「継続は力」

カウンセリングは、より良い人生を目指す人たちにどう影響するのか知りたくて勉強しています。

カウンセリング・ルーム

2024-04-26 | ふり返り

 この前の(土)は対面のミニカウンセリングでした。新入会の人も含めて9名で2回の練習です。最近は機会を増やすために15分間の面接にしています。

カウンセリングでは最初の3分間は非常に大切です。多くの場合、話し始めると、その人にとってとても大事なことが語られるからです。そのことは後になって、あぁそういうことだったのかと気づくことで分かったのです。

それと、スーパービジョンを2回受けて、今の僕の考えで良いのだと分かったことが有ります。それは、問題点はクライエントの主訴、言いたかったことを受けてカウンセラーがアドバイザーに変身することです。やはりそこをスーパーバイザーは検討課題として直ぐに取り上げました。

ある程度カウンセリングの経験を積むと、弱くて困っているクライエントを助けてあげようという姿勢から出てくる応答に成りがちです。そこはそうであっても、クライエントの身になって気持ちとか考えを想像して伝え返しを続けることで、一緒に問題に対処していく関係、信頼関係が築かれていくのです。

 

 

 以前、協会の研修に参加している時、お客さん相手に仕事している人の言葉遣いから思ったことがあります。機械を相手に仕事していた団塊世代の僕からみた感想ですが、普通に話してくれた方がこちらもしゃべり易いのに、と何度も思いました。ただ、僕の「普通」と他の人の「普通」がどうなのかは検討課題です。

一般的には、丁寧で、打ち解けても馴れ馴れしくないことと言われているようです。 クライエントに「自分は尊重してもらえている」という感覚をもってもらえるような丁寧な対応です。あまり人から大切にされてこなかったと感じている人にとっては、丁寧な言葉づかいで対応してもらえるだけで新鮮に感じるようです。

しかし、〈**様は~でございますか?〉というような丁寧すぎる言い方だと、逆に距離ができてしまい打ち解けて話すことが難しくなります。また一方で、親しさを勘違いして、馴れ馴れしい言葉でしゃべりすぎると距離が取れません。言葉づかいを考えることは、クライエントとの適切な距離を考えることにほかなりません。

何を言うかは大切です。新聞には「○○という意図は無かったが、もしそうとられたとしたら、その点についてはお詫びする」などと訳の分からない弁明が載っていますが、カウンセリングはそれは通用しないと思います。合わせて大切なことは「どういう言い方」をしたかです。

心をこめて、「大変な思いをされてきたのですね」と応答するのと、逆に一本調子に言うことと比較すれば分かりますが、案外言葉の内容に気を取られて勿体ない応答になってしまった人を見かけることがあります。映画や舞台が勉強になります。

 

 支部の面接室は椅子が四脚あります。どこに座るか悩んだことがあります。何回かはクライエントに決めてもらったことがあります。それは、先輩から「クライエントにどこに座るか先に選んでもらって、それに応じて自分が座る椅子を決める」と聞いたことが有ったからです。

 確かに「どこに座っても自由ですよ」ということが、来談者中心ということのように思えたのです。しかし、そう言われても、かえって戸惑うクライエントもいて、先導すべきところは先導して、「ではこちらにおかけください」と座る位置を指定する方が安心するクライエントが多かったようでした。

もちろん、何度か面接に来られた人の中には、自ら座る位置を指定されたこともあります。部屋の構造にもよると思いますが、90度の位置が人気がありました。それでクライエント自身に何等かのメリットがあったのでしょう。

こういうことは、産業カウンセラーとして話をする時に役に立ちます。部下の指導をする時は「人はメリットのある結果がもたらされる行動を繰り返す」から、その行動をとった時に「褒める」ことを勧めましょう。

 

 

そう言えば、ミニカウンセリングで「最近の自分について病気か性格か」困っている様子が話されました。振り返りでは「病気ではない」「病気についてはリファーする」とかが話題の一つになりました。

これを「人はメリットある行動をとる」という視点から考えることも出来ます。「葛藤」という観点からも考えられます。今回のクライエント役はその点は分かっていたようですが、多くのクライエントは薄々気づいていても落ち着かないので面接に来られているようでした。

理論を学ぶと、こういうクライエントに対しても慌てることなく進められます。知らなくても、病気か性格かについて、そう思う詳しいことを教えて貰うようにすると良いでしょう。カウンセラーが自説に囚われて解決志向にならないようにするだけです。

 

さて、質問です。あなたは

「現状」と「ゴール」の中間まで進んだとします。今と違ってきていることは何ですか?

 

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カウンセリング・ルーム

2024-04-24 | ふり返り

 実際に産業カウンセラーとして企業等に出向き面接を始めると、前回のように悩む事ばかりです。頼りないカウンセラーであっても、クライエントの方はカウンセラーを選ぶことが出来ません。僕しかいないのです。

ですから帰宅途中は「また失敗してしまった。それでも来てくれているクライエントに申し訳ない」と言う気持ちでいっぱいになっていました。

 

 

 話は変わりますが、「受容」というと、クライエントをカウンセラーが受容することや、クライエントが自己受容すること、それを可能とするためにカウンセラーが自己受容することが言われています。

そうではありますが、実際にはもう一つ、クライエントがカウンセラーを受容するという受容もあるのですね。それは、子が親を、生徒が教師を、スーパーヴァイジーがスーパーヴァイザーを受容している(あるいは大目に見ている)ように、クライエントもカウンセラーを受容しているのです。

クライエントはカウンセラーから受容されるだけの存在ではありません。カウンセラーは、一方で有能であろうと努力しますが、それでも完璧にはなりえません。さまざまな場面で「失敗、し損ない」をします。にもかかわらずセラピーが継続するのは、カウンセラーがクライエントに受容されているからです。

 このことは実は、クライエントにとっても意味のあることです。人に完璧さを求めて、ちょっとでもアラが見えたら人間関係を切ってきた人が、カウンセラーの「失敗、し損ない」を大目に見て、カウンセラーを受容できたとすれば、それだけでも大きなことです。クライエントの受容する力を信頼し、そのことに感謝しましょう。

クライエントもカウンセラーを受容しているのです。

 

 

 さて、カウンセリングに出かける時、ファッションに気を付けますか?養成講座で実技試験の時の服装は清潔感ある華美でないことと教えて貰いました。

では「面接のときは、どんな服装が望ましいのでしょうか?」

 

衣装持ちで無い僕は、今あるものを組み合わせることで乗り切っていたと思っていますが、特に僕のファッションに興味を持たれることは有りませんでした。

でも、服装は初心者にとっては気になることでしょう。やむを得ず僕は、時にはクリアランスセールを目指してデパートに出かけました。そんなことも有りましたが、その時代やその企業の雰囲気も有るので、特にこうでなければならないということはないと思います。

考える材料として例えば、迷彩色の服を着たり、マリリン・モンロウの写真を印刷した黒のTシャツを着るというのはどうでしょう。また、アロハシャツに短パン、サンダル履きというような服装はどうでしょう。

受容的、共感的に振る舞うべきカウンセラーとして、苦しみを語りに来ているクライエントにしたら違和感があると思います。逆に言えば、親身になって相談に乗る姿勢が伝わる、落ち着いた印象の服装であれば何でもいいということだと思います。

・威圧感のない、真剣味の伝わる服装で

 

 

 その昔、今頃は新人や転勤者に対して仕事を教えることで忙しくしていました。つまり教育係ですが、最近の教育は随分丁寧のようで、メンターという役割の人もいるようです。

今思えば、上記のように服装一つでも「具体的」に、しかも「行動レベル」に落とし込んで話をすれば良かったと反省しています。

相手の身になっていない僕が問題な訳ですが、上手く伝わらないことを相手の責任していたのです。反省だけなら猿でも出来ると言われそうです・・。

 

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カウンセリング・ルーム

2024-04-22 | ふり返り

 自分がカウンセリングを受けたいと思った時を思い返すと、やはり一番は「分かって欲しい」という気持ちが大きかったと思います。自分に何が起こっているのか、そしてそれはどんな影響を及ぼしているのか、どうすればいいのか。

逆に、そこでカウンセラーに求められているのが「共感」でしょう。相手の身になって、ありありと想像して、あたかも・・・と習ってきました。難しいのは「相手の身になって」というとこで、自身の体験をベースにするしかないので、そこではどうしても偏見、色メガネでみてしまいます。

そのことを分かった上で、共感するための質問やパーソナリティ理論の学習などの努力をしているのです。ところが、勉強を始めてからも、僕は新入社員に対して自分の考えを基準にあれこれ言っていました。職場とカウンセリングは別です。新入社員にしてみれば僕が何を言っているのか分からなかったのでしょうが、日本語が通じない、そのことで腹を立てていました。やはり場所は違っても相手は人間ですから、共感的態度が必要だったのですね。

これは仕事ではない趣味のカルチャープラザでも同じです。初心者だった頃の自分を忘れて、新人に対して居丈高に上から目線で言っている人を見かけると、以前の自分を思い出しているのです。

 

 

 さて、本物のカウンセリングを体験するようになると、「クライエントと関わる中で、私なんかが影響を与えてしまってよいのだろうか」と怖くなることがあります。

カウンセラーの反応がクライエントの心に影響を与えることに怖さを感じたのです。下手に影響を与えないようにという謙虚さは必要なことです。ただ「影響を与えない」ということが実際にありうるかと言えば、それは無理です。

心理療法は人間同士の心の作業ですから、「同じ条件の下で同じ方法を用いれば誰がやっても同じ結果になる」ことはありません。つまり、人の影響は排除できません。

また、カウンセラーは、「平等に漂う注意」とか、「受容・共感」と言っても、話の一部に焦点を当てることもありますし、ある話には大きくうなずき、ある話にはそれほどでもないということもあります。

そうしたカウンセラーの細かな反応をクライエントが「選択的な注意」と受けとめることは避けられないでしょう。細かく見れば、そういう形でも影響を与えています。

 

 

 しかしそうは言っても、クライエントには、他の人と同じく主体性があります。他者からの影響は受けても、他者の思い通りにはなりません。その点で、クライエントをむしろ信頼すべきだと思います。

「関わる」ということは、お互いに影響を与え合うことで、それは他の人間関係でも一緒です。その結果どのような道を選ぶかは、クライエント自身が決めることです。

セラピーはその選択と決定を手助けしているのです。影響を与えることを恐れず、自分がしたことに責任をもちましょう。

 

影響を与えることを恐れない

 

 

 

とは言うものの、先輩から「心配せんでも、あんたにその力は無い」と昔のことだが言われましたね。でも、クライエントは藁にも縋る気持ちで来ているはずなので、真剣に一生懸命関わらなければなりません。そして、自分が今出来ることを精一杯やったのですから、前を向いて進みましょう。

笑い話に「別れても好きな人」をもじって「別れたら次の人」と言うではないですか。

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カウンセリング・ルーム

2024-04-20 | ふり返り

 練習ではなく、初めてカウンセリングに臨んだ時、「とにかく話を聞くこと」とアドバイスを受けました。しかし、どのように応答すれば良いのか、解決方法はどうするのか、もうパニック状態でクライエントと会いました。

お話はとても暗く悲惨な内容でした。本当に聞くことしか出来なく、気づいたら30分以上時間をオーバーしていました。これを先生たちに話すと、案の定大𠮟られして余計落ち込みました。

数年経った頃聞いたのですが、カウンセラーは「聞くこと」が大切ですが、話されていることの理解の為には、様子を見て、控えめに、あるいは時にしっかりと話すことも大切なのだということでした。

その時、「こう言いさえすればよい」といった小手先の技術になってしまってはいけないのです。「カウンセリングは技法よりも態度のほうが大事だ」という意味を考えましょう。

 

 

 気づいた時には、「カウンセラーは質問する人、クライエントは答える人」というパターンが出来上がっていました。これを修正するにはどうすればよいでしようか?

 カウンセリングは、クライエントの抱えている問題を二人で検討していくものですが、クライエントは、カウンセリングの進め方について最初から理解しているわけではありません。養成講座での最初の頃の練習を思い出すと分かると思います。ですから、こうしたパターンになった時は、

Co:ここまで、私が質問して、Aさんがそれに答えるみたいな感じになっていますが、面接の進め方としては、話したいことをご自分のほうから自由に話してもらうのが基本なんです

と伝えてみます。そして、クライエントが話そうと用意してきた話を聞きましょう。聞いていると確認したい事柄も途中で出てきても我慢して、なるべく口を挟まずにともかく聞きます。

すると「クライエントが話す」ことを「セラピストが傾聴する」という関係が出来てきます。今日は聞いてもらえた、という実感をもてれば、クライエントも質問に答えていればいいのだとは思わなくなるでしよう。

そうなった頃には、我慢して確認しなかったことを聞いても、質疑応答にはならないでしょう。

 

 

 一方、今思い出しても恥ずかしながら、カウンセラー側の要因でこうしたパターンが生じることがあります。カウンセラーが質問を考えてクライエントに質問しても、簡単な答えしか返ってこないために、別の質問を考えてというのを、繰り返しているうちに一問一答式に陥る場合です。

カウンセラーは焦ります。しかし、別の質問を考えることにも限界があります。面接が終わって、ふと我に返った時に自分は何をしようとしていたのかと気づくのです。このパターンにならないようにするには、別の質問に移ろうとするのではなく、クライエントの答えを一旦受けて、それを利用して話の流れを作るように工夫しましょう。

例えば、「もう少し詳しくお話を聞かせて貰えますか」「話してみてどんな感じですか」など、お馴染みの応答、問いかけです。

 

 また、カウンセラーが沈黙を恐れ、次々と質問している場面を見ることがあります。つまりカウンセラーが質問ばかりしていると、クライエントは聞かれたことに一生懸命答えて、次の質問を待って受け身に答えるだけの人になってしまうのは当然でしょう。

自分のほうから話したいことがあっても、話せないままに帰るというような結果になるかもしれません。沈黙を恐れることは無いと聞きますが、やはり怖いです。何故かと言えば、沈黙の意味が分からないからではないでしょうか。逆に言えば、そこがクリヤーされれば怖くないのです。

・心理療法の進め方について改めて説明する/質問を控え傾聴しましょう

 

 

 逆に、「クライエントは質問する人、カウンセラーは答える人」というパターンが出来上がってしまっている場合は、どうする?

 今度は逆のパターンで、クライエントから次々と発せられる質問にカウンセラーがうんざりすることもあります。この場合もカウンセリングは二人で考えるものであるということを改めて伝えることが必要です。

Co:このところ、Aさんがいろいろ質問をして、私がそれに答えるという形になっているように思うのです。質問は勿論していただいて構わないし、答えられることはお答えします。ただカウンセリングは基本的に二人で一緒に考えていくもので、私だけが考えて答えるというようなものではありません。

もう一つの対応は、質問を受けて、

Co:そう質問されたのはどうしてですか?

Co:Aさん自身はどう思われますか?

と答えたあとでCo:そう聞いてどう思いますか?と問い返すことです。

つまり、すべて「クライエントの心」のことに話を戻すのです。もし、クライエントが自分の心から目を逸らすために質問する側に立って、カウンセラーに考えさせ、自分は考えないようにしていると感じられるのであれば、

Co:何だか、私ばかりが答えていて、Aさんはあまり自分のことを考えなくてもいいみたいになっていませんか?私の答えを待つだけでは、カウンセリングにならないように思うのですが、と問いかけてみましょうか。

・心理療法の進め方について改めて説明する/問い返す

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言葉

2024-04-18 | 自灯明

 フランクルの最終回です。何か一つでも心に残る言葉が有れば良いのだけど・・。始めます。

  

 「汝自身を知れ」この古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉は,誤解されているようです。“汝自身”とは,人間の心理的傾向や性格などではなく,内なる精神のことです。フランクルも同じように,人間の内なる精神的次元を強調しておりました。

ソクラテス以前の哲学者たちの関心は,自然現象の解明にありました。彼らはこの世界の仕組みにのみ関心があって,人間精神の解明には関心がなかったのです。

 

 

「無知の知」

 そこでソクラテスは,精神的次元を自覚していない人々に対し,問答法によって真理を明らかにしようとしたのです。フランクルの為したことも同じです。フランクル以前の心理学,すなわちフロイトの精神分析やアドラーの個人心理学は,制約的次元である心理を解明するだけであって,自由な精神的次元を解明するものではありませんでした。

いわばフロイト・アドラーの心理学は,制約された人間の無能さを合理的に説明するだけであって(還元主義),それを超越するものではなかったのです。自由のないところに道徳的価値判断の可能性は生まれません。フランクルの実存的精神分析とは,人間の自己超越を促がし,道徳的価値意識(自ら判断し責任を負うこと)を復興することにあったのです。

フランクルがナチスの強制収容所から解放された直後,「ビルケンヴァルトの共時空間」という戯曲を書いています。強制収容所での体験を,霊的存在の視点から回顧するというものです。そこで登場する霊的存在の中心人物が,ソクラテスなのです(他にはカントとスピノザが登場する)。精神的次元に覚醒した人間は前世の記憶がよみがえる場合がありますので,ひょっとするとフランクルは,自分の前世を自覚していたのかもしれません。

 

 

ソクラテスとフランクル。

 両者には,一つだけ大きな違いがあります。ソクラテスの時は,人生の最後に毒杯をあおぎましたが,フランクルは,人生の初期に毒杯(強制収容所での体験)をあおぎました。そして,この世の生き地獄の中で,フランクルの思想(実存的精神分析)に磨きがかかり,多くの人々に生きる意味をもたらすことができたのです。

この世は実に,神なき,暗闇の世界です。理不尽な殺人事件,民族の大量虐殺,無垢な幼児の虐待・・・。ドストエフスキーが「悪霊」の中で自殺者キリーロフに言わせているように,もしこの世界が虚偽の上に建てられているのなら,この世で生きる意味など寸毫もないのです。

暗闇の世界には,一条の光がなければなりません。「ビルケンヴァルトの共時空間」では,こんなシーンがあります。ナチスの大量虐殺・強制収容所のあり様を見たスピノザが,こう嘆くのです。「誰か地上の人々を導くために下るべきではないか?」と。

 

 

そこで,ソクラテスは答えます。「すでにまったく別の存在が,人間ではない存在が,人間を助けるために,人間になりました」と。「わが神,わが神,なぜゆえ私をお見捨てになったのですか?」このイエスの最後の言葉は,神の存在を疑った言葉ではありません。

生きる意味を失ったが,それでも神を信じようとした言葉であります。自分の生きる意味を見失っても,それでも,他者の苦悩を引き受け,他者の生きる意味のために生命を捨てようとした人間の言葉であります。この人の生きざまに,神から“生きる意味”を問われている人間の理想的な姿があるのではないでしょうか。

 

ですから,究極の生きる意味とは,フランクルは,「生きる意味を全く失った暗闇の中でも,他者の生きる意味のために生きることなのです」と言います。

 

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言葉

2024-04-16 | 自灯明

 なんで戦争をするのか、なんでそれを止められないのか。考えたら、確かに動物も植物も生存競争を古代から続けている。と言うことは、種の保存こそ目標なのかもしれない・・。だが、プロパガンダが効果があるなら、逆に使う手も有りそうなのだがどうなのだろう?

一人ひとりが安心して大切にされる社会を目指して、少しでも貢献できる方法として僕は「カウンセリング」を勉強しているのだから諦めずに頑張って続けようと思った。

では、今生きている我々の生きていく目的は、子孫へのバトンタッチだけなのだろうか。いや、そもそも生きる目的が必要なのだろうか。前回の続きとして、もう少しだけフランクルを取り上げてみましょう。

      

 フランクルは「物質的には豊かになっても,心が満たされていない。人生の目的がわからない,生きる意味が見つからない。そういった実存的空虚感と,そこから由来する無気力感が,現代人特有の苦しみといえるでしょう」と言っています。

「夜と霧」の著者ヴィクトール・エミール・フランクルは,そういった実存的不満を抱える現代人に向かって,生きる意味を訴え続けました。

 

 

 それぞれの時代には,それぞれの時代の苦悩があるものです。生きる意味を失った現代人は,主に4つの生き方に陥ってしまうと,フランクルは言います(「時代精神の病理学」)。

「第一に,仮の生活態度」。人生の目的がわからないまま,刹那的に,その日その日を一時しのぎ的に生きる生活態度です。

「第二に,宿命論的生活態度」。人生を社会や他人のせいにして,全く主体性なく生きる生活態度です。仮の生活態度が一種の躁病とすれば,この宿命論的生活態度は一種のうつ病といえるでしょう。

「第三に,集団主義的思考」。人生の問題を,画一的・一律的・一般的にしか判断できない生き方です。

「最後に,狂信」。自分を全知全能の神のように妄想する生活態度です。集団主義的思考は,大衆の中に埋没して自分の人格を無視する生活態度ですが,狂信は逆に,他者の人格を無視する態度です。

 

なぜ現代人は,こういった4つの生き方に陥ってしまうのでしょうか?それは,自分自身の高貴な一面に目覚めていないからです。

 

 

 

 人間存在には,3つの次元があります(「人間とは何か」)。

遺伝によって賦与された身体的次元,教育によって導かれてきた心理的次元,神の創造により与えられた精神的次元

この身体・心理・精神の三位一体こそ,人間存在の姿なのです。そして,生きる意味や代替不可能な自分独自の使命は,精神的次元に内在されております。ですから,自らの精神に覚醒しない限り,実存的欲求不満を解消することはできないのです。

 

フランクルが創始したロゴセラピーとは,相手との対話や議論を通して,その人の考え方に染みついた身体的・心理的・社会的制約の呪縛を解き,自由で精神的な世界観に気づかせることにあったのです。

<3つの価値カテゴリー>

 一見何の意味もないようなこのつまらない人生に,そもそも生きる意味は本当にあるのでしょうか?

フランクルは言います,人間の小さな頭では理解できない超意味が必ずある,と。私たちが自分のペットを散歩させる時,ペットの健康を目的としています。しかしそのことは,ペットにはわかりません。

それと同じように,神は人間の生きる目的をご存知ですが,人間は自分の人生にどんな“最終目的”があるのか知りません。

 

 

知らないだけで,存在するはずなのです。

動物と違って人間は,主体的に生きるように造られました。ですから,生きる意味とは,与えられるものではなく,見い出すものなのです。そうであれば,私たちは価値観を逆転させねばなりません。人間が人生の意味を問うのではなく,人間は人生から意味を問われているのです。

では,どうやって,私たちは生きる意味を探していけばいいのでしょうか?フランクルは3つの価値観を呈示します。

第一に,仕事などの活動に“生きる意味”を見い出す創造価値

第二に,自然や芸術の美しさに没入して,心豊かに生きる体験価値

もし,この2つの価値しかなければ,何らかの原因で仕事ができない,しかも,病気や経済状況のため芸術鑑賞もできない人間は,生きる意味を見つけられないことになります。しかし,第三の価値がある。

それが,運命を受け入れ,自分の十字架を背負う態度価値です。私たちは時として,大きな苦難に見舞われることがあります。人生が行き詰り,どうにもこうにも苦境を脱却できないことがある。しかしそんな苦しみの中でも,自分の態度は自由に決めることができる。

 

人間の尊厳を押し流そうとする苦境に抗し,あくまでも高貴な態度で生きることができる。そして,人間を大きく成長させるのはこうした苦悩であることを考えれば,態度価値こそ,最も重要な価値意識だといえるでしょう。このように,創造価値は行為を,体験価値は喜びを基準としますが,態度価値は苦悩の中にあるのです。

 

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言葉

2024-04-14 | 自灯明

 前回の続きです。

 

フランクルの「人生の意味を問う」と言う実存的療法について考えてみましょう。面接で次のように訴えられることがあります。上司への不満や過重労働の問題ばかりではないのですね。

①人生はむなしい。

②生きる意義が見つからない。

③人生は孤独だ。

④物質的には豊かだが、幸せでない。

 

こういう時に思わず使う技法として、

① 将来の希望を聞く

例えば、将来つきたい仕事、往来結婚したい相手、退職後にやりたい事、将来の夢、希望などの開かれた質問。

② 生きがいを聞く

例えば、自分でなければできない得意なこと、他人に頼られて嬉しい事、ライフワークなどの開かれた質問。

この2つは、実存的療法の「人生の意味を問う」に関係する技法である。つまり「将来の希望」と「生きがい」で代用しているのです。それは、過去の原因や、現在の同じパターンの繰り返しを探すよりも、クライエントが将来つきたい仕事や、希望の生き方が見つかれば、不満が減ると言う見解です。

 

 

 このような悩みを持ったクライエントに、どう対応すれば良いのだろうか?ロジャーズ派の場合は、初回面接であれば「人生はむなしいと思うんですね」とか「生きる意義が見つからないのですね」と返すでしょう。更に、面接が進めば「人生はむなしいと言いますと、具体的には?」とか「生きる意義が見つからないと言うことを、もっと分かりやすく話していただけますか]と応じるかもしれません。

しかし、中期に入っても、そのような対応方法だけでは、展望は難しい時も有る。というか、カウンセラーの方が、逆にむなしくなってしまうかもしれません。

フロイト派の乳幼児期に原因を求めるか、交流分析派のエゴグラムを使うか、サイコドラマをしても、うまく行かない。このような状態になった時に、実存的療法の「新しい助言技法」なのである。

 実存的療法の新しい助言技法

①あなたにとって一番意味のあることは、何ですか?

②それは、どんな意味があると思いますか?

 

 

もう少し詳しく説明すると、

① 最初の質問技法

a. 「あなたにとって一番意味のあることは、何ですか?」

b.「あなたにとって、最後まで譲れないものは何ですか?」

c.「一番妥協したくないことは何ですか」

この質問技法ならば「人生はむなしい」とか「生きる意義が見つからない」と訴えているクライエントでも、ある程度の沈黙の後で、何とか答えられるだろう。

②次の質問技法

a. 「それ(一番譲れないこと)は、どんな意味があると思いますか?」

b.「それは、あなたの人生にとってどんな意味がありますか?」

c. 「それは、なぜ重要(大切)なのですか?]

このように質問をして行けば、そのクライエントにとって意味がある事柄が解かる。

 

それが、どんなことであっても、例えば「その人にとって最も大切なことが、趣味でも良いではないか」これが「クライエント中心」なのではないでしょうか。

 

 

フランクルの「人生の意味を問う」質問技法は、次のような内容である。 

「誰かあなたを必要としている人はいませんか」

「何かあなたのなすべきことはありませんか」

「その誰かや何かのために、あなたにできることは、何かありませんか」

 (フランクル心理学人門、諸富祥彦著)

 

 

それはそれとして、・・・・・「水に流してしまいたい」事は、多かれ少なかれ誰にでもあるものです。また逆に「水に流されては困る」と、ずっとそのような思いを、持ち続けている人がいるかもしれません。

水に流してしまいたい心、流されては困る心、どちらも心の状態は同じで、早くその心から解放されることを本当は願っているのです。

「水に流したい」「流させたくない」その心から解放されるには、終わってしまったことは、もうどうすることもできないのだから仕方がないと思うことです。

当たり前のことのようですが、このような心に支配される背景には、「過去を自分の都合の良い結果が出るようにやり直したい」という思いがあるから、いつまでもその思いから抜け出せないということなのです。

世の中は、常に時が流れており、過去に戻る事は決してできません。だから過去にとらわれていると、今そしてこれからの未来を人切に有意義に生きられないことになってしまうのです。
 
 過去に起きてしまった事は変えられないけれど、有り難いことに過去に体験した思いは変えることができるものです。前に進むことができるのです。
すべてのことを生きる糧とし、今そして未来のエネルギーにすることができるのです・・・・・

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言葉

2024-04-12 | 自灯明

 言葉にすることが出来たら、と思うことはないでしょうか。こういうように言われた時、人によって浮かぶイメージは様々だと思います。余りにも省略されている情報が多いからです。

 また、体験していないことを言葉で伝えようとしても無理です。簡単な例では、砂糖を舐めたことが無い人はその甘さを伝えることが出来ないでしょう。例え知っていてもその甘さを残すことなく伝えることは難しいことは想像できます。

カウンセリングで知的に理解するのでなく、身体で感じることを重視するのはそこにこそその人自身の魂、命が生きているからだと思われます。ある場面で体験したことの情報量は、言葉で表現するものに比較すると身体で感じているものは圧倒的に多くて重要のものが含まれていると思います。

 

 

 話は変わりますが、ミニカウンセリングの時にも良く有る「堂々巡り」についての解説を見つけました。ちょっと読んでみます。

 過去の原因による堂々めぐりで、具体的には「子供の頃に○○と言う育て方をされたから、△△をしたくてもできない」と言うパターンの堂々めぐり。幼児期に○○の原因があるから、△△ができない、でも△△したい、△△ができない、幼児期に○○の原因があるから・・・

この堂々巡りから脱出すには、

① まず、○○や△△の具体的な内容を質問する。

② 次に、助言技法を使う。

 

こうした悩みの典型的なケース、次のようなものである。

① 幼児期の父母の離婚(家庭内離婚を含む)

a.離婚した相手の悪口を聞かされて来たので、異性不信の状態。

b.結婚しても、必ず離婚する気がして、結婚に踏み切れない。

c.結婚したが、相手が必ず浮気すると言う不安がある。

② 幼児期の貧困(親の忙しさ)

a.大人になって子供ができたが、子供への愛し方がわからない。

③ 本人が病弱だった(喘息・病気がち)

a.運動や軽い作業などをとめられて育ったので、一人で出来る自信も経験もない。

上記の原因が複合しているケースもある。その場合は、一つづつ助言する。

 

堂々めぐりと、その解決技法

ロジャーズ派の場合は、堂々めぐりになりやすい。その理由は、次のような質問が多いからである。

① 子供の頃の気持を話してくれますか?

② 子供の頃、どんな風に育てられたのですか?

③ 現在の△△の悩みを、もっと具体的に言うと、何ですか?

④ 現在やりたい△△とは、具体的には?

 

 助言技法を使うカウンセラーの場合は、第6回面接以降に次の方法が加わる。

①子供の頃の気持を、もっと大きな声で言いなさい。もっと感情(怒り)を込めて言いなさい。「ゲシュタルトセラピー」

② 子供の頃に、こうしてほしかった、こうしてほしくなかった、と発言してください。

③ 子供の頃に言ってほしかった言葉を、私(セラピスト)が代わりに言いましょうか?

 

 

「今ここで]は、ゲシュタルト療法の技法の一つ

イスを使う話し方の練習は、ゲシュタルト療法を始めとして、多くの派にまたがる技法で、現在では下記の派で使われている。

①ゲシュタルト療法

②サイコドラマ

③交流分析のエンプティ・チェア(カラのイス)

④自己主張訓練(または自己表現訓練)

 

 では、ゲシュタルト療法の[今ここで」とは何だろうか?ゲシュタルト療法には、主として次の技法がある。

① 今ここで

② 図と地

③ 未完の行為の完成

① 身体言語の指摘

 

「今ここで」の概略

現在の「今ここで」の状態を、過去の原因(かつて、あそこで)よりも重視する方法である。大雑把に言えば、カウンセリング・ルームの中で「今ここで」起きていることと同様のことが、人生の重大場面でも起きている可能性が高いと推測する技法である。

例えば、カウンセリング・ルームで、うまく話せないクライエントには、次の練習をするように助言する。

① クライエントが、順序を立てて話す練習。

② クライエントが、自分自身の長所を話す練習。

③ クライエントが、自分の案や方針の長所を話して、周囲の人を説得する練習。

④ クライエントが、大きな声で、はっきりと話す練習。

 

 

グロリアと三人のセラピストのビデオ

カウンセリング受講生の中には、有名な「グロリアと三人のセラピスト」と言うビデオを見た人も多いであろう。ここで「話し方の練習」と呼ぶのは、ゲシュタルト療法の創立者パールズが「グロリアと三人のセラピスト」の中で「大きな声で言ってごらん」と言っている部分なのである。

最初は「グロリアと3人のセラピスト」のビデオを見てもなぜパールズが、クライエントに「大きな声で言ってごらん」と指導しているのか、意味が解からない人が多いと思う。パールズが「大きな声で言ってごらん」と言った理由は「今カウンセリング・ルームの中で、大きな声で話せれば、人生の重大場面でも大きな声で話せる可能性が高い」と言う指導をしたのである。その意味をクライエントに説明しないと、クライエントは叱られているように感じる場合がある。

 

「今ここで」の詳細説明

ゲシュタルト療法は、過去の原因よりも、カウンセリング・ルームの中で起きている言語的または非言語的な事柄を重視する。ゲシュタルト療法における「今ここで」とは、今このカウンセリングルームで起きていることが、人生の重大場面で起きている可能性が高いという意味である。

① 今ここで起きていることが、将来の重大時期にも起きる可能性が高い。

② 今ここでの人間関係が、日常の職場などでも起きている可能性が高い。

③ 今ここで内気なクライエントは、人生の重大場面などでも内気な可能性が高い。

④ 今ここで尊大なクライエントは、人生の重大場面などでも尊大な可能性が高い。

⑤ 今ここでうまく説明できないクライエントは、人生の重大場面などでもうまく説明できない可能性が高い。

⑥ 今ここでうまく主張できるようにクライエントが練習すれば、人生の重大場面や、日常の職場などでも、うまく主張できる可能性が高い。

 「今ここで」は、初心者には難しいけれど、極めて重要であり、カウンセラーにとっては必要な理論である。

 

 

ロジャーズ派の「今ここで」との違い

なお、ゲシュタルト療法と、ロジャーズ派とでは「今ここで」の使い方が異なる。ロジャーズ派は「今ここで」と言う言葉を、カウンセリング・ルームにおいて、例えば「今ここでの気持(感情)を話してください」と言う使い方をする。それは主として「事実の経過報告ではなく、今ここでの気持の動きを話して欲しい」と言う意味や、また「家で考えて来た理路整然とした訴えではではなく、今ここでの未整理の気持を話して欲しい」と言う意味である。

 

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言葉

2024-04-10 | 自灯明

 ある日の面接で「大切な友人と仲違いした。彼女は誤解している。話し合おうとしたが会ってくれない。もう放っておいて良いものか、毎日気が休まらない」と話されました。

僕も会社員時代に結構経験しました。誤解された方は覚えていて、今も時にどうすれば良かったかと考えることがあります。この時の面接でも、自分の体験を思い浮かべつつクライエントの体験していることを追体験していました。

でも、本に書いているようにはなかなかいかないものです。その時、頭に浮かんだのは座禅の法話で聞いた「縁」という言葉です。「出来ることはやったのだから、縁が有れば元通りになるし、その人とはここ迄の縁だったのかもしれませんね」と言ってしまいました。

このタイミングで言ったのは、僕自身が苦しかったから一件落着したかったからだと後で思いました。ただ、この言葉で取り敢えずクライエントは一呼吸つけたようでホッとされていました。

 

 

 ということで、言葉について考えてみましょう。言葉が持つ威力を心に留め置いた上で、ちょっと「物は言いよう」的に軽い感じで考えてみましょう。

 

「続ける勇気を出せたんですね」

辞めるも勇気ですが、続けるも勇気です。嫌なことがあると、すぐに辞めたり、投げ出すことが多かったクライアントに対して有効な言葉です。相手が自分の長所や能力に目が行くように、そんな言葉がけです。

「正直な人ですね」は、「正直」という相手の内にある長所に言葉を掛けているわけです。「素直に伝えるという、正直さを大切にしているんですね」の方が、より自分の長所へと意識が向きやすいでしょう。

「~な人ですね」も、「~を持っている人ですね」とか、「~を大切にしている人ですね」と言った方が、長所へとより目がいく可能性が高いのです。

「ユーモアがある人ですね」「ユーモアを大切にしている方ですね」

「慎重な人ですね」「慎重さをお持ちですね」

「自由な人ですね」「自由な心をお持ちですね」

 

 

「うまくいっていることを褒める」

今まで出来なかったことが出来るようになった時や、本人がそれに気づいていないことなどを褒めます。それと、もう一つ、望ましい行動が出来た時に、そのポイントを褒めます。

例えばコミュニケーションで相手の意図を汲むことが出来ないなどあった場合でも、「今のお話が出来たのは、私の意図を汲み取ることが出来たからですよね」「今の発言は私の意図をよく反映していますね」と、その場でそういう理解する発言が出たときに褒めます。

 

「権威的な立場から相手の状態を大丈夫ですよ」

〈カウンセリングが初めてな方が実はほとんどですし、緊張して当然ですから大丈夫ですよ〉

〈そうやって過度に責めてしまうのは、○○さんが悪いわけじゃなくうつ症状としていつもよりも過度に自責感が湧いてきているんですよ〉

〈誰でもそういった状態のときは悲しむものですし、悲しむことが許されているのです。だから○○さんも悲しくていいんですよ〉

〈本当に苦しいという時は、自分で自分が分からなくなってしまうものです。だから、今はどうしたいかわからなくても大丈夫ですよ〉

 

褒めるとねぎらうの2つの違い

・「勇気をだして人前で声を出して自己紹介ができた。」

といった行動が出来た場合は、「よく話せたね!すごいじゃない!」と、その行動に対して褒められます。

褒めるという行為は、”条件付き”の場合が多いのです。褒める事により自己効力感が向上し、何事も挑戦してみようという気持ちが増えてきます。

・「勇気をだして人前で声を出して自己紹介ができた」という場合ですと、ねぎらう場合は、「とっても勇気がいったよね。その声は震えていたかもしれないけれど、しっかりと私に届いたよ。自分の声を届けられるようになったんだね」といったように、言葉に出すという行動の背景にある恐怖という気持ちを乗り越えたことに対して労い、その自分を表現できたことを受け止め、その労をいたわる言葉をかけることになります。

 

 

このように、ねぎらいは”相手と同じ目線”で声をかけ、相手の行動や結果、能力の背景やその人そのもの(存在)に対して、声をかけていきます。 そうすることで、相手は褒められた時とはまた違った受け取り方をします。

 

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理論

2024-04-08 | 復習

 今週末の13日はzoomで、次週の20日は対面での「学ぶ会」ですね。学ぶ目的、目標は何ですか?僕の場合は3~4年ごとに変わっていましたが、試験合格の後の目標についてはいつの間にか決まった感じです。

ビジネス書には目標を決めることの大切さを強調しています。例えとして、航海に目的地を決めず出発するとどうなるのかと。一方、なりゆきに任せることの有意味性を養老孟司先生は提唱されています。

 

 

 さて、練習としてミニカウンセリングをやりますが、始まる前は「気持ちを聴こう」と自分に言い聞かせているのに、困りごとを聞いた瞬間に脳は解決モードになることってありませんか。

また、「必死になって聴く」と言うけれども、やっぱりというか、なかなか必死になって聴けていないものです。「聴くこと」というのはどうしてそんなに難しいのかというと、本気で聴いたら悩みがこっちへ移るからだそうです。

「先生、私何やってもだめです。運も悪いし、頭も悪いし、何にもできません。もう死のうかと思います」と言われたら、「まあそう言わずに、いいこともあるでしょ」とか、「世の中には、おもしろいことはいろいろある」とか言ってしまいます。どうしてそんなことを言うのか。

それは、そう言ったら話に決着がつくからです。決着がついてこっちが悩まなくてもいいからです。それは、親切な人が悲しい人を慰めているように見えるけど、よく考えると、本当は自分も悩むのが辛いから逃げ出したのと同じことですね。

 

 

 例えば、友達づき合いを考えてみましょうか。僕らは、とてもうまく慰め合っています。慰めることは、その話を一巻の終わりにしてしまうからです。友達にしてみれば「あいつ、うまいこと慰めてくれたな」という気がするし、こっちも「あいつ悲しんでたけど、うまいこと言ってやれた」と、自分も親切な気がする。そうして話を終わりにしてしまうわけです。

ところが、向こうが「死のうかと思う」と言って、「そうですか、本当に死ぬような気持ちですね」と聴いていたら、こっちもだんだん辛くなってきます。そこまで僕らが降りて行って聴くということはなかなかできません。なので、いい加減なところで、「そやけどまぁ頑張ろう」とかなんとか言って、パッと切り離しに持っていくのですね。

つまり、向こうについて行けないから、どこかで話を切ってしまうということです。だから「聴くこと」ほど怖いことはないと思います。そして聴かれるほうにとっても、「聴かれること」ほど怖いことはないのです。

ミニカウンセリングのときも、徹底して″聴く、聴く、聴く″ということの難しさにいつも直面しますね。だから、どこかでちょっとうまく話の決着がつくようにもっていくのでしょうね。

なんと人間はすごいのでしょう。二人の人間が寄ったら、問題が深くならないうちにチョンと幕切れにするというようなことを、我々は小さい時からやってきていたのです。何故かと言うと、その辺で幕切れにしないと危なくて仕方がないからです。

 

 

 ところが、そこで幕切れにせずに、向こうの降りる限りとことん降りて行くのがカウンセリングです。降りて降りて降りても、人間というのは立ち上がってくる、そこを拠り所としているのですね。

カウンセリングを経験すればするほど、だんだんと聴く態度ができてきます。zoomでやっている逐語検討は少ない体験をカバーしてくれます。ともかくそれほど聴くということは恐ろしいことであるし、また意味のあることなんですね。

ですから、どうしても常識と少しずれてきます。常識でしたら、ある程度のところで幕を下ろして慰めるとかするが、それをもうちょっと、まだ聴いているというあたりが違うところです。そうして、聴いているうちに向こうが立ち上がってくる。そうして向こうの立ち上がってくるのにこちらも従う。

 

 

 ということを本に書いていますが、「面接の場で具体的にどうすればいいのか分かりません」と言いたいかもしれません。答えとしては「やっぱりやってみる」ということでしょうか。頭と体が一致するように。

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