ヨーロッパの憂愁庭園★華麗なる美とロマン

魅せられし19世紀末の美や浪漫。文学・絵画・映画・モード等から導かれる心の放浪♪

移行のお知らせです♪

2007-12-04 | 雑記
コンテンツ統合のため、今後は『★音楽と映画の宝石箱★ナルキッソスの鏡あるいは自惚れ鏡☆愛してやまない世界に愛を込めて♪』『クララの森・少女愛惜』にて継続してゆきたいと思います。大好きな音楽・映画、好きなアートの世界が重なることが多いもので一緒にしたいと思いました。

こちらに書きましたものは、上記ブログへ移行致しますが、頂きましたコメントやTBがございますので、こちらはこのまま残しておきたいと思います。

今後とも、どうぞ宜しくお願い致します!


イダ・レントール・アウスウェイト:Ida Rentoul Outhwaite

2007-09-12 | 絵画・画家
イダ・レントール・アウスウェイト(Ida Rentoul Outhwaite:1988 - 1960)は当時は英国領だった頃のオーストラリアのメルボルン生まれ。イギリスでは、既にケイト・グリーナウェイやアーサー・ラッカム、オーブリー・ビアズレー達、挿絵画家達の黄金時代という頃。友人から頂いたビアズレーの絵に夢中になり、2歳頃から周りを驚かせるような絵を描いていたというイダの絵を、友人がイギリスの出版社に送ったりもしていたという。

イダは4人姉弟の二番目で、姉のアーニィは古典語や詩に秀でたお方で文章を書いていた。その姉の詩に挿絵を描き、次第に姉妹は雑誌やポストカードなどで広く知られる存在となってゆく。イダはパントマイム劇団のお衣装をデザインしたり、初めてオーストラリアで刊行された「ピーターパン」の挿絵を書いたお方でもある。

1909年には若き実業家と結婚。その夫グレンブリィ・アウスウェイトは才能ある妻のためにアトリエを建て、イダは4人の子供たちの子育てと両立しながらも絵を描き続けていた。カラー印刷の技術が急進的に発達した時期でもあり、それまでのモノクロのペン画から色彩を取り入れるようになってゆく。第一次世界大戦下に姉の文章と共に出版した「こびとと妖精」(1916年)で、51枚の挿絵を描き妖精画として、それまでイギリスに頼っていたアートブック界で、初めてオーストラリアにもその到達を得たもの。このご本は、夫の発案により英皇室に献本し、印税は戦時下の赤十字に寄付されたという。戦後は、夫の勧めで英国で個展を開き成功を収め、その名はこうして今日まで継承されるに至る。

私の勝手なイメージながら、生まれ持った絵の才能を姉や夫と共に、年老いてもずっと少女の夢の世界を描き続けたようなお方に想う。全ての作品を知っているわけではないけれど、年代を追って眺めていると、どうしてもそのように感じ嬉しく思い、そんなお心が絵に表れているように思い敬服する。

La Magia De Las Hadas / The Little Book of Elves and Fairies

Ediciones B

このアイテムの詳細を見る

ペーター・アルテンベルク:PETER ALTENBERG

2007-08-03 | 詩篇・作家
ペーター・アルテンベルクは、本名リヒャルト・エングレンダー(Richard Engländer:1859年3月9日~1919年1月8日)という19世紀末のオーストリアの作家。とされているけれど、肩書きは路上生活者、即興詩人、街の傍観者、編集能力のある執筆家、少女愛好家(この点が実に興味を持っているところ)...など。ボヘミアンでとても自由に夢の世界に生きたようなお方に思う。愉快な変わり者で個性的なお方だったようで興味が尽きない。今もウィーンに存在する「カフェ・ツェントラール」を当時からご自分の住所(実際は安いホテルの一室に部屋があったけれど、カフェや路上が仕事場であり生活の場だったのだろう)とされていたそうだ。それ以前は若きウィーン派達の溜まり場とされていた「カフェ・グリーンシュタィトル」の住人だったが、取り壊されてしまったという。私は大好きなデヴィッド・ボウイ様が影響を受けた表現主義(特にドイツを中心に)について、時間があれば気が向けばその様な御本を読んでいる。そんな中で知ったお方。あまりにも素敵な人生だ!なかなか死ぬまでこのようなスタイルを維持するのは安易ではないと思う。奇行が目立ったそうだけれど、愛され人々の援助と文芸娯楽欄の執筆者(フォーリットニスト)として生活していたようだ。上のお写真の格好もとても面白い!

写真や手紙、絵葉書などの隅にいつも即興でなにやら書き記されていたという。そんな中の一枚。そこには”絶対的理想の脚!13歳のエヴリン.H・・・・・PA1916”と書かれている(この辺りのことはまた、もう少し『クララの森・少女愛惜』に追記予定)。彼の兄ゲォルク・アルテンベルクに捧げられたという著書『その日が私に告げるもの』の中で、自分自身について以下のように書いている。

『私の人生は神の創り給いし芸術品(婦人への肉体)への前代未聞の讃嘆に捧げられたものだ。私の貧しい部屋は壁紙の剥げかかった壁に仕上げた裸体習作が掛けられている。きちっと額縁に入れられたものはどれもみな著名と書き込みがある。15歳の娘の写真にはこう書かれている。「美は美徳である」ほかのにはこう書いてある。「裸体のたったひとつの行儀悪さは、裸体にわいせつ性を感ずることである」』

なかなか興味深い。彼の最初の著作は『私の見たまま』1896年のもの。そこでも、「私はちっちゃな手鏡に過ぎないのです。世界の鏡じゃありません。化粧鏡です。」と謙遜して語った言葉が残されているけれど、当時のウィーンの街頭やウィーンの森、彼が傍観した記録の断片たちは貴重なものとして、今私のような者が19世紀末のウィーンにうつつとなる。”主観主義、万歳!”である。忘れ去られることなく語り継がれるには何があったのだろう。実にユニークなペーター・アルテンベルク!

Peter Altenberg. Leben und Werk in Texten und Bildern.

Insel Verlag

このアイテムの詳細を見る

『Tea Party』 ケイト・グリーナウェイ:Kate Greenaway

2007-07-18 | 絵画・画家
19世紀の英国には多数の素晴らしい画家たちがいる。いつの間にやらすっかりそれらの世界が好きで、とても居心地が良いという感じの私。ケイト・グリーナウェイ(Kate Greenaway:1846~1901)はとても馴染みのあるお方。もうお亡くなりになられて一世紀が過ぎたというのに忘れ去られることもなく、私達の身近にそれらの優美な絵たちはいてくれる。

親しみやすい穏やかな風情と英国の自然のなか。眺めているだけで心が安らぐ。『ハメルンの笛吹き』や『マザーグース』は特に子供の頃から親しんでいるお方も多いのではないだろうか。『窓の下で』は個人的に特に好きなもの。子供たち、母と子を多数描き続けた女性。挿絵画家は時に、高尚な画家たちの作品より過小評価を受けることもある。特に、このケイト・グリーナウェイはずっと身近にあるものなので、人の知らないものばかりを追い求め優越感に浸るという類の人々の好対照だと知った時が嘗てあった。愚痴の様かもしれない。でも、私の個人的な好きな大切な世界には有名でも、知る人ぞ知るマニアックな存在でも、どうでもよい。優劣などまっぴらゴメンなもの。私の心を捉えて離さない美しいものたちは、音楽でも映画でも挿絵でも漫画でも・・・大切なもの。いつまでも親しまれるものたちには何かがある。世紀を超えて導かれる普遍の心や愛情がそれらにはあるのだろう。

Language of Flowers (From Stencils and Notepaper to Flowers and Napkin Folding)

Dover Pubns

このアイテムの詳細を見る

The Kate Greenaway First Year Baby Book (The Kate Greenaway Collection)

Sheldrake Pr

このアイテムの詳細を見る

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー:PAULA MODERSOHN-BECKER

2007-07-13 | 絵画・画家
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー(1876-1907)は、ドイツ表現主義を先駆け、31歳の若さで夭折した女性画家。ドレスデンで生まれ、すぐにブレーメンに移り、ロンドンとベルリンで絵画を学ぶ。その後、ブレーメン近郊に位置する小村ヴォルプスヴェーデに移住し、この芸術家村を代表する画家として知られている。

ヴォルプスヴェーデ芸術家村は、19世紀末に画家や詩人たちが自然を求めて各地に移り住んで形成された芸術家コロニーのひとつで、ここには、日本でもよく知られている詩人ライナー・マリア・リルケや、後にリルケの夫人となるパウラの親友の彫刻家クララ・ヴェストホフ、そして早くも雑誌『白樺』で日本に紹介された画家ハインリヒ・フォーゲラーらもいた。さらに、パウラが師事したフリッツ・マッケンゼン、後に夫となるオットー・モーダーゾーン、またハンス・アム・エンデやフリッツ・オーヴァーベックなどの画家たちが集い、パウラは彼らと親密な交友関係を結んでいた。

1900年以降のパウラ・モーダーゾーン=ベッカーは、パリにもたびたび滞在するようになり、そこでセザンヌやゴーギャン、マティスらの芸術に触れたことが、彼女の芸術を飛躍的に発展させ、ヴォルプスヴェーデの交友関係のなかで育まれた芸術と、大都市で展開していた新しい芸術の息吹は、ともに彼女の芸術に豊穣な実りをもたらし、素朴さと大胆さとが魅力的な独自の画風を獲得するに至る。そして、非常に短い生涯ながらも、先駆的な画家と呼ぶに相応しい充実した作品群を遺された。

2006年に日本にもパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの絵はやってきて、その折の説明文を上記に使わせて頂いた。私は単なる趣味の範囲で絵を眺めることが好き。特にドイツ表現主義についてはデヴィッド・ボウイさまにも関連するので、のんびりとゆっくりとではあるけれど、色々と特に興味を覚えるもの。気になった作品がいくつかあり、その中のひとつ。少女を描いた絵なので「クララの森・少女愛惜」の方で...とも思ったけれど、今回はこちらに綴っておこうと思う。

色合いも好きだし、この鴨池のほとりで、幼女(童女)と思われる少女は顔に両手を当てて泣いているようだ。お顔が見えないのでさらに”どうしたのだろう?”と気になってしまう。この『鴨池のほとりの少女』は、1901年の作品なので100年以上前のもの。この少女がどなたかも知らないのに、何か気になるというこの感情はなんだろう。こういうことが不思議であり、かつとても楽しい。

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー―表現主義先駆けの女性画家

中央公論事業出版

このアイテムの詳細を見る

『アナベル・リー』 エドガー・アラン・ポー:Edgar Allan Poe

2007-07-03 | 詩篇・作家
『アナベル・リー(Annabel Lee)』は1849年、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe:1809年1月19日~1849年10月7日)の死後2日後に発表された、とても美しい詩のひとつ。ポーというと『モルグ街の殺人』などのオーギュスト・デュパンもの、『アッシャー家の崩壊』『黒猫』『黄金虫』『早すぎた埋葬』...と怪奇小説、幻想ミステリーな作品を40年の短い生涯の中で残し、今日も多くの影響を与え続けているお方。ポーはアメリカ人ながら、英国での教育も受けているのでイェーツなども多大な賛辞を送っているし、フランスのボードレールやマラルメにも大変影響を与えたお方。私が最初に読んだのは『黄金虫』(怖くて最初は最後まで読めずにいた)。

ポーは小説家でもあり詩人でもある。詩は特に大好きな作品が多い。怪奇小説の名作たちとは趣きが異なり、ポーのロマンティストで繊細な部分がとてもよく表れているからだうと思う。『大鴉』もとても好きだけれど、今回は最後の詩『アナベル・リー』を。これは妻ヴァージニア・クレムに捧げられたもので、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』の源流とも言えそうで、ポーのものは実話なので、さらにこの美しい詩が痛切に響く。ヴァージニアが13歳、ポー27歳の折に周囲の猛反対を押し切りお二人はご結婚された(当然、合意の下)。しかし、運命とは...この幼い愛する妻(従姉妹である)は結核を患い、僅か24歳の若さで他界。看病中からポーの絶望や苦悩は精神的にもかなり影響し、アルコールに溺れる日々が深まってゆく。ヴァージニアの死後はさらに酷く、最期は路上にて(アルコールの多量摂取によるものと言われてもいる)40歳の生涯を終えた。二人の愛は深く結ばれていたと思う。なので、この悲哀と憂愁の美しい詩は私の心を捉えて離さない。幾度も彼女の名を、幾度も麗し(美わし)の、と詠う。足りない程だったろう...。

(後半部より)

その昔 この海沿いの王領で、雲から風が吹き降りて、
麗しのアナベル・リイを冷したのは、それ故か。
高貴のやから訪れて 女を私から奪い去った。
この海沿いの王領の 墓にいれんとて。

天上の幸及ばぬ天使らは 女と私を羨んで立ち去った。
まことに、それ故であった(海沿いの王領で誰も残らず知っているが)
夜半、風が雲から吹き降りて アナベル・リイの冷たくなったのは。

しかし私達の戀は、私達より年上の人の戀よりも
私達より賢しい人の戀よりも、はるかに強かった。
み天の天使 海の底の悪魔さえ
決して私の魂を、美わしのアナベル・リイから裂き得まい。

というのは、月照ればあわれ 美わしのアナベル・リイは私の夢に入る。
また星が輝けば、私に美わしのアナベル・リイの明眸が見える。
ああ、夜、私の愛する人よ、戀人よ。
私の命、私の花嫁のそばにねぶる。
海沿いの墓のなか
海ぎわの墓のなか


ポー詩集―対訳

岩波書店

このアイテムの詳細を見る

スペイン内戦の悲劇を描いた『ゲルニカ』 パブロ・ピカソ:Pablo Picasso

2007-06-30 | 絵画・画家
パブロ・ピカソ(1881年10月25日~1973年4月8日)の有名な作品のひとつ(残された作品は大変多い)。ピカソはスペイン生まれでスペイン内戦が起こった地方にも所縁のあるお方。しかし、フランスでの生活、様々な出会いと才能が開花した。私はピカソについて大して詳しくは無いけれど、祖国の内戦、二つの大戦にも身を投じることはなかった(スペイン人であるためにフランス軍人として戦う必要がなかったのだけれど)。常に多くの愛人が存在し、創作の中で訴えるものがあったのだとも思う...。興味のあるお方ではある。この有名な『ゲルニカ』はスペイン内戦中の1937年、バスク地方のゲルニカがフランコ(将軍)の依頼でドイツ軍に空爆され多くの死傷者を出した時に制作されたもの。

ドイツ=イタリア=フランコ軍に対抗する”反ファシズム闘争”とも呼ばれるスペイン内戦は結局敗北に終わる。そして、世界は第二次世界大戦に引き摺りこまれてゆく。「ファシズム対民主主義(共産主義)」という構図。フランコ率いる反乱軍は、「辞書から憐れみという言葉を削除した。たとえスペインの半分が殺されようとも、スペインをマルクス主義から救うのだ」と豪語したという。ファシストの反乱軍と戦うため、世界中から多くの若者たちが集まった(国際義勇軍)。中にはアーネスト・ヘミングウェイ、アンドレ・マルロー、ジョージ・オーウェル、シモーヌ・ヴェイユ達も身を投じて戦った。しかし、敗北後、勝利者のフランコ将軍は”反乱”という名目で何十万人ものスペイン人(自分の国の人々なのに!)を処刑した。中には、ガルシア・ロルカ、ミゲル・エルナンデス、アントニオ・マチャード等の詩人もいたし、文化人ではない反ファシズムに燃える庶民たちが大勢...ベトナム戦争、朝鮮戦争の先駆けとなる世界最初の代理戦争なのだ。

フランス人は1万人と最も多くこの反乱軍に対抗するために参加している。イギリスもイタリアもドイツも...(ドイツ人が全てファシズムではない)。シモーヌ・ヴェイユは思想家ながら女性。そんな世界の大きな動きにフランスからスペインの土地に向かう、そんな勇気に敬意を!アメリカ人ながらヨーロッパ文化の中でも重要な存在であったヘミングウェイは、著名な小説に『誰が為に鐘は鳴る』や『日はまた昇る』を書いた、イングリッド・バーグマンとゲイリー・クーパーの映画でも有名な作品。映画ブログに『蝶の舌』について綴った中に監督のお言葉を掲載させて頂いた。私はこのような監督がいるので、最良の娯楽である映画の中で色々なことを学ばせて頂いているのだと確信のような気持ちを得る。(*この映画の舞台となる美しい町ガリシア。フランコ将軍の出身の土地でもある。)

同国の人間同士が戦い、勝利者が処刑するという信じ難いが史実。愚かで野蛮で狂気に満ちた暴力の歴史のスペイン内戦。私は映画が大好きなので、映画を観ている中でこういう史実を知り、その残虐な歴史を知ることができた。まだそんなに古い出来事ではない。なので、多くの戦士たちの尊厳や勇気まで忘れてしまってはならないと、スペインの作家や映画人たち(国外の人々も、例えば英国のケン・ローチ監督等も)は作品の中で観客である私達に届けてくださるのだ。そのメッセージはあまりにも重いけれど、”愛と自由”が明日にあることを意味するものだと思う。

ロバート・キャパ スペイン内戦

岩波書店

このアイテムの詳細を見る

誰がために鐘は鳴る

GPミュージアムソフト

このアイテムの詳細を見る

蝶の舌

PIASM

このアイテムの詳細を見る

『王妃グウィネヴィア』ウィリアム・モリス:William Morris

2007-06-27 | ラファエル前派
19世紀の英国文化に欠かせないお方、ウィリアム・モリス(1834年3月24日~1896年10月3日)。詩人であり工芸デザイナーであり、熱心なマルクス主義者としても有名な社会主義者。オックスフォード大学時代からの親友にバーン・ジョーンズやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ等がいる。この絵はウィリアム・モリスが唯一残した油彩。

モデルとなるのはジェーン・バーデン(ジェイン・モリス)で、モリス25歳、ジェーン19歳の1859年にお二人はご結婚されている(厳格で裕福なモリス家は猛反対だった)。なので、ご結婚の前年の作品。しかし、ジェーンを取り巻く関係は複雑でもある。ラファエル前派の主要なモデルのお一人であったジェーンは、イギリス人的というよりも、ギリシャ的な容姿が魅力だったようだ。この、モリスは内気で純情なお気持ちでこの絵を愛情一杯に描かれたように思う。「トリスタンとイゾルデ」の中世騎士さながらに、労働者階級の若き娘ジェーンを王妃に喩え、ロマンス(夢物語)を作ったようだ。

ランスロットは、”本当に私を殺してください、そうすれば癒されるのです”と言い、王妃の前にひれ伏してしまう詩を残している。そして、この絵を描いている。ランスロットはモリス自らというところなので、なんとも、ロマンティックというかこの初々しいお心に感動さえ覚える(後に、その妻は不貞を犯すのに...)。

この絵(1858年)のタイトルは『Queen Guinevere (La Belle Iseult)』王妃グウィネヴィア(麗しのイズー)となっている。副題にフランス語を付けている。元々は『トリスタンとイゾルデ』はケルトからフランス、そしてドイツ...と渡ってゆき、リヒャルト・ワーグナーの曲やオペラ等の歌劇、そして、映画化と、今日も今後も様々なものとして残ってゆくものだろうから。アーサー王と騎士物語はオックスフォード時代からもっとも重要な主題であるとロセッティ達とも意見が合致していたそうだ。個人的には、クリスチャン・ヴァンデ(フランスのプログレ・バンド:マグマのリーダー)のソロ・アルバムなどを想起してしまうのだけれど。

最近も、映画『トリスタンとイゾルデ』が公開された。90年代の『トゥル-ナイト』という映画も結構好きだったりするので、そういう私もこのような主題、題材ものには滅法ヨワイようだ。不倫の夢物語、そして最期は死。悲恋の結末...。100年以上も前の絵、さらに古い伝承物語や詩などから、こうして21世紀に生きる私は何かを受け取ることが出来るのだと思うと嬉しくてしかたが無い☆

決定版 ウィリアム・モリス

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る

トリスタンとイゾルデ

20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン

このアイテムの詳細を見る

マルグリット・デュラスは書く、語る。

2007-06-22 | 詩篇・作家
1984年の『愛人/ラマン』は日本でも大ベストセラーとなり、映画化された。当時の私は活字に貪欲だったのでデュラスは女性作家ということもあり、とても気になる存在だった。でも、本屋さんに山積みされたあの光景にやや退いてしまった、という感じだった。『モデラート・カンタービレ』や『インディア・ソング』を先に知った幸運と衝撃は今も失せることはなく、再見、再読を不定期に繰り返すとても好きな作品。『愛人/ラマン』は空前の売れ行き。代表作に違いは無いしやはり好き。売れ過ぎたので今では古本屋さんであまりの安さで安易に買える程。

映画のことは「映画ブログ」でその内(気紛れなので予定は狂うけれど)に。デュラスは多くの重要な言葉を残した。重要というのも人それぞれの価値観だけれど。

「フランス人という人種、というよりフランス国籍に属しているのは偽りだった。」「私は自分がフランス人であるとは感じていません。」「私は何処にも生まれなかった。」「フランスに、つまり腐敗した祖国に住んで以来、たぶん私は執行猶予の身なのよ。」

デュラスは当時のフランスの植民地インドシナ(ヴェトナム・サイゴン)に生まれ、18歳帰仏している。母ひとり、子供3人の家族。貧しい少女時代に中国人の年上の男性と恋に落ちる。デュラス15歳。小説は自伝的なものを基に描かれた小説なので、全てがデュラスの実話ではない。

”18歳でわたしは年老いた。あの青年と出会ったのは、靄にけむる暑い光のなか、メコン河の渡し船のうえだった。すべてが、死ぬほどの欲情と悦楽の物語が、そのときからはじまった。”という有名な文章に惹かれて購入されたお方も多いのだろうと思う。

先述のデュラスのお言葉たち。徹底して”私はフランス人ではない”と語る。生まれ故郷は砕かれてしまった。フランス人作家であり映画監督であるというのは活動の大半がフランスだったから。生まれた処がないというデュラスは、私が”生きる”という言葉と同意語で”書く”あるいは”語る”。私は、と。彼は、と。難解でもあり不思議な独特の文体と共に、生き様が素敵なお方。レジスタンス運動に参加、共産党に入党、5月革命に参加...と激動の時代に自ら飛び込むようなお方。アルコール中毒に陥りながらも執筆は続けた。次第に評価が高まり、38歳年下のヤン・アンドレア(彼はそれまで同性愛者だった)と80年代から最期まで一緒だった。1996年の遺稿『これでおしまい』を残し、3月3日に死去された。親友のジャンヌ・モローがデュラス役を演じた映画『デュラス/愛の最終章』(愛人/ラマン 最終章)も興味深い作品で記憶に新しいけれど、あまり話題にはなっていなかったように思う。

「我々の唯一の祖国、それはエクリチュールだ、それは言葉だ。」とユダヤ人の歴史(迫害の)に自らをなぞりこう語っている。”語る、女たち”が好きだ。それは表現者という意味に於いて。デュラスはカッコイイ!かのジャン=リュック・ゴダールに影響を与えたのも然り(『ゴダールの映画史』にも登場される、これも超大作、大作業の作品。必見!)☆

デュラス―愛の生涯

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る


モデラート・カンタービレ

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る

ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る

敬愛なるマルグリット・デュラス様...

2007-06-21 | 雑記

音楽・映画・文学・絵画・モード...アートが織りなす詩とロマン。
時に破壊しにと、彼女は言う。革命と実験精神、怯まぬ自由な表現たち。
歴史も国籍も人種も互いに影響し合い、刻まれ、残され、受け継がれ、 永遠なれ、尊き魂よ。
”Les Arts de La Réalité Poétique” (Mon Original d'unskillfulness)

昨夜からまた私の良くない癖、ノスタルジーに浸り脱却できずに涙に暮れ、そして泣き疲れて眠る...というような時を過ごしてしまった。何故かは分からないけれど人の死を巡る想いはとても複雑すぎるようだ。

私の愛するものたちや大切なものたちは私の人生と共にあり、ある一行の詩(フレーズ)に救われ癒され、そしてどうにか今まで生きて来たのだし、これからも生きてゆけるのだと思う。楽天家で根は明るい私なのに、時折どうしようもない孤独感に覆われてしまう。人間だもの、誰もがそうだ。でも、一人ではない。人生に疲れて苦しんでいる方は多い。でも、世の中とはそういうもの。

とても頻繁に想うお方の中に、マルグリット・デュラス(Marguerite Duras:1914年4月4日 - 1996年3月3日)がいる私。作家であり映像監督でもあった。ある意味敬愛しているお方なので畏れ多いのだけれど、言葉と生き様、残された作品たちは今も私の心を捉えて離しはしない。今日は雑記にて。明日はデュラスのことをもう少し綴れたなら...と想う。上の稚拙な詩のようなもの、これは私の生きる源力を言葉にしてみただけ。馬鹿だと笑われても構いはしない。こうでなければ生きてゆけないとも思う、なので...。

マルグリット・デュラス―情熱と死のドラマツルギー

朝日新聞社

このアイテムの詳細を見る

愛人/ラマン 最終章

ハピネット・ピクチャーズ

このアイテムの詳細を見る