酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「マイ・シスター、シリアルキラー」~連続殺人犯は無垢な美女

2024-05-15 21:00:35 | 読書
 グレタ・トゥーンベリさんが逮捕された。自国スウェーデンで開催された「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」決勝大会にイスラエル代表が参加したことに抗議し、<ジェノサイドをやめろ>といったパレスチナへの連帯を示すプラカードを掲げて会場を取り囲んだ数千人の中にトゥーンベリさんもいた。

 欧州や全米各地の大学で大規模なデモが行われているが、前稿末にも記したように、<反ユダヤ主義>ではなく、自由と民主主義、反戦を訴えるリベラリズムに基づいている。反貧困、ジェンダー、気候正義、反ジェノサイトなど複数のカテゴリーが人々を紡いでいくインターセクショナリティー(交差性)をトゥーンベリさん体現しているのだ。

 「マイ・シスター、シリアルキラー」(オインカン・ブレイスウェイト著、粟飯原文子訳/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読了した。ミステリーやサスペンスは面白いのはわかっているから、<読書は修行>が染みついている俺は読まないようにしているのだが、紀伊國屋で目に留まった本作を購入した。

 作者はナイジェリア出身の女性だ。文学賞を受賞した時期を考えると、30歳直前に本作を発表したようだ。ポップかつスタイリッシュな記述で短い章で紡がれており、200㌻弱を一気読みしてしまった。舞台はナイジェリア最大の都市ラゴスで、コレデ、アヨオラの姉妹が主人公だ。語り手のコレデは大きな病院の看護師長に任命されるが、優秀さは病院だけでなく、妹の殺人の後始末にも発揮される。タイトル通り、アヨオラはシリアルキラー、即ち連続殺人犯なのだ。

 本作はミステリーにカテゴライズされるが、謎解きの要素はない。冒頭でコレデがアヨオラのSOSで駆けつけると、恋人フェミの死体が転がっていた。コレデは部屋を完璧に清掃し、死体を遺棄した。3度目のことである。姉妹のキャラクターは対照的で、コレデは平凡でまじめな性格、アヨオラは圧倒的な美貌で周りの男を夢中にさせる。

 共依存はなぜ成立したのか、物語がカットバックしながら仄めかされる。ナイジェリアの現状や宗教についてはわからないが、独裁者の父が、14歳のアヨオラの嫁ぎ先を勝手に決めたことへの反発で、姉妹は〝共犯関係〟になる。そのメタファーはナイフで、アヨオラが凶器として用いることになる。

 通常のミステリーだと鑑識や監視カメラが大活躍するが、本作では警官でさえ、アヨオラの魅力にノックアウトされて殺人を見抜けない。ブラックジョークとしか言いようがないが、最大の理由はアヨオラが贖罪の思いを持ち合わせていないことだ。コンデは医師のタデに思いを寄せていたが、予感通り妹に奪われ、刃傷沙汰を引き起こす。さらに、アヨオラとドバイを訪れたビジネスマンが不審死を遂げた。

 上記したように語り手はコンデだが、ストーリーを回転させる聞き手がいた。昏睡状態のムフタールで、コンデは鬱憤や不安を吐き出すように語り掛ける。彼女の行為に効果があったかはともかく、ムフタールは意識を回復する。昏睡状態での記憶が姉妹を有罪にすることはあり得ず、ムフタールはコンデに謝意を伝えて退院した。〝共犯関係〟継続を予感させるラストも皮肉が効いていた。

 俺の知人に、男たちの心を引き裂いていく女性がいた。近づいてくる男たちと恋人関係になりながら、2、3カ月経たないうちに別れていく。アヨオラのように命は奪っていないが、心を殺していたのかもしれない。幸か不幸か、俺は恋愛の対象ではなかった。
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「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」~激動の時代に翻弄されて

2024-05-11 21:11:31 | 映画、ドラマ
 当ブログでは映画を数多く紹介してきた。邦画なら時代背景をある程度は把握しているので戸惑うことはないが、海外の作品だと〝?〟を重ねながら観賞することもしばしばだ。そんな時は復習が必要で、ネットであれこれ検索して学び、何となく理解した気になる。古希が近づいてきているが、齢を重ねるとは、俺にとって自分の無知を実感することと同義だ。

 新宿シネマカリテで先日、「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」(2023年、マルコ・ベロッキオ監督)を見た。本作はヨーロッパを震撼させた実話をベースに、イタリア、フランス、ドイツの3国が共同で製作した。1858年、イタリア・ボローニャのユダヤ人街で7歳の少年エドガルド(少年期=エネア・サラ、青年期=レオナルド・マルテ-ゼ)が異端審問所警察に連れ去られる。教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)と枢機卿の命令だった。

 拉致には根拠があった。かつてモルターラ家で働いていたカトリック教徒の家政婦は病弱だったエドガルドの身を案じ、命を永らえさせるため洗礼を行った。そのことが教会に伝わった以上、教皇は無視するわけにはいかない。教会法において<非キリスト教徒にはキリスト教徒を育てる権限はない。誰に授けられたとしても洗礼を受けた者はクリスチャンとみなされる>と定められている。エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレジ)と母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)は伝手を頼って面会にこぎ着けるが、連れ戻すことは出来なかった。

 信仰の問題は一見、日本人とは無関係に思えるが、天皇教から解放されたのは70年前のこと。比叡山の僧侶たち、一向一揆、島原の乱を経て、仏教は幕藩体制に飼い慣らされた。日本人には本作のキーワードになっている<洗礼>を理解するのは難しいと思う。併せて当時のイタリアは統一に向けて激動期にあった。保守派のカトリック教会は、国民国家を目指す民衆やプロテスタントに押されて劣勢だった。ロスチャイルド家を筆頭にしたユダヤコネクションや進歩派のメディアはエドガルド解放を訴えたが、外圧がピウス9世を頑なにした。

 マリアンナが訪れた寄宿舎では面会が終わったと思えた刹那、エドガルドは母にしがみついてユダヤの祈りを捧げていることを打ち明けた。日々の修行で心境に変化の兆しが表れる。磔刑されたキリストの絵に感化されたエドガルドが手首と足首の釘を外すや、自由になったキリストが教会を出ていく幻を見る。葛藤がくすぶっていたことは、召されたピウス9世の遺体を移送する途中が明らかになる。抗議に押し寄せた民衆に呼応し、「こんな教皇なんて川に流してしまえ」と叫ぶのだ。

 迷いはその時点で消え、エドガルドは市民軍のリーダーだった兄と対峙し、臨終の席で母に洗礼を施そうとして親族の顰蹙を買う。その後は聖職者の道を全うした。ベロッキオ監督は社会の矛盾を追求したパゾリーニに認められていた。シリアスで重厚なトーンで進行するが、ユーモアも織り込まれている。ピウス教皇が見る夢に笑ってしまう。アメリカのユダヤ系劇団は、教皇が割礼されるというストーリーの芝居を上演して話題をさらった。教皇自身もその夢を見てうなされるのだ。

 世界で今、イスラエルへの批判が高まっているが、自由と民主主義、反戦を掲げるリベラリズムに基づくもので、本作と重ねるのは無理がある。信じることの意味を見る者に問いかける作品だった。
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「自転車泥棒」~歴史の断面に喪失感を刻んだ台湾の小説

2024-05-07 21:59:24 | 読書
 第10回憲法大集会(3日、有明防災公園)に足を運んだ。開会前、グリーンズジャパンの街宣を行ったが、参加者は〝同志〟ゆえ配布物を次々に受け取ってくれる。法律違反の裏金議員の多くは、戦前回帰の改憲を志向する安倍派所属だ。武器輸出の制限が緩和され、自衛隊を米軍の指揮下に組み入れる動きが顕著になった今だからこそ、憲法9条の存在意義は高まっている。

 日本がアジアを侵攻していた時代も描かれていた台湾の小説を読んだ。呉明益著「自転車泥棒」(2015年、天野健太郎訳/文春文庫)である。呉は環境活動家であり、チョウの生態に詳しいことは本作にも生かされている。大学教授でもある呉は文献や史料を駆使し、様々なカルチャー、歴史の断面を本作にちりばめている。小説を書く意味についての自問自答も興味深い。

 時空を行きつ戻りつ疾走し、虚実の狭間を彷徨う複層的かつ多面的な実験小説だ。語り手は8人いるが、主人公(ぼく)は1992年に解体された台北にある住居兼商業施設<中華商場>生まれで、父は背広を扱う仕立屋を営んでいた。自転車とともに消えた父への思いから、ぼくは自転車マニアになった。各章のつなぎとして自転車についてのノートが挿入され、イラストは作者自身が担当している。

 ぼくの家族史の起点は、日本統治時代の初期にあたる1905年だ。明治38年と日本の元号を併記していたことから明らかだが、日本との密接な関係が本作に刻印されていた。ぼくは自転車の行方を追って多くの人と出会う。通ったカフェは、三島由紀夫の小説にちなんで「鏡子の家」と名付けられていた。後半では高齢の日本人女性、静子と交流することになる。〝台湾人は親日的〟という先入観があり、文化的結びつきの強さは本作にも描かれているが、戦争が影を落としている以上、日本軍による虐殺も冷徹に綴られている。

 ある語り手は日本軍として戦い、ある語り手は連合軍の一員だった。ともにぼくが自転車捜しをする過程で知り合った知人の父である。マレー半島やラオスでの戦闘で英国軍を追い詰めた銀輪部隊の存在を本作で知る。銀輪部隊は自転車で行軍して機動力を発揮した。ジャングルにおける戦闘が過酷であることは言うまでもないが、本作は詩的かつ繊細に綴っている。作者の自然、そして生きるもの全ての敬意が滲んでいる。ゾウは輸送手段だったが、語り手が愛情を注いだゾウは数奇な運命を辿り、台北の動物園に行き着く。

 放射線状に拡散した物語はぼくの家族の絆で終息する。ぼくの父を含め、時代に翻弄された者について<みな、なにか尖ったとげのようなものが体に刺さっているような気がしてならない。時間をかけて、必死になってそれを抜いているのだが、最後の一本のところになると、また押し込んでしまう>と記していた。

 〝とげ〟とは恐らく〝歴史〟なのだろう。ぼくだけでなく、登場人物は何かを探し続けている。根底にあるのは叫びたいような喪失感だ。台湾の小説を読むのは初めてだったが、呉の力量に感嘆した。

 自転車といえば、頭に浮かぶのが「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK)だ。火野正平が自転車に乗って視聴者の思い出の場所を訪ねる紀行番組で、何かが起こるわけでもないまったりした旅に心を癒やされている。火野の飾らないキャラとアドリブが魅力で放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で春のツアーは延期になった。名優も74歳……。頑張れと言うのは酷かもしれない。
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「死刑台のメロディ」~スクリーンで融合するパトスと叙情

2024-05-02 21:21:13 | 映画、ドラマ
 新宿武蔵野館で「死刑台のメロディ 4Kリマスター版」(1971年、ジュリアーノ・モンタルド監督)を見た。イタリアとフランスの合作である。監督よりも作曲家に重きを置いた企画で、<エンリコ・モリコーネ>特選上映と銘打たれ、「ラ・カリファ」と併せて公開されている。

 「死刑台のメロディ」は史実に基づいている。1920年、マサチューセッツ州ブレイツリー市で製靴工場が襲われ、2人が殺され1万6000㌦が奪われる強盗殺人事件が起きた。冒頭のモノクロ画面で、イタリア人街が警察隊の襲撃を受ける。マカロニウエスタンの空気を感じたが、モンタルドが西部劇を撮影したことはない。

 ロシア革命直後、全米でも労働者の抗議が広まっていた。核をなしていたのはアナキストで、パーマー司法長官の左翼に対する徹底的な弾圧はマッカーシズムの先駆けといわれている。移民への差別もあり、捜査陣の網にかかったのが、イタリアからの移民であるバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)とニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)だった。拘束時、拳銃を不法に所持していたことが心証を悪くした。興味深かったのは英語版の〝ラディカル〟が字幕で〝アナキスト〟になっていた点で、その辺の事情はわからない。

 裁判の過程で証言の曖昧さが浮き彫りになる。最初に結論ありきで、パーマーの意を呈したカッツマン検事(シリル・キューザック)とサイヤー判事(ジェフリー・キーン)はムア弁護士(ミロ・オーシャ)が突き付ける矛盾に取り合わない。証言を撤回しようとした者は暴力にさらされる。直情径行のムアはカッツマンとサイヤーに対し、「あなたたちはKKKと変わらない差別主義者だ」とぶちまけるが、仕組まれた法廷で旗色が悪くなるだけだ。陪審員は短い協議時間でヴァンゼッティとサッコに死刑を求刑する。

 法廷の内と外では空気が真逆だった。ムアと彼を引き継いだトンプソン弁護士(ウィリアム・プリンス)の尽力もあり、ヴァンゼッティとサッコの当日のアリバイ、真犯人の存在が明らかになる展開に、イタリア特有のネオレアリズモの伝統が窺えた。真実が伝わると全米だけでなくロンドンでも<ヴァンゼッティとサッコを無罪に>を掲げた大規模なデモが行われた。

 冤罪事件であれば、2人は解放されたはずだが、両被告が公判で自らアナキストと公言し、資本主義独裁国家アメリカへのメッセージを訴えたことで構図が変わった。体制を問う裁判になった以上、権力側は死刑執行に向け一歩も譲らない。ヴァンゼッティとサッコにも変化の兆しが表れた。無実を主張するヴァンゼッティは無実を主張し、精神に異常を来したサッコは癒えた後、諦念と絶望から沈黙を続ける。サッコを演じたクッチョーラは複雑な心境を演じ切ったことで、カンヌ映画祭最優秀男優賞に輝いた。

 モリコーネが作曲した主題歌と挿入歌に歌詞を付けて歌ったのは、反骨のフォーク歌手ジョーン・バエズだ。両者のコラボこそ、パトスと叙情の煌びやかな融合だった。「忍者武芸帳」(67年、大島渚監督)での影丸の印象的な台詞が重なった。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>

 影丸、そしてヴァンゼッティとサッコの思いは現在、いかほどのリアリティーを持つのだろう。世の中の構造はさほど変わっていないのではないか。
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「エデとウンク」~ロマの苦難の歴史に射す光芒

2024-04-27 16:16:06 | 読書
 笠谷幸生さんが亡くなった。高1だった冬、札幌五輪70㍍級で笠谷さんのジャンプに飛翔感を味わった。90㍍級では1回目で2位につけ、連続金メダル確信した刹那、失速して7位に終わる。あの時覚えた墜落感が、その後の人生の主音になった。〝鳥人〟の死を心から悼みたい。

 前稿で紹介した映画「キエフ裁判」では、東部戦線におけるドイツ軍の蛮行が裁かれていた。パルチザンとの連携ありとの理由で、幾つかの村で数千人単位が銃殺され、ユダヤ人だけでなく、人種の異なる両親から生まれた子供もターゲットだった。人種とはロマを指すケースも多かったことが想定される。ロマはドイツ国内でもユダヤ人とともに弾圧の対象だった。

 ナチスが第一党になる2年前(1930年)のベルリンを舞台に描かれた「エデとウンク」(アレクス・ウェディング著、金子マーティン訳/影書房)を読了した。社会学者でもある訳者の詳細な解題、在日韓国人でピアニストの崔善愛の解説を含め充実した内容だった。根底にあるのは<差別と排除の論理>を超える<共生と寛容の精神>だ。興味深いのは著者が20代半ば、12歳のエデ、9歳のウンクの両方と知り合っていることだ。本書は児童文学の金字塔であり、同時にノンフィクションの要素も濃い。

 父親が突然解雇を言い渡されたエデは、一家の生計を支えるアルバイトを探す過程でジプシーの少女ウンクと出会う。ジプシーは現在、ロマと言い換えられるが、本作に倣ってジプシーという表現も用いることにする。ウンクはロマの下部グループであるスィンティの少女だった。新聞配達で自転車を漕ぐエデにしがみついているウンクの様子を描いた絵がブックカバーになっている。

 金子の解題によると、1929年にはある州で「ジプシー禍撲滅指令」が発布されていた。子供は世間の空気に流されやすいし、エデも偏見に毒されていた。それでもウンク一家――といっても広場に停まっている家馬車だが――と訪ねるうち、家族とも仲良くなる。自転車を盗まれた時にはヌッキおじさんに助けられた。ジプシーたちはナチスによって60万人が虐殺される。金子は資料を集め、本作に登場する11人のうち生き残ったのは1人だけだったことを突き止めた。ウンクも収容所でわが子を失って精神に異常を来し1943年、ナチスの医者に薬物を注射されて亡くなった。

 著者はユダヤ人の共産党員で、チェコ、アメリカ、中華人民共和国を経て東ドイツに戻った。著者の思想信条を反映し、子供たちも組合に好意的で、既成観念に縛られていたエデの父親も自身が解雇されて軟らかくなる。ウンクに優しく接し、指名手配の活動家の逃亡を助けていた。児童文学と社会運動の関係は日本でも多く見られた。プロレタリア児童文学運動には多くの作家が参加したし、アナキズムの影響を受けた作家もいる。ドイツも同様だったのだろう。反ナチスを貫いたエデは戦後に著者と再会している。

 ロマが登場する映画は、トニー・ガトリフやエミール・クスリトリッツァの作品を当ブログで紹介してきた。東欧では放浪者、スペインでは定住した文化の伝承者というイメージを抱いている。とりわけ音楽界への貢献は絶大で、ジャンゴ・ラインハルトは後世のギタリストに大きな影響を与えた。ジェスロ・タルのボヘミアン風の佇まいもロマそのものだ。

 小説で思い出すのは、1990年前後のパリを舞台にした「本を読むひと」(アリス・フェルネ著)だ。ウンク一家そのまま、主人公のアンジェリーヌは<縛られず、屈せず、自由に生きる>を実践していた。「エデとウンク」で煌めいていたのはエデとウンクの会話で、<金銭ではなく自由>に価値を置く人生観は両親や姉にも影響を与えていく。

 ロマ関連の小説や映画に親しんできたが、誤解していたことも多々ある。ロマは異教徒ではなく、移り住んだ国のメインの宗教を受け入れているようだ。「エデとウンク」は作品だけでなく、解題、解説もロマを学ぶための素晴らしい教材だった。
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