特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

血の重荷

2024-03-28 13:39:42 | 猫屋敷
梅雨入りが迫ってきている今日この頃。
だんだんと蒸し暑くはなってきているけど、まだまだ過ごしやすい。
週末ともなると、朝は下り、夕は上り、行楽の車で高速道路は渋滞。
家族と共に楽しい時間を過ごすことは、人生の大きな幸せの一つ。
行楽に無縁の私にとっては他人事ながら、喜ばしく思える。


多くの人が共感してくれるだろう、「家族」っていいもの。
「打算や利害はない」とまでは言えないけど、ほとんど無条件で、愛し合い、助け合い、信頼し合い、堅い絆で結びつき合える間柄。

外の世界では、そんな人間関係、そう簡単に構築できるものではない。
しかし、その反動か、揉めやすいのもまた事実。
心の距離が近い分、遠慮や尊重がしにくく、怒りや憎しみの感情を抑えにくい。
傷害や殺人についても、他人同士より血縁者同士の方が多いといったデータもあるらしく、日々において、そんなニュースを見聞きすることも少なくない。

また、「血のつながり」を重視するのが日本人の民族性なのか、古くから「家系」とか「血統」とかいったものが大事にされる。
それに裏打ちされるように、先祖崇拝の思想も根強いものがある。
それを否定する理由はない。
ただ、懸念もある。
それは、「問題を起こした者の血縁者」というだけで敵視され、誹謗中傷の的にされるケース。
とりわけ、現代の情報過多・ネット社会においては、それが顕著になりつつあるのではないだろうか。
血がつながっているというだけで、他の人間に人生を狂わされる人は、思いのほか多いのではないだろうか。
声を上げられない当事者、上げた声が届かない社会、何とも言えない理不尽さを覚えざるを得ない。




特殊清掃の相談が入った。
電話の声は女性で、歳の頃は中年。
「兄が一人で住んでいた家なんですけど・・・」
「ろくに世話をしないままネコを飼っていまして・・・」
「ゴミもたくさん溜まっていて・・・」
女性は、誰かに詫びるような口調で、現場の状況を話してくれた。


「見たらビックリすると思いますよ・・・」
女性は、私に心の準備をするチャンスを与えてくれたが、私が、これまで経験したゴミ屋敷や猫屋敷は数知れず。
天井とゴミの隙間を腹這いにならないと進めないような部屋も、ネズミやゴキブリが走り回る部屋もイヤと言うほど経験済み。
ゴーグルしないと目を開けられないような、ガスマスクをしないと息もできないようなネコ部屋に遭遇したことも幾度もある。
「大丈夫ですよ・・・慣れてますから・・・」
私は、商売っ気を悟られない程度に親切な雰囲気を醸し出し、そう返答した。


出向いた現場は、郊外の住宅地に建つ一軒家。
「新興住宅地」というようなエリアではなく、一時代前に整備された、古びた住宅地。
立ち並ぶ住宅は、築三十~四十年は経っているようなものばかり。
また、今風の住宅地にくらべて、土地も家も小さめ。
隣家との間隔も狭く、窮屈な感じもするくらい。
それでも、販売当時はバブル期で、結構な値段がしたであろうことが伺い知れた。


私は、カーナビが示すポイントが近づくにつれ、車のスピードを落とし徐行。
区画整理された地域は番地通りに家が並び、目的の家はすぐに判明。
仮に、ナビが目的の家をピンポイントに示さなくても、すぐに見つけられたはず。
それは、当家屋が異様だったから。
雑草や樹枝は伸び放題で、多くはなかったが外周には朽ちたガラクタも散乱。
荒廃した雰囲気に包まれており、そこが目的の「猫ゴミ屋敷」であることを家屋自らが訴えているように見えるくらいだった。

私が到着したのとほぼ同時に依頼者の女性も現れた。
電話で関り済みだったので、初対面のときほど回りくどい挨拶は省略。
短く言葉を交わした後、玄関へ近づき、女性がドアを開錠。
「私は入らなくていいですか?」
と訊ねる女性に、
「大丈夫ですよ」
と返し、女性と私は立ち位置を入れ替わった。

「では、お邪魔します」
私は、ゆっくり玄関ドアを引いた。
すると、覚悟していた通り、中からはネコ屋敷特有の刺激臭がプ~ン。
私は、少し離れた後方にいる女性に背中を向けたまま、正直に表情をゆがめた。
同時に、薄暗い奥に視線を送り、溜息と異臭を交換しながらの浅い呼吸を繰り返した。

とにもかくにも、そのまま嫌気に従っていても何も進まない。
女性は、
「そのまま・・・靴のままでどうぞ・・・たいぶ汚いですから・・・」
と気を使ってくれた。
言われるまでもなく、靴を脱ぐつもりはなかった私は、
「靴の上にシューズカバーを着けますので」
と説明。
もちろん、それは、家が汚れないようにするためではなく、靴が汚れないようにするため。
ただ、そんな無神経なセリフは吐かず、黙ってポケットからラテックスグローブとシューズカバーを取り出し、両手両足にそれぞれ装着した。


屋内は一般的な間取り。
1Fは、玄関土間、廊下、和室、リビング、DK、トイレ、洗面所、浴室など。
階段を上がると、和室か洋室かわからない部屋が二つと小さなトイレ。
決して豪華でもなく、広々としているわけでもなかったが、かつては、庶民的な一家が、身の丈に合った生活を平和に楽しんでいたことが伺えるような造りだった。

ただ、それは遠い 遠い昔の話。
家の中は、ありとあらゆるところ、猫の糞・尿・毛・爪跡などで汚損。
もちろん、人間用の家財生活用品はあるのだが、もう、ほとんどは酷く汚染された状態。
内装建材も著しく腐食し、糞が厚く堆積しているところも多々。
リビングのソファーをはじめ、糞に埋もれているモノも少なくなかった。
全滅・・・家自体が猫のトイレ、肥溜め・・・
もちろん、充満するニオイも強烈。
身体のことを思えばガスマスクを着けた方がいいくらい。
ただ、それでも、異臭濃度は目に滲みる程ではなく、見分も短時間で済ませるつもりだったため、私は、終始、不織布マスクで家の中を歩き回った。

「これで、よく生活できるもんだな・・・」
「フツーなら身体を壊すよな・・・」
“呆れる”というか“不思議”というか、もっと言うと“奇怪”というか・・・
こんな不衛生極まりない状況で生活するなんて、容易に信じられるものではない。
似たような現場をいくつも見てきた私だったが、ここでも同じような思いが沸々。
しかし、そういう人は現実にいるわけで、私は、そこのところに不思議さを感じざるを得なかった。

一通り見て回った私は、女性が待つ外へ。
女性は玄関を離れた駐車スペースで、私が出てくるのを待っており、開口一番、
「どうでした? ヒドイでしょ!?」
と訊いてきた。
お世辞にも「そうでもない」とは言えない状況で、私は、
「そうですね・・・かなりヒドいですね・・・」
と正直に返答。
そして、飼われていた猫が二~三匹でないことは一目瞭然ながら、
「何匹くらいの猫がいたんでしょうか」
と訊ねた。
「本人の話からすると、おそらく、二十~三十匹くらいはいたと思われます・・・」
と、一段と表情を暗くし、また、気マズそうにそう応えた。


この家は女性の実家。
もともとは女性の両親と当人(女性の兄)と女性が四人で暮らしていた。
最初に家を出たのは女性。
結婚して他に家を持ったのだ。
次はいなくなったのは父親で、それほど高齢ではなかったが病気で他界。
それからしばらくは母親と当人が二人で生活。
大きな問題はなく過ごしていたが、母親も歳には勝てず。
身体が衰え自立した生活が困難に。
そうは言っても、当人に母親の世話をする力はなし。
母親は老人施設へ入所し、それから、当人は一人暮らしに。
しばらくして母親も他界し、当人の暮らしは荒れていく一方となったようだった。

母親が家にいる頃は、時折、女性も実家に顔を出していた。
ただ、消して兄妹仲が良かったわけではなかった。
で、当人が一人暮らしになって以降は、女性は実家を訪れることもなくなった。
両親がいなくなってしまうと、当人とやりとりしなければならない用も、縁を保っておく必要もなくなり、当人とは関わらないでいる方が女性は平和に過ごせるのだった。

そんなある日、当人は体調を崩し入院。
その旨の連絡が女性に入り、とりあえず見舞いに出向いた。
久しぶりの再会だったが、懐かしさや情愛はなく、ただ、妙な不安ばかりが頭を過った。
案の定、入院に関する身元引受人や入院費用の支払いに関する保証人にならざるを得なくなった。
女性にとっては、それだけでも充分に厄介なことだった。
しかし、残念なことに、その後、もっと大きな問題に遭遇することに・・・「猫ゴミ屋敷」となった実家に肝を潰すことになるのだった。

当人が猫を飼い始めた時期やキッカケについて、疎遠だった女性は知る由もなし。
勝手な想像だが、母親がいなくなり一人暮らしとなった当人は、淋しかったのかも。
唯一、自分を必要としてくれ、自分に関心を寄せてくれた両親は亡くなり、誰からも必要とされず、誰からも関わってもらえず・・・
そんな中に現れたのが野良猫。
不憫に思って餌を与えているうちに猫も懐いてきたし、深い情も湧いてきた。
そんな猫が心の隙間を埋めてくれたのか、世話を焼いているうちに、野良猫仲間が集まり、それらが仔を産み・・・
いい歳になるまで母親が世話を焼いてくれていた中年男に家事の一切がキチンとこなせるわけもなく、ただでさえ荒れる一方だった家を、猫が更に荒らしていった・・・
そして、当人もそれに慣れていき、結果として、収拾のつかない事態に陥ってしまっていたのではないかと思われた。


我々が表で話していると、その気配に気づいたのか、近所の人らしき人が近づいてきた。
また、それを窓から覗き見していたのか、それは二人三人と増えていった。
ほとんどは「野次馬」だと思われたが、その表情と物腰は「被害者」。
女性に対して乱暴な口をきいたり横柄な態度にでたりする人はいなかったものの、皆が一様に「迷惑していた!」と言う。
対して女性は、「申し訳ありません・・・」と、泣きそうな顔になりながらペコペコと頭を下げるばかり。
悪いのは当人で女性が悪いわけではないのに、私は、ダメな船頭のように小さな助け舟さえ出せず、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

近隣住人の中には不満を抱えていた人も多かったようだったが、当人に直接注意する者はおらず。
当人は“常軌を逸した人間”と思われていたようで、ある種、恐れられていた風でもあり、そんな人間を相手に何か言ってトラブルになっては困るし、逆恨みされて、危害を被っても損。
近隣数軒で話し合って行政に掛け合ったこともあったものの、行政が腰を上げることはなく、結局、泣き寝入ったまま今日に至っていた。

当家屋には、たくさんの猫が出入りする様子はもちろん、時折は、当人が出入りする姿も目撃されていた。
食料など生活必需品の買い出しや、その他に、外に用事もあったはずだし、仕事に出掛けるように見えたときもあった。
ただ、人と会っても視線を合わせることもせず、挨拶もせず。
誰もいないかのように黙って通り過ぎるのみ。
一方の近隣住民も同様。
遠ざかることはあっても近づくことはなく、横目で好奇の視線を送るだけで声を掛けることはなかったようだった。

長い間、猫ゴミ屋敷に我慢を続けていた近隣住民。
正直なところ、当人がいなくなってホッとしたはず。
その上、当人がいなって以降、自然と猫もいなくなっていったわけで、これも近隣にとっては何よりのことだった。
「退院したら、ここに戻って来られるんですか?」
近隣住民は女性にそう訊いたが、その心の声が“戻って来てほしくない!”“戻って来させるな!”といったものであることは、誰の耳にも明らかだった。
「まだ、何も決まってなくて・・・どちらにしろ、家がこんな状態じゃ戻りようがありませんから・・・」
と、ホトホト困った様子で言葉を濁す女性を、私は、ただただ気の毒に思うしかなかった。

そうは言っても、こんなことになってしまった家の始末をつけるのは一朝一夕にはいかない。
汚物の処分や掃除で片付くレベルはとっくに越えている。
常人が常識的な生活をしようとすれば、部分的なリフォームでは足りず、もう建て替えるしかない。
とは言え、当人がそれだけの財を持っているとは到底思えず。
かと言って、女性が負担できるものでないことも明らか。
女性は苦悶の表情を浮かべながら、涙目で宙を見つめるばかりだった。

当人が、どう生計を成り立たせていたのか、日常の付き合いがなかったものだから、詳しいところは、女性も把握しておらず。
色々な状況から推察するに、定職には就かず、派遣やアルバイトなどで生計を成り立たせていたよう。
家屋敷をはじめ、それなりの財産を親から相続したそうだったが、食費、水道光熱費、被服費、生活消耗品費等々、食べていくには相応の金がかかるし、税金や社会保険料だって負担する責任はある。
猫の餌代だってバカにならなかったはず。
消費者金融などからの危ない借金がなかったのが不幸中の幸いだったものの、当人が猫達とともにギリギリの生活をしていたことは容易に想像できた。


色々なことが検討され、色々な可能性が模索されたが、結局、再生不能の家は売却処分されることに。
状況が状況だけに、また、古びた住宅地につき、期待するような値段にはならないことは覚悟のうえだったが、それでも、まとまった金銭を得ることはできるはず。
当人は、その売却代金をもって新たな住居を探すほかなく、となると、賃貸物件になるわけで、「定職に就いていない」「安定した収入がない」ということがネックになるはずだったが、そこのところは、役所や慈善団体を頼るか、まとまった前家賃で手を打ってもらうしかない。
その上で、派遣でもアルバイトでもできるかぎり仕事をして、できりかぎり慎ましい生活を心掛けるしかない。
それで、どれだけ食いつないでいけるものかどうか、女性も測りかねていたが、思いつく策は他になかった。

「もう、それ以上は、面倒みれません・・・」
「あとは自己責任で生きてもらうしかありません・・・」
女性は、自分の肩に圧し掛かる重荷を振り払うようにそう言った。
そして、
「血がつながっているばっかりに・・・」
と、やり場のない怒りと悲しみを過去にぶつけようとするかのように深い溜息をついた。

そんな女性を気の毒に思いつつも、私は、その傍らに黙って佇むことしかできず。
生きていくことの重さを今更ながらに思い知らされる場面となったのだった。
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最期に向かって

2023-05-31 08:07:28 | 遺品整理
“生”と“死”は常に隣り合わせ、表裏一体。
病気、事件、事故、戦争、天災などで、日本や世界のあちらこちらで、毎日毎日、多くの命が失われている。
そして、それを伝えるニュースも日常に溢れている。
しかし、生きている我々は、“死”を縁遠いもののように錯覚している。
それが生存本能というヤツなのかもしれないし、そうしないと前向きに生きられないのかもしれない。

そうは言っても、“死”は、病人や高齢者だけにかぎったことではなく誰にでも訪れる。
ある日突然か、自分が想像しているより早いか、自分が覚悟しているより遅いか、たったそれだけの違いがあるだけで否が応でも。
一般的には、健康長寿をまっとうし、終活をキチンと済ませた上で“コロリ”と逝くのが理想と言えようか。
ただ、多くの人が思い知らされているように、人生なんてものは、そんな生易しいものではない。
人生はもちろん、死期も死に方も、なかなか思い通りにはいかない。
そんな荒道を、どれだけ頑張って、どれだけ辛抱して歩いていくか、そして、どれだけ真剣に最期に向かっていくか、それが“生”の課題なのかもしれない。



遺品整理の相談が入った。
声から判断するに、電話の主は老年の女性。
「身内が亡くなったので、部屋の家財を処分したい」とのこと。
そうなると、まずは、現地調査が必要。
その上で、見積金額と作業内容を提案することになる。
私は、そのことを説明し、私と女性 双方の都合を突き合わせて、現地調査の日時を定めた。

約束の日、私は、教わった住所に車を走らせた。
到着した現場は、街中に建つ小規模の賃貸マンション。
広めの通りに面した一階は店舗、二階から上が居住用
必要に応じてメンテナンスは入れていたようだったが、外壁の仕様は時代遅れ。
地味な色合いの塗装も「シック」というより「安っぽい」といった感じ。
そろそろ寿命がくることを考えた方がよさそうな老朽建築だった。

建物の前で待っていると、約束に時間に合わせて依頼者もやってきた。
想像通りの老年の女性で、似たような年恰好の女性二人も同行。
聞くところによると、三人は姉妹で、亡くなったのは四人姉弟の末弟とのこと。
老齢ながらも、皆で故人(弟)の後始末のために奔走しているよう。
三人とも丁寧な物腰で、疲れた様子や不満げな表情は一切なく、三姉妹の関係が良好であることはもちろん、四姉弟の関係も良好であったことが伺えた。

現場は、二階の一室。
我々は建物の裏手に回り、薄暗い内階段を上へ。
建物は五階建だったが、エレベーターはなし。
二階だったからよかったものの、もっと上だったら女性達にはキツかったかも。
それでも、私は、女性達の足腰を気遣って、ゆっくりと階段を上がった。

目的の部屋につくと、女性の一人がバッグから鍵を取り出し開錠しドアを引いた。
玄関前の通路も薄暗かったが、明けたドアの先も薄暗。
主がいなくなった部屋のため どことなくヒンヤリとした空気が感じられたものの、電気は止められておらず。
私は、女性達に先に入ってもらい、蛍光灯をつけてもらった。
そして、「失礼しま~す」と、玄関で靴を脱いだ。

間取りは1DK。
玄関を入ってすぐのところが広めのDK。
DKの奥が六畳の和室でベランダはなし。
天井・壁はクロス貼ではなく塗装。
柱も剥き出しで、押入の戸は襖。
障子こそなかったが、窓はサッシではなく旧式の鉄枠窓だった。

玄関からむかって突き当りの窓辺にキッチンシンク。
玄関から右に折れる向きに進んだところが浴室・洗面所・トイレ。
バス・トイレ・洗面所は別々で、それぞれスペースにゆとりあり。
ただ、その設備はかなり古く、浴室はタイル貼で浴槽は昔ながらのバランス窯。
洗面台も旧式。
トイレもタイル貼で、便器は骨董級の和式だった。

言葉は悪いが、その古クサイ仕様が物語る通り、この建物は「築五十年余」とのこと。
そして、故人は、それに近いくらいの年月をここで生活。
他の部屋は住人が入れ替わるたびに、ちょっとした修繕は施されてきたようだったが、現場の部屋は、長年に渡って、故人が“住みっ放し”の状態。
時折は必要最低限の修繕をしてきたものの、他の部屋と同レベルのことはできず。
結果として、この部屋は、時間が止まってしまったかのようなレトロな佇まいとなっていた。

それだけの年数を暮らしていたわけだから、家財の量は多め。
日常生活で使うモノが各所に残されていた。
ただ、一般の部屋と比べて、この部屋の様子は違っていた。
部屋の隅々には、いくつものゴミ袋や段ボール箱が積み重ねられ、また、書籍や雑誌の類も、一定量がヒモで括られ山積みに。
それなりの生活用品は手近なところに置いてあったものの、まるで、どこかから引っ越してきたばかり、もしくは、どこかへ引っ越す直前のように整然としていた。


その訳は、“終活”。
生前、故人は終活に着手していた。
そして、そのキッカケになったのは・・・

数年前、故人の身体に掬っていた病気が発覚。
ちょっとした体調不良が発端だったが、当初、故人は「一時的なものだろう」「そのうちよくなるだろう」と甘くみていた。
しかし、その期待に反して状態は改善せず。
数か月後、重い腰を上げて病院を受診。
精密検査の結果、重い病気にかかっていることが判明した。

その後、入院となり手術も受けた。
術後は、軽等級ながら障害者手帳を受ける身体に。
それでも、退院後は元の生活に復帰。
当初は慣れない身体に悪戦苦闘したようだったが、「人に迷惑をかけたくない」「我が家で気楽に暮らしたい」との一心で、一人暮らしを継続。
そんな生活は、相当に難儀なものだったのだろうけど、本望を貫くべく、少々の無理をしてでもそれに自分を慣れさせていったことが想像された。

しかし、時は無情なもので、病に対する敗色は濃厚に。
少しずつではありながら身体は衰弱の一途をたどっていき、ただちに入院しなければならない程ではなかったものの、「元気」というには程遠い状態に。
そういう状況を心配した女性達(姉達)は、「私達もできるだけのサポートをするから」と、介護施設に入ることを提案。
しかし、故人は、「住み慣れた部屋で暮らしたい」といった願望が強く、女性達の提案に感謝はしつつも受け入れることはせず。
身体的には施設に入った方が楽に決まっていたが、“幸せ”とか“楽しさ”といったものは他人が測れるものではない。
結局、日常生活に大きな支障がでるようなら訪問看護・訪問介護を利用するということで姉弟の話し合いは決着した。

しかし、女性達には、「本人が望むのだから、それでいい」とは言い切れない不安もあった。
それは、孤独死。
若くない上、病弱である身体での一人暮らしでは、充分に起こり得る。
そして、場合によっては、別次元の問題を引き起こしかねない。
故人(弟)の意思を尊重してやりたいのは山々だったが、それは、目を背けることができない現実でもあった。

本音のところでは、そんな縁起でもないこと話したくはなかったけど、女性達姉弟は、そのことについても話し合った。
それは、女性達の情愛から出たもの。
だから、故人にとって耳障りで不快な話題ではなかったはずだったが、ただ、淋しく切ないものではあったかもしれなかった。
しかし、結局のところ、故人にかぎらず、“死”に抗える人間はいないわけで、それについて故人も反論はできず。
結論が出ない中でも、最期と真剣に向き合う覚悟を決めざるを得ないことは、皆にとって暗黙の認識となった。

意外にも、故人が訪問介護を利用するようになったのは、それからすぐのこと。
かかりつけの病院に相談し、故人は、テキパキとその手筈を整えた。
女性達は「人の世話にはなりたがらないから、しばらく先のことになるのではないか」と考えていたようだったが、やはり、故人の頭からは「孤独死」という不安が離れなかったよう。
話の経緯からすると、「死を恐れて」というより「人に迷惑を掛けることを恐れて」といったことが理由だと思われた。
そして、これも、最期にできる、女性達に対する故人の思いやりの一つだったのかもしれなかった。

「墓に衣は着せられぬ」
訪問介護を受け始めたのと同時に、故人は、“終活”を開始。
遺言書を書き、保有する財産や貴重品類もわかりやすく整理。
また、少しずつでも、日常生活で不要な家財を処分することに。
生活に必要なモノとそうでないモノを分別。
要るモノは最小限に、要らないモノは最大限に、ゴミ袋や段ボール箱に詰めていった。
これもまた、最期にできる、女性達に対する思いやりの一つだったのかもしれなかった。


それから、しばらくの月日が経ち・・・
ある日の夜、故人から女性に電話が入った。
「このところ、一段と具合が悪い」
「食事も満足に摂れなくなってきた」
「今すぐどうこうはないにせよ、“そろそろ”かもしれない・・・」
それは、いつになく弱気な言葉で、ある種の覚悟を胸に抱かせるものだった。

覚悟していたものの、“別れ”が現実味を帯びてくると、女性は大きく動揺。
そして、他の姉妹にも連絡をとって、翌日早々に故人宅を訪問。
ただ、訪問介護のヘルパーが世話してくれているお陰か、心配していた程には衰弱しておらず。
また、部屋も荒れておらず。
しかし、どちらにしろ、一人暮らしの限界が間際まで近づいていることは明らか。
案の定、かかりつけの病院に診てもらうと、近日中に入院しなければならなくなった。
そして、入院後、幾日かして、誰もが、いずれまた自宅に戻れることを信じて疑っていなかった中で、故人は静かに息を引き取ったのだった。


晩年の故人は、諦念の想いを自分に言い聞かせるように「仕方がない・・・」と溜息をつくことが多かったそう。
「どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか」
「何の因果? 何かの罰?」
降りかかった災難に対する理由を求めたのか・・・
が、そんなことわかるはずはない・・・
ただ、現実を受け入れるしかない・・・
そうやってたどり着いた想いを「仕方がない・・・」という言葉に集約させていたのだろう。

行年は六十代半ば。
平均寿命と比べると、まだまだ若い。
良縁に恵まれなかったのか悪縁しかなかったのか、生涯独身で妻子はなし。
独り身の身軽さからか、家庭持ちの人に比べて、自由に使える金は多かったよう。
両親はとっくに他界し、最も近い血縁者は女性達三人の姉。
女性達はそれぞれに家庭を持っていたが、故人は、盆暮の贈物や土産物をはじめ、幼少期から大人になるまで甥や姪にも小遣いを渡し、何かにつけ当人達が喜びそうなモノを買い与えてくれたそう。
自分に家庭がない分、女性達家族のことを大切にしてくれ、当の故人も嬉しそうにしていたそう。
また、常々、「姉さん達には迷惑かけないようにしないとね・・・」と言っており、健康にも気をつかっていた。
酒は飲まず、タバコも吸わず。
食生活が偏らないよう外食を控え、適度な運動を心掛け、適正体重を維持することも怠らなかった。

それでも、大病を患ってしまった。
皮肉なことに、節制していたからといって病気に罹らないわけではない。
不摂生な人がいつまでも元気でいることもよくある。
「運命」「宿命」「摂理」・・・人知を超えたところにその理由があるのかもしれないわけで、最新の医療や科学をもってしても人間ができることは小さい。
よく「現実を受け入れるしかない」と言うが、「自分を任せるしかないない」といった方が合っているかもしれない。
そのときの故人の心境を想い測ると、溜め息がでるような同情心と、他人事にできないゆえの切なさと淋しさが湧いてきた。


そこは、病気を患った故人が一人で暮らしていた部屋。
衰えた身体で不便なことも多かったことだろう。
身体に痛みを、心に傷みを覚えたことも少なくなかっただろう。
そんな中、一人きりの部屋で、不安や恐怖心に苛まれたか、悪事や不出来を悔いたか、想い出や懐かしさに笑みを浮かべたか・・・
遠くない将来に訪れるであろう最期に思いを巡らせたことは一度や二度ではなかったはず。

消したくない生活感と消さなければならない生活感を対峙させながら整理を進めた部屋・・・
雑多なモノが詰められたゴミ袋、荷物が入れられたダンボール箱、括られた書籍・・・
それは、思うように身体が動かせない中で、故人が自分の最期を見越してやった終活の跡・・・
故人に対する女性達の情愛が、ヒンヤリと感じられていた部屋の空気をあたためたのか、それは、急に故人が現れ、何事もなかったかのように終活作業を続けてもおかしくないくらいリアルに“生”が感じられる光景だった。

私は、故人の生前の姿を知る由もなかったし、見えるわけもなかった。
が、自分なりに最期まで生きた故人の姿がそこにあるような気がした。
そして、「俺も、その時が来たら、狼狽えることなく真剣に最後に向かいたいもんだな」と、口を一文字に結び、小さくうなずいたのだった。


お急ぎの方は0120-74-4949
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偽善意

2023-05-18 07:43:29 | 腐乱死体
もう、二十年も前のことになる。
私は、会社近くの賃貸マンションで暮らしていた。
駅近で立地はよかったのだが、その分、家賃は高め。
併せて、色々な事情があり、岐路に立たされ、人生は、入居時には想像できなかった方向へ進み、結局、たった一年で転居することになった。

そこで、不本意かつ不愉快なことが起こった。
それは、部屋の原状回復についてのこと。
ゴミを溜めていたわけでもなければ、掃除もキチンとしていた。
タバコも吸わなければ、動物も飼っていなかった(迷い犬を一時的に保護したことはあったけど)。
にも関わらず、退去時、預けていた敷金はまるごと没収され、追加の原状回復費用まで請求されてしまった。


「たった一年しか住んでいないのに・・・」
納得できなかった私は、不動産会社に説明を求めた。
しかし、
「居住期間を問わず、退去時には一律に請求させてもらうことになっているので」
と、無碍の一言。
その後、何度かやりとりしたが、納得のできる説明はなし。
結局、
「数万円で片付くなら・・・」
と、私は、イヤな思いをすることから逃れたくて、泣き寝入ったのだった。


似たような事案は、仕事上でも、数えきれないくらい遭遇している。
賃貸物件を退去する際の原状回復についてはトラブルになることが多い。
貸主(大家・管理会社側)からすると、部屋の原状回復にかかる負担は少しでも軽い方がいい。
つまり、できるだけ借主に負担させたいと考える。
一方、借主(住人側)からすると、その負担は軽い方がいい。
そういった利害が対立することで、退去時のトラブルに発展するのである。

賃貸物件は借物なのだから、善良な管理者としての注意義務を負って使用しなければならない。
言い換えれば、「社会通念上“当然”とされる良識をもって丁寧に使わなければならない」とうこと。
逆に言うと、「通常使用による損耗や経年による劣化は借主に責任はない」ということにもなる。
ただ、発生した損耗が通常使用によるものなのか、また、発生した劣化が経年によるものなのか、結局それを判断するのは人の感覚。
損耗や劣化を「当然」「自然」とみるかどうか、「悪意」「怠慢」とみるかどうかで着地点は変わる。
孤独死現場やゴミ部屋・ペット部屋など、借主が良識をもって使用していなかったことが明らかな場合を除いて、双方で客観的・公正にそれをジャッジし着地させるのは難しい。

前記の汚損事例を当社では「特別汚損」と称しているが、「孤独死」は借主(住人側)にとって分が悪い。
遺体が腐敗してしまうと尚更。
誰もが「不可抗力」とわかりつつも、原因をつくったのか借主であることはハッキリしており、「借主に責がある」とみなされる。
自然死でもそうなのだから、死因が自殺となれば尚更そうで、貸主に対して抗弁の余地はなくなる。



「管理しているマンションで孤独死が発生した」
「退去立ち合いのため遺族と現地で会う予定」
「我々だけでは判断できないことがあるかもしれないので、それに合わせて来てもらえないだろうか」
と、何度か取引をしたことがある不動産管理会社から現地調査の依頼が入った。
担当者は、そこで住人が孤独死したことのみ把握。
死因をはじめ、亡くなってから発見されるまでの経緯や時間、汚染や異臭についての情報は一切持っておらず。
ただ、遺族の態度や様子から、“一筋縄ではいかなそう”といった不安を感じているようだった。

訪れた現場は、街中に建つ賃貸マンション。
約束の時刻より早く着いた私は建物前で待機。
ヒマつぶしに建物の外観を観察。
窓やベランダの構造から想像するに、そこは単身者用のマンションで、間取りはすべて1K。
そうこうしていると、程なくして、管理会社の担当者二名が現れた。
どこかで時間調整をしていたのだろうか、二人とも、約束の時刻ピッタリに。
私は、こちらに歩いてくる二人に視線を合わせて会釈。
表情がわかるくらいまで近づいたところで、社交辞令の笑顔と共に言葉を交わして挨拶をした。

遺族もじきに現れるものと思っていたが、「先に部屋に入っている」とのこと。
我々三人は管理キーを使ってオートロックをくぐり、エントランスの中へ。
そのままエレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押し、目的の部屋を目指した。

部屋の玄関ドアは既に開いていた。
訪問のマナーとしてだろう、それでも、担当者はインターフォンを押した。
すると、即座に中から応答があり、中年の男性が出てきた。
笑顔を浮かべる場面ではないのは当然ながら、その表情は、強張った感じ。
男性は寡黙で、短い挨拶の言葉以外、一言も発さず。
抱える緊張感がビンビンと伝わってきた。

我々は小さな玄関に脱いだ靴を揃えながら中へ。
玄関を上がると、まず通路。
その左側には下駄箱兼収納庫とミニキッチンが並び、右側には洗濯機置場とユニットバス。
その奥が六畳程度の洋間。
そして、突き当りの窓の向こうには、狭いながらも生活で重宝しそうなベランダ。
見晴らしも陽当たりも良好。
駅も近く、周辺には店も多く、「高級」という程ではないものの、やや贅沢にも思えるくらいのマンションだった。

我々が集合した用向きは、「部屋の退去・引き渡し」だったため、当然、室内に家財はなく空っぽ。
また、部屋も水周も、少々の生活汚れがあっても然るべきところ、きれいな状態。
どうも、一通りのルームクリーニングをやったよう。
部屋を退去する際の礼儀としては充分過ぎるくらい・・・見方を変えると、ちょっと不自然に思えるくらいきれいだった。

ただ、そこは孤独死があった現場。
で、違和感を覚えることがいくつかあった。
それは、暑くもないのに玄関や窓が全開であったことと、ユニットバスとキチンの換気扇が回りっぱなしだったこと。
そして、人工的な芳香剤臭が強めに感じられたこと。

その状況から、私はすぐに“ピン!”ときた。
それは、異臭対策。
部屋に異臭があるからこその対策。
「異臭がある」ということは、「遺体は腐敗していた」ということ。
「腐敗していた」ということは、「汚染があった」ということ。
「汚染があった」ということは、「汚染部からは強い異臭が出ている」ということ。

訊きにくいことだったが、私は、男性に故人が倒れていた場所を質問。
すると、男性は、
「部屋のどこからしいんですけど、詳しいことはよくわかりません」
と返答。
男性は、遺体があった状態の部屋を見ていないようだったので、まずは得心した。
が、考えてみると、状況を警察から聞いた可能性は高い。
にも関わらず、「わからない」と言うのは、何とも不自然。
そうは言っても、「知らないはずないでしょ?」と問い詰める権利が自分にないことは百も承知だったので、私は、これからやるべきことを考えつつ、それ以上のことは訊かなかった。

結局、玄関から台所、ユニットバスにかけて一か所一か所を確認することに。
私は、どこかに汚染痕がないかどうか、部屋のあちこちを凝視。
また、ときには四つん這いになって、方々の床に鼻を近づけ、犬のように隅から隅へとニオイを嗅いで回った。

すると、台所と部屋の境目付近の床で強い異臭を感知。
同時に、不自然な変色も。
一見すると見落としそうになるくらいのものだったが、よくよく見ると、床の一部がわずかに暗色になっており、その部分の目地にも妙な汚れが浸みついていた。
ニオイの種類といい、変色といい、経験上、私にとっては、それが腐敗遺体の汚染痕であるとするのがもっとも合理的な判断だった。

とは言え、男性がいるその場では、具体的なコメントは避けた。
それが、男性に対する私なりの最低限の礼儀だった。
で、部屋の見分を終えた私は、担当者に声をかけ、男性を部屋に残し、一旦 外へ。
そして、「あくまで個人的かつ主観的は所感」と前置きした上で自分なりの見解を伝えた。

それは、
「故人は、台所と部屋の境目付近に倒れていた」
「発見が遅れ、遺体は酷く腐敗していた」
「表向きには分かりにくいが、腐敗遺体液は床材に浸透し、下地まで汚染されている可能性がある」
「外部の空気が通っている間は感じにくいが、部屋を密閉すれば強い異臭が感じられるはず」
といったものだった。


管理会社が私に求めてきたのは、部屋の原状回復についてルームクリーニングのみで済むのか、内装の改修工事や設備の入れ替えが必要なのかどうか、仮に内装設備の改修が必要な場合、どの程度の工事が適切なのか等の関する意見。
その管理会社(貸主側)は、私にとっては“客”。
しかし、偏った意見を言うつもりはなかった。
忖度なく、あくまで、客観的に、公正に判断するつもりでいた。
ただ、部屋には、通常の生活では発生しようがない種類の内装汚損があり、特有の異臭が残留。
通常使用では起こり得ない状況があったわけで、それが現実であり事実。
男性(借主側)に責があるのは明白。
私に悪意はなかったのは当然ながら、結果として、男性にとって不利な意見ばかりを並べることになってしまった。

一方で、男性の保身に走りたい気持ちも痛いほどわかった。
この類の補償や賠償については、世間一般に認知されている「適正価格」や「標準価格」といったものがないから、不安は尽きなかったはず。
「そこで住人が亡くなっていた」という事実は覆せないにしても、部屋の汚損や劣化は「日常生活における通常損耗」として決着させたかったに違いない。
そのために、男性達遺族は、素人ながらに、精一杯の原状回復を試みたはず。
汗をかき、涙をのみながら、市販の物品と自分の手を使ってできるかぎりのことをやったはず。
愛する娘が使っていた家財を片付け、遺体汚染を掃除し、手強い悪臭と格闘し・・・
懐かしい想い出と、深い悲しみと、後始末のプレッシャーと、事後補償の不安・・・
ただ、残念ながら、内装建材は相応に傷んでおり、その汚染は、素人の清掃で片付くほど軽いものではなく・・・
先の見えない金銭的負担や精神的負担について際限のない不安に襲われながらの作業が、どんなにツラいものであったか、想像すると気の毒で仕方がなかった。

結局のところ、フローリングは下地ごと、天井壁クロスの全面的な貼り替えも避けられそうになかった。
もちろん、本格的な消臭消毒も。
原状回復させるにためには、他に選択肢はなかった。
そして、かかる費用のほとんどは遺族が負担することになるはず。
ただ、私の見解があってもなくても、早かれ遅かれ、内装汚損と異臭の問題は明らかになったはず。
だから、男性に対して申し訳ないことをしたといった感覚はなかった。

内装の汚損も残留する異臭も、それに見合った工事や作業で片付けることはできる。
物理的には、それで原状回復は実現できる。
しかし、そこで起こった「孤独死」「遺体腐敗」といった事実まで消すことはできない。
夢幻の出来事にしたくても、「事故物件」「瑕疵物件」という事実は残る。

これは、貸主にとっても借主にとっても、大きな損害となる。
しばらくの間、当室の家賃は従来額より引き下げざるを得ず、場合によっては、それは現場となった部屋だけでなく、隣の部屋や建物全体にも影響する。
そしてまた、それは死因によって・・・「自然死(病死)」なのか「自殺」なのかによっても大きく異なる。
その訳を言葉で表すのは難しいが、人々が抱く嫌悪感や恐怖心は自殺の方が大きい。
言うまでもなく、その分、その後の補償も膨らむ。

そこに暮らしていたのは、男性の娘で歳は二十代後半。
肉体が腐敗するまで発見されなかったことを考えると、「無職」またはそれに近い身の上だったのか・・・
浅はかな偏見なのだが、若年者が孤独死する原因として「病気」は浮かびにくい。
「病死」と並行して「自殺」という二文字がどうしても過ってしまう。


「死因も確認した方がいいと思いますよ」
一通りの見解を述べた私は、担当者へそう言いかけた。
しかし、咄嗟に、その言葉を呑み込んだ。
何かしらの理性に制止されたわけでも何かしらの正義が過ったわけでもなかったが、思わず口をつぐんだ。
故人に対する同情でもなく、男性に対する優しさでもなく、ただ、自分が嫌な思いをしないため、自分が悪者になりたくないがために口を閉ざしたのだった。

ただ、その時点で、私がそのことを口にしようしまいが、結果は変わらなかったはず。
どちらにしろ、先々は、家賃補償の問題も浮上するはず。
併せて、死因についても。

私ができたことと言えば、死因が自殺でなかったことを願うことのみ。
ただ、これもまた、一時的な感傷、穢れた自己満足・・・
この一生につきまとう、「私」という人間の本性を表す乾いた偽善意なのではないかと顧みるのである。


お急ぎの方は0120-74-4949
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生くあて

2023-05-08 08:24:20 | その他
三年ぶり・・・
コロナ規制が大幅に緩和された今年のGWは、季節外れの暑さも手伝って、多くのところで盛り上がりをみせたよう。
ニュースが伝える各所の盛況ぶりは、コロナ禍について、悪い夢でも見ていたかのような錯覚を覚えるくらい。
そして、新型コロナウイルスも、「危険性がもっとも低い」とされる五類に引き下げられた。
ただ、引き続き、高齢者や基礎疾患のある人への配慮は必要だし、後遺症に苦しんでいる人も少なくないらしいから、まるっきり過去の禍として忘れていくわけにはいかないと思う。
また、倒産・失業、そして病死、この禍によって、取り返しのつかない事態に陥った人も少なくない。
社会経済や世の中が息を吹き返そうとしているところに水を差すようなことを言うのはナンセンスだとわかりつつも、諸手を挙げて喜ぶことはできない。
この社会には、いまだ、多くの弱者がいることも忘れてはならない。

物価も上がりっぱなし。
一部では賃金が上がっているところもあるらしいが、実質賃金は低下の一途。
選挙を意識して行われる“バラマキ”も、ほとんど焼け石に水。
本音のところでは「その場しのぎ」のつもりなのかもしれないけど、その場さえしのげていない感が否めない。
結局のところ、気前よく撒かれる金の原資は借金なわけで、そのツケは、我々の注意が他に逸れた頃合いを見計らって、増税や社会保障の圧縮といったかたちで回ってくる。
「一億総中流」と言われていた時代は遠い過去のもの。
このままだと、「一億総下流」といった事態にもなりかねない。

ただ、いつの世にも富裕層はいる。
その一部には、既得権益によって甘い汁を吸っている人もいるのだろうが、それを恨むのは筋違い。
もともと、人間とは、そういう性質(欲)を持った生き物であり、この社会は、そういう生き物によって構成されているわけだから、この社会が“弱肉強食”になり、封建的になるのは当たり前のこと。
搾取される側だから不満を覚えるわけで、多くの人間は、搾取する側になればそれを推すだろう。
で、私は、搾取される側の人間だから、こういったネガティブな論調になっているわけだ。

それはさておき、この先、この日本は、この世界は、どうなっていくのだろう。
残念ながら、大半の庶民にとって、この社会は、生きにくくなっていく一方のような気がしてならない。
とは言え、問題はあまりに大きすぎ、多すぎるため、選挙権を行使しても納税の義務を果たしても何も変えることはできない。
講じることのできる具体策はなく、できることと言えば、ただただ、政治家や専門家の机上の空論でお茶を濁すことくらい。
それで、事が解決するわけではないことを知りつつ、「なんとなかる」「なるようにしかならない」と都合の悪いことは深く考えないようにして放り投げるしかないのかもしれない。



「今回は、孤独死とかではないんですけど・・・」
付き合いのある不動産会社から、一本の電話が入った。
「“夜逃げ”とでも言うんでしょうか、住んでいた人がいなくなりまして・・・」
担当者は、自分が悪いわけでもないのに、やや言いにくそう。
「一通り探してはみたんですけど・・・」
まるで、誰かに言い訳をしているかのよう。
「いなくなって数か月経ちますし、必要な手続きも終わったんで、そろそろ部屋を片付けようかと・・・」
溜息混じりに、用件を伝えてきた。

訪れた現場は、街中に建つアパート。
築年は古く、かなりの年月が経過。
それでも、日常のメンテナンスがキチンとされているのだろう、そこまでのボロさは感じさせず。
部屋の鍵は、現地に設置されたキーボックス内。
私は、不動産会社から知らされていた四桁の暗証番号にダイヤルを合わせた。

「悪臭」というほどではなかったものの、カビ臭いようなホコリっぽいような独特の生活臭がプ~ン。
間取りは1Kで、お世辞にも「きれい」とは言えず。
台所をはじめ、風呂やトイレ等の水廻りは、ロクに掃除がされておらず。
部屋の隅々もホコリまみれ。
本人が暮らしていた当時からそうだったのか、後に立ち入った第三者がそうしたのか、雑多なモノが散らかり放題。
「ゴミ部屋」という程ではなかったが、その予備軍のような状態だった。

「“失踪”ということだけど、本当は亡くなったんじゃないの?」
「あ、でも、俺にそんなウソつく理由ないな・・・」
「そうすると、やっぱ、失踪か・・・」
住人が亡くなっていようがいまいが、私には関係ないこと。
ただ、部屋が生命力を失い、また あまりにもモノクロに荒廃しているものだから、“住人の死”という、職業病的な考えが頭を過った。

とにもかくにも、余計な野次馬根性は仕事に無用。
やるべきことは、不動産会社の指示に沿って、粛々とことを進めるのみ。
「かかる費用は大家が負担する」とのこと。
想定外の負担を強いられることになった大家を気の毒に思いながらも、苦労しながら生きていたことが如実に伺える部屋を前には、失踪した当人を責める気持ちにもなれなかった。

残置された家財は少量ながらも、その中には色々なモノがあった。
男性の氏名、生年月日など、個人情報が記された書類。
消費者金融からの支払催促状や、不動産会社からの家賃滞納通知も。
古い免許証や何枚かの写真もあり、本人の顔も伺い知れた。
また、白い袋に入った何種類かの処方薬もあった。

その部屋に暮らしていたのは八十代の男性。
ここに入居したのは十数年前。
賃貸借契約の保証は保証会社が担い、身元引受人もおらず。
入居当時は仕事にも就いており、高額ではなかったが安定した収入があった。
家賃は銀行口座からの自動引き落としで、これまで何度か残高不足による遅払いはあったものの、完全な滞納はなかったそう。
ただ、近年は、仕事をしていたのかどうか不明。
どれだけの年金を得ていたのかも不明ながら、家賃滞納の現実を鑑みると困窮していたのは明白。
また、残された処方薬が示す通り、持病も抱えていたようだった。

あってもおかしくない雰囲気ながら、生活保護を受けていたことを伺わせるような書類は見当たらず。
「生活保護を申請すれば通っただろうに・・・」
「年齢も年齢だし、持病があったなら尚更・・・」
「それとも、頼れる身寄りがいたのかな・・・そんなわけないか・・・」
頭の雑草地に、仕事に無用な野次馬が駆け回った。
そもそも、生活保護を受けていれば、「家賃滞納」ということにはならなかったはずなので、貧乏しながらも何とか自力で生活してことが想像された。


話が逸れるが・・・
「生活保護」という制度は、多くの欠点をはらんでいる。
多くは不正受給。
そして、それを貪る貧困ビジネス。
自治体の事情や地域の状況によるところが大きいのだろうから、一概に批判するのは軽率とわかりつつも・・・
勤労者がボロアパートで窮々としているのに、受給者はきれいなマンションに暮らしている。
勤労者が嗜好品を我慢しているのに、受給者は酒・タバコ・ギャンブルを楽しんでいる。
勤労者が汗水流して働いているのに、受給者は健常に動く身体をブラブラと持て余している。
仕事上、そういった現実を目の当たりにすることが少なくない私は、現行制度をどうしても斜めに見てしまうところがある。

ただ、問題とされることには、その逆もある。
それは、役所が何だかんだと難癖をつけて申請させないよう圧力?をかけたり、申請を受け付けないようにしたりすること。
それで、本当に保護が必要な人が申請しにくい雰囲気や文化ができてしまうこと。
実際、受給者が増えている実情の陰で、「人の世話になりたくない」「身内に知られたくない」「恥ずかしい」等と、申請を躊躇っている人が少なくないらしいのだ。
本来は、そういう人達を救うための制度なのに、各所に見え隠れする矛盾を苦々しく思ったことがある人は、私だけではないのではないだろうか。


不動産会社は、男性を探し出すことを諦めていた。
仮に探し出せたところで、資力があるとは考えにくい。
困窮していることに変わりはなく、裁判沙汰にしても差し押さえる資産もないはず。
無駄な手間と費用をかけるだけ損。
結局のところ、滞納家賃の回収はあきらめて、次の段階に進んだ方が得策と判断したよう。
後々、始末する家財が問題の種にならないようにだけ留意した上で部屋を空にし、きれいにリフォーム・クリーニングを施し、新たな入居者を募集する算段をつけていた。

不動産会社からの通知書を見ると、家賃の滞納額は三か月分、十数万円。
過去にも支払いが遅れることはあったのかもしれないけど、それでも何とかやってきていたのだろう。
しかし、ここにきて、いよいよ払えなくなってきた・・・
もちろん、“袖”があれば“振る”つもりはあったはず・・・
払えるだけの収入がないからそういうことになったのだろう。
で、結局、何か月分滞納すれば追い出されるのかわからない中、「追い出される前に出て行こう」ということにしたのだろうか。

しかし、持病のある高齢者。
家賃が払えないほど困窮し、頼れる身寄りもない。
そんな男性が、どこへ行くというのだろう、アパートを出て行ってしまえば、途端に、路頭に迷う。
行くあてがあるとは容易には思えない。
いくらかの金があれば、ホテルにでも入れるが、家賃が払えないくらいだから、仮にそれができたとしても長続きはしないだろう。
また、金がなければ毎日の食事にも事欠く。
ホームレスになっても生き延びることはできるのかもしれないけど、果たして、そこまで体力と気力を持ち続けることができるものかどうか・・・
「もしかして、自分で寿命を決めて出て行ったのかな・・・」
自然と、そんな考えが頭を過った。
と同時に、恐ろしいほどの切なさと淋しさが悪寒となった背筋を走った。

ただ、男性がどこでどうなっていようが私には関係ないこと。
実際に手助けをするわけでなし、ただの野次馬根性、余計なお世話。
一時的な感傷、ただの自己満足。
もっと言うと、善人気分を味わいたいがための勝手な同情。
事実、作業から数日・・・いや、一晩寝て翌日になれば、男性のことなんか忘れている。
結局のところ他人事で、冷淡にやり過ごすだけのことだった。


「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、それが“吉報”ではなく“悲報”のように聞こえるのは私だけではないだろう。
「長寿」、響きはいいけど、誰しも若いまま生きられるわけではない。
頭も身体も衰える。
動きたくても動けなくなり、働きたくても働けなくなり、大半の庶民は経済力も衰える。
健康寿命は100年よりもっと短いわけで、「命が尽きる前に金が尽きる」とも言われている。
「100才まで生きなきゃならないとしたら、お先真っ暗?」なんて、笑えるようで笑えない思いが湧いてくる。

真面目に働いて、税金や社会保険料もキチンと納めて、それでも老後は年金だけで充分な暮らしができない人は多い。
視聴者ウケするよう極端な事例を選んで取り上げているのかもしれないけど、TVで、少ない年金で壮絶な節約生活をする高齢者の暮らしぶりを伝えるドキュメントを何度か観たことがある。
年金の大半が家賃で消える人、電気を契約せず懐中電灯生活をしている人、一日をおにぎり一個でしのいでいる人、老体に鞭打ってアルバイトをしている人等々・・・
「生きているのが面倒くさい」と言っていた老人の疲れた言葉が、ドキッと胸に刺さり、そのまま、夏陽に逆らえないアイスクリームのように悲しく溶けていき、拭いたくても拭い切れないものとなってしまった。


作業が終わると、部屋は空っぽになった。
男性がそこで暮らしていた証・・・生きていた証は、部屋に残された汚れや傷みのみ。
その様が、私の内に涌く妙な淋しさと切なさを煽ってきた。
ただ、そんな私でも、
「どこかで生きてくれてればいいな・・・」
とまでは思わなかった。
私には、男性に対して無責任に生きることを求めることが、薄情で軽はずみなことのように思え・・・
男性に、更なる苦しみを強いることになるような気がしたからだった。

よく 人は、命の大切さ、生きることの素晴らしさを訴える。
当り前のように、それが健全な人間、健全な考えとされる。
人に“死”を強いることが「悪」とされるのは決まりきった倫理価値であるが、はたして、人に“生”を強いることは「善」と言い切れるものだろうか・・・
その中で、人の手によって“生”が粗末にされている現実も多い。
心の中の殺人を含めれば、「日常的に起こっている」といっても過言ではないのではないか。
そこには、「矛盾」の一言では片付けられない矛盾がある。
その矛盾とともに、人類の歴史は、脈々と紡がれている。
無力と諦めの中で、“時間”が、その悲しみと怒りを遠い過去へ洗い流し、忘れさせてくれるのを待ちながら。


結局のところ、これからの時代、物事によっては、短絡的になった方が楽に生きられるのかもしれない・・・
足元を見つめ直し、それを固めることに注力し、将来に“生くあて”を求めない方が軽やかに生きていけるのかもしれない・・・
ネガティブに思われるこの思考も、意外に、見通せない未来に向かってポジティブな芽を出すのかもしれない・・・

コロナ禍明けに沸く世間から取り残された人間が藁をも掴もうとするかのように、私は、そんな風に思うのである。

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鼻つき

2023-03-20 07:00:13 | 死臭 消臭
コロナが落ち着いてきたのを機に、「マナー推奨」の条件付きとはいえ、マスク着用が解禁となった。
議論されることは多々あったけど、マスクはウイルスの放出や吸引を抑制し、感染防止に一定の効果があったと思う。
(大金がつぎ込まれた“アベノマスク”は無駄以外の何者でもなかったように思うが。)
功罪は別として、前回書いたとおり“覆面”の効果もある。
これで安心感を得ている人も少なくないだろう。
また、ニオイについても影響がある。
自分の口臭に気づきやすくなったり、外のニオイに気づきにくくなったり。
事実、口臭対策の商品がよく売れているそう。
ただ、一般の不織布マスクでは、常日頃、私が遭遇している鼻を突くような悪臭を防ぐのは無理。
マスク自体が一瞬にしてクサくなって、防塵としての役割しか果たさなくなる。
何はともあれ、マスクの脱着が余計なトラブルを招くようなことがないまま月日が流れていってほしい。
デリケートな領域の事柄につき、誰かのちょっとした行為が鼻につく人も少なくないように思われるから。

しかし、いつの世にもどこの地にも、鼻につく人間っているもの。
良し悪しは別として、合わない人間はどこにでもいる。
ただ、他人の欠点や短所には敏感なクセに、自分のそれには気づかないのが人の性。
“自分が正しい”“自分は良い人間”と思っていたら大間違い。
結局のところ、誰かにとっては、自分も鼻につく人間の一人のはず。
そこのところを充分に弁えておくことが大切だと思う。

SNSを一切やらない私には縁のない世界の話だけど、「炎上」という言葉はよく耳にする。
時折、ニュース等で、ネット上で繰り広げられているヒドい誹謗中傷を目の当たりにすることがある。
人と人との距離が空間を越えているこの時世では、鼻につく人間というのは、身近な現実社会よりもネット社会の方に多いような気がする。
些細な言動や行動が火種となり、顔も名前をわからない“敵”に袋叩きにされる。
「思想・表現の自由」と言ってしまえばそれまでだけど、「よくもまぁ、いちいち難癖をつけられるものだ」「冷酷になれるものだ」「ヒドイ言葉を思いつくものだ」と憤りを通り越して感心してしまうくらい。

利害関係者なら理解できなくもないけど、攻撃する輩の大半は、何の害も被っていない無関係の人間だろう。
それが、どこからか、ウジのように沸いてくる。
ただ、実際のウジとは違って、そういう輩は、ほんの一部の人間、ごく少数だそう。
単に、世間からの注目を浴びやすく目立ってしまうから大勢のように錯覚するのだそう。
あくまで、広いネット世界の一部に存在する狭いコミュニティー内の文字攻撃なのだから、気にしなければいいだけのことかもしれないのだけど、攻撃される当人にとっては、そう簡単に受け流せるものではないのだろう。


意味は変わるが、私も、よく“鼻をつく人間”になってしまう。
想像の通り、仕事で悪臭が身に着くためだ。
「悪臭」の種類は様々あるが、とりわけ、腐乱死体臭は色んな意味で別格。
鼻はもちろん、素人の場合、腹をえぐられることもある。
同様に、メンタルがやられてしまうことも多々。
あまりにショッキングな光景を目の当たりにし、ショッキングなニオイを嗅いでしまったことで、それがトラウマになる。
そして、一般社会に戻ってからも腐乱死体臭が精神から離れなくなり、ノイローゼ状態になってしまうのである。

幸か不幸か、私はとっくに慣れきっている。
かつては重宝していた専用マスクも、近年は、面倒臭くて装着しないことがほとんど。
鼻から入るニオイは防げたとしても、どちらにしろ、身体は悪臭まみれ(ウ〇コ男)になってしまうことに変わりはないから。
ただ、作業服についたニオイは洗濯すれば落ちる。
身体についたニオイも風呂に入れば落ちる(髪は やや落としにくいけど)。
それでも、「身体に着いたニオイは風呂に入っても落ちない」と思っている人がいるよう。
社会の陰に細々と存在する珍業だから都市伝説になるほどではないけど、そう思っている人がいるらしい。

十年余り前のことになるが、仕事の用で とある出版社の女性スタッフと電話やメールでやりとりしたことが何度かあった。
何度かやりとりするうちに、彼女は、私との面談を希望してきた。
まるっきり会わないのも不自然に思われたため私も応じるつもりではあったが、仕事柄、予定を立てにくいのも現実。
現場仕事を優先せざるを得ないため、約束した日時はキャンセル・変更の連続。
で、結局、彼女と顔を合わせることはないまま用件は片付き、そのまま縁もなくなった。

用件が無事に済んだのだから、私にとって、それはそれで何の問題もなかった。
しかし、事はそれで終わらず。
偶然というか必然というか、とあるサイトで、彼女が書いた私に関するコメントを発見。
そこには、
「特掃隊長は、身体に浸みついたニオイを気にして人と会わない」
といった趣旨のことが書かれてあった。
会わなかったのは、あくまで仕事の都合、スケジュールの問題。
彼女にもそう伝えていた。
しかし、彼女が表にしたのは上記のとおり。
おそらく、私に見られることはないだろうと思って書いたのだろうけど、これも、ある種の誹謗中傷。
「随分、失礼なことを書くもんだな」
と、当時は、かなり気分を害したし、少し悲しくもあった。
気分的には文句の一つも言ってやりたかったけど、既に用件は終わり縁を保つ必要もない人物であり、
「文句を言っても自分の口が汚れるだけだから」
と、そのままスルーし、今では忘れかけた想い出として残っているのみである。



消臭についての問い合わせがあった。
電話の相手は、とある内装業者。
現場は、住宅地に建つ一戸建。
そこで暮らしていた住人が孤独死。
住宅密集地で近隣には多くの人が暮らしていたが、直ちにその異変に気づく人はおらず。
結局、季節の暑さも手伝って、遺体は著しく腐敗してしまった。

現場となった家屋は、故人所有。
相続人はいたが、以降、そこに居住する縁者はおらず。
第三者に売却されることになり、とある不動産会社が買い取った。
そして、リフォームを施した上で再販。
私が相談を受けた時点では、既に再販の売買契約は成立しており、当家屋のリフォーム工事も完了。
買主への引渡しを待つばかりの状態だった。

ただ、「亡くなっていた部屋だけ妙な異臭が感じられる」とのこと。
内装がきれいになっているのに異臭が残留しているということは、そもそもの作業内容・工程を間違った可能性が高い。
本来なら異臭をキチンと除去してから内装を仕上げるべきところ、「内装をきれいにすればニオイもなくなるだろう」と、腐乱死体臭の性質を理解していない一般の人は、その辺のところを甘く考えてしまうわけだ。
この内装業者も、同様に甘く考えていたのか・・・
しかし、現実として遺体臭は残留してしまい、工事が終わっても買主に引き渡すことができない事態に陥っていた。

話を聞いただけで、私は“内装工事のやり直しは避けられないだろう”と判断。
「現場を見ないとハッキリしたことは言えませんけど・・・」
と前置きした上でその旨を伝えた。
それでも、内装業者は、
「このまま消臭できると助かるんですけど・・・とりあえず、現地を見てもらえませんか?」と強く要望。
私は、“仕事にならない可能性が大きいかな・・・”と思いながらも、“これも何かの縁”と、同じ肉体労働者である情に後押しされながら現場に出向く約束をした。


訪れた現場は、街中の住宅地に建つ一戸建。
大きな建物ではなかったが、築年数は浅そうで、外観もきれいな状態。
そこには、二人の男性が。
一人は、電話をしてきた内装業者。
作業服姿で四十代くらい。
もう一人は、不動産会社。
スーツ姿で三十代くらい。
私は、それぞれに名刺を渡し、立場に上下はない中でも、礼儀として丁寧に頭を下げた。

問題の部屋に入ると、日常にはない異臭が私の鼻孔に侵入。
低濃度ではあったものの嗅ぎなれたもので、その正体は明らか。
「やっぱ、遺体のニオイですか?」
二人は、緊張の面持ちでそう訊いてきた。
「残念ながら そうですね・・・断言できます」
私は、自信をもってそう返答。
すると、二人は、“マズイなぁ!”と言わんばかりの引きつった表情で顔を見合わせたかと思うと、次第に、不動産会社の表情は怒ったようなものに、内装業者の表情は怯えたようなものに変わっていった。

私は、内装業者のスマホに保存されていた工事前、工事中の画像を確認。
遺体液によりフローリングは腐食し、下地もダメに。
ただ、画像で見るかぎり、床は下地もフローリングも全面交換されており、問題は見受けられず。
次に問題視すべきは天井と壁。
そのクロスはすべて新品に貼り換えられており見た目は新築状態。
ただ、鼻を近づけてみると、微妙は感じ。
明らかにクサくはなかったものの、下地ボードから出ていると思われる異臭をわずかに感知。
また、建具や収納庫などにはハッキリとした異臭が付着。
部屋の異臭は、それら全体から、ジワジワと滲み出ているものと思われた。

「急いで脱臭する必要があるなら、新品のクロスを剥がしてもらうことになると思います」
「もしくは、いずれは生活臭の方が勝るときがくるので、この状態で生活して、自然に中和されていくのを待つか・・・それなりの月日はかかると思いますけど」
私は、そうアドバイス。
もちろん、買主は、当家屋が事故物件であることは承知で購入したはず。
地域相場より割安なわけで、敬遠する人が多い中でも「お買い得」と考えて購入したのかも。
そうは言っても、家屋が原状回復する前提での購入のはずで、遺体臭が残ったままでは暮らしようがないだろう。
契約した価格を更に下げれば話は変わるのかもしれないけど、この状態で買主が納得して入居する可能性は低いと思われた。


私は、部屋に漂うニオイも鼻についたが、それよりも鼻につくことが別にあった。
それは、内装業者に対する不動産会社の態度。
私を含めた三人の中では、明らかに不動産会社の方が一番年下。
にも関わらず、不動産会社は内装業者に対してタメ口。
それにとどまらず、何を勘違いしているのか、初対面の私にまでタメ口。
横柄、偉そう・・・
それが親近感からくるものではなく、上から目線からきているものであることは明白。
「元請→下請→孫請」の構造(上下関係)がハッキリしている製造業や建設業では当り前の慣習なのかもしれないけど、部外者の私にとってそれは、かなり不愉快なものだった。

しかも、両氏の会話からは、本工事は、不動産会社の指示通りに行われたことが伺い知れた。
内装業者は、「内装改修のみでの消臭は無理では?」と不動産会社に進言したようだったが、不動産会社は「内装工事をすればニオイも消えるはず」と安易に考えたよう。
当社のような専門業者を入れれば工期も長くなれば費用も膨らむ。
逆に言えば、ニオイを無視すれば、余計な工期も費用はかからない。
で、結局、内装業者は、不動産会社の指示通りに工事を行ったよう。
しかし、不動産会社は、そういう経緯を無視して妙な理屈をこねくり回し、その責任を丸ごと内装業者に押し付けるような方向で話を進めていった。

とにもかくにも、早急に悪臭を除去するには、一部の内装工事をやり直す必要があった。
となると、追加の工事費用がかかるのはもちろん、買主への引き渡し時期を遅らせる必要もある。
消臭にかかる費用をはじめ追加の工事費は、当然、買主に負担させるわけにはいかない。
ま、それは、内装業者か不動産会社が負えば済む。
問題なのは、買主に事情を説明し納得してもらうこと。

買主は、引っ越しの予定を決め、引越業者の手配も終わっているだろう。
退去日も確定させているはずで、賃貸住宅の場合だったら、問題は尚更大きくなる。
大迷惑をかけてしまうことは明白で、大顰蹙も買ってしまうだろう。
事情を説明したとしても、到底、すんなり了承してもらえるとは思えない状況。
そうは言っても、買主と協議しないまま事が収まるはずはなかった。

内装業者は不動産会社の下請業者だから立場も弱い。
つまり、イヤな役回りを押し付けられやすい立場ということ。
また、追加でかかる費用についても、それなりの負担を強いられる可能性が少なくない。
ひょっとしたら、買主に対して矢面に立たされるかもしれない。
ただ、内装業者としては、現実の力関係と先々の商いを考えると、納得できないことはあっても受け入れるしかないところもある。
元請と下請、この弱肉強食の構図は、この世の中に五万とある。
想像するだけで気の毒に思えたが、内装業者がその役割を担わされることになるのは、他人の私でも容易に想像できた。


その後、当社の提案に沿って再工事。
内装業者とも何度か顔を合わせるうちに、仕事のことはもちろん、他のことも色々と話せる間柄に。
彼は一人親方で、職人仲間と力を合わせて、色々なところからの下請工事をこなしているそう。
本件の不動産会社は大口の取引先の一つ。
ただ、「どの担当者も偉そうで、人使いも荒く、好きになれない取引先」とのこと。
それでも、食べていくために仕事は選べず、儲からない仕事や雑用でもペコペコ・イソイソとやっているそう。
そんな話の中で、
「これからもそうやっていくしかないんですけどね・・・」
と、表情を曇らせた。
その顔からは、不動産会社への不満だけにとどまらず、それまでに味わってきた世の中の理不尽さと資本主義の罪に対する悔しさも滲み出ているような気がした。

結局のところ、泣きをみるのは、力のない者、立場の弱い者なのか・・・
いつの世でも、理不尽な目に遭うのは、力のない者、立場の弱い者なのか・・・
私は、その“答”にたどり着けないまま小さな溜め息をついた。
そして、「生きていくって楽じゃないよな・・・」と、曇りがちの空を力なく仰いだのだった。

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無駄

2023-02-24 07:00:00 | 特殊清掃
三年が経ち、コロナ禍も終盤に入りつつあるのか・・・
感染症の分類も5類に引き下げられることになり、マスク着用も原則として「個人の判断」となる模様。
そんな中、判断の難しさや想定されるトラブルをネタに各所で議論が巻き起こっている。

コロナ対策とは別の視点だが、人は マスクを着けていると美男美女に見えやすいそう。
事実、TVに映る一般人を観ても、多くの人が美男美女に見える。
同時に、身の回りには、マスクを外した素顔を見て、「この人、こんな顔だったんだ・・・」と、失礼ながら、想像していたほどの美形でなかったことに驚いてしまった人が何人かいた。
私の場合、マスクを着けていても美男には見えないだろうけど、その逆もあるかもしれない。
そう考えるとお互い様。
それを口に出さないことが大切なマナー。

顔半分を隠して生活することになれてしまって、人によっては、もはや、マスクは服の一部。
すでに、多くの人が「マスク依存症」「素顔アレルギー」に罹り、メンタルの問題に発展している気配もある。
「コロナもインフルも花粉も気にならないけど、顔を出すのが恥ずかしいから」と、マスクを着用し続ける人も少なくないのではないかと思う。

私の場合、人と人との距離が近くなる場面においては、“マスクを着けてほしい”と思う。
屋内はもちろん、屋外でも近い距離で会話する場合はマスクを着けてほしい。
心配してもキリがないのはわかりつつも、誰かから感染するのはイヤだし、誰かに感染させるのもイヤ。
そんな感覚だから、おそらく、私は、“着用派”になるだろう。
そして、それが無駄なこととも思わないだろう。
ただ、マスクを着けていない人に対して悪い感情を抱かないように気をつけなければいけないと思っている。



特殊清掃の相談が舞い込んだ。
電話の相手は女性で、声から察する歳は30代くらい。
ただ、声のトーンは弱った老人のように低く、印象は暗い感じ。
現場は、女性の自宅で、賃貸のアパート。
木造の古い建物で、間取りは1DK。
私は、事情を知るため、女性にいくつかの質問を投げかけた。

「特殊清掃」と聞くと、まず孤独死現場の処理が頭に浮かぶかもしれないが、それだけではない。
当社では、その対象となる汚れを「特別汚損」と称しているのだが、その種類は多種多様。
一般のハウスクリーニング業者は対応しないような、非日常的な汚れを対象とする。
ゴミ部屋、ペット部屋、漏水、糞尿、嘔吐物、数は少ないが火災現場等々・・・
また、特別汚損現場ではないところの消毒・消臭も請け負う。
多いの、賃貸物件の入退去にあたっての消毒消臭。
タバコ臭やアロマ臭、前住人の生活臭等が気になる場合に呼ばれるのだ。
神経を使うのはノロウイルス。
感染力が高く、症状も重いため、作業時は余程気をつけなければならない。
コロナ禍の当初は、その消毒に出向いたこともあったが、しばらく前から落ち着きを取り戻している。

本件の相談は、女性自身が引き起こしたことだった。
それは、室内での失禁。
しかも、何度も。
そして、それを拭き取りきらないまま、その上にまた失禁。
それが長期間に渡って繰り返されているようだった。

居室は畳敷きの和室で、カーペットが敷いてあるそう。
となると、当然、尿はそこに浸み込んでしまうわけで、その状況から、私は、“清掃のみで原状回復できるレベルは超えている”と判断。
「現地を見ていないので断言はできませんけど、カーペットと畳は交換する必要があると思いますよ」
と回答。
女性は、“特殊清掃業者に頼めば何とかなるかも”と期待をしていたようで、ややガッカリした様子。
それでも、
「とにかく、見に来てもらえないでしょうか」
と、強く要望。
私は、“仕事にならない可能性が高いけどな・・・”と思った。
が、しかし、仕事にならないことが明らかな場合以外は、できるかぎり要望に応じることをモットーとしている私。
“百聞は一見にしかず”と気持ちを切り替え、現地調査に出向くことを約束した。

女性は、現地で顔を合わせるのは避けたいようで、
「その時間、玄関の鍵を開けておきますから勝手に入ってください」
とのこと。
女性の部屋に一人で入ることに躊躇いを覚えなくもなかったが、それが女性の羞恥心からくるものだと察した私は、二つ返事で承諾。
そうは言っても、これが、後々、トラブルの種になっては困る。
入室を許可する旨と、家財の滅失損傷については免責とする旨の覚書をつくって玄関に用意してもらうことを条件にした。

約束の日時、私は女性のアパートを訪問。
一階の一室である女性の部屋の玄関前に立つと、まず、女性に、
「到着しました」
「これから部屋に入らせていただきます」
と電話。
すると、女性は
「鍵は開けてあります」
「覚書は下駄箱の上に置いてあるので、よろしくお願いします」
と、やや緊張した様子で言葉を返してきた。

ドアを開けると、長く掃除していないトイレのようなニオイ・・・
室内はアンモニア系の異臭が充満。
専用マスクをつけずとも我慢できるレベルではあったものの、明らかにクサい。
私は、下駄箱に置かれた覚書を確認のうえ 靴を上履きに履き替え 薄汚れた台所を通り過ぎ 部屋の奥へ。
すると、そこには、甘かった想像を超える光景が広がっていた。

女性は、相当の長期に渡って失禁を繰り返したよう。
家具等が置いてある部分を除き、露出している床の部分はほぼ全滅。
敷かれたカーペットは、ほぼ元の色を失い茶色く焼けたような色に。
部屋の隅から中央に向かってカーペットをめくってみると、その下の畳も黒ずんで腐食。
ジットリと湿気を帯びた畳は一段と高い濃度の異臭を放ってきた。

また、部屋は、「ゴミ部屋」というほどではなかったが、お世辞にも「きれい」と言える状況ではなし。
整理整頓はできていたものの、台所や部屋の隅にはホコリがたまり、頭髪や細かなゴミも散見された。
水周りも掃除が行き届いておらず、風呂場の浴槽や天井壁には、広範囲に水垢・カビが発生。
キッチンシンクも同様で、ガスコンロ周辺と換気扇は機械オイルを塗ったようにベトベト。
肝心のトイレも似たような状態。
ただ、詰まって水が流れないわけでもなく、便座も座れないくらい汚れているわけでもなかった。

部屋に糞便の影はなし。
トイレも使える状態なわけで、糞便の用はトイレで足していたのだろう。
“何故、小便だけ、部屋でしてしまったのだろうか・・・”
下衆の野次馬=私は、そこのところが不思議でならなかった。
その辺のところが知りたくてたまらなかった。
が、その質問は、あまりに無神経。
しかも、事情を知ったところで、作業の内容が変わるわけでもなかった。

どんな人も、長所があれば短所もある。
得意なことがあれば不得意なこともある。
強みがあれば弱みもある。
そして、当人にしか持ちえない「性質」「癖」「嗜好」がある。
また、心や身体に病を抱えている人だっている。
女性が部屋で失禁し続けた理由を想像することはできなかったが、他人が理解できないところに理由があることは察することができ、そう頭を巡らせると野次馬はおとなしく走り去っていった。

当初の電話で想像していた通り、「清掃での原状回復は不可能」と判断。
汚損したカーペットと畳は物理的に交換するしかなく、畳の下の床板まで汚染されている可能性もあり、場合によっては床板の交換まで必要になる。
下手をしたら、床下にまで垂れている可能性もなくはなかったが、女性の不安を煽るようなことを言っても気の毒になるだけだったので、希望的観測を含めて、そこまでのことは口にせず。
あとは、本格的なルームクリーニングや細かな設備修繕も必要。
大がかりな作業が必要になることは明白だった。

女性には両親のいる実家はあったが遠方。
また、しばらく寝泊りさせてくれる友人もいないそう。
となると、やり方としては、レンタル倉庫を借りて、一旦、家財一式を保管。
そして、自分は、ホテルやウイークリーマンション等に一時避難。
しかし、これには、相応の手間と費用がかかる。
その上、畳や床板の交換を大家・管理会社に黙ってやるのはマズい。
ということは、どちらにしろ、大家・管理会社に実情を伝えなければならないわけ。
だったら、状況をキチンと伝えたうえで転居を計画した方がシンプル。
もちろん、部屋の原状回復費用の多くを女性が負担することを覚悟のうえで。
女性にそこまでの資力があるかどうか不明だったが、私は、それ以上に無難な策を提案することができなかった。

“掃除で復旧できれば・・・”と、淡い期待を抱いていた女性だったが、現場を見た上での私の説明は受け入れざるを得なかったよう。
私の説明に対しては、溜息のような返事を繰り返すばかり。
表情こそ伺い知ることはできなかったが、電話の向こうで消沈している様が痛々しく感じられるほどに伝わってきて、縁の薄いアカの他人ながらも気の毒に思えた。
そうして、ひとまず「検討」というところに着地し、その場の話は終わった。

その後、女性は、部屋から退去。
ただ、そこは老朽アパートにつき、新たな入居者は募集せず。
で、幸いなことに、クリーニングも内装工事も必要最低限の費用で済んだ。
ただ、すべてを管理会社が取り仕切り、当方の出番はなかった。
そして、意図せずして、女性が身体に障害を抱えていたことも判明。
部屋の汚損すべての原因がそこにあるとは言い切れなかったが、少なからずの原因がそこにあったことは容易に想像できた。
加えて、女性が、健常者と同じ環境で四苦八苦しながら生活していたことも。
とにもかくにも、当方には一銭たりとも入ることはなかったが、事の収拾が予想していたよりも大事にならず、また、女性が、困難多い中で生活をリセットできたことを喜ばしく思えたことが、自分の益になったような気がしたのだった。


珍業とはいえ、当社も民間のサービス業者の一つ。
競合他社もあり競争の中にいる(特殊清掃草創期は、当社独占みたいな時期もあったけど)。
したがって、相談を受けた案件、すべてが売上につながるわけではない。
当社は、「初回の現地調査は無料」としており、調査料やアドバイス料を請求することもないから、現地への足労が無駄になってしまうことも珍しくない。
ただ、仕事になりにくそうな案件でも、相談はもちろん、現地調査にも積極的に応じるようにしている。
それで、一つの経験が積み増しされるわけだから。
そして、蓄積された経験から より良いノウハウが生まれ、それによって仕事の質が上がる。
直接的に金銭的な見返りがなくても、大局的に見れば、まったくの無駄にはならないのである。

人生もまた然り。
人生には、無駄なことにように感じられることや、無意味なことのように思われることがたくさんある。
とりわけ、災難な患難に対しては、そんな想いが強くなる。
しかし、実のところは、無駄ではなく、無意味でもない・・・
ただ、それを理解する能力と受け入れる器が自分にないだけで・・・
生きていく力を失わないよう、確信はないけど、そう思いたい。そう信じたい。

ただでさえ、明るい未来を描きにくい時代にあって、どうしても、無駄なことばかりやって無意味な時間をやり過ごしている感を強く抱いてしまう私は、それでも、自分を無駄なく生きさせたいと願っているのである。
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意思不疎通

2023-02-06 07:00:00 | 孤独死
「一月は行く」「二月は逃げる」「三月は去る」とも言われるが、モタモタしている間にもう二月。
とはいえ、春はまだ遠く、寒い日が続いている。
とりわけ、この冬は、厳しい寒波が日本列島を襲っている。
太平洋側の一部を除き、各地、幾度となく大雪に見舞われ、車の立ち往生や家屋の倒壊など、トラブルが頻発。
スリップ事故、屋根の除雪作業、雪に埋もれた車中、バックカントリースキー中の雪崩・・・不慮の死を迎える人も。
TVを観ても、コロナのことより寒波を伝えるニュースの方が多いような気がする。

ただ、世界に目を向ければ、寒々しいのは季節ばかりではない。
世界各地で戦乱が後を絶たず、圧政が堂々と行われている国も少なくない。
“ペン”で解決できないから“銃”を出す。
現実には、話し合いで片付かないことがたくさんあり、結局、人間は暴力に走る。
これは国家レベルだけのことではなく、個人レベルでも同様。
“口”で解決できないから“手”を出す。
我々の社会の中でも暴力は日常的に横行しており、それで亡くなる人もいる。
この世の中には、少しでも気持ちを通じ合わせることができれば避けられる問題、解決できるはずの問題が何と多いことか。
これは、人間の愚かさ、人間の限界が生み出す、逃れることができない“負の定め”なのだろうか。



訪れた現場は、賃貸マンションの一室。
そこで暮らしていた高齢の住人が孤独死。
そして、そのまま数日が経過。
故人は、部屋に敷かれた布団の上で亡くなっていたようだったが、しかし、それによる汚染は見受けられず、また、異臭もほとんどなく、老人特有の生活臭が漂っているくらい。
ヘヴィー級だと、遺体痕がクッキリと布団に浮き出ているようなことがあるが、ここではそんなことはなく、シーツは薄汚れていたものの、それは、ただ洗濯されていないせい。
説明されなければ、そこで人が亡くなっていたことはわからないくらい平穏な状態だった。

ただ、この現場には、大きな問題があった。
それは、隣の住人とのトラブル。
遺体発見時、警察が来たわけで、ちょっとした騒動になったよう。
当然、その事実は、他の住人にも知れ渡ることに。
“死人”が発生したとなると、落ち着いていられないのが世の常 人の常。
それが、自分に近いところで発生したとなると尚更。
異臭や害虫が発生していなくても、嫌悪感や恐怖感を抱くのは、人として、それほど不自然なことではなかった。

それは、本件のマンション管理会社の担当者も同様。
よくよく聞くと、
「マンションには行ったのですが、部屋には入っていなくて・・・」
とのこと。
孤独死現場はかなり苦手なようで、“できることなら関わりたくない”“仕事だから仕方なく関わっている”といった感じ。
私は、そんな担当者から、
「隣室の人に部屋の状況と今後の作業計画を説明して下さい」
と頼まれていた。
更に、
「隣は若い夫婦が住んでいて、二人ともクレーマーだから気をつけて下さい」
とも言われていた。
何だか、イヤな仕事を押し付けられたようで気分はよくなかったが、“これも下請会社の宿命、下請会社の任務の一つ”と飲み込んで現場に出向いていた。

私は、この仕事を長くやってきているけど、万人と平和にやってきたわけではない。
数は少ないながら、依頼者、遺族、不動産会社、マンション管理人、近隣住民等と揉めてしまったことがある。
不可抗力の事由もあれば、相手の理不尽な振る舞いが我慢できなかったこと等、理由は様々。
小心者かつ臆病者の私からケンカを吹っ掛けるようなマネをしたことはないものの、堪忍袋の緒を切ってしまったことが何度かあった。
しかし、何事も平和に解決するに越したことはない。
争うような事態は避けたかった私は、隣室を訪れる前に外で何度か深呼吸をして
「我慢!我慢!、聞き流せ!聞き流せ!」と自分に言い聞かせた。

他に頼める者がいるわけでもないし、気が進まないことを後回しにしても仕方がない。
しかし、男性がどのような人物なのか、不安もある。
故人の部屋の見分を終えた私は、気持ちを整えるため しばしの時を経て隣室の玄関前へ。
何をネタに文句を言われるかわからないので、加齢臭や肉体の劣化は別として、自分に異臭や汚れがついていないことを念入りに確認した上で、いつにない緊張感を抱えながらインターフォンを押した。

室内からは、すぐに応答があった。
そして、インターフォン越しに用件を話すと、すぐに玄関が開いた。
と同時に、中から一人の男性が出てきた。
年の頃は、三十前後か、強面の人物を想像していたのだが、予想に反して表情は穏やか。
物腰も柔らかく
「ご苦労様です」
と、礼儀正しく頭を下げてくれた。

「クレーマー」とのことで、キツいキャラクターの人物を想像していた私。
結構なことを言われる覚悟はあった。
しかし、男性にそのような威圧感はなし。
それどころか、冷静に私の話を聞くつもりがあるような物腰。
いい意味で、意表を突かれた。
が、第一印象だけで油断して、後でヒドい目に遭ってはいけないので、私は警戒の糸を緩めることはしなかった。

手を出されることを心配していたわけではなかったが、私は、玄関前に出てきた男性と少し距離をあけ、ゆっくりとした口調を心掛けながら話をスタート。
まずは、「自分が長い間この仕事をしている」ということ、つまり、「こういった現場を扱う上で素人ではない」と、まったく自慢できない経歴を“バカの自慢”と思われないよう やや消沈気味に自己紹介。
それから、
「グロテスクな話をしても大丈夫ですか?」
と前置きし、了承してもらった上で、至極凄惨な現場の事例をいくつか列挙。
それらと比較して、
「起こった出来事は残念ではありますけど、〇〇さん(故人)の部屋は、言われなければわからないくらいフツーの状態です」
と報告。
その上で、部屋の状況と作業プランを丁寧に説明していった。

私の話にどれだけの説得力があったか不明ながら、男性は、状況を理解。
そして、
「部屋で亡くなっていたのは仕方がないことです」
「気づかれずに時間が経ってしまったのも仕方がないことだと思います」
「〇〇さん(故人)が、わざとやったことじゃないんですから・・・」
と、意外なほど大らかに対応。
“クレーマー”どころか、むしろ、その死生観は寛大なくらいで、男性は、故人が孤独死したことや、しばらく放置されてしまったことをとやかく言うようなことはなかった。

では、苦情の原因は何だったのか。
何が不満で、何に憤ったのか。
それは、管理会社の対応と衛生的な問題。
どうも、遺体が搬出されて後も、管理会社から何の説明もなかったよう。
気になった男性が問い合わせても、部屋の状態について具体的な説明はなし。
また、その間、部屋には遺族が何度も出入り。
その際、遺族は、周りに気遣うこともなく玄関も窓も全開に。
更に、分別や日時等のルールも守らず、自分勝手にゴミ置場にゴミを放置。
それを注意するよう担当者に伝えたが、遺族が言うことをきかなかったのか、そもそも、担当者が遺族に伝えなかったのか、その後も、遺族は無神経な振る舞いを続けたそう。
男性は、そのことを極めて不快に感じ、憤りに近い感情を抱いていたのだった。

私は、男性の気持ちが理解できないわけではなかった。
が、正直なところ、「それにしても、ちょっと神経質過ぎないか?」「特段の悪臭もなく害虫も発生していないのだから、窓くらい開けてもいいだろう」とも思った。
しかし、話を聞き進めると男性には事情があった。
それは、男性夫妻に、生まれて間もない赤ん坊がいること。
故人宅から悪臭が漂ってきたり、ハエが入り込んできたりしたわけではなかったが、部屋の状態がわからない以上、孤独死現場に関する知識・情報はネットから拾わざるを得ない。
そして、ネットでヒットするのは、だいたいがヘヴィー級の腐乱死体現場。
で、人々の気を引くために、大袈裟な表現がされていることも少なくない(このブログはそうなっていないことを信じたいが)。
となると、衛生的なことが気になるのは当然と言えば当然。
無垢の赤子がいるとなると、尚更うなずける。
男性は、どんな菌やウイルスを持っているかわからない空気が無造作に放出されることで「子供に害が及ぶのではないか」と心配になったよう。
それで、管理会社に疑問や苦情を発し続け、時には、煮え切らない対応に声を荒らげてしまったこともあったよう。
そうして、管理会社から“クレーマー”に仕立て上げられてしまったようだった。


ちなみに・・・
本件に限らず、こういった現場では、菌やウイルスを気にする人は少なくない。
他人はもちろん、血のつながる身内の中にも心配する人はいる。
しかし、種類や程度は異なれど、菌やウイルスはどこにでも存在するもの。
無菌状態で日常生活を送っている人はまずいない。
だから、余程 不衛生な状態でないかぎり、気にしても仕方がないところはある。
ただ、潔癖症の人もいれば、その逆の人もいるわけで、衛生観念は個人の性質によるところが大きいため、ちょっと間違うとトラブルになってしまう。
したがって、当社における、消毒事業においても、「消毒の成果を証明することはできない」「無菌化の実現を保証するものではない」ということは、あらかじめ説明し契約条項に記載。
その合意がないと契約・施工はしないのである。


男性が「クレーマー」と揶揄されたしまったところにあった真意は、子を案じる親の気持ち。
コロナ禍でイヤと言うほど思い知らされているが、事実、この世界には、多様な感染症があり、空気感染するウイルスも多い。
それで重い病にかかったり亡くなったりする人も少なくはない。
加えて、ただでさえ、“死”というものは恐怖・嫌悪されるわけで、孤独死・長期放置となると、そのマイナス感情は膨らんでしまう。
異臭や害虫など、ハッキリした害がなくても、気になる人には気になるし、気になるときは気になるもの。
話を聞けば聞く程、私は、男性の想いを察することができた。
と同時に、悪意はないのは百も承知だったが、落度があるのは担当者のような気がしてきた。
当初から、他住人に部屋の状況をキチンと説明し、遺族に対しても近隣への配慮を促すことが必要だった。
それが、実際は、逃げ腰・及び腰で、積極的に事の収拾を図ろうとしなかったわけで、そこのところが男性の不信感を買ってしまったものと思われた。

男性の想いが充分に理解できた私は、男性の要望よりハイレベルの消毒作業を思案。
“超ライト級”の現場なのだが、“ヘヴィー級”に近い対応をすることに。
そして、その内容を男性に説明。
男性は、こういう現場の処理については素人なのだから、理解できなくても納得できなくても私の提案を受け入れるしかなかったのだが、その表情は朗らかで、そこからは「信用してお任せします」といった心情を読み取ることができ、私はホッと胸をなでおろした。

私は、管理会社の担当者に男性の事情を伝えた。
そして、やや担当者を非難するような言い回しになってしまったが、男性と話し合うことを進言。
担当者は、男性が“クレーマー”ではないことを理解してくれたようだったが、トラウマになっているのか、それでも、男性と関わるのは気が進まないよう。
結局、男性と和解する話は、担当者の生返事で終わってしまった。
が、とにもかくにも、男性との約束もあるし、現場を放っておくわけにはいかない。
早急に作業に着手し、充分な期間を設けて粛々と進行。
「気になることがあったら遠慮なく連絡ください」
と、念のため 男性に携帯電話番号を伝えていたのだが、一度もかかってくることはなく、一連の作業は無事に終えることができたのだった。


私にも、痛いほど心当たりがある。
表面的に合わせることは何とかできても、真に誰かと想いを共有するって難しいもの。
「話せばわかる」と言うほど簡単なことではない。
言葉が足りないせいか、行動が足りないせいか、そして、想いが足りないせいか、どこかで、我慢・妥協・迎合を要する。
その我慢を「自制」に、妥協を「寛容」に 迎合を「尊重」に変えることができればいいのだけど、それに先んじて不満や怒りが湧き上がってしまう。
で、理解することも理解されることも、受け入れることも受け入れられることもなくなる。

淋しく諦めるか、無理に開き直るか、それとも、省みて自分をやり直す勇気を持つか。
大切な一人一人に、残された一日一日に、そして、過去と今と未来の自分にキチンと向き合うべきなのだろうと想う寒冷下の私である。
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無関心と孤独

2022-12-31 09:52:14 | 腐乱死体
2022年大晦日、今年も今日でおしまい。
世間は、正月に向けて賑やかに華やかになっている。
ただ、そんな祝賀ムードに反して、コロナ禍が、再び暗い影を落としている。
まさか、こんなに長い戦いになるとは・・・
「もう、大きな波はこないのではないか・・・」
七波が過ぎた頃、何の根拠もない中で、私は、何となくそんな風に思っていた。
しかし、現実はこの通り。
再び、大波が押し寄せている。

ただ、世の中に漂う不安感は、それほど大きくない。
特段の行動制限もないうえ、メディアも、以前のような不安を煽るような?報道もしていないような気がするし。
また、外国人観光客も戻りつつあるようだし、気持ちにも財布にも余裕がない私には縁のない話だけど、TVをつけると、家族や友人を連れ立ってショッピングやレジャー、行楽や旅行、趣味や飲食を楽しむ人の姿が多く映し出される。
良し悪しは別として、“withコロナ”が定着しつつあるのだろう、慣れてしまった感が強い。

当初は、ワクチンを打たない人は少数派で、時には、非難の的になることもあった。
が、接種回数が進むにつれ、接種率も低下。
副反応のツラさや重症化率・死亡率の低下が影響しているのだろう、私の周りにも、「面倒くさいから」と、四回目を打たない人がでてきている。
私もその一人なのかもしれないけど、多くの人が、良くも悪くも危機感が低下、良くも悪くも無関心になっているような気がする。

しかし、この第八波、感染者数だけみると、第七波を超えて最大の波になりそう。
依然としてコロナの感染力は強いわけだし、危惧されていたインフルエンザとの同時流行も現実化しつつある。
重症化率や死亡率が高くないとはいえ、重症化している人や亡くなる人が絶えているわけではない。
事実、一日の死者数は400人を超え、過去最悪を記録。
病院への見舞いが制限される中で、淋しく亡くなっている人も少なくないはず。
更に、今が八波のピークではないわけで、重症者や死亡者はまだまだ増える。
高齢者じゃなくても基礎疾患がなくても、油断は禁物。
後遺症に苦しんでいる人も多いようだし、「他人事」として済ませるわけにはいかない。

そうは言っても、今更、行動制限をかけるのは困難。
ここまできての行動制限は、感情的に不満を覚え、感覚的に違和感を覚え、経済的に厳しさを覚える。
医療関係の方々には申し訳ないが、行動制限によるメリットよりもデメリットの方が大きいような気もするし、今更の行動制限が“焼け石に水”になるのは明白。
となると、我々は、コロナに対して無関心にならず、できることをやるしかない。
まずは、基本的な感染対策の励行。
あと、打てる人はワクチンを接種すること。
旅行や飲食は中止しないにしても、責任ある行動と周りへの配慮は大切にしたいものだ。



ある日の夜、とある不動産管理会社から電話が入った。
依頼の内容は、
「管理物件で孤独死が発生」
「発見されるまで時間がかかった」
「苦情がきているわけじゃないが、マズイ状態」
というもの。
話の内容から、私は、ヘビー級の汚染の想像。
次の日の朝一で現場に出向く約束をした。

出向いた現場は、かなり古いマンション。
私は約束の時間より少し早く現場に到着。
建物に間違いがないか確認するため外壁に建物名を探したが、それより先に、私の視線は一室の窓に引き寄せられた。
その部屋の窓には、でっかく成長した無数のハエが・・・
「ここかぁ・・・」
建物名や部屋番号を確認するまでもなく、私は、そこが現場であることを確信し玄関の方へ。
「かなり臭うな・・・」
慣れたことだから、不快に思ったわけでも緊張したわけでもなかったが、それでも、私の眉間にはシワが寄ってしまった。

担当者は、約束の時間通りにやってきた。
見た感じ、歳は三十前後か。
不動産管理の仕事に就いて数年が経っていたが、こういった現場に遭遇した経験はないそう。
にも関わらず、会社からは「一人で行ってこい」と指示されたよう。
孤独感と心細さのせいか、その表情は硬く、やや強ばった感じ。
普段はスーツを着て仕事をしているのだろうに、その時は、作業着のような私服姿。
“腐乱死体現場”とはいかなるものか、インターネットで下調べをしたそうで、自分なりに考えて、部屋に中に入るための対策を講じているようだった。

ただ、実際のところ、部屋に入るだけでは服が汚れたりはしない。
もちろん、汚れたところを踏んだりすれば靴が汚れてしまうけど。
飛び回るハエだって、わざとぶつかってくるようなことはないし、這いまわるウジだって、わざわざ近寄ってくるようなこともない。
むしろ、逃げようとするばかり。
だから、部屋を見るだけなら汚れを心配する必要はない。

問題なのはニオイ。
短時間でも、服や髪に付着する。
ちょっと長い時間になると、露出した皮膚にまで付着する。
ヘヴィー級の現場で特殊清掃なんかやったりすると、ヒドいことになる。
このブログで たまに登場する「ウ〇コ男」の状態になるわけ。
当然、そのまま、電車やバスに乗ったり、店に入ったりすることはできなくなる。
咎められることはないかもしれないけど、人に不快な思いをさせ顰蹙を買うことは間違いない。
だから、マナーとして“ウ〇コ男”は、公の場に姿を現してはいけないのである。

担当者は、窓に集るハエと、玄関前に漂うニオイと、インターネット情報に脅されて及び腰。
明らかに部屋に入りたくなさそう。
ただ、凄惨な部屋に私一人を突っ込むことに罪悪感みたいなものも覚えているよう。
「私も一緒じゃないとだめですよね?」
と、ちょっと気マズそうに訊いてきた。
一方、その心情を察した私は、
「大丈夫ですよ!ニオイもつくしトラウマになるといけないから、○○さん(担当者)は入らない方がいいかもしれませんよ」
と、“ドンマイ!ドンマイ!”といった雰囲気で明るく返答。
ホッと安堵の表情を浮かべる担当者から鍵を受け取り、高濃度の異臭とハエが飛び出してくることを警戒しながら鍵を開け、ドアを最小限に引きて素早く身体を滑り込ませた。

間取りは1DK。
玄関を上がった脇に浴室とトイレ。
その隣がDKで、更に奥が居室。
部屋には布団が敷かれており、遺体汚染は、そこを中心に残留。
汚染具合は重症で、敷布団には身体のカタチがクッキリと浮かび上がっており、掛布団も酷い有様。
腐敗体液をタップリ吸い込んだ状態で、グッショリと茶黒く変色。
その中には、丼飯を引っくり返したようなウジ群がウヨウヨ。
また、枕は、頭のカタチに丸く凹んでおり、カツラのごとく頭髪も残留。
もちろん、高濃度の異臭も充満。
私の出現に気づいた窓辺のハエも、狂気したように乱舞。
故人にその意図がなかったことは当然のことながら、
「どうして、ここまでになるまで放って置かれたかな・・・」
と、私は、何かに対して不満を覚えた。


現場は、結構な老朽建物。
建物としての寿命も過ぎており、修繕やメンテナンスの費用を考えると、不動産運用の旨味はなし。
取り壊しになるのも時間の問題で、部屋が空室になっても積極的に入居者を募集することもしていないようだった。
本来なら、隣や上の部屋にニオイの影響があってもおかしくない状況だったが、そんな事情もあり、故人宅の隣室も上室も空室。
また、故人宅は角部屋でもあり、玄関前を歩く人もおらず。
それでも、風向きによっては、故人宅から発せられる異臭は感知できたはずだし、何より、おびただしい数のハエが集る窓は異様な光景となっていたわけで、そこに関心を寄せないことも、やや不自然に思われた。
が、何事においても余計なことに関わりたくないのは人の性。
他の住人が「見て見ぬフリ」をしていたかどうかは不明ながら、その心情がわからなくはなかった。

“近所付き合い”なんて、積極的にしなくても支障はない。
本件のような単身者用の賃貸物件なら尚更。
町内会や管理組合等の縛りがあるわけではないし、顔を合わせたとき、一言、挨拶を交わすだけで礼儀は守れる。
昨今では、隣室などに引っ越しの挨拶をしないのも失礼にあたらず、むしろ当り前のよう。
事実、隣にどんな人が住んでいるのか知らないケースも多いのではないだろうか。
他人に無関心でいることは、ある意味、プライバシーを守るための自己防衛であり、相手に対するマナーであったりもする。

ただ、この社会を生きていくうえでは、人づき合いは不可欠。
そして、「人付き合い」って、楽しいことも多いが煩わしいことも多い。
とりわけ、仕事上では、気の合う人とだけ、好きな人とだけ付き合えばいいということにはならない。
気の合わない人や嫌いな人とも付き合っていかなければならない。
となると、お互い、“いい人”でいるために一定の距離が必要になる。
とりわけ、相性の悪い相手だと、お互いで本音と建て前を使いわけ、愛想笑いの裏で腹を探り合いながら付き合っていくことが求められる。
そんな、必要最低限、上辺だけの社交辞令だけで付き合いきれなくなると、「親しき仲にも礼儀あり」といったルールが崩れ、“いい人”ばかりではいられなくなる。
相手の一挙手一投足にストレスを感じるようになり、そのうち、陰口を叩くようになってきて、それが態度や表情に表れはじめ、幼稚な争いに発展してしまうこともある。
それで絶交できればいいのだが、現実的にそれができない場合、最悪、自分を殺して付き合うしかなくなってしまう。

ちなみに、私の個人的な感覚なのだが・・・
耳障りがいいからか、意味が曖昧で使いやすいからか、一文字の字面がいいからか、東日本大震災が期だったように記憶しているが、「絆」という言葉がもてはやされるようになって久しい。
私が、人付き合いが苦手で下手なせいか、あちこちで多用されるこの言葉には、何とも言えないムズ痒さを覚える。
「詭弁」とまでは言わないけど、「言葉と現実が乖離している」というか、「人の都合で強弱が変わる」というか、大なり小なり、ある種の共喰いや同士討ちがやめられない性質を持つ人間にはシックリこないような気がするのだ。


人付き合いを好む好まざるを問わず、高齢化が著しい社会の中では、社会との関りや人との繋がりを失った独居老人が増えている。
また、経済事情の厳しさや価値観の変化から、結婚願望を持たない若者も。
つまり、「私生活は一人」という人は多く、また、増えていくということ。
となると、「孤独死」も増えていくということか。

「孤独死」というと、「淋しそう」「かわいそう」等といった否定的な感情や暗い印象を抱きやすい。
しかし、「一人でいる」って、明るい一面もある。
何より、気楽。
誰かに干渉されることもなく、誰かを干渉する気を持たずにも済む。
事実、淋しさや孤独感を覚えることなく、一人を楽しんでいる人も多いと思う。
一人で生きるのが淋しい人生とは限らないし、多くの人に囲まれて生きる人生が淋しいものであることがあるかもしれない。
もちろん、淋しさに耐えながら、仕方なく一人でいる人もいると思うけど、それでも、そういう人を一方的に憐れむのは、軽率なことのように思う。
最期が孤独死だったからといって「淋しい人生だったのではないか」と、浅慮な早合点をしてはいけない。

とにもかくにも、人が一人で死んでいくことは自然なこと。
そして、その身体が朽ち果てるのも。
ただ、人間は社会的動物なわけで、死後、放置されることは、世間から自然なこととは受け止められない。
時に、それは、過剰な悲哀や嫌悪感を誘う。
肉体の腐敗が進み、現場が凄惨なものになると尚更で、故人の何もかもが否定的に捉えられやすくなってしまう。

しかし、現実の孤独死の現場では、
「どんな人生でしたか?」
と、世間が否定しがちな人生を肯定的に受け止めようとする気持ちが湧いてくる。
また、自殺現場では、
「必死に戦ったんですよね・・・」
と、世間が否定しがちな人生を労う気持ちが湧いてくる。
生前からの汚部屋やゴミ部屋では、
「どうしてこんなことしちゃったかな・・・」
と、非難に近い疑問を覚えることはあるけど、それでも、その人生を蔑むことはない。


「愛」の対義は「無関心」とも言われる。
確かに、一理も二理もあると思う。
世界や社会の諸問題、弱者や困窮者に関心を寄せないのはよくないことだろう。
しかし、「無関心=非情」とは言い切れないとも思う。
無益なことを知らずに済み、余計なことを考えずに済むから。
無用な争いを引き起こさずに済み、誰かをキズつけないで済むから。
無関心が孤独死の発見を遅らせ、遺体を腐らせ、人々の嫌悪感を膨らませ色々なところに害を及ぼしてしまうという事実はあるが、人が平和に生まれ、平和に生き、平和に死んでいくため、世間が大らかに受け止めることも大切になってくるのではないかと思う。

「愛のある無関心」と「淋しさのない孤独」
これからの時代、今までにはなかった概念や観念が必要とされ、今までは持ち得なかった価値観や感性が重宝されていくのかもしれない。
“一人”は“一人”なりに、楽しく幸せに生きていくために。

今年も色々あった、色々なことがあり過ぎた。
「人生、悪いことばかりじゃない」と言い聞かせながらも、良いことを探しあぐねた一年。
そんな一年も今日で終わる。
明日からの2023年が、一人一人にとって、よい年になるよう願うばかりである。

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わけあり

2022-12-13 08:21:51 | 自殺 事故 片づけ
2022年も師走に突入。
忘年会やクリスマス、正月仕度で、何かと物入りな時季がやってきた。
しかし、そんなことおかまいなく、前回も書いたとおり、懐は寒々しいかぎり。
更に、昨今の物価高が、それに追い討ちをかけている。

色々な訳があることは理解できるけど、あちらこちらでモノの値段が上がりっぱなし。
とりわけ、庶民の財布を直撃する電気・ガス・食品については、頻繁にニュースになっている。
ガソリンも、一時期に比べれば下がりはしたものの、高止まりが続いている。
もともと使う金額が小さいから、これまであまり意識することはなかったが、ここにきて生活コストの高さを実感することが増えてきた。
私は、毎月、決めた予算内でやりくりしているのだが、以前に比べて、月末にかけての残金の少なさを痛感させられるようになってきたのだ。

予算を増やせない以上は、支出を抑えるしかない。
まずは、電気とガス。
もともと省エネ生活を心掛けている方だけど、今は、一層、それを強化。
エアコンはあるが、暖房で使うことはせず。
コンセントを抜いて休眠状態に。
コタツやホットカーペットは、そもそも持っておらず。
部屋にある暖房器具は、小さなガスストーブだけ。
どうしても寒いときにはこれを使い、あとは、厚着と靴下と膝掛でしのぐ。
また、どんなに寒い日でも、風呂は短いシャワーのみ。
浴槽に湯をためて温まるなんて贅沢なことは一切しない。

光熱費もさることながら、食費の節約効果は更に大きい。
その分、やり甲斐(?)はある。
ただ、単に「安ければいい」というのではなく、量・味・質が値段以上でなければならない。
それで、しばらく試行錯誤。
で、結局、色々と考えたり選んだりするのが面倒臭くなり、現在は、三食、ほとんど同じものを食べるようになっている。
魚はしばらく前から、今は、肉も食べなくなっている。
かつては庶民の味方だった鶏肉も、今は、例年にないくらいの品薄状態で、値段もかなり上がっている。
どうしても食べたければ買えばいいのだが、そこまでの食欲はないし、小さなことでも例外をつくると、せっかくの節約生活が総崩れを起こしかねないので、このところは、精肉コーナーには近寄らないようにしている。

しばらく前の暖かい季節の話だが、その鶏肉について、ちょっとした出来事があった。
ある日、私は、よく利用しているスーパーに食品の買い出しに出掛けた。
そのときは“肉気分”だったので、いつもの鶏肉を目当てに精肉売場へ。
すると、“半額”の割引シールが貼られた鶏肉が一パック出ていた。
消費期限は“当日”。
節約志向の強い・・・平たく言うと「ケチ」な私は、すかさず、それを手に。
その肉は、割引になっていない品と比べると明らかに色あせ、ドリップも多めに流出。
しかし、私は、「今日中に食べればいいんだろ?」「今夜は、これで一杯をやろう」と、冴えない見た目は気にせずカゴに入れた。

家に帰り、風呂に入ったりして、一通りの用を済ませ、肉のパックを開封。
すると、予期せぬ事態が・・・
異臭には慣れているはずの私でも動揺するくらいの、思いもしない異臭が鼻を突いてきたのだ。
それは硫黄のようなニオイで、「わずかに臭う」といったレベルではなく、ハッキリと感じられる濃度。
そう、その鶏肉は、腐りはじめていたわけ。
店側に悪意はなかったはずだから、「だまされた!」とまでは思わなかったけど、「勘弁してくれよぉ・・・」と、トホホな気分に。
さりとて、嘆いてばかりいても仕方がない。
私は、この肉をどうするか思案。
もう風呂にも入ってしまったし、片道数分の距離とはいえ、返品しに行くのは恐ろしく面倒臭い。
かと言って、そのまま捨ててしまうのも、極めて惜しいことだった。

元来、食べ物を粗末にするのが大嫌いなうえ、賞味期限や消費期限に無頓着な私は、「火を通せば食べられるかな?」「塩味を濃くすれば大丈夫かな?」等と、わけのわからないことを考えた。
しかし、加熱したところで鮮度が戻るわけはなく、また、塩をしたところで保存性が回復するわけでもない。そんなこと誰でもわかること。
また、明らかに腐っているわけだから、「もったいないから」と無理して食べて、その後、どうなるかは容易に想像できる。
嘔吐・下痢・腹痛、場合よっては仕事に行けなくなるかも。
結果的に無事であったとしても、食後しばらくはヒヤヒヤしながら過ごすことになるに決まっている。
ロシアンルーレットをやるようなもので、そこまでして食べるメリットはない。
で、相当悩んだ結果、泣く泣く廃棄した。

そしてまた、つい一か月くらい前、同じスーパーでのこと。
よく食べる安い冷蔵餃子を買うべく、いつもの陳列棚へ。
すると、その中の一パックに“二割引”のシールが。
それに気づいた私は、例によって、手に取った。
見ると、消費期限は翌日。
「同じ物なら安い方がいい」と、迷わず、それをカゴに入れた。

その後、私は、いつも買う商品を一通りカゴに入れ、レジを通過。
そして、詰め替えカウンターへ移り、商品をカゴからマイバッグへ移し替え。
その餃子を手にしたとき、ある異変が目に飛び込んできた。
それは、ラップ越しの餃子に浮かぶ緑の点々。
よくみると、それは一か所や二か所ではなく、結構な広範囲に。
「カビ!」とわかった私は、すぐレジに戻り、モノを見せながら店員に説明。
すると、状況を飲み込んだ店員は、売り場へダッシュ。
新しい商品を持ってきてくれ、割引シールが貼られていないのに、「差額は結構ですから」と、そのまま私に持たせてくれた。

“わけあり”だから割引シールが貼られているのは百も承知。
こういうことが起こると、いちいちSNSにアップするのが今流の“正義”なのかもしれないけど、私は、SNSの類は一切やらないし、もともと、そんな“善人”でもない。
また、いちいちクレームをつけるのは私の主義ではないので、一つも文句は言わなかった。
あと、地の利もあるので、今後も、このスーパーは利用するつもり。
ただ、割引で得しても、身体を壊してしまったら大損。
「この店では、パッケージの賞味・消費期限はアテにしない方がいいな・・・」ということは学習したので、よくよく品定めをしたうえでの買い物を心掛けようと思っている。



訪れたのは、郊外に建つアパートの一室。
軽量鉄骨構造で、古いながらもシッカリした建物。
間取りは1DK。
ごく一般的な建物だったが、そこで起こったことは一般に馴染まないこと。
そこで暮らしていた中年男性が自殺してしまったのだ。

依頼してきたのは、このアパート管理する不動産会社。
現場にきた担当者は、人が亡くなった現場に関わるのは苦手なよう(得意な人はいないか・・・)。
ましてや、それが自殺現場となると、本当にイヤなよう。
私は、神経が完全に麻痺しているので何ともないのだが、フツーの人にとって“自殺現場”というものは、気持ちのいいものではないことは察しがつく。
しかし、選り好みで仕事はできないし、会社組織で動いている以上、好き嫌いは言っていられない。
担当者は、罰ゲームでもやらされているかのような嫌悪感を滲ませながら玄関の鍵を開けた。

部屋は、故人が生活していたときのまま。
“中年男性の一人暮らし”にしては、きれい過ぎるくらい。
また、発見は早かったそうで、遺体による汚染や異臭も皆無。
特別な霊感でもあれば別だろうが、何の説明もなく そこで起こったことを察するのは不可能なくらい平和な状態だった。

ただ、台所は、フツーの家とは異なる様相。
「あるべきもの」というか、本来なら、どこの家にもあるものがない。
冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、ガスコンロをはじめ、食器棚もなし。
どこからか越してきたのなら、TV・冷蔵庫・洗濯機などは、以前から使っているものがあるはず。
にも関わらず、それら生活必需品の姿はなかった。

その理由は一体・・・
「引っ越しを機に新調するつもりだった」とか、「前は食事付の社員寮に入っていた」とか。
社員寮に入っていたと仮定すると、故人は、何らかの事情が発生して、そこを出なければならなくなったのか。
とは言え、このアパートに入居できたということは、無職・無収入ではなかったはず。
転職を機に越してきたのかもしれなかったが、正規社員ではなくなり、契約社員とか、業務委託契約になったりした可能性もあった。

同一企業・同一業務における業務委託契約への変更は、従来の雇用契約と大差ないように思われがちだが、事実上は“体のいいリストラ”。
個人事業主となるわけで、これまで身を守ってくれていた労働基準法や会社の処遇を失い、仕事がハードになる反面、収入は不安定になりやすい。
極端な言い方をすれば、日雇労働者みたいな境遇に陥ってしまう可能性もある。
決めつけたような言い方になるけど、そんな未来に、「希望を持て」と言う方が無理。
部屋には、社名・氏名・血液型が記された作業用ヘルメットと汚れた作業服が。
無造作に転がるヘルメットと無造作に脱ぎ捨てられた作業服は、故人の心情を代弁しているようにも見えた。

どちらにしろ、冷蔵庫や洗濯機がないと不便な日常生活を送らなければならないことは目に見えているわけで、買い替えるつもりがあるなら、とっくに用意していたはず。
また、調理器具・食器類くらいはあってもいいはず。
しかし、割箸はあったものの、鍋やフライパン等の調理器具、皿やコップ等の食器類はなし。
食品も同様。
「食べる」ということは、生きることに直結した生き物の本能的な欲であり、命を維持するための本能的な営みなのに、カップ麺もレトルト食品も缶詰も、米や調味料類も一切なかった。

口に入れるもので置いてあったのは、四合瓶の泡盛が一本だけ。
言うまでもなく、そのアルコール度数はかなりのもの。
その泡盛、蓋は開けっぱなしで中身も空。
コップもない中でラッパ飲みしたのか・・・
“別れの盃”なんてつもりはなかっただろうけど・・・
下戸の故人が、決行を前に一気飲みしたのか・・・
到底、故人の想いを知ることはできなかったが、
「ここに越してきた端から、この世に長居するつもりはなかったのかな・・・」
「仕事も生活も、過去を悔やむのも未来を憂うのも、何もかもイヤになっちゃったのかな・・・」
あくまで、物見高い輩の野次馬根性、下衆の勘繰り、個人的な推察の域を越えないけど、自殺という現実を知っていた私の頭には、そういった向きの考えばかりが過っていき、重苦しい切なさが覆いかぶさってきた。

室内の調査を終え、私は、外で待つ担当者のもとへ。
担当者は、入室前に渡した私の名刺をマジマジ見つめながら、
「この仕事は、もう長いんですか?」
と、何かに同情するかのような暗い表情でそう訊いてきた。
キャリアを訊いてくる理由の一つは、「経験が豊富かどうかを確認することによって、その人物・会社・仕事の信頼度が計る」というものだろう。
決して珍しい質問ではないから、そういうときは、決まって応えるセリフがある。
「残念ながら、長くやってます・・・」
実際、ウソではないし、そう言って他人事みたいに笑うと、苦笑いながら相手も笑みを浮かべてくれ場が和む。
で、その後のコミュニケーションがうまくとれるようになるのである。

そんな質問をしてくる他の理由として、「この人は、なんでそんな仕事をしてるんだろう・・・」といった好奇心もなくはないだろう。
そういうことは、言葉にでなくても、肌で感じるもの。
実際、これまで出会ってきた中で、私のことを“わけあり”と思った人な少なくないはず。
また、私の仕事があまりに“珍業”なため我慢できなかったのか、その類の疑問をダイレクトにぶつけてきた人もいる。
ただ、一部の法人客を除き、当該の仕事が終われば、その内のほとんどの人とは縁がなくなるわけだから、余程の無礼がないかぎり、気を悪くするようなことはない。
“わけあり”な人間であることは間違いのない事実だし。


この仕事に就いたキッカケ・動機については、十数年前、このブログを書き始めた頃、「死体と向き合う」という表題で二編書いた憶えがある。
若かった、浅はかだった、就業当時、二十三。
著しい不幸感・絶望感に苛まれていた私は、「他人の不幸を見てやろう!」「その先は、どうなったってかまわない!」と自暴自棄になっていた。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、あれから三十年、よくもまぁ、ここまでやってきたものだ。

思い返せば、食っていくために必要だった。
言い換えれば、死なないために必死だった。
それでも尚、この人間は惨めなまま。
ただ、ポツンと生きている。
死人のように、ただ生きている。

何事も“始まり”があれば“終わり”がある。
いつ、どういうカタチで終わりがくるのかわからないけど、“終わり”は必ずくる。
それまでは、やり続けるしかない。
しかし、やるからには、「食うため」以外の“わけ”がほしい。
ただ“食うため”だけに時間を浪費し、ただ“食うため”だけに身体を酷使し、ただ“食うため”にだけに精神を削り、いつの間にか歳だけとっていく・・・
そんな生き方は、ホトホト疲れた。本当につまらない。
何か、「食うため」以外の働き甲斐がほしい。
苦労して生きるのだから、少しくらい生き甲斐がほしい。

「人助け?」「社会貢献?」「使命?」
残念ながら、その類は、私の生き甲斐にはならない。
「金?」「物?」「名誉?」
少しは響くものがあるけど、それはそれで虚し過ぎる。
結局、生き甲斐は見つけられずじまい・・・
悲しいかな、生き甲斐を探し続けて終わる人生のような気がする。

生まれてきたことには“わけ”があるはず。
こうして生かされていることにも、
そして、死んでいくことにも、
人知を超えたところに“わけ”がある。
例え、その意味が見つけられなくても、そこに“わけ”があることを知らなければならない。

生きることの惨めさをやり過ごすために。
生きることの虚しさを忘れるために。
生きることの苦しさに負けないために。

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貧しさと切なさと心細さと

2022-11-28 07:00:22 | ごみ処分
11月も下旬、師走が目前に迫っている今日この頃。
朝晩はもちろん、陽によっては日中も寒さが感じられるようになっているが、そんな季節の移ろいをよそに、春だろうが夏だろうが、懐はず~っと寒いまま。
足音聞こえる真冬に忖度しているわけでもないだろうに、温かくなりそうな兆しは一向にない。

少し前、TVの報道番組で観た切ない話。
そこでは、コロナ禍、円安、物価高により、経済的に困窮している人に焦点を当てたコーナーで、何人かの実例が取り上げられていた。
これを観ても明るい気分にならないことはわかりきっていた。
しかし、他人事として片付けられない不安感に駆られて、チャンネルを変えることなく視聴した。

派遣業の20代男性。
仕事がなく、取材時の所持金は百数十円。
働く気があっても 自分に回ってくる仕事はわずか。
少し前まではネットカフェで寝泊りできていたものの、金がなくなり路上生活に。
何度か役所に生活保護の相談に行ったが、「若いから」「住居がないから」と門前払いになっていた。

零細企業経営の50代男性。
コロナ禍で売上が激減。
それでも、「コロナが過ぎれば復活できる」と希望を持ち続け、事業を継続。
しかし、コロナは一向に収束せず、それに物価高と円安が追い討ちをかけ、経営は更に悪化。
ほとんどの社員を解雇しても赤字は解消せず。
貯えも底をつき、本業以外のアルバイトで何とか生活を維持していた。

ホームレスの50代男性。
支援団体のサポートにより、雑誌を路上販売しながら生活。
しかし、日々の収入の波が激しく、一日の収入は数百円から数千円。
路上生活から脱出するには程遠い金額で、食事がとれないこともしばしば。
おまけに、行政により住み慣れた公園からも追い出され、新しいネグラを探すしかない境遇だった。

この類の話を書いていると思い出すことがある。
それは、K県Y市N区K町。
もう、十年以上も前のことになるだろうか、そこで2~3度仕事をしたことがある。
職業紹介所を中心に、ドヤ(簡易宿泊所)、反社っぽい事務所、そして、朝から酒を飲める飲食店等々が密集。
失礼な言い方になるが、ボロい建物が多く、ただの偏見なのだが、悪臭を感じるような全体的に不衛生に思える雑然とした街。
今はわからないが、かつては「日雇労働者の街」と言われ、当時は、「治安が悪い」とされていた。

実際に行ってみると、目的もなさそうにフラフラと歩いている人、昼間から店先で酒を飲んでいる人、路上に屯してタバコをふかしている人、歩道に寝転がっている人があちらこちらに・・・
そこには、「いかにも」といった荒れた光景が広がり、一般市民が近寄り難い不穏な空気があった。
出向く際、街を知る人から、
「警察も取り締まりに来ないから路上駐車しても大丈夫」
「ただ、“当り屋”がいるから車の運転には気をつけろ」
と言われ、そのエリアでは、慎重に前後左右の安全確認を行いながら最徐行。
また、
「車の外から見えるところにバッグとか置くな」
「食べ物もガラスを割られて盗まれる」
と言われ、外から見える座席には何も置かず。
しかし、そのように気をつけていたにも関わらず、ほんのちょっと目を離した隙に、私は、車の陰に置いておいた工具箱を盗まれてしまい、自分の甘さを痛感させられた。

多くの庶民が貧しくなっている現実は、私が長々と書き連ねるまでもないこと。
この30年、日本人の賃金が上がっていないことは、誰もが知る通り。
反面、物価や社会保険料・税金が上がっているのだから、実質賃金は低下。
「一億総中流」と言われていた時代は過去の夢物語。
日本の貧困層は拡大するばかり。
かつての中間層は貧困層に転落し、一部の富裕層だけが豊かさを独占。
とはいえ、今では、その富裕層さえ、世界的にみると増加数は著しく少ないそう。

年のせいもあり、最近、年金について興味を持つようになってきたのだが、年金制度も然り。
保険料は上昇、支給額は減少、納付期間は延長、受給開始時期は平均寿命に近づく一方。
それでも、老後の生活を年金だけで維持できるのは一部の人。
多くの人は、年金だけではやっていけず、極端な節約生活をするか、働いて副収入を得るか、どちらかしないと生きていけない。
まさに「死ぬまで働け!」「働けないなら死ね!」と言われているのと同じこと。
なんと心細いことか・・・
私が、俗にいう「負け組」だからそう感じるのかもしれないけど、ここまでくると、夢も希望も持てず「あまり長生きしない方がいいのでは・・・」と思ってしまう。

国民一人一人の苦境もさることながら、日本の行く末にも暗雲が垂れ込めている。
「販売力」だけでなく「購買力」も含め、国際競争力は低下の一途をたどっているよう。
「先進国」と言われる我が国より新興国の方に勢いを感じるニュースも多々。
低所得とデフレと円安により、外国からみても日本は「安い国」になっているし、「小国」になりつつあるという。
ひと昔前、日本人が海外で爆買いしていた時代があったのに、今やそれが逆転。
観光や一般消費に外国人が金を使うのは大歓迎なのだが、不動産・企業・人材・利権など、あまり買われたくないものまで買い漁られている。
海外からの「出稼ぎ」も同様。
出稼ぎ先としての魅力は低下するばかりで、今や、日本人が海外に出稼ぎに行くような事態になっている。

ただ、表立ってニュースになるのは、ほんの一例、見えている問題は氷山の一角。
苦境に喘いでいる人は、陽の当たらないところにもっとたくさんいるはず。
資本主義・競争主義のわが国では、「自己責任」が大前提となるのだろうが、そこには、それだけでは片付けられない悲しみがある。
それは、皆、「仕事がほしい」「働きたい」と思っているからだ。
怠け者やズルい人間が貧乏をするのは、まぁ、仕方がないと思う。
しかし、そうでない人間が人並の暮らしができないなんて、どういうことなのだろうか。
働きたくないわけでも怠けたいわけでもないのに・・・ただ、「生まれてきた時代が悪かった」「生まれてきた国が悪かった」と思うしかないのだろうか。

そうは言っても、何もかも社会のせい、他人のせいにしていても仕方がない。
この時代をサバイバルしていくしかない。
となると、まずは、自分や家族を守ることが第一。
金にも心にも他人のことを思いやるような余裕はないため、どうしても、他人のことは二の次・三の次。
「自分さえよければそれでいい」とまでは言わないけど、この現実を前には、薄情にならなければ生き延びられなかったりもする。
人として心の貧しい状態に陥るわけだが、生き残るためにはやむを得ないのか。

経済的に豊かでなくなる分、心や生き方が豊かになればいいのだけど、人間は、長い歴史の中で、生き方や心の豊かさを物理的・経済的な豊かさに委ねるように。
残念ながら、経済的な貧困が心を貧しくさせる方程式は、ごく一部の人を除いて普遍の原理となっている。
そして、この感性や価値観を変えるのは至難の業。
この“豊かなような貧しさ”は、その時々でせめぎ合いながら、これからも我々を葛藤させるのだろう。



頼まれた仕事は、ゴミの片づけと清掃。
依頼者は、マンションの管理会社からその片づけを依頼された清掃業者。
管理会社の事業規模は大きく、何棟ものビルやマンションを管理。
多くの外注先や下請会社を抱えており、この清掃業者のその一社。
この清掃業者は、当管理会社とは古くから取引関係にあり、多くの物件で仕事を受注。
となると、立場的に、「できません」「やりたくありません」とは言えず。
そうは言っても、特殊清掃業者ではないため、あまりの汚さに自社でやること躊躇。
どこか、丸投げできる業者を探している中で、当社にたどり着いたようだった。

清掃会社がそういう社風なのか、担当者個人の性質なのか、この担当者は、感じのいい人物ではなかった。
取引実績もないのに客ヅラ。
物言いも上から目線で、会ったこともないのにタメ口。
こちらが仕事欲しさにヘコヘコするとでも思っているのか、とても、人に頼みごとをするような態度ではなく、私の中には嫌悪感が沸々。
しかし、あくまで一仕事上の一時的な関り。
いちいち引っ掛かっていては、世の中は渡っていけない。
とりあえず、現地調査の依頼はおとなしく引き受け、初回の電話を終えた。

訪れた現場は、マンション敷地内の一角。
外の道路とは大人の背丈より少し高いくらいの金網で隔てられており、普段は、人が立ち入らないような裏地。
そこに、大量のゴミが堆積。
おそらく、始めは、ゴミ出しルールを守らないマンションの住人が隠れて捨てたのだろう。
それから、少しずつゴミは増えていき・・・
そのうちに、ゴミがゴミを呼ぶかたちで、通行人も、道路から金網越しに投げ込みだし・・・
雨風にさらされたゴミは月日とともに腐食し・・・
腐敗した食品も見え隠れする中、害虫や異臭が発生し、ドブネズミの巣となり・・・
ゴミの内容を確認するため、私が少しのゴミを動かすと、「胴体だけでも20cmはあろうか」というくらい巨大なドブネズミが何匹も飛び出してきて、驚いた私は思わず「ウワッツ!」と声を上げ のけ反ってしまった。

現地調査を終えた私は、会社に戻って見積書を作成。
担当者にメールし、併せて、電話をかけ内容を説明。
私は、担当物に対する反抗心もあって、料金も免責事項も強気に設定。
「ご注文は、料金と作業内容に充分納得してからお願いします」
「後々、トラブルになっては困るので」
と、礼儀に反しないように気をつけながらも、あえて“お仕事くださいモード”の平身低頭な態度はとらなかった。

対する担当者は、
「この値段じゃ、よそにお願いするしかないかな・・・」
「値段によっては、今後も、引き続き、おたくに仕事を出せるんだけどね・・・」
と、思わせぶりなことを言って駆け引き。
しかし、担当者に業者を選ぶ権利があるのと同じで、こっちにも客を選ぶ権利はある。
“良縁”は大歓迎だけど“腐れ縁”はご免。
実際、こういった業者が“お得意様”になったためしはない。
私は、ある程度の値引きに応じる余力はあったものの、
「“足元を見やがって”って思われるかもしれませんけど、あの状態ですからね・・・」
「特別な技術が必要なわけじゃないので、やろうと思えばご自分達でもできるはずですよ」と、ちょっと意地悪な言い方で譲歩せず。
その後のことは成り行きに任せることにして、値引きには一切応じず電話を終えた。

その後、数日して担当者から再び連絡が入った。
「他に業者が見つからなかったから」とは言わなかったが、おそらく、他にやってくれる業者がみつからなかったのか、当社より料金が高かったかのどちらかだろう、“渋々”といった感じで、当該業務を当社へ発注。
一方、私は、表向きは快く受諾。
ただ、腹の中では警戒をゆるめず。
作業後に難癖をつけられないよう、念を押すように免責条項を説明。
具体的な作業計画は契約書を取り交わしてから立てることを了承してもらい、できるだけ早急に対応することを約束した。

作業の難易度は想定内。
掘り出されて膨らんだゴミ・ガラクタの量も、ほぼ想定内。
しかし、陶器・ガラスやスプレー缶、電球・電池や刃物など、危険物は想定以上。
また、その不衛生さも想定以上。
ゴミ山は全体的にドブネズミの巣と化しており、あらゆるものをかじり砕き、大量の糞が混在。
ネズミは食料を持ち込んでくるだろうし、死んでしまえば死骸となって腐る。
ともなって、異臭や害虫も発生。
これもウジの一種なのだろうか、いつもの現場で遭遇するウジに比べると大型のイモ虫も大量に発生。
とにもかくにも、どこから飛び出してくるかわからないネズミを警戒しながら、鋭利なものでケガをしないよう注意しながら、それらを少しずつ始末していった。

作業が終わる頃、担当者も現地へ。
作業前に比べるとはるかにきれいになったのだが、それでも、
「こんなもんか・・・」
「これが限界?」
と、鼻で笑うかのごとく不満げにコメント。
労苦した作業の達成感もあって、
“ここまでやれば充分だろう”
“満足してもらえるだろう”
と自画自賛していた私にとって、それは非常に腹立たしい反応。
そんな私の腹が読めたのか、担当者は、もっと何か言いたげにしたが、事前に、免責事項を念入りに設けていたおかげで、それ以上のことは言わず。
私は、口から出かかった反論を呑み込み、“コイツとは二度と仕事したくないわ!”と思いながら、
「作業は、これで完了とさせていただきます」
「近日中に請求書をお送りしますので、よろしくお願いします」
と、一方的に話を締め、後ろ足で砂を蹴るようにして現場を後にした。


私もその一人だが、社会には色々なタイプの人がいる。
“良し悪し”は別として、合う人 合わない人がいるのも自然なこと。
担当者に悪意はなく、会社や上司からそう命じられていたのかもしれない。
一仕事として、自分の職責をまっとうしようとしていただけのことかもしれない。
私だって、公私を分けて生活している。
担当者のことを一方的にどうこう言えないようなところもある。
そうは言っても、不快感や憤りとは別のところにある、人間としての妙な貧しさを覚えてしまった。

経済力を頼りに、得ること、獲ることによって生まれる豊かさはある。
しかし、ある意味、欲は無限。
満足しないことで生まれる貧しさに気づかず、ひたすら追い求めてしまう。
私のような人間の価値観や志向はこれ。
一方、分けること、与えることによって生まれる豊かさもある。
他人の生き方や豊かな表情をみると、何となく、それを感じることがある。
ただ、残念ながら、これは、私のような人間には適わない、夢のようなもの。

「どうしたら、豊かな心が持てるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人間になれるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人生を送れるのだろうか・・・」
暮らしぶりも、外見も、内面も、どこからどう見ても貧しい人間であることの自覚がある中で、真に豊かなものに価値が感じられず、真に豊かな方へ志が向かず、心を痩せ細らせているのである。

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終 ~淋しさと救い~

2022-11-15 07:00:52 | 腐乱死体 ごみ屋敷
11月11日は、1年365日のうちで、もっとも多くの「記念日」が登録されている日らしい。
たまたまだが、その日は、私にとってもある種の記念日。
それは、愛犬“チビ犬”が死んだ日。
先日の11月11日は、八回目の命日だった。

この犬は、その昔、仕事で出向いた自殺現場に取り残されていたのを引き取ったもの。
死んでしばらくの間は、事あるごとに目に涙が滲んでいたものだが、八年も経った今では、想い出して涙することもなくなったし、想い出すことも自体も少なくなった。
ただ、スマホの待受画面も、ず~っとチビ犬のまま。
これは、ある年の冬、海辺に出掛けたときに撮ったもの。
四角い画面にはおさまりきらないくらいに拡大した顔面ドアップの写真を待受画面にして、変わらぬ想いを大切にしている。

私は、もともと犬好きなので、散歩中の犬を街中で見かけたりすると、ついつい視線を向けてしまう。
とりわけ、チビ犬と同じ犬種を見かけたときは、視線は釘付け。
先日も、街で、飼主の女性と散歩している同じ種の犬を見かけた。
近寄って声をかけ、あわよくば触らせてもらいたいくらいだったけど、女性からすると、見ず知らずの中年男にいきなり声を掛けられては迷惑な(怖い)ことかもしれないので、それはやめておいた。
とりあえず、立ち止まって、可愛らしい犬をしばらく眺めながら、チビ犬との楽しい想い出に浸った。
そして、いつの間にか笑顔を失ってしまったこの顔に、ささやかな笑みを浮かべた。
ただ、遠ざかっていく犬の後ろ姿を見ていると、何とも言えない淋しさにも襲われてしまった。

ただ、どんなに淋しくてもチビ犬は戻ってこない。
どんなに懐かしくても、過ぎてしまった想い出の中には戻れない。
出逢いがあれば別れもある。
始まりがあれば終わりもある。
この大宇宙にさえ“始まり”はあったとされるのだから、塵芥のような小さな人間は尚更。
楽しいイベントにしても、労苦した一日にしても、“終わり”があるというのは淋しいもの。
人生も、また然り。
いつ、どこで、どういうかたちで訪れるのはわからないだけで、“死”という間違いのない終わりがある。



「住人が部屋で亡くなって、そのまま発見が遅れてしまって・・・」
「しかも、玄関から見ただけですけど、中はゴミだらけになってまして・・・」
「そんな所で申し訳ないんですけど、中に入って見てもらうことはできないでしょうか・・・」
と、とある不動産管理会社から現地調査の依頼が入った。

訪れた現場は、老朽アパートの一階の一室。
間取りは2DK。
暮らしていたのは老年の男性。
倒れていたのは玄関を上がってすぐのところ。
無職の年金生活者で発見は遅延。
第一発見者は、電話をしてきた管理会社の担当者。
キッカケは、しばらく聞こえなくなった生活音と日に日に濃くなる玄関前の異臭。
それを不審に思った隣室の住人が管理会社に連絡したのだった。

駆け付けた担当者は、鼻と突く異臭で異変を察知。
スペアキーで玄関を開けると、中はゴミの山。
そして、その視界には、ゴミに混ざるような格好で横たわる人間らしきものが・・・
眼を凝らして見ると、皮膚は黒く変色し、着衣も、汚れた機械オイルに浸したかのような不自然さがありながら、それは、やはり人間・・・
心臓が爆発して失神しそうなくらい気が動転する中、担当者は、すぐさま警察に通報したのだった。

もちろん、私が出向いたとき、既に遺体は搬出済み。
しかし、遺体が残した腐敗物は残留。
遺体があったと思われる部分は、茶黒色の粘液がゴミと混ざってドロドロの状態。
もちろん、強烈な悪臭も発生。
しかも、大量のゴミが堆積。
私は、部屋の全体像をつかむため、堆積するゴミに足を取られながらも、台所と二つの部屋をグルグルと巡回し、ゴミの内容と量を観察していった。

浴室・トイレ・洗面所もゴミによって全滅
浴槽も便器はゴミの中に埋没し、洗面台はゴミだらけ。
部屋よりも高く積み上げられており、「ゴミの収納庫」のような状態。
トイレの扉は半開きのまま、内外に積まれたゴミの圧によって固定され、まったく動かず。
横向きで無理矢理に滑り込ませれば出入りできるくらいの隙間しか開いておらず。
また、浴室の扉は開いたまま、枠から外れて倒壊。
天井近くまでゴミが積まれて、足を踏み入れる余地は まるでなし。
洗面所も同様。
洗面台は部分的に姿を現していたものの、ゴミやカビにまみれて著しく汚染。
とにかく、とても使えるような状態ではなく、生活設備としての命はとっくに失っていた。

それまでにも、「ゴミ屋敷」「ゴミ部屋」と言われるような現場には数えきれないくらい遭遇しているけど、いつも、「これでどうやって生活していたのか・・・」と不思議に思う。
不衛生なうえ日常の生活に支障をきたすのはもちろん、害獣・害虫による病気や、漏電・電気ショートによる火災や、壁が壊れたり床が抜けたりすることによるケガ等、場合によったら危険だったりもするはず。
しかし、なんだかんだと、人は環境に適応するのか・・・
菌やウイルスにも耐性がつくし、不便さも、忍耐と工夫と慣れで乗り越えてしまうのだろう。

ゴミの上でも、平たくしてマットでも敷けば寝床になる。
風呂は、地域に銭湯があれば問題ないし、シャワー完備の職場であれば、そこを使えばいい。
別件での話だが、スポーツジムの会員なってそこのシャワールームを使っている人もいた。
台所が使えなくても、外食や買い食いをすれば飢えることはない。
洗濯はコインランドリーに行けばいい。
トイレは公園や駅などの公衆トイレを使えばいい。
ただ、故人は、トイレに関して大きな問題をこの部屋に置いて逝ってしまっていた。


山積するゴミの中には、かなりの数の瓶・缶・ペットボトル等があった。
まず、ウイスキー好きの私の目についたのは、中身の入ったウイスキーボトル。
普通に考えると、その中身はウイスキーのはず。
しかし、そこは重度のゴミ部屋。
しかも、同じ態様のボトルが何本も転がっている。
更に、よく見ると、ゴミに埋もれて一部だけ見えているものも無数。
そんなに買いだめるわけはないし、褐色ながら、中身の色もまちまち。
また、ウイスキーなら濁るはずはないのに、濁ったものまである。
似たようなモノに何度となく遭遇したことがある私は、はやい段階から“ピン”ときていた。
もはや、それがウイスキーでないことは明白。
そう・・・中身は尿。
トイレが使えない部屋で、故人は、ウイスキーボトルに用を足していたのだった。

尿が入れられていたのは、ウイスキーボトルだけではなかった。
炭酸水・お茶・ジュース等のペットボトルも多量。
もちろん、それらすべて尿がタップリ。
そのほとんどにはキャップがされ、漏れないように締められていたのが唯一の救い。
しかし、例外なく中身は腐敗醗酵しているようで、独特の変色や濁りが発生。
持ち上げてみると、沈殿していた固形物がモワモワと舞い上がり、相当 不衛生な状態に仕上がっていることは明らかだった。

日本酒の容器も多量
残念ながら、そのほとんどは瓶ではなく紙パック。
もちろん、それなりの耐水性はあるのだが、それも場合による。
ゴミの中で、圧されたり潰されたりして変形すれば強度は落ちる。
一部にでも容器にキズがついたりすると、それが起因して容器(紙)自体の強度や耐水力は激減。
本来は固いはずの紙パックは浸み出た尿でベチャベチャになり、そのうちにフニャフニャ・グズグズに腐食。
持った感覚は、水を入れたビニールみたいな状態に。
もちろん、手袋を着けているのだが、手は尿でベチョベチョになるわけで、なかなかの気持ち悪さがあった。

ビールやチューハイの缶も同様。
これも、部屋中にゴロゴロ。
しかし、缶には蓋はなく、一度開けたら閉じることができない。
当然、傾けたり横にしたりすれば中身がこぼれる。
当初、故人は、缶をできるかぎり直立させていたようだったが、ゴミ部屋の中では水平で安定したスペースは少ない。
となると、横に並べるのではなく縦に積み上げるしかない。
故人は、平面と見つけては缶を並べ、横に並べるのは無理になると縦に積み上げ、また、家具や壁に面したところでは斜めにしたまま積み上げ、まるで、芸術作品のように器用に組み上げられた部分もあった。
しかし、結局、それらは、ちょっとした拍子で倒壊・転倒するはず。
となると、中身は容赦なく流れ出るわけで、それは、火を見るより明らかなことだった。

また、急を要するときもあったのか、こともあろうにビニール袋やカップ麺の容器に入れられた尿もあった。
もちろん、それらに栓や蓋はないわけで、もはや、こぼさないでゴミの中から取り出すのは不可能。
既に、こぼれているものも少なくないはずで、となると、尿にまみれたゴミや床が悲惨な状態になっているわけで、それを想像する私の口からは愚痴と溜息しか出なかった。

ゴミ屋敷・ゴミ部屋において、尿を容器に溜めるのは、そんなに珍しいケースではない。
トイレが使えるうちはトイレで用を足すのだが、トイレがゴミで埋まったり、排管が詰まったりした場合、トイレはトイレとしての機能を失う。
一日一回くらいの糞便なら、その辺の公衆トイレや勤務先のトイレを使えるかもしれないが、一日数回の排尿はそういうわけにはいかない。
尿意をもよおす度に公園や駅のトイレに行くのは面倒臭い。
で、身近にある容器に溜めてしまう。
当然、尿は、そんなことおかまいなしに毎日出てくるわけで、部屋の尿容器は増えていく一方となり、あれよあれよという間に、自分では手に負えないくらいの膨大な量となるのである。


まずは、長く使われていなかったトイレを尿が流せる状態にするのが先決。
トイレの前に積まれたゴミを移動し、扉が空いたら、中のゴミを丸ごと除去。
すると、著しく汚損腐食した床と壁、そして、得体の知れない汚物でゴテゴテになった便器が露出。
しかし、それらは、手を入れたところで再使用できるものではなく、そのまま放置。
とりあえず、便器に水を流し、詰まっているかどうか確認。
残念ながら、トイレは詰まっており、あの手この手で詰まりを解消。
何とか、尿を流せるところまで復旧させた。

しかし、これは、小さな前哨戦。
メインイベントは、尿をトイレに流す作業。
当然、それ専用の道具や機械はない。
使えるのは自分の身体、一本一本、手作業でやるのみ。
ゴミの中から尿容器を数本拾い集め、それをトイレに運び、キャップを外し、中身を便器に流す・・・ひたすらそれの繰り返し。
ほとんどの尿は腐敗醗酵しており、多くは、甘酒や味噌汁のように汚濁。
また、理由はわからなかったが、中には、ヨーグルトのような固形物が沈殿しているものもあり、それは更に強烈な悪臭を放った。
そして、それが、容赦なく身体に飛び散ってきた。

肉体への負担も大。
ゴミの上は足場が悪く、その上、中腰姿勢も多く、地味ながら膝や腰に負担がかかった。
スムーズにキャップが外せない容器も多々。
キャップの開け閉めも、回数を重ねると手に負担がかかり、ビニール手袋を破損させるだけでなく、指を痛くさせ握力まで疲弊させた。

精神への負担も同様。
もともと、私は、コツコツ努力することが苦手で勤勉な人間ではない。
単純単調な作業を繰り返すことは、苦手中の苦手。
「だから、この珍業が務まっている」とも言える。
しかし、そんな性質を無視するかのように、ここで求められたのは単純単調な作業。
更に、追い討ちをかけるように、ゴミ山の中からは次から次へと尿容器が出現。
拾っても拾っても減った感を得られず、「自分との戦い」と気取る余裕もなし。
「頭だけでも楽しいことを考えよう・・・」と努めても焼け石に水。
折れそうになる心との戦い・・・というか、終わりの見えない作業に心が折れないわけはなく、尿の汚さと悪臭も加わり、早い段階で心はポキリと折れてしまっていた。

しかし、どんなに嘆いても、最後までやり遂げなければならないことに変わりはない。
ある程度は自分のペースでできるものの、工期も限られているわけで、甘えてモタモタやるわけにもいかない。
とにかく、気が向こうが向くまいが一定のスピートでやるしかない。
あと、仕事なのだから、故人に腹を立てるのはまったくの筋合い。
しかし、この事態を収拾しなければならない自分の立場を思うと、器の小さい男ならではの妙なイライラ感が沸々。
それに対するには、まるで何かの修行をさせられているような、「根性」とか「根気」などと言ったものとは異なる次元の「開き直り」みたいな感覚が必要。
「踏んだり蹴ったり」とまでは思わなかったけど、いつもの特殊清掃とは違う、なかなかツラい仕事となった。

尿容器は、見えているだけでも数えきれず、また、ゴミに埋まっているものまで含めると相当の数があるはずだった。
どれだけやれば終わるのかわからない・・・
いつまでやれば終わるのかわからない・・・
しかし、わかっていることもあった。
それは、「その数には限りがあり、無限に出てくるわけではない」ということ。
「やり続ければ最後の一本にたどり着くことができる」ということ
つまり、「終わりがある」ということ。
何度となくイラ立ち、何度となく嫌気がさしてくる作業の中、何気ないところで、これが心の癒しとなり支えとなった。


すべて、生きているうちだけのこと。
万事が無常であることは、虚しいことであり、“終”というものは、淋しいものである。
しかし、同時に、“救い”でもあると思う。
何故なら、生きることの苦しみも 悩みも 悲しみも 痛みも、“終”があることによって永遠ではなくなるのだから。
命や人生にも、“限り”があるからこその意味や価値があるはずだし。
私のように、苦悩に満ち ただ日々をやり過ごし、ただ生きているだけでも・・・

チビ犬の写真を見る私は、淋しさの中で微笑みながら、しみじみとそう想うのである。


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2022-11-10 16:33:16 | 生前整理
今日から11月。
秋も深まり、朝晩はだいぶ冷えるようになってきた。
日中も過ごしやすい日が続いてはいるけど、この秋は、やたらと暑い日があったり、やたらと寒い日があったりと、順序よく秋が深まっているような感じがしない。
世界に目を向けてみても、季節外れの暑さや寒さに襲われているところが多い。
また、これまで経験したことがないような大雨や干ばつに襲われているところも。
そして、それは、一口に「気候変動が原因」と片付けられている。
 
地球温暖化を防止する気運はあっても、現実的には、ただの合言葉のようになっている感が否めない。
「生きることに精一杯で、自分が死んだ後の地球のことまで考える余裕はない」
多くの人は、目の前の生活に追われ、自分や家族の生活を守るのが精一杯で、真剣に二酸化炭素のことを考える余裕なんかないのではないだろうか。
そして、
「何もやらないよりマシだけど焼け石に水」
「地球温暖化も気候変動も受け入れるしかない」
そんな風に諦めているのではないだろうか。
 
かくいう私もその一人。
マイバッグを持ち歩くのもレジ袋代を節約するため、省エネを心掛けるのも光熱費を抑えるため。
結果的に、二酸化炭素が少しでも抑えられれば、それはそれでいいのだけど、そのためではない。
「無責任」と言われればそれまでだが、難題に対峙しようとすると早々と疲れてしまう。
だから、“無”に・・・力んだ無我夢中にはない、穏やかな無心に憧れる。
その方が、生きていて楽なのではないかと思うから。
しかし、そんなことおかまいなしに、この人生には“現実”という名の難題が次から次へと容赦なく襲いかかってくる。
 
 
 
家財処分の調査依頼が入った。
約束の時間より早く着いた現場は、ちょっと田舎の住宅地に建つアパート。
周辺には、広い畑もあるような長閑なところ。
アパートの前面は広い駐車場。
普段は住人の車がとまっているのだろうが、平日ということもあって、ほとんど空いた状態。
もちろん、「空いているから」といって、誰かのスペースに勝手にとめるのはマナー違反。
その日、私は、他の用事もあったため、2tトラックに乗っていたのだが、駐車区画でない部分も広く、住人の車の出入りの邪魔にならないところに車を止めて待機した。
 
約束の時刻には、まだ十分に余裕がある中、しばらくすると、駐車場に一台のタクシーが入ってきた。
私は、「依頼者かな?」と思いながらタクシーを目で追った。
すると、止まってすぐ一人の男性がゆっくりと降りてきた。
その様子から、その男性が依頼者であることを察した私は、そそくさと車を降り、「〇〇さんですか?」と声を掛けながら男性の方へ歩み寄った。
 
男性は、かなり痩せていた。
歩みも遅く、顔色も悪く、表情にも精気がない。
そして、寒い時季でもないのに頭にはニット帽。
その佇まいから察せられたのは、男性が病人であるということ。
そして、直感的に頭に浮かんだ病気は「癌」。
それも、病状がかなり進んだ状態の。
安直な想像でしかなかったが、私は、弱々しい男性の風貌に、戸惑いを覚え、また、にわか仕立ての同情心を抱いた。
 
そんな男性は、私が乗ってきたトラックをジッと注視。
そして、何を思ったか、弱々しいながらも怒りのこもった声で、
「トラックで来るなんて失礼じゃないですか!?」
と、私を一喝。
あまりに突拍子もないことで、私は、何を言われたのかすぐに理解できず、
「???」
と、しばしキョトン。
返す言葉がすぐには出てこず、目を丸くするばかりだった。
 
確かに、「トラックで行く」とは伝えてなかったが、それがどうしたというのか。
デコトラのような派手な装飾もなく、暴走族のような爆音を立てるわけでもなく、どこにでもある、何の変哲もないトラック。
車体にあるのは会社名とロゴマークのみ。
サービス内容・事業内容はおろか、電話番号も記されてはいない。
ネットで検索でもしないかぎり得体は知れようがなく、誰かに迷惑をかけたり不快な思いをさせたりするような心当たりは一切なかった。
 
“タキシードを着て黒塗りのリムジンで来い!ってことか?”
私には、男性のクレームがまったく理解できず、まったく受け入れられず。
そうは言っても“客候補”なわけだから、
「他の現場からそのまま来たものですから・・・」
と、下げたくない頭を、とりあえず下げた。
しかし、男性の怒りはおさまらず。
「それにしたって、無神経過ぎませんか!?」
と、まくし立ててきた。
 
私は、小心者のクセに気は短い。
しばらくは我慢していたものの、そのうち、頭の中で何かが“プツッ”“プツッ”と切れはじめ、とうとう堪忍袋の緒が“ブチッ!”。
内から、“やってられるか!”“こんなヤツと関わるとロクなことにならない!”という思いが沸き上がり、
「トラックに乗ってきて何が悪いのか説明して下さい!」
「失礼だとも非常識だとも思ってませんので!」
と、やや声を荒げて反論。
更に、
「私を呼んだのは〇〇さんの方ですよね!?」
「人に時間と経費を使わせておいて、その言いぐさは何ですか!?」
と、連打。
そして、
「こちらにも仕事を選ぶ権利はあるので、この仕事は辞退します!」
「失礼します!」
と言い残し、クルリと向きを変え、ツカツカとトラックに引き返した。
 
場は、そのまま“もの別れ”になっても当然の雰囲気。
しかし、男性は、
「ちょっと待って下さい!」
と、プンプンのキナ臭さを携えた私を呼び止めた。
おそらく、体調が優れない中で、やっとこの機会をつくったのだろう。
そして、私とつながったのも、何かの縁。
険悪な雰囲気の中、怒りと気マズさを混ぜたような顔で、
「苦情は苦情として別に置いて、調査見積は調査見積としてやって下さい」
と、事務的に言葉を続けた。
私は、まったく乗り気ではなく、断ることもできたのだが、弱々しく佇む男性が不憫に思えなくもなく、請け負うつもりはないながらも、室内の調査だけはしていくことにした。
 
男性の部屋は二階。
男性は、手すりを掴みながら、息を切らせながら、階段を一歩一歩ゆっくり上へ。
部屋の前に立つと、ウェストポーチから鍵を取り出し開錠。
ゆっくりドアを引くと、中からは、湿気を帯びたカビ臭いようなニオイが漂ってきた。
 
間取りは1K。
「ゴミ部屋」という程ではなかったものの、結構な散らかりよう。
また、換気もされず長く放置されていたせいか、カビ臭いようなホコリっぽいような、ジメッとした不快臭も充満。
訊けば、ここ数年、男性は、入退院を繰り返す生活。
そして、いよいよ病が悪化してきたため、この部屋は退去することに。
「ここに戻って来られる見込みがなくなったものですから・・・」
「部屋にあるものは、全部、捨てて下さい」
とのこと。
その口から「死」という言葉は出なかったものの、男性が自身のそれを予感していることは、寂しげな口調と衰えた身体から滲み出ていた。
 
 
作業の日。
依頼者である男性は姿をみせず。
代わりに現れたのは、一人の女性。
女性が乗ってきた車は、某医療法人の業務車。
女性の着衣も、そこのユニフォーム。
そう、男性が入院している病院のスタッフ。
「〇〇さんは体調が優れないので、代わりに鍵を持ってきました」
「また来ますから、終わったら連絡して下さい」
そう言って、私に部屋の鍵を渡すと、女性は、忙しそうに帰っていった。
 
男性不在の中、作業は、完全に当社の段取りのまま、当社のペースで進行。
問題やトラブルは一切なく、順調に事は運んで完了。
作業終了の確認は、先ほどの女性に来てもらい、鍵もそのまま返却。
結局、男性とは一切関わることなく、その仕事は終わった。
 
そして、その後も、男性とは、顔を合わせることはもちろん、電話で話すこともなかった。
ただ、その後、元気に回復して社会復帰が叶ったとは到底思えず。
それより、“その命がどこまでもったか・・・”と考える方が自然な感じで、おそらく、そう長くは生きられなかっただろうと思われた。
 
ただ、あの時、どうして、あそこまで怒ったのか、トラックの何が、男性の癇に障ったのか、私は、私なりに、ない頭を使って想いを巡らせた。
思いもよらないトラックの出現は、空になった部屋を想像させ、自分の死を連想してしまったのか・・・
それとも、運命を受け入れようとする気持ちに、いらぬ追い討ちをかけられたように感じたのか・・・
はたまた、この世から放されまいと必死にしがみついている自分をこの世から引き離そうとしているように思ったのか・・・
もちろん、その真意は、男性にしかわからない・・・
ひょっとしたら、男性自身にもわからないことだったかもしれないけど、そこには、アパートに戻れる希望を捨てきれず、死を待つ覚悟を決めきれない中で大きく揺れ動く、自分では如何ともしがたい感情があったに違いなく・・・
そのことを想うと、好きになれなかった男性に自分の弱さが重なってくるのだった。
 
 
多くの人は健康長寿を願う。
そして、食事や運動などに気を使いながら健康管理に努める。
とりわけ、健康診断で難点が出やすくなる中高年はそう。
健康が気になりはじめる年頃で、遅ればせながら、血圧や血糖値、出っぱった腹を気にしはじめる。
世の中に出回る多くのサプリメントや健康器具の宣伝文句が、更に、その不安感を刺激する。
成人病をはじめ、癌予防や癌検診を啓発・促進する風潮も昔からある。
 
それでも、現代は、「二人に一人が癌にかかる時代」と言われている。
私の周りにも癌を患った人は少なくない。
それで亡くなった人も。
ただ、「二人に一人」という程 多くはない。
実のところ、「二人に一人」というのは、「生涯のうちで癌にかかる人の数」だそう。
つまり、子供から老人まで、また、その中には治癒する人もいれば、死因が癌でない人も含まれているわけ。
また、晩年に癌がみつかっても「一人」としてカウントされるわけ。
だから、実感している数より、はるかに多いような気がするのだろう。
 
そうは言っても、癌を患う人は、少ないわけではない。
また、医療の進歩で治癒する確率が上がってきているとはいえ、相変わらず、「不治の病」「死の病」といったイメージは強い。
有名人が癌になると、すぐにニュースになり、癌の種類をはじめ、「ステージ〇」と進行具合が具体的に報道されるのも、そういう深刻さからきているのだろう。
また、抗癌剤を使うと、身体は瘦せ細り、髪は抜け、皮膚や歯はボロボロになり、極度の吐気・高熱・倦怠感に襲われるといったイメージが強い。
そんな、偏った闘病の一面が、恐怖心を強くさせているのだろう。
 
先日のブログにも書いたけど、私も、二十代後半の頃 胃にポリープが見つかったことがあり、そのときは癌も疑われた。
俗に「若者は癌の進行がはやい」と言われる中、精密検査の結果がでるまでの二~三週間は、“癌≒死”という恐怖感が頭から離れず、気分を沈ませる日々が続いた。
幸い、結果は「良性」で、ポリープは、しばらく後の検査で自然消滅していることがわかった。
また、三十代前半の頃 肝硬変や肝癌が疑われるくらい肝臓の数値が悪化したことがあった。
そのときもまた、“癌≒死”という不安感が頭から消えなかった。
再検査の結果は、「脂肪肝」。
重度だったため、これはこれで問題だったのだが、まずは、肝硬変や癌でなかったことに胸をなでおろした。
ただ、肝を冷やしまくったのは事実で、これが、いい薬となって、その後、食事の改善とダイエットに励むこととなった。
 
 
“死=無”なのか、私にはわからない。
同じく癌で亡くなった“K子さん”は、死を恐れている風ではなかった。
むしろ、“解放”され、“自由”を手に入れることを楽しみにしているようにも見えた。
また、「“死=無”ではないと思う」とも言っていた。
私も、その願いはあるし、世の中の心霊現象を解釈するには、「“死=無”ではない」と考えた方が合理的に思われる。
しかし、その真実は、私にはわからない。
わかる日が来るのかどうかもわからない。
 
ただ・・・ただ、無心で生きたい・・・今はそんな気分なのである。

 



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ウジウジ

2022-11-01 09:11:07 | その他
陽が暮れるのが日に日にはやくなっている。
セミにとって代わった鈴虫の音色が耳に優しく響く。
本格的な秋は、もう目の前。
コロナ七波も落ち着いてきた感があり、秋を満喫する環境は整いつつある。
TVの情報番組でも、あちこちの行楽地や、数多くの秋の味覚が紹介され始めており、“にわか”ではあるけど、私も秋に迎えてもらっているような気分を味わっている。
 
「食欲の秋」「行楽の秋」「趣味の秋」、人それぞれ色んな秋がある。
私にとってこの秋は、どんな秋になるだろう。
酒は飲み続けているけど、大して食欲はないし、行楽の予定もなければ趣味もない。
そうは言っても、この鬱々とした日常に嫌気がさしている。
だから、とにかく、この現実から離れたい。
すぐに死なないとすれば、何もかも手放して生き直したいような気分である。
 
私は、自分が書くブログの根底に、「生きろ!」というメッセージを流しているつもりだけど、時々、その熱量が失せることがある。
死にたいわけじゃないけど、生きているのがイヤになるときがある。
自分なりにがんばって、ここまで生きてきたにも関わらず、いまだに
「なんで、人は、こうまでして生きなきゃならないんだろうな・・・」
といった考えに苛まれることがある。
私も、ただの人間、どちらかというと軟弱な人間だから、気分が沈むこともあれば、鬱々とした状態から抜け出せなくなることもあるわけで、そういうときは、生きるための意欲が減退するのである。
 
食欲がなくても、行楽の予定がなくても、酒に対する欲だけはある。
前にも書いたが、どうしても酒がやめられない。
そうなると、肴もいる。
せっかくの秋なのだから、時季の味覚を味わってみたいとは思うけど、何分、懐が乏しいゆえ、私の口には季節感のないものばかりが入っている。
自分なりに工夫して、舌と腹が少しでも満足できるようなものを繕っているだが。
ただ、どんなに質素な食事でも、毎日三食 当り前に食べられていることは、深く感謝しなければならないことでもある。
 
秋の味覚といえば、秋刀魚も代表格の一つ。
そして、今年もその季節がやってきた。
しかし、近年は不漁続き、しかも、サイズは小型。
当然、値段は高く、先日、馴染みのスーパーで見たら、なんと一尾250円!
しかも、小型の冷凍もの。
もう一軒のスーパーでは、店頭に置かれてもいなかった。
高級魚の仲間入りをするのも時間の問題か。
何年か前までは、スーパー等では、一尾100円くらいで売られていたように記憶しているけど、それに比べると信じられない値段。
ただでさえ、物価高騰の時世、この値段・この品では、とても「買おう」という気持ちにはなれない。
 
とにもかくにも、秋刀魚は、塩焼きにしても刺身にしても、おいしいもの。
塩焼きは、身は食べ尽くす。
脳天からエラの際、尻尾の付根まで、きれいに食べる。
苦い内臓も、背ビレも、胸ビレも、腹の小骨も。
残すのは、頭と背骨と尻尾のみ。
ちなみに、私が子供の頃には、秋刀魚を刺身で食べる習慣はなかった。
刺身で食べられるようになったのは、物流が発達したおかげらしい。
しかし、庶民の味方だったはずの秋刀魚が気軽に食べられなくなるなんて・・・
事実、私は、秋刀魚を、もう何年も食べてない。
最後に食べたのがいつだったかも憶えていない。
 
もう十年以上も前のことになるが、仕事で仙台に出張した日の夜、「一杯やろう!」と、仲間と国分町(市内の繁華街)に出掛けたことがあった。
入ったのは、店構えのいい大衆居酒屋。
そこで食べた秋刀魚の塩焼きが、今でも記憶に強く残っている。
 
家庭用に売られているものに比べると型は大きく、丸々と太り、脂ものって身はやわらか。
飲食業のプロが出すわけだから、焼き具合も塩加減も上々。
飯のおかずではなく、酒の肴で注文したわけだが、とにかく美味。
あれは、本当にいい秋刀魚だった。
 
昨今の秋刀魚は、そこまでのクオリティーはなく、そもそも、数が少なすぎて選びようがない。
気候変動、世界情勢、物価高・・・秋刀魚にかぎらず、食べ物の選択肢がどんどん少なくなっている。
現在でも、所得が低い人ほどジャンクフードを主食にする傾向が強いらしいが、それがもっと深刻化するおそれがある。
 
「食料危機」が現実味を帯びはじめている近年では、昆虫食や人工肉の研究もすすめられているよう。
TV番組で、“生態系を破壊する厄介者”とされる外来生物等を駆除して食す企画を何度か観たことがあるが、ああいうのもいいのではないかと思う。
ちなみに、マムシの干物やイナゴの佃煮なら私も食べたことがある。
正直なところ、「美味い」とは思わなかったけど。
 
私にとって馴染み深い“彼ら”も、一応、昆虫の類か。
ウジ・ハエ・ゴキブリが食用にできれば、こんなに頼もしいことはないかも(?)。
なにせ、彼らはタフ!
繁殖力・増殖力・生命力・生存力、どれをとってもピカ一!
腐りモノから勝手に涌いてきて、またたく間に成長するのだから、その養殖は、省力・低コストでできそう。
 
そうは言っても、米一粒一粒が、ウジ一匹一匹だと想像すると・・・
ハエのサラダとか、ゴキブリの酒蒸しとか・・・かなりヤバい!
仮に、「安全」「美味」「栄養豊富」だとしても・・・
それを口に入れるのも、噛み潰すのも、簡単じゃなさそう・・・
しかし、何事も慣れてしまえば、当たり前になるもので・・・
そのうち、鮮度抜群!“踊り食い”を売りにするような料理屋が現れたりして・・・
 
ウジというものは、寛容な目でみると、小さくて丸みがあって、モタモタとして可愛いらしく見えるかもしれない。
しかし・・・やはり、気持ちのいい生き物ではない。
カブトムシや蝶の幼虫とさして変わりはないのだけど、汚物や腐ったモノに涌くから嫌われるのだろうか。
その昔、トイレが水洗式ではなく、いわゆる「ボットン便所」だった頃は、どこの家庭の肥溜にもいたはずなのだが、今の時代、ウジを知っている人はほとんどいないか。
どんな生態なのか、どんな姿をしているのか、生きる上で不要な無駄な知識として検索してみるといいかもしれない。
 
以前、ブログに書いた覚えがあるけど、
目を閉じた遺体の目蓋がモゾモゾと動いているので、その目蓋を開けてみたら、“ゴマ団子”のごとく眼球をビッシリ覆いつくしていたり、
腐敗した猫の死骸をひっくり返してみたら、その腹部には、どんぶり一杯ほどのウジが“稲荷寿司”のごとくパンパンに詰まっていたり、
何日も放置された怪しい鍋の蓋をとってみたら、ウジが“雑炊”のごとくフツフツと涌いていたり、
そんなこともあった。
 
ウジは、私にとって、当たり前の存在。
一方、彼らにとって私は、ある種の天敵。
その姿は、“進撃の巨人”。
互いに、非常に厄介な存在で、激戦になることも少なくない。
とにかく、殺虫剤が効かない。
「ウジ殺し」と銘打つ薬剤でもダメ。
駆除法は、熱死させるか、焼死させるか、凍死させるか、物理的に排除するか。
手間とコストと気持ち悪さを考えると、物理的に除去するのが最も得策。
掃除機で吸い取ってゴミにしてしまうのである。
(“巨人”は喰って吐くようだが、もちろん、私は喰ったりはしない。仮に喰ったとしたら吐くに決まっているが。)
 
そんな仕事、楽しいわけはない。
心身が疲れていると尚更。
「キツい」「汚い」「危険」、いわゆる3K。
プラス、「クサい」「恐い」「気味悪い」「嫌われる」で7K。
そして、私の場合、「気落ちする」「苦悩する」「心病む」で10K。
話題沸騰中、メジャーリーグS・О投手の三振ショーのように、考えれば、もっと出てきそう。
なんとか、“パーフェクトゲーム”で完敗しないようにだけは気をつけたい。
 
世の中に、楽しく仕事をしている人が多いのか少ないのか、私はわからない。
生活や家族のため、自分に強いている人が多いか。
ただ、それなりのやり甲斐や喜びや目的を持ってやっている人も少なくないように思う。
そうは言っても、誰もが知るとおり、人生は、楽しいことばかりではない。
人の感覚として、楽しいことはアッという間に通り過ぎ、人の性質として、楽しくないことは心に刻まれやすい。
また、人生は、思い通りになることばかりではない。
ただ、人は、思い通りにならなかったことはいつまでも覚えているくせに、思い通りになったことはすぐに忘れてしまう性質を持つ。
だから、“人生は思い通りにならないもの”と感じ、自分の鬱憤を紛らわすために、“そういうものだ”と思い込ませてしまう。
“思い”というものは、本当は、もっと自由なもののはずなんだけど。
 
笑顔が失われた日常において、少しでも気持ちが上向くよう、ネットで元気が出そうな「名言」を検索することがある。
「心に刺さる!」というほどではないけど、「いい言葉だな」と思えるものも少なくない。
それでも、その効能は一時的なもの。
おそらく、それらは、自分が勇気をもって周りの現実を動かしてみることで実感でき、また、説得力をもって、その真価を人に伝えることができるのだろう。
 
何億匹、何兆匹、おそらくもっと・・・これまで、私は、数えきれないウジを始末してきた。
毒を吐くわけでも襲ってきたわけでもないのに、ただ「邪魔」というだけで。
その因果応報であるはずないけど、この性格は、いつまでもウジウジしたまま。
「余計なことを考えるな!」「それ以上 考えるな!」
自分に言い聞かせてはみるものの、自分が言うことをきかない。
自分の性格や価値観なんて、そんなに簡単に変えられるものではないことはわかっている。
いや・・・根本的には、変えることはできないものかもしれない。
だからと言って、このまま人生を棒に振るのはイヤ。
自分の内に自分を変える力がないのなら、自分の外に自分を変えるチャンスを探すしかない。
 
ウジだって、いつまでもウジのままではない。
たくましく生き、確実に成長し、脚を得て歩き、羽を得て宙を飛ぶ。
殺虫剤にやられる者、ハエ取り紙に捕まる者、餓死する者、鳥に喰われる者、色々いるだろうが、生きるために冒険の空へ飛び出していく。
その生きることに対する純粋さ、実直さ、必死さは人間に勝るとも劣らない。
ひょっとしたら、動植物や昆虫の生きようとする性質の純粋さ・実直さ・懸命さは、人間のそれをはるかに凌ぐものかもしれない。
 
今、必死に生きているだろうか、
毎日、一生懸命に生きている実感があるだろうか、
病気・ケガ・事故・事件・災害など、何か特別なことがないかぎり死なないことが当り前のようになっている日常に生きている者と、いつ死んでもおかしくない危機を身近に感じさせられる日常を生きている者との生に対する熱意は天地ほどの差があるように思う。
 
ただ、“死を意識しながら生きる”とか“生きる意味を問いながら生きる”とか、そういうことばかりが必死に生きることではないと思う。
そういう意識をもって生きるのは、とても大切なことではあるけど。
 
キーワードは「大切にする」ということ。
肝心なのは、「大切に生きる」ということ。
世界、社会、家族、友達、仕事、食事、趣味、時間・・・
「当たり前」と勘違いしている現実を大切に思い、人や物、色々な出来事に感謝する心を育むこと。
同時に、自分を大切にし、ときには自分に感謝することを意識すること。
 
「自分のために生きる」「生きることは自分のため」
生存本能があるせいか、何となく そんな価値観や思想をもって生きている。
そして、何かにつけ、「結局は自分のため」「結果的に自分のためになる」「間接的には自分のためにもなる」といったところに“強制着陸”しようとする。
もちろん、それに一理はある。
ただ、それで、不本意な自分の生き方を誤魔化そうとする自分がいるのも事実。
 
人の生き方に「正解」はない。
また、「正解」と思われる道は一つではない。
一つの判断基準は、「それで自分が幸せかどうか」「楽しめているかどうか」。
家族の笑顔を守るため労苦することは幸せなこと。
誰かの正義を守るため戦うことは幸せなこと。
目標に向かって鍛錬することは楽しいこと。
夢に向かってチャレンジするのは楽しいこと。
遊興快楽を手にして生きるばかりが“正解”ではない。
 
満たされない日々・・・
「人生なんて そんなもんだ・・・」と、自分に言い聞かせながらも、せっかくの人生を無駄にしているような気がしてならない。
それは何故か。
一つは、感謝の心が足りないから。
感謝しなければならないことがたくさんあるのはわかっているのだが、気持ちはどうしてもマイナスの方に向いてしまう。
もう一つは、生き甲斐を感じられることがないから。
銭金・商売・打算を抜きにして、誰かの役に立てている実感がない。
 
このまま下っていくだけの人生なんて、まっぴらご免!
残り少ない人生を、燃え尽きた灰のように諦めるのはイヤ!
ならば、変える必要がある。変わる必要がある。
「もう一花咲かせよう!」なんて大層な欲を持っているわけではないが、この陰鬱とした日々から脱出したい。
 
ウジをネタにこれだけ語れるのは、私にも、まだ余力がある証拠か。
だとすると、「大空」とまではいかなくても、どこか違う世界に飛び立てるかも。
ウジウジするのは程々に、心の燃えカスに再び火をつけて。
ウジから生まれ変わるハエのように。




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置き去り

2022-09-22 08:31:58 | 夜逃げ
その日 その陽によっては、昼間でも涼しさが感じられるようになり、しばらくサボっていたウォーキングも再開。
そのウォーキングコースには、毎年、時季になると、紫陽花が咲くエリアがある。
人家の庭から派生して広がったようで、それは、一般の歩道に面して群生。
ブルー系の色が多いのだけど、それも、濃淡 色とりどりで、毎年、この目を楽しませてくれる。
ただ、その紫陽花も、この時季になると、多くが枯れて色彩を喪失。
が、それでもまだ、三輪が咲いたまま残っている。
それも、枯れかけたものではなく、ほぼ“現役”のまま色を残して。
 
思い出すと、確か、昨年も、最後の一輪は十月まで粘り強く咲いていた。
そして、それから、ちょっとした勇気や元気をもらったもの。
ただ、このところの気候変動に、植物も振り回されているのか。
それは、活き生きできる季節に置き去りにされたようにも見え、応援したい気持ちがある反面、“無理矢理 生かされている感”もあり、やや可哀想にも思える。
 
「置き去り」と言えば、幼い子供が犠牲になる痛ましい事件が続けざまに起こった。
幼児を家に、赤ん坊を公園に、園児を送迎バスに・・・
子供達が襲われた恐怖感・苦痛・淋しさ・悲しさはいかばかりか・・・
悪意はもちろん、過失であっても、当人にとってやむを得ない事情があったとしても惨い話。
とりわけ、悪意の加害者には、大きな憤りを感じる。
性格冷淡な私のこと、数日もすれば過去の出来事として記憶から消えていくのだろうけど、今はまだ、いたたまれない気持ちが残っている。
 
とは言え、私はもちろん、この世には、100%善良な人間はいない。
今、流行りの(?)、カルト宗教みたいなことは言いたくないけど、多かれ少なかれ、人間は“悪”を内包する。
いつでも湧きあがれるよう、虎視眈々と心の隙を狙っている。
主義を主張することも議論を戦わせることも悪いことだとは思わない。
ただ、人の悪を過剰に突いたところで、自分が悪性が消えるわけでも、自分が善人になれるわけでもない。
だから、人を非難するのはほどほどに。
その分、謙虚に己を顧みた方がいいのではないかと思う。
 
 
 
訪れた現場は、街から離れた地域にある やや古めのアパート。
間取りは3DK。
敷地内には、各室用の駐車場も完備。
若い夫婦二人とか、大きい子供でなければ、四人家族でも生活できそうな広めの間取り。
ただ、立地的に利便性がいいわけではなく、家賃は、比較的 安めのようだった。
 
調査を依頼してきたのは、それまで何度か仕事をしたことがある不動産管理会社。
依頼の内容は、室内に残置された家財生活用品の処分。
ただ、その事情は特有。
そこに暮らしていた老齢女性が、急にいなくなったかと思うと、そのまま行方知れずに。
大家も管理会社も一通りの探索を行ったものの、女性は一向に見つからず。
家賃も滞納となり、事態は進展することなく月日が経過。
大家としても管理会社としても、そのまま放置しておくわけにはいかず、正規の手続きをもって家財処分の権利を得て、部屋を空けることにした。
 
多くはないが、これまでも、所有者不在の現場で仕事をしたことは何度かある。
例えば、夜逃げ現場。
パターンとして多いのは、“ゴミ部屋”。
“ネコ部屋跡”というのもあった。
部屋に大量のゴミを溜めてしまい、内装・設備を著しく汚損してしまい、自分ではどうすることもできなくなり、業者に頼む金もなくて、大家(管理会社)に告白する勇気もなく。八方がふさがり、結局、逃げてしまう。
しかし、大家や管理会社だって、手を尽くして当人を探すわけで、結局のところ、見つかって“The End”。
当人は何らかのカタチで責任を取らされることになるのだが、しかし、本件においては、そうはならなかった。
 
玄関を入った真正面の壁、女性が戻ってきたら間違いなく視界に入る位置に、左右二枚の紙が並べて貼ってあった。
それは、裁判所が出した強制執行通知書。
法によって認められた権利によって家財を処分する旨と、その期日が記されてあった。
ただ、左側の紙に記された期日は、私の訪問日より前。
そして、右側に記された期日は、私の訪問日より後。
当初の執行期日は何らかの事情があって延長されたようだったが、野次馬経験が豊富な私でも、その事情までは読めなかった。
 
私は、誰もいないことがわかっていながらも、一応の礼儀として、
「失礼しま~す・・・」
と、小声で挨拶をしながら、玄関を上へ。
室内は、外気に比べて、どことなくヒンヤリしており、電気も停止中で薄暗いまま。
そんな中を静かに歩きながら、一部屋ずつ見分して回った。
 
部屋は、散らかっているようなことはなく、全体的に整然とした雰囲気。
炊事・掃除・洗濯などの家事もキチンとなされていたよう。
全体的に小ぎれいにされており、不衛生さは感じず。
置かれている家財生活用品は、ごく一般的なモノが一式。
「人のぬくもり」とでも言うか、リアルな生活感は消えていたものの、帰ってきさえすれば、すぐに、それまでの日常生活が取り戻せそうなくらい、日用のモノがそのまま残されていた。
ただ、家具や家電は使い古されたものばかりで、趣のある調度品や雑貨類もなし。
暮らしていたのは、それなりにキチンとした人物であることと共に、至って慎ましい生活をしていたことが想像された。
 
そんな中で目を引いたのは、小さな仏壇の前に置かれた遺骨。
仏壇も仏具も年季が入ったものなのに、それを覆う骨壺カバーは やけに新しく、妙な違和感が。
「誰の骨だろう・・・」
そう思いながら、
「さすがに、これは回収できないから、誰のものでも関係ないな・・・」
と、カバーを外すこともしなかった。
 
私は、「遺骨」というものには、人格や命はもちろんのこと、霊や魂など、擬人化できる何かが宿っているとは思っていない。
もちろん、仏壇・仏像・位牌・墓石・神棚・御守・御札をはじめ、写真や人形にも。
結局は、ただの石や灰と同じ類のもの。
だからといって、そういった類のモノを大切に想う人の気持ちを踏みにじるかのごとく、乱雑に扱ったり、粗末にしたりしていいとも思わないけど。
だから、触らず放っておくことが、もっとも当たり障りのないことだった。
 
 
それまで、長い間、静まり返ったままだった玄関を出入りする音が気になったのか、私が部屋から出たタイミングで、隣の部屋からも住人が出てきた。
隣人は初老の男性。
どうも、この部屋の事情を知っているよう。
何も知らない人間に、自分が知っていることを教えたがるのは人間の習性なのか、それとも、ただヒマを持て余していただけなのか、私がとぼけた顔をしていると(もともとそんな顔か?)、男性は、訊きもしない私に向かって口を開いた。
 
話の中身はこう・・・
当室に暮らしていたのは、老年の女性と中年の男性。
二人は母親(以後「女性」)と息子。
息子は、年齢的には働き盛りだったが、重い鬱病を罹患。
到底、外で働くことなんてできない状態。
で、もう、何年も無職で、ほとんど部屋にとじこもったままの生活。
女性も無職。
加齢にともなう衰えはあったものの、身体に大きな病気はなし。
収入は、年金と生活保護費で、二人は、お互いに助け合いながら、慎ましい生活を送っていた。
 
息子は、もの静かで控えめな人物。
鬱病は重症らしかったが、感情を高ぶらせて大声を上げたり、何かにイラ立って乱暴な振る舞いをしたりするようなことはなかった。
顔を合わせることは滅多になかったが、たまたま会ったときに挨拶をすると、黙って頭を下げるだけではなく、キチンと言葉を返してきた。
だから、その人柄に悪い印象は抱かず。
ただ、いつも、その表情は暗く、浮かべる笑顔も引きつり気味で、具合が悪いことは他人の目にも明らかだった。
 
そんな暮らしの中で、衝撃の事件が。
ある夜、とうとう、息子が浴室で自傷行為に。
それは、女性が就寝した後、深夜の出来事で、すぐに気づくことができず。
翌朝、女性が発見したときは、既に冷たく硬直。
遺体で運び出された息子が部屋に戻ってきたときは、小さな遺骨になっていた。
 
世の中には、多くの困難に見舞われたり、大きな障害を抱えたりしながらもがんばっている人がたくさんいる。
ハンデをものともせず、明るく前向きに生きている人がいる。
しかし、自分は、身体に問題があるわけでもないのに働かない。
か細い老母のスネをかじりながら生きている。
世間の目が気になり、他人と比べてしまう。
そんな中で、劣等感や敗北感、虚無感や無力感、罪悪感や絶望感が容赦なく襲いかかってくる。
しかし、息子だって、戦っていなかったわけではない。
充分に戦っていたはず。
自分が「弱虫」「ダメ人間」のレッテルを貼ろうとも、世間から「甘ったれ」「怠け者」のレッテルを貼られようとも、「生きた」ということが その証。
私は、三十年前の自分自身を重ねてそう思う。
 
女性の姿が見えなくなったのは、息子の死から一か月もしないうち。
ある日、突然、いつもの生活音がしなくなり、人の気配も消えた。
男性は、不審に思わなくもなかったが、女性とは、日常的な付き合いをしていたわけではなし。
ただ、息子が急に亡くなってしまったこともあるし、女性自身、高齢でもあるし、部屋で亡くなっていることも想像の内にあった。
で、その旨を管理会社に連絡。
悪い想像が脳裏を過ったのは同じだったようで、管理会社も、すぐに対応。
スペアキーを使って母親の部屋を開錠し、室内を確認。
そして、まずは、女性が部屋で亡くなっていたわけではなかったことに安堵。
しかし、その後も、女性とは連絡がとれず、行方も知れず。
そうして、そのまま数か月が経過し、結局、法に則って後始末が行われることになったのだった。
 
 
女性は、一体、どこへ行ってしまったのか、
女性の年齢から考えると、その両親は、とっくに亡くなっているだろうし、
生活保護を受けていたことを鑑みると、兄弟姉妹がいたとしても、女性を扶養する意思も力もないだろうし、
寝食を共にしてくれる友がいた可能性がゼロではないにしても、現実的には、なかなか考えにくいし、
ただ、息子がいなくなったとしても、このアパートを追い出されるわけでも、年金や生活保護費がもらえなくなるわけでもない。
精神的なダメージはさて置き、表面上の生活は、以前と変わりなく営めるはず。
どこかに引っ越すにしても、正規の手続きを踏めばいいだけのこと。
なのに、女性は、黙って姿を消してしまった。
 
衣食住が整っていたとしても、人は、生きる目的、生き甲斐、生きる希望、生きる意味を失ってしまっては生きていけない。
逆に、衣食住が整っていなくても、人は、生きる目的、生き甲斐、生きる希望、生きる意味を失わなければ生きていける。
どんなに息子の病状が深刻でも、女性は、回復の希望を捨てていなかったのではないか・・・
だから、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、生きていてほしかったのではないか・・・悲し過ぎて、淋し過ぎて、身の置きどころも心の置きどころも失ってしまったのだろうか・・・
 
何もかも手放して、何もかも放り出して、どこかに逃げたくなる気持ちはわかる。
生きるにしても、死ぬにしても、今、この現実から離れたくなる気持ちはわかる。
「逃げたらダメ!」というのが、世間の常套文句だけど、私は、そうは思わない。
もちろん、忍耐することも大切。生きるうえで忍耐は必要。
だけど、他人が導き出した「正論」に従わなくていいときもある。
生きるつもりがあるなら、逃げていいときもあると思う。
大家や管理会社に迷惑をかけたことに間違いはなかったが、私の心には、自分勝手に姿を消した女性を悪く思う気持ちは湧いてこなかった。
 
 
最後、部屋には、遺骨だけがポツン。
部屋にこだましているかもしれない無言の言葉を聞き取ろうとしても、私ごときに聞こえるわけはない。
感じられるのは、ただ、遺骨に寄り添う女性の想いのみ。
「どこでどうしてるんだろうな・・・」
「骨のカケラくらいは持って行ったかな・・・」
「想い出は大切にしてるかな・・・」
もう、どこかで、ひっそりと亡くなっていることも想像されたが、私は、あえてそういう向きの思考を停止。
ただ、もともと情に厚い人間でもないし、まったくの他人事なわけで、そこには、「悲しさ」とか「淋しさ」とか「同情」とか、そういった優しい心情があったわけではなかった。
 
あったのは、
「置き去りにした人生を、微笑みながら振り返ることができるまでは生きていてほしいもんだな・・・」
といった単純な願いと、
「でないと、後味悪いもんな・・・」
といった冷淡な思い。
 
そうして、私は、置き去りにする遺骨に「じゃぁね・・・」と別れを告げ、一仕事と二人生が過ぎた部屋をあとにしたのだった。

 



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風と共に

2022-09-15 08:17:49 | 孤独死
九月も第二週に突入。
夏から秋にかけては、「一雨ごとに涼しくなる」と言われるように、日中は暑くても、朝晩は涼しさが感じられるようになってきた。
ちょっと風があったりすると、本当に心地いい。
子供の頃は、夏が大好きだったのに、「年々衰えるばかりの中年男には、もう“夏”という季節はいらないかな・・・」と思ってしまうくらい。
ただ、同じ秋涼の風でも、喜べないものもある。
 
先日、沖縄地方を中心とした各所が、台風11号による暴風雨に見舞われてしまった。
離島の暮らしには、憧れてばかりもいられない厳しさがあることを、あらためて知る機会にもなった。
一方、身近なところでは、記録的な大風が吹いた2019年9月の台風15号が思い起こされる。
このときは、千葉を中心に大きな被害がでた。
房総の方は、更地になったままの土地や、いまだ、屋根が修理できていない家屋もあるらしい。
 
しかし、台風の季節は、まだ始まったばかり。
これから、いくつもの台風が発生し、列島を襲ってくるはず。
イザとなって慌てて用意するのではなく、我々は、常に「想定外の災害」を想定し、必要な備えをしておくべき。
懐中電灯、電池、カセットガス、水、保存食・・・
人によっては、念のため、酒も多めに置いておいた方がいいかもしれない。
「酒がある」というだけで、気持ちが落ち着くことがあるから。
ただ、停電・断水の中、ランタンの灯に照らされる乾きモノを肴に生ぬるいビールやハイボールを飲んだところで、美味しくはなさそうだけど。
 
しかし、そんなくだらない考えが浮かぶくらい、ここのところの私は、酒がやめられなくなっている。
酒量も高止まったまま。
毎晩、ビールやハイボールで1.5ℓ、時には2.0ℓいくこともある。
泥酔するわけではないが、これだけ飲むと、ちょっと頭がフラつくくらいにはなる。
若い頃は、これ以上を当たり前のように飲んでいたし、酒豪の人からすると「大した量ではない」と思われるかもしれないけど、酔った感覚を自己分析すると、自分にとっては、決して少なくない量だと思う。
 
肴を夕飯代わりに、たいして面白くもないTVを観ながらの一人酒。
本当は、以前のように、キチンと休肝日をもうけて節制したいのだけど、毎日の晩酌は「唯一」と言っていいくらいの楽しみで、まったく やめる気が起きない。
この“ダメンタル”は、完全にアルコール依存症になってしまっている。
 
酒もさることながら、マズイことは他にもある。
“締め”にインスタントラーメン・カップ焼きそば、時には、ピラフやカレー等、米飯を食べてしまうのだ。
かつて、私は、「アルコール+糖質=脂肪」という危険な方程式のもと、長い間、夜は糖質制限をしていた。
また、それ以前に、「身体に悪い」といったイメージが強いインスタント麺を食べることはほとんどなかった。
 
昨夜も、飲んだ後にカップ焼きそばを食べてしまった。
しかも、大盛のヤツで、塩分もカロリーも気にせず、こってりと中濃ソースを追加して。
食べているときは酔った状態だから、「うまい!うまい!」と能天気なのだが、それで熟睡できるわけはなく、毎度毎度、翌朝には、不快な倦怠感と中途半端な睡魔に襲われるハメになる。
 
思えば、これまで、この身体も色々あった。
原因は仕事のストレスだと思っているが、二十代半ばで喘息を罹患。
また、二十代後半、胃にポリープが見つかったり、三十代前半、肝硬変や肝癌が疑われるくらい肝臓を悪くしたりしたこともあった。
暴飲暴食で極度の肥満になったり、拒食症になってガリガリに痩せこけたりしたこともあった。
小さいところでは、目眩や蕁麻疹も。
三十の頃から現在に至るまで、原因不明の胸痛に襲われることもしばしば。
これまで、三度の骨折も経験。
数年前から、左の股関節の調子もよくない。
鼓膜を破った右耳は、常に耳鳴りがしていて、やや難聴気味。
老眼も進行、スマホの文字がよく見えない。
外見だって、愕然とするくらい老け衰えてきている。
 
おそらく、人間ドッグに入ったら、何らかの問題が露呈することになるだろう。
ま、半世紀以上も使ってきた身体だから、あちこちガタがきていても不自然ではないが。
ただ、「バカは風邪をひかない」と言われる通り、風邪をひくのは何年かに一度くらい。
また、ありがたいことに、入院の経験はない。
このことは、この先も、そうでありたい。
 
しかし、人生には皮肉なことが多く、健康的な生活を心掛けている人が病気で短命だったり、不健康な生活をしている人が元気で長命だったりすることって、当たり前のようにある。
事実、タバコなんか吸ったことがない母は肺癌になってしまったし、過食症でも肥満症でもなかったのに糖尿病になってしまったし。
大酒飲みだった父は、血糖値が高いくらいで、歳の割には元気にしている。
 
好きなことを我慢して寿命が延びることを期待するか。
それとも、寿命は気にせず、好きなように生きるか。
この類は、個人の価値観や人生観に任せていいことだろうけど、世間や人に迷惑はかけたくないもの。
となると、おのずと健康を志向せざるを得ないか。
 
とにもかくにも、こうして悩んでいるときも、考え込んでいるときも、“終わり”に向かって時間だけは過ぎているわけで、悩み過ぎず、考え過ぎずに生きていくことも大切なのではないかと思う。
 
 
 
訪れた現場は、老朽アパートの一室。
ただ、「アパート」と言っても、建物の外観は普通の一戸建と変わらず。
子供達が独立した後、「少しでも老後の足しになれば」と、大家夫妻が自宅一軒家の二階部分を賃貸用に改装したもの。
ただ、もともとは、普通の一戸建だったため、改装するにも限界があった。
もちろん、かけられる費用にも。
したがって、増設したのは、ちょっとした自炊ができるくらいの小さな流し台と、一階と分離した階段くらい。
トイレは共同で、少し遠いが徒歩圏内に銭湯があったため風呂はなし。
その分、相場に比べて、家賃は格安にした。
 
その甲斐あってか、二階の二部屋は、最初の募集ですぐに埋まった。
二人とも初老の単身男性。
一人は、数年、ここで暮らしていたが、身体を悪くしてどこかの施設に転居。
以降、この部屋に入居してくる人はおらず、もう長い間 空いたままとなっていた。
 
そして、もう一人が、今回の“主人公”。
この部屋に暮らし始めてしばらくの年月が経ち、初老だった男性は老齢に。
年齢のせいか持病のせいか、ある日、一人きりの部屋で死去。
暑い季節だったことも手伝って、遺体の腐敗は、それなりに進行してしまった。
 
第一発見者は、一階に暮らす大家の女性。
女性もまた老齢。
何年も前に夫は先立ち、一人暮らし。
身体に不具合を感じながらも、何とか生活を成り立たせていた。
 
女性と故人。
一階と二階、所帯は別々で、日常的に交流があったわけではなかったが、同じ屋根の下での二人暮らし。
そして、お互い、高齢者。
家賃の授受で、少なくとも月に一度は顔を合わせることがあり、ついでに近況報告等、世間話をしていた。
その際、冗談混じりに、持病や孤独死について話すこともあった。
そうして、日常生活においてお互いの安否を気にかけることは、暗黙の契約のようになっていた。
 
無事でいることの証は生活音。
足音をはじめ、ドアの開閉音、トイレを流す音、TVの音など。
ただ、一日~二日くらい音がしないくらいでは気に留めず。
しかし、それが三日ともなると話は変わる。
三日目になったところで、女性は、妙な胸騒ぎを覚えた。
男性が旅行等で外泊するなんてことは滅多になかったし、そういうときは、女性に一言伝えて出掛けるため、その可能性は考えられず。
結果、「何かあったのかも・・・」という考えに至り、男性の部屋に行ってみることにした。
 
二階に上がってドアをノックしても応答はなし。
「ひょっとしたら・・・」と緊張しながらスペアキーを使ってドアを開けてみると、部屋に敷かれた布団には、独特の異臭と共に黒っぽく変色して横たわる故人が。
声を掛けても反応しない故人に驚いた女性は、すぐさま119番通報。
同時に、近所の人にも助けを求めた。
ただ、そんな騒動の中にあっても、女性にとっては、ある意味 これは想定内の出来事でもあり、「とうとう、この日が来てしまったか・・・」と、冷静に受け止める自分もいた。
 
部屋の汚染・異臭は、ライト級に近いミドル級。
遺体痕は、布団と畳に残留。
小さなウジが見受けられたが少数で、ハエの発生はなし。
ニオイは高濃度ではあったものの、死後三日程度のことなので、私は「浅い」と判断。
汚れた布団と畳を始末すれば、容易に改善することが予想された。
 
先々、新しく入居者を募集する予定もなく、部屋は空室のままにしておくことに。
したがって、凝った消臭消毒もせず、畳の新調などの内装修繕もなし。
汚れた布団と畳をはじめ、質素で少な目の家財を処分した上で、軽めの消臭消毒を実施。
それでも、作業が終わると、異臭はきれいに消滅。
気になるのは、畳一枚が抜けたままになっている床くらい。
作業最後の日、請け負った仕事がキチンと完遂できたかどうか確認してもらうため、私は、女性に故人の部屋に入ってもらった。
 
女性は、畳が抜けたところに向かって手を合わせながら、
「〇〇さん(故人)、本当にいなくなっちゃったんですね・・・」
「ついこの間まで、普通にお喋りしてたのに・・・」
「みんな、いなくなっちゃうんだな・・・」
と、感慨深げにつぶやいた。
そして、また、部屋の柱や壁を愛おしそうに触りながら、
「私も、先が短いですから・・・」
「あと、どれくらいここに一人でいられるものか・・・」
「家族と長く暮らした家ですから、離れたくはないですけどね・・・」
と、達観と未練が混ざったような、寂しげな表情を浮かべた。
 
そうして、消えた命と余韻と、消えゆく命の灯を残し、その仕事は静かに終わったのだった。
 
 
その何年か後・・・
別の仕事で、その近辺に出向くことがあった。
「この辺りは・・・あのときやった現場の近くだな・・・」
私は、周囲の景色を手掛かりに、昔の記憶をたどった。
「確か・・・あの家が建っていたのはここだよな・・・」
ボヤけていた記憶はハッキリとし、同時に、当時の出来事もリアルに想起された。
「建て替えられたのか・・・」
そこにあった女性の家はなくなり、まったく別の建物になっていた。
「〇〇さん(大家女性)、どうしてるかな・・・」
その前を徐行して見ると、女性とは違う姓の表札が掲げられていた。
「すべては無常か・・・」
土地家屋は売却され、第三者の手に渡り、新しく家が建てられたようだった。
 
あの後、しばらく、女性は、一人きりになった家で、あのままの生活を続けたことだろう。
たくさんの想い出と共に、人生の限りを想いながら。
そうして、寄る年波に身を任せ・・・
どこかの施設に行くことになったか、病院に入ることになったか、それとも、息子・娘の家に引き取られたか・・・
過ぎ去った年月を数えると、「亡くなったかも・・・」と考えるのも不自然なことではなかった。
 
“時”は、誰に遠慮することもなく、誰に媚びることもなく、はるか昔から変わることなく、一定の速さで進んでいる。過ぎ去っている。
新しい家には、若い夫婦と幼い子供が、笑顔で暮らしていることが想像された。
しかし、時が経てば、家も古びて老朽家屋になる。
そして、そのうちに、住居としての使命を終える。
若い夫婦も中年になり、熟年になり、老年になる。
幼い子供も成年になり、中年になり、熟年になり、老年になる。
そうして、やがて、皆、命を終える。
 
 
人生の道程において・・・
過ぎ行くとき問題は大きい。
過ぎ去れば問題は小さくなる。
過ぎ行くとき苦悩の色は濃い。
過ぎ去れば苦悩の色は薄くなる。
過ぎ行くとき足どりは重い。
過ぎ去れば足どりは軽くなる。
ジタバタしようがしまいが、人生、儚いことに変わりはない。
 
この地球に、最後まで残るものは何だろう・・・
それが、人類でも、人類が造ったものでもないことは、科学者じゃない私でも読める。
最後の最後は、植物や昆虫をはじめ、ウイルス・バクテリアの類もいなくなるか。
海は干上がり、岩石も砕かれるだろう。
残るのは、乾いた砂・・・そして、酸素を失った風くらいか・・・
 
そう・・・
いずれ、みんな、消えていく・・・
だったら、悩み過ぎず、考え過ぎず、生きていこうか。
今日の風に吹かれながら、風と共に。





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