作。ジェイムズ・アイヴォリィ監督特有の屈折したデカダンスが、洗練されたタッチで綴られた快作だ。磨き抜かれたエクステリアはもとより、当時の英仏の手練れを集めたキャストの充実ぶりには感服するしかない。なお、どういうわけか日本公開は88年にズレ込んだのだが、その裏事情は不明である。

 1927年、アールデコ時代のパリ。コーラスガールのマリアは夫のステファンと充実した生活を送っていたが、彼が盗品の美術品を所有していたため逮捕される。路頭に迷うことになったい彼女は、芸術家のパトロンである資産家のH・J・ハイドラーとその妻ロイスと知り合い、彼らの家で暮らすようになる。



 ところがこの夫婦はマリアを性生活のアクセントとしか思っておらず、彼女を幽閉同然に引き込んでいるだけだった。やがてステファンは釈放されるが、同時に国外追放処分になる。マリアは再び夫と幕らすために、H・Jのもとを出て行くことを考える。ジーン・リースによる半自伝的な小説の映画化だ。

 マリアの味わう息苦しさが観る者に迫ってくるのだが、彼女が閉じ込められているハイドラーの家は、ジェイムズ・アイヴォリィの映画ではお馴染みの豪奢な美で溢れている。だが、外界に通じる窓は示されずに部屋の中を照らすのは人工的な光だけだ。この退廃的な雰囲気が実に良い。

 ただ他のアイヴォリィの作品と異なるのは、囲われているのが能動的なキャラクターである点だ。しかも、マリアを演じているのがイザベル・アジャーニで、まさに弾け飛んだような個性の持ち主である。ところがここでは、彼女が斯様な存在であるからこそ、この不条理な出口無しの設定がより一層生きてくるという、設定の妙を醸し出している。

 アイヴォリィの演出は冴え渡り、並の作家がやれば底の浅いナンセンス劇になったところを、精緻なエクステリアにより上質な作品に高められている。アジャーニの演技はさすがだ。彼女は本作により第34回カンヌ映画祭で女優賞を獲得している。アラン・ベイツとマギー・スミスのハイドラー夫妻も舌を巻くほどの変態ぶりで(笑)、観ていて飽きることが無い。アンソニー・ヒギンズやヴィルジニー・テヴネといった顔ぶれも万全だ。
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「君たちはどう生きるか」

2024-04-13 06:08:56 | 映画の感想(か行)
 私は宮崎駿はとっくの昔に“終わった”作家だと思っているので、2023年7月に封切られた際も全然観る気は無かった。しかし、先日第96回米アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を獲得してしまったので、現在でも上映されていることもあり、一応はチェックしておこうと思った次第。結果、予想通りの不出来だということを確認した(苦笑)。それにしても、どうしてこの程度のシャシンがアメリカで高評価だったのか、理解に苦しむところである。

 時代背景は特定されていないが、たぶん戦時中。母を火事で失った11歳の眞人(マヒト)は父の勝一と共に東京を離れ、和洋折衷の大邸宅である“青鷺屋敷”へと引っ越してくる。勝一は軍事工場を営んでいて羽振りは良い。そんな父の再婚相手の夏子は、亡き母の妹の夏子だった。この状況に納得出来ず苛立つ眞人は、新しい学校では初日からケンカを吹っ掛けられる。孤立して家に引きこもる彼の前に現われたのは、青サギと人間が合体したような怪人サギ男だった。



 タイトルは吉野源三郎による有名な小説からの“引用”だが、中身は似ても似つかない。まったくの別物であるにも関わらず題名だけは拝借するという、この感覚からして愉快になれない。また、共感できるキャラクターは皆無。ゴーマンで愛嬌に欠ける眞人をはじめ、妻を失った後すぐさまその妹と結婚するという無節操な勝一、そんな境遇を嘆いているのかどうか分からないが、とにかく寝込んでしまう夏子など、よくもまあやり切れない人物ばかりを並べられるものだと呆れてしまう。

 サギ男をはじめとする各クリーチャーも、単にグロいだけでアピール度は低い。中には過去の宮崎アニメにも顔を出してきたようなシロモノも散見され、しかも存在価値は希薄。イマジネーションの枯渇だけが印象付けられる。要するに、つまらない登場人物たちが、これまた意味不明の言動を繰り返すだけの、極めて低調なハナシだ。評価する余地は無い。公開前には、音楽は久石譲であること以外は内容もキャスト・スタッフも明かされない宣伝戦略が取られたが、なるほどこの体たらくでは効果的なマーケティングも思い浮かばないだろう。

 眞人の声を担当する山時聡真をはじめ、菅田将暉に柴咲コウ、あいみょん、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平と、宮崎は相変わらず本職の声優を採用しない。もちろんそれが上手く機能していれば良いのだが、木村佳乃や木村拓哉みたいな演技力がアレな面子もいたりして、作者は一体何に拘泥しているのかと、浮かぶのは疑問符ばかりだ。とにかく、今後は宮崎駿の映画は(いかに有名アワードを獲得しようとも)敬遠するに限ると決心した今日この頃である。
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「ビューティフル・ゲーム」

2024-04-12 06:07:46 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE BEAUTIFUL GAME)2024年3月よりNetflixより配信された英国製のスポーツもの。題材の面白さとキャラクターの濃さ、そして無理のないストーリー展開により、かなり楽しめた。イギリス映画にしては捻った部分が目立たず、しかもハリウッドで同様のネタを扱う場合のようなライト方面に寄りすぎることもなく、丁度良い案配に仕上げられているのも好印象だ。

 ホームレスによるサッカーの世界大会“ホームレス・ワールドカップ”ローマ大会への出場準備を進めていたイングランド代表チームの監督マルは、天才的なストライカーのヴィニーをスカウトする。だが、実は彼は元プレミアリーグの選手だった。訳あって今は宿無しの身分に甘んじているとはいえ、他のメンバーとの“格差”は明らか。そのためチームに馴染めず、ローマ入りしてからも単独行動を取る始末。しかも、素人ばかりだと思われた各国のチームもけっこうまとまっており、イングランド代表は苦戦を強いられる。



 この映画を観るまで、私はこの“ホームレス・ワールドカップ”なる大会の存在を知らなかった。この映画自体は完全なフィクションだが、ルールなどは現実をトレースしている。参加選手は文字通りのホームレスが中心ながら、他国からの難民も含まれる。また、この大会に出場することで選手はパスポート取得が可能になるとのことで、それにより戸籍や住所を取り戻して社会復帰の切っ掛けにもなるらしい。社会福祉の面からも意義のあるイベントと言えよう。

 ヴィニー以外のメンバーも大いなる屈託を抱えており、それぞれが自身の問題と向き合ってゲームに臨む様子は、観ていて気持ちが良い。他国チームの様子も興味深く、特に日本チームなんかの扱いは一瞬“バカにしてるのか?”と思わせるが(笑)、それなりの味を出しているのは評価出来る。試合場面はかなり盛り上がり、狭いコート(フットサルより少ない4人編成でのゲーム)の中での激闘は見応えがある。

 テア・シャーロックの演出は特段才気走ったところは無いが、手堅くドラマを進めている。マル役のビル・ナイはさすがの貫禄で、映画が浮ついたタッチになることを回避。ヴィニーに扮するマイケル・ウォードをはじめ、スーザン・ウォーコマ、カラム・スコット・ハウエルズ、キット・ヤング、シェイ・コール、ロビン・ナザリ、ヴァレリア・ゴリノ、そして奥山葵など、個性豊かな面子が揃っている。そして何より、夏のローマの風景は目が覚めるほど美しく、観光気分満点だ。本作に限らずNetflix作品は映像の絵面がキレイなものが目立つようで、喜ばしいことである。
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「海潮音」

2024-04-08 06:08:27 | 映画の感想(か行)

 80年作品。60年代から80年代にかけて活躍した先鋭的な映画会社、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の製作による。この会社の全盛期は70年代とも言われているが、私は年齢的にリアルタイムでは知らない。若手監督を積極的に採用するようになった80年代の映画から何とか個人的に鑑賞の対象になったという感じだが、その中でも強烈な印象を受けた一本だ。

 舞台になる北陸能登地方の海沿いの小さな町は、古くからの豪商で今も実業家として名を馳せている宇島家の当主、理一郎に牛耳られている。ある朝彼は、海辺でずぶ濡れになって倒れている若い女を助けた。彼女は記憶を失っており、理一郎は警察にも届けずに彼女を家で面倒を見ることを勝手に決める。もちろんそれは妻を早くに亡くした理一郎の、女に対する下心があったからに他ならない。この状況に彼の一人娘である中学生の伊代は戸惑うばかりだった。そんな中、理一郎の亡妻の弟である征夫が都会の生活を捨てて、この町に帰ってくる。彼は見知らぬ女を囲っている理一郎に異議を唱え、2人は対立する。

 この町の構図は辺境の地特有のものではない。皆が主体性を欠き長いものに巻かれる、閉塞的な日本社会そのものだ。しかしそれは、危ういバランスの上で辛うじて維持されているに過ぎない。この中に別のアイデンティティを持った異物が放り込まれ、しかもそれが看過できない存在感を持ち合わせていたならば、その仕組みは音を立てて崩れ落ちてしまう。

 言うまでもなく本作におけるその異物とは、くだんの女である。正体が分からない彼女だが、理一郎の一方的な寵愛を受けたことから周囲の動揺を招いてしまう。普通に考えれば征夫こそがその異物に相当するという流れになるところだが、宇島家の身内である彼は理一郎が支配する町のシステムから逸脱することが出来ない。

 そんな中で女の記憶が戻り、物語は未知なる展開に突入する。理一郎と伊代、そして女が最後に取る行動は、閉塞からカオスに世界が移行する劇的な状況を象徴して圧巻だ。脚本を兼ねた監督の橋浦方人はこの映画を含めて3本しか撮っておらず、しかも及第点に達しているのは本作だけなのだが、この一本だけでその名は十分に記憶に残る。

 理一郎役の池部良と謎の女に扮する山口果林は渾身の演技を見せ、泉谷しげるに浦辺粂子、烏丸せつこ、ひし美ゆり子などの面子も万全。また伊代役はこの映画がデビュー作になった荻野目慶子で、ヤバさと清純さを併せ持つ屹立したキャラクターはこの頃から他の追随を許さないレベルである。瀬川浩のカメラによる、北陸の荒ぶる海の情景。深町純の耽美的な音楽。この頃の日本映画を代表する秀作かと思う。
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「デューン 砂の惑星 PART2」

2024-04-07 06:07:58 | 映画の感想(た行)
 (原題:DUNE PART TWO )世評は悪くないようだが、個人的にはピンと来ない。前作(2021年)は第94回米アカデミー賞で6部門に輝いたのに対し、本作は無冠であったのもそれを象徴しているのかもしれない。まあ、この映画は純然たる“続編”であるのでアワード側の評価はPART1で完了したとの見方も出来るが、気勢が上がらないのは確かだ。

 宇宙で最も価値のある物質メランジの唯一の産出地である砂の惑星デューンで繰り広げられたアトレイデス家とハルコンネン家の戦いは、後者に軍配が上がる。一族を滅ぼされたアトレイデス家の後継者ポールは、砂漠の民フレメンの協力を得て、反撃の狼煙を上げる。これに対し、ハルコンネン家はデューンの新たな支配者として次期男爵フェイド=ラウサを送り込む。一方、フレメンの部族長スティルガーは“外の世界”から来た母子がデューンを救うとの啓示を受ける。



 とにかく、ポールが救世主として覚醒するまでが長すぎる。フランク・ハーバートによる原作は読んでいないが、たぶんこのスピリチュアルな展開が後半のハイライトとして書かれているのだとは思う。しかし、少なくとも映画においては(個人的には)どうでもいいプロットである。そもそも、主人公の自覚に至る過程が常人の理解を超えたレベルのものであるため、ここはいくら重点的に描いても尺ばかり取って訴求力に欠けるのだ。おかげで肝心の大規模な戦闘シーンが割を食ってしまった。

 かと思えば、ポールとハルコンネン家の因縁話とか、主人公とフェイド=ラウサとの一騎打ちとか、さほど効果的とは思えないモチーフが挿入されて作劇のテンポは悪くなるばかり。さらに突っ込んだ話をすれば、ハイテクな兵器が配備されているにも関わらず刀剣類主体の接近戦ばかりが強調されているのは、とてもスマートには見えない。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの演出は相変わらず粘着質で歯切れが悪い。まあ、主演のティモシー・シャラメのファンにとっては嬉しいショットが目白押しだろうが(笑)、レベッカ・ファーガソンにゼンデイヤ、ジョシュ・ブローリン、オースティン・バトラー、フローレンス・ピュー、クリストファー・ウォーケン、シャーロット・ランプリング、ハビエル・バルデムら多彩なキャストがそれぞれ持ち味を発揮していたとは思えない。

 さらに言えば、レア・セドゥやアニャ・テイラー=ジョイなんか、どこに出ていたのか分からないほどだ。もちろん多大な予算が投入されているのは分かるし、特に巨大サンドワームの造型には驚かされるが、物語自体に面白味が欠けるため鑑賞後の映画の印象は薄い。
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「π(パイ)」

2024-04-06 06:09:26 | 映画の感想(英数)
 (原題:Π PI )98年作品。鬼才として知られるダーレン・アロノフスキー監督作品はけっこう観ていると思っていたが、長編デビューになる本作は未見だった。今回デジタルリマスター版として再上映されたので、鑑賞してみた。率直な感想だが、外観のエキセントリックさに比べれば中身は意外と薄味である。最初の作品ということで好き勝手やっている先入観があったものの、肩透かしを食らった感じだ。

 マンハッタンのチャイナタウンに住むマックス・コーエンは突出したIQの持ち主で、特に数学に関しては他の追随を許さないレベルに達していた。彼はこの世の全ての現象は数式で説明できると確信し、自作のコンピューターで株式市場の予測などに没頭していた。ある日、コンピューターが正体不明の216桁の数字をはじき出す。彼の師匠であったソルもかつて研究していたその謎の数字に、マックスはのめり込んでいく。



 全編モノクロのざらついた画面、手持ちカメラの多用による不安定な構図、耳をつんざくクリント・マンセルの音楽と、エクステリアは結構キレている。しかし、主人公の行動は大したことはない。株価予想は実益を兼ねるために仕方がないのかもしれないが、深い考察もなく宗教関係に興味を持つのは安易だ。おかげでマックスは正体不明の組織から狙われるようになるが、話が単純化するのは否めない。

 ドリルを持ち出して自傷行為に走るのかと思ったら、決定的な破局には至らず何となく済まされてしまう。そもそも、舞台をチャイナタウンに設定したメリットがあまり見出せない。人種間の確執などが織り込まれるわけでもなく、単なる“背景”としか扱われていないのだ。やりようによっては高度な異常性を伴うカルト映画にも仕上げられたかもしれないが、いささか不十分である。やっぱりこの監督の異能ぶりが真価を発揮するのは、「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000年)あたりからなのだと思う。

 とはいえ主演のショーン・ガレットはよくやっていると思うし、マーク・マーゴリスにスティーヴン・パールマン、ベン・シェンクマン、サミア・ショアイブという顔ぶれもマイナーながら印象は強い。そして上映時間が85分と短めなのも良い。こういうタッチで長時間引っ張ってもらうと、かなりキツかったところだ。
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「もっと超越した所へ。」

2024-04-05 06:07:55 | 映画の感想(ま行)
 2022年作品。元々は舞台劇とのことで、なるほど演者とステージに間近で接すると面白く感じるのかもしれない。だが、これを映画にしてしまうと愉快ならざる結果になる。しかも、監督がミュージック・ビデオの仕事が主で映画はキャリアが浅い者だったりする。だから、映画的興趣を導き出すところまでは到達せず、原作の戯曲をなぞるに留まっているようだ。これでは評価出来ない。

 デザイナーの岡崎真知子は、ミュージシャン志望の朝井怜人と何となく付き合っている。元子役で今はお手軽なバラエティタレントの櫻井鈴は、ゲイの星川富と同居している。フラッパーな金髪ギャルの安西美和は、やたらノリの良い万城目泰造と恋仲だ。風俗嬢の北川七瀬は、客の一人であった売れない役者の飯島慎太郎と頻繁に会っている。それぞれ不満はあるが、一応は上手くやっているつもりだった。ところが、実はこの8人は数年前には相手を“シャッフル”した形の関係性だったのだ。ついには各カップルが行き詰まったとき、互いに入り乱れての混迷した状態に陥る。



 劇作家の根本宗子の脚本・演出による2015年に上演された同名舞台の映画化だ。とにかく、どのパートも映画の体を成していない。わざとらしく、及び腰で、浮ついたタッチに終始。結局はロクな伏線も無く終盤の一大カオスになるシークエンスに突入するというのだから、観ているこちらは呆れるばかり。

 クライマックスの“仕掛け”はステージの上でやれば盛り上がるのかもしれないが、映画のスクリーンでは映像ギミックのひとつとして看過されてしまう。さらに悪いことに、演者のパフォーマンスが弱体気味である。何とか演技をこなしているのは鈴に扮する趣里と富役の千葉雄大ぐらいだ。菊池風磨にオカモトレイジ、黒川芽以、三浦貴大は精彩を欠く。

 また前田敦子と伊藤万理華に至っては話にならない。どうして彼女たちみたいな実力の無いアイドル上がりに、映画の仕事が次々と舞い込んでくるのだろうか。まあ、裏には“業界の事情”ってものがあるのだろうが、こんなことが罷り通っているから日本映画は軽く見られているのだと思う。山岸聖太の演出は平板。ナカムラユーキによる撮影も特筆できるものは無い。王舟の音楽とaikoの主題歌も印象に残らず。製作意図さえ疑ってしまうような内容だ。
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中洲大洋映画劇場が閉館。

2024-04-01 06:08:31 | 映画周辺のネタ
 去る2024年3月31日をもって、福岡市博多区中洲にある映画館、大洋映画劇場が閉館した。当劇場は1946年4月にオープン。300人以上のキャパを持つ規模の劇場として長らく営業を続けていたが、建物の老朽化のため取り壊しが決まったものだ。

 最盛期には21館もあったらしい中洲地区の映画館も大半が姿を消し、唯一残っていた大洋劇場も今回終焉を迎えたということで、映画ファンとして感慨深いものがある。とはいえ、私は出身こそ福岡市だが幼少期から青年期までは福岡県以外に住んでいたため、リアルタイムで中洲の映画街の雰囲気を味わった時期はそれほど長くはない。特に2000年代以降はシネマコンプレックスの隆盛により、従来型の映画館は存在感が小さくなっていた。だから今回の大洋劇場の閉館も仕方がないとも言える。



 昔は映画館というものは歓楽街とセットになっていたようだ。中洲地区に映画館が多かったのも当然だろう。しかし、現在は映画館は主に繁華街やショッピングモールの中に存在する。映画という娯楽の在り方に関しては、今の方が的確だと思う。最近でも大洋劇場に足を運ぶことはあったのだが、朝一番の回を観る際に、徹夜で遊んだと思しきホスト連中や客たちが劇場の周囲で嬌声をあげている状況は、どう見ても映画鑑賞に相応しい環境ではない。

 確かに、大洋劇場は従来型の映画館ともシネコンとも、はたまたミニシアターとも違うエクステリアとインテリアを備えていた。バラエティに富んだスクリーンを4つも抱えていたのも異彩を放っていた。ただ、やっぱりあの場所ではこれ以上の映画館の営業は難しい。中洲は、あくまでも飲み屋街なのだ。



 取り壊し後の再開は未定だという。もちろん私もいずれは復活して欲しいと思う。しかし、同じ場所での開館は望んではいない。規模は小さくなってもいいから、映画館の立地に相応しいロケーションに移ってもらいたい。具体的に挙げるとすれば、中央区天神地区だろう。あのエリアも今では一館(TOHOシネマズ 天神・ソラリア館)しか営業していないが、人通りは途切れることは無い。番組編成を工夫すれば、ビジネス的に成功すると予想する。
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