酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「自転車泥棒」~歴史の断面に喪失感を刻んだ台湾の小説

2024-05-07 21:59:24 | 読書
 第10回憲法大集会(3日、有明防災公園)に足を運んだ。開会前、グリーンズジャパンの街宣を行ったが、参加者は〝同志〟ゆえ配布物を次々に受け取ってくれる。法律違反の裏金議員の多くは、戦前回帰の改憲を志向する安倍派所属だ。武器輸出の制限が緩和され、自衛隊を米軍の指揮下に組み入れる動きが顕著になった今だからこそ、憲法9条の存在意義は高まっている。

 日本がアジアを侵攻していた時代も描かれていた台湾の小説を読んだ。呉明益著「自転車泥棒」(2015年、天野健太郎訳/文春文庫)である。呉は環境活動家であり、チョウの生態に詳しいことは本作にも生かされている。大学教授でもある呉は文献や史料を駆使し、様々なカルチャー、歴史の断面を本作にちりばめている。小説を書く意味についての自問自答も興味深い。

 時空を行きつ戻りつ疾走し、虚実の狭間を彷徨う複層的かつ多面的な実験小説だ。語り手は8人いるが、主人公(ぼく)は1992年に解体された台北にある住居兼商業施設<中華商場>生まれで、父は背広を扱う仕立屋を営んでいた。自転車とともに消えた父への思いから、ぼくは自転車マニアになった。各章のつなぎとして自転車についてのノートが挿入され、イラストは作者自身が担当している。

 ぼくの家族史の起点は、日本統治時代の初期にあたる1905年だ。明治38年と日本の元号を併記していたことから明らかだが、日本との密接な関係が本作に刻印されていた。ぼくは自転車の行方を追って多くの人と出会う。通ったカフェは、三島由紀夫の小説にちなんで「鏡子の家」と名付けられていた。後半では高齢の日本人女性、静子と交流することになる。〝台湾人は親日的〟という先入観があり、文化的結びつきの強さは本作にも描かれているが、戦争が影を落としている以上、日本軍による虐殺も冷徹に綴られている。

 ある語り手は日本軍として戦い、ある語り手は連合軍の一員だった。ともにぼくが自転車捜しをする過程で知り合った知人の父である。マレー半島やラオスでの戦闘で英国軍を追い詰めた銀輪部隊の存在を本作で知る。銀輪部隊は自転車で行軍して機動力を発揮した。ジャングルにおける戦闘が過酷であることは言うまでもないが、本作は詩的かつ繊細に綴っている。作者の自然、そして生きるもの全ての敬意が滲んでいる。ゾウは輸送手段だったが、語り手が愛情を注いだゾウは数奇な運命を辿り、台北の動物園に行き着く。

 放射線状に拡散した物語はぼくの家族の絆で終息する。ぼくの父を含め、時代に翻弄された者について<みな、なにか尖ったとげのようなものが体に刺さっているような気がしてならない。時間をかけて、必死になってそれを抜いているのだが、最後の一本のところになると、また押し込んでしまう>と記していた。

 〝とげ〟とは恐らく〝歴史〟なのだろう。ぼくだけでなく、登場人物は何かを探し続けている。根底にあるのは叫びたいような喪失感だ。台湾の小説を読むのは初めてだったが、呉の力量に感嘆した。

 自転車といえば、頭に浮かぶのが「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK)だ。火野正平が自転車に乗って視聴者の思い出の場所を訪ねる紀行番組で、何かが起こるわけでもないまったりした旅に心を癒やされている。火野の飾らないキャラとアドリブが魅力で放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で春のツアーは延期になった。名優も74歳……。頑張れと言うのは酷かもしれない。
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「死刑台のメロディ」~スクリーンで融合するパトスと叙情

2024-05-02 21:21:13 | 映画、ドラマ
 新宿武蔵野館で「死刑台のメロディ 4Kリマスター版」(1971年、ジュリアーノ・モンタルド監督)を見た。イタリアとフランスの合作である。監督よりも作曲家に重きを置いた企画で、<エンリコ・モリコーネ>特選上映と銘打たれ、「ラ・カリファ」と併せて公開されている。

 「死刑台のメロディ」は史実に基づいている。1920年、マサチューセッツ州ブレイツリー市で製靴工場が襲われ、2人が殺され1万6000㌦が奪われる強盗殺人事件が起きた。冒頭のモノクロ画面で、イタリア人街が警察隊の襲撃を受ける。マカロニウエスタンの空気を感じたが、モンタルドが西部劇を撮影したことはない。

 ロシア革命直後、全米でも労働者の抗議が広まっていた。核をなしていたのはアナキストで、パーマー司法長官の左翼に対する徹底的な弾圧はマッカーシズムの先駆けといわれている。移民への差別もあり、捜査陣の網にかかったのが、イタリアからの移民であるバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)とニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)だった。拘束時、拳銃を不法に所持していたことが心証を悪くした。興味深かったのは英語版の〝ラディカル〟が字幕で〝アナキスト〟になっていた点で、その辺の事情はわからない。

 裁判の過程で証言の曖昧さが浮き彫りになる。最初に結論ありきで、パーマーの意を呈したカッツマン検事(シリル・キューザック)とサイヤー判事(ジェフリー・キーン)はムア弁護士(ミロ・オーシャ)が突き付ける矛盾に取り合わない。証言を撤回しようとした者は暴力にさらされる。直情径行のムアはカッツマンとサイヤーに対し、「あなたたちはKKKと変わらない差別主義者だ」とぶちまけるが、仕組まれた法廷で旗色が悪くなるだけだ。陪審員は短い協議時間でヴァンゼッティとサッコに死刑を求刑する。

 法廷の内と外では空気が真逆だった。ムアと彼を引き継いだトンプソン弁護士(ウィリアム・プリンス)の尽力もあり、ヴァンゼッティとサッコの当日のアリバイ、真犯人の存在が明らかになる展開に、イタリア特有のネオレアリズモの伝統が窺えた。真実が伝わると全米だけでなくロンドンでも<ヴァンゼッティとサッコを無罪に>を掲げた大規模なデモが行われた。

 冤罪事件であれば、2人は解放されたはずだが、両被告が公判で自らアナキストと公言し、資本主義独裁国家アメリカへのメッセージを訴えたことで構図が変わった。体制を問う裁判になった以上、権力側は死刑執行に向け一歩も譲らない。ヴァンゼッティとサッコにも変化の兆しが表れた。無実を主張するヴァンゼッティは無実を主張し、精神に異常を来したサッコは癒えた後、諦念と絶望から沈黙を続ける。サッコを演じたクッチョーラは複雑な心境を演じ切ったことで、カンヌ映画祭最優秀男優賞に輝いた。

 モリコーネが作曲した主題歌と挿入歌に歌詞を付けて歌ったのは、反骨のフォーク歌手ジョーン・バエズだ。両者のコラボこそ、パトスと叙情の煌びやかな融合だった。「忍者武芸帳」(67年、大島渚監督)での影丸の印象的な台詞が重なった。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>

 影丸、そしてヴァンゼッティとサッコの思いは現在、いかほどのリアリティーを持つのだろう。世の中の構造はさほど変わっていないのではないか。
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「エデとウンク」~ロマの苦難の歴史に射す光芒

2024-04-27 16:16:06 | 読書
 笠谷幸生さんが亡くなった。高1だった冬、札幌五輪70㍍級で笠谷さんのジャンプに飛翔感を味わった。90㍍級では1回目で2位につけ、連続金メダル確信した刹那、失速して7位に終わる。あの時覚えた墜落感が、その後の人生の主音になった。〝鳥人〟の死を心から悼みたい。

 前稿で紹介した映画「キエフ裁判」では、東部戦線におけるドイツ軍の蛮行が裁かれていた。パルチザンとの連携ありとの理由で、幾つかの村で数千人単位が銃殺され、ユダヤ人だけでなく、人種の異なる両親から生まれた子供もターゲットだった。人種とはロマを指すケースも多かったことが想定される。ロマはドイツ国内でもユダヤ人とともに弾圧の対象だった。

 ナチスが第一党になる2年前(1930年)のベルリンを舞台に描かれた「エデとウンク」(アレクス・ウェディング著、金子マーティン訳/影書房)を読了した。社会学者でもある訳者の詳細な解題、在日韓国人でピアニストの崔善愛の解説を含め充実した内容だった。根底にあるのは<差別と排除の論理>を超える<共生と寛容の精神>だ。興味深いのは著者が20代半ば、12歳のエデ、9歳のウンクの両方と知り合っていることだ。本書は児童文学の金字塔であり、同時にノンフィクションの要素も濃い。

 父親が突然解雇を言い渡されたエデは、一家の生計を支えるアルバイトを探す過程でジプシーの少女ウンクと出会う。ジプシーは現在、ロマと言い換えられるが、本作に倣ってジプシーという表現も用いることにする。ウンクはロマの下部グループであるスィンティの少女だった。新聞配達で自転車を漕ぐエデにしがみついているウンクの様子を描いた絵がブックカバーになっている。

 金子の解題によると、1929年にはある州で「ジプシー禍撲滅指令」が発布されていた。子供は世間の空気に流されやすいし、エデも偏見に毒されていた。それでもウンク一家――といっても広場に停まっている家馬車だが――と訪ねるうち、家族とも仲良くなる。自転車を盗まれた時にはヌッキおじさんに助けられた。ジプシーたちはナチスによって60万人が虐殺される。金子は資料を集め、本作に登場する11人のうち生き残ったのは1人だけだったことを突き止めた。ウンクも収容所でわが子を失って精神に異常を来し1943年、ナチスの医者に薬物を注射されて亡くなった。

 著者はユダヤ人の共産党員で、チェコ、アメリカ、中華人民共和国を経て東ドイツに戻った。著者の思想信条を反映し、子供たちも組合に好意的で、既成観念に縛られていたエデの父親も自身が解雇されて軟らかくなる。ウンクに優しく接し、指名手配の活動家の逃亡を助けていた。児童文学と社会運動の関係は日本でも多く見られた。プロレタリア児童文学運動には多くの作家が参加したし、アナキズムの影響を受けた作家もいる。ドイツも同様だったのだろう。反ナチスを貫いたエデは戦後に著者と再会している。

 ロマが登場する映画は、トニー・ガトリフやエミール・クスリトリッツァの作品を当ブログで紹介してきた。東欧では放浪者、スペインでは定住した文化の伝承者というイメージを抱いている。とりわけ音楽界への貢献は絶大で、ジャンゴ・ラインハルトは後世のギタリストに大きな影響を与えた。ジェスロ・タルのボヘミアン風の佇まいもロマそのものだ。

 小説で思い出すのは、1990年前後のパリを舞台にした「本を読むひと」(アリス・フェルネ著)だ。ウンク一家そのまま、主人公のアンジェリーヌは<縛られず、屈せず、自由に生きる>を実践していた。「エデとウンク」で煌めいていたのはエデとウンクの会話で、<金銭ではなく自由>に価値を置く人生観は両親や姉にも影響を与えていく。

 ロマ関連の小説や映画に親しんできたが、誤解していたことも多々ある。ロマは異教徒ではなく、移り住んだ国のメインの宗教を受け入れているようだ。「エデとウンク」は作品だけでなく、解題、解説もロマを学ぶための素晴らしい教材だった。
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「キエフ裁判」~ナチズムは今も生きている

2024-04-22 22:36:59 | 映画、ドラマ
 棋聖戦挑決トーナメントを制した山崎隆之八段が藤井聡太棋聖(八冠)に挑む。渡辺明、永瀬拓矢、佐藤天彦の実力者の九段を連破した勢いで絶対王者に迫ってほしい。藤井が〝AI超え〟なら、山﨑は〝将棋界きっての独創派〟で、若手の面倒見も良く関西棋界を牽引してきた。かつてのプリンスも43歳。6月に〝遅れてきた青年〟が爆発することを期待している。

 ロシアのウクライナ侵攻から2年2カ月、戦況は膠着しており、一部でゼレンスキーの〝プーチン化〟を危惧する声も上がっている。戦争は人を狂気に追いやるが、阿佐谷で先日、ドイツ軍の東部戦線における蛮行を裁いたドキュメンタリーを見た。オランダ・ウクライナ共同製作の「キエフ裁判」(2022年、セルゲイ・ロズニツァ監督)である。ロズニツァ監督は他作品を撮影する過程で、1946年1月に始まった同裁判のフィルムが残されていることを知ったという。

 独ソ戦のさなか、ロシアやウクライナでドイツ軍はユダヤ人、複数民族の結婚で生まれた子供、障害者だけでなく、住民たちを虐殺する。モスクワで取り調べを受けたナチス関係者15人がキエフ(現キーウ)に移送されて法廷に立った。原告側のソ連軍関係者、虐殺を免れた一般市民が次々に証言する。死刑判決が下されたのは12人で、あとの3人は長期の強制労働が科せられた。

 個々の事象は詳らかにしないが、徹底的な破壊を志向するドイツ軍の行為に衝撃を受けた。ユダヤ人だけでなく、パルチザンの疑いありとされた村民たちは数千人単位で銃殺される。生き埋めにされた子供たちもいた。前稿に紹介した「イギリス人の患者」に登場するキップは英軍工兵で、〝何も残さない〟ために撤退するドイツ軍が設置した地雷を解除していた。これらの蛮行は戦争が必然的に体現せざるを得ない普遍性に基づいているのか、もしくはナチズムの独自性に根差しているのか、観賞しながら考えていた。

 日本軍が中国戦線で展開した三光作戦は八路軍支配地域の壊滅を目指したものだったし、ベトナム戦争で解放戦線が影響力を持つ地域に米軍が大量にまいた枯れ葉剤は、住民たちの肉体を現在も蝕んでいる。そこに<純血と排除>に価値を置くナチズムが加われば、狂気の度合いは更に濃くなる。被告の中には自己弁明に終始する者、仲間に罪を擦りつける者、命令に背けば自らも殺されていたと語る者もいた。

 被告人にハンナ・アーレントの〝凡庸な悪〟を重ねた映画評もあった。<ナチスによるユダヤ人迫害のような悪は根源的・悪魔的ではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的であるからこそ社会に蔓延し世界を荒廃させ得る>というのが凡庸な悪の捉え方だ。

 一定の説得力はあるが、どこか違和感を覚える。辺見庸は「1★9★3★7」完全版刊行記念の講演会で、<日本軍は中国戦線で円を作り、その内側で兵士(普通の人々)が殺戮、強姦、人体実験を行った。自分が円の内側にいたら、「自分も蛮行に加わっただろう」。それが本作の出発点>と語っていた。戦争は思想や信念を顧みず、兵士は傍観者であることを許されないのだ。公開死刑を見物するため、凄まじい数のキエフ市民が会場を埋め尽くす。ロズニツァ監督は市民の傍観者性をも俎上に載せていた。

 同裁判ではロシアとウクライナの正義は一致していたが、1932年から33年にかけて起きたホロモドールでは、ウクライナはロシアの正義の犠牲になった。スターリンがウクライナの農作物をモスクワに送った結果、1400万人もの餓死者が出たという統計もある。

 キエフ裁判から78年。移民・難民に反発する者は世界で<純血と排除>を叫んでいる。ナチズムが生きていることを「キエフ裁判」で実感した。
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「イギリス人の患者」~喪失感と絶望に彩られたラブストーリー

2024-04-18 22:03:27 | 読書
 読書を生活のリズムに据えているが、齢を重ねるにつれて冒険はしなくなり、お馴染みの作家の著書ばかりを読むようになる。とはいえ、小説や映画で紹介されていたり、何となく本屋に行ったら視界に飛び込んできたりで、手にすることもたまにはある。この1年で挙げれば「巨匠とマルガリータ」、「わたしの名は赤」、「あなたの人生の物語」、「すべての見えない光」、「アーサー王宮廷のヤンキー」あたりか。

 俺は今、67歳。父が69歳で亡くなったことを考えても、死に神は間違いなく身近をうろついている。上記に加え、死ぬまでに出合えてよかったと思える小説を読了した。「イギリス人の患者」(マイケル・オンダーチェ著、土屋政雄訳/創元文芸文庫)である。1992年に発表された同作は英語圏で最も権威のあるブッカー賞を受賞し、2018年には半世紀に及ぶ同賞のベストワン「ゴールド・マン・ブッカー賞」に選出された。

 映画化された「イングリッシュ・ペイシェント」(1996年)はアカデミー作品賞など多くの栄誉に輝いたが、俺は見ていない。本稿では小説に絞って記したい。舞台は第2次世界大戦末期、イタリア・トスカーナ地方のサン・ジローラモ屋敷だ。カナダ軍の従軍看護婦ハナは多くの兵士の最期を見届けてきたが、軍と一緒に移動せず、全身やけどのイギリス人の患者を看護するため同地にとどまった。ハナは図書室から取り出した本を患者に読み聞かせ、患者の記憶はアフリカ戦線を彷徨する。

 ハナの父親の友人、カラバッジョがやってくる。カナダ時代の幼いハナを知るカラバッジョは泥棒であり、連合軍のスパイでもあった。ドイツ軍の拷問で両手親指をなくしている。シーク教徒で英軍爆弾処理班のキップも屋敷構内で暮らすようになり、主にハナとキップの主観がカットバックして物語は紡がれていく。キップに重なるのが「すべての見えない光」のヴェルナーで、両者は科学に絶対的な価値を置いている。イギリス兵のキップ、ドイツ兵のヴェルナーは戦地のどこかですれ違っているはずだ。

 作者のオンダーチェは詩人でもあり、同作には複数の語り手の心象風景が、彼らを包む自然に重ねて表現されている。叙情を綴って小説を編んだと捉えることも可能だろう。イギリス人の患者の来し方はカラバッジョとの会話で明らかになる。諜報員アルマーシ(イギリス人の患者)と人妻キャサリン、ハナとキップの2組の宿命的な恋が心を撃つ。

 発表26年後に本作が「ゴールド・マン・ブッカー賞」に輝いた理由を考えてみた。ハナとカラバッジョはカナダ出身で、戦争でヨーロッパに流れ着いた。キップはインド生まれで反英主義者の兄と袂を分かつ。イギリス人の患者は英国生まれではなくハンガリー人だった。主な舞台は英国、北アフリカ、イタリアで、映画版のキャッチコピーは<あなたに抱かれて、地図のない世界へ>だった。登場人物がアイデンティティーを求めてボーダレスに彷徨う展開が、移民や難民が常態化した現在とフィットしている。

 背景は戦争だが、アルマージとカラバッジョは諜報員で、キップは爆弾処理班だ。午前中にナチスドイツの蛮行を告発したドキュメンタリー「キエフ裁判」を見た。詳細は次稿に記すが、独軍の破壊への衝動には衝撃を受けた。東部戦線から撤退した独軍は地雷を設置して〝何も残らない〟状況をつくり出した。キップは技術と精神を総動員して終戦に導く任務を負っていた。戦争の知られざる形が描かれていた。

 原爆投下を知ったキップがラストで取った行動に違和感を覚えたが読了後、少しずつ理解出来たような気がした。原爆はあまりに破壊的で人知を超えていた。爆弾と闘ってきた自分は何だったのかと問い、非白人の国に落とされた意味を考える。兄の言葉が甦り、アルマージにさえ殺意を抱いた。

 アルマージのアフリカ戦線での行動が、映画「情婦マノン」のロベールがマノンの亡骸を担いで砂漠を彷徨うラストと重なった。一緒にいる時はハナへの思いを表白しなかったキップだったが、帰国して安定した地位と家族を得て去来するのはハナの姿だ。読む人によってポイントは異なるだろうが、俺にとって本作は喪失感と絶望に彩られたラブストーリーだった。
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