特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

Battle

2016-08-22 09:00:35 | Weblog

昨日、やっと、リオデジャネイロオリンピックが終わった。
事前には心配の種がたくさんあったようだが、大きな事件や事故はなく終わったようで(知らないだけ?)、何よりである。
開催中は、日々、色々な戦いが繰り広げられた。
もちろん、“戦い”は、試合本番だけではない。
そこにたどり着く前にも、様々な戦いがあったはず。
そして、選手本人はもちろん、関係者も、それに勝つために、並々ならぬ努力を積み重ねてきたはず。
もちろん、努力が報われるとは限らない。
報われた人より、報われなかった人の方が多いかもしれない。
が、努力してきたことは、間違いのない事実。
そう考えると、メダル以外の収穫も大きいのではなかと思う。
また、多くの人の人生に、たくさんのいい思い出も残ったはず。
それもまた、かけがえのない宝物だと思う。

そう賞賛しつつも、実のところ、私は、オリンピックにほとんど興味がない。
上記一行目に「やっと」と入れた理由はそこにある。
スポーツに縁のない人生を生きてきた私はTV観戦するほどの興味もなく、夜中に試合を観て、翌朝、眠い目をこすりながら仕事に出かけるなんてことはまったくありえない。
だから、世間は、連日、オリンピックの話題で持ちきりだったけど、私の目や耳がそれに惹かれることもなし。
もちろん、日本選手の健闘を願う気持ちはあったけど、それも社交辞令的に少しだけ。
日本の選手がメダルをとったときなどは、どのTVチャンネルもその話題でもちきりだったが、興味のない私は飽き飽きして、
「もういい加減にしてほしいよなぁ・・・そんなにみんなオリンピックが好きなのか!?」
と、イラついたりもした。

こんな、私は、おかしい? 珍しい? 少数派?
誰に非難されたわけでもないけど、社会に馴染めてない感じがして、自分に不愉快な思いをしている。
ま、何はともあれ、次は東京だ。
四年後・・・もちろん、その時、生きているかどうか、どこで何をしているかもわからないけど、東京開催のときくらいは、その戦いを熱く応援したいものである。



出向いた現場は、とある賃貸マンションの一室。
そこの浴室内で、住人が練炭自殺。
発見はかなり遅れ、浴室は、極めて深刻な状況になっていた。

時季は暑い季節。
玄関ドアを開けると、蒸された空気がムアッと噴出。
更に、浴室の扉を開けると、モノ凄い悪臭が鼻を突いてきた。

浴室には窓はなく、電気はとめられており、玄関ドアを閉めるとほぼ真っ暗。
ベランダからの外陽も、離れたうえ直線で結べない浴室にはまったく届かず。
懐中電灯なしでは、身動き一つとれなかった。

場所を問わす“暗闇”というものは、あまり気味のいいものではない。
ましてや、そこは、自殺腐乱死体現場。
気温は高いはずなのに、私は、何とも寒々しいものを感じた。

私は、尻ポケットに差し込んでいた懐中電灯をつけ、中を照らした。
すると、想像していた通りの凄惨な光景が目に飛び込んできた。
そして、依頼があれば、それを掃除しなければならない自分を見つめ、“それが生きるための手段”と、気持ちを奮い立たせた。

汚染は浴室全体に広がっていたが、最も酷く汚染されていたのは浴槽の底。
故人は浴槽に座り込んでいたのだろう、大量の腐敗粘度が浴槽底を埋め尽くし、部分カツラのような頭髪も残留。
また、遺体を引きずり出すときに剥がれたのだろう、浴槽の縁や側面には、乾いた皮膚がオブラートのように付着していた。

浴槽側の壁二隅には天井に向かって三角錐形の汚染。
それは、無数のウジが登った痕。
それが、まるで鬼の角のように私を見下ろしていた。

扉の通気口、換気扇、点検口、排水口、穴や隙間はすべてガムテープで密閉。
もちろん、それらは、死を目前にした故人が貼ったもの。
死への意思の固さを表すかのように、強固に貼り込まれていた。

それらを剥がす作業は、独特の気重さがある。
「生きるためとはいえ・・・俺も、よくやるよな・・・」
私は、作業の重さを想像しながら、人生との戦いを諦めた者のような溜息をついた。


亡くなったのは、私には縁もゆかりもない人。
顔も名前も年齢も、もちろん、最期に至った経緯も何も知らない。
故人に関して知っているのは、練炭自殺で亡くなったことと、その後、長く放置され腐乱死体で発見されたということだけ。
だけど、そこには一人の人が生きていた。
私と同じ、一つの命と一つの身体を持った一人の人が生きていた。

練炭が燃え、室温が上がる中で、浴槽にうずくまった故人・・・
酸素が薄くなり、遠のく意識の中で、故人は何を思ったか・・・
戦い疲れ、「これで楽になれる・・・」と安堵の気持ちを抱いたか・・・
戦い敗れ、「もっと生きていたかった・・・」と悲壮感を漂わせていたか・・・
私は、考えても仕方のないことを頭に巡らせながら、
「それでも生きなきゃならないんだよ・・・」
「そのために頑張らなきゃならないんだよ・・・」
と、故人を責めるつもりも見下すつもりもなく、ただ、私は、似たような自分と故人を重ねながら、故人に応えるように、重くなった心の中で何度もそうつぶやいた。

嫌悪感や気重のピークは最初の段階にくる。
身の毛もよだつ光景、腹をえぐる悪臭、何かの気配を感じながらの静寂、皮膚に浸み込んできそうな毒感・・・
そして、最期の様、そこに至った経緯etc・・・
そういったものが、私の精神を圧してくるのだ。
ただ、作業にとりかかると、次第にそれは中和されていく。
これまでにも何度か書いてきたように、腐敗汚物が人に戻ってくるような感覚を覚えるのだ。
そうすると、嫌悪感や気重は徐々に薄まっていき、そのうち、ほとんど気にならなくなる。
更には、自分のため?故人のため?依頼者のため?・・・自分でもよくわからないけど、「徹底的にきれいにしてやろう」と熱くなってきて、必死に生きていることの実感が湧いてくる。
そうなると、もう嫌悪感や気重はなくなっている。
後に残るのは闘争心。
様々な敵がいる中で、自分を相手にした戦いに入っていくのである。

この世界に飛び込んで(逃げ込んで?)、二十四回目の辛夏。
それなりに戦い、それなりに努力し、それなりに耐えてきた。
その効か、人の役に立つような仕事もできるようになり、たまには、誰かの支えになるような言葉も吐けるようになってきた。
ただ、決して気分のいい仕事ではないし、陽の当る場所で誉めてもらえるような仕事でもない。
所詮は、自分の中で妥協と迎合を使い分けながら満足するしかない仕事なのである。

そんな仕事に、四捨五入すると五十歳になる私は、色んな意味で“限界”を感じつつある。
もちろん、世の中には、五十になっても六十になっても、もっとハードな仕事をこなしている人、こなさざるを得ない人はたくさんいると思う。
そう思えば、私も、まだまだ頑張れるはずなのだろうけど、身体だけでなく精神も磨り減っているような気がしている。
磨り減るものがなくなったときが“終わり”なのかもしれないけど、それはそれで切ないものがある。
疲れて倒れるように終わるのも悪くないのかもしれないけど、できることなら、満たされて終わりたい。

だったら、一生懸命やるしかない。
何事も、一生懸命やらなくて後悔することはあっても、一生懸命にやって後悔することはないから。
もちろん、その一生懸命さが報われるとは限らない。
自分が期待していた結果がもたらされなかったり、期待していなかった結果がもたらされたりする。
それでも、一生懸命やったことに対して後悔はないはず。
後悔は、一生懸命やらなかったことに対して湧いてくるもの。
だから、
「こんな仕事だって、自分に与えられている限りは一所懸命にやらなければならない」
と、自分に言いきかせている。
そして、そうすると、実際、必死に生きていることが強く実感できるのである。


人生は、旅のようであり、冒険のようであり、そして、戦いのようなものでもある。
その時々で、その場 その場で色々な戦いが起こる。
人を相手に、社会を相手に、仕事を相手に、金を相手に、病を相手に、老いを相手に、生活を相手に、時間を相手に、自分を相手に、戦いに事欠くことはない。
だから、苦・辛・悲は多く、楽・幸・喜は少なく感じてしまう。
しかし、だからこそ、戦う意味があるのかもしれない・・・
戦うおもしろさがあるのかもしれない・・・

愚弱な私が私である限り、この“かもしれない・・・”が確信に変わる日はこないかもしれないけど、それでも、私は、それを肯定し続けて生きたいと思っているのである。

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蕁麻心

2016-08-15 08:25:26 | Weblog
二週間ほど前のことになる。
午前中、とある現場に現地調査に出かけた。
依頼の内容は、家財生活用品(遺品)処理。
家屋は古い一戸建で、家主は数年の入院の末に逝去。
当人は、早期に退院できると思っていたため、家は、入院時そのままの状態で維持。
しかし、そのまま数年が経過。
そして、結局、日常の生活に戻ることはできす、とってあった家財生活用品は丸ごと遺品となった。
私は、部屋一つ一つ、収納庫や押入れ一つ一つを確認はもちろん、物置、鉢植、ガラクタetc、荒れ放題の庭や外周も確認。
行く手を阻む草樹をはらいながら、まとわりつく蚊や蜘蛛の巣をはらいながら検分を進めた。

そうこうして約一時間。
調査を終えた私は、少し離れたコインPにとめておいた車に戻った。
そして、書類を片付けたり、靴を履き替えたりして帰り支度をはじめた。
そうしていると、腹部に違和感が。
ベルトラインに沿って痒みが発生。
シャツをめくり上げて覗いてみると、痒い部分が帯状のミミズ腫に。
私は、そこをポリポリ掻きながら、
「あそこの庭で、虫にでも刺されたんだな・・・」
「ま、放っとけば、そのうち治るだろ・・・」
と、まったく気にせず、次の仕事に車を走らせた。

そうしてしばし、治まるはずの痒みは一向に治まらない。
それどころか、酷くなる一方。
そのうちに、今度は両脇の下が痒くなりだした。
「何!?こりゃ、蚊じゃなさそうだな・・・毛虫か?」
何年か前、とある現場の庭で作業していて毛虫にやられたことがあった私は、その時の症状に似ていたので、そう思った。
ただ、それでも大して気にせず、身体のあちこちをポリポリやりながら、そのまま車を走らせたのだった。


会社に戻る頃には、痒みを感じる箇所がだいぶ増えていた。
同僚も異変に気づき「首筋が赤くなっている」と、驚き気味に教えてくれた。
同僚が大袈裟に言うものだから慌てて鏡を見ると、確かに右の首筋がヒドく赤くなっていた。
「チッ!・・・今日の現場で、虫にやられたみたいなんだよね・・・」
私は、その後の自分に深刻な状況が待ち受けているとは露知らず、舌打ちしながら苦笑いした。

帰宅する頃には、胸元・膝裏・肘裏・股間等々、あちこちの皮膚が赤くなっていた。
「虫刺されじゃなく、汗疹(あせも)か?」
私は、妙な症状を怪訝に思いながら、慌てて入浴。
毛虫なら毒毛を、汗疹なら汗を洗い流さない症状は改善しないと思ったから。
しかし、入浴は何の役にも立たなかった。
皮膚の赤味は、身体の至るところに発生し、その面積は急速に拡大。
更には、痒みと熱をともないながら、ボコボコに腫れあがってきた。

夜にかけて、症状は更に深刻化。
赤腫は、熱と痒みをともないながら全身に拡大。
ほとんど全身がミミズ腫状態(模様は地図状)でボコボコ。
これと関係あるのかどうかわからなかったが、胸に痛みまででてきた。
ここまでくると、さすがに焦り始め、そのうち恐怖感すら覚えてきた

慌てた私は、似たような症状をスマホで検索。
すると、自分の症状と酷似した画像を発見。
それは、虫刺され中毒でも汗疹でもなく、“蕁麻疹(ジンマシン)”。
そして、
「原因不明のものも少なくない」
「同じような時間帯に再発することが多い」
「薬が効かないことがある」
「痒みに悩まされる」等々・・・
ネガティブな情報がたくさんでてきた。
呼吸が苦しくなったり口の中にまで異常がでたりするようなら、救急で病院に行った方がいいみたいだったが、まだ、そこまでの症状はなかったので自宅で様子をみることにした。

ただ、症状は深刻化の一途をたどった。
赤みと腫れは、ピリピリ・チクチクとした痒みを連れて、頭・顔・手平・足裏以外のほとんど全身に拡大。
我ながら、それが自分の身体とは思えないくらい悲惨な状態になってしまった。
そうして、皮膚の痒み・火照り・違和感とバトルを繰り返しながら、長い夜を過ごしたのだった。


幸い、朝になる頃には、7~8割くらいの症状が収束。
顔にも異常はなく(先天的な異常は除く)、私は、いつも通り仕事にでた。
そして、足に残っていた複雑模様の赤腫を同僚に見せながら、前夜の武勇伝(?)をハイテンションで話した。

しかし、峠を越えた安堵感を味わえたのも束の間のことだった。
昼頃になると、赤腫は再発生。
「同じような時間帯に再発生することが多い」とネットに書いてあった通り、首筋・股間・腕・胸等々、あちこちに出始めた。
そのうち、首筋にとどまっていた赤腫は顎にまで進出。
三枚目でも、顔だけは勘弁してほしかった私。
かなり焦り、仕事を早退して動揺とともに皮膚科へ急行したのだった。


病院の待合室。
Tシャツ短パン姿の私は、腕や脚を丸出し。
特に、両腕の症状は酷く、ボコボコに赤く腫れあがった
大人達は、「ジロジロ見るのは失礼」と心得ているのだが、子供達にそんな心遣いはない。
「何!?この人、気持ち悪ッ!」とばかり、私に好奇の視線を送ってきた。
人にうつるようなものではないはずなのだが、客観的に見れば、気持ち悪いのも事実。
私は、患部を隠すように腕組をして、誰とも視線を合わせないようにうつむき加減で自分の番がくるのを待った。

診断は、やはり蕁麻疹。
食べ物や接触物、アレルギー等の持病を中心に問診が繰り返されたが、前日も当日も普段と変わらないものを食べ、普段と変わらない生活しており、原因は特定できず。
私自身も、原因について、まったく心当たりなし。
思い当たるのは、せいぜい、現場で触れた草樹やまとわりついてきた虫くらい。
しかし、症状からすると、それとの因果関係はほとんどなさそう。
結局、「ストレス・疲労で、身体がSОS信号をだしているのでは?」ということになり、三種の飲み薬と一種の塗薬が処方され、診察は終わった。

幸いだったのは、発症部位が前日より少なく、変異面積が前日より小さかったこと。
その分、精神的な負荷も軽かった。
しかし、いいことばかりでもなかった。
前日はでなかったのに、症状が手平や足裏にまで発生したのだ。
他のところの痒さは何とか我慢できたものの、手平と足裏の痒みというのは、他の部位とは別格!
チリチリとした独特の痒みで、私くらいの精神力ではとても太刀打ちできず。
早々と降参し、ヤケクソ気味に掻きむしってしまった。

それでも、薬が効いたのか、たまたまなのか、その日の夕方から少しずつ症状は治まっていった。
前夜のような惨状になることもなく、就寝する頃には、ほとんど消えていた。
精神的に追い込まれていた私は、そのことがかなり嬉しくて、何もないのに上機嫌になり、前夜の睡眠不足も手伝って二日目の夜はよく眠れたのだった。


ちなみに、それ以降、大きな蕁麻疹は発症していない。
ただ、左脇腹を中心に怪しい赤斑はいくつかあり、脇下などに小さいものが出たり消えたりしている。
幸い、今現在は、それはそのまま大人しくしてくれているけど、重症化すると、斑点が面に広がり、それが赤く腫れあがってくる。
原因不明にあって油断はできない。
だから、もう薬は常用していないけど、携行はしている。
あの時の恐怖感は、まだまだ脳裏に残っているから。

とは言え、それだけではなく、学ばされたこともある。
ありきたりだけど、特に感じたのは健康の大切さとありがたさ。
昨年の夏、熱中症(?)になったとき、今年の冬、インフルエンザにかかったときにも感じたことだが、今回あらためて痛感した。
そして、好奇の視線を送られる人の気持ち。
仕事柄、好奇の視線はイヤというほど浴びてきた。
だから、その類の不快感や悲哀は知っているつもりでいた。
しかし、今回、感じたのはそれとは種を異にし、言葉の使い方を間違っているかもしれないけど“新鮮”なもので、以後、忘れてはいけないと思わせるようなものだった。


病院で渡された小冊子に、こう書いてある。
「蕁麻疹は原因不明のことが多く、原因を特定できないことも少なくない」
「疲労やストレスが原因になることがある」
そして、対策としてこう書いてある。
「ストレスをためない」
「リラックスして規則正しい生活を心がける」
「疲労・睡眠不足は避ける」

ん~・・・正直、どうすればいいのかわからない。
そもそも、「ストレス」って何? 「疲労」って何?
「リラックス」ってどうやってするの? どうやったらできるの?

常日頃から、多くのことに不平・不満・不安を抱えている私は、ストレスとは切ってもきれない仲にあり、逆に、リラックスとは縁がない。
これを、どう整えればいいのか・・・
また、疲労といったって、精神疲労もあれば肉体疲労もある。
肉体疲労は、科学的・生物学的対処法で癒せるのかもしれないが、精神疲労は、そういうわけにいかない。
気分次第、気の持ちようで、疲れもするし、疲れをとることもできる。

「俺は疲れている・・・俺は疲れているんだ」
と、思い込むことはいくらでもできるし、
「だから、休まないとダメだ」
と、自分を甘やかすこともいくらでもできる。
しかし、自分を甘やかしていいことはない。
そうは言っても、ストイックになりすぎて、“自分イジメ”をしては元も子もない。
何事も適度なバランスが必要。
このバランスが、うまい具合にストレスを発散させ、抑えるのだろう。

禁酒もストレスになれば、飲みすぎもストレスになる。
週休肝三日くらいが、私にはちょうどいい。
運動不足もストレスになれば、運動過剰もストレスになる。
一日3~4kmのウォーキングが、私にはちょうどいい。
怠けすぎもストレスになれば、働きすぎもストレスになる。
週休三日くらいが、私にはちょうどいい?(願望)

しかし、仕事は選べない。
腐乱死体現場でも、自殺現場でも、殺人現場でも、動物死骸でも、ゴミ部屋でも、糞尿トイレでも、大きなストレスがかかろうが、疲労困憊に陥ろうが、自分が取捨選択できるわけでもなければ、避けて通れるわけでもない。
この仕事に従事し、この仕事で生活している以上は、やりたくなくてもやらなければならないのだ。
ただ、それは、この仕事に限ったことではない。
程度にこそ差はあるだろうけど、私の仕事に限らず、ほとんどの仕事が同じだと思う。

ストレスの原因を掘り下げてみると、やはり仕事が第一のように思われる。
が、その元凶は、自分の怠惰性・不甲斐なさ・だらしなさ等だったりする。
不平を謙虚さで、不満を感謝の念で 不安を勇気で覆せない自分の弱い心だったりする。
そして、そんな自分の弱さと戦えない自分だったりして、単なる思い込みや自己洗脳では決着がつけることができないものだったりする。

どちらにしろ、それらが生みだすストレスや疲労は小さくはない。
これとどう対峙し、どう片付けていくか・・・苦悩は尽きない・・・
時に心を掻きむしり、時に心を掻きむしられるような思いに苛まれることを繰り返している。
何かの因果か悲しい性か、私という人間の心には、ストレス・疲労が大きくなるようなことばかりが湧いてしまう。
その症状は、一向によくならず、ここまでくると愚を通り越して滑稽なくらいである。

それでも私は、探したい・・・
自分の蕁麻心を治す薬を。
一時の人生を必死実直に生きることによって煎じられる、その薬を探し続けたい。

金も能も地位もない、小さく弱い人間だけど、せっかくの人生、せっかくの自分。
そうして生きてきたことを、こうして生きていることを、他の誰にでもなく自分自身に証したいのである。


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山場 ~大山編~

2016-02-01 07:04:16 | Weblog
先日、予定通り、大山(神奈川県伊勢原市)に行ってきた。
その日の朝は、快晴で気温2℃。
時刻は7:00過。
例によって、混雑を避けるため、早朝からスタート。
それでも、私は一番手ではなく、何人かの登山客が私より先に出発していった。
ただ、山登りは、人と競うものではなく、自分と競うもの。
私は、緊張感にも似た期待感をもって、ゆっくりと坂道を登り始めた。

とりあえずの目的地は、阿不利神社下社。
私は、開店前の土産物店や食堂が並ぶ「こま参道」を抜け、女坂へ。
阿不利神社下社へ上がるには、男坂と女坂の二コースあるのだが、スケベな私が“女”を選ぶのは至極当然。
迷うことなく女坂を選んだ私は、意気揚々と歩を進めた。
が、この女坂、女性と同じで簡単には進ませてくれない。
急な階段が幾重にも続き、まったく侮れない。
一昨秋に経験済みなので覚悟はできていたけど、それでも、早々と息はあがり臓もバクバク。
小刻みに休息を入れないと、とても登れたものではなかった。

阿不利神社下社に着いたのは8:00過。
他の登山客が恭(うやうや)しく社に向かって手を合わせる中、神道信仰を持たない私は気にせずスルー。
眺めのいいベンチに腰を降ろし、汗ダクの身体を外の冷気に晒した。
そして、リュックから朝食用に持ってきたパンを一個取り出し、それをウーロン茶とともに胃へ流し込んだ。
大食いの私がパン一個で満足できるわけはなかったけど、山登りの本番はそこから。
腹を重くしては差し障りがあるため、朝食はパン一個にとどめ、澄んだ空気で深呼吸をして後、山頂への登山口へ進んだ。

いくつかある山頂までのルートのうち、私は、最もオーソドックスな(?)“本坂”へ。
これは、急な階段から始まるルートで、多くの人が使うルート。
私は、大汗をかきかき、息を切らし、黙々と登っていった。
もちろん、休息をとりながら。
ただ、女坂の石段に比べたら断然登りやすく、頻繁には足をとめなかった。
そして、体力・精神力が少しは鍛えられているのか、結構、楽しい気分を味わう余裕を持ちながら登ることもできた。

登頂は9:00過。
山頂には雪が薄っすらと積もり、空気は燐と冷えていた。
周囲に目をやると、真っ白に輝く富士山が間近にそびえ、眼下には、喧騒遠い街が広がっていた。
ただ、時間が早かったためか、人影はまばら。
私は、一人の登山客に声を掛け、とりあえず、“大山山頂”と刻まれた標柱の脇で記念撮影。
そして、汗ビッショリになったアンダーウェアを物陰で着替えてから、陽のあたるベンチへ移動。
そして、目の前に広がる景色に向かって、疲れた脚と街から持ってきた心のモヤモヤを放り投げた。
と同時に、深呼吸を何度かしてみると、私をクヨクヨさせる小さなことが白い息となって出て行き、私の心には、柔らかい心地よさだけが残ってくれた。

そうして、30分ほど山頂を満喫。
下山用のエネルギーとして再びパン一個を食べ、下山の途へ。
往復同じではつまらないので、下山は、“カゴヤ道”を行くことに。
ただ、どこを歩くにせよ、膝の問題があるのでペースは超スローが肝要。
増え始めた登り客とすれ違いながら、一歩一歩慎重に足を降ろしていった。

カゴヤ道に入ると、急に人影が消えた。
そのコースを行く人は少なく、周囲を見回しても360度 人影がない時間が何度もあり、しかも、それが長く続いた。
ただ、山深いところに一人でいても、不気味さや心細さは皆無。
同じ地上なのに、そこは喧騒ある街とは別世界・・・
私を取り囲むのは、青い空、緑の樹々、陽の光、風の音のみ・・・
まるで、夢の中にいるみたいで、言葉では言い表せないくらい心地よいものだった。

そんなのんびり下山が功を奏し、私の右膝は、無痛のまま阿不利神社下社まで持ち堪えた。
当初は、痛みがでることを予想して、阿不利神社下社から先はケーブルカーを使って下りるもりだったけど、何とかいけそうに思えたため、結局、そこから先も徒歩で行くことに。
急な女坂の石段を、より慎重に下っていった。

結局、こま参道に下りてからも右膝は痛みを発さず。
山頂まで無事に行ってくることができた達成感と安堵感に包まれながら、私は、気になる“ロール大福”を目で探しながら、最後のこま参道をゆっくり進んだ(2015年3月24日「大福中毒」参照)。

その店は、こま参道の入口に近いところ、麓に向かって右手にあった。
そして、前回同様、“ロール大福”も売られていた。
正式名称は「五郎餅」(一個¥150)。
昨今のラグビー人気に乗っかったような名前だけど、この餅はこの店のオリジナルではなく、こういう類の餅を一般的に「五郎餅」というらしい(初めて知った)。
ま、名称はともかく、相変わらず、美味そうな風体をしていた。
が、大食いの私のリュックには、山食用のパンがまだ二個も残っていた。
それを無駄にするわけにもいかないわけで、私は、餅を買うのを断念。
“冷やかし見物”は店の人に失礼なので店頭に立ち止まることはせず、横目で味わいながら、そして、懐かしいような感慨を覚えながら通り過ぎ、昼を前に大山登山を無事に終えたのだった。


退屈な登山報告はこれくらいにして、今回は、もう一つネタがある。
それは、朝、登りの女坂で出会った老人(以後、男性)のこと。

フーフー息を切らしながら、しばらく女坂を登っていると、前方(上方)を進む一人の登山客が私の視界に入ってきた。
男性らしきその人は、最初は私よりかなり先を進んでいたのだが、そのペースは私より遅いらしく、その距離は自然と縮まっていった。
そして、そばらくして、男性が石段の途中に腰をおろし小休止したところで私は追いついた。

私が、男性の数段下で立ち止まって見上げると、それに気づいた男性もこちらを見下ろした。
知らない人にでも挨拶をするのが山のマナー。
しかも、まだ登山客の少ない時刻で、上にも下にも人影はなし。
言葉を交わさないほうが不自然な雰囲気で、自然と視線を合わせた私達は、
「おはようございます」
と、挨拶を交わした。

男性は、決して若くは見えなかった・・・というより、結構な高齢に見えた。
老齢にもかかわらず、こんな険しい階段を登っていることに興味を覚えた私は、二~三段ほど男性に近づいて段の端に腰掛け、口を開いた。
例によって(?)、仕事場でもないのに、仕事場と同じような感覚で、悪いクセ(?)をだしてしまった。
しかも、訊いた男性の年齢は87歳。
その年齢に驚いた私は、ますます男性に興味を覚え、初対面、しかも登山中なんてことはそっちのけで、次々と湧いてくる「?」を男性にぶつけた。

「Q:健康の秘訣は?」
「A:適正体重の維持」
太りすぎもよくないけど、痩せすぎもよくない。
大きな増減なく適正体重を維持することが重要。
ただ、「適正体重維持」と一口に言っても、それを成すための要素は多岐にわたる。
基本的には、適切な食生活と適度な運動が欠かせない。
食事制限のみで体重を維持することも、運動のみで体重を維持することも、心身によろしくない。
体重は適正でも“隠れ肥満”というパターンもあるし、太っていても脂肪が少ない場合もある。
大事なのは、体重だけでなく体脂肪率も適正値にしておくこと。
それを維持することが男性の健康の秘訣だった。

「Q:運動は何を?」
「A:女坂の往復を日課にしている」
男性は、若い頃から山登りが好きで、全盛の頃は年に50回くらい、つまり週に一度のペースで全国各地の山を登った。
しかし、寄る年波には勝てず、次第に、出掛ける回数も山の難易度も下がるように。
更に、70歳の頃に胃癌を罹患。
「年齢も年齢だったし、これで人生も終わりかな・・・」と、半ば、覚悟を決めた。
が、幸い、手術後の転移再発はなく、妻の助力と男性のたゆまぬ努力の甲斐もあって体力は回復していった。
しかし、その後、今度は、妻が病気になり、その世話をする必要がでてきて体力づくりどころではなくなってしまった。
幸い、一年くらいすると、妻の病状は回復。
ただ、それを機に男性の体力はかなり落ち、以前は難なく登れていた坂も休み休みのスローペースでないと登れなくなってしまった。
それでも、男性は、歳に負けて諦めることはせず、再起を期して体力づくりをすることを決意。
地元に暮す男性は、バス一本で通うことができる大山の女坂往復を日課にすることに。
天気と妻の体調が悪くない限り、毎日、早朝からバスに乗り、大山まで来ているのだった。

「Q:どんな食生活?」
「A:食事は米ぬきで、酒は毎晩飲んでいる」
男性は、自分の胃腸には米が合わないような気がして、胃癌を患って以降は米を食べないようになった。
口に入れる炭水化物は、主にパンとうどん。
朝食は、6枚切の食パン一枚を妻と半分ずつ分けて食べ、コーヒーを飲むくらい。
昼食は、うどんを食べることが多い。
夕食は、肉でも魚でも野菜でも、好きなものを食べる。
そして、晩酌。
コップに軽く一杯の泡盛は、ほとんど毎晩欠かさないそうだった。

訊きたいこと、聞きたいことはまだまだあったけど、お互い、お喋りをしにではなく山を登りに来た身。
自分の足を長く止めておくわけにはいかず、また、男性の足を長く止めておくわけにもいかず、私は、健康の秘訣を一通りきいたところで話を締めることに。
会話の間が空いたところで新たな質問はせず、歩を再開するため、ゆっくりと立ち上がった。

「お先にどうぞ・・・気をつけて・・・」
「がんばって!まだまだ若い!まだまだ登れる!」
と、男性は、笑顔で私を励まし、道を譲ってくれた。

「タメになる話を、ありがとうございました!」
「お気をつけて・・・」
と、私は、男性を追い越し、一度だけ振り向いて会釈をし、足取り軽く上へと登っていった。

87年の男性の人生、山場はいくつもあっただろう。
時々は、それを避けて歩いたこともあったかもしれない。
時々は、くじけてしまったことがあったかもしれない。
だけど、多くの山は乗り越えてきたはず。
私より40年も長く生き、充分過ぎるほど山を越えてきたはず。
それでも尚、山に登ろうとするその生き方・その姿には、おおいに学ばされるものがあった。


40代も後半になれば、どこからどう見たって若くはない。
服装や容姿で若づくりしたって痛いだけだし、私は、自分の歳も顧みず、いつまでも若いつもりでいることは、「往生際が悪い」というか「みっともない」というか、あまりよいことだと思っていない。
何となくだけど、潔く老齢を受け入れることに“美”があると思っている。
しかし、“受け入れる”と“諦める”は違うし、“勝てない”と“逃げる”は違う。
確かに、時間には逆らえないわけで、頑張れないこと・頑張らないことを年齢のせいにしてしまえばうまく収まる。
私も、何かのつけ、頑張れないことの責任を年齢に押しつけてしまう。
だけど、「それでいい」とは思っていない自分がいる。
「できるかぎり力強くありたい」と思っている自分がどこかにいる。

今までと同じように、これからも巡ってくるであろう人生の山々。
こんな人間だから、そんな山に不満を抱え、不平を言い、不安に思うことが多いかもしれない。
だけど、
「まだ登れる!」「もっと登れる!」
と、この先、そう信じて進みたい。
これまで見たことがないような絶景が見えるかもしれないから。
そして、新しい自分に出会えるかもしれないから

がんばろ!



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山場 ~筑波山編~

2016-01-18 09:48:16 | Weblog
前ブログに書いたとおり、このところ精神状態がいまいち。
次々と襲ってくる虚無感や疲労感に翻弄されながら低空飛行を続けている。
それでもまだ“飛行”しているからマシ。
現実から逃げて着陸なんかしようものなら、二度と離陸できなくなるかもしれない。
再び飛び立つにしても、相当に難儀するはず。
力尽きての墜落なんか論外。
どうしたって避けなければならない。

私の人生が虚しいものなのではない。
私が人生を虚しく生きてしまっているだけ。
私は疲労を抱えているのではない。
私が疲労感を抱えてしまっているだけ。

つまり、問題なのは、この現実ではなく、この感性・感覚。
それは、気分にUp・Downがあることや、欝状態だけでなく躁状態もあることが証明している。
ただ、どんなに虚無感に襲われようが、どんなに疲労感を覚えようが、ジッとしているのはよくない。
気分転換なんて、そう簡単にできるものではないけど、何もせず悶々としていてもいいことはない。
何かすれば、少しは気が紛れるし、同じ憂鬱状態でも自分なりに策を講じている感が持てる。
だから、些細なことでもいいから、何かに努力し、何かに忍耐し、何かに挑戦したいと思っている。

以前は、「虚無感や疲労感を癒す方法は休息しかない」と思っていた。
身体の休息と精神の休息を完全に混同して。
だから、時間があれば身体を横にすることが多く、暇さえあればゴロゴロ。
不眠症で夜は熟睡できないものだから、たまの休みは、とにかく昼寝が重要課題。
何年も、それが最善の策だと思っていた。
しかし、そんな生活をしていても、疲労感は一向になくならず。
それでも、怠け者(私)の考えは頑なで、それが、私を更なる休息に走らせた。
休日に昼寝できないと倦怠感に襲われ、ヒマな時間は横になれないとイライラ。
そして、それが、更なる疲労感を呼び込んでいることに気づかないまま、悪循環に陥っていた。
そうして時が経ち・・・
長い試行錯誤と悪戦苦闘の末、私は、“疲労”は頭と身体を休めることによって癒えるけど、“疲労感”はそうではないことが何となくわかってきた。
一昨年の秋くらいから、やっとそこのところに気づき、その考え方を切り換えることに努めている。

そんな中、私は登山に出かけることに。
休日の前日にいきなり思い立った次第で、もともと、その日は午前中に予定があったのだが、それはキャンセル。
昨季からずっと「行ってみたい」と思っていた筑波山(茨城県つくば市)に行くことを計画。
前夜のうちに準備を済ませ、当日は、混雑を避けるため夜も明けきらない早朝に出発した。

麓に到着したのは、AM7:30頃。
空は快晴、気温は0℃。
まだ混雑はしていなかったけど、続々と登山客が集合しつつあった。
そこで、私は、まず軽く腹ごしらえ。
そして、持ち物に不備がないか確認し、トイレを済ませ、登山口へ進んだ。

まずは、男体山頂を目指して御幸ヶ原コースへ。
もちろん、ケーブルカーやロープウェイは使わず。
心臓は鼓動を大きくし、息もあがる中、ひたすら、急な山道を一歩一歩前進。
汗ダクになりながら、登っていった。

山頂手前の御幸ヶ原に到着すると、一気に景色はひらけた。
そこには、ケーブルカーの「山頂駅」があり、土産物屋や食堂もズラリと並び、多くの人で賑わっていた。
ただ、単独登山の私には談笑する相手もおらず、手持ち無沙汰。
しかも、寒風吹きさらしで、それが汗で濡れた下着にまで浸み込んできて、寒いこと!寒いこと!
あまりに寒くて、ゆっくり休憩どころではなく、義務であるかのようにそそくさと周囲の景色を眺め、足早に男体山頂へ向かった。

到着した男体山頂も、寒風がピューピュー 極寒!
それでも、空は広く晴れわたり、景色も広大!
霞む遠方には、ボンヤリとだけど富士山やスカイツリーまで見え、登ってきた甲斐は充分にあった。
せっかくだから、居合わせた登山客にスマホのシャッターを押してもらい、展望デッキでニッコリと記念撮影。
それから、数分、眼下の景色を楽しんでから、次は、女体山頂へ。
そこもまた絶景だったが、狭い岩場に人がごったがえしており、記念撮影は断念。
自分が入らない景色だけを撮って、下山の途についた。

同じコースの往復ではつまらないので、下りでは白雲橋コースを選択。
古傷がある私の右膝にとって、長い下り坂は難敵。
だから、登りより距離が長い分、少しは傾斜が緩いことも期待してそのコースを選んだ。
しかし、残念ながら、そのコースも結構な急勾配
結果、やはり右膝は問題を起こした。
痛みが出始めるとフツーに歩くことも困難になるため、意識してゆっくり進み、休憩もこまめにとったのに、下山終盤で痛みが出始めたのだ。
ま、それでも、それは麓に近いところだったので、残りの道程は超スローペースの横歩きでしのぐことができ、大事に至らずに済んだ。

筑波山は百名山の中でも最も標高が低いそうで、私のような初級者向きの山。
上級者はもちろん、中級者にとっても物足りない山らしいけど、それでも、平地のウォーキングとは訳が違う。
平地なら6~7kmでも難なく歩けるけど、山の場合は2~3kmでもキツい思いをする。
ま、それでも、筑波山の難度は、私にはちょうどいい。
休み休み歩いて4時間かかり、結構ハードな道程だったけど、ヘトヘトになるほどでもなく心地よさが残るから。
そして、「楽しい!」というものとは少し違うけど、得られる達成感と爽快感をともなう疲労感は、日常生活や仕事では味わえないもので、これが、今の私に効く薬なのだと思えるから。


今、人生の山場にさしかかっている人は多いだろう。
病気やケガ、事故や事件、就職や転職、入学や卒業、受験や進路、結婚や出産、離婚や死別etc・・・
人生には山場がたくさんある。
高い山もあれば低い山もある。
険しい山もあればなだらかな山もある。
乗り越えられる山もあれば乗り越えられない山もある。
頂上に達することさえできない山に遭遇することもある。
麓から見上げる頂上は、やたらと高く見える・・・
想像される道程の険しさは、前進を躊躇させる・・・
人生の山場には、ケーブルカーもロープウェイもない。
けれど、それに挑んでいくこともまた、人の大切な生き方。
「山は登るためにある」とまでは言えないけど、登らないと得られないもの、登ってこそ成せることがあるのだから。

振り返ってみて、私の人生にも大小様々な山場があった。
大きな山場だったのは、この仕事への就業前後。
もちろん、それ以前、それ以後にも紆余曲折はあったけど、これが人生の大きな転機になったのは事実。
良し悪しの判断は私ができることではないけど、これで、私の人生は大きく変わった。
「後悔はない」と言えばカッコいいけど、正直なところ、後悔はある・・・というか、正直言うと後悔ばかり。
学歴や能力を考えると、一流企業は無理だったろうけど、週休二日で、今より安定した労働条件・労働環境で、社会的にも陽があたる仕事に就けたかもしれない。
・・・考えても仕方がないこと、考えないほうがいいことだけど、そんなことを考えると、虚しく疲れる。

後悔という山をなかなか下りることができない。
過去という山をなかなか下りることができない。
希望という山になかなか登れない。
未来という山になかなか登れない。
それでも、時間は確実に過ぎている。
移ろう季節の中で、遠い未来だと思っていたことが、いつの間にか遠い過去になり、この歳になっている。
私は、後ろ向きの人生を卒業するには遅すぎるくらい、充分な歳を重ねた。
だからこそ、今、歯を食いしばっても山を登らなければならないような気がする。

これまで同様、これからも巡ってくるであろう人生の山場。
頂上にたどり着くことも大切だし、無地に乗り越えて下りることも大切。
しかし、もっと大切なのは、
麓に立つこと・・・
山を見上げること・・・
そして、勇気をだして一歩踏み出すこと・・・
・・・なのではないだろうか。


次は、近いうちに大山(神奈川県伊勢原市)へ行くつもり。
一昨年の秋以来、二度目。
季節も違うし、前回とは違った趣が感じられるだろう。
また、前回同様、キツい思いをするだろう。
これが、自己研鑽になるのか、精神修養になるのか、気分転換になるのかわからない。
でも、そうなることを期待して歩を進めることが大切だと思っている。
それが、後悔をもって過去に生きるのではなく、希望をもって未来に生きるための一助になるのだから。

がんばろ!



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忘嫌者

2015-12-24 08:54:37 | Weblog
今年は暖冬と言われているが、その言葉の通り、先の何日か極端に暖かな日があった。
その日は、春を通り越して初夏のような暖かさで、現場で作業をしていても季節に似合わない大汗をかいた。
そうは言っても、冬は冬。
暖かな日は長く続かず、寒さは戻ってきている。

そうやって冬か深まっていく中、今年も、だんだんと終わりに近づいてきた。
そして、今日はクリスマスイブ。
街は、どこもかしこもクリスマスカラーで彩られ、「Merry Christmas」の文字が躍っている。
私には、クリスマスに宴会をする習慣はないけど、街の賑わいに包まれているだけで楽しい気分になる。
これもクリスマスの恩恵だろう。

私にとって、年の瀬の宴会といえば忘年会。
忘年会は「その年の苦労を忘れるための宴会」(諸説あり)と言われているように、本来は楽しく飲むべきもの。
だけど、実際は、職場や仕事上で行われることが多く、色んな人に気を使って忘年会自体が苦労になってしまっているケースも多そう。
前ブログにも書いたように、私も、今年は、仕事上で二回の忘年会があった。
ただ、無礼講ではないものの微礼講的な雰囲気で、そんなに堅苦しい思いはしなくて済んだ。
だからか、気をつけていたつもりなのに、ちょっと飲みすぎた。
若い頃に比べると弱くなったとはいえ、もともと酒は強いほうなので「泥酔」とまではいかなかったけど、結構酔ってしまった。
ま、それでも、記憶を喪失することもなく、醜態を晒すこともなく、社交的に楽しくやれたのでよかった。

しかし、過去には、忘れてしまいたいような失態が多々ある。
友人宅、駅、タクシーetc・・・嘔吐したことも数知れず。
自分で掃除するわけでもないのに・・・
まったく、掃除する人の身になって考えると、土下座級の失態だ。
(今、何倍にもなってそのツケが回ってきてる?)
また、相手が暴力に訴えることができない公務員であることをいいことに、飲み仲間を連れていった警官に悪態をついたこともあった。
もともと小心者なので酔ってケンカをすることはなかったし、酷い暴言を吐くこともなかったけど、たまに、そんなみっともない振る舞いをしてしまうことがあった。

また、以前に書いたことがあったかどう忘れてしまったけど、恐い経験もある。
学生の頃、仲間内でも一二を争う酒豪だった私。
若輩者の集団においては、「酒が強い=カッコいい」「酒に弱い=カッコわるい」みたいな文化があり、得意になっていた。
そして、「強い!強い!」と煽てられると、人間が強いかのように錯覚し無茶な飲み方をしていた。

そんな時分、バイト先の忘年会があった。
始めて間もないバイトで、まだ親しいバイト仲間もいなかった私。
話の輪に入れず寂しい思いをするリスクもあったけど、私は、あえて参加。
積極的に人間関係をつくろうとしない今とは真逆で、「友達をつくるには絶好の機会」と考えたからだった。

ありがたいことに、会の責任者は新米の私が参加したことを喜び歓迎してくれた。
そして、他の皆も、私に気をつかってくれ、旧知の輪に入れてくれた。
それが嬉しかった私は、気分も上々に。
すすめられるまま酒をグイグイ。
当時、痩型色白だった私は酒が飲める風には見えなかったらしく、そんな私が誰よりも飲む姿は周囲にインパクトを与えたよう。
すすめられる酒の量はどんどん増えていき、調子に乗った私はそれに応えていき、泥々の深みにはまっていった。

問題はここから・・・
楽しく騒いだ二次会のカラオケがお開きになった後。
そこは、家から離れた街で飲むのも初めての街(八王子)。
自宅に帰るには電車を二度乗り継ぐ必要があった。
が、同じ方向に帰る人(面倒をみてくれる人)は誰もおらず。
最初の駅までは誰かと一緒だったのだが、その後は一人自力で帰途につかなければならなかった。

翌朝、私は、目覚めるとしばし呆然。
ヒドい二日酔いに襲われたのと同時に前夜のことが甦り、周囲をキョロキョロ。
すると、そこは見覚えのあるところ・・・つまり自宅。
相当の千鳥足だったはずだが・・・どうやら私は無事に帰還したようだった。
が、しかし、どこをどうやって帰ってきたのか何も思い出せず。
一人で電車を乗り継ぎ、道を歩いて帰ってきたことが信じられず、
「夢か?」
と思いながら、自分の中で、頭痛と倦怠感の原因とその後の動向を探った。
しかし、いくら考えても、二次会が終わって駅の階段を上ったところから翌朝目覚めるまでの記憶が甦ってこず。
唯一思い出せたのは、二度目の乗換駅で嘔吐したこと。
ホームのベンチに座って嘔吐していると、その前を「汚ねぇなぁ!」と吐き捨てるように言いながら若い男女が通り過ぎていったことを思い出した。
と同時に、それまで味わったことのない恐怖感が襲ってきて、心臓を大きく鼓動させたのだった。

結局、二日酔いが治っても、それ以外の記憶が戻ることはなかった。
そして、そのことは私に強烈な恐怖感を覚えさせ、それ以来、私は、酔うほど飲むことはあっても、記憶を失くすほど飲むことはなくなった。
そして、その経験は、中年になった今でも生きている。


「お礼に一杯・・・」
数は少ないけど、たまに、そう言ってくれる依頼者がいる。

現場の状況や依頼者の要望によるけど、私の仕事では、依頼者と長い期間関わることになるケースもある。
特に、ハイレベルの消臭消毒や内装改修工事を請け負った場合はそう。
となると、自ずとコミュニケーション量は多くなる。
そうすると、自然とお互いの気心が知れてくる。
その結果として、「一杯どう?」となるのである。

もちろん、
「現場での色んなエピソードを聞いてみたい」
「珍業に従事する人間の話を聞いてみたい」
等といった好奇心もあるのかもしれないけど、それでも誘ってもらって悪い気はしない。
しかし、私は、その気持ちだけありがたくいただき、実際に付き合うことはしない。
日時が合わないことを口実に丁重に断っている。

ただ、実際の理由は別なところにある。
それは、酒に酔うことによって表れる人間性(悪性)。
酔うと、感情や欲が露出する。
普段は、理性良心によってきれいに包み込まれているものが剥き出しになる。
私は、軽薄な人間だから、ちょっと褒められると調子に乗ってしまうはず。
そして、ちょっと煽てられると、すぐに高飛車になるはず。
つまらないことを自慢したり、くだらない話を偉そうに喋ったり、挙句の果てには泣いてしまうかもしれない。
また、相手が女性だったりしたら、イケない方へいってしまうかもしれない。
どちらにしろ、醜態を晒すことになりかねない。
つまり、 “忘れてしまいたい過去”をつくらないために予防線を敷いているのだ。


幸い、今年、「忘れてしまいたい」と思うほどの出来事はなかった。
もちろん、一般の人が見たら仰天失神してしまうような光景には何度となく遭遇したし、過酷な作業に従事した数も多々ある。
確かに、どれもこれも、きれいな光景ではなかったし、愉快な作業でもなかった。
記憶に残しておきたくないと思っても不自然ではないような出来事ばかりだった。
だけど、実際に、「忘れてしまいたい」という気持ちは抱いていない。
マイナスの出来事でも、人々の汗と涙と苦悩と想いがその底を持ち上げ、私の心に落ち着く頃にはプラスに転じているのだろう、それが、私の死生観を上向きに育んでくれているような気がするから。

忘れてしまいたいことって、ほとんどはイヤな過去だと思う。
失敗したこと、後悔していること、恥をかいたこと、苦痛だったことetc・・・
しかし、実は、“忘れてしまいたいこと”の多くは“忘れてはいけないこと”“忘れないほうがいいこと”ではないだろうか。
苦い思い出は、自分を律する教訓として、自分を導く教本として、自分を学ばせる教師になるから。

イヤなことを忘れて、イヤなことから逃げて生きられるのなら、こんな楽なことはない。
それができないから人生は苦しい。
それができないから人生は辛い。
しかし、人間を成長させるため、強くするため、賢くするための種は、「悩」「苦」「痛」「悲」「哀」等といった陰の性質。
イヤなことだけど、「爽」「楽」「快」「嬉」「喜」等といった陽の性質ではない。
そして、その芽は、「格闘」「忍耐」「努力」「挑戦」。
そうして採れる実が、人間を養い、人生を輝かせるのである。

実を収穫するチャンスはたくさんある。
自分を見つめてみれば、そのチャンスがたくさん与えられていることがわかるだろう。
だって、生きることに苦しさや辛さを覚えることは多々あるから。
しかし、自らそのチャンスから目を背け、境遇ばかりを嘆いていないだろうか。
自分に言い訳をして、自分を甘やかしていないだろうか。
心のどこかで、それが自分のためにならないことがわかっていながら。

忘れてはいけない・・・
楽しい人生は、遊興快楽のみでつくられるものではない。
幸せな人生は、幸福のみでつくられるものではない。
遊興快楽欲を手放すことで採れる楽しさもある。
幸福欲を手放すことで採れる幸せもある。
・・・人生という荒野には、そうしなければ収穫できない喜びと希望がある。

どれだけ雨が続いても、どれだけ夜が長くても、人生の冒険者として、このことだけは忘れたくないものである。



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ケチな男

2015-12-16 07:55:11 | Weblog
楽しいクリスマスやめでたい正月を前にして、年末は何かと物入りである。
祝賀ムードが財布の紐が緩めてしまうのだろうか、「年末くらいは、ちょっと贅沢させてもらお」と、金を使ってしまう。
しかし、私はケチ。
いい言い方をすれば倹約家。
質素倹約が肌に合っており、とにかく、必要以上にモノや金を浪費するのが大嫌い。
例え、それが他人のモノであっても。
自分のモノだけに執着するならまだしも、自分のものでないモノでもそうで、筋金入りのケチである。

金銭欲はやたらと強いくせに、物欲は弱い。
金に余裕があれば考えも変わるのかもしれないけど、特に、欲しいモノはない。
正確に言うと、欲しいモノはあるのだけど、そのほとんどは、お金を払ってまで手に入れたいとは思わないモノなのだ。
だから、生活必需品を除き、普段、私は余計なモノはほとんど買わない。
花なんかはもちろん、菓子やデザート類を買うのも稀(眺めるのは好き)。
果物なんて、たまにバナナを買うくらい。
新聞もとってないし、本や雑誌を買うこともない。
服や靴も、ほとんど買わない。
髪も¥1000カット。
オシャレじゃないのは自分でもわかったうえで納得している。
電気や水道も同様。
真冬でも手はお湯で洗わない(さすがに、風呂は湯で入るけど)。
手を洗うだけのことでお湯を使うなんて、もったいないような気がするのだ。

日常生活上でも業務上でも、「再使用」「再利用」「使い回し」が大得意。
フツーの人ならとっくに捨ててしまうようなモノでも、平気で使う。
実例を挙げるとキリがないし、幻滅されるのもイヤだから明らかにしないけど、
「そこまで使う?」「そんなモノまで使う?」
と、驚く人(呆れる人)も多いと思う。

金をまったく使わない日も普通にある。
一般的には、昼時になると職場仲間と連れ立ってどこかの店に食べに行ったり、弁当を買ったりする人は多いと思う。
そして、そこで、数百円~千円くらいは使ってしまうのだろうと思う。
けど、私には、それがない。
決まった時間に昼休憩がとれる仕事でもないし、現場に向かって先陣をきる役割の私は単独行動も多く、誰かとランチする状況に置かれることはほとんどない。
したがって、いつ、どこで、何を食べようが自由。
人には見られたくないような粗食を車中でひっそり食べるのが常となっている。
何とも暗~い感じの話だが、結局、これで時間とお金とカロリーの無駄を抑えることができるので、私にとっては一石三鳥なのである。

夕飯においても外食は少ない。
外食したとしても、安いモノを選んで食べる。
また、酒も家飲みばかり。
30前後の頃は、毎週のように外で飲んでいたものが、今は年に3~4回程度。
しかも、そのほとんどが仕事がらみで義務的なもの。
今月も二度ほど忘年会があったが、仕事上の付き合いだから会社の経費でやらせてもらえたので助かった(前回ブログであれほど偉そうなことを書いておきながら、二回とも飲み過ぎてしまった)。
結局、今年、プライベートで外飲みしたのは一回きり。
しかも、友人が住む地域の夏祭りの露天で買ったビールを飲んだわけで、たいした金額にはならなかった。

そんな私だけど、「安ければそれでいい」という考えは持っていない。
価格と品質は比例するのが資本主義の世界。
もちろん、価格以上に高品質の物もあれば、その逆もある。
それでも、基本的に、価格と品質は比例する。
価格優先か、品質優先か、自分が最も満足できるのはどういうバランスかを自覚することが必要だと思っている。
だから、私は、生活必需品でも品質や好みを優先し、それから値段と相談する。
例えばビール(生活必需品じゃないけど)。
私は、発泡酒や第三のビールは買わない。
プレミアムビールには手が出ないけど、普通のビールを買っている。
発泡酒や第三のビールは、その味が口に合わない・・・つまり、私にとって味の悪さが価格メリットを超えているのだ。

そして、そんな私でも、無駄遣いじみたことをしないわけではない。
代表格は、酒肴と何種かのサプリメント(ちなみに、タバコは吸わない)。
これは生活需品ではないのに買っている。
酒なんて飲まなくても生きていけるし、飲まないほうが生きていけるかもしれないし・・・
サプリメントも、本当に身体にいいのかどうか定かではないし・・・
それがわかっていても、そられに金を使っている。
ま、これらは、私にとって精神安定剤みたいなものだから、別の意味での生活必需品だと思っている。

あと、日常にささやかな贅沢もある。
肴にちょっといいものを食べることと。
あと、ごくたまにだけど、スーパー銭湯に行くこと。
一回約¥700、特殊浴場(行ったことがあるかどうかはさておき)と違って営業時間内であれば時間制限はない。
混んでいなければ、ゆっくりのんびり入ることができ、どこかの温泉地にでも出かけたような気分を味わうことができる。

レジャーも皆無ではない。
これといった趣味を持たない私だけど、少ない休みを利用して遠出をすることもある。
昨季は何度か山登りに出かけた。
大した費用はかからないうえ、日常にはない景色を眺めることもできる。
それなりにハードに身体を動かすこともでき、いい気分転換になる。
ただ、今年も行きたいと思っているのに、なかなか機会に恵まれず、この秋冬はまだ一度も行っていない。
しかも、まだ計画すらなく、時間ばかりが過ぎている。
行けるときに行っておかないともったいないのに、悩ましいかぎりである。

あと、ケチな私でも、人にモノをもらったりおごってもらうのは嫌い。
もちろん、社交上の目的・意味があるものや礼儀として差し出されるものはありがたくいただく。
抵抗があるのは、筋合いも意味もない場合。
後のお返しを考えるのも面倒だし、何より、借りをつくるようで抵抗があるのだ。
返さなくていいものだとしても、借りは借り。
普のケチなら「得した!」とばかり、それに甘えるのだろうけど、私は真のケチ(←自慢してるわけじゃない)だから、自分の意向に関係なく借りを背負わされることがイヤなのである。


話は変わるけど・・・
この性質にこの職業が乗っかっているのだから、当然の現象(?)かもしれないけど、私は、「毎日、必ず」と言っていいほど、“死”を考える。
そして、他人の死は数え切れないほどみてきているのに、いつか自分も死んでしまうことが現実のことのように思えなくて不思議な感覚に囚われる。
「俺もいつか死ぬんだよなぁ・・・」
なんて、実感なく、まるで他人事のように思うのだ。

そう・・・私は死ぬのだ。
今日か、明日か、一週間後か、一ヵ月後か、一年後か、十年後か、時期はわからないけど死ぬことはわかっている。
突発的なことがなくても、余命は、あと20~30年のものだろう。
そう考えると、残された時間は長くない。
そして、減っていくばかり。
どんなに知恵を絞ったって、減っていくスピードを落とすことはできない。
また、大金を積んだって増やすことはできない。
誰も、定められた自分の寿命を延ばすことはできないのである。

そんな宿命にあって、時間が過ぎ去るのを、ただ傍観していていいのだろうか・・・
いや・・・有効に、大切に使っていきたい・・・そう思う。
しかし、時を金のごとく意識して使っているだろうか・・・
時間を無駄に浪費していないか?
時間を愚かな行いに使っていないか?
残念ながら、私は、時間を有意義に賢く使うことができていない。
気が進まないことは後回しにして、ルーズにダラダタと時間だけをやり過ごしてしまうことが多い。
怠けることと休むことを区別せず、効率的に生活することと楽して生活することを混同し、
大した努力も、忍耐も、挑戦もせず、自分の性が企てる悪事に与(くみ)することが多い。

しかし、生きているかぎり、リセットはいつでもできる。
後悔のない人生は歩めないにしても、後悔の少ない人生を歩みたい。
そのために、今、できることがある。
それは、一日一日に“ベストを尽くすことを意識すること”。
仕事でも学業でも遊びでも休息でも何でもいい、理性良心に従ってベターな選択を心がけ、目の前のことを、怠けることなく、焦ることなく、気負うことなく懸命にやろうとすること。

本来なら、上文の“ベストを尽くすことを意識すること”という部分は、「ベストを尽くすこと」と言い切りたいところだけど、そうは言えない。
何事に対しても、釈迦力になって我武者羅に頑張ることはできないし、そのことだけに多くの時間を割くこともできないわけで・・・
言葉(文章)でいうのは簡単だけど、実行するのは極めて難しいことだから。
そして、私は、それを貫徹できるほど強い人間ではないことを知っているから。
つまり、「ベストを尽くせ!」と自分や誰かを励ましたところで、それは、机上の空論となり、このケチな男のケチな話にはケチがついてしまうわけ。
だからこそ、私は、その手前にある“意識”を持つことをすすめるのである。

ベストを尽くせない自分を責める必要もなければ、弱い自分を嘆く必要もない。
「今日、自分はベストを尽くそうとしているか?」
「今、自分はベストを尽くしているか?」
そう自分に問うだけでいい。
そして、ベストを尽くすことを頭の隅に置いている自分を喜び、少しでも頑張ろうとする自分を褒めればいい。
自分の人生が大切なら、それだけでも時間は有意義なものに変わる。


私はケチな男。
ただ、これ以上、ケチな男になりたくない。
しかし、時間にケチな男にはなりたい。
限りある時間を賢く使い、残り少ない時間を懸命に使い、感謝と喜びで満ちた人生を歩みたい。
そうして、いつか来る、いずれ来る、最期の時を穏やかに迎えたいと思っているのである。


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あ・り・が・と・う

2014-12-17 16:06:09 | Weblog
今年も残すところ二週間。
師走も押し迫り、街も日に日に賑やかになってきた。
あちこちでクリスマスケーキや正月の御節料理をPRするチラシやポスターを見かける。
実際に買わなくても、実際に食べなくても、それらを目にするだけで平和と豊かさを感じる。
そして、今年もまた、その中にいられることに感謝している。
ただ、豊食は豊かさや平和を象徴するものの一つでありながらも、落とし穴がある。

30代前半の頃、激太りと激痩せを経験した私。
太っていた頃は、標準体重18kgオーバー。
好きなものを好きなだけ食べ、好きな酒を好きなだけ飲み・・・毎日のように暴飲暴食を繰り返した。
結果、肝臓を壊し(脂肪肝)で医師から厳重注意を受け、節制とダイエットに取り組んだ。
逆に、痩せていた頃は、標準体重8kgマイナス。
精神的に病んでしまい、食べることを拒絶。
頬がこけ、腹が凹んでいく自分に優越感を覚え、食べることを嫌い食べないことを心がける日々。
ストレスの矛先を自分に向け、ダメな自分を虐めることで何かが解決すると自分に勘違いさせて、自分を誤魔化していた。

ただ、ここ何年かは、体重に大きな変動はない。
標準体重より5~6kgオーバーした状態で、そこから増えもせず減りもせず。
「“痩せてる”とは言えないけど、“肥満”まではいってないよな」
と自負(?)し、自然体で飲食を続けていた。
しかし、体重と体型は異なる動きをする。
体重が増えたわけではないのに、腹回りのプヨプヨ感は増してきた。
また、加齢による体力の衰えのせいだろう、仕事をしていても自分の身体を重く感じることが多くなった。

そこで思いついた“プチダイエット”。
本格的なダイエットは心身に負担がかかるから、実行するのは、あくまでも“プチ”。
取り組んだのは、大盛・大食の制限。
そして、大好きな甘味の制限。
あまりストレスにならない方法で、減量を図ることにした。

もともと人並以上に食べる私は、何かを食べるときは“大盛・大食い”が当り前。
世間の“一人前”は、私にとっては“半人前”。
プラス、甘いものが大好き。
しかも、仕事柄、食べる量と食事時間は極めて不規則。
少食が続くときは続き、大食が続くときは続く。
しかし、これがプチ肥満の原因と判断した私は、大盛・大食いはできるだけやめ、食べる量もできるだけ平準化することに。
また、食事時間も、できるだけ規則正しくすることを心がけた。

しかし、世の中には、それを邪魔する誘惑が多い・・・
仕事柄、休憩のタイミングは自己裁量に任されているわけで、財布がゆるすかぎり好きな時間に好きなものが食べられる。
しかも、街には、ありとあらゆる食べ物屋がある。
高級なレストランに入らなくても、美味しいものは食べられる。
また、わざわざケーキ屋に行かなくても、コンビニやスーパーにも美味しそうな甘味はズラリと揃っている。
街では、食べ物を得るためのハードルは極めて低い。
しかし、この誘惑だらけの実情が、ダイエットのハードルを上げている。

高尾山に出掛けたときも、団子やソフトクリーム等々、たくさんの甘味が私を誘惑した。
身体をハードに動かしている最中だから、特に欲しくなる。
それでも、私は耐えた。我慢した。
買いたかったけど、買わなかった。
しかし、大山に出掛けたとき、登山口の参道に並ぶ店にあった塩豆大福にはやられてしまった。
塩豆餅を餡にグルリと巻いた容姿は、他所では見たことがない。
白い餅肌の中からのぞく甘そうな餡・・・そのグラマーな姿に、私の視線は釘づけ。
その隣には、カロリーの低そうなワラビ餅が並び、私を誘惑してきたが、彼女(?)は柔肌のスレンダー美人。
「どっちにしようか・・・」
私は、しばし悩んだ。
ただ、立ち止まった時点で、肝心の“食べずに帰る”という選択肢は消えていた。
中年男が店の前に立って、いつまでも二種類の和菓子をガン見している姿は、妙だっただろう。
結局、肉食系男爺はグラマーな方を選び、“ロール大福(正式な商品名は不明)”を買った。悩んだわりに、たった一個。
そして、二口くらいでいける大きさの餅を、何口にも分けて味わったのだった(すんごく美味かった!)。

プチダイエットを始めたのは9月末頃。
たまに大食いをすることもあった。
我慢できずに甘味に手をだすこともあった。
減酒はできても禁酒はできていない。
それでも、10月・11月と策を講じて、結局、体重は5kgくらい減った。
体重を計るタイミングによって1~2kgの上下はあるけど、4~5kgは落とすことができた。
つい先日、スーパーで5kgの米を買ったことがあったが、それをリュックに背負って歩いたときは、
「これくらいの贅肉が降ろせたのか・・・」
と深い感慨を覚えたのだった。
しかし、標準体重まではもう一歩。
年末年始の飲食がネックだけど、まだしばらく、このプチダイエットを続行するつもりである。

そもそも、ダイエットができるなんて幸せなこと。
世界には、私のように食べられることが当り前の人と、そうでない人がいる。
太らないため、痩せるための努力が必要な人と、食べるためにいくら努力しても満足に食べられない人がいる。
そして、世界には、後者の数のほうが圧倒的に多いという。
人と比べて自分の幸運度・幸福度を測るのは大嫌いだけど、“食べることを我慢するツラさ”と“食べられないツラさ”を比べたら、後者のほうがはるかにツラいと思う。
しかし、飢餓も貧困も他人が代わることはできない。
ただ、無関心にならないこと、微力でも手を差しのべることはできる。
また、我々は、動物・植物といったものの“命”をいただいて生きているわけで・・・どんな食べ物でも、感謝の気持ちをもって大切に食べなければならないと思うのである。


先日の11日(木)は、チビ犬の月命日だった。
昨年3月から週休肝二日を続けている私だが、もともと、この日は“飲んでいい日”にしていた。
仕事帰りに肴を買い、風呂に入り、普段と変わらない晩酌をはじめた。
翌朝の不快感を抑えるため、いつもならホロ酔手前くらいでやめる私。
しかし、この日は、飲むスピードが衰えず。
想い出を肴にしたわけではなかったのだが、結構な深酒に。
そして、人恋しくなったのか(?)私は、ブログのコメント欄を検索。
死んだチビ犬について書き込まれたコメントを開けてみた。

見ず知らずの人にも、私と同じような経験をした人、似たような苦悩を抱える人がたくさんいる。
見ず知らずの人が、私なんかに優しい言葉・労いの言葉・励ましの言葉をかけてくれる。
更に、文字になって現れてこなくても、どこからか伝わってくる誰かの想いがある。
愛、情、優しさ、思いやり・・・人の温かさは身に沁みる。
心が冷えているときは、尚更、人の温かさが身に沁みる。
私は、チビ犬がいない寂しさと、人の優しさと、深酒の酔いが合わさり、気持ちが高ぶって一人で大泣きしてしまった。

「人と喜びを分かち合うと倍になる、悲しみを分かち合うと半分になる」
という言葉を聞いたことがある。
正直なところ、これまでは、あまりピンときていなかった。
けど、今回、少しわかったような気がする。
訳はわからないけど・・・
傷んだ気持ちが少し癒され、沈んだ気分が少し浮き、重い心が少し軽くなったから。

ながく私に棲む弱虫と泣虫は、一生駆除できないだろう。
でも、もう駆除する必要はない。
弱虫だから痛みがわかり、弱虫だから戦えるのだから。
泣虫だから後に笑え、泣虫だから笑顔に感謝できるのだから。

ブログ初期の頃、
「遺族が故人(遺体)との別れる際に、“ありがとう”“ごめんなさい”と声をかけることが多い」
「だったら、生きているうちから、その気持ちを伝えたほうがいい」
といった記事を載せたことがあった。
あれから何年も経つけど、その思いに変わりはない。
ただ、人間はシャイな生き物。
そして、“明日がある”と勝手に思ってしまう生き物。
だから、実行に移すのが、なかなか難しかったりする。

それでも、私は伝えなければならない・・・
戦う仲間へ・・・
「ありがとうございます」
「がんばります」
「これからも・・・」


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Hiking

2014-12-07 10:33:50 | Weblog
毎年のことながら、この季節は欝っぽくなる私。
秋頃から気分が落ち始めて、冬場は低空飛行。
朝、明け方にはうなされ、寒いのに脂汗をかく。
普段なら軽く乗り越えられるような小さな問題にもつまずいてしまう。
疲れるようなことはしていないのに、やたらと疲労感に襲われる。
何をするにも、何を考えるにも虚無感がともない、やる気がでない。
何事も悲観し、悪い予感ばかりに苛まれる。
気持ちにも身体にも力が入らない。
だから、時間がゆるすかぎり、自分に閉じこもって悶々としてしまう。
・・・そんな風に、昨年秋から本年冬もかなりツラい思いをした。

例によって、今年も秋に入り、徐々に気分は落ちてきていた。
「今年もまた、この季節がやってきたか・・・」
と、したくない覚悟を決めかけていた。
そんなところに遭遇したのがチビ犬の死。
これが慢性的な欝を直撃。
少々の悲しみなら欝を更に深刻化させたのだろうけど、今回の悲しみは、あまりに大きすぎて欝を深刻化させたのではなく、そのかたちを変えた。

「この傷心をどうにかしたい・・・」
「欝を軽くするための努力をしたい・・・」
欝に対しては、毎年、当り前のように泣き寝入ってきたネガティブ人間(私)に、こんな思いが芽生えてきた。
時に委ねることが必要であることを理解しつつも、死別の悲しさから脱け出すための努力と欝を軽くするための策を講じてみようという考えが浮かんできたのだ。

何年も前の話だけど、知り合いの医師に不眠症や欝について相談したところ、
「精神と肉体の疲労バランスが悪いことも影響していると思う」
と言われたことがあるのを思い出した。
夏場は、肉体は疲労するが、精神はそれほど疲労しない。
冬場は、肉体は疲労しにくいが、精神はすぐに疲労する。
長年のこの性分につき、催眠術にでもかからなければ精神疲労は解消しないと思う。
だったら、精神疲労に準じて、肉体も疲労させようと考えたのである。
(フツーなら思いつかない“妙案”だと自讃している。)

しかし、この時季、仕事だけでは、肉体はそんなに疲労しない。
また、労苦で疲労させるのは、あまりいい方法とは思えず。
そうなると、仕事以外で積極的に身体を動かす必要がでてくる。
身体を動かすには、スポーツが一番。
ただ、スポーツには縁も興味もないし、スポーツクラブも興味がないうえお金がかかる。
そこで浮上したのはハイキング。
アウトドアレジャーが好きで、若い頃はキャンプやBBQ等をよくやっていた私。
自然の中に身を置くのは好きなほう。
また、ハイキングなら低予算でやれる。
思案の結果、素人でも歩ける渓谷や、素人でも登れる山に行ってみることにした。

夏場は、なかなか休みがとりにくいけど、冬場だと週1日くらいはとれる。
せっかくの休日、精神疲労に負けてジッとするのはもったいない。
だから、チビ犬はいなくなってから毎週のように出かけた。
出かけた先は、高尾山(東京都八王子市)、鋸山(千葉県富津市)、大山(神奈川県伊勢原市)。
どこも初めての場所。
鋸山はそうでもなかったが、紅葉の季節で、高尾山と大山は大勢の登山客や観光客で賑わっていた。

紅葉の山々は絶景だった。
そして、どこの山にも複数のハイキングコースがあった。
普段なら、最も楽なコースを選ぶはずの私。
しかし、せっかく出掛けたのだから、それはやめた。
シンプルなルートは避け、距離のながいコースをあえて選んだ。
もちろん、ケーブルカーやリフトの類は使わず。
待ち時間と運賃の無駄だし、歩くために出かけたのだから。

目的地(頂上)まで楽な道はほとんどない。
急坂や階段、岩場や悪路は当り前。
おまけに、長年かけて作業向に改造された中年の身体は、山登りに順応できない。
だから、足腰は、歩き始めてすぐにだるくなった。
しかし、それに耐えて進まないと意味がない。
私は、景色を見ながら、チビ犬を思い出しながら、努力と忍耐の足りなかった人生を振り返りながら、重い足を一歩一歩進めた。

私は、右膝に古傷をもつ。
若い頃の長距離ランニングで傷めたのだ。
上り坂より下り坂のほうが膝には負担がかかるもの。
日常生活では痛みはないのだが、山の下り坂でそれを発症。
はじめからその不安はあったので、下り坂は膝に負担をかけないようゆっくり慎重に歩いたのだけど、長い距離に右膝は悲鳴をあげた。
痛みがでるとフツーには歩けない。
右足を引きずるようなかたちで歩かざるをえなくなって、とても歩きにくい。
ただ、不幸中の幸いで、痛みがではじめたのは下に近い位置まで戻っていたため、そんなに大変なことにはならなかった。
(今後、何らかの対策が必要だと思っている。)

早朝から出かけて行って、家に帰ってくるのは夜遅く。
望み通り(?)肉体はクタクタになる。
だけど、山には山の美味があった。
労苦の美味とは違う味わいがあった。

普段、怪しい光景ばかりを見ている私の目は、紅葉の絶景を喜んだ。
普段、臭い空気ばかりを吸っている私の鼻は、森の空気を喜んだ。
普段、街の雑音ばかりを聞いている私の耳は、山の静寂を喜んだ。
普段、冷たい風ばかりを受けている私の肌は、自然の風を喜んだ。

頂上まで上る道は楽ではなかった。
ただ、その分の達成感はあった。
また、麓まで下る道も楽ではなかった。
ただ、その分の満足感はあった。

人生道にも上り坂はある。
苦労してこそ得られる幸せがある。
悩んでこそ得られる心地よさがある。
悲しんでこそ得られる晴れやかさがある。
病んでこそ得られる健やかさがある。
尽くしてこそ得られる温かさがある。

「生きるために働くのであって、働くために生きているわけではない」
頭ではわかっていても、実際はその逆で、仕事に支配された生活をしてしまう。
時間配分においては、もう何年もプライベートより仕事優先の生活をしている。
ひょっとしたら、時間的にだけではなく、精神的にも肉体的にもそうかも
しれない。
“偽の仕事人間”と“真の仕事人間”の分別もかわらないまま、ここまできている感じ。
もちろん、“遊んでばかり”より“働いてばかり”のほうがマシだとは思うけど。
ただ、真の仕事人間は、仕事とプライベートをバランスよく両立させて、それぞれに相乗効果を発揮させている人だと思う。
私も、少しでもそうありたいと思う。
もちろん、今回の“我流荒療法”が功を奏するかどうか自分でもわからない。
だけど、頭で悩んでばかりではなく実際に行動を起こしているだけでも、頭デッカチ・口だけ人間の私には大きな進歩だと思っている。


人には、それぞれ与えられた道がある。
そして、それぞれに与えられた「寿命」という長短がある。
ただ、長かろうと短かろうと、“生き抜いた!”という達成感を味わいたいもの。
そのためには、歩みはとめられない、とにかく進むしかない。
「人生」という名のハイキングコースは、人に幸せを与えながら人を励まし、人に試練を与えながら人を鍛錬し、その前進を望み、助け、そして歓迎してくれるもの。

楽するためには、上り坂は選ばないほうがいい。
しかし、幸せになるためには、上り坂を選んだほうがいいときがある。
「年内にもう一回くらいは山に出かけたいなぁ・・・」
と考えている私の心は、苦難の道中にあっても、小さな命がくれた幸せに微笑んでいるような気がしているのである。




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Hot dog ~最終編~

2014-11-13 16:41:22 | Weblog
とうとう、その日が来てしまった・・・
11月11日、大切な家族であるチビ犬が死んだのだ。
もう、だいぶ老いていたから、
「遠くない将来には・・・」
と頭の隅で覚悟はしていたものの、現実の悲哀は覚悟をはるかに超越。
それは今、強大なものとなって私の精神を打ちのめしている。

先日の9日(日)まではフツーに過ごしていた。
加齢からくる衰えは以前からあったものの、夕飯も一緒に食べた。
ドッグフードに飽きたようだったので、肴に用意した焼魚の身を分けてやったら、喜んで食べていた。
そして、夜はいつも通り一緒に寝た。

異変が発生したのは10日(月)、いきなりのこと。
ヒドい下痢と下血で、立ち上がることもままならず。
苦しそうに息をし、苦しそうに吠え、苦しそうに横たわり・・・
それでも、そばに付き添って頭をなでてやると、小さな尻尾をふってくれた。
普段は、身体を触られるのがあまり好きじゃなかったのに、そのときは珍しく尻尾をふってくれた。
私は、その様子に
「最期のお別れを言われてるみたいでイヤだな・・・」
と、不吉な予感に苛まれた。

11日(火)、病院へ。
「多臓器不全・・・いつ死んでもおかしくない状態・・・」
待っていたのは、衝撃の診断だった。
体温も血圧も低く、どんなに温めても体温は上がらず、どんなに点滴を打っても血圧は上がらず。
受け入れ難い現実であったが、与えられた時間が少ない中で死別の覚悟を決める必要がでてきた。
同時に、“入院しての延命処置”or“通院しての対処療法”の選択を迫られた。
私は、本人(本犬)がもっとも苦しくない方向を選択してやりたかった。
それで、悩んだ末、対処療法を受けることを決め、普段は家で過ごさせることに。
「よくなる可能性はある」
「まだしばらくは生きられるはず」
と、願望に近い根拠のない考えをもって闘病に向け心の準備をした。

ところが・・・ところが・・・
その日の夕方、チビ犬は一人(一匹)で逝ってしまった・・・
突然・・・
いきなり・・・
急に・・・
心の準備もできてないのに・・・
通院も、闘病も、看病も、介護も、世話も何もしないまま・・・何の手も焼かせてくれないまま死んでしまった・・・
・・・私は、動かなくなったチビ犬を抱いて、ただただ泣くしかなかった。


初めて会ったのは、ある年の冬。
仕事で出向いた自殺現場でのことだった。
詳細は、昨年2月28日、3月7日、3月12日のブログ「Hotdog三編」に記した通り。
なりゆきで家に連れ帰り、そのまま家族になった。

連れてきた当初は警戒心丸出し。
知らない人間に知らないところへいきなり連れてこられたのだから、当然と言えば当然か。
かなり汚れていたので、まず始めに風呂に入れ、それから水と食事を与えた。
しかし、最初はジッと立ったまま動かず。
尻尾をふることもなく、座ることも横になることもせず。
何かを観察するかのように、人の顔をジーッと見つめてばかりだった。
それでも、睡魔には勝てないようで、立ったままの状態でカクン・カクンと首を上下。
睡魔に負けては倒れ、倒れては起きを繰り返していた。
しかし、時は多くのことを解決してくれる。
時が経つにつれ慣れてきて、自然に和気藹々と生活できるようになった。

慣れてくると、一人(一匹)で留守番するのを嫌がるように。
出掛ける気配を感じると玄関に先回り。
落ち着きなく歩き回り、置いてきぼりにならないよう自分の存在を主張した。
それでも、連れ出してやれないことはあった・・・残念ながら、連れ出してやれないことのほうが多かった。
すると、今度は閉めた玄関ドアの向こうで吠え始める。
「留守番はイヤ!」「連れてって!」
と泣いていたのか・・・
そのなき声が切ないやら可愛いやら、毎回、複雑な心境で家を後にしていた。
逆に、帰宅すると大喜び。
身体を私にすりつけながら転げまわって喜ぶ姿は、とても嬉しくとても愛らしいものだった。

フツーに歩けた頃は、よく外を散歩した。
チビ犬も尻尾をふって喜び、テンポよく歩いた。
共に感じる色んな季節は、心地よいものだった。
車通りの多い道は危ないので抱いて歩いた。
この頃はまだ元気だったけど、
「いつか、これも想い出に変わるときがくるんだよな・・・」
と、死が日常の場所に長くいる私は、穏やかな時間の中に切ない思いも抱いていた。

もともと若い犬ではなく、当初から高齢を感じさせる兆候はあった。
若い犬と比べると身体の毛が薄かったり、白内障の症状があったりと。
最初に医者に診せたときも、
「心臓から雑音がきこえる」
「心臓が弱くなっている」
と言われた。
また、皮膚炎もあった。
重症化した時期もあり、その時は、食べ物に気をつけ、こまめに風呂に入れ、毛も短くカットするようにした。
ただ、爪きりは恐くてうまくできず。
チャレンジはしたことはあったけど、切るたびに痛そうに吠えるし、切る位置を見極められず血をだしてしまったこともあり、結局一度で懲りた。
だから、爪が伸びるといちいち美容院に連れていって切ってもらっていた。

伸びる体毛は、たまに美容院でカットしてもらった。
結構な費用がかかるものだから、ごくたまに。
普段は自宅カットでしのぎ、いよいよ不恰好になってきた頃に美容院へ。
やはり、プロに任せるとよその犬と見間違えるくらいにきれいになり、私を喜ばせてくれた。
美容院では、サービスでリボンをつけてくれたりして、これもまた可愛らしかった。

風呂は大嫌いだった。
嫌がることはしたくなかったけど、さすがに風呂に入れないわけにはいかない。
皮膚炎をもっていたから尚更。
暑い季節は週一、寒い季節は二~三週間に一度くらい。
水(湯)が恐かったのだろう、湯船に入れると脱出しようと必死でもがく。
それを大人しくさせようと、こっちも必死で抱きかかえる。
そんな格闘のせいで、私の身体には、よく何本ものミミズ腫ができた。

昨今は、一緒に寝るのが当り前に。
はじめのうちは別々に寝ていたのだけど、いつの頃からか一緒に寝るように。
相手は小さいものだから、蹴飛ばさないように、潰さないように、眠りながらも頭の隅は常に起こし注意していた。
元来の不眠症に更に輪をかけるような行為だけど、私はそれでもよかった。
「一緒にいられる時間は、そう長くはないだろう・・・」
「今は少し大変でも、後で想い出せば笑顔の想い出に変わるはず・・・」
との思いをもっていたから。

春夏秋冬、平凡ながらも、つつましい食事を分け合いながら、限りある時間を分け合いながら、ささやかな幸せを分け合いながらの生活は続いた。
しかし、時間には逆らえない。
ここ一年くらいは老化が顕著で、食も細くなり、身体も痩せ、走ることはもちろん長く歩くこともできなくなった。
今年の5月には、老齢の白内障で完全に失明。
私はチビ犬が可哀想で気落ちしたけど、それでも本人(本犬)は、鼻と耳を頼りに奮闘。
眼が見えているのかと思うくらいに、御飯のときは自分の皿のところに行き、トイレに行きたくなったらトイレのところに行き、留守番がイヤなときは玄関に行き、寝たいときは布団に行っていた。

足腰の弱まりは徐々に進み、そのうちトイレもうまくできなくなってきた。
少しくらいの失敗は特掃(?)で対処してきたが、次第にその回数も多くなってきた。
情けないことに、さすがの(?)特掃隊長でも持て余すように。
結果、夏頃からはたまにオムツをつけるようにした。
お陰で、掃除の手間は、これでかなり省くことができた。
ただ、安いオムツはいまいち格好が悪い。
少し値は張ったが、私は、身体にフィットするカラフルなオムツを買って使った。
そのオムツ姿は少々不憫にも思われたが、パンツを履いた子供みたいで見慣れると可愛らしくもあった。

すでに体調が優れなかったのだろうか、ここ1~2ヵ月は、夜中でも咽が渇くと吠えた。
だから、その度に水を飲ませてやった。
また、トイレに行きたくなったときにも吠えた。
オムツをしているのだからそのままやっちゃってもよかったのに、そんなこと本人(本犬)は知る由もない。
それまでも、あちこちでトイレの失敗をしていたものの、不思議と布団の上ではまったくしなかった。
自分なりに
「布団の上では絶対ダメ!」
と思って、それだけは固く守っていたのだろうか。
だから、オムツをした状態でもトイレに連れていってやっていた。
(この場合、オムツをしたままトイレで用を足させ、その後でオムツを交換していた。)
これは、ほとんど毎晩のこと。
でも、私にはまったく苦にならなかった。


私は、チビ犬が可愛くて仕方がなかった。
チビ犬のことが大好きだった。
チビ犬は、この仏頂面にたくさんの笑顔をくれた。
言葉を交わすことはできなかったけど、間違いなく家族として存在していた。
そして、チビ犬の方も、私を家族だと思ってくれていたと信じている。

もう、アノなき声もきけない・・・
もう、アノ足音もきこえない・・・
もう、アノ姿を見ることもできない・・・
もう、アノ体を抱くこともできない・・・
一緒に御飯を食べることも、一緒に出かけることも、一緒に寝ることもできない・・・

死んだのは、つい一昨日のこと。
家のあちこちにはまだ、チビ犬が生きた跡と残像がある。
今、どこに行っても、何を見ても、何をしても、チビ犬のことばかりが頭に浮かんでくる。
すごく可愛かった。すごく楽しかった。
いなくなってすごく悲しい。すごく寂しい。
前の飼主に比べると質素な生活だったかもしれないけど、すごく幸せだった。
可愛かった想い出、楽しかった想い出、嬉しかった想い出、幸せだった想い出・・・
たくさんの、たくさんの想い出が涙とともに溢れてくる。

今、涙がとまらない。
「飼犬が死んだくらいで?」
「情けない」
「みっともない」
と、いい歳したオッサンのこんな姿は滑稽に映るかもしれないけど、事実は事実。
私にとってチビ犬は子供のような存在だった。
それがいなくなってしまい、心が痛くて痛くて仕方がない。
こんな重い喪失感には今まで襲われたことがない。
長く死業に従事し、自分なりに奮闘を重ねてきたつもりなのに、この始末・・・
ただ、これも、紛れもない私・・・私である。


いつかその日はくる・・・
別れの日は、必ずくる・・・
大切な者が死ぬときが・・・
そして、自分が死ぬときが・・・
しかし、それが、人に命を量りなおし、生き方を見つめなおすチャンスをくれる。
チビ犬が残してくれたそのチャンスと笑顔の想い出を心に刻み、私は、逆らえない時間の中で、時がこの傷心を癒してくれるのを待っているのである。


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バカ丸だし

2012-05-23 08:43:07 | Weblog
暖かな春は短かった。
5月も下旬になり、季節は一気に夏めいてきた。
作業服が塩をふく恐怖の季節は否応なく近づいている。

長い人で九連休だった、今年のゴールデンウィーク。
そうでない人でも三連休+四連休か。
多くの休暇をつかって、多くの人が笑顔の思い出をつくったことだろう。

生きるために働くわけで、働くために生きるわけじゃない・・・私も珍しく二連休をとった。
週休二日制が世の中に定着して久しいが、私が連休をとるのは極めて稀。
たったの二連休でも貴重に感じられ、随分と楽しい時を過ごすことができた。

しかし、その後に問題あり。
元来、働くことが嫌いな私。
休み明けの朝、もの凄い疲労感と虚無感に襲われて辛い思いをした。

幸か不幸か、休み慣れしてないせいで、こんなかたちでツケが回ってくる。
たった二日の休暇でこのザマだから、9連休なんかしたら病気になって寝込んでしまうかもしれない。
一体、何のための休暇なんだか・・・ホント、悲しい性(サガ)を背負っている。

しかし、少なからずの人が似たような苦しみを味わったのではないだろうか。
「五月病」なんて言葉があるのもそれが故。
この時期は、季節の変わり目でもあり、心身ともに不具合を起こしやすいのだろう。

幸い、私は、五月病には縁がない。
3月~4月に新年度らしい節目もないし、GWらしい休暇もないから。
あとは、“万年五月病患者”だからかも。

例年苦しんでいる冬欝も、今季は極めて軽かった。
昨年秋頃から覚悟は決めていたのだが、いい意味で拍子抜けしたような次第。
お陰で?酒の量も食欲も減らず、精神が健康な分、肉体が不健康になっているように思える。

嫌でも好きでも、大人は働くこと、子供は勉学に励むこと、これが責務。
サボったツケ・楽したツケは自分に回ってくる。
ジタバタしないで、外の温度にあわせて内の温度を上げていくしかない。


懸案の“携帯電話買い替え問題”。
迷った挙句、結局、スマホを購入。
冷静に考えてみたら、見栄っ張りの私が従来型を買うわけもなかった。

ちなみに、従来型は「フィーチャーフォン」というらしい。
ケータイショップの店員がそう教えてくれた。
お別れするときになってやっとその名を知るなんて、まったく“おバカ”である。

慣れないせいで、今はまだ使い勝手が悪い。
しかし、字を読むことが大嫌いな私は、取扱説明書は開きもせず。
使っていくうちに慣れていくつもりでいる。

今までのものに比べると、操作手順がかなり増えた。
電話をかけるだけ、メールを開くだけなのに、何度も画面を操作する必要がある。
それに増してタッチする部分を間違えたりするものだから手間がかかって仕方がない。

手の指と精神の神経は決して太くないつもり。
なのに、タッチしたつもりの部分じゃないところが反応することが多い。
これはかなりイラつく!

おまけに、両手が拘束される。
今までは、本体を開くとき以外、ほとんど片手で済んだのにスマホの場合そうはいかない。
片手だと、画面を開くことさえできない。

更には、手袋を着けている手(指)にはディスプレイが反応しない。
私の場合、現場においてラテックスグローブ(薄手のゴム手袋のようなもの)を着けていることが多いわけで、しかも、これは複数回使用できる想定ではない。
電話やメールがくる度にいちいちはずすわけにもいかず、結果、急いでいる場合は、無様にも肘でタッチしているような始末である。

また、携帯電話のくせに携帯しにくい。
従来型にくらべてサイズが大きく、ズボンのポケットに入れておきづらい。
しかも、どうしても過保護にしてしまい、ちょっとした重荷になっている。

落下など、外部からの衝撃にはあまり強くないらしい。
片面全面がディスプレイになっているせいだろう。
ポケットに入れるのが習慣なら、保護カバーを着けることを勧められた。

ちなみに、防水性能はかなり高いみたい。
店員いわく、「お風呂に落としたくらいでは平気です」とのこと。
対して、「汚腐呂でも平気なのかなぁ・・・」なんて“おバカ”ことを考えた私だった。


電話とメールだけしか使わないなら、なにもスマホにする必要はない。
スマホの真髄は、インターネット関連の機能のはず。
だから、インターネットを活用しなければスマホを買った意味がなくなる。

もともと、インターネットに対するニーズが低い私。
しかし、せっかく手に入れたスマホ。
とりあえず、ネットを開いてみることにした。

とは言っても、見たいサイトを思いつかない。
とりあえず、道路情報、天気予報、時事ニュースなどを開いてみた。
そこでは機械の機能や性能の高さは味わえたのだが、サイトの中味はどれも面白くはなかった。

そこで、思いついたのが「特殊清掃 戦う男たち」。 
自分のブログがどんな感じで映し出されるのか見てみることに。
早速、私はキーワードを打ち込んで検索をかけた。

目当てのサイトはすぐにでてきた。
そりゃそうだ、ブログタイトルをそのまま打ち込んだのだから。
それから、画面をルーレットのようにテキトーに転がして、ある年・ある日の記事を不作為に取り出してみた。

過去にあげた自分のブログを読むなんてことは滅多にない私。
もともと字を読むのが嫌いなうえに、自分が書いたものを読んでも仕方がないから。
“書き捨て”を常としているブログである。

ほとんど読み返すことがないうえ、500編近くたまった記事の一つ一つを頭の鈍い私が憶えているわけはない。
それでも、読んでみると甦ってくるものが多々あった。
そして、まるで他人が書いたものを読んでいるかのような不思議な感覚と新鮮さを覚えた。


このブログをはじめたのは6年前・・・ちょうど5月。
すでに年齢は若くなかったけど、それでも、今と比べれば若かった。
たった数年間のことなのに、当時の筆圧を思い出すと懐かしい。

時の経過によって心身や志向が変化するのは不自然なことではない。
とはいえ、以前に比べて今の自分は、重く、活きが悪く、低いところに偏り、浅いところに落ち着いているような気がする。
これを「進化」といえばいいのか、それとも「退化」というべきか、判断が難しい。

何はともあれ、過去の自分に感化されたのは事実。
自己満足、自己陶酔、自己憐憫、自己矛盾etc、それらを整理できないまま自分のブログに感情を動かされてしまった。
過去の自分を反面教師にするのではなく教師にするなんて、ホント“おバカ”である。


私は、人からバカにされることを嫌い、人にバカにみられることを怖れる。
だから、見栄をはり、虚勢をはり、面子をはる。
そんなこと気にしないでいられたら楽なのに。

私は、ある意味で幸せな人間だが、ある意味で不幸な人間。
必要な知恵がなく不必要な欲があり、必要な志向がなく不必要な思考があるから。
身体は確実に歳をとっているのに、中身は成長していないから。

多くの場合、大人は子供に比べて賢く、そして力がある。
しかし、多くの意味で、子供は大人に比べて幸せである。
社会に対する剣や鎧を持たない分、軽く生きることができるから。

自分が賢くみられようがバカにみられようが、周囲に大差はない。
悪くあってはならないが、愚かであってはならないが、そうでなければ、そんなこと気にするだけ不幸。
私は、自分の浅慮をよく嘆くけど、ホントに嘆くべきは余計な見栄や体裁を捨てられないことだと思う。

頭は単細胞のくせに思考は単純にいかない私。
理屈をこねくり回してシカメッ面をする私より、素直に泣き笑う子供の方がよっぽど人生を楽しんでいるのではないだろうか・・・
生き方を簡単にすること、単純に生きること、それが今の私に必要なこと、今の私が求めていることかもしれない。

「幸せとは?」
「ひょっとしたら、そんなこと考えないで生きることかも・・・」
先のGW、子供のような笑顔を浮かべる大人達をみて、そんな風に思ったバカになれないバカ(私)である。




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素直になれなくて

2012-01-23 09:21:43 | Weblog
「素直じゃない!」
子供の頃、親によくそう言われた。
「屁理屈を言うな!」
これもまたよく言われた。
私は、親のいうことをすぐにきかない、何かにつけ口ごたえの多い(可愛げのない)子供だったのだ。

ただ、そんな風に言われても、当の私はピンとこず。
親の言う「素直」の意味がいまいちわからなかったのだ。
そんな中で得た結論は“従順=素直”。
つまり、“親に従順=素直”だと解釈した・・・というか、そう解釈しないと自分の中で整理がつかなかった。
しかし、人間の性分なんてそう簡単に変わるものではない。
とりあえず、“素直”の意味を呑み込みはしたけど、実際に親に従順になることはなかった。
結局のところ、“親に従順=素直”という解釈がうまく消化できずにいたのである。

今は、「人に従順=素直」という認識はない。
“素直”とは“自分に従順・正直であること”と理解している。
では、“自分に従順・正直”とはどういうことか・・・
ちょっと考えてみた。

「自分に正直」「自分らしく生きる」というと、何とも聞こえがいい。
素晴らしい考え方・生き方のように感じさせる響きがある。
しかし、そんな表には裏がある。
解釈によっては、ワガママ・自己中心的思考・利己主義などを肯定し助長してしまう。
自律や自制を否定することにもなりかねない。
だから、単に「自分に従順」「自分に正直」なだけでは不充分なのである。

自問自答してみる・・・
Q:自分っていい人間だと思う?
A:いい面もあると思うけど、いい人間だとは思わない。
Q:自分のこと好き?
A:好きなところもあるけど、嫌いなところの方が多い。
Q:自分のことが信じられる?
A:信じたいけど信じきれない。
・・・“自分”なんて、所詮、こんなもの。
「はたして、こんなダメな自分に従順・正直であることが“素晴らしいこと”と言えるだろうか・・・」
と疑問に思うのである。

しかし、悲観してばかりでは能がない。
楽観できる要素もある。
どんなに人間にも生まれもっての悪性があるのと同じように、生まれもっての善性がある。
それを具現化した“良心”というものを持つ。
人は、それら善性や良心に正直に従うこともできると思う。
そして、それが、あるべき“本来の人の素直さ”なのではないかと思う。
そんな考えを持つに至った現在、私は、かつての「親に従順=素直」を「良心に従順=素直」に変化させて消化吸収している。

ただ、残念ながら、“頭の理解”と“心の会得”は別物。
上記のような“本来の素直さ”を実際に持つのは簡単なことではない。
私の場合、そのために必要な自律心・自制心と、忍耐力・自己管理能力がまったく足りていない。
だから、私は、未だ素直な生き方ができないでいる。
素直な人間になれないまま生きている。
その結果として、人生を正しく歩めないでいる。
にもかかわらず、こんなブログを連々と綴っている・・・
その昔、世を騒がせた“口裂女”をパクって「口先男」とでも名乗ったほうがいいくらいかもしれない。



ある平日の昼下がり、私は、とあるマンションに出向いた。
依頼の内容は、部屋にたまったゴミの始末。
依頼者は、このマンションの一部屋に住む男性とその姉である女性。
約束の時刻を少し前に到着すると、それを見計らっていたかのようの依頼者の二人も姿を現した。

「やっちゃいまして・・・」
男性は、そう言い、恥ずかしさをごまかすかのように笑顔を浮かべた。
「驚かれると思いますよ」
女性は、そう言い、憤りを通り越したような呆れ顔を浮かべた。


男性は40代、独身。
いい大学をでて大手企業に勤務。
勤勉で給料も悪くなく20代でこのマンションを購入。
身体も健康、仕事も順調。
「結婚への縁がないことを除いて問題らしい問題はない」と、女性ら家族はそう思っていた。

中がゴミ部屋になっていることは近隣住民や管理会社にもバレバレ。
溜めはじめてからの数年はごまかすことができたものの、増える一方のゴミをいつまでも隠し通せるわけはなく・・・
男性が玄関を出入りするときの様は明らかにおかしく、他の住人が何度かそれを目撃。
不審に思った住人は、管理組合にそのことを相談。
協議の中、管理組合には複数の証言が集まり、男性は注意勧告を受けるハメになった。

しかし、再三にわたる勧告にも、男性は聞く耳を持たず。
「部屋は自己所有だし、まわりに迷惑はかけていない」と、いつまでたっても片付ける気配をみせず。
ただ、いくら自分の部屋とはいえ、中で何をやってもいいというわけではない。
住人各自は管理規約を遵守しなければならない。
業を煮やした管理組合は実家に連絡し、男性が起こしている事態を知らせたのだった。

当初、家族は管理組合の言うことが信じられず。
「細かなことにうるさいマンションだな」と、不快に思ったくらいだった。
しかし、長年の間、男性の部屋に家族が立ち入っていないことも事実。
また、本人に訊いても生返事で真っ向から否定はしなかった。
そこで、老いた両親の代わりに姉である女性が部屋を確認することに。
半信半疑で、はるばる遠方から足を運んできたのだった。


玄関ドアを開けると、いきなり断崖絶壁。
長年に渡って蓄積されたゴミは、厚い層をもって高い壁を形成。
天井にまで達する勢いで、私に行く手に立ちはだかった。
もはや、そこは「入る」というより「登る」といった動きが要求される状況。
それを見た私の中には、不思議に思う気持ちと驚きを通り越した“感心”に近い感情が湧いてきた。

私は、玄関前でしばし呆然。
しかし、感心ばかりしていても仕方がない。
そうはいっても、次に起こすべきアクションが思い浮かばず。
キョロキョロと視線を泳がせて困惑していると、「いつもはこうやってるんです」と、男性はお手本を見せてくれた。
さすがに男性は慣れたもの、ゴミひとつ崩さず器用に中に入り、そして出てきた。
私は、その様を真似てチャレンジ。
しかし、悲しいかな、この部屋に対しては素人。
積み上がったゴミをドアの外に崩しながら、チャレンジしては断念、断念してはチャレンジを繰り返し、なんとか室内にもぐり込んだ。

断崖の次は洞窟。
前後左右、全部ゴミ。
天井は、頭スレスレの位置。
空間が狭すぎて、二足歩行は不可能。
私は、四足歩行で前進しながら限られたスペースを観察。
部屋の奥は、ちょっと油断をすると、一体、自分がどこにいて何をしているのかさえ忘れてしまうようなインパクトのある光景。
私は、妙な好奇心を抱き、冒険心を妙にくすぐられたのだった。

部屋の調査を終えた私は、玄関の外に帰還。
それから、わかりきった部屋の状況を二人に報告し、対処方法を説明。
自分の家のことにも関わらず、男性には選択肢が与えられず。
女性は全権を掌握し、男性が何か口答えしようとすると、「アンタは黙ってお金だけ払えばいいの!」と一蹴。
それでも、「必要なものがたくさんある」と男性はしぶとく抵抗。
しかし、社会通念と管理組合を前に男性は丸腰にされ、女性主導でゴミ撤去の手はずは整えられた。

「この人、ホント、人のいうことをきかないんです」
「昔から素直じゃないんですよね」
女性は、溜息まじりに愚痴をこぼした。
心当たりがあるのだろう、一方の男性は、気マズそうに沈黙。
私の目には、消沈した男性の姿がなんども気の毒に映った。
そして、そんな男性でも何とか助けようとする家族の絆にあたたかいものを感じた。

女性が男性に吹かせた姉貴風には懐かしいニオイがあった。
そして、女性が口にした「素直じゃない」という言葉に、私は、その昔、両親が私に対して言ったときと同じ意味を感じた。
両親は、私が親に従順であることを求めていたのではなく、私の幸を願い、私が正しく生きることを望んでいたのだと思う。
それで、未成熟で分別のない私の良心を推し述べていたのではないかと思う。


「もっと親の言うことをきいていればよかった・・・」
社会に出て、何度そんなことを思っただろう・・・
考えても仕方のないことなのに、今でも思うことがある。
学業や職業をはじめ、後悔していることはたくさんある。
しかし、もう手遅れ、過ぎた時間は返らず・・・ダメな自分に服従して生きてきた結果がこれ(今)なのである。

それでも・・・
「素直になるチャンスは死ぬまである」
そんな風に思って、ちょっとした希望も持っている。

命の幸を思い出すため・・・
生きることの楽しさを感じるため・・・
自分が自分であることの喜びを知るため・・・
今を快く受け入れるため・・・
「もっと、もっと生きたい」と素直に思える自分を現すために。




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生きてるよ

2012-01-09 15:46:27 | Weblog
遅ればせながら、2012謹賀新年。
前回の更新は昨年10月10日だったから、三ヶ月ぶりの更新になるのか・・・過ぎてしまえば時間が経つのははやいもの。
ありがたいことに、この身を心配してくれる人もいるようだが、大丈夫、なんとかこうして生きている。

この三ヶ月、相変わらずの毎日を過ごしていた。
例によっての多忙少休、世間の非日常に私の日常を重ねていた。
一般の人にとって珍しいことはたくさんあったけど、私にとって特段に変わったことはなかった。

変わったことといえば、年末年始の暴飲暴食が祟って腹回りが太くなったことくらい。
クリスマスから正月にかけ、おいしい料理を食べ、うまい酒を飲んだせい。
一年間、汚仕事に這いずり回った自分への褒美のつもりで、つい調子に乗りすぎた。

ただ、クリスマスを祝い、めでたい正月を迎えられなかった人のことも頭の隅にある。
思い浮かぶのは、大地震の被災者。
ありきたりのことしか書けないのでコメントは差し控えるけど、あらためて、人の生と死を考えさせられている。

私(人)はいつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない。
その中で、限られた時間を生きている。
常に選択に迫られ、大小の岐路に立たされ、今、何を優先すべきか、深い思慮を求められながら深い思慮ができずに生きている。



訪れた現場は老朽アパートの一室。
待ち合わせた依頼者は、30代の女性。
どことなく気恥ずかしそうな、気マズそうな物腰だった。

部屋の主は、一人暮らしをしていた女性の父親。
その父親は、過日、入院先の病院で逝去。
部屋には、遺品となった家財が残された。

そんな中、女性は知人のツテで遺品整理の業者を手配。
相応の費用をかけて家財を処分し、部屋を空にした。
しかし、部屋を引き払うために片付けなければならない問題は他にもあった。

男性が一人で暮す部屋がきれいに維持されているケースは少ない。
汚部屋になっていることがほとんどで、特に水回りがヒドイことになっているケースは多い。
そして、この部屋も例外ではなかった。

女性は、当初、一般のハウスクリーニング業者に相談。
しかし、現場を見るや否や、業者は仕事を辞退。
ねばり強く、あちこちの業者に相談してみたが、結果は同じことだった。

女性は困り果て、自分でやることも考えた。
でも、それを考えると泣きたい気持ちに駆られ、どうしても踏み出せず。
そうして後、巡り巡って当社にたどり着き、清掃を依頼してきたのだった。

風呂やキッチンシンクもだいぶ汚れてはいたが、特にヒドかったのは便所。
旧型の和式で「トイレ」というより「便所」といった方がシックリくる造り。
その便所は、ほぼ全体を糞尿が原因と思われる黒や茶色の汚れが被い尽くしていた。

ただ、便器周辺の汚れは、騒ぎ立てるほどのことではなかった。
似たような便所は何度となく経験済みだったし。
私を怖れさせたのは周辺の汚れではなく、便器そのものだった。

はじめ、便器の上には新聞紙がかけられていた。
見かねた女性が便器を覆うためにかけたものと思われた。
「ま、いつもの感じだろ」と、中途半端な覚悟で、私はその新聞紙をめくり取った。

「???」・・・姿を現した便器を見た私の目は点に。
何がどうなっているのか瞬時には判断がつかず。
「まさか?」と思いながら、私は顔を近づけて便器を凝視した。

疑義は的中。
便器の中は、ウンコが満杯のテンコ盛り状態。
それは、百戦錬磨?の私も自信を喪失するくらいにへヴィーな光景だった。

女性は、かかる費用のことよりも私が清掃を請け負うかどうかを心配していた。
一方の私は、「断ったほうがいい」という頭と「やれるだけやってみろ」という心が対立して困惑。
結局、“成果保証なし”“料金は出来高で決定”を条件に請負契約は成立となった。

すると、今度は、“効率が悪くても何らかの道具を使うことを薦める本性”と“さっさと片付けるため自らの手を道具にすることを薦める理性”とが頭の中で対立。
結局、気持ちが慣れるまでは道具を使い、慣れてきたら手を使うということで両者を説得。
私は、作業の準備を整えながら特掃魂の暖気運転を始めた。

予定通り、最初は、代用の道具(専用の道具なんてないけど)を使ってモタモタとウンコを掻き出していった。
しかし、悲しいかな、所詮、代用道具は代用道具、柔軟な動きは無理。
後半は、手を汚すしか方法がなく、これまた予定通りの覚悟を決めて、私は便器に手を突っ込んだ。

どこの現場でもそうだけど、一線を越えてしまえば怖れは薄らぐ。
一度ウンコにまみれた手は、それ以降、何度便器に手を入れようが、それ以上に汚れることはない。
それまでの恐怖心がウソのように開き直れて、大胆かつ効率よく作業を進めることができ、そしてまた、時間が燃焼し、生きている実感が湧いてくるのである。

作業に要した時間は、約二時間。
頑張った甲斐あって便器は白くピカピカ。
また、周辺は新築同様にまではならなかったけど、フツーに使えるくらいの姿を取り戻した。

作業終了の後、私は、現場から離れていた女性を呼び寄せた。
そして、自慢したい気持ち満々で、便所の扉を開けてみせた。
すると、女性は目をまるくし、そして、泣きだした。

「ごめんなさい・・・悲しいんじゃなくて感動してるんです」
女性は、私にそういい、しばらく泣き続けた。
そんな女性の涙は、私への同情心が混ざっているようにも感じられ、私に寂しい喜びを与えてくれた。


キツイ仕事やツライ作業に従事しているとき、私は自分が生きていることを強く実感する。
この様を「ホントの苦労を知らぬヤツ」と言う人がいるかもしれない。
この感覚を「変態」と呼ぶ人がいるかもしれない。
しかし、私にとって、これらは“人生の薬味”。
それだけでは、辛いばかり・苦いばかりのものだけど、人生が旨味を増すために必要な味(薬)なのだろうと思っている。

そうは言っても、辛味や苦味なんて、できることなら味わいたくない。
しかし、これらは、“味わいたい”とか“味わいたくない”と分別できる次元のものではない。
人間が生きるために、幸を得るために必要な味なのではないだろうか。
少なくとも、この私には必要な味、この私が生きるために必要な味、この私に幸福をもたらす味・・・もっと言うと、私にとって“幸福そのもの”なのかもしれないと思っている。


「“感動する便所掃除”ってバカバカしいけど、わるくはないな」
そんな風に思いながら、私は生きていることを実感したのだった。
そして、そんなことを重ねながら今日も生きている・・・生かされているのである。




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再会

2011-10-10 08:22:41 | Weblog
私には、69歳の母がいる。
私に似て(?)気難しい性格で、若い頃から、ことあるごとに衝突。
長期間にわたって絶交状態になったことも何度となくある。
しかし、やはり親子。
絶縁と復縁、ケンカと仲直りを繰り返しながら、今日に至っている。

三年前の春、その母の肺に癌が見つかった。
進行度は“ステージⅠB期”。
幸い、他に転移もなく、進行も遅いタイプ。
ただ、「癌」と聞いて、本人はかなりショックを受けたよう。
ただでさえ情緒不安定気味なのに、さらに激しい浮き沈みが加わってしまった。

結局、その年の夏、生まれて初めて身体にメスを入れ、片肺の約半分を切除。
以降、半年毎の定期検査で様子をみることになった。
それから、三年、先日の定期健診で、再発した癌が見つかった。
癌の中でも肺癌は治療成績が最も悪い部類のひとつであることは手術時から知っていたが、三年間何もなかったので、私の気持ちには“遊び”が生まれていた。
しかし、ここにきて再発・・・
今は、「治癒」ではなく「死別」という文字が頭に浮かんできている。
そして、母に対してだけのことではなく、自分の人生に対して“今なすべきこと”を考えさせられている。

癌という病気は珍しい病気ではなく、他人事ではない病気。
誰がかかってもおかしくない病気で、いつ自分が患ってもおかしくない病気。
ただ自分が気づいていないだけで、すでに身体のどこかに癌があり、今、それが膨らんできているかもしれない・・・
癌で逝った多くの老若男女を思い起こすと、自分が癌にかかったときのことと、対する心備えが必要であることを思わされる。

これまで、数え切れない人達の死と接してきている私だが、親の死に直面したことはまだない。
いい意味でも悪い意味でも人の死に慣れてしまっている自分が、親の死に対してどのような反応をし、どういった感情を抱くのか・・・
いつも通り冷酷な人間のままでいるのか、お得意の“悲しんでいるフリ”“心を痛めているフリ”をしてしまうのか・・・
客観的に興味があり、自分の知らない自分が見えるかもしれないと思っている。
(知らなくていい自分を知ってしまうおそれもある。)

闘病に苦しみながら生を延ばすか、苦しみの少ない方を選んで適当に人生を閉じるか、
私は、その選択は本人(母)に任せること、また本人が決めるべきであることを伝えた。
家族であっても、母の人生に責任をとってやれないのだから。
そして、そんな母の心情は、老い先短いのだからジタバタしたくないという気持ちと、生きることに固執してしまう本性との間を揺れ動いているようで、私に“人間”というものをあらためて知らしめている。

何はともあれ、もうしばらく顔を合わせていないから、近いうちにこのシケたツラでもみせに行ってこようかと思っている。



盛夏のある日、特殊清掃の相談が入った。
現場は、老朽マンション。
立地はあまりよろしくなく、どことなく寂れた感のする建物。
二階一室の窓には無数にハエがたかり、誰に教わらなくてもそこが故人の部屋であることがわかった。

現地には不動産管理会社の担当者が現れた。
かなりのシカメッ面で、第一印象は“不良”。
ただ、それは、腐乱死体現場に恐怖感を覚えているがゆえのこと。
部屋の前に行くことはおろか、マンションの敷地内にいることもイヤそう。
担当者が私に対して悪感情を抱いて仏頂面しているのではないことがわかると、私の重い不快感は軽い同情心に変わった。


「故人は50代男性」
「生活保護、身よりなし」
「このマンションに越してきて数日後に自殺」
「死後約二週間」
「警察から“部屋には入らないほうがいい”と言われたし、入りたくもない」
とのこと。
担当者は事の概要を私に伝え、汚いものでも触るかのように指先でつまんだ鍵を私の手のひらに落とした。

私は、担当者を下に残し、一人で二階へ。
悪臭がプンプン漂う玄関の前に立ち、凄惨な光景を頭に浮かべながら、周囲に人がいないことを確認。
それから、右の尻ポケットに常備してあるラテックスグローブを取り出し、両手に装着。
次に、愛用のマスクで口と鼻を覆い開錠。
そして、私は、ドアを開けると同時に噴出した生温かい空気と入れ替わるように室内に侵入し、素早くドアを閉めた。

間取りは普通の1K。
家財生活用品は極めて少なく、「これで生活が成り立つのか?」と疑問に思うほど。
TVも洗濯機も冷蔵庫も料理道具もなし。
あるものといえば、一組の布団と少量の衣類、簡単な洗面用具くらいのもの。
少し戸の開いた押入れも、中は空の様子。
どういう経緯で生活保護受給者になったのか、どういう事情があってこのマンションに越してきたのかわからなかったけど、転居してきた時点では、もう先を長く生きるつもりがなかったであろうことがうかがえた。

家財生活用品の量に反して、ハエの数は膨大。
「コイツら全部にたかられたら、生きて出られないかもな・・・」と、ナメた恐怖感を覚えるくらい。
幸い、ハエ達は特掃隊長が嫌いみたいで、“招かざる客”に反応し、狭い部屋を黒雲のごとく乱飛行。
私から逃げるつもりで飛んでいるはずなのに、ペチペチと私にぶつかってくるような始末で、この部屋のハエ密度が過密状態であることは一目瞭然だった。

例の汚染は、部屋の中央に敷かれた布団を中心に残留。
布団は、タップリの体液を吸い、不気味な艶をもって変色。
その紋様と綿の凹凸と残された頭髪は、故人の身体をリアルに表現。
私の頭には、遺体が横たわった様が立体的に浮かび上がってきた。

一通りの見分を終えて階を降りた私は、すでに立派なウ○コ男。
担当者は、私が放つ異臭に面食らったようで、私に遠慮することなくハンカチで鼻を覆った。
ま、そんなことよくあることなので私は気にせず、玄関前の話からスタート。
泣きそうなくらい表情を曇らせる担当者に、「グロテスクな表現になりますけど、大丈夫ですか?」と、いちいち前置きしながら室内の状況を説明した。
結果、担当者はその場で私に特殊清掃を依頼。
私は、消臭にはある程度の日数を要し、原状回復には内装改修工事も必要であることを念押ししてこの仕事を請け負った。


まずは、殺虫剤でハエを撃墜。
その死骸を集めてみると、30ℓ一袋分にもなった。
次に、汚腐団の梱包。
私は、布団を一枚一枚コンパクトにたたみ、厳重に梱包。
腐敗体液をタップリ吸った布団は、相当の重量に。
その類が腕力だけでは持ち上げきれないことを知っている私は、「ドンマイ!ドンマイ!」と自分と故人につぶやきながら抱え上げ、外に運び出した。

フローリングの床は腐敗脂や腐敗粘土でベドベト。
私は、一般世間では感じ得ない絶妙な孤独感を覚えながら、粘土を削り取る作業と、脂を拭き取る作業を何度も繰り返した。
ただ、それでも、室内には悪臭が、床には焦げ茶色のシミが残留。
とりあえず、内装改修工事や消臭消毒作業などの二次作業・三次作業にバトンタッチできるまでの仕事をして、その日の作業を終わらせた。

一通りの作業を終えた私は、室内を最終チェック。
何も入ってないと思っていた押入れの戸を大きく開けると、中は空ではなかった。
中には、一柱の位牌があったのだ。
それは、ちょうど、故人の枕元にあたるところに立てられていた。

他に何もない押入れに、ポツンと置かれた位牌・・・
記された名前は女性、行年は50代、逝去年月日は30年も前・・・
それらを照らし合わせると、その位牌は故人の母親のもののように思われた・・・
そして、それは、故人は、どこで暮すにしても、どんな生活をするにしても、この位牌だけは離さなかったことを物語っていた。


ヘビー級の現場を片付けた達成感と安堵感も手伝ってか、私の頭には、色んな思いが巡った。
「故人は、母親のこと想っていたんだろうな・・・」
「先に亡くなった故人の母親は、その後の故人の人生を知る由もなかっただろうか・・・」
「子の不幸は親にとっても苦痛だろうな・・・」
「どんな想いで死を選んだんだろうか・・・」
「ひょっとして、母親に会えると思って逝ったのかな・・・」
そんなことを考えると、溜息ばかりが口を突いてでた。
ただ、生きているかぎりは片付くことがないそんな溜息を、他人への薄っぺらい同情心と私にもある母への情が覆ったのも事実だった。

そして・・・
「天国で再会できてればいいな・・・」
大家や不動産会社が被った損害や、自分の宗教観や死後観も捨てて、私は単純にそう思ったのであった。

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骨折り得

2011-07-31 17:24:23 | Weblog
早いもので7月も今日でおしまい。
前回の更新からしばらくの間があいてしまったが、ブログを書いてこその特掃隊長ではなく、汗をかいてこその特掃隊長。
頑張った自分を褒めたり、頑張れなかった自分を惨めに思ったりしながら、大汗かきながら走り回っている。
なかなか骨の折れる仕事をしているものだから、肉体疲労には重いものがあるけど、基本的には元気な状態。
秋~春にかけて深刻だった欝状態も、なんとか脱している(秋冬が恐い)。

ただ、腰を悪くしてしまって困っている。
某所のゴミ部屋を片付けているときに痛めたのだが、これがなかなかうっとおしい。
激痛ではないものの、時折、鈍いだるさが襲ってくるわけで、作業に支障をきたしている。
また、酒の量が増えてしまって困っている。
今は、ビールとチューハイ。
量を決めて飲み始めても、それだけじゃおさまらない。
自分に甘い性格が災いして、つい飲みすぎてしまう。
このツケが、金欠と疾患になって回ってこないことを祈るばかりだ。



現地調査の依頼が入った。
電話の向こうは中年の男性の声。
命令口調ではないものの、発する言葉のほとんどはタメ口。
そして、こちらの都合をきくこともなく日時を指定。
更には、「調査だけなら無料でしょ?仕事が忙しくて現地に行けないから、朝一で鍵を勤務先の近くまで取りに来い」とのこと。
何もかもが一方的でこちらに対する配慮が感じられず、感じのいい人物ではなかった。
しかし、不快な相手に自分を殺すのも仕事のうち。
私は、必要最低限の愛想をもって男性の要望に従うことにした。

待ち合わせ場所はオフィスビルが建ち並ぶ都心の一角。
私は、約束の時刻を前に到着し、指定された場所の車を停車して、男性が現れまで車中待機。
約束の時間に遅れて現れた男性は高級そうなスーツを身にまとい、自分に自信があるのだろうか、強気な面構え。
知り合いにはいないから勝手なイメージだけど、大きな会社の管理職みたいな雰囲気。
電話で抱いていたイメージ通りの人物で、やはりタメ口で指示口調。
私は、「頭のよさと性格のよさは別物だからな・・・」と自分の頭の悪さと性格の悪さを棚に上げて、男性の話に耳を傾けた。

現場の家は、男性所有の家。
亡くなったのは男性の弟。
不安定な経済状態で生活していた弟(故人)に安定した経済力を持った男性(兄)が自分名義の家を無料で貸借。
その弟が孤独死。
そして、その死に気づく人はおらず、長く放置されたのだった。


現場は郊外の住宅街に建つ一戸建。
建売分譲だったようで、周囲には似たようなデザインの家が何軒も整然と並んでいた。
ただ、現場の家だけは雑草に囲まれ、門扉の裏にはポストからあふれ出た郵便物やチラシ類が散乱。
更には、窓辺にはいくつものハエの死骸が落ちており、そこに日常にはない何かがあることは一目瞭然だった。

「目立たないよう出入りすること」と注意を受けていた私は、現場の家を通り過ぎ、少し離れたところに車を駐車。
そして、常用のラテックスグローブをポケットに、専用マスクを脇に隠すように抱えて車を降りた。
そして、そそくさと門扉を開け玄関を開錠した。

玄関を入るなり強い悪臭を感じた私は、すぐさまマスクと手袋を装着。
「失礼しま~す」と誰もいない家に挨拶し、土足のまま家の中へ上がりこんだ。
目指したのは、二階の一室。
男性に教わった通りに階段を上がり、男性に教わったところの部屋のドアを開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、“汚腐団”。
ドス黒い腐敗液と黄色い腐敗脂にまみれた布団は、完全にもとの色を失っていた。
遺体汚染は布団だけにとどまらず、その脇の押入の中にまで拡大。
時間とウジの仕業で、その汚染は床面だけでなく壁面にまで競り上がっていた。

部屋の見分を終えた私は、一旦、外へ。
車をとめたところに戻り、周囲に人がいないことを確認。
それから男性に電話をかけ、室内の状態を報告しつつ、特殊清掃にともなう細かな作業内容と費用を伝えた。

特掃の費用は、一般のルームクリーニング代に比べると高い。
素人ながら男性もそれを覚悟していた。
ただ、私が伝えた金額は男性が想像していたものよりも高かったよう。
男性は、「高いな!もっと安くできるでしょ!?」と一方的に主張。
特殊清掃作業は人的サービスの一種なので、一円たりとも値引けない類のものではないけど、私のつまらないプライドが、「作業を依頼されるかどうかは○○さん(男性)のご自由ですから」と自らに言わせた。

男性は、現場を見ておらず。
警察も室内への立ち入りをすすめず。
だから、男性は、警察から聞いた情報をもとに、クサくて汚れていることを漠然と認識しているのみ。
私は、事後のトラブルを未然に防ぐため、現場の状況を具体的に理解してもらう必要があることを話し、身近にあるものを例えに用いて視覚的な状況を説明。
ただ、ニオイについては例えられるものがなく、「凄まじい悪臭」と表現するにとどめるしかなかった。
はじめは、状況がうまく理解できないようで、私にこと細かく質問を投げてきた男性だったが、質疑応答を経て現場の状況が少しはリアルに想像できたよう。
最終的には、私との会話が噛み合うようになり、私に作業を依頼してきた。
私は、
「大げさなことを言っていると思われたらイヤなので、必要なときは警察で現場の写真を見てください」
と第三者が持つ現場写真を担保にして、特掃作業を請け負うことを約した。


作業は、そのまま着手。
私は、頭の段取りを先行させながらそれに身体の動きを追随させ、誰にも自慢できない手際のよさで汚物を片付けていった。
そんな作業の中盤、腐敗粘土をかき集めていると、押入の奥からあるものがでてきた。
それは骨。しかも、指等の小さなものではなく、そこそこ大きなサイズ。
状況からみて、骨の主が故人であることは間違いなく、襖の裏側、しかも腐敗粘土に覆われていたため、警察が拾い損ねていったものと思われた。

頭髪が残留していることは日常茶飯事で、爪や指の骨が残っていることもそう珍しいことではない。
しかし、遠目にもわかるくらいの骨が残っていることはなかなかない。
私は、「これ以上スゴイものはでてこないでほしいなぁ・・・」と妙な緊張感を覚えながら作業を続行。
結局、骨は次々と見つかり、集めた骨は、最終的には五柱に及んだ。
そして、部屋に故人の遺骨が残っていることと、それを早々に引き渡したい旨を男性に電話し、その日のうちに再び会う約束をした。

判例法上は「警察が回収しなかったものは死体に含まれない」とのこと。
つまり、それが死体の一部であっても、警察が残していったものはもはや死体ではなく、死体遺棄罪などには抵触しないということ。
私は、最終的な取捨選択は男性に任せることにして、とりあえず、それらを消毒用エタノールで洗浄。
最初は気持ち悪さを覚えながら磨いていた私だったが、そのうちに「俺の身体にもこんなのが入ってるんだよな・・・」といった親しみ湧いてきて、自然と嫌悪感は消えた。
そして、茶色でベトベトだった骨が薄黄土色のスベスベになったこと・・・骨が骨らしくなったことに満足感を覚えた。


同日の夕刻、私は、朝と同じ場所で男性と再び待ち合わせた。
現れた男性は、心なしか朝とは違ったソフトな雰囲気。
相変わらずのタメ口も高圧的なものから親しみを込めたものに変わったように感じられた。
私は、家屋の原状を回復させるためのプロセスを説明し、問題の中核は片付けたので、これ以上、事が深刻化することはないことと、あとは気持ちが落ち着いてから考えればいい旨を話した。
それから、家の鍵と、ガーゼとビニールと紙袋に三重梱包した遺骨を差し出した。
頭を下げながらそれを受け取る男性の手は、わずかに震えていた。

「これ本当に骨?骨に間違いない?」
「間違いないですね」
「そう・・・」
「一応、洗浄と消毒はしてありますので」
「・・・」
「でも、ニオイはあるんで、取り出すときは気をつけて下さい」
「そう・・・しかし、これ・・・どうすればいいんだろうか・・・」
「骨壷に入れるしかないと思いますけど・・・」
「このまま?」
「火葬がまだなら、柩に入れて一緒に荼毘にふされたらどうですか?」
「そうか・・・そうだね・・・そうするよ・・・」

孤独死しようが腐乱しようが、男性にとって故人は家族・弟・・・
気にかけ、世話を焼いたのも愛情があったからこそ・・・
残ったものが臭くたって汚くたって、生前の想い出は汚れない・・・
数個の遺骨なんて質量的には軽いものだけど、精神には重く感じられたようで、男性は神妙な顔で手に持つ紙袋を見つめ、目を潤ませた。
そして、
「なんだか、大変な仕事をさせちゃったね・・・ありがとう・・・」
と、私に労いの言葉をかけてくれた。

私は、自分のために仕事をしている。昔からずっと。そして今も。
だけど、それが人のためになることがある。
私は、仕方なく人のために骨を折ることがある。昔からそこそこ。そして今もたまに。
だけど、それが自分のためになることがある。

私は、とてつもなくクサくてヒドく汚れていたけど、何か得したような柔らかい気分に包まれたのだった。
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葛藤

2011-06-03 08:17:57 | Weblog
これも、私という人間の性質だろうか・・・
私の場合、昼間の出来事や想いが、かたちを変えて夜の夢に現れることが多い。
昼間の現実と夢の中の非現実が混ざり合って、不快な寝汗をかくこともしばしばある。
また、昼間の延長線上で何かを考えて、夢の中で答が得られることもある。
この性質もまた不眠症の一因になっていると思うけど、自分ではどうにもコントロールできない。
考えることも難しいものだけど、考えないようにすることはもっと難しいものだ。

ひと月くらい前になるだろうか、そのときの私は、自分の死期について考えていた。
「余命がわかると、人生の計画が立てやすいよな・・・」
「余計なことに悩まないで済むかもしれない・・・」
「今を、より大切にすることができるかもしれない・・・」
そんな風に。
そして、その結果として「自分の死期を知りたい」という思いが涌いてきていた。

この夢をみたのはそんなときのこと。
夢の中の私は、私の死期を知っている相手(人の風体だが正体不明)と話をする場面にいた。

(私)「自分の死期を知りたい」
(相手)「ダメ、教えられない」
(私)「何故?自分の人生なのに・・・」
(相手)「多くの人間がそれを知ったことを後悔し、残りの人生を台無しにしてしまうはずだから」
(私)「なるほど・・・わからなくはないけど・・・それでも知りたい」
(相手)「後悔しないか?」
(私)「わからない・・・多分、しないと思う」
(相手)「では特別に教えてやろう・・・お前の死期は○年○月○日だ」
(私)「え?・・・ということは、あと○ヵ月?・・・意外と早いんだな・・・」

その夢は、それで終わった。
夢の中では「○年○月○日」と正確な年月日が示されたのだが、その数字は憶えていない。
ただ、余命はそう長くなかったことは感覚的に憶えている。
それは、確か、年内・・・それはほんの数ヶ月後だった。

余命が数ヶ月だと知って、嘆き悲しむ人は多いだろうか・・・
しかし、夢の中の私は、それに驚いたり悲しんだりすることはなかった。
それどころか、「そんなもんで済むのか・・・」と、なんだかホッとしたのだった。
そして、夢から醒めた私は、その安堵の気持ちに、自分のことながら妙な気持ち悪さを感じたのだった。

この夢が、果たして単なる夢なのか、何らかの予兆か、誰にもわからない。
ただ、“死ぬ”ということは確実。
単に、いつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくないだけで。
だから、常日頃からそこそこの身辺整理と心辺整理を心がけたいと思う。
強欲の虚しさを知るために、心の軽さを知るために、今という時間の味を知るために。



消臭消毒(特殊清掃)の相談が入った。
「死後二週間くらい」「かなりクサイ!」「近隣住人が困っている」「どうすればいい?」とのこと。
依頼者は、当アパートを管理する不動産会社。
近隣住民からの苦情に、困っている様子。
私は、「部屋に立ち入るに際し遺族や保証人の許可を事前にとっておいてほしい」「そうでないと、やれることがかなり制限される可能性がある」「ある程度の改善は見込めるけど、悪臭をただちに完全除去するのは難しいと思う」と回答。
そうは言っても、現場を見ずして事は進まないので、とりあえず現場に行く約束をした。

「結構きてるな・・・」
現場は、郊外の繁華街に建つアパートの二階。
風向きによってはアパートの敷地外・・・離れた場所でもニオイは感じられた。
ただ、周辺を往来する一般の人は腐乱死体臭を知っているはずもなく、単なる不快臭として感じているものと思われた。
先に来て私の到着を待っていた担当者も弱り顔に二重のマスク。
挨拶もそこそこに部屋の鍵を私に差し出し、“自分は同行しなくてもいいでしょ?”といった意味を悟らせようとするかのように、ペコペコと頭を下げた。

「とりあえず、見てきますね」
担当者は、自社の管理物件にもかかわらず私を一人で部屋に行かせることに後ろめたさを感じたようで、どことなく気マズそう。
私は、恐縮する担当者が気の毒に思えて、場に合わない明るい口調と表情をもって平気であることを強調。
未知との遭遇を前にして内心は穏やかではなかったが、平静を装って二階への階段を駆け上がった。

「こりゃ、相当なことになってそうだな・・・」
嗅ぎなれた異臭は階段を上がる途中から感じられ、二階の共用廊下に着いた時点では、相当の濃度に。
ドアの前に立った私は、手元の専用マスクを顔に装着。
それから、預かった鍵をつかってドアを開錠。
ドアを開けるやいなや、私はその身体を室内に滑り込ませ、急いでドアを閉めた。

「失礼しま~す」
間取りは1DK。
小さめのDKにバス・トイレが併設。
トイレのドアは半開きの状態。
その隙間から、腐敗液が伸びた舌のようにその姿の一部をのぞかせていた。

「とりあえず、トイレだな・・・」
私は、誰の許可もとらず、土足のまま中へ。
脇目もふらずトイレに向かい、電灯のスイッチをON。
それから、半開きのドアを全開にし、中を覗き込んだ。

「ん・・・」
まず、目に飛び込んできたのは、限りなく黒に近い赤色の液体。
その腐敗体液はトイレの床のほとんどを覆い、中央の便器も360度それに取り囲まれていた。
更に、一部は故人の身体位置を表す紋様を浮かび上がらせ、私の気持ちと呼吸に重い負荷をかけてきた。

「しかし、こんなもんか・・・」
ハエが飛び交い、ウジが這い回る・・・
おびただしい量の腐敗液と腐敗粘土が床に残留・・・
ニオイのレベルから“ヘビー級”を想像していた私だったが、実際はそんなことなく・・・
床のほとんどは遺体腐敗液に占有されていたものの、それにたいした厚さはなく、また顕著な固形物の残留も見受けられなかった。
そんな状況に、私は、安堵する場面でないにもかかわらず、独特の安堵感を覚えた。

「随分きれいに片付いてんなぁ・・・」
部屋には一式の家財が置いてあったが、きれに片付けられていた。
ゴミはもちろん、細かな生活用品はほとんど見当たらず。
冷蔵庫も空っぽ、調理器具や調味料の類もなし。
生活感がなくなるくらいにまで物が減らされ、整理整頓されていた。

「汚れ自体はそれほどでもありませんが、やはりニオイのほうが・・・」
私が部屋にいた時間は、ほんの数分。
しかし、腐乱死体臭は私の身体にバッチリ付着。
室内の悪臭の凄まじさは、ウ○コ男になって戻ってきた私自身の身体が証明。
そんな私のニオイに担当者は驚きの表情を浮かべ、細かな説明をしなくても室内の臭気が悲惨なことになっていることを理解してくれた。


故人は男性。
年齢は50代。
死因は自殺。
「自殺」と聞いて、私の頭には部屋の様子が浮かんだ。
そして、故人は、自殺をはかるにあたって身辺整理をしたことが容易に想像された。
同時に、私の中の何かが冷たくなり、何かが熱くなった。
また、何かの力が削がれ、何かの力が加わった。
生の揚力と死の引力か、光の温かさと闇の冷たさか・・・その両端がハッキリと感じ取れた。

特殊清掃・一次消臭消毒作業は、そのままの流れで施工。
「ベテラン」なんて自称することではないけど、気づいてみればそれなりの熟練者になっている私。
慣れた作業に悪戦苦闘することはなかった。
ただ、
「どうして死んじゃいけないんだろう・・・」
「どうして生きなければいけないんだろう・・・」
そんな思いが頭を廻り、故人に対してではなく、社会に対してでもなく、そして自死に対してでもなく、とにかく無性に腹が立ってきた。
そして、同情や悼みではなく、悲しいような悔しいような気持ちがして泣けてきた。


自殺という死に方は、人生の負けを意味するものではない。
不戦敗を意味するものではない。
亡くなる人にはその人なりに、何らかの葛藤と格闘があるはず。
にも関わらず、“敗北”“逃避”のイメージがつきまとう。
その時の私は、そこに、ある種の悲しさや悔しさを覚えて涙したのかもしれなかった。

そして、
「俺は、あとどれくらい生きられるんだろう・・・」
「あとどれくらい生きなければならないんだろう・・・」
そんな葛藤を覚えたのだった。

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