(プロローグ)
寒さでブルっと震えた拍子に目が覚めてしまった。気のすすまぬままベッドから抜け出し、入念に顔を洗い、髭を剃り、髪を梳かし、テーブルに昨夜用意しておいたクロワッサンを二つ、ぬるめに温めたカフェ・オレとともに腹に入れた。これが最後に口に含む朝食だと思うと、カフェで口にするたいしてうまくもない、いつもの食事が幾分愛おしく感じられるのが不思議だった。もう一度洗面台に向かい歯を磨き上げ、1週間前に出来上がってきた仕立てのよいスーツの内ポケットの奥底には、ベレッタ銃を注意深くしまい込んだ。9mm弾だが自分の頭を吹き飛ばすには十分だろう。何年も前になるが、明子に臓器移植するために、自分の命を棄てようとして、ツテを使ってフランスから密輸入した同じ銃を手にしたかったのである。その時日本に持ち込んだベレッタは、明子に脳死状態で膵臓を移植出来ないことが分かった後、病院の前を流れる川に投げ捨てた。
フランスで永年軍需産業との付き合いがあった淳一にとってベレッタをフランス国内で手に入れることは大した苦労を要しなかった。ベレッタ92に拘ったのは、明子のために自分の頭をぶっ飛ばそうとして手に握りしめたときと同じ感触を味わいたかったからである。弾倉に弾丸を15発詰め込んで連射出来る優れものだが、淳一が必要とするのは1発だけだった。しかし、弾倉にはきっちりと15発の弾丸を詰め込んだ。あの時と同じ重さを感じたいという想いがそうさせた。
今日も一日パリの街をコートの襟を立てながら歩きまわり、疲れたら目に入ったカフェで軽い食事をとり、エスプレッソに砂糖をしこたま入れて呑み干す。淳一のルーティーンだ。夕方になり、辺りの日が陰り始めた頃、遊覧船に乗り込んだ。セーヌ川の豊かな水量を感じながら、ミラボー橋に近づくのを心待ちにしているのだ。淳一は自己の存在自体がほどけるように軽くなり、セーヌ川の川風と同化していくのを一瞬でも感じ取りたいのである。そのとき、オレはすべてから解放されるのだ。オレの行為を誰がどのように評してもそんなことはどうでもいいことだ。これがオレの行き着いた結論なのだから。
淳一はスーツの内ポケットからベレッタを取り出し、強くこめかみに当てた。冷たい銃口の感触がむしろ心地よかった。
その一瞬の後、ミラボー橋の下で一発の銃声がとどろいた。