御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄の訳者解説を再読した

2021-02-23 12:13:17 | 書評
ウェーバー「プロ倫」、機会あって大塚久雄の訳者解説を再読した。以下ポイントの抜き書き。

>こういう人々は、金もうけをしようと思っていたわけではなく、神の栄光と隣人への愛のために、つまり、紙から与えられた天職として自分の世俗的な職業活動し専心した。しかも、富の獲得が目的ではないから、無駄な消費はしない。それで結局金が残っていった。これは彼らが隣人愛を実践したということの標識となり、従って自らの救いの革新ともなった。

>とりわけ目先の貪欲を抑制することを知っている。まさにその自己の貪欲をある程度まで抑制することができるようになっているということこそが、産業経営的資本主義が成立するための不可欠な前提条件をなしているのだ。

資本の余剰や商業取引の活発化などは中国でも見られた現象であり、儒教は商業的な富の蓄積に寛容で人々はお金の話を普段から平気でしたのだそうな。そんな中国で資本主義が発達せず、富を嫌い俗世の栄華を嫌い神の栄光を称え来世で救われることを目的とする宗教が支配的な西洋でなぜ資本主義、特に産業経営的資本主義が成立したのか、ということの疑問に答えようとしたのが「プロ倫」であるそうな。その答えは上記で概ねまとめられると思われる。

ここから先は僕の解説。産業革命による産業の機械化、投資の巨大化・長期化に伴い、資本家の資本蓄積は非常に重要なものとなり、その局面で質素に生き熱心に仕事に従事するプロテスタントは有利な性質を備えていた。ただ、投資の機械化が起こらず投資の巨大化・長期化が生じなかったらどうだったのかね? ネットワークに長けたユダヤ系アラブ系中国系の有利さは残っていたように思うな。宗教的な非寛容さはキリスト教系全般にかなり発展を難しくしたような気もする。

ところで、菅野覚明「武士道の逆襲」ではこんな記述がある。
>おのれが己であることの確証を求めて、血みどろになって名利を追及するのが武士の姿である。しかし一方で、自己が自らを良しと認めえたときには、何の未練もなく一茶を捨てきれるのもまた、武士の本質である。
実にウェーバーの言うよき新教徒の姿と似ているではないか。明治期に武士の道徳を国民道徳としたことは、ほかの要素とも相まって日本の急速な産業化需要を促進した要因であろう。








山椒魚戦争

2020-10-20 16:01:54 | 書評
「積読している有名な本」のひとつだったので気まぐれに読んでみたがこれが実に面白く、また今まさにホットな話題である中国の悪い形での台頭を予言したかのような内容でもあり実に驚いた。高い知性を有した山椒魚が発見され、繁殖し、人間との経済関係にしっかりと組み込まれ勢力を伸ばし、ついには人間の住む陸地を次々と海没させて山椒魚のすみかとしてゆく、という話である。

 1936年にこの本を書いた著者は知るはずもないが、山椒魚の勢力拡大の様子は大戦後の中国の発展・拡大に非常によく似ている。初期の保護・優遇については山椒魚の場合も中国の場合も「弱者を保護する」という、ある意味優しく、ある意味上から目線の、多分に感情的なものであった。山椒魚の場合は当初彼らを発見した船長さんや、保護・教育に寄与した有力婦人などがそれにあたる。中国の場合は途上国として「被保護対象国」であったことは大きい。ニクソン政権以降は保護者を西側に広げ、大きなメリットを享受してきた。次の段階では山椒魚も中国も人類経済、あるいは世界経済に組み込まれる。山椒魚からの資材需要、食糧需要は人類の経済に活況をもたらす。これは中国の世界経済への参入で生じた実績、あるいは将来への期待と全く一緒である。「山椒魚がもたらしたものは「量」であり、その量の拡大により人類は最大限に能力を発揮し大きな繁栄を迎えた」という趣旨の言い方があったが、これこそ中国に(期待込みで)当てはまる言葉である。
 山椒魚が増えすぎ人類の経済が依存しすぎていることへの警戒論は強く現れてきて、一部で排斥的動きもあるのだが、一つには経済的依存により(山椒魚への供給をやめると大量失業が発生する)、また各国の国単位での安全保障的思惑から(各国とも自国防衛のため山椒魚にある程度の武装をさせている)、人類としてまとまった対抗処置は取られず、事態はずるずると進む。そのうち大人しく平和的であった山椒魚側から海辺の土地の有償割譲(これらはのちに海没)が求められ始める。各国は統一的対応ができず山椒魚側からの実力行使もあったりして、(中途経過の仔細は書かれていないが)ともかく陸地は次々と海没してゆくことになり、内陸国であるチェコでさえも危ういことになる、というところで話は終わる。

 最初は慈愛的精神と上から目線の同情を受け、次に「量」を背景とした力で保護者側の経済にがっちり組み込まれ、ついに保護者を上回る力を獲得して保護者を侵食してゆく様は中国そっくりだ。ま、救いは中国が山椒魚ほど控えめでない、というより厚かましいことだな。おかげさまで各国は中国の危険性に気づき、比較的統一性のとれた反撃・排除に向かっている。中国は山椒魚ほどの勝利を得ることはないだろう。



椹木野依「反アート入門」再読

2019-11-13 15:16:20 | 書評
なんと椹木氏の本はこの本だけではなく他に2冊2011年に読んでいるようだ。書庫に見当たらないので他の2冊は図書館ものだろうな、たぶん。

さて、「反アート入門」再読の感想・まとめ。いやこんなに内容の濃い本だったけ、と自分の記憶力のなさにあきれる(笑)。

そうはいっても2章まではそれなりに消化できているようだ。あいトレをきっかけに、考えたというか思い出した見方が、
①現代美術は多言を要するものでありまた背景を必要とするもので、作品自体はその全体の文脈の中の挿絵に過ぎない。
②その意味において現代美術は骨董趣味と酷似する。だからある意味内輪でああでもないこうでもないとやっていればよろしい。
であったが、2章までを読むとほゞこれに沿っている。
もちろん美術史の中ではミニマリズムとそれへの反撃、更にスミッッソンの「全体主義」(というべき?)、頭でっかちで手技なしの究極であるコンセプチュアルアートなどなど当事者としてはまた美術史的には大きな事件があるわけではあるが、次第に外の人間にはどうでもよい世界になってきていたといっていい。
なおコンセプチュアルアーティストに日本で最も近いのがコピーライターあるいは電通のディレクター・プロデューサー、というのは秀逸な説明だ。

しかし3章からは僕は消化できていなかったようだ。2章までで戦後のアメリカの東海岸を舞台としたアートの流れが精緻化をきわめてある意味行き詰まったことを述べているが、これに対し西海岸ではヘルターケスター的グロテスクで無意識的でエネルギーにあふれた美術が勃興した。加えてその後冷戦が終了しグローバル化が進んだことで旧共産圏や発展途上国の豊饒なアートが欧州・米西海岸を中心としてきた美術界にあふれるように流れ込んできた。
新しい勢力は従来の批評家や美術史家の影響をあまり受けず、コマーシャルギャラリーや大規模オークション、新興コレクターによって支えられた、証券市場と見まがうような市場で成功を重ねていった。抑制なき市場では新人の青田刈りが盛んにおこなわれ、そういう中ではおとなしく美術史の文脈の中での価値を尊重するものよりも「価値の破壊者」が歓迎された。ダミアンハーストはその典型である。批評家や美術史家の定める「価値」は遠い過去となり、市場参加者の思惑と気まぐれが支配する投機市場のごとくになった。そのような市場で最も活躍するのが中国人である。文革で歴史的更地に一旦なったことがむしろ有利に働いているのかもしれない、とは著者の見立て。
日本では美術からそして日常の文脈から「もの」を引きはがして素で見せる「もの派」へと純化が進んだが、これはやはり社会から乖離したある意味行き詰まった、マニアックな世界となっていた。これは70年代の芸術全般に見られる傾向であった。これを打破したのが「関西ニューウェーブ」である。もはや「現代美術」とはいいがたい横尾、日比野などのイラスト、蛭子の漫画などなどがあった。この流れは現代美術の枠内にとどまるものではなかったが、その現代美術部分の「断面」が90年代の村上、会田の登場を用意した。世界の流れ同様、彼らはそれまでの歴史(もの派)とはいったん切断している。

こうして美術市場は美術史を背景とした「価値」が支配する世界から、歴史から分断された金持ちとディーラーたちが「価格」を支配する世界となった。それで4章からは貨幣とアートの類似性について語られる。ここの部分の論議は経済系の人間である小生にはその通りと思われる論議(むしろ株式市場、仮想通貨市場とか言った方がよりぴったりくるかもしれないが)。いくつか面白い論議を紹介。
①油絵は画家が美術史の後任のもと発行する一点物の紙幣。紙幣は国家の国力のもと、多数のエディションを持つ版画作品。
②紙幣同様、絵画も内実より真贋が大事。
③イコンや日本画は金貨銀貨に相当、近代画は紙幣に相当
なおマークシェルとハイデッガーに依った最後のほうの論議はいまいち未消化の印象。

第4章は日本的・東洋的なものを手掛かりとすることによる現状からの脱出を語っているように見える。割と気軽に書いたゆえか骨格がしっかりしていない感じがするが、論議自体は結構エキサイティングである。「絵は有難く見る」という「学び」を捨て、「あらわれ」と「消え去り」を軸とした日本的感性の中で「対象を「有難く押し頂く」のではなく、ある境地へ達するための契機とする」「経験・境地を重視する」「岡本太郎の呪術、柳の民藝の考え方が導きとなる」というようなことを言っている。未整理だが非常に面白い論議。僕としてはざっくりと「完成品とその背景にある美術市場の位置づけや考え方」ではなく「それを契機として到達される境地や経験」を重視すべきである、ということと理解した。
終章ではこの要素がさらに強調され「生の経験か遺物の遵守か」において現状は後者が重視されすぎている、前者を取り戻すべき、というようなこと言っていた。

とりあえず以上。後半は赤線だらけになってまとめにくかったが、なかなかいい本であった。再読前の僕の理解はどうも2章ぐらいまでしかなかったようだね。市場原理が支配するカオスのごとき現状はその後の展開であり村上もそこの住人であるようだ。

Timothy Snyder「Bloodland Europe between Hitlar and Starlin」、大木毅「独ソ戦」

2019-11-09 13:08:14 | 書評
Bloodlandは英文ペーパーバックで544ページもある本。日本語だと上下二巻でそれぞれ三千円。英語のキンドルだと800円だったので昔に買っていて、日本語版の存在を知らなかったので読んだのだが、まあよくぞ英語で最後まで読んだものだ。英語だし内容もきついんで休み休み半年ぐらいかかったがw

内容はただただ陰鬱。ドイツとソ連に囲まれたポーランド、バルト3国及びソ連西部のウクライナ、ベラルーシあたりの悲惨な運命が語られる。この地域は独ソ各勢力に交代交代に占領され、それぞれが虐殺を行った。スターリンとヒットラーの狂気もさることながら、結果非戦闘員を1400万人を殺しそれ以上を労働キャンプに送り込んだそれぞれの国の「装置」があったわけだから、個人的狂気じゃすまないよね、これ。そのあたりはヒットラーやスターリンだけではなく幹部連中の思想や反応の仕方も書いてあり、まあ納得できる話だ。大量餓死を招いたウクライナ農民からの穀物の徴発やユダヤ人の殺戮などが(営業成績を争うような)組織間競争になって振り返る間もない、振り返ってみてもそれぞれのイデオロギーが一定の枠となる様子はなどがよく描かれている。

それにしてもドイツの罪はひどいもんだ。ユダヤ人を、戦闘目的の巻き添えなどではなく殺害を目的として600万も殺し、ソ連兵の捕虜も意図的に飢えさせて300万人殺したっていうんだからね。あとポーランドの非ユダヤ人なども多数。まあ抹殺されてもおかしくない国だな、ドイツは。僕が当時のロシア人ならそう思うだろう。ドイツ国内でのソ連の進軍路の悲惨、被占領のベルリンの無秩序も自業自得と思えばまあそんなものか。ポーランドへの国土一部割譲もまあ、あれくらいは仕方がないかなあ、と認識するね。
ところでドイツ人、ロシア人はこれをどのくらい知っているんだろうか?

上記に続いて「独ソ戦」読了。Bloodlandの補完と思い読んだが思いのほか勉強になった。戦域の詳しい図表が多く非常にわかりやすい。キンドル化を待っていたが紙の本で買ってよかった。図のみやすさはやはり紙が上だね。

41年6月のバルバロッサ作戦がバルト海~黒海にかけての3000キロメートルの広大な前線に渡り300万人以上を投入した作戦だったとは驚くね。恥ずかしながら今まで知らなかった。それで補給も途中からかなわずまた赤軍がフランス軍と違い意に反して頑強だったということで、実は41年8月、作戦開始2か月で、まあそれまで快進撃と勝利を重ねてきたのだが、すでにボロボロになっていたようだ(例えば装甲車両の稼働数は3分の一)。よく言われる日本軍の大風呂敷とか補給軽視以上にこれはひどいね。それからフランスを中国、ソ連をアメリカに置き換えると、弱い軍を相手に快勝して錯覚した軍が無謀にも強い相手に大風呂敷の戦いを挑む、という点でこれまた日本軍とも似ているね。さらに言えばコンティンジェンシープランの欠如も。ちょっと話がそれたが、赤軍もダメージは大きく、10月の時点では、あたかも「殴り合ってフラフラになった巨体ボクサーが2人、かろうじて立っている」状態だったようだ。
日本の開戦がこの何ヶ月後かであった、と言うのは実に悔やまれる話だね。三国同盟解消と連合国への加担だって考えてもいい話だよ。少なくとも開戦はないよね。ドイツのモスクワ進行作戦中止が12月5日ということも考え合わせると、「アホとちゃうかこいつら?」と当時の意思決定者連中には言いたくなるよね。天皇だって立憲君主制下での自制なんて言っている場合じゃなかろうて。そういう視点でまた勉強してみよう。

蹂躙された地域の悲惨さはブラッドランドと矛盾はないが本の重心が戦況推移解説なので相対的には簡単である。「絶滅戦争の惨禍」という副題はちと大げさでは、と思う。まあ類書の中では惨禍の部分に焦点を当てている方かもしれないし、また僕の感じ方がブラッドランドを読んだあとのせいで「惨禍慣れ」しちゃってるかもしれないね。
あと、ドイツ国防軍、国民もヒトラーの「共犯者」であって罪を免れないことは明言しているね。そういうことをしっかり言える時代になっているわけだ。

現代美術、骨董、「啓蒙」の不可能性

2019-11-06 09:35:20 | 書評
(現代美術の「素」での魅力のなさ)
あいちトリエンナーレの揉め事を見て現代美術に関して考えることがいくつかあった。まあ僕は素人で現代美術の愛好家でもないのであんまりいうこともないのだが、やっぱり強く気になったのは現代美術の「素」での競争力・訴求力のなさである。政治性が強いとかいろいろあるにしても、その作品が「オーラ」をもち、見る人を説明なしに文句なく惹きつけるのであれば、今回のことももっと柔らかな方向に収まったような気がする。一般の人(≒納税者)が、問題とされる作品を見て「いろいろあるにせよまあきれいな絵じゃないか、さすがだね」と思うのと、「なんだこの汚いがらくたは?」と思うのでは話の方向は全く違っていたのではないかと思う。現実は後者だったんでもめた。
とはいえ、現代美術は多くの場合「なんだこれ?」みたいなもののことが多いので、「素」での魅力がないことはほとんど宿命である。美しいものは大概描かれてしまったあとの宿命というべきか。(なおこれは現代音楽にも大いに通じる話である)

(現代美術は饒舌に解説されなければ理解されない)
ということで現代美術は、予備知識なしにただ見たり聞いたりして「素敵」「ほほう」と思うことはほぼないといっていい。文脈なり意図なりが理解されなければ鑑賞もできない代物である (誰がデュシャンの「泉」を解説なしに理解できるというのだ?) では現代「以前の」、例えば西洋絵画はどうか、というと、実はそれらも文脈が必要である。ミケランジェロの「最後の審判」はキリスト教を、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はギリシャ神話を知っておく必要があるだろう。ただ、それらの文脈は一般的なものであり、一応皆に共有されていた(ギリシャ神話は教養人士の間だけだったかもしれないが、それでもまあ広めである)。つまり見る人と作る人に共通の文脈があった。
文脈を知らない人が見るとただ裸の人たちがうようよいる絵に違いないが、そうは言いながらも絵としてはきれいであり、背景の文脈を抜きにして描かれた人々の姿かたちや表情を楽しむことはできるものである。
要約すると、以前の絵画と比較して現代美術は①文脈が一般の人と共有されていない②パッと見できれいでない という2つのハンディを有する。それを超えて作品を見させるためには、文脈についての言語的解説は不可欠である。ただ、最近の作品においては文脈はとても個人的に込み入った考えを背景にしている場合があり、その解説は饒舌なものにならざるを得ない(それをしないのは作家であり批評家の怠惰であると僕は思う)。むしろ言語的解説の「挿絵」として作品がある、というぐらいの考え方でよいのではないかと思う。いや、もちろんピカソの「ゲルニカ」ぐらい文脈がわかりやすければ、多言を聞かずしてみる気にはなるわけだが、デュシャン前後以降の美術の文脈は(おそらく仲間内でのやり取りの末の過剰醗酵によるものだろうが)結構複雑化し個人化しまた難解になっていて、多言を弄してもらわなければわかるはずもない。

(現代美術と骨董品の世界は似ている)
そんなことを考えていて最近思いついたのだが、これって骨董品とかビンテージ物のワインの類と似ているよね。骨董品でいえばその品がどういう人が作らせて・作って、どういう人の手を経て現代にいたっているかということを知らなければ有難味をフルに味わうことができない。習近平がイギリスに訪問した時イギリスは大胆にも天安門事件の年にボトリングされたワインを出したが、これもその文脈を知らなければ当てこすりは空振りとなり、ワインはおいしいかどうかだけで判断される。
古ぼけた陶器や古いしかしありがちの掛け軸がどのくらい価値があるかは、作品自体の「素」の力も否定できないものの、それ以上にその作品が生まれて現代にいたるまでの歴史的文脈が決めるのである、ということだ。(まあ故宮博物館の「翠玉白菜」みたいな、「素」での強さがすごいものは別なような気がするが、その「翠玉白菜」であっても現在の技術を以ってすれば硝子工芸として同等の美しさのものは作れるように思う)。

(現代美術、骨董などの「金持ちの文脈語り趣味」は大衆に押し付けられない)
それで思うのだが、現代芸術はこういう骨董品と同じ扱いでいいんじゃなかろうかと思うのだ。その造形が純粋にいいとかそういうことでなく判断しなければならないのだから文脈は示してもらわないといけないし、できればそういうことを語り合えるサロンとセットで存在するべきであるといってよいと思う。そのサロンでは現代芸術や古ぼけた陶器みたいなわけのわからんものを、主に金持ちの趣味人がああでもないこうでもないと文脈を語りながら鑑賞し売買するわけだ。サロンを脱してこれを大衆化しようとしたりするといろんな無理が出る。あいトレの混乱は実は現代美術と大衆、というかサロンとマスの間の相性の悪さがデフォルメされて表出したんじゃないかなあ。骨董鑑賞を大衆化しようとしたってできない。骨董趣味のない人は実用性とデザイン性で陶器を買うだろう。その由来に金は出さない。ワインだって値段に比して味のいいものを探してくる。歴史の文脈にカネは出さない。現代美術は大衆にはまず売れない。ラッセンや(笑)ヤマガタの後塵を拝する。漫画やアニメにははるか彼方において行かれた。まあそういうことだろう。それは骨董や現代美術が負けたわけではなく、セグメントが違うということなのだ。
 そういう「自然の流れ」であり「素の魅力」の違いを作為的に「あるべき方向」に修正しようとしても難しい。例えば学校教育や公的補助でクラシック音楽は盛んにサポートされているといえようが、ポップスをひっくり返す勢いなど全くない。骨董や現代美術よりはるかに「素」の訴求力が相対的には高いと思われるクラシック音楽でさえもだ。現代美術や骨董なんて普及させるのはまず無理と言っていいだろう。文化権威主義的なやり方がある程度通用した岩波朝日文化華やかなりしころは多少は違っていたかもしれないが、いまやネットで情報が行き渡りアカデミアやマスコミが権威を以って情報をコントロールし色付けして「大衆」を「啓蒙」できるような時代ではなくなった。現代の「大衆」はみんな賢明で正直で、またしたたかである(^^)

ー次は「現代美術、ポストモダン、ソーカル・モブリン」と題して「現代美術の「芸術性」への疑問」を語る予定ー






「地獄の黙示録」

2019-02-11 23:11:33 | 書評
今更ながらの「地獄の黙示録」である。プレイメイトとの交流やフランス人地主とのやり取りなど映画公開時には無かったカットが入っているので3時間20分と、長い長い(^^;)
まあ感想は今更僕が言うことはないんだろうけど2‐3点。

今の基準で言うとマーロンブランドの体の鍛え方・引き締め方は全然足りない感じがする。特に冒頭のホテルでイライラしているところではなんか体がたるんでる様子がよくわかるのでちょっとしらけるね。ま、ブルースリー以降の基準が厳しすぎるのかもしれんが。あとなんだあの奇妙な踊りみたいな武術みたいな動きは?

カーツ大佐の狂気の帝国は確かに狂っていて、鬼気迫る感触がある。しかしながら儀式が割とありきたりに思えたなあ。もっと気持ち悪い感じでもいいような気がする。

まあこれは主題のひとつだろうけど、母国や家族の必ずしもなく、いやになりながらプレイメイトが来て浮かれているようなアメリカ軍と、地を這い泥をすするベトコンではアメリカ軍に勝ち目はない、というのはよくわかったね。

まあこんなところ。まあ文句言ったけど映像的にもストーリー的にも3時間20分を飽きさせない映画というのはすごいね。

「いきなりはじめる仏教生活」 釈徹宗

2019-01-27 17:32:41 | 書評

前に一度読んだことがあり、確かに一部線が引いてあったりしていた。ただその時はあまり印象に残ってなかった。改めて読み直して、今回はちと衝撃を受けました。

最初の2章では、現代が「自我を煽る」構造であるということを言っていて非常に興味深い。池田小学校の宅間の話から始め、まあこれは極端にせよ煽られた自我と現実のギャップを作りそれに苦しむ人びとを生むのが近代である、としている。このへん、「多くの人は親からちやほやされて可能性を信じるとか言われて自己評価が高すぎるまま社会に出る」「そして成功できないことを他人のせいと社会のせいにする」「自己評価を下げろ、絶望から出発しろ」と常々言っているZvezda氏とパラレルな主張だね。

で、もう一つ言っているのは(作者はダイレクトにはそういう言い方はしてないが)、近代というのはキリスト教の骨格の中に啓蒙が乗り移ってせいりつした。もともとキリスト教は直線的な進歩史観を持っていて、現在を耐えて将来の(天国での)幸福を願い、また信仰の単位は神対個々人である。特にプロテスタンティズムになると個人対神という側面がさらに強くなる。それが啓蒙の個人主義と非常にマッチして、直線的な史観は進歩史観と同類であり、理想を目指して精進する制振(ウェーバー)もあわさり近代というのが発生し成長した。すごく面白い見方で自分としてはウェーバーの言ってることがようやく分かったような気がする。
イスラム教はこれに対して根っこが違うって言うか、政治・生活・信仰すべてがイスラム教に覆われている。なので信仰が個人化して見えなくなって社会は脱宗教化していくというプロセスは取れなかった。

それ以降は仏教の実践について語るが、正直言ってちょっとじれったかった。日々の習慣とか具体的な修行とかそういったものがどんどん出てくるかと思ったけどそうではなく。二河白道や十牛図修行みたいなのでゆっくりと仏教徒はなにかみたいな話をじわりじわりとする。なんだ詰まんねえ、と思ったがようやく終りの6-7章ぐらいからまた面白くなる。「あなたは仏教を知っている」「日本人の生活の中には結構入ってる」などという。
あの世のことはまあよく聞かれるんだけども、「実は大きな声では言えないですけど私もよく知らないんですよ行ったことないんですよ」なんてとぼけたことを言う。そんな具合でこれさえあればいい、とかあーだとかこうだとか、そういう決めつけられるものでは何もない、すべてが幻である、幻であるけど幻じゃないかもしれない、というような、ある意味わけわからん話をじわじわとしてゆく。あの世というものを固いものにしてそこから見下して考える セム系の宗教ではありえん曖昧さであり柔軟さである。

んで、終章の7章から若干抜粋。

>あらゆるものは様々な要素が関係しあって、一時的に成立している、というのは仏教の基本的立場です 。

>恒常的個人などないが、また逢う世界は間違いなくある、仏教ではそのように考えます。

>この世もあの世も全ては虚構と感じつつ、虚構だからこそなおさら常にケアし続けていなければ簡単に崩壊するものだと理解して、生と死の物語を大切にしようじゃないですか

>外部への回路を開きつつ今ここに生きる

また読むだろう。


ダグラス・マレー「西洋の自死」

2019-01-14 11:19:04 | 書評
ヨーロッパが難民の受け入れにより変質し、自死ともいえる変化を始めており、それはおそらく不可逆というお話。難民による社会の変質は結構以前から続いており、それに対してヨーロッパは驚くほど無防備だったようだ。
それでも最近の難民の量は圧倒的である。僕でも覚えている例の子供の溺死体のセンセーショナルな報道は受入増加という意味ではやはり決定打であったようだ。国内を締め付け辛うじて秩序を保っていたアラブの独裁政権たちがアラブの春で倒れ、その結果として国内が乱れて難民が流出する。これらは既にギリシャやイタリアをひどく疲弊させていた。メルケルは移民について2014年末に既に前向きの(あるいは反対派をたしなめる)メッセージを発していた。ただここまではある意味理性的な両派の論議が可能な状況だった。
しかし7月ごろからドイツではメディアでの移民・難民の取り上げられ方がセンセーショナルなものになる。7月には難民の少女がメルケル臨席の生番組で泣き出すということがあった。8月にはメルケルは難民問題へのより積極的な関与を表明、「欧州の門戸を開いた」形となり、多くのマスコミが賛意を示した。この時点ではまだ反対論は表明されていたが、メルケルの声明の2日後、シリアの少年アライン・クルディの溺死体の写真がでかでかと報道される。これ以降難民に関する論議はすべて感情的要素が支配的となり、難民への障壁は次々と崩れていった。
なんというか、平和ボケ、じゃないが善人ボケだね。いいひとごっこというか。白豪主義の裏返しの慈善主義というべきものか? 日本だとここまで感情的に崩れるとは思いにくい。

昔にユーロが発足しようとした時、僕は「固定交換レート下では人の移動で経済格差の調整が行われる(労働の限界生産性の高いところに労働者が移動)はずだが、ヨーロッパといってもさすがに言語・文化の違いはあり、それほど進まないかもしれない」「となると、日本の大都市集中のように(日本国内は単一通貨)、地方の貧困化と資本・人材の東京等大都市集中が生じる。それを緩和するため地方交付税交付金があるが、ユーロではそういうやり方は政治的に困難なのでは?」などと思い、また人にも言っていた。
その後ユーロが発足してしばらくしてから南欧の困難とドイツの一人勝ちが定着した。ドイツはマルク高に悩まされず自国にとっては割安なユーロのレートのおかげでごっそり儲かっており、南欧は逆に自国にとって割高なユーロのレートで困難が生じているのに、ドイツは南欧の困難は自業自得と言って援助に渋面を見せる。ここは明治以来人材を地方から吸い上げてきて、実際吸い上げられてきた人間かその子孫で構成される東京の政治経済のエリートたちとはずいぶん認識が違う。まあ国が違えば仕方がないかもしれないとは思うが。
ということで後者の予言というか懸念は正しかったのだが、前者の方はさすがに言語・文化の壁が少なからずあったようで目立たなかった(ゆえに南欧の失業率は高かった)。ところがここでついに、押し寄せる難民がドイツ・スウェーデンを目指して、労働市場の調整に動く、という皮肉な結果が生まれているようだ。難民の動きは経済合理的であって、失業率の低い国に押し寄せるのは当然のことである。ドイツはより難民に悩まされ、その結果競争力が低下して他の地域との均質化が図られる、ということなのだろうか?

まあ、著者の言う通りヨーロッパは死ぬのだろう。それも自らの態度が招いた結果として。特に、非寛容なイスラム教徒を、特にスンニ派を無警戒に過度に寛容に招き入れるのはあまりに無警戒だったとしか言いようがない。この先ヨーロッパが「守られる」とすれば、いささか暴力的なものも含む強度の移民排斥の動きがある、と想定せざるを得ない。もしそれが起こるなら早い方がいい。少しでも犠牲は少なくなるように思う。

村上龍「ヒウガウイルス」、ついでに「5分後の世界」も

2015-10-24 08:25:41 | 書評
「5分後の世界」を先日再読、というか3回目の読み直しをしたのでついでに読んだ。というか、「5分後の世界」ではアンダーグラウンドのことが十分にわからなかった部分がありそれを詳しく知りたいと思ったからだ。
で、感想はちょっと微妙だなあ。CNNの女性記者・カメラマンの目からアンダーグラウンドの兵士たちを見るという視線の設定はなかなか良くて、また戦闘などの動的場面の記述は相変わらず全くすばらしい。これは前作と変わらないところだ。使命へ向けた迷いのない兵士たちの様子もナイスだし、それを取り巻く世界の猥雑さもいい。

でも何か物足りないのは、アンダーグラウンドの兵士たちの使命がいまいち納得がいかない点である。ビッグバンに行って金持ちを解放するだって?まあ外交的要素も含めればそういうことって結局は役に立つんだろうがなんだか傭兵っぽくて好かん。その一方で途中で国連軍1個師団を壊滅させたりしている。なんかわけがわからん。実は「5分後の世界」の後半もそんな感じがないわけではなかった。ワカマツはなんであんなところでコンサートをしたのか。もっと安全な場所を用意させることはできたろうに。小田桐を特定の場所に届ける使命は多くの兵士を犠牲にするほど重要だったのか?それはなぜ?

崇高な目的のために戦う、精鋭のみから成る迷いなき最強の戦闘国家、という姿を見たかったんだな、僕はきっと。それは「5分後の世界」の前半で終わっているといえば終わっているかもしれないな。4回目にまた読むときもあるだろう。そのときはどんな感想を持つだろうか。。。

今回の芥川賞は不作だな -「火花」と「スクラップアンドビルド」-

2015-09-03 18:35:38 | 書評
正直今年は不作だったかなあ。最近はちょくちょく飛ばすこともあるが、池澤夏樹の受賞以前から比較的まめに芥川賞を読んできた自分の感想からすると、まあこのレベルの作品は過去にもあったので今年が特に落ち込んでる、というわけではないかもしれない。たとえば三井物産の社員の人の作品とか「うん?」ってな感じだったし、小川洋子も僕はよくわからなかった。まあ少なくとも僕にとっては過去の受賞作の共食い(田中慎弥)とか苦役列車(西村賢太)のレベルの作品ではなかった。

さて各論。火花は率直に言って論外である。何でこんなのが受賞作になったんだろうか。そもそも候補作になったのか? もちろん、芸人という、夢がありながら栄光をつかむものが少ない世界に身を置く人々の日常が面白くないわけがなく、主人公の先輩の神谷のような変わったというかゆがんだ性格の人も大変面白い素材である。しっかしあの生煮えの生硬な表現はどうにかならんものか。
「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい日差しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながらにぎわっている。」
これが冒頭である。ここでやめようかと思った。力みすぎだし、第二文はまあかろうじて文意は通じるが、ちょっと流れがおかしい。こんなのが随所に出てくる。何を考えているのか。編集さんはちゃんと仕事をしたのか?三島の天人五衰の冒頭でも読んで改めて打ちのめされて出直してきてほしいね、これは。
ストーリーも問題がある。これは高木のぶ子氏の選評、「破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それとともに本作の魅力も萎んだ」「火花は途中で消えた。作者は終わり方がわからなかったのではないか。」がすべてかな。
又吉という人間にとってこの賞が不幸のきっかけとならないことを祈るばかりだ。率直に言って基礎訓練ができていない状態で、かといって爆発的な何かを抱えているわけではない人物が出てきてしまった。本人はそういう天狗になる人間ではないと思うが、関係者の集団的力の恐ろしさには用心してほしい。

スクラップアンドビルドはちょっと良く理解していない。気が向いたらもう一度みたい。僕も身内に要介護の人が居るので祖父を世話する主人公の日常の様子はよくわかるなあ、とは思えるのだが、老人の繰言的な「死にたい」発言をウーン、真に受けるかなあ?と思う。とはいえあっさり否定もできない、これは。最後のほうで風呂場でおぼれてまさに死にかけた祖父が、「おかげで命拾いした」と主人公に言ったので、主人公は自分の理解(祖父は死にたいのだ、という理解)を考え直す、ってコトらしいがこれもなんかすんなり行かないね。こうしたメインの話に限らずすっきりしてないのがこの小説で、その分また読もうかという気になる。ただしスケッチ的な描写は心理も情景もすっきりしていて、これは作家の技量に達していると思った。