ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

喪失  小田 晃

2021-09-15 13:18:49 | 文学・哲学
                  
(プロローグ)
 寒さでブルっと震えた拍子に目が覚めてしまった。気のすすまぬままベッドから抜け出し、入念に顔を洗い、髭を剃り、髪を梳かし、テーブルに昨夜用意しておいたクロワッサンを二つ、ぬるめに温めたカフェ・オレとともに腹に入れた。これが最後に口に含む朝食だと思うと、カフェで口にするたいしてうまくもない、いつもの食事が幾分愛おしく感じられるのが不思議だった。もう一度洗面台に向かい歯を磨き上げ、1週間前に出来上がってきた仕立てのよいスーツの内ポケットの奥底には、ベレッタ銃を注意深くしまい込んだ。9mm弾だが自分の頭を吹き飛ばすには十分だろう。何年も前になるが、明子に臓器移植するために、自分の命を棄てようとして、ツテを使ってフランスから密輸入した同じ銃を手にしたかったのである。その時日本に持ち込んだベレッタは、明子に脳死状態で膵臓を移植出来ないことが分かった後、病院の前を流れる川に投げ捨てた。
 フランスで永年軍需産業との付き合いがあった淳一にとってベレッタをフランス国内で手に入れることは大した苦労を要しなかった。ベレッタ92に拘ったのは、明子のために自分の頭をぶっ飛ばそうとして手に握りしめたときと同じ感触を味わいたかったからである。弾倉に弾丸を15発詰め込んで連射出来る優れものだが、淳一が必要とするのは1発だけだった。しかし、弾倉にはきっちりと15発の弾丸を詰め込んだ。あの時と同じ重さを感じたいという想いがそうさせた。
 今日も一日パリの街をコートの襟を立てながら歩きまわり、疲れたら目に入ったカフェで軽い食事をとり、エスプレッソに砂糖をしこたま入れて呑み干す。淳一のルーティーンだ。夕方になり、辺りの日が陰り始めた頃、遊覧船に乗り込んだ。セーヌ川の豊かな水量を感じながら、ミラボー橋に近づくのを心待ちにしているのだ。淳一は自己の存在自体がほどけるように軽くなり、セーヌ川の川風と同化していくのを一瞬でも感じ取りたいのである。そのとき、オレはすべてから解放されるのだ。オレの行為を誰がどのように評してもそんなことはどうでもいいことだ。これがオレの行き着いた結論なのだから。
 淳一はスーツの内ポケットからベレッタを取り出し、強くこめかみに当てた。冷たい銃口の感触がむしろ心地よかった。
その一瞬の後、ミラボー橋の下で一発の銃声がとどろいた。

棄てる(9)                          小田 晃

2021-09-14 20:41:23 | 文学・哲学
(28)
 まず必要なものは、エアコンだ。家電量販店で一番安いのを買おう。それからペットボトルの水を箱買いしておこう。最小限の食べ物として、ノンカロリーのコンニャクゼリーをかなりな量確保しておく必要がある。味つけの人工甘味料が心を少しは宥めてくれる。身体を出来るだけ永くかけて徐々に弱らせながら死に至らしめることで明晰な思考力を保ち、書き続けることを目指す。これがオレなりの餓死のあり方を考えた結果である。また、死後の状態の醜悪さを少しでも回避するために、エアコンを最低温度に設定してかけ続ける。電気代はオレの残りの預金通帳に残った金で支払えるだろう。さて、後は強烈な下剤で腸内の消化物を排泄し尽くし、体力があるうちは自分でトイレで用を足すが、いよいよ足も萎えてしまったら、後は介護用のおむつに頼ることにする。これも自分で取り換える気力があるうちは役には立つだろう。自分が考えていることを生きた証として書き遺し、身体のどこかの動脈を切ったり、飛び降りたりして、一瞬にしてこの世界から去るのも死に方としてはいいのだが、それでは肝心の死の淵にいる自分の思考がどうなるのか、そのことを気力を振り絞って書いたとき、どのような風景を見ることになるのか、というオレの最も大事な目的は達せられないのだ。オレの死に方はやはりこれしかない!
 地中に埋められて即身仏になろうとする僧侶は、何も食さず水も飲まず、意識が薄れる直前まで念仏をとなえるだけだから、たいした計画も要らないだろう。しかし、オレは時間をかけて餓死する必要がある。出来る限り最小限度に少なく食べること、給水を抑えながら、死の淵を彷徨いつつ、オレの自死の証としての思索を永く書き続けることが必須事項だ。いま強く想うことは、所詮才能などとは無縁の最期の抗いとしてのオレの思索にも、何ほどかの清廉さが加わることを期待したい、と心からそう願うばかりである。
(29)
 死への旅路に向かう準備をすべて整わせるまでにいくつか計算違いの出来事があった。下剤を大量に呑んで全てを出し切ろうとするが、どこまでが全てなのかが分からないのである。いくら排便しても便の色はあくまで便の色をしていて、オレが漠然と考えていた透明に近い色にはならないのだ。それに加えて、予期せぬ腹痛が何度も襲ってきた。耐えがたいほどの痛みだが、これを耐えずして死には向かえないと覚悟して何とか耐えている。いまだに腹痛は残ったままだ。苦しい!服装は一つしかない上下のスエット。こたつ机に原稿用紙を数百枚用意した。部屋の温度は18度に設定したので、インクが固まってボールペンが書けなくなることもないだろうが、念のためにボールペンを10本ほどと、両側を削った鉛筆を1ダース、シャープペンシルも何本かは用意しておいた。オレはエアコンの真正面に陣取った。座椅子と体重が削げ落ちて座ることが苦痛になると、そのことに気をとられかねないので、分厚い座布団の上に座った。さて、これで準備万端である。死に至るまで何日もつか、ということと、限られた時間内にどれだけのことが書けるのか、ということがともすると矛盾点として頭の中を飛び交ったので、死の淵を彷徨しながら絞り出すオレの最期の思考を書き留めるのだ、というテーゼを何度も再認識しなければならなかった。オレにとって、最も情けなかったのは、いま、ここに至っても自分に課した本来の目的を何度となく言い聞かせなければならなかったことである。
(30)
 どれほどの時間が経過したのか、もはやわからない。書くペースが徐々に鈍り始めてきてから、数日間はまったりとしたペースで書き綴ってきたのだろう。時折頭の中が空白になり、自分がいったいいま何をしているのか?ということを思い起こすのに時間がかかるようになってきた。こんな状態でも息絶えるまであと1週間はもつだろうと予測してみるが、そのことに何の根拠もない。漠然とそう思うだけだ。
 想い起せば、幼い頃の自分のことは、両親の言うことを事実と認識するしか自分を知る方法がない。自意識が芽生えるのは幼児期を過ぎたずっと後のことだからだ。両親が語るオレの幼児期像によれば、オレは疳の虫が強く、何かと手がかかったらしい。夜も寝つきが悪く、夜泣きの日々だったそうだ。オレは幼児の頃からずいぶんと神経過敏で扱いにくい子どもだったらしい。自意識が芽生えた4,5歳くらいの頃から、オレは人が嫌いだとはっきりと認識していた、と想う。両親は人見知りがきつかったと言うだけだが、それはオレが他者を受け入れがたいほど人間嫌いだったからに他ならない。同時にオレは、オレ自身のことが最も嫌いだった、とも思うのである。両親が交通事故で亡くなって、自分の中の父親像や母親像が明確にならないのは、たぶん、オレは両親のことさえ嫌いだった、と断ぜざるを得ない。オレはそもそも最も原初的な人間関係である家族をすら嫌悪していたわけである。いまこうしてオレなりの「死者の書」を書いている自分が誰からも認められず、誰をも認めようとせず、これ以上の自分の生の存続そのものに意味を見出せず、命を中断させようと試みているのは当然の帰結なのだろうと認める。両親が生きていたところで、つまらない大学に進学し、ありふれた職業について全く違う家族をもうけたにしても、やはり家族は崩壊し、同じような今日を迎えていることと推察出来る。その意味で、いま死の淵に立ってこれを書いていることにどのような意味においても何の後悔もないのは当然のことかも知れない。
 両親のことについても幼い記憶を辿りながら思い起こせることがある。オレには父と母が和やかな家庭という空気の中で生きていたとは思えない。子どもながらに、二人はあまり仲がよくないに違いない、と密かに怖れていたことが記憶の断片として残っている。特に父親には子どもとして可愛がってもらった記憶がまるでないのが不思議なくらいである。オレたちの時代にはよくあった光景だが、父子がキャッチボールをするという経験も一切ない。あるいは家族旅行にも行った記憶がない。両親の交通事故死は、父の運転する車が真夜中のだだっ広い堀川通りの電柱に激突し、車は大破して、二人は即死状態で搬送先の病院で息をひきとった、と近所の人から聞いた。
 父は平凡なサラリーマンだったが、上司との折り合いが常に悪く、家では常にむっつりと押し黙っている存在だった。彼の気持ちは容易に想像出来る。自分が職場の無能な上司たちの言動や命令に耐えているのは、ひとえに家庭があるために耐えざるを得ないという、強い怒りの中に身を置いていたのだと思う。不機嫌な空気が支配する空気の中で、両親の関係性も劣悪だった。そんな環境下で育つ子どもが頼るべきところは家庭の中にないのは当然だが、大げさに云えば、世界の中のどこにも存在しないのも同然だった、と想う。母親も母性の薄い女だった。愛せない夫の子どもは、たとえ自分が産んだにせよ、彼女の場合は愛せなかったのではなかろうか。少なくとも彼女はそういうタイプの女だったと皮膚感覚で覚えている。
 離婚する、しない、という喧嘩腰の言葉が飛び交うことはしばしばあった。その時のオレの偽らざる気持ちは、離婚しないでくれ、という想いなどすでになく、二人が離婚したらオレはどちらの側にひきとられるのだろうか?という憂鬱な疑問の只中にいたのである。正直に告白すれば、オレはどちら側であれ、片方とだけで暮らすのは御免だという気持ちでいっぱいだった。父、母に別れてほしくなかったのは、二人の冷たい気持ちが夫婦のままで分散されている方がまだましだ、という意味合いだけだった。
 両親の交通事故死は、明らかな証拠はないが、オレには漠然とはしているが何ほどかの確信があった。両親の死を聞かされた瞬時に感じたことは、二人の死は無理心中ではないかということだった。いまの状況に立ち至るまでは言葉にさえしたこともなかったが、ここに確たる証拠はないにしても、オレの洞察として書き遺しておくことにする。
 死の直前、父は自暴自棄だった。自分の将来に一条の光さえ見えない状態だったと、父の言動からオレは中学生ながらも心の深いところで諒解していたのである。両親が何故真夜中に車で出かけたのか、その理由はまったく分からない。が、真夜中に車で出かけると言い張る父が何をしでかすか?何となく母には分かっていたのだろうか、愛の消え失せた夫婦の間にも、二人にしか分かり得ない心的領域があったものと思われる。母は愛や心配のためというよりも、父が他人を巻き込むようなことをしないかと心配していたのかも知れない。二人の車の中の会話を想像しようとしても、短すぎる対話しか思い浮かばない。それはオレの想像の中では多分こうだ。
―オレが独りでドライブに行くと言っているのに、何でお前が助手席に乗り込んでくる?
―理由なんてない。でもあなた一人で行かせる気にならなかっただけよ。あなたを押しとどめようなんて思ってもいないわ。
―・・・・・・・・・・(父に言葉はない)
―私、つくづく思ったの。もうあなたとやっていくのは限界だって。だから、思い切り二人で話し合うには車の中がいい。それに真夜中でもあるし、ドライブしているなら大声を出しても誰にも聞かれないから。
―オレは独りきりで逝くつもりだった。しかし、おまえの言葉を聞いて心が定まった。残念だよ。死ぬ前にお前からそんな言葉を聞かされるとは思わなかったからな。お前にもオレの死につき合ってもらう。
 その言葉を聞いたときの母の表情は想像に難くない。怖れで顔は痙攣し、硬直さえしていただろう。思い切り踏み込んだアクセルで車の速度は最高速になり、父はそのまま電柱の方目掛けて急ハンドルを切った。大破し、ガソリンが燃料タンクから漏れて車は炎につつまれた。
警察から事故(オレには無理心中だ、と分かっていたが、そのことを示す証拠など何もない。それにこのいきさつもオレの洞察が生み出した物語に過ぎないのかも知れないのだ)の知らせを受け、死体安置書に連れていかれたが、係の警察官はオレが部屋に入るのを止めた。担当警察官のいたわりだったのか?焼け焦げた両親の死骸を中学生のオレが見なくても、オレのDNA採取と家に残っている遺留品の数々から両親の身元は簡単に証明出来たからでもあるだろう。両親ともに親兄弟のいない人間だった。両親の無理心中の日からオレは文字通り天涯孤独の身になった。その後から今日に至るまでの道程はすでに書いたとおりだ。生きてきた足取りだけを追ってみると、いかにも何もない人生だったと心底想う。
(31)
 1週間も経過すると、いよいよ身体に異変が生じてきた。空腹感はとっくに感じなくなっている。ここに来て、驚いたことに目に異変が起こってきたのである。まず、視界がぼやけることからはじまり、焦点が定まらなくなり、視野が極端に狭くなってしまった。まあ、オレにとっては、あともう少し原稿用紙に書き遺すことが出来ればそれでいいので、死を前にすれば身体の状態はこんなものか、とすぐに現状を受け入れた。さて、これからだ。すでにこんな歳になってしまった自分が、自らの個人的体験と意識の中から一般化出来ることを拾い出し、書き遺そうと想う。かなり急ぎ足で書かなければ、自分に残された時間が尽きると実感出来るだけの崖淵まで来てしまった感があるからである。まだ、自分でトイレまで這って用はたせる。四つん這いで動くだけで頭がボーとなるが、トイレからもどると、コンニャクゼリーを一つとペットボトルの水を口に入れる。まだ、くたばれない!
(32)
 オレのテーマは、「人間が認識する世界とはなんぞや?」ということをオレの主観を通して一般化してやろうという試みだ。一般化という概念が客観性を持たねばならないものなのに、オレの目論見はむしろ真逆の側―主観―から世界を一般化してやるのだ。普遍化とはさすがに言いづらいが、ボキャブラリー上は同じカテゴリーに属するものだろう。取りあえずは、オレが考えやすい方が「一般化」だったというだけのことだ。
 改めて「人は世界に投げ出された存在である」と定義づけたい、と想う。その意味で人はこの世界に生まれ出た瞬間から孤独であり、孤立無援である。祖父母がいて、父、母がおり、兄、弟、姉、妹、それにかなりな数にのぼる親族がいる中に、現象的には守られて生まれて来ると思い込まされている。が、それはたいしたまやかしである。そういう幻想に包まれることで、この世界に孤独に投げ出された自分の存在そのものに耐えられない。耐えられないから人は幻想の中で生きようとする。大抵人は、自=他という他者との信頼関係や絆を拠り所として世界に立ち向かう。いや立ち向かえると信じたい、と云う方が正確だろう。お前の家族が特殊だったからだろう、とすぐに反論しようとする人々はいるだろうが、オレの家族の特殊性こそが、オレと世界の関わりのあり方の全容を考えるきっかけを与えてくれたのだ。
自分は家族や親戚や子どもや友人、知人、仕事仲間などによって、自分の立ち位置がきちんと定められているのだ、と素朴に信じているのなら、それでもよい。いずれ自分が如何に一個の人間として、世界に投げ出されているかが分かる時が来るだけのことなのだ。それは個人の時間差だけの問題である。何故ならオレがいま書いていることには敢えて云うが一般性・普遍性があるとオレは自分の生から学んだからである。そして、学びの中から気づいたのだ。人生の深遠さは、必ず孤独を伴ってやって来るものだということを。それに気づける時期が人によってさまざまだ、ということも。
 人間とはこの世に生を受けた瞬間から世界に投げ出された存在であるとオレは言った。しかし、たとえ投げ出されて生まれて来ても、自分を取り巻く世界には必ず自分を受け入れてくれる「場」がある、と信じ込める人々は幸いでもあり、同時に物事の真相に気づこうとしない、という点で不幸である。
なぜわざわざこんなことを言うかと云えば、人間は例外なく自分が安全なところにいるという幻想は、必ず剥がされるときが来るからである。この種の幻想に気づくこともなく、生涯を閉じる人はオレの感性からすると不幸な人々である。理由は簡単である。真実に生涯一度として向き合うことなく、人間社会という虚偽的共同体に騙されて生きて、死んで行った人々だからだ。それでいいじゃないか、と居直る人々は多いが、こういう人々は生の一断面からしか自己の人生を見なかった人だと思う。そうであれば、オレから言わせれば、この人々は幸福も不幸も本当のところは知らずにこの世界から去っていくことになる。こんな残念なことはないのではないか?いま、死を前にして、こうしてお節介過ぎることを呟き、書き記している自分がそれほど嫌ではない。自己のことをこれほど肯定的に感じたことは殆どない。
 自分のことをある意味肯定的に捉えるときが、餓死という自殺の過程で訪れるとは人生はなんと皮肉なものか、と思わざるを得ない。
特に思春期を迎えた頃から、オレは年齢に見合わぬ本の世界に埋没するようになった。日本の作家で云えば、白樺派の作家たちの優雅な人生観や恋愛観の虜になった。それ例外には太宰治の一連の作品から、生まれの良さを無理に退廃させようとするデカダンスの魔力が醸し出す魅力に夢中になった。想えば、オレに内包されたかのような日常への退屈感は、太宰治の作品から受けたデカダンスの影響が強いのではないか、と今更ながら想う。実際のところ、オレはデカダンスに目覚めてから、毎日が退屈で仕方がない、と感じるようになった。この頃、すでに平凡な毎日をいかにすればメランコリックなものになるのか、ということばかりを考えていた。おかしな少年だったと想うし、これを書き終わろうとしているいまもそうなのだから、オレの頽落への憧れは並みではなかった、と言えるのではなかろうか。
フランス語なんて出来なかったから、フランスものは翻訳に頼らざるを得なかったが、堀口大学訳のボードレールの詩集はすばらしかった。「パリの憂愁」は、まさにオレ自身の心象風景にすり替わったと言っても過言ではない。とはいえ、ボードレールに惹かれる度合いが深くなればなるほど、オレ自身の頽落への憧憬や日常生活の退屈さは、深まるばかりだったのである。
 高校生になると同時に、アルベール・カミュを発見した。カミュの諸作品から、「反抗の論理」の本質を垣間見る想いがしたのである。まるで低次元の抗いだったにせよ、オレは世の中の不条理やオレ自身の日常との折り合いのつかなさに対する対抗措置として、カミュに頼った記憶が強く残っている。神に反抗しながら、終わりなき苦役を強いられるシジフォスの強靭な精神性を自分の中に取り込もうとしたが、その副作用のようにオレはますます気難しい人間になってしまったように想う。だいたいは、自分の能力に見合わないものを模倣しても必ず失敗するし、その反動は予測し難い状態で自分を苦しめる結果になるということだけはここに書きおきたい。
(リアルにオレ自身の最期を迎えるにあたって)
 そろそろ2週間が過ぎようとしている。死期が近づくにつれ、水分だけは補ってきたが、買い置いた水はまだずいぶんと残っている。空腹をごまかすためのコンニャクゼリーはすでに尽きたが、幸いと云うか、空腹はまったく感じない。体内の細胞という細胞から、生命を維持するための栄養素が染み出していくようだ。そのためか、身体は痩せ細っている。体内の力は殆ど残ってはいないが、不思議なことにトイレには何とか行ける。四つん這いになってではあるけれども、下の世話は出来ているのはオレにとっては幸いである。死後の身体の腐敗を抑えるためにエアコンを18度に設定しているために身体は急速に冷えて来ている。しかし、寒さを感じることはない。もはや生命を維持するための身体の機能そのものが消失しているに違いない。死後の自分の始末や部屋の整理については出来る限りやり尽くしたつもりであるが、そもそもオレの人生のすべての出来事が中途半端であったから、綺麗な終り方にはならないに違いないが、それは許していただこう、と想う。
 
 意識が朦朧としてきたようだ。ペンを持つ力ももはや殆ど残っていない。最後に書いておく。重複することかも知れないが、それでも書いておきたいことだと感じるからである。
 オレがすでに書いたこととは矛盾しているように見えるかも知れないが、人間は生まれた瞬間から世界に投げ出された存在でありながらも、同時にオレの裡なる人間存在における本質的な在り方と相矛盾するように、人は他者との絆を求め、現実に人間の絆はあると錯誤するのだが、そのことがそもそも人間の不幸の根源だ、というオレなりの生の解釈に誤りはない、と確信する。
もっと書きたいことがあるとオレは想っていた。が、こうして、死の準備をしながら、自分の脳髄を絞り出すように書いてみると、オレの考えていることなど本当にタカがしれていると思い知った。たぶん、これが、オレが書き遺す最後の記述になるのだろう。

 目は開けているが、目の前は真っ暗だ。電気はついているのに何も見えない。寒さは感じないが、自分の手足に血が通っているとは思えないほど身体は冷たい。意識が薄れてきたのが分かる。人は死に際にしばしば過去の出来事の断片が走馬灯のように駆け巡ると言う。たぶん、オレも例外ではないと思っていたが、どうやらオレはやはり例外だと感じざるを得ないのである。オレに見えるのは、見えるというのは矛盾かも知れないが、「闇」そのものだ。真っ暗闇という甘い概念ではない漆黒の「闇」である。これがオレに相応しい最期の原風景だろう。オレは漆黒の「闇」から生まれ、漆黒の闇の中に帰る・・・・・       
                                 完

棄てる(8)                        小田 晃

2021-09-13 17:46:48 | 文学・哲学
(24)
 AIやIOTによって、従来の退屈極まりないルーティーンワークを、人間の代わりになって、人間以上に効率的にやってくれることになるのは必然だし、そのことによって、ロボットに人間がとって替わられるなんて怖れているようではダメだ。そんな思考回路ではイギリスで起こった産業革命時のラッダイト運動と本質はまるで変わらない。幸いと云おうか、政府統計によれば人口減少はますます進むらしい。令和という元号になってから、日本の出生率が過去最低なのだそうだ。まあ、世の中の仕組みが激変してきているのである。政府統計なんかそのまま信じるほど素朴ではないが、人口減少がAIやIOTと帆走するようにして、これからの日本は発展していく方法を見出すのが、知恵の意義ではないか!オレは、これまでのような単純労働も含めて、知的労働だと認識している分野にデジタル技術がとって替わり、浮いた時間を人間が何をしたら、楽しい世界になるのか、という視点で物事を決めていけばいいだけのことではないのか、と心底思う。女性の社会進出がとりださされているけれど、男性の給料が下がって、女性も非正規労働者として働かなければ結婚生活も成り立たないというのだから、そもそも子どもなんて増えやしない。不妊治療の保険適用もやるに越したことはないけれど、それよりも男性の給料も上げて、女性が働きたいのであれば、正規雇用で能力に応じた給料を出せばいい。政治家の考えることはどこか非現実的で実効性がないね。
 もう引退した人間に無責任なことは言われたくはない、と現役世代は主張するに違いないが、オレが懲りることなく言いたいのは、もはやオレたち旧世代の価値観に惑わされるなということだ。これからの現役世代は、思考のベクトルを変えるべきだし、これまでの世界のパラダイムそのものを変えるべきなのである。そういう意味ではオレたち旧世代の人間は、永くオレたちよりも旧世代が創り上げた価値観やパラダイムを引きずって生きて来た怠け者ぞろいだ。だからこそ、これからの世界を背負って立つ君たちに必要以上の変化に対する恐怖感を抱かせているのだ。いまの政治家たちを信じちゃいけないし、特に各分野の論客と言われている人々の言うことも俄然無視すべきだ。彼らの主張はどこまでもオレたち旧世代のパラダイムをどう守り、都合よくどう変えるか、という視点しか持っていないからだ。濁った水の中から清水が湧き出て来るはずがないことを肝に銘じるべきなのだよ、現役世代諸君!
(25)
 またもや偉そうなことを言ったが、オレの今日に至るまでの生き方は人さまにとやかく言える立場ではないし、誇るべき何ものも残し得なかった。第一、オレは明確な犯罪者だ。かつての中山雅樹と元妻の理恵、中山の子どもの和樹を自分の息子として育てようとしていた矢先にすべてを中山に奪われた。
中山の岡崎の瀟洒なマンションに忍び入り、中山の小指を新品の包丁を刃こぼれさせて、切れない包丁で中山の小指をギリギリと切り落とし、再生手術されないように切り落とした小指を入念に包丁の柄でこれでもかというほどに叩き潰して、美しすぎるキッチンのごみ箱の中に棄ててやったのである。いくつも罪名がつく行為をして警察に捕まってやるつもりだったが、彼らは自分たちの体面を保つために警察を呼ぶことはなかった。オレが警察の調書で喋ることを怖れたのだろう。ほんとにつまらない奴らだが、そういう奴らを相手にしたオレ自身が一番つまらない人間だ。いまとなってはそれが身に沁みてよく分かる。
さて、もう十分に生きた。オレの人生は両親の交通事故死と共にとっくに終わっていたのかも知れない。オレに出来ることをいろいろと考え尽くした。幸い、本だけはたくさん読んだ。思想というものが、既成の思想をさまざまに組み合わせ、壊し、再構築することで生成されるとすれば、オレなりの思想はそれなりに出来上がって来ているのだ。そしてそれは、実践されてこそ意味があるものだったことがやっと分かったのだ。オレがこの駄文を死の寸前まで書き続けることで、オレのような凡庸な人間にも非凡めいたことが書き留められるのかも知れない。それがいまのオレの唯一の関心事だ。さらに言うならば、オレにとっての死の寸前とは、自然死の直前まで、というわけではない。オレは老化の果てに死を待つことを望んではいないのだ。人の死は唐突に訪れるにしても、それは両親の死が交通事故死という、死の唐突さとするなら、残されたオレは、自らの意思で生を中断する側にいなければならないという考えが、ある種の強迫観念のように心の底に滓のように溜まっている。では、オレにとっての自死とはどのようなものであるべきなのか?
(26)
 人は生きるために食べるのか、食べるために生きるのか、という修辞的な言辞は、人間にだけ許された抽象的概念が導き出す自死のあり方だろう。
オレには瞬時に死を迎えることに意味を見出せなかった。どれほど死の意味を考えても、来世があるとは到底思えなかった。ならば、唐突に命がなくなるような方法をとってしまったら、それは単なる生の断絶に過ぎなくなってしまうではないか。そんなことは到底受け入れられない。
少なくともオレには人にとって、人に限らず生物すべてにとって、食することほど本能に忠実なことはない、と思えるのだ。ならば、オレは生きとし、生きけるものにとっての食を絶つことで、徐々に生命が滅していく過程で人は、いやオレは何を見、何を感じるのか?それを命果てる寸前まで書き続けたいのである。これが自然死ではない死を選ぼうと考えてはじめて以来、オレが辿り着いた結論なのだ。いまそのために具体的に何を準備すべきかを列挙するように具体的に考えなければならない。それが現在のオレの大事な仕事になった。
(27)
 即身仏になることを志した僧侶は何人もいたのはよく聞き及んでいる。彼らは仏教教義の行き着く果てまで行き着いて、自らが地中に身を封じ込み、地上に通じる小さな空気穴から呼吸をし、永い断食の果てに体内の不浄なものを出来る限り排出した上で、息絶えるまで念仏をとなえながら、狭い地下に身を据えるのである。彼ら自身が仏そのものになるのだそうだ。オレには単なる苦行の果ての自死と変わらないと感じるが、自らが仏になるという幻想を持てるのだから自分の死に意味を付与させる特別感のある死に方ではないか、と思えるだけだ。
 誰にでも出来ることではないが、オレにはどうも即身仏という仏教的教義の実践(と敢えて呼ぼう)には、己の死と引き換えにして名誉が与えられるという意味で、どうも心に引っかかりがある。尋常でない修行の結果、人間を超えた何ものかになり得るという約束事の上に成立している、大仰な即身仏になるまでの過程に、オレは大いなる宗教的欺瞞を感じてならないのだ。自分の死後、凡庸な人間たちからの崇めがついてまわる。それ自体が精神世界の行き着く果ての、欲動の姿の一つではないのだろうか?オレにはそう思えて仕方がなく、当然のことながら即身仏制度に異議申し立てをしたいのである。
宗教の如何に関わらず、オレには信じるに足るものがない以上、オレの死は犬死に同然の、餓死が最も似つかわしい。それを覚悟した上で、息絶えるまで、オレがこの世に生まれてから絶命するに至る過程で、感じ、書き遺したい、と想うことを存分に書き綴ろうと心に誓った。それがオレのような世界から取り残された人間に相応しい死にざまなのであって、死んだオレを発見した人には迷惑な話だが、その人には、オレの死は、書き散らしたノートと、息絶えるまで座椅子に座ったままの、独居老人のおかしな孤独死として認識されることだろう。それでよいし、また、それがオレに相応しいと想う。そして、さらに言っておくなら、オレの書き遺したものが単なる孤独な老人の戯言であって、部屋の後始末業者が、オレの命をかけて書き遺したノートをパラっとめくり、そのまま死者の所有物として廃棄されてしまうことも覚悟しておかねばならない。ある意味、それが妥当な結末なのだろうか、とも想っている。表現出来る言葉を持ちながら、絶望の果てに単なる自死を実行するよりは少しはマシか、と思い切るしかないだろう。
 さて、明日からオレの孤独死に必要なものを整えるために時間を費やそう。誰の助けもない。オレひとりでやるしかないし、オレひとりがやるべきことだ。金の心配ももうしなくて済む。必要なものだけを買えればよいのだから。

棄てる(7)

2021-09-12 14:29:05 | 文学・哲学
(20)
 AIだとかIOTだとか、それに伴うデジタル時代の到来によって、ロボットが人間の仕事を奪う、という恐怖感と多くの人々は闘っているのだそうだ。ぼんやり眺めているテレビ報道や討論番組の論調は、ほぼ同じように時代が変わり、仕事の質量も変わるというような感じだ。しかし、そういうことをテレビ番組の司会者や多くの論者たちは、事の本質を伝えている側であるからこそ、自分たちは安泰だと云う顔をしているのを観ると、オレはついつい吹き出しそうになる。
 何故って、この時代、誰もが例外にはなれないということだからね。
特に激変をまともに食らうのは、大学を出て、就職活動をして職を得た中間層の人間たちだと云うことは当然のことだとオレは思う。だって、彼らの事務仕事や営業の仕事等々こそがAIの得意な分野ではないか!事務仕事をコンピュータを操って効率的にこなしていると思い込んでいる人々そのものの仕事がAIにとって代わられる。ロボットは単純労働を人間の代わりにこなしてくれるのではなく、自分の仕事が高度だと認識している人間の仕事そのものをロボットがやり抜くわけだろう?人間の創造性がAIを創ったわけだから、特に先端技術の研究者を始めとした知識階級だけはどこまでもこの社会に必要であるはずだ、と思いたがるのは心情的にはよく分かる。
ロボットに人間が支配されるなんて、マンガっぽい未来社会を描いた映画の世界でしょう?という反論が聞こえてきそうだ。映画の世界さながらにロボットが人間の支配者になるかどうかは別にして、大した能力も持たないのに人並み以上の生活をしてきた人間こそが、頭を柔らかにして、自分たちの仕事を創り出さなければならない時代に突入した、と思うのが当然の論理的帰結だとは思うね。
まあ、変化は気づいた時には変化そのものが加速度的に速度を上げて起こる、という真理をオレは信じているが、多くの人間が右往左往している頃にはとっくにオレはこの世にいない。孤独な老人の孤独死の後のことだ。その意味でオレは幸福な?ことに逃げ切り世代だね。こんなことを考えると、常に襲い来る自己憐憫も少しは和らぐ。ともあれ、自分は大した自己中人間だと思う。オレみたいな精神的な根っ子のない人間は、どこか卑屈だということで、偶然にもこんな駄文に遭遇した人たちの怒りの鞘を納めてもらう他ないな。
(21)
 オレの日課は、暑すぎたり、寒すぎたりする自分のアパートから抜け出すことが行動の動機になっている。が、それにしてもむさくるしいアパートを一歩出ると、心も少しは軽やかになることは事実だ。コンビニ弁当を鴨川べりで食す。夏は橋の下のベンチで涼やかさを味わえるが、冬の寒さが川の水が身体の芯まで冷やしてしまう。それでもやはりアパート以外の場所にいたい、と想う。アパートはどこまでも自分の憂鬱を深めるだけで、何の発見もない。その意味で、オレはドストエフスキーが「地下室の手記」を書いた精神性には全くかなわないことに対して自覚的なのだ。そもそもオレのやることなすこと、独自性なんて一切ないし、思いつきと真似事だけの行為なんだから。本当ならば金のかからない屋内は整っているし、実際には粗末と云えど、オレのアパートがオレ自身の「地下室」だが、弱気がオレを大切な場所から引き離してしまいがちだ。平たく言えば、必要以上に老人の散歩で気を紛らわしているということだ。
最近は主に市営の図書館の食堂でささやかな飯を食い、食べ終わったらロビー前のカウンターの司書のおねえさんのところに本を借りに行く。本を借り出さない場合は、勝手に書棚から気に入った本を取り出して、読書机で読めばいい。が、オレはあくまで借り出しを装う。何時間かを図書室で過ごした後、もう読み終わりましたと称して、再びカウンターに向かう。目的はオレたちのような金も人生の目的もない老いぼれの無目的な生き方からすると、若い女に出会えることが人生最大級の幸福だからだ。少なくともオレにとってはそうだ。オレたちの場合、もし、街中で、きれいな若い女に声をかけでもしたら、いきなり警察の取り調べ対象者だ。だからこそ、市民サービスを仕事にしている、事務的な声、心の籠ってもいないカタチだけの対応から得られる異性の空気を思い切り味わうのだ。オレは人と心を通じ合わせることをとっくに諦めた人間として言うが、そもそも人と人とが心を通わせているなんていうのが幻想ではないかと、この歳にして改めて想うのである。
(22)
 ある日のことだ。オレが市民図書館でカウンターの向こうの若い女性司書とたわいもない話をしていると、さりげなく40代後半の色気たっぷりの、おそらくは水商売上がりの女がオレの隣にいる。その女は、探している本の場所を司書に聞いているというさまである。自然に耳に入って来る書名はたいしたものではない。渡辺淳一の「失楽園」がどこの棚にあるのか?ということだった。小説の棚のところに行けば確実に見つかるような、オレにはライトノベルの部類に入る、無理やり書いた感のある恋愛小説?(と言えるだろうか?)だから、その女を目的の本が並んでいる書棚のところまで連れて行ってやったのである。
これがこの女とその裏でこの女を操っている詐欺のプロ集団だったということを後で知って、人の欲望の果てることなきことにむしろ感嘆させられた。「振り込め詐欺」にはじまり、この手の詐欺の手口はどんどん巧妙になっていくのをテレビで観たことがある。勿論、この時、この女が詐欺の仲間とは見抜けなかった。というよりも、見抜きたくなかったのである。すでに自分の生活が最底辺であることに嫌というほど慣れきってしまっていた。そんなオレが詐欺に遭うということなどあり得ない、という自分なりの冷静な判断があったし、何より、もう人を疑ってかかる生き方はとっくに卒業してしまった、と思っていたのである。
女は不自然なほど馴れ馴れしかった。オレの本好きを話題にしてどんどん距離を詰めてきた。軽い話題から、彼女の人生の物語(と敢えて言っておこう。作り話であることは話の辻褄が合い過ぎていることから分かるものだ)を語り出すまでに一週間とかからなかった。10日後には彼女はオレのアパートに出入りするようになっていた。
オレはかつて風俗で金を使い果たした経験があった。性の放出だけならあらかじめ立てた予算で済みもしたが、あの時は、見え透いた風俗嬢の小芝居のような喘ぎ声で、何度も萎えてしまったせいで時間延長を数回強いられるハメになり、なけなしの金が底をついたのだった。その後のことはカードローンの自転車操業地獄のループの中から永らく逃れることが出来なかった。このことが自分の頭の底にへばりついている。
この女の色気が、何某かの目的を持ったものであることは、いかに鈍いオレにも感じとれた。そうでもなければ、オレみたいな男にこんなに不自然な近づき方はしてこない。彼女だったら気の緩みを誘うためなら、確実にオレと寝る。そう思った。同時に、彼女はオレみたいな小遣い銭にもならない厚生年金と生活保護受給の小金を狙っているのか?と想像を巡らせると、何となく気の毒にもなってしまう自分がどこかにいる。風俗のヘタな演技じみた喘ぎ声と同様、この種の雑念は、オレの雄の欲求を萎えさせるのだ。そして遂にオレは彼女と寝ることはなかった。中途半端に勃起したペニスをなだめながら、理性の声が聞こえるのを待っていると、客観的な自分の像が感じられて、彼女とは適度な距離を保ち続けた。1カ月もすると彼女は姿を現さなくなった。図書館にもどこにも彼女の痕跡すらなくなってしまった。
(23)
 図書館で何となく口をきくようになった老人仲間から、彼女の噂を聞くハメになった。彼女は世の中から相手にもされなくなった独居老人の年金狙いのために、躰を開いて安心させ、性的な悦楽から永らく遠ざかっているために、貧相な性の放出の後はすぐに寝入ってしまう老人たちの預金通帳とハンコと保険証を盗んでいた。貧困ビジネスと云えども、数で稼げばかなりの儲けが期待出来るのだろう。裏にはこの手の詐欺グループがいて、通帳の解約係が身分を偽って通帳解約ですばやく現金化するというシステムだったらしい。今どきの金融機関のコンプライアンスの隙間を縫ってやり遂げる詐欺なのだろう。
 貧困ビジネスというか、貧困詐欺は孤独な老人が失った過去の、豊かだった(と自分で思いたいだけのことなのだが)自分の姿を思い起こさせてくれる心情をくすぐられれば、多分大抵の老人は詐欺の罠に落ちると思う。その上、熟した肉体を差し出されれば、成功率はほぼ100%だっただろう。オレが被害を免れたのは、過去の苦い体験があったからに過ぎない。オレたち老人に、しかも地位も金も名誉もない人間に近づいてくれる女たちはいない、と思い知る方がいい。酷な話かも知れないが、オレたち、死にゆく老人が直面すべき現実を受け入れる時期だと、認識を新たにしなければならないのだ。
死を前にして平静に振舞うことをオレたちの世代はもはや強いられているのだ。もし、オレたちと同年代かそれ以上で、金や地位や名誉に恵まれた人間がいて、男女を問わずちやほやされることの意味をわきまえず、勘違いした老年を過ごしている人間たちがいるとしたら、そいつらは畢竟、人生の何たるかを知らずに生を閉じるバカだとオレは思う。奴らなら助かるものなら命乞いさえするだろう。太古の昔からあらゆる栄華を手に入れた一握りの人間たちが行き着く果ては、「不老長寿」だからだ。
所謂成功者と呼ばれる人間の中には、もともと恵まれた環境に生まれた人間もいるだろうし、苦難の中から這い上がった人間もいるだろうが、成功者こそが自らの生と死の意味を独自の視点で捉えて、この世界を去る時に心に残る言葉を発するべきだ、とオレは思うね。そもそも彼らは社会的影響力を得た人間たちだ。これからの若者たちに対して、どのようなカタチであれ、意義あるメッセージとなることを遺す義務があると確信を持って言える。まあ、自分に出来ないことを言うのが人間の本性だ。オレの呟きも「神さま」「仏さま」がいればにっこりと微笑んで許してくださるだろう。

棄てる(6)                        小田 晃

2021-09-11 14:32:31 | 文学・哲学
(17)
 オレは自分の卑近な経験則から、恐らく世界を支配している実体が何であるのかということに気がついたのである。
世界はすでに機械化されていると言っても過言ではない。我々がこの世界に存在したいと願うなら、機械化された世界の構造の中に身を委ね、時折は不満タラタラでよいが、適度なところで自分に「世の中こんなものだ」などと言い聞かせ、不満の炎(ほむら)に自ら水をかけるのである。こういう自動機械論も思想の一片には違いないが、思想にはそもそもある考え方から別の考え方へと変化・変節していくエネルギーが内包されている。しかし、自動機械論にはそういう意味のダイナミズムは微塵もない。また、大多数の人々を支配する自動機械論は常に体制に歯向かうことがない。日常語でいうと、世の中の決まり事に対する無批判な盲従や世間様に対する見栄の保持など、「いま、目の前に現に在る」ことに対する疑義など持てないのである。それが機械論的思想の真に迫った姿ではないか、とオレは思っているわけである。誤解なきように言い添えておくが、オレがここで述べている自動機械論は、フェリックス・ガタリの「闘争機械」とは真逆の、のっぺらとしている、平坦な世界観のことだ。それに比して、ガタリの「闘争機械」という思考は、世界に対するこれでもか!と言わんばかりの、多面的視点からの考察で満ち溢れている。というようにガタリを褒めちぎっているのだが、オレは決してガタリのようなフランスの教養主義的左翼主義者では毛頭ない。そもそも思想などには興味はないし、政治にも何も期待などしていないわけだから。ただ、こんなことを性懲りもなく考えているのは、過去に読んだ読書体験のカケラのごときものがオレの脳髄の片隅にへばりついて、何らかのエネルギーに変換されているからなのだろうか?
(18)
 最近、妙に体調が悪い。いつも身体のどこかが痛むし、油断すると倦怠感が身体中に沁みわたって、布団から起き上がることさえ面倒になる。オレが子どもの頃は、9月に入れば少しは涼しい風が窓から入り込んできたものだが、いまどきは9月になっても真夏のままだ。いったい、日本の四季はどこへ消え失せたのか?日本は亜熱帯に位置する国とたいして変わらない。下着にへばりつくような湿気とエアコンの室外機から漏れ出る生ぬるい空気が、鴨川べりですら感じるのが今日の日本の現況だ。おかしなことになった。政治家たちは地球温暖化のせいだ、と声を揃えて言っているが、果たしてそれだけが原因か?もっと深刻な問題がひたひたと忍び寄って来ているように思われてならないが、オレにその正体を証明する術などないことは自明の理だから、人さまに理路整然と語る資格もないので黙って耐えるしかない。あくまで、オレの内心の声に過ぎないが、いまのエコ志向なんかで地球温暖化に対処出来るとは思えないだけだ。オレに言えることは、事実を知らされなければ、その事実そのものが存在しないのと同じことだ、というくらいか?その意味では、オレが生きてきた長きにわたる年月の間にも、一大衆としてのオレなんかには想像も出来ないことが数えきれないほど起こって来ただろうことには、確信がある。
 倦怠感の只中で観るテレビ番組は、どれもこれも同じように見えるから不思議だ。あるいは、テレビ番組自体がつまらないものになり果ててしまったのか?大衆娯楽の代表格としてのテレビが娯楽でも何でもなくなって、オレのような何をするでもない孤独な人間にとっては、テレビ画面の向こうから誰かに見張られているように感じられてならない。オレたちはバラエティ番組や連続ドラマを観ているようでいて、何にも観ていず、むしろテレビの向こうからただ観られているのではなかろうか?という幻想?に捉われる。体調が悪く倦怠感が強いほど、この傾向は強くなるのはどうしたことか?
 世の中は犯罪防止と云う名目のもと、監視カメラだらけだし、ちょっとした悪さも見逃されることは稀になった。何かの事件が起きて、犯人が忘れた頃に報道されるのは、警察組織が証拠固めに時間を割いているからに過ぎないのだ。ならば、テレビ画面の中に監視カメラごときものがテレビの生産時点から仕掛けられて売られていても不思議ではない。
ジョージ・オーウェルが予言した世界は確実に現代社会に具現化されている。オレは少なくともそう思っているのである。その一方で個人情報保護がどれだけ大切か、という風潮があるが、それらはジョージ・オーウェルが「1984年」の小説世界で描いた監視社会が確実に世界中に浸透していて、個人情報保護などは監視社会の合わせ鏡のようなものだ、とオレには思える。つまり、オレたちには、そもそもプライバシーというものはないのだ。オレみたいな世の中にとってどうっていうことのない存在には監視する価値もないだろうが、余計なことを敢えて言っておくと、秘密がお好きな政治家たちの守るべき秘密そのものが果たしてあり得るのか?秘密主義が横行すればするほど、秘密を暴く社会システムが強固に構築されるのは必然だ。そうであれば、世界政治の現況とはいったいどうなっているのだろう?職業的政治家や官僚や評論家等々、国家の考え方を決定づけているものは、彼らの使う小難しい言葉や、反対に選挙向けの、大衆をバカだと信じて疑わないとしか思えない陳腐な言葉の裏で、政治のありようが大体は決まっているような気がするのはオレだけか?政治体制の如何を問わず、大衆に見えている世界と、大衆の指導者たち(と本意ではないが、一応言っておく)の世界の像はまるで違っているように思えてしまう。しかし、善良な?大衆はオレを被害妄想者の戯言(ざれごと)ばかりを垂れ流していると断じて、平和な日常を生きていればいいのだ。
(19)
 オレはしばしば人間が直面してきた危機、それはカタストロフィーという類の危機のことだが、人類史をざっと眺めてみても数えきれないカタストロフィーを人間は経験してきたのだ、とつくづく想うのである。そして、カタストロフィーの捉え方は、人の立ち位置によってその判断が真逆にすら感得されてしまう。オレが、世界史の中に立ち入って、その一つ一つを見返すことなど出来ないし、何よりオレの中の倦怠感が、それはおまえの役回りではないだろう、と自虐的に囁きかけてくるし、自分でもそんなことで葛藤すること自体、バカか、おまえは!と囁きかけてくるのでやめておく。繰り返しになるが、人間社会のどこをとっても、「知らなければ、どのようなことも存在しないことと同じになる」というのが世の中なのだ。むしろオレみたいな厭世的な人間にはこの種の真理を胸に刻むことが自分の小さな役割なのかも知れない、と思って日々をやり過ごしているというわけだ。
(20)
 AIだとかIOTだとか、それに伴うデジタル時代の到来によって、ロボットが人間の仕事を奪う、という恐怖感と多くの人々は闘っているのだそうだ。ぼんやり眺めているテレビ報道や討論番組の論調は、ほぼ同じように時代が変わり、仕事の質量も変わるというような感じだ。しかし、そういうことをテレビ番組の司会者や多くの論者たちは、事の本質を伝えている側であるからこそ、自分たちは安泰だと云う顔をしているのを観ると、オレはついつい吹き出しそうになる。
 何故って、この時代、誰もが例外にはなれないということだからね。
特に激変をまともに食らうのは、大学を出て、就職活動をして職を得た中間層の人間たちだと云うことは当然のことだとオレは思う。だって、彼らの事務仕事や営業の仕事等々こそがAIの得意な分野ではないか!事務仕事をコンピュータを操って効率的にこなしていると思い込んでいる人々そのものの仕事がAIにとって代わられる。ロボットは単純労働を人間の代わりにこなしてくれるのではなく、自分の仕事が高度だと認識している人間の仕事そのものをロボットがやり抜くわけだろう?人間の創造性がAIを創ったわけだから、特に先端技術の研究者を始めとした知識階級だけはどこまでもこの社会に必要であるはずだ、と思いたがるのは心情的にはよく分かる。
ロボットに人間が支配されるなんて、マンガっぽい未来社会を描いた映画の世界でしょう?という反論が聞こえてきそうだ。映画の世界さながらにロボットが人間の支配者になるかどうかは別にして、大した能力も持たないのに人並み以上の生活をしてきた人間こそが、頭を柔らかにして、自分たちの仕事を創り出さなければならない時代に突入した、と思うのが当然の論理的帰結だとは思うね。
まあ、変化は気づいた時には変化そのものが加速度的に速度を上げて起こる、という真理をオレは信じているが、多くの人間が右往左往している頃にはとっくにオレはこの世にいない。孤独な老人の孤独死の後のことだ。その意味でオレは幸福な?ことに逃げ切り世代だね。こんなことを考えると、常に襲い来る自己憐憫も少しは和らぐ。ともあれ、自分は大した自己中人間だと思う。オレみたいな精神的な根っ子のない人間は、どこか卑屈だということで、偶然にもこんな駄文に遭遇した人たちの怒りの鞘を納めてもらう他ないな。

棄てる(5)                     小田 晃

2021-09-10 15:55:37 | 文学・哲学
(14)
 あれから何年も経ってから、中山が展開していた店舗がすべて閉店の憂き目に遇っていたことを知った。その頃すでにオレは中山たちに関心を失ってしまっていたので、たまたま河原町をフラフラしていたら、河原町通りに面する店舗が閉まっていることに気がついた。京都市内の中山が経営する全ての店舗に行ってみたら、どの店舗も閉鎖されているか、別の店に変わってしまっていた。あの小賢しい中山なら、別の事業を新らたに立ち上げてうまくやっているのだろう、と云う想いで舌打ちしてしまったが、ともあれ岡崎のペントハウスの様子を見てやろうと足を運んでみたら、管理人の話では夜逃げ同然にマンションから立ち退いたのだ、という。中山もかつてのオレのように、理恵に棄てられるのだ。中山に対してザマを見ろという気持ちより、不思議なことに憐憫の情さえ湧いて来るのはどうしたことだろうか?
 季節は蒸し暑い夏になっていた。中山の事業が失敗したことを知ってからオレの記憶の中からそのことさえ薄らぎかけた頃、オレはいつものようにトースターから焼け焦げた食パンを取り出し、マーガリンをたっぷりと塗りつけ、その上に原材料のカタチが想像だに出来ない100%ペースト状のイチゴジャムをさらに分厚く塗りたくり、やかんの熱すぎるお湯をコップの中のインスタントコーヒーに注ぎ込み、額から流れ出る汗を拭いながら質素すぎる朝食を食べていた。エアコンは中古でも買えないし、電気代もかさむだけだから夏はただただ暑さに耐える日々だ。起き抜けにリサイクルショップから買ったテレビをつけていたら、女房子どもをアパートの一室で果物ナイフで刺し殺した男が逮捕される様子が朝の情報番組に映っていた。頭から何かで覆われているらしいが、犯人の名前と殺された妻と子どもの名前が報じられると、それが中山たち家族の崩壊した姿だということが分かった。オレは心の中で中山に叫びかけていたのである。
―おい、中山、オレはお前たちに散々な想いをさせられて、お前の子どもだと分かっていて和樹を育てようとしていた。理恵とも何とか折り合いをつけながらやっていくつもりだった。会社が倒産する前からお前は用意周到に次の手を打っていた。理恵の性格からすれば、当然オレを棄てて、お前のところに行手はずを整えていただろう。会社の倒産に見舞われ、お前もあの理恵との離婚の憂き目に遇っただろうが、離婚ごときはお前にとっては痛手でも何でもなかっただろうに。男好きなのは心配だったろうが、それでも理恵は性的にお前を引き寄せて余りある女だっただろうに。和樹もオレに押し付けたお前の実の息子だ。事業の失敗で経営者としての地位も金も失った途端に理恵なら金のありそうな他の男たちを漁ったに違いない。おそらく、一度や二度ではなかっただろう。お前がすべてを終わらせようとした気持ちは分かるような気がしないではない。だからこそ、ちょっとした憐憫の情さえ抱かざるを得ないが、それにしても、殺しちゃあいかんよ。痴情のもつれなんかで人を殺してはいかん。それも子どもまで殺ったんだから、お前はもうおしまいだ。人生の舞台から降りるしかないだろうな。
人間社会、人殺しも大儀があれば正当化される。国家のため、人民のため、テロリズムを根絶せしむるため、等々。大儀とやらの定義も曖昧極まりないが、殺す側にも殺す大儀がある。政治というやっかいなものが絡んで来ると、殺す側の論理、殺される側の論理は、角度を変えればまったく違った世界観として正当化されるだろうな。しかし、痴情のもつれの果ての殺人にはどのような理屈をつけても正当化など出来ない。人間の原初的な残虐性がかえって浮き彫りになるだけだ。今日はお前に対してザマァ見やがれ!という気分には到底なれない。山中、おまえのお陰でまた憂鬱の虫にオレは蝕まれるというわけだ。今日は(今日もか?)特に嫌な一日になりそうだ。
(15)
 この世界が、オレの視界の中で捉えられるくらいだから、世界像という、かつては壮大だと感じていたものも、大した存在ではないというのが今更ながらの観想だ。人類の文化・文明も、結果をオレたちは見せられているわけだから、まったく手の届かない存在などではないのかも知れない。その中でも、とりわけ人間が後生大事に伝統文化だと称しているものにひれ伏す姿はどうにもオレには納得がいかない。
虫けらとしてのこのオレが、この世界に対して否!という意思表明を突き付けることは出来ないものか?現代という時代は、かつて金閣寺を焼失させた青年のように、そして彼の詳細な調査をもとに「金閣寺」を書いた三島由紀夫の作品(オレは事件性に隠れた美文的散文は好みではないが)の本質を許容するような社会ではない。伝統を壊すことは許されないが、「滅び」の瞬間の明滅を美意識で飾る遊びごとくらいは無関心でいられるのである。要するに心のどこかでおかしい、と感じても具体的な不利益を被らないなら偽善的に何事も許容しようという精神性が蔓延っているのである。これが現代社会の、この日本の、いや、世界のありさまなのだ。
実際、ずっと以前、三島由紀夫が私的軍隊組織(盾の会)と伴に当時の自衛隊市谷駐屯所に押し入り、割腹自殺してみせた事件は、三島の独りよがりのお遊び程度に世の人々に受け止められ、葬られたではないか。庭に並ばされた自衛隊員に向かって、彼らのヤジと怒号の中で、三島の声がか弱くかき消される様をテレビで観ていた人々はどう感じたのだろうか?おそらく殆どの人々は、浮世離れしたお坊ちゃん小説家の自死の演出だと認識したのではなかろうか?
オレは心の底から三島由紀夫という自意識過剰なエリート右翼作家のことが嫌いで仕方がない。華奢な身体をボディビルと剣道で鍛え上げて、見せかけの逞しさに自己陶酔していた感覚が手にとるように分かるからだ。三島の「憂国」は、三島由紀夫という人間性の概念そのものだ、とオレは思う。はっきりと言っておくが、オレの政治姿勢は、左翼でも右翼でも中道でもない。むしろ政治にはある決まった政治思想などたいして役立たないという考え方の方が現実感があると思っているだけなのである。
政治家というのは、選挙用に国民に対して、開かれた政治を創る!などと宣うが、実際、彼らは政治姿勢の色合いは変わっても、秘密がお好きだ。秘密裡に話を進め、自分たちの思惑に沿ったカタチを政治的成果だと喧伝して、自らの政治的成果だと言い張るのだ。だからと言って、政治的折衝の過程の全てをつまびらかにしたところで、国民とやらは政治的交渉事などにはすぐに飽きるし、本当のところは大した関心もない。自分より贅沢が出来る人間を羨ましがり、そのうち羨望すら無意味だと無理やり納得し、自分の生業を認めることで自分の惨めさから目を背けてしまう。それが庶民といい、大衆という生き方そのものではないか?あるいは、これが大衆という原像、あるいは大衆という幻像ではないのだろうか?オレの生きてきたプロセスを含めて改めてこれがどのような政治体制であっても、その中に暮らす大衆の生き方の枠組みというか、リアルな思考の構造ではないか、と思いながら自分を納得させている毎日なのである。
ホセ・オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」しかり、自然死を待ち切れず、自死した西部邁も「大衆への反逆」を書いて人間が集団化した大衆の原像の醜悪さと偽善を彼らは見抜き、絶望の淵から自らの、むしろ貴族的とも云える思想を構築したのである。オレはどちらかというと、この二人の思想家のことは認める。何故なら、人間集団としての大衆、あるいは国民というものに社会変革のためのいかなる幻想も抱かなかったという点において、この二人は孤独に自己の思想を構築した勇気ある人間だとオレは勝手に思っているものだから。
(16)
 少々、深く考えすぎた。深く考えると腹が減るから困ったものだ。コンビニのおにぎりを一つ余計に買わなければならないのは、オレには経済的に厳しい。まあ、いい。今日は鴨川の出町柳あたりの橋の下のベンチで日よけしながら、昼飯といくか。
 金もなく、歯医者にも行けず、残り少なくなった歯も殆ど虫歯になって奥歯の一つに大きな穴が開いてしまってから、やっと歯の有難さに気づいた。ともかく歯は大事だ。おにぎりの米粒が特に奥歯の虫歯の穴に入るとかなりやっかいだ。シーシーと吸い込んだ息で詰った米粒を取り出そうとしてもうまくいかない。指を使ってもこそぎ落せない。最近のコンビニはオレが買うくらいの量ではなかなか割りばしもくれないし、割りばしの透明な袋の中に爪楊枝も入っていないので困る。その上、女とは無縁の生活がこれから先もずっと続くのか、と思うと全てを諦めたオレだって時折は寂しくはなる。自分のイチモツを手でしごくなんて、この歳になるともはやしんどくて出来やしないのである。それでも躰の奥底で女を求めるモヤモヤが常に在る。どうかしている、と自嘲的に笑ってしまうこともあるが、これだけは致し方ない。解決策も見当たらない。オレみたいなすでに高齢者になってしまった、生活困窮者の男に振り向いてくれる女は100%いない。世の中にはオレくらいの歳でも金さえあれば、若い女を抱ける男がいっぱいいるだろうに。(まあ、こういうのも寂しいか。)
 要するに、金や地位や名声や、それらが総合的に創り上げるセンス、謂わば、フリンジに女は吸い寄せられるのだ。逆もしかり、だ。男だって、フリンジが創り出す女に色気を感じて吸い寄せられるのだ。まったく、そのことがよく分かるだけに余計に腹が立つ昨今である。生活保護に身を委ねるようになってから、一度だけ寂しさに耐えきれず、風俗に行ったことがある。それが心の慰めになるとは思わなかったが、とにかく女の躰の暖かみが懐かしかったからだ。性の機械化とオレは性風俗のことを呼ぶことにしたのは、性の放出までの過程は、きっちりとマニュアル化されていて、効率よく男の欲情を頂点にまで導かせる、非常にシステマティックなものだからだ。あろうことか、その時オレは生活保護費の殆どをたった一回の射精に費やしたというわけだ。その後の数か月は無審査同然の高利のカードローンで生活費を補填して凌ぐことになった。生活の質は極限にまで落ちた。食うや食わずのどん底だった。これが一回分の射精に要する負の見返りだった。オレは自分の躰に教えられたのだ。それはこうだ。貧乏人ほど道を踏み外すことなど出来ず、真面目な生活を強いられる。そうしなければ、行き着く果ては野垂れ死にしかない。日々の正確なルーティーンに従って生きること。これがオレの信条になった。

棄てる(4)                       小田 晃

2021-09-09 12:31:22 | 文学
(11)
 上司の中山は抜け目のない男だったと思うが、唯一の計算違いは理恵という女を甘く見たことだろう。男と遊びまくっている女だ、オレもこの女を味わい尽くしてやろう、と欲を出したのがそもそもの間違いのもとだった。理恵という女は単なる全方位型の男狂いではなかった。彼女のゆるい股は、最もうまそうな餌を探すための有効な道具だったと断定してもよいのではなかろうか。妻子ある中山は、求めればすぐに応じてくる理恵を理想的に便利なセックス処理の対象だと錯誤したのだ。中山にしてみれば、オレのようなバカで世間知らずの部下に結婚相手として押し付けることで、危機を乗り切ったつもりでいたに違いない。しかし、理恵の食指にひっかかった最高の獲物は実は中山の方だった。
 理恵がオレとの結婚を承諾したのは中山を油断させる手段だったのである。まあ、それほどにオレは間抜けて見える存在だったというわけだけれど。会社が倒産することを見抜いていた中山は、倒産の数年前から、極秘に織物と小物とのコラボ商品の開発に乗り出していたらしい。理恵がそんな中山をオレとの結婚で手放すはずがない。オレと結婚する条件として、彼女は中山の秘書として働くことを、中山との関係を続ける条件として義務づけたに違いない。オレみたいなバカに中山と自分の関係性を見破られるはずがないと彼女は見切ったのだろう。
 オレは理恵が仕事と称して遅く帰宅することに文句は殆ど言わなかった。一方で、中山の正妻は彼の浮気に気づく。理恵はさりげなく中山の自宅にも秘書として出入りしている。この女が夫の相手だと中山の妻に知らせるために、だ。理恵の大股びらきは、小賢しい悪知恵で磨きがかかっていたのだろう。ジャン・コクトーの「大股びらき」という小説は、バレリーナが股を床に全開する姿態からとった題名だったと記憶しているが、そういうこととは無関係に、理恵は中山を略奪するために中山の子どもをつくり、(オレとのセックスは絶対安全な不妊時期以外は避妊具をつけることを強要したのは、そのためだ。オレはそれでも計算通りにいかずに理恵がオレの子どもを身ごもったのだと、すっかり信じ込んでいたのである)、理恵は、中山の妻が去る時を待ち、オレを棄てるときをしたたかに待っていたのだろう。
(12)
 女に繰られていた、という意味ではオレも中山も同じだったが、いくら差っ引いても一方的に騙されていたのはオレの方に違いない。その頃のオレの怒りは、理恵というより中山に向けられた。煎じ詰めると中山という男は、オレを見下し、オレなら理恵を押し付けても自分の存在を疑わないと踏んだわけだから。理恵に対しては、その卑しさや計算づくの生き方に、自分とは全く違う種類の人間だという想いの方が強かった。オレはそもそも人間社会に対して、人と人との繋がりという概念に深い疑問を抱いていた人間だったから、息子として育てたはずの和樹に対する想い入れがまるでないことに、自分でも不可思議な感じがしてならなかった。嫌な言葉を使えば、息子は別にどうでもいい存在だった。
 会社が倒産し、職もなくし、妻の理恵と和樹から見棄てられ、彷徨っていた。中山の方は自分の目論見通り決して大きくはないが、和装小物の業界に入り込み、いっぱしの社長気どり、理恵は社長夫人ということになっていた。時間が有り余っていたので、彼らがつくったいくつかの店舗や、市内左京区の岡崎近辺の高級マンションの最上階フロアーすべてが住まいになっているペントハウスふうの三人が住むマンションを見つけた。オレの裡に在ったのは小さな復讐心だった。中山にオレ自身の痛みの幾分かを共有させること、この想いだけしかなかったのである。中山を生かして辱めを与えるとしたらどうすればいいのかを考えた。当然オレは警察にしょっ引かれるが、そんなことはどうでもよかった。自分がかつて育てた息子の前で中山を痛い目に遭わせるわけだから心が痛むか?と自問してみたが、それがまるでないことで、改めて自分が社会不適合者でしかないことを思い知った。
 中山は夜の10時には帰宅する。何日も張り込んで確かめた。今日それが外れても、明日またここにやってくればいいだけのことだ。何せオレは暇なのだ。時間だけはたっぷりある。適度な重みのある出刃包丁を買った。和食の職人が使うものだ。オレは中山の左手の小指を切り落としてやる算段だった。たいした理由はない。痛い想いをさせるなら、その後の商売がやりづらいだろうと踏んだからだ。オレの浅知恵だ。仕事の際に中山は常に自分はかたぎなのだという装いをしなければならないのがオレには痛快だったからに過ぎない。また、その度にオレのことを思い出すことだろう。この復讐はなかなかいいと自分で悦に入った。買った出刃包丁の刃先は何度か道に叩きつけて、刃こぼれさせた。切れすぎると痛みが少ない。切れない包丁でぎりぎりと中山の左小指を切って落とす。いまのオレの生きる目的である。
(13)
 ある日の夜、ほろ酔い気分の中山がマンションの玄関を開けるのにそっと付き従った。包丁を彼の背中に突き立て、部屋までいくように指示したら、エレベーターの中の鏡に映った中山の顔は恐怖でひきつっていた。多分皆殺しにされるとでも思っていたのだろう。
 エレベーターが開くとすぐに玄関口だ。二人でマンションの中に入った。理恵の顔も恐怖で打ち震えているように見えたが、何の感慨も浮かばなかった。和樹はすでに寝ているか自分の部屋の中にいるのだろう。むしろ顔は合わせたくないので好都合だった。
 オレは理恵を買ってきたナイロンの細いロープで両手を縛り、口には粘着テープを貼った。中山には痛みのために大声で叫ばれるのを避けるために理恵と同じように口に粘着テープを念入りに貼った。オレは意識的に敢えてゆっくりと行動した。この日が来たことを実感したかったし、目的を果たせば警察に通報されようと一向に構わなかったからである。
 中山の左手を、金をかけ過ぎた台所に置かれたまな板の上に置いた。オレは時間を出来るだけかけて、刃こぼれさせた包丁で中山の左手小指をギリギリと切り刻んだ。粘着テープを通して中山の動物的なうめき声が聞こえた。理恵は叫び声を上げていたように思うが、腰を抜かしてその場にへたり込み、足許には理恵が漏らした尿が流れ出ていた。数分間かけて切り落とした小指は包丁の柄の先でグチャグチャに砕いた。後で再生手術などされないためだ。さぞかし中山は自分の切り落とされた小指がカタチを失くしていくのが辛かったと見え、激痛に顔を歪めながら気を失った。そのまま警察に捕まるのもよいと思ったが、理恵の口の粘着テープを剥がし、縛ったロープを外した。ポカンとオレを見上げる理恵の表情は自分が殺されるのではないかという恐怖感でいっぱいだった。オレにはそう見えた。しかし、オレはそのままマンションからゆっくりと出て行ったのである。
ところがすぐに捕まるどころか、中山のマンションで起こしたことは事件にもならなかった。世間体を気にしたのだろう、と思う。オレが忌み嫌ってきた世間様からオレは罪を拭われたのだ。皮肉な結末だと思った。
 数か月後に中山が働く姿を遠めに見たが、彼は闇の社会から足を洗うために多くの人がつけている人形のような指サックをつけていた。一見誤魔化しはつくだろうが、取引先の客には何らかの不信感を抱かせるだけのにせもの感は拭えなかっただろう。

棄てる(3)                       小田 晃

2021-09-08 14:09:57 | 文学・哲学
(8)
 オレはこの歳になるまで、あまり物事を深く考えない人間だったと正直に告白すべきだと思っている。若い頃は殆ど皮膚感覚で、いやだ、おかしい、と感じていることにも言語化出来ずに結局は人から勧められるまま斜陽の呉服問屋に就職したし、上司から勧められるままに職場結婚した。紹介された女はオレには不釣り合いなほど男の欲情をそそるタイプの女だった。オレに断る理由など何一つなかった。愛を育むなんて概念も分からないまま、25歳で結婚した。
 妻の理恵は二つ年上だったが、確かにオレは舞い上がった。理恵は結婚後も仕事を続けたが、オレはそれでよかった。呉服問屋の給料はよくなかったし、共働きでないと経済的な将来展望など持ちようがなかったからだ。理恵も働きたいと言っていたから、当時のオレには願ったりかなったりだったというわけだ。その頃の理恵はオレに理恵を紹介してくれた上司の中山雅樹の秘書的な仕事をするようになっていたから、しばしば中山の、呉服商仲間の寄り合いや飲み会に同行したものだ。帰りが遅くなることが結構多かった。それが自然なものだと思っていたし、何より結婚したことで、オレの京都の伝統に胡坐をかいた文化という存在に対する嫌悪感も薄らいだくらいだったから。まあ、オレは京都に限らず、伝統だとか地域の因習だとか、ベタベタの家族愛とやらの全てが大嫌いだったわけで、その意味で上司の中山には感謝するばかりだった。
(9)
 誰もが当たり前に受け入れている価値観にオレが疑いを持ち始めたのは、オレの精神に頼るべき根っ子がなかったからだと思う。何が何だかも分からない社会と立ち向かわねばならないときに両親が交通事故で死んでしまった。その時からだろうな、オレが世の中の当たり前の価値観に疑いを持ち始めたのは。天涯孤独の身に18歳でなったのは、裏を返せば家族愛とか因習とか風習などに囚われない自由を手に入れたことの要因にはなったが、同時にいつも自分が孤独であり、独りぼっちで世界の只中に投げ出されたのだと思っていたのも事実である。
 孤独が深すぎると涙も出なくなるし、世の中で当たり前のことが一々気に障って仕方がなかったのである。だからこそ、オレは、みんなとは違って、社会の奥底を見抜ける人間だと自覚していたが、社会の方は、オレなどまるで存在しないかのように、ただの呉服問屋の丁稚の、顔すら覚えてももらえない人間でしかなかったのだろう。少なくとも理恵と結婚するまでのオレの神経は良くも悪くも研ぎ澄まされていくばかりだったのだ。その有様を反抗の論理の先鋭化とも云えるだろうし、自分の実体のない存在を誰からも認知されない、という意味でラルフ・エリソンのように自らの存在を「見えない人間」と称してもよかった、と思う。
 「見えない人間」同然だと自己定義をしたくて仕方がないが、両親を交通事故で亡くしたことを自己憐憫の道具にしている甘ちょろい日本人のおまえが何を気どってやがる!とオレが尊敬している数少ない作家のラルフ・エリソンなら、甘ちょろい奴だなと一蹴することだろう。
差別国家だった頃のアメリカ(掘り下げれば今も何一つ変わってはいないのだろうけれど)の、ラルフ・エリソンの主著と言って過言ではない「見えない人間」の一人であると認識することで、オレはこの狭い京都の伝統文化という殻の中で何とか息を詰まらせずにこれまで生き抜いてくることが出来たのだ。
しかし、理恵と結婚生活を始めた当初、オレはどこかで「見えない人間」に描かれた世界観に蓋をしたかったのかも知れない。どうにもこうにもオレは疲れ果てていたからだろうと、67歳のいまだからこそ言える。オレは離婚以来再び「見えない人間」として生きてきたが、死ぬまでこの思想を持ちながら生き抜いていくつもりだ。それこそがオレが生きてきた証だと感じられるようになったからだろうと無理やりにでもこじつけてやる!
(10)
 理恵と結婚して二年後に子どもを授かった。男の子だったので和樹と名付けた。しかし、まったくオレに似た要素が和樹には発見出来なかった。とはいえ当時のオレは、和樹が妻に似ているならさぞかしいい男に育ってくれるだろう、と漠然と思いながら日々を過ごしていたのである。
しかし、この頃になると、職場の仲間も油断するようになったのか、飲み会の折などに、結婚前の理恵は誰にでも股を開く女だったということをぼかして言うようになった。オレの推測では、職場の同僚の誰一人、理恵と寝ていない男はいないと思う。オレに理恵を紹介した上司の中山自身もその中の一人だろう。それどころか、いまの理恵が中山の秘書的存在であることを思えば、中山自身が最も親密な関係にある男だということも理解出来た。理恵が仕事で遅くなる理由も想像すれば、夫の嫉妬心をかき立てるには十分だった。二人がどこでどんな男と女のネバネバとした執拗な営みをしているか、理恵のオレとのセックスを思い浮かべれば、それ以上におれ以外の男たち、特に中山との交わりの粘着質な交接のありようが分かるのだ。
 結婚後の付き合いを考えれば、息子の和樹は間違いなく中山の子どもだ。同僚に理恵の性的指向をほのめかされる前に、オレは理恵にもう一人くらいは子どもがほしい、と話したことがあった。その時の彼女の反応は、子どもは一人でたくさんよ、とはねつけるように言った。あれは、オレの子どもなんてほしくはない、という宣言だったと思う。いろいろな事情が分かってきた時、オレはこれから先、ずっと中山やかつての男との妻の交接を許容しながら生きていかねばならないのかと思うと、終わりなき憂鬱に圧し潰されるように感じたものだった。やはり、オレの人生はどこまでも閉ざされているのだ。あるいは、オレの嫌いなジャンルの言葉で言えば、呪われているのだ。過去も、いまも、未来もオレはカギをかけられたドアと窓一つない部屋に閉じ込められているように感じながら生きていかねばならないのだ。薄っぺらい「地下室の手記」。ドストエフスキーはオレを見て高笑いするかも知れない。

棄てる!(2)

2021-09-07 12:15:11 | 文学・哲学
(6)
最近、身体が自由に動かないのでかえってスポーツに興味が湧くから不思議だ。腰の骨を折って、自由歩行に支障を来すまでの長い期間、オレはずっと運動なんかに興味のひとかけらも抱かなかったのに。そう云えば、テニス界の貴公子なんて謂われているロジャー・フェデラーはスイスの選手らしいが、昨今彼はドバイに住居を構えているという。フェデラークラスになると世界中にいくつも住居はあるだろうが、本拠地としてドバイに住まいを構えているらしい。何でなんだ?ドバイは所得税がないのだそうだ。彼みたいに年間億単位で稼ぐ人々にとっては金にものを云わせて、税金を払わない方法を実際にやってのけられる。ジョコビッチなんて、モナコ公国に住んでいるそうだ。ここも所得税はとられないらしい。が、住むには億単位の資産がなければモナコ公国の市民にはなれないそうだけど。こんなのは序の口。世界中にこの手の脱税もどきの税金対策で資産を目減りさせないように生きている大金持ちが無数にいるんだ。所得格差が無限大に広がるのも当然ではないか!
オレみたいな最底辺の生活者でなくても、年収数百万程度のサラリーマンは、がっぽりと所得税を天引きされるから逃げようがない。自営業の青色申告なんてのもあって、ここでも天引きされるサラリーマンと差がつくのに、何で天引きされるような直接税のあり方に彼らは文句をつけないのだろう?サラリーマンだって、絶対に必要なものはたくさんあるから、経費として落とせる青色申告制度にすべきだ!という人が国会前に圧し掛けないのが日本の不思議だ。
世界規模で見ると、給与所得者であっても天引きの税金のとられ方をしている国の方が少ないのではないか、とどこかで読んだことがある。それが本当なら、よほど平均的日本人は政治家たちや金持ちに従順な国民らしい。いや、権力に対して従順な国民だ。たぶん、カタチは異なっても世界中、富める者は小狡く脱税や節税の方法を考え、富から縁遠い殆どの人々は逆らいもせず税金を差し出しているのが現実なのかも知れない。と、書いてもオレは決して、かつてのオレもそうだったが、給与から所得税をむしり取られる人を気の毒だとは決して思わない。要はかつてのオレも(いまのオレも同じようなものなのかもしれないけれど)、大半の庶民は物言わぬ羊の群れそのものだ。まあ、真剣にやれば金儲けは実際しんどいからな。会社勤めをしながら上司や同僚の悪口を安酒をあおりながら吐き出すのも、チンケだが歓びの一つではあるのだろうし、これは情けないストレス発散法だけど仕方がないね。時折真面目な給与所得者が働き過ぎて過労死したり、自殺したりするのはいかにオレだって看過出来ないけれど。
(7)
 古本にも結構新しいものがある。ビジネス書の類はみなそうだ。時代の変化にビジネス書の内実がついていけず、本棚に並べておくだけの価値もないから、読了したらすぐにブック・オフみたいなところに売りに出す人が多いのだ、と思う。ビジネス書の内容が本当かどうかには懐疑的であるにしろ、本の著者の見識をある程度信じると仮定して、語りたいことを彼らの言を借りて、話したいことだけを話すことにする。
 オレは斜陽の呉服問屋に就職して、ズルズルと時間が経って、取り返しのつかない年齢で会社を放り出された。おまけに女房にも逃げられた。散々な人生だったと思うが、苦渋を舐めた人間にしか言えないこともある。苦渋を舐めた人間として、社会の底辺から叫び続けることにしようと云う決意は相変わらず自分の中に迷いなく在る。
 オレみたいな貧乏人もたまには喫茶店に入ることがある。目的は新聞や雑誌に目を通すためだ。底辺から叫ぶにはマスコミなどは信じていないにしろ、世の中の多くの人がどんな考えにかぶれているかを知る必要があるからね。根拠のない関連性で云えば、新聞や雑誌をたくさん揃えている喫茶店ほど昔ながらのコーヒーショップという感じで、これが大抵まずいコーヒーを出す。店主の独りよがりのコーヒー豆の焙煎で煮だされたコーヒーは、オレには少々苦過ぎるし、ふくよかな香も期待出来ないのである。新聞や雑誌を読むにも忍耐が要るわけだ。
 政府が今頃になって「働き方改革」と称して労働の時短を主に訴え始めた。「働き方改革」と確固をつけたのは、時短そのものを捉えても名目上それが出来るのはたんまり内部留保をため込んだ大企業だけではないのか?と単純なオレにも分かる感じがする。国会でああでもない、こうでもない、と言っている政治家たちは、本音では中小企業が大企業と同様に「働き方改革」とやらに前向きになれなんて思ってもいないだろう。「働き方改革」による労働時短で、解雇される労働者が増えるだけで、同時に倒産する中小企業がたくさん出るだろうことは素人にも分かる。所詮、消費税率を上げて、間接税で貧乏人からも満遍なく税金を巻き上げようとするような政治家たちに、物事の本質が分かるわけがない。オレの言い分―サラリーマンから巻き上げている直接税を思い切り下げよ!消費税も上げる必要はない。法人税を底の底まで下げてみよ!日本の企業は、安い法人税や労働力を求めてアジア諸国を彷徨う時代から、日本回帰する時期に来ているんだよ。タケナカヘイゾウが言い出しっぺの新自由主義なんて、貧富の差を深めるだけだ。富の再配分としてのトリクルダウン?アホか!そもそも富は上から下には還流しないんだよ。富は上で回っているだけだ。そういう経済構造を加速させるのが新自由主義の本質だ、とオレは思うけどね。タケナカヘイゾウ自身の生活は増々豊かになっていくのも偶然とは到底思えないな。
 タケナカという学者がグローバライゼーションという新自由主義の積極的推進者として認識されていたことをオレは忘れないぞ!タケナカ自身がいま、なりを潜めている感があるから殆どの人たちは忘れているだけのことだろう。それにいまや政治経済界全体がタケナカヘイゾウ化しているからこそ、怖い時代なんだ。グローバライゼーションといえば何となく聞こえはいいが、これは国境を越えた、現代風の奴隷制度みたいなものではないのだろうか?安い賃金を求めて大企業がアジア諸国に生産拠点を移す。その地で賃金が上がり始めたらまた別の開発途上国へ生産地を移す。製品価格は当然安くはなるが、大企業が生産拠点を日本から海外に移すことで、日本の経済機構は圧倒的にスカスカ状態だ。現地生産して、安い賃金、安い法人税をアジア諸国に落とす。結果的に日本人の職場はなくなるし、賃金も生産工場も海外、売りつける商品も多くは海外なんだから、日本でお金がまわらなくなるのは当然のことだろう。大企業は目先の利益を求めて大もうけしているのに、日本人の社員の賃金もたいして上げないし、儲けた大枚の金は内部留保(設備投資のために必要だというレベルを遥かに超えているから、いわば銭にとりつかれた強欲な経営者たちの企業を私物化だ。企業内に貯め込んだ金は、まるで自分たちの預貯金だと謂わんばかりだ)としてたっぷりとため込んでいるんだ。日本の地方都市がますます過疎化することに拍車を駆けたね、これが。大都市に人口が集中するのは当たり前だし、そもそも働く場が東京一極なんだから、地方はさびれる一方だ。これも綺麗ごとから始まったことだから括弧つきで言わせてもらうが、「地方創生」なんて言っても企業を日本に呼び戻さなければ意味がないわけだ。田んぼだらけの、(その上、農業人口の高齢化は目を覆うばかりだ)日本の地方に生産拠点を呼び戻さないと、地方は若者が寄り付かず、年寄りばかりになってしまうのは当然ではないか!東京一極集中という現象は、地方の若者が華やかな都会に憧れることとは本質的に似て非なるものだ。これを解決出来ない政治家は、高い給与を貰う資格はないし、そもそも彼らのやっている政治とはいったい何なのか?歳費の無駄をはぶくために議員数を減らすと言っていたのはウソどころか、むしろ議員数は増えているんだから笑えるね。
 煌々と光り輝く大都市と、真っ暗闇の中で人口がどんどん減っていく田舎とのコントラストはアホらし過ぎて、もはやオレなんて逆に笑うことしか出来ないんだ。誤解なく言っておくが、オレは地方をバカにしているのではないよ。こうなることがずっと前から分かっていながら大都会でノウノウと「地方創生」なんて言って政治家ヅラしているアホどもに対して、この世の中で誰が一番嘘つきか?という疑問の答えは、一も二もなく、お前ら政治家、官僚、大企業さんたちだよ、とオレは言いたいだけでね。こんなことを毒づいている人間に貼られるレッテルは左翼だとか過激派だとか危険分子だなんて云うものだけれど、この世界で最も危険な人間たちは、自分がノーマルな思想の持主で、社会のために役立っていると喧伝しているような輩たちだ。これは断言してもいい。

棄てる!(1)   

2021-09-06 14:22:09 | 文学・哲学
棄てる!                小田 晃
(1)
 西向きの窓から差し込む陽ざしが、薄っぺらなカーテン越しに容赦なく照りつける。まだ6月だというのに、昨今の日本の気候はどうかしていて、オレが子どもの頃の夏休みの朝の、蒸せるような暑さと同じくらい厳しい。今朝も全身汗まみれで起こされた。そう、毎朝オレは目を覚ましたくもないのに、この暑さで無理やり起こされる。全身汗だくだ。家賃3万5千円の二階建て木造アパートで、風呂は勿論ない。だいぶ歩かないと銭湯がないし、そこも経営者が爺さん婆さんの二人なので、そのうち閉まることになるだろう。玄関を入ったすぐ横に流し台とカタチだけのガスコンロがある。板間の台所兼リビングのつもりだろう空間に、小さなテーブルと椅子が二脚置いてある。オレが座るのは決まって玄関から遠い方で、もう一脚はまず誰も座らない無意味な存在だ。家具屋で一番安いテーブルを買ったら否応なく椅子が二脚ついてきただけのことだ。
 流し台の水道の栓をひねり、チョロチョロと水を出す。ざーと流すと水道のメーターの上がり具合が速いと誰かから聞いて、それ以来水はチョロチョロと流すことにしている。頭から水をかぶり、顔をざっくりと洗い、タオルを濡らして上半身の汗を拭う。それからお決まりのように一つしかない6畳の和室の窓と台所の小さな窓を空けて、ぬるい空気を部屋全体に通した気分に浸る。朝飯は食わない。節約のためだ。昼近くになってからコンビニで一番安い弁当を買い、チンしてもらう。お茶は買わない。毎日ボトルのお茶や水を買うのはバカらしいので、近所のスーパーで買った一番安いお茶っ葉を前の日に煮だして、目が覚めたら冷蔵庫に入れて冷やす。ずっと昔に買った小さな魔法瓶に冷えたお茶を入れて持ち歩く。魔法瓶はオレの散歩の必須アイテムだ。
 日々の日課になってしまった行動は、鴨川の歩道を散歩してみたり、時折、河原町近辺で買えもしないものをウィンドウ越しに見て満足することだ。疲れたら街中のネットカフェに入り、時間潰しに長時間マンガを読んだり、一冊100円の古本を何冊か持ち込んで読書もする。出来るだけ金は使いたくないが、ネットカフェの書棚に並んでいるのは殆どマンガ本ばかりだから仕方がない。アマゾンにアクセスして古本を結構たくさん買う。本の値段よりも送料が高くつくことの不条理性を感じるが、河原町近辺の古本屋も激減したので致し方ない。アマゾンへの登録カードは生活保護費が振り込まれるのに必要だというので、銀行に作らされたカードをアマゾンに登録しているというわけだ。まあ、これがオレの大雑把な暮らしぶりの概略。書いてみれば、何とも味気ない日常である。
(2)
 オレは永野陽平といい、今年で67歳になる。世間のジャンル分けでは押しも押されもしない老人だ。
高校を出てから室町の呉服問屋に就職した。52歳まで安い給料で働いていたのに、まわりの呉服問屋は次々と倒産して、跡地はマンションになっていった。その後はホテルの建設ラッシュだ。ともかく金に目ざとい人間の動きは速い。昆虫の触覚が獲物を探るように獲物の金を得続けることに奔走している。
52歳になったときにオレの勤めている呉服問屋もご多分に漏れず倒産の憂き目に遇った。結果、オレは永年勤めてきた職場を失ったのである。ある意味、京都の限られた地域に呉服に関わる商売がこれほど永く持ち応えられたのが不思議なくらいだ。いまだに倒産せずにもち応えている呉服商は、我慢比べで己をすり減らしながら耐え抜いたのである。あるいは、呉服に纏わるあらゆるビジネスの裾野を広げていったのである。ビジネスの要とは、目利きと忍耐が勝敗を決する最も大切な要因ではないのか?とオレにだっていまはそう思えるようになった。それにしても、もはや何に対しても取り返しのつかない年齢になり、自分では何一つ創り出すことが出来ないということに、散々な目に遭いながら気づいた。オレはどこまで行っても凡庸な人間だ、と想う。本来なら、こんなことは誰にでも分かることだ。オレは頭の血の巡りの悪い分、気づくのに時間がかかり過ぎた、ということか?
会社が倒産してから、オレは何のつぶしにもならない呉服商人が落ちていく典型のように、日雇い仕事で60歳を過ぎるまで食いつないだが、62歳のときに、マンションの建設現場で三階部分の足場から落ちて腰の骨を折った。労災認定されるはずもなく、退院後のオレに出来る仕事はますます限られたものにならざるを得なかった。
52歳からオレは独りぼっちだ。会社が倒産したら、女房は子どもを連れてオレを見限って出て行ってしまったからだ。オレの両親はオレが高校を出る直前に交通事故で死んだ。大学へ行くことも出来ず、しぶしぶ高校から室町通りの、父親の知人に勧められて、ある呉服問屋に就職した。同じ呉服問屋に勤めていた女と結婚して子どもを授かったのに、その女房が呉服問屋が倒産したと同時にオレを見棄てたのである。家族が去ってからオレは人をこれまで以上に信じなくなった。人生に山あり谷ありなどと言い古された言葉だが、オレに山と云うものがあったとは思えない。オレは地を這い、地の底まで辿り着いたというわけだ。
62歳のときに工事現場で腰の骨を折った後遺症が出て、足を引きずるようになった。リハビリにも限界というものがあるようだ。半分諦め気分で社会福祉申請をしたら認定された。それ以来、オレは世の中の最低限度の生活が出来ると謳われているだけの金を支給され、社会の底辺に生きる生活者として、いまのアパートに移り住み、いじましい生活を強いられている。何度言っても言い足りないが、いまのオレは人も社会も信じていない。いくつかの不幸が重なって、さらに仕事でケガをし、社会福祉の最低限の生活をしていることで、世の中の不公平性を恨んでいるのは事実だ。
オレはそもそも人間の裡に内包されているはずの「共同性」を追い求める、という概念が理解出来ないということか?何故そう思うかと言うと、人間の「共同性」というものに大いなる虚偽と不公平性を見出し、憤っているからだ。だからこそ、オレは分かる。社会という総体、人間の集合体そのものが虚像なのだ、と。オレは社会に蔓延している偽善を心底憎む。偽善者ほど自分のことを良き人間だと信じて疑わないが、彼らの善良さ?というのは、単に世間体を気にした結果の言動であったりする。そして何よりオレの神経を逆なでするのは、善良?な人々が、己の勝手な価値観を覆すことがもし身近で起これば、それを全力で隠蔽しようとして憚らない。こういう人間はすべからく偽善者だ。彼らにとって、何より大切なものは自分。偽善者とは自己愛に溢れている!これが偽善者の真の姿だ。
(3)
 オレは幼い頃から虚弱体質で、学校も休みがちだった。運動神経にも恵まれず、唯一の楽しみといえば本を読むことだけだった。というか、友達に関わったらバカにされるだけだったので、自分一人の世界に閉じこもる手段が読書だったというだけのことだ。本の中の作りものの世界の登場人物と同化することが、オレが世界の中で生きるということだったのである。一人っ子で甘やかされて喘息持ちになったのか、喘息だったから甘やかされたのかは定かではないが、ともかくオレは他者と関わると決まって喘息の発作に襲われた。だから、学生時代の友人たちは誰か?と自問しても誰ひとり思い出す顔などまるでない。
 誰とも、何とも関わらなかった分、オレは本をむさぼるように読んだ。しかし、読書家という類の人間ではない。それしかすることがなかっただけのことだ。が、結果的にオレは膨大な本の内実から世界を見渡していたのかも知れない。誰にも評価されず、誰にも理解されず、それでもオレは結構な確率で世の中の矛盾の本質的で根源的な要因に辿り着けるようになっていたように思う。より正確に言うと、自分なりの思い込みの渦の中に埋もれていられたということだろう。
(4)
こんなことを言うと誰からも非難されることだろうが、そもそもオレには人間の労働の意味がよく分からないのである。生活費を捻出するために仕事をする人もいれば、自分の仕事に誇りを持って生きる糧にしている人もいる。それはよく理解している。が、歴史の大きな流れの中で、人間が仕事を創出して行っていることの殆どは無意味ではないか、と思えてならないのである。 
確かに生活様式の近現代化がもたらした社会現象が、人の暮らしの利便性を高めはしたのだろうし、オレのいまの生活の糧である社会福祉の概念や制度が生まれたのも、人が仕事を重ね、社会様式が変化した結果の副産物だろう。敢えて自分の立場を無視した言い方をすれば、この世の中、「やり過ぎ」だということではなかろうか、とオレは強く思っているのである。科学技術の進歩によって人間が幸福になる、と素朴に信じていたのは、少なくともオレの場合は1970年代までだ。かの大阪万国博覧会に初めて、日本の原子力発電所からの電気が会場中を眩く照らしたときの感動は忘れないし、手塚治の「鉄腕アトム」が悪しき者たちを快刀乱麻する姿に酔いしれたことも事実だ。鉄腕アトムの胸をパカっと開ければ、そこに原子力のエネルギー発生装置があって、アトムは原子力エネルギーを注入して空を飛び、百万馬力のエネルギーを発揮し、悪党を次々になぎ倒す。そう、その当時の原子力は、人類の未来を輝かしいものにするための必須の要素だった。
 しかし、21世紀の現代はどうだ?原子力開発は、劣化ウランの処理も開発しながら未来永劫使えるエネルギーとして機能するはずだった。しかし、核廃棄物の処理どころか、いまやそれをどこに棄てようか?と云う話にすり替わっている。見切り発車とはこういうことを言うのである。そう言えば鉄腕アトムの妹は、ウランだった。皮肉な話である。すでにこの世の人ではなくなっている手塚治は、いまの時代に生きていたら何と感じるだろう?
 まあ、原子力開発は政治色が濃いし、政争の道具にされがちだから、オレがとやかく言ったところで意味がないだろう。いまはこの話は深堀しないでおこうか。
(5)
 世の中、こぞってAIだのIOTだの、コンピュータプラットフォームをどう構築するかという議論が最先端なのだと謂わんばかりだ。デジタル化、キャッシュレス化なんていうのも当然のように、恰好よく?語られるのはどうしたことだろうか?
おかしな話が大手を振ってまかり通っていることもある。大手銀行が消費者金融に資金と大手銀行の名前貸しをし、お墨付きを与え、テレビで大宣伝だ。消費者金融は、いまや大手銀行の子会社になってしまったか?消費者金融業者が、人気タレントを巧みに使って高利貸しを正当化していることが批判的に語られなくなってしまった。人々の高利子の金を借りるための精神的垣根を低め、なおかつ殆ど無審査のカードローンを低所得者に貸し出すというわけだ。タレントはギャラを貰えればそれでいいのだろうが、借りる側は、あれで借りなくても我慢出来る金を高利子で借りてしまう、この戯画的様相はいったい世の中、どうなってしまったのだろうか?これはむしろ正当化を装った犯罪的行為と言っても言い過ぎではないだろう?それでいて、高利貸しへの過払い金を取り戻すことを主な仕事にしている弁護士事務所も儲けているのだと聞く。貧困ビジネスが闊歩しているのが現代という時代か?いや、人類の歴史そのものが貧しい人間から搾取しまくってきたわけだから、これが人間社会の暗部と言えば言えなくもない。
人口知能の発達を礼賛する人間たちは、スマホから貯蓄も振り込みも支払いも出来てしまうのだから便利この上ないと宣うが、こんな使い方が出来るのは、口座に金がたっぷりある人間だけだろう?お気軽にカードやスマホでどんどん支払いをして、後でしまった!と後悔するのは大した金のない人間だし、そういうのに限って、お支払い方法はリボ払いで!という悪魔の誘いにすぐに乗ってしまう。リボ払いも高金利の悪徳商法だからね、オレから言わせると。いまの社会システムの中で、貧乏人はますます貧乏の泥沼に落ち込んでしまうように仕上がっているわけだ。金持ちたちの金を増やす方法は、明確な脱税や限りなくそれに近いこともやりながらの、資産運用だろうし、資産は減らないどころか、増える一方なのは当然の成り行きだ。現代は所得格差の時代だって?そんなことはとっくに分かっている。所得格差を生み出している側が偽善的に格差社会を根絶しよう!などと念仏のように唱えているだけなのだ。

エレジー(2)

2021-09-03 17:20:58 | 文学・哲学
エレジー                                      小田 晃

(30)
 翌日、遅い朝食をホテルの近くの喫茶店で軽く済ませ、電話で信田に礼を言い、帰りの阪急電車に乗り込んだ。車窓から見える神戸の風景がじんわりと心に沁み入るように見えるのがありがたかった。それを眺めながら、数日後にもどって来る多恵との今後をどうすべきかを考えようとしたが、文男は眠りに落ちた。文男の存在そのものが、考えることを拒否したのだ。
 数日して、玄関から多恵のいつもと変わらぬ声がした。
―文男さん、帰りました!ほんとにありがとう。両親があなたにくれぐれもよろしく伝えておいてほしい、と言っていたわ。私からもお礼を言います。ありがとう。母も近々退院出来るそうです。
―そうか、よかったなぁ。君もたいへんだったな。今夜は一緒に食事に行こう。多恵の慰労会だよ。
 そう言ったとき、文男の今後が決まったのである。自分ではどんな言葉が出るのか想像も出来なかったのに、多恵との変わらぬ日常が続くことを瞬時にして選び取ったのだ。オレは多恵とこの先の人生を生きていくしかない。服部には自分を引き立ててもらえるか、と小さな計算をしたが、真実を知ってしまったいま、むしろ自分は服部から遠ざけられるだろうと確信した。私に目をかければ、背後の多恵の押し殺した情念に火をつけかねない。それくらいのことは服部には分かるはずだ。決して深く考えようとはしない人間だが、彼は多恵を棄てて、出世をとった。出世の邪魔になる可能性を摘んだのだ。私は冷遇され、置き去りにされるだろう。生涯平教員として終わることになるだろうが、その代わりに静かな生活を送ることが出来る。服部は校長になり、教育委員会の役員へと出世の階段を昇りつめていくことは確実だ。しかし、彼にも彼なりの生の虚しさに苛まれる時期がいずれ訪れるはずだ。こういうことに例外はない。これでよかったのだ、と文男は自分に言い聞かせた。
(31)
 多恵との夫婦の交わりは、自分が直面させられた人間のグロテスクさとは別に、これまでのように、いやこれまで以上に濃密になって行った。私は妻の躰の隅々まで舐めまわし、陰部を執拗に愛撫し、愛液で濡れた自分の舌を彼女の口に差し入れる。多恵は文男の勃起した男根を深く咥え、その舌の動きはますます文男の性感の機微を刺激し、多恵の口の中で射精すると、多恵の舌は文男の性液に濡れたまま、すぐに文男の肛門の中に差し入れられるのだった。文男と多恵の性は果てしない深みへ沈んで行った。文男はいつしか子どもに妻との性の幾分かでも邪魔されたくはない、とまで思うようになった。私が妻の躰の奥深くにペニスを差し入れた時に発する彼女の艶めかしい喘ぎの中に、たとえ服部のイメージが混入していたとしてもそれはそれでいいと思えるのだった。結局は人の内奥の実体に踏み入れることなど出来ないのだ。それは逆に多恵が私に仮にそれを求めても不可能なことなのだ。いいではないか、これで。私は心の深奥で諒解した。
(32)
 私は教師としてその存在意義を持って日々を過ごせたのか、と云うと決してそうではなかった、と思う。現代文の教科書を教える国語教師なんて、ほんとに間抜けていると自覚しながら日々の授業をこなしていたのである。私には自分の両親のように教師であることに誇りなど到底持てなかったし、検定教科書の細切れの文学作品や評論を教えながら、それらを教える意味が分からなかった。
 自分を納得させる唯一の論理は、自分を旅行ガイドのような存在だと言い聞かせることだった。細切れの作品の解説や読解方法に何の意味もない。むしろそれらが生徒たちから文学作品から遠ざけることになると分かっていながら自分の役割を無理やりでっち上げるのだ。それならば、いっそのこと自分を例えば旅行ガイドにでも譬え、それを見聞きしながら旅行者としての生徒たちが自分の足でかの地を巡り、自分なりの発見の旅をするための案内役と自分を規定した。文男の考えは、数えきれない文学や哲学や詩などを読み解く独学の精神性を、それが仮に自分発信でないにしても、生のどこかの時点で生徒たちがその意義に気づいてくれることへの切ない期待感そのものだった。そして自分の教師としての細すぎる糸を切らないように日々を生きた。これが文男を65歳まで教師として働かせた動機と言っても過言ではない。
(33)
 多恵の秘密の重さに耐えきれなくて、神戸に出向き、信田と話してから約一年が過ぎようとしていた頃、書斎に多恵が入って来て、女の人から電話ですよ、と薄ら笑いを浮かべて告げた。多恵の時折見せるウィットの一つだ。私の女関係を警戒してのことではない。それだけ私は多恵以外の女性とは無縁の生活をしていることを多恵自身が一番よく知っている。私はリビングの電話の受話器をとった。
―もしもし、田村さん?田中広子です。ごめんなさい、突然に。奥さまに変に思われていない?
電話の向こうで、広子は学生時代と同じ口調で話し始めた。
―実はね、主人が入院してしまったの。集中治療室から出て、いまは落ち着いているけど、彼がね、あなたに会いたがっているの。
―分かりました。病院はどこですか?すぐに伺いますから。
広子は病院名を告げ、電話を切った。私はそれだけを聞き、一体信田がどうして入院することになったのかを聞く余裕もなかったことに気づいた。そして、妻である広子が、夫が入院したというのに、こちらが聞かなければ何も話さないことなんてあり得るのか?文男の心はざわついた。多恵に友人が入院したので、これからすぐに神戸に向かうと告げて、家を後にした。
(34)
 病院は、六甲道にある総合病院だったので、私は三ノ宮で阪急電車を降り、JR三ノ宮駅から一駅もどった六甲道駅で下車した。信田が緊急搬送された病院は駅の目の前にあった。病院の受付で用件を伝え、信田の病室を教えてもらい、そこに急いだ。病室は個室で、入り口の引き戸を開けると、ベッドには頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、信田の端正な顔は見る影もなく紫色に腫れ上がり、腕には点滴、そして身体の数か所がチューブの管で繋がれ、心電図と脈拍が表示されるモニターがあり、信田が重度の患者としてベッドに寝かされているのだと文男は諒解した。息が詰まりそうになるのを堪えて、ベッドの傍の粗末なパイプ椅子に座っている広子に簡単な挨拶をした。信田は鎮静剤の効果で眠っているとのことだった。
 広子は私に、病室の外に行きましょうと目くばせして来た。さすがに役者志望だっただけはあると、その場にふさわしくない観想を抱きながら、二人でコーヒーが飲める食堂の椅子に向かい合って座った。広子は舞台で独白するように、夫のもう一つの顔について語り始めた。そして、その信田のもう一つの顔は、文男にとってはまったく未知のそれであった。広子はゆっくりと語りはじめた。
―これからお話することは、夫が田村さんには見せなかったもう一つの顔のことです。
―私の知らない信田の顔があるとおっしゃるのですね?
―はい、おっしゃるとおりです。
 私には広子の話の内容のはじまりを聞いて、信田の秘密を知らなかったことに腹立ちを覚えるよりも、不安感の方が大きかった。自分の中の、若き日の思い出の根幹が一気に崩壊するのではないかという、根拠のない不安感でいっぱいになったのである。
―文学研究会の日にね、信田さん(広子は夫と呼ばず、このように語りはじめた)と私、酔っぱらって研究会に遅れたことがあったのを覚えていますか?
 覚えているも何も、その日こそが私と良子が悦楽の中で深く交歓した日のことだ。忘れるはずがない。
―あの頃、高校の学生運動は殆ど下火になって、信田さんも経済上の理由もあって夜間の方に転向してましたね。運動は下火になっても、極左のセクトは相変わらずの運動を繰り返しながら、段々と内向きになって、今度はセクト間の抗争になっていたわけです。信田さんは、あるセクトのリーダーでした。彼の部下は殆どが大学生で、彼が夜間高校に鞍替えしてからは、その中に先生が混じるようになりました。その代表格が村中淳一さん。私も信田さんと同じセクトに所属していました。こんなことを言うのはおこがましいのですけれど、当時村中さんが私のことを好きになって、何かと私に付きまとうようになっていました。信田さんはリーダーでしたが、彼が当時語った内容は、「この運動も間もなく消失する。いや、失くさないと、セクトどうしが下手をすると殺し合うかも知れない。だから、オレのセクトは解散させるし、教師の村中とも縁を切る。村中は個性的に粘着質だから、広子、君に付きまとうだろう。だから、君、神戸を離れろ。幸い、君には演劇という才能があるから東京の劇団にでも入るといい。オレが責任を持って君を逃がすから。」と云うものでした。私は信田さんが好きだったし、彼から離れるのが絶対に嫌だったので、ごね続けました。結局信田さんの説得に応じた頃には私はお酒で感情を誤魔化していたもので、泥酔状態で田村さんと早田さんにお会いしたというわけです。それがあの日の全容なんです。
 私には信田のことが何も分かっていなかった。自分がいかに浅薄で、粗野で茫洋とした人間であったのかが、この日まで分からなかったのかと思うと、情けなさを通り越して消えてなくなりたいとさえ思うのだった。そうだ!信田は文学研究会なんかで閉じている男ではない。私が視ようとしなかっただけだ。私はあの当時、政治オンチを押し通して自分の内面だけを眺め、それでも何も捉え切れず、逡巡する日々だったのである。それに比して、信田は世界の全容を見極めようとしていたのだろう。目を逸らせているという自覚があった分、広子の説明を聞くとすべてが一気に理解できる自分に気づいた。信田の苦闘に、遅まきながら共振する自分が、いま、ここにいる。
―良子さんも信田さんが好きだったし、私、良子さんに信田さんのことを頼んで東京に逃げたの。二人はお似合いだし、悔しいけれど、私はそうなることを望んでいた。でも、良子さんが根を上げた。銀行の同僚の方に、そう、安全な生活者の生き方を選んだわけです。そういういきさつを信田さんから電話で聞き、私は演劇にかけることを捨てて、神戸に帰ってきたの。父にもずいぶんと迷惑をかけたし、信田さんにうちの会社を任せるように父を説得したら、父はそれでいいと言ってくれた。村中やセクトの残党たちから信田さんが狙われているのが分かっていたから、信田さんの痕跡を消すために彼には私の姓を名乗ってもらうことにしたのよ。信田さんは、いきさつを全部打ち明けると田村を驚かせるし、迷惑もかけたくないから、オレが何となく世間知で、広子の夫になり、広子の婿養子になることだけを報告してきたい、と言ってきかなかった。私はあなたが田村さんに誤解されるだけでしょう?と止めたけれど、それでいいんだ、と彼が言うので彼の思い通りにさせたの。信田さんは、たとえあなたに誤解されても、あなたと語り合いたかったのだと思う。会社のことだってね、父にはそうする気はなかったのに、自分から辞めるってね、彼は頑固だから。
(35)
―信田はなぜ今頃になって襲われたのでしょうか?
 私は事の真相を聞くのが怖くてたまらなかったのに、やはり聞かずにはいられなかった。私に必要なことは、いまとなっては信田の全体像をつかむことだと思ったからである。
―村中は信田さんに二重の意味で嫉妬していましたから。学生運動の指導者としての、信田さんの圧倒的な力量と、男性としての魅力に対する村中さんの屈折した想いは相当に深かったと思います。彼は信田さんが、あのアパートから姿を消してから私の実家に婿養子として入ったことを、セクトの残党を使ってすぐに掴んでいたようです。それでもいままで手を出さなかったのは、生活者として生きようとしている信田さんを壊す時期を見計らっていたとしか思えません。
 彼女は言葉を紡いだ。
―昨日の夜遅くに電話がありました。私が受けて、それが村中からだ、とすぐに分かりました。傍にいた夫は、
―オレにどこに来いと言ってきたんだ?
 と私に聞きました。会いに行ったらどうなるか、それはまるで意味のないことだと私は思っていましたので、夫の問いかけに対して沈黙を貫こうかと思いました。でも、夫はオレが行かないと、家族ごとやられる。君にも分かっているはずだ。あの運動は間違いだらけだった。オレが予測したとおりに、何度も仲間どうしで殺し合った事件が報道されただろう?オレが行かなければ、この家が標的にされる。オレは絶対に死なないよ。大丈夫だ。やつらの息の根を止めるためには、一市民としてのオレを襲った彼らを警察に逮捕させることしかないからね。だから、広子、場所と時間を教えろよ。オレが指定された時間にその場所に行ったら、警察に電話して、いや、この家に来てもらってもいい。30分後に適当な事情を言って警察を現場に寄越すんだ。それですべてが終わる。安心しろよ、広子。
 と夫は言いましたけど、彼は命を投げ出しに行くのだ、と私は察して夫を送り出すと同時に警察にすべての事情を話し、夫が殺されるからそこにすぐに行ってほしい、と通報しました。夫が命をとりとめたのは、時間差だけの問題でした。夫の言う通りにしていたら、確実に夫は命を落としていたはずです。それでも田村さんがご覧になったようにあの状態です。まったくひどいものです。指定された場所に出かける前に「田村には何も知らせる機会がなかった。この前家に来てくれたときも言いそびれた。広子、悪いがオレがどうなっても田村に言えなかったことをオレの代わりに君から説明してくれないか?」と言われました。私が田村さんにお電話して、いまのようなお話しをしたのはこのような事情です。幸い信田は生きていました。信田本人とじっくり積もるお話をしてください。私、家に帰って彼の着替えを取ってきますので、よろしくお願いしますね。しかし、広子はいつまで経っても帰って来なかった。
 広子から事の真相の概略を聞いて、ひどく驚いたが彼女の話の内実を辿って行けば、細い糸だが私を含めて信田をめぐる人間関係の全容が初めて一つに繋がったように私には思えた。じっくりと自分なりに広子から聞いた話の整理をしながら、病室の外の簡便なソファに座ってから数時間が過ぎた。時間は真夜中になっていた。夕食は病院の食堂で軽く済ませたが、何を食べたのか全く覚えていない。この時の私は、精神と身体がバラバラに分離していたように思う。
 午前2時になって、私は信田の様子を観るために病室に入った。彼は意識を取り戻していたが、意識がもどったのと引き換えに身体中の痛みで小刻みに身体が震えていた。私は信田の枕元の椅子にゆっくりと腰を降ろした。無残に叩きのめされ、腫れ上がった顔から何とか信田らしい痕跡が見てとれるのは、大げさでも何でもなく、彼の目もとだけであった。うめき声のように信田は、「よう、田村、来てくれたのか。」と口にするのがやっとだった。
(36)
―奥さんからすべてを聞いたよ。信田、オレにとっては何とも理解し難いバラついた君の像がやっと自分の中で繋がった気がする。何より君の存在を通して、自分の実像が明確に理解出来た気がしている。奥さんの話を聞いて、君が高校に転校して来たときに感じ取ったオレが君に対してある種畏敬の念を抱いたのもまんざらではなかったな、と思ったよ。
 私はその時、安堵感に満ちた笑みを浮かべていたように記憶する。
―田村、忙しいのに来てくれてありがとな。広子はいろいろ君に喋ったと思うが、多分、正確ではないね。オレの想像では出来過ぎた話に仕上がっていると感じるよ。田村、何故そうなっているか、分かるか?広子のプライドだよ。彼女のプライドが綺麗な物語に事実を創り変えているのは容易に想像がつく。ところで、田村、いま何時なんだ?
―午前2時を過ぎたところだ。
―広子は君にいろんなストーリーを語ってから、もどって来ないだろう?ずいぶん永く。それが彼女のプライドのなせる業だ。オレから事実をきちんと話すから、すまないが声があまり出ないので耳元で何とか聞きとってくれないか?
 と信田は言ったが、広子の話のままでいいではないか、そこに虚飾が混じっていたとしても、十分に信田、君の実情は分かったし、オレは自分に都合よく君を偶像視していたのだから、私にこそ君に謝らなくてはならないことが沢山あるんだ。信田、もうゆっくりと身体を休めてくれ、と心の中で私は念じた。が、同時に一体信田が何を語るのか、聞きたくて仕方がなかったことも偽らざる事実である。人間のエゴとは、いや、オレのエゴとはどこまでも尽きないのだな、と思うしか説明がつかないことだった。哲学的なエゴは<自我>の本質を指すものだろうが、私の裡なるエゴは下世話で身勝手な要素で満たされているのだろうと改めて実感させられた。信田がこんなオレを見棄てずにいてくれたことが奇跡だとも思ったのである。
―田村、君に最初に謝らなくてはいけないのは、オレの学生運動家としてのもう一つの顔を隠すための文学研究会に君を引き込んだことだ。広子の話ぶりは容易に想像がつくが、君が文学研究会の実体に無頓着だったことを、あたかも君の感性の鈍さゆえのことのように語ったに違いない。そう感じただろう?
そのことを前提にして話を続けると、文学研究会に君を誘った当初のオレは、君を隠れ蓑の要素の一つにするために利用した。その一方で、信じてもらえないだろうが、研究会を続けていくうちにオレは、君の純朴さを自分にないものとして心の底から認めるようになっていった。その意味でも、君はオレにとって大切な存在だったし、大げさに聞こえるだろうが、オレの心のオアシスだった。だって、人の純朴さなんて、すでにオレには無縁のものになってしまっていたんだからね。それに君の吸収力の早さと理解の深さには恐れ入った。学生運動のセクトの仲間は殆どが大学生、それも世間では優秀な大学の学生たちだったが、オレはすぐに頭角を現せた。夜間高校に鞍替えしてからは、セクトのかなり上の人間だった村中と競り合うことになったが、オレが勝った。村中にしてみればおもしろくないな。それにしても、彼らの誰よりも君が優れていると心底オレは思ったからね。正直に言っている。
村中が同じセクトの広子に惚れているのを知ってたオレは、敢えて広子をモノにしたよ。奴にグウの音も出ないようにしてやった。村中が広子を付け回していたのも事実だし、オレが彼女を東京に逃がしたのも本当だが、剥いた話をすれば、オレは広子を棄てたんだ。それでこそ、村中のプライドを折り曲げてやることになるからね。広子は多分、このあたりのことを綺麗に君に語ったと思うが、それが彼女のプライドたるゆえんだ。さらに言うとオレが広子の家の婿養子になったのは、君の京都のアパートに報告に行って、オレの話を聞いて君が感じたとおりのものだった。生活苦から逃れて、金のある生活者に安易になるために広子の気持ちを利用した。君が察したとおりだ。
―君は少々偽悪家だからな。オレは彼女の言ったことに共感したがね。信田、君は自分に厳しすぎるのではないのか?
―オレは死に直面させられたが、生き残って、なんだか清々しい気分だよ。偽悪家というのは自分を自分以上に悪しく創っているのだろう?いまのオレにはそういう要素もまったくない。田村に会いたいと広子に伝えさせたのは、もし万が一にも村中らのリンチの後、生き残ったら、君に誤魔化しのない自分を語れると思ったからだよ。誤魔化しのない自分を語りながら、そこに新たな誤魔化しが生じるのが人間の本性だと思うけれど、田村ならそんなウソも見抜けるだろう?だからそういうものを感じたら、差っ引いて聞いてほしい。これは田村にしか出来ないからなぁ。
―オレにはそんな能力も自信もない。でも、君がそこまで言うのなら、オレは心して君の話を聞く。それでいいな?
信田は、私の問いかけがまるで聞こえていないかのように話続けた。
―広子を東京に逃がすことは、勿論広子の考えとは全く相いれないものだったから、話が長引いて文学研究会に参加出来たのは、真夜中だったよな。オレは良子に惚れていたから、広子と別れるのは良子のためでもあると信じていた。けれど、良子は辛かっただろうね。君が月一くらいでオレのアパートにやって来る以外の殆どの時間は、バーのアルバイトの時間を除いてセクトの指導に明け暮れる毎日だったからね。良子はさぞかし寂しかったと思う。
新左翼という運動に見切りをつけたのは、世の中の仕組みがよく分かったからだよ。生活者を巻き込んだ運動を組んでいたつもりだが、日本の大半の日常生活者は、革命をすでに起こした国々とは比べ物にならないほど満たされていたというわけだ。一部の大金持ちを除いて、ある意味当時の日本は社会主義的ですらあった。だからこそ、オレは新左翼運動に見切りをつけた。自分のセクトも解散した。このあたりの話は広子がたぶん君に伝えたように、近いうちにセクト間どうしの小競り合いになり、無意味な殺し合いに発展しかねなかったからね。実際に何件かすでに事件になって、世間の非難を浴びてるな。政治運動というのは、内向きの権力抗争に明け暮れ始めたらもうダメだ。それがたとえ崇高な理念のもとにはじまったものであれ、失敗なんだよ。大衆運動が挫折するのは、運動の指導者が大衆の欲動を見限るからだ。生活者の稚拙であっても切実な要求に寄り添えず、それらを馬鹿にして切り捨てるからなんだよ。それに日本は原爆を二発も落とされても、アメリカさまさまだからね。アメリカがぶら下げた経済発展という飴の虜なんだ。こういう認識からすべての反権力闘争は出発したはずなんだけど、やはりオレも含めて理想主義に走り過ぎてしまう。社会主義や共産主義に属する国々も資本主義諸国とは違う意味で生活者としての国民を見棄てているからね。政治に理想というものを持ち込んだ途端に破綻する。これがオレのいまの考えだよ。正直、もう懲りたね。
村中って、表面上は夜間高校の教師だったろう?まあ地方公務員だ。国家行政の片棒を担ぐ役割のせいで、食うには困らなかったわけだから、オレが運動から抜けた後のリーダーのポジションを離したくなかったのだろう。まあ、生活者の余裕だよ。矛盾だらけだけど。それに広子への未練を執拗に持っていたからね。あいつのプライドを満たしてやるために、オレはあいつの学歴をくすぐっておけばよい、と思っていた。だからあいつはオレが大学受験を目指しているというウソに飛びついて、敢えて受験には不向きな洋書をオレに貸したわけだな。あいつはオレのウソが見抜けなかったし、その間は広子のことは守ってやれた。田村、この点は君にも心配をかけたね。君の心の叫びが聞こえてきそうだった。そんなやり方じゃあ、大学には受からないんだっていう、声がね。
―そうだったのか、あれは君のポーズだったのか。同時に良子さんの生活者としての安定願望を満たすためでもあったわけだな。
―良子だって、オレが大学に行くなんて信じてなかったと思うけどね、良子は少なくともオレの裏の顔を知ってはいた。だから、たとえ無駄な勉強であっても、大学には合格しなくても、いつかはまともな生活者になったオレとの結婚を望んでいたのかも知れないね。君が見たオレの勉強している姿は実は良子向けの安心材料としての演技だった。しかし、良子がいかに孤独で心細かったのかはオレの理解を超えていた。たぶん、目的は察していただろうが、オレが広子と出かけたことで、君への気持ちが高ぶったのだと思う。事実良子が君のことを好きだったのは分かっていたし、君の将来が、オレとは違って、盤石なものになるだろうと云うことも分かっていたからね。良子が君に惹かれたのも頷けるんだ。田村、オレたちはあの研究会で、人間の本質についてずいぶんと語り合ったよな。人間の崇高さとそれとは真逆の醜悪さとをいろんな角度から分析したよなあ。あれだよ、あそこにすべての解答がある。
 ここまでかなり信田は性急に語り、疲れたのかしばらく目を閉じ、頭の中を整理している様子だった。私は信田に水を含ませた。信田は静かにありがとうと言った。広子は夫の状態について具体的に何も語らなかったので、回診にきた医師に聞いてみて、本当に信田は危なかったのだ、と改めて思い知った。全身の打撲と数か所の骨折、内臓破裂だ。私は恐怖心でいっぱいになった。同時に信田と広子、広子の父親との関係性の危うさについても、広子の話を真に受けることは出来ないのだ、と確信した。
 医者の話では信田の症状が急変することはない、と聞いたので、とりあえず夜が明けたら家に帰ろうと思った。
(37)
 六甲道から三ノ宮駅にとって返し、そのままJRで京都駅まで帰ることにした。あらぬことか、私は電車の中で多恵に対する強い欲情に駆られたのである。多恵の汗にまみれた白い柔らかな肢体から溢れ出て来る愛液にまみれながら、多恵のヴァギナの奥深くに自分のペニスを挿入し、交接の行為を通じて多恵という女の存在を感じ取りたいと心の底から思うのだった。そういう想いの中で私は勃起した。それを隠すために膝にカバンを置いた。こんなふうに妻に会いたいと思ったのはこれが初めてのことだった。
 帰宅して出迎えてくれた多恵の口を吸い、乳房を揉みしだき、スカートの中の彼女の秘部に手を差し入れた。その時、すでに多恵は濡れていた。スカートの中に顔をこじ入れて多恵のクリトリスを舌で舐め上げた。彼女のうめき声とともに躰が崩れた。私たちは玄関で一度目の性交をし、互いの乱れた服を抱えて寝室に移動した。私は帰りの電車の中の妄想どおりの愛欲に溺れた。三度目に果てたとき、多恵はぼそっと死ぬかと思ったわ、と呟いた。その呟きを聞いた瞬時、ああ、オレは多恵と情死したいのだ、と思った。
(38)
 翌日、学校に出向くと、どういうわけか校長に昇進していた服部が声をかけてきた。普通、昇進した際は、勤務校をかわるのだが、服部は現在の高校が進学校であり、自分が校長になってさらに進学率を上げることで、教育委員会への出世の道程が早まることを思い描いていたのだ。服部が私に声をかけてきたのは単なる思い付きか偶然だ。あるいはご機嫌がよかったのだろう。彼は上ずった声で言った。
―田村くん、そろそろ子どもをつくらないとね。いいご家庭になりますよ。
 服部のその言葉を聞いたとき、自分の中に殺意が駆け巡った。よくもそんな能天気なことが言えたものだ。オレに自分の女を押しつけて、さぞかしおぞましい想像力を発揮しているのだろう。抑え込んでいた感情が爆発した。気がつくと、私はたいした腕力もないのに、服部の顔面に何発もパンチを喰らわしていたのである。馬乗りになり、誰かに止められるまで、数十発はただ顔面だけを殴り続けた。服部の顔はみるみるうちに腫れ上がり、いくつもの裂傷が顔面のあちこちに走り、口から唾液の混じった血が止めどなく流れていた。不思議なことに私は、服部に対するいかなる言葉もなく、ただ沈黙の中で殴り続けたのだ。最後は警察が呼ばれ、止められたが、私は殴った理由を言うことはなかった。当然のことだ。
 服部が私を訴えることはなかった。もし、訴えられ大事になっても、私は黙したまま教師を辞めるつもりでいたが、服部はそうは考えなかったようだ。服部の怖れが、私を教師という職業に繋ぎとめた。とは言え、服部は暴力的な部下を許し、私はキレやすい危ない教師だという烙印をおされたまま、勤務校を替えられた。
いずれにしても、私は服部に嵌められた人間であり、当時の教頭だった服部から紹介された多恵と結婚にこぎつければ、上を目指せるなどという粗野な野心を持ったのである。そして、欲得づくでしか物事を考えられない卑しい服部が、多恵に対して、誇大な自分に対する愛という幻想を与えてしまったのである。何より、その多恵を私が心底愛しはじめていたことが、服部を完膚なきまで叩きのめした主な原因であることに思い至ったとき、私は自分の生き方を根底から変えることが出来たと思ったのだろう。多恵の心がどこにあろうと、私は目の前の多恵を愛し抜くと覚悟を決めたのである。
(39)
 転勤後、一年が過ぎた頃、服部は出世街道をまっしぐらに駆け上がったと風の噂に聞いた。そして、教育委員会の役員になって、多方面からの接待続きだったようだ。これこそが、服部が夢にまで見た地位だっのであろう。祇園の料亭で接待を受けることが多く、自分の金を使うことなく贅沢三昧をしていたとも聞く。
ある日の夜遅く、いつものように服部はしこたま酒を飲み、帰りにお連れの人間たちと別れたとき、チンピラらしき男に突き当たり、謝ればいいのに酔った勢いでめったに使わない言葉を吐いたのだそうだ。するとその男は持っていたナイフで服部をめった刺しにして逃げたという。殆ど即死だと新聞の報道や、同業者から入って来る情報で分かった。目撃者は数人いたそうだが、刺した犯人らしき男は、すばやくその場を立ち去り結局服部は文字通り犬死同然にこの世を去った。この事態を知ったとき、自分は因果応報などという概念を信じない人間だったが、放った悪しき矢は結局自分に返って来るのかも知れないと思った。私自身の心の傷があまりに大きかったせいか、私は想像以上に冷静で、ひどく醒めた観想を言えば、本当はオレが服部という男を殺したかったのだ、と心の奥底で思い知ったのである。
服部の葬儀は、立場上大規模なものだったそうだ。私は出席しなかったが、私は東京に出張中のことで、妻の多恵がどうしたのかは定かではない。私の直感だが、多恵は葬儀に参加したのではないか、と思う。しかし、その頃の私にはそんなことはもうどうでもよくなっていることに気づいていた。人は憎悪の対象を失えば、おかしなことに大切な人を失ったのと同様に喪失感を味わう。間尺に合わないことだが、これが私の裡に起こった心的変化であった。
多恵に対する情欲の炎(ほむら)は、急速に冷えた。多恵に対する愛情は変わることはない。が、私の常軌を逸した多恵に対する性的執着心は、服部に対する怨念の裏返しでもあったことを認めざるを得なかった。私たち夫婦の性的関係性から異常さが消えた。
(40)
 服部の事件以降ほぼ一年がまた過ぎ去った頃、真夜中に電話があった。多恵は眠りに落ちていたので、電話には私自身が出た。受話器から聞こえて来る声には聞き覚えがあった。声の主は田中広子だった。
―こんな時間に非常識だとは分かっていたのに、田村さんにしか聞いてもらえないので電話してしまいました。ほんとにごめんなさい。
 消え入りそうな声が、田中広子には似つかわしくなかった。
―そんなことは構わないけれど、広子さんが電話して来るなんて、信田が入院して以来だから、何か大きな事が起こったんだね。大丈夫ですか?
―信田がね、離婚届けの必要事項を埋めて署名、捺印して家を出て行ってしまったの。知らない間に。私たちの間にはいろいろな出来事が邪魔をしてうまく行っていないことは信田から聞いて知ってますね?本当は、彼は私の父との折り合いもよくなかったし、要は私たち親娘が彼を腐らしたのだ、と思います。離婚には応じるつもりですけど、私が心配しているのは、信田が良子さんと逃げたことなの。良子さん、旦那様との間にお子さんが一人いらっしゃるのに、子どもを置いて二人して逃避行よ。まいったわ。喋るうちに以前の広子らしい語り口調になっていた。
―広子さん、私に何をしてほしい?何でもするから言ってほしい。二人がいる場所は大体だけど分かる。千葉の木更津から信田らしいハガキが来ていたから。でも、彼はいつも最後まで住所を書かないから、木更津としか特定出来ないんだよ。
―木更津かぁー。何でそんなところに行ったのかしら?
―僕にも心当たりがない。僕の方から信田に便りを出すことは不可能だし、次の便りを待ってみるしかないね。ヒントがあるかも知れないから。
―田村さんには知っておいてほしいのだけれど、私、この際ホントに離婚に応じます。幸い、父の会社もいまたたんでしまえば少しは資金が残るし、この屋敷を売り払ったお金を足して、神戸の適当な場所にお洋服のお店を出そうかと。私、東京で劇団の仕事をしばらくやっていたときに、裏方でね、劇団員の衣装担当だったのよ。その経験が生きると思うの。お店の場所が決まったらお知らせしますから、田村さん、一度顔を出してくださいね。
そう言うと電話は切れた。
 すでに広子は次の生き方を考えていた。そこに信田の姿は一切なかったのである。何年にも渡る信田の結婚生活は終わったのだ。私の独身時代に住んでいたアパートに、彼独特の左肩を少し下げ気味にして立って待ってくれていた姿が、昨日のことのように私の頭の中を掠めて通り過ぎた。私は、あの時、恥ずかしそうに自分の結婚話を語ってくれた信田の、照れ笑いを思い浮かべると、哀しみと微笑ましさとが入り交じった複雑な表情を思い起こしていた。信田、木更津でもどこでもいいから、もう一度良子とやり直せるものなら、がんばってくれ。君は絶対に人を頼らぬ人だから、何も頼み事などして来ないのだろうが、出来ることなら、それを私には遠慮なくそうしてほしい。出来ることは何でもする。二人とも私にとっては大事な人だから。電話の後、私は一睡も出来ず翌朝を迎えた。
(41)
 あれから一体何年が経ったのだろうか?気の遠くなるような年月が過ぎたように思えてならない。信田との音信は途絶えたままだったが、良子と神戸を逃げ出してから、5年ほどして良子は神戸にもどってきた。良子本人からの手紙でそのことを知った。手紙の内容はこうだった。
「私は両親の影響もあってか、心のどこかで安全で、安定した生活のあり方を望んでいました。そんな私の前に現れたのが信田幹雄さんという、私の個性に、そして私の人生そのものに大きな化学反応を起こさせた男性の登場でした。彼の他者を惹きつけて止まない個性は、田村さん、あなたならよくお分かりでしょう。同時に、田村さん、あなたも私にとって、落ち着いた生活を与えてくれるであろう、特別な男性でした。
私は幹雄さんに人生観の根底を揺さぶられる一方で、あなたに対して私をもとの私にもどしてくれるだろう人として、あなたに対する気持ちを心に秘めていました。愛のカタチにはいろいろあるのでしょうが、幹雄さんに対する愛も、あなたに対する愛も私にとっては大切なものでした。
一度だけ、あなたと幹雄さんのアパートで愛し合いましたね。あの時のあなたには、私が広子さんに対する当てつけにあなたを利用したのではないか、と思えたことでしょう。でも、それは違います。広子さんも幹雄さんも極左運動に加担している人でしたし、私もこわごわですが、お二人のお手伝いを何度かしたことがあります。だから、あの日、幹雄さんと広子さんが一緒に出掛けた理由はよく存じていました。勿論、広子さんに女として嫉妬心がなかったかと問われれば、確かにあったと思います。それでもあの時は、広子さんの命に関わる問題でしたので、二人の帰りが遅かったことで、あなたと愛し合ったのではありませんでした。私にとっては、あなたにこそ救ってほしい、そして愛してほしい、と思えるほど、あなたを愛していたのです。広子さんを幹雄さんが東京に逃がした後、幹雄さんの強すぎる吸引力に抗うことなど出来ませんでした。彼と夫婦ごっこのような生活をはじめたとき、どれだけあなたをがっかりさせたことか、また、あなたが幹雄さんに対してどれだけ大きな良心の呵責を覚えたことか、よく分かります。あなたにはいくら謝っても自分の罪深さを贖うことなど出来ないと思っています。本当にごめんなさい。
その後、私は会社の同僚と結婚し、あなたも結婚なさいました。幹雄さんが広子さんの家に入ったのは、私に対して絶望したからだと思います。ご承知のように幹雄さんは正義感の強すぎる人でしたから、敢えて村中さんたちのリンチを受けることで広子さんを救ったのだと思います。自己弁護になりますが、私も広子さんも生活者としての女の立ち位置から逃れられなかったのです。幹雄さんの純粋な真心を結局は裏切ることになってしまいました。
幹雄さんが広子さんと離婚したことを広子さんから聞くに及び、私から幹雄さんに連絡しました。そして私は一旦築いた家庭を壊して、幹雄さんについて行こうと決心しました。浅ましい生活者としての女であることを棄てようとしたのです。5年がんばりました。結果はこの手紙を田村さんに書いているように、彼のもとを去り、神戸に舞い戻りました。もとの主人が子どもを引き取り、再婚して子どもはすくすくと育っているようです。私は両親のもとにもどり、これまでの罪滅ぼしと云ってはなんですが、両親の面倒を見て暮らすことにしました。
幹雄さんは、この5年間よくしてくれました。そして私の本質を誰よりも見抜いている人でした。私にもとの生活にもどれ、と言ってくれたのは彼の方です。そして、もとの生活と言っても簡単ではないぞ。君は子どもも棄てた。もとの旦那は再婚しているだろうし、子どもにも相手にされない。そのことを受け入れるなら、オレは良子、君をもとの生活者にもどしてやるよ。オレと一緒にいてもロクなことにはならない。もう無理をしなくていい。最後に幹雄さんと別れたのは姫路です。意外に近いところにいたでしょう?木更津から転々として辿り着いたのが姫路でした。たぶん、幹雄さんはまたどこかに行ってしまったと思います。
私といる間、ずっと田村さんのことを彼は心配していました。私には理由は知らせてはくれませんでしたが、服部伸郎さんという名前はよく口にしていて、あいつがいる限り、田村は幸せになれない。服部は広子を追い回した村中以上にタチが悪い。あいつは必ず田村の女房に手を出すからな。こういう言葉だけが私の脳裏に焼き付いています。そのうち、幹雄さんからあなたに便りがあることと感じます。あなたが唯一の幹雄さんの理解者です。また、幹雄さんも田村さん、あなたの唯一の理解者ではないでしょうか。長々と書いてしまいました。あなたの心の中に引っかかっていることが、これで大体は氷解したと思います。陰ながら田村さんのご多幸をお祈りしています。良子より。」
これが良子からの手紙の全容である。私の結婚について、特に服部伸郎について、信田が気にかけていてくれたことを頼もしく思えると同時に、自分の心の奥深いところでざわつく感情を拭い去ることが出来なかった。
(41)
 入院が長引くと、さすがに検査入院だと思えなくなったようで、多恵も担当医に私の病状を聞くことになったようである。世間では老後の楽しみなどと言うが、そもそも老後とはなんだ?老いた後に来るものは死以外の何ものでもないではないか?そして、このオレもご多分に漏れず、残り少ない老後を生きて、自分の死と向き合っているのだな、と意味のない言葉遊びをしていると、多恵が病室に入って来た。
死が近づくと、相部屋から個室に移される。まるで儀式のように、である。しかし、オレにはちょうどよい。初冬の、澄んだ空気と、時折舞い散る粉雪が病室から見える鴨川をより美しく見せている。枯れた日本画を毎日見られるというのだから、なかなかおつなものである。65年が長いのか短いのか?日本人の平均寿命からすると短すぎるということになるらしいが、平均寿命ほど馬鹿げた指標はないな、と文男は想う。要は個々人がどう生きたかという満足感か、諦念なのかは分からないが、人の生き死とは主観主義の極致だ。その意味では、オレは自分の死期を静かに受け入れたいと心から思っている。
治療をまったく放棄するというのは、かえって生に対する裏返しのような執念とも感じとれるので、抗がん剤は拒否したが、放射線治療だけは受けることにした。多恵に後悔させぬためにそうすることに決めたのである。せめて放射線治療だけは受けてください、という妻の願いを拒否するのも、この場に至っては諦めが悪く感じられるからでもあった。多恵も私の死を受け入れるだけの心の準備をする時間が必要なのだ、と思う。この歳になると己の死も自分の意のままにはならないと云うことらしい。だが、私は幸せな人生の終焉を迎えているのだ、と云う想いの中で死んでいけるのである。これでよかった、と心底想う。私は、冬の鴨川の流れを眺めながら、そして多恵の甲斐甲斐しい姿を見ながら、さらに言うならば、信田から最後に来た、もうかなり赤茶けた長い手紙を読み返すことが出来るのである。これでいい。もうこれ以上は望むことはない、と心の中で思いながら多恵に微笑みかけるのだった。
(42)
 信田からの最後の手紙である。
 「田村、君とは長い付き合いになる。私が転学してきたときに最初に声をかけてくれた時の私の喜びに君は気づいていたか?父が死に、幼い妹と一緒に私たちを棄てた母親を頼って神戸に来た。もっと正確に言うと母親という幻想に頼って、という方がその頃の私の心境に近い。予想どおり、久々に会った母は、自分の幼い頃の記憶の中の母ではなかった。君にも話したと思うが、再婚相手はタクシーの運転手で、別にタクシー運転手がみなそうだなどという偏見はないが、彼は銭金にうるさい特別嫉妬心の強い男だった。子どもに対する母性にも自分をないがしろにする侮蔑の対象としか思えなかったようだ。母の外見上の変貌ぶりは目を覆いたくなるばかりだったが、彼女の苦悩はよく理解出来た。それで、私は幼い妹だけを母に託し、その家を出た。恥ずかしいことを言うようだが、その時の私は孤独だった。
 学校の勉学にも身が入らなかったので、授業を聞いているフリをして、とりとめもない詩のようなものをノートに書き留めていた私に興味を抱いてくれたのが君だった。冷静さを装っていたが、その実、私は飛び上がらんばかりに嬉しかった。そして君はその時から生涯の友になった。
 君を学生運動に誘わなかったのは、あの運動がいずれは醜悪な終わり方をするのが分かっていたからだ。私は少々ヤケになっていて、高慢ちきな大学生たちが主導権を握っている運動母体の指導者になってやる、と思った。そもそも私にはあの運動に対する見通しもなければ、意義も理解し難かった。理由は前に私が村中たちにリンチをくらったときに、見舞いに来てくれた病室で君に話した通りだ。
 私と良子、広子を巡るゴタゴタは、君が認識しているとおりだ。広子には罪の意識を感じることはないが、良子は、せっかく自分の価値観に沿う家庭をつくったのに、私はそれをぶっ壊してしまった。そうしたくはなかったが、彼女への愛が自分の理性を超えてしまった。良子には失わせるものが大きすぎた。この手紙を書いているいまでも私の大いなる罪だと思っている。
 唐突だが、君に知っておいてほしいことがある。君に伝えようかどうかかなり逡巡した末、やはり私が仕出かしたことであれ、君が想像だに出来ない悪しき影響があってはならないと思い、敢えて書き置くことにした。私は警察に捕まろうと構わないが、君にあらぬ共謀罪の疑いがかかるといけない。それに君の奥さんも君を憎むかも知れない。少なくともそういう可能性はある。
私から言えた義理ではないが、次に書くことは墓まで持って行ってくれるとありがたい。が、これを警察に差し出すのも君が無関係だという明らかな証拠になる。どちらでもよい。
 君が結婚した経緯はずっと前に聞いた。そして、君という人間を侮蔑した服部伸郎という腐った輩についても私なりに調べ上げた。服部が教育委員会のかなり上のポジションになり上がってしまったとき、あの男が君の奥さんを放っておくはずがないと私は確信した。あの男が生きている限り、君たち夫婦の未来は不安定そのものだ、と私は思った。ここまで書けば、私が君に何を伝えたいのか察しがついたことだろう。そうだ、あの男を葬ったのはこの私だ。私ごときに人を葬る権利はないが、田村、君の未来をあんなゲスな男に掻き回されるのは、私には堪らなかった。君のためにやったなどとは言わない。私が、自分で判断し、実行したことだ。これが服部伸郎を私が殺した全容だ。これを聞いてどうするのかはあくまで君にゆだねる。
 田村、私はまだまだ酔っぱらったように生きていける。それが娑婆であろうと拘置所であろうと。もう会うことはなかろうが、私の人生に意味があったとするなら、それは君に出会えたことだ。いや、君が私を見つけてくれたことだ。心から感謝している。君には奥さんとずっとずっと永く生き抜いてほしい。それが私の願いだ。」
(43)
 自分の体調から判断すると、私はたぶん明日にはこの世界から去ることになるだろうが、抗がん剤治療をやらなかったお陰で、心も身体も緩やかに死を迎える準備をしているのを実感出来る。今日は夕暮れ時の景色が美しかった。65歳の人生の終焉だ。これでよかったと心底想う。信田にはもっと永く生きてほしい。そして、少しは自分に甘くなった晩年を送ってほしい。信田からの最後の手紙は数日前に処分しておいた。手紙は処分したが、信田、君の気持ちも君のイメージも私の心に深く刻まれている。こうして死ぬのだから、思い残すことなど何もない。妻には私亡き後の人生をまずまず余裕を持って生きていけるようにしておいた。
眠くなってきた。このまま眠ってしまえば、もう目覚めることはない、と感じる。妻は売店に買い物に行っている。死ぬときは独りなんだな、と改めて痛切に想う。カルぺ・ディアムのラテン語の意味を、信田、君が教えてくれた、「いまを生きろ!」という意味だったと記憶しているが、私なりに少し付け足しておきたい。「いまを生き、いまを死ぬのだ。」と。田村文男は、信田に語りかけるように頭の中で言葉を紡ぎ、そして静かに目を閉じた。田村の永遠の眠りと世界とは何の関係もなかったかのように、やはり存在し続けるのだろう。田村の死に顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
―完―

エレジー

2021-09-03 17:13:58 | 文学・哲学
エレジー                                                          小田 晃
(1)
田村文男は、歳を重ねるにつれて深い憂鬱に襲われことがおおくなった。この数年間特にそうだ。夜は殆ど眠れない。どうやら生きていくための基本的な心身の仕組みに本格的なガタが来ているようだ。騙し騙しやって来たが、医者の意見も聞いておくか、と文男にしては珍しく総合病院の門をくぐった。
問診の後、MRIの検査をするというので、何だか大げさなことになってきたな、という想いと同時に、何やら嫌な予感めいたものが頭の中を駆け巡った。何時間か待たされて、その日のうちに検査結果が出るのだという。昨今は随分と医療も進んだものだ、と感心して診察室に入ったら、担当医はそれが患者にとっては気が楽だと謂わんばかりの、気楽な態度で癌宣告をしてくれたのだった。肝臓がんのステージ4だというではないか。抗癌剤は信用していなかったが、何しろ手術では患部をとり切れないほどがん組織は肥大しているのだとも説明された。疲れやすかったり、食事の後もどしたりしませんでしたか?と聞かれたが、疲れやすいのは自分に向かない仕事を永年やってきた結果の体調の不具合だと思っていたし、嘔吐しそうになると、市販の胃薬で何とか抑え込んで来たわけで、まさか残された日々もそれほどない、と聞かされたのは予想外のことだった。しかし、翻って考えてみると、これから先の人生、永く生きても歓びが感じられるようには思えなかったので、やっと休めるのか、という安堵完に似た感覚が襲ってきたのも否定出来ない事実だった。
 とは言え、どうせ人間は死を免れることなど絶対にないのだし、また、いつ死を迎えるにしても満足してこの世を去るなどというのは、そうでも自分に言い聞かせないと死を受け入れることが出来ないのだろうと常に考えて来たが、自分の身体の中で癌細胞が増殖しているのを想像すると気持ちのよいものではなかった。自分の命の確実な終焉と対峙してみると、これが意外に冷静に受け止められず、妙に心がざわつくのである。そうかと言って、特に慌てふためくような心境でもない。自分が人並み優れた特別な感覚を持った人間ではないのだから、きっと癌告知された多くの患者が抱く、これが平凡な感情なのかも知れないと、フッとため息をつきながら文男は想う。これまで自分を生かしてくれた数々の出来事や出会った貴重な人間たちがいなければ、いまのような冷徹な自己分析は到底出来なかったことだろう。自分の本性がどれほど凡庸なものかを知ったのは、掛け替えのない人々と過ごした日々からである。それは文男にとってありがたく、同時に酷薄なことでもあった。
今年は冬の到来が早く、小雨と交じり合った粉雪がすでに舞っている。やはりこの歳になると寒さが堪えるなと、大学病院からの帰りの道すがら、コートの襟を立てながら文男は独り言ちるのであった。
(2)
 妻には胃腸炎だとウソをついた。自分には妻の多恵を心配させまいとか、行けるところまで自分のウソをつき通そうと云う固い信念があったわけではない。それよりも末期癌だと妻に告げて右往左往されるのが面倒だな、という気分がその時の文男の正直な気持ちだった。そしてさらに言うなら、自分と多恵との関わりのあり方が、妻に心配をかけまいとする平凡な夫として、文男に素直に病状を言わせなかったのかも知れない。
文男は60歳定年を延長して非常勤講師として、京都の府立高校に勤めてきた国語の教師だった。気がつけば65歳になっていた。年が明ければリタイアしてずっと考えてきたことでもやるか、と思っていたが、どうやらそれもままならなくなった。
自分が何故教職の道を選んだのかは、親の影響が大きかったと思う。両親ともに教師で、自分も何となく京都の教育大学に籍を置き、生まれ育った神戸に帰るのも億劫で京都に居座るカタチでの教員生活だった。年が明けて仕事をリタイアしたら自分の青年期を過ごした故郷の神戸に帰って人生をスローに生きてみようと思っていたが、自分にはもうそれほどの時間が残されていないことを突き付けられたわけである。
―永くて数か月後にはオレはこの世界から去るのである。
そう思うと、自分に残された時間をどのように完結させればいいのか途方にくれた。妻との長年に及ぶ夫婦生活にも想いを馳せたが、何故かこの場に至って、結婚当初の混乱した妻に対する屈折した愛も、年月の流れとともに成熟し、静やかなものに変化していたのに、どうしても素直になれない自分が執拗に居座っているのが分かる。
いま、人間どうしの関係性も、死がすべての終わりなのだ、と云う酷薄な事実を再認識させられている。だからこそ、死を目前にすれば、改めて思い返すこともたくさんあるはずだと思っていたが、人間の脳髄に張り付いて剥がれない記憶なんてたいして残っていないことや、何が重要で何がどうでもいいことなのかも区別がついていないことに文男は改めて思い至るのだった。そのような想いの中で、記憶の断片としてでも明らかに自分に影響を与えていることは一体どのようなものなのかを文男は改めて考えてみることにした。
妻はいつもと同じ日常生活の中で、キッチンで夕食の準備に余念がない。いま、自分の脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶあの過去の出来事を妻は忘れ去ってしまったのか?言い知れぬ違和感の中で、いまの落ち着きはらった日常生活に対して私は空虚感とも絶望感とも云える感情を抱かずにはいられない。しかし、穏やかな生活のルーティーンが、あたかも医者に宣告された癌告知などなかったかのような錯覚さえ抱かせる。そして、自分のいまは過去と何の関係もなく在るのかも知れないとも感じるのであった。日常生活とはかくも不可思議なものだと、ぼんやりテレビを観るともなく眺めながら、自分と妻に起こったこと、自分の蒼き青春の頃の出来事に想いを馳せた。
(3)
 文男が神戸の進学校と云うことになっている高校に入学した1969年の日本は、安保改定闘争の真っ只中だった。確かに高校にも政治的な波が押し寄せて来てはいた。極左(当時もいまも何が極左なのか文男には分からなかったし、そもそも政治的運動に大した興味を抱けなかった。旧左翼の民青との比較論で極左と言うのであれば、それも違う気がしていた)を標榜する大学生たちが高校生をそそのかし、学校内は無法地帯に近い状態だった。あるいは真空地帯のごとき様相を呈していたと言っても過言ではなかった。しかし、神戸の進学校に属する公立高校に入った文男にとって、もし、この種の混乱が起こらなかったら、毎日の学校生活は退屈で時間の浪費にしか感じ取れないものに思えたことだろう。
 高校一年生になって、そろそろ秋の兆しが訪れようとしている二学期の初めに、一人の転校生が文男のクラスに入って来た。担任が紹介している間、信田幹雄は、教壇にすっくと立っているが、それが癖なのか、左肩を少し下げているのがやけに文男の印象に残った。信田は手短に、目立たぬ自己紹介をした。彼は背が高く、スラっとしてはいるが、よく鍛えられた筋肉質な躰であることはすぐに見てとれた。なかなかの美男子でもあった。文男はえらいのがやって来たなと、理由もなく身構えた。たぶん、この時から文男は幹男から受けることになる言い知れぬ程大きな影響力の予感を無意識に感じ取っていたのかも知れない。
(4)
青少年期を過ごした神戸の下町の、特筆すべき特徴のない、その当時のありふれた街並みや、自分が市電に毎日乗って通学していたことがつまらない記憶として思い出される。あるいは高一の頃に同じ市電に途中から乗ってくる二つ年上の、同じ学校の女生徒に夢中になっていたことも理由など分からないが記憶の断片として蘇って来るのが不思議だった。
文男の目の前に立っている彼女のスカートが市電の揺れに伴って動く度に、彼女のスカートのヒダの中に顔を埋めていたい衝動を捉われていたような妄想が、文男にとって重要ないくつかの重要ないくつかの出来事と入り混じって思い出されるのが、不可思議としか言いようがなかった。このような記憶の混濁とも云えることが蘇って来ることに何とも情けない自分の本質を視る想いがする。とは言え、この種の出来事は、文男がまだ自分に人並み以上に優れた能力があると錯誤していた頃の淡い思い出の断片である。
 決まり切ったことを、多少の気分的な変動があるにしても、それなりに決まりきった学校のカリキュラムに沿ってこなしていけば、大学には進学出来るものだろう。もし、受験勉強に努力という概念が入り込むとすれば、それはありきたりの検定教科書を授業という場面で、教師から意味もなく無理やり聞かされる退屈な日々の<儀式>を耐え抜くことではないか、と利発な文男は感じ取っていたのである。こういうことを見抜いている自分は結構鋭敏な頭脳を持っていると自負していたフシさえある。ただし、この種の手前味噌な自己満足も幸か不幸か、信田幹雄が文男の人生の中に登場してから全て打ち砕かれることになるのである。
 ある日の退屈な数学の授業中の出来事は、いまでも鮮明に覚えている。教科書の数式の説明を板書しながら、のっぺりとした時間(としか感じられなかった)の中を数学教師の声が支配していた退屈な感情を押し殺せず、文男はノートをとるフリをしながら教室のまわりをぼんやり眺めまわした。
 その時、斜め後ろの信田幹雄の姿が視界の中に入った。信田は机に向かってノートをとっているのかと思いきや、彼の鉛筆の動きの速度がみんなとはまったく違うことに気がついた。ともかく手の動きがゆっくり過ぎるのだ。到底授業の板書をしているようには思えない。ゆっくり、ゆったりと何かをノートに書きつけているように文男には見えた。それからは信田の授業態度に釘付けになった。授業が替わっても信田の鉛筆の速度はまったく変わるところがなかったのである。
(5)
 午前中の授業が終わり、メニューは麺類とカレーしかない粗末な学食で信田の姿を見つけると、文男は思い切ってカレーを食べている信田の前に座った。天ぷらそばとキツネそばをテーブルに置いた。文男の昼食はいつもこれだった。天ぷらそばを食べ終わると、残ったつゆをキツネそばにかけて食す。少なくとも行儀の悪いこの食べ方が当時は絶妙のそば通の食し方だと文男は勝手に思っていた。
―君はおもしろい食べ方をするんだなあ。いやー、実におもしろいな。
信田の言葉のイントネーションは、九州訛りが混じった関西弁だが、それが文男にはかえって新鮮で心そそられた。
―君、信田くんだったよな?オレは田村文男。ここのカレーまずいやろう?
―君のダブルそば食いね。明日から僕もやってみるよ。確かにカレーはうまくはないな。
 たぶん、これが信田幹雄と語った初めてのありふれた会話だったと思う。この時以降、文男と信田幹雄とは特別な関係になった。友人というのではない。文男にとって幹雄を友人と呼ぶには自分があまりに幼いのではないか、といつも思い知らされるからだった。信田は高校一年生にして、圧倒的なおとなの男だった。文男には未体験の世間の空気を躰全体に纏っている存在だった。対等な関係の友人関係になりたかったが、そんな関係性を信田自身が望んでいないのではないか、と文男は勝手に思い込んでいたのである。自分に出来ることは、信田が授業中に書いていることを誰にも邪魔させないことだ、と心に決めた。どこかで自分の、この特別な想いが信田に通じるのではないか、と信じたかったのかも知れない。幸い自分がクラス委員長だ。教師が信田に目をつけたら自分なりの抵抗を、彼のためにしてやらねばならないと心の底で固く誓っていることに気づき驚いた。
(6)
  高一の秋頃から、私たちは互いに<信田>、<おまえ>と呼び合うようになった。私のことを信田が<おまえ>と呼んでもそれが身分的な上下関係だとは思えなかった。たぶん、信田の生まれ育った筑豊の地では男どうしの気心の知れた仲間は、オレ、おまえと呼ぶ習わしのようなものがあったのだろう。信田は私たちの関係性が深まるにつれ、自分のことを僕とは言わず、オレと言うようになり、私は信田のことをおまえとは呼べず、信田と呼ぶのが習わしのようになっていたのである。それだけ彼は私にとって圧倒的な存在だったのだと思う。どの一部分を切り取っても信田にかなう要素は私にはなかった。
1970年は、私たちの高校でも授業が数か月もストップし、たまに教師が授業のために教室にやって来ても、大学から入り込んだ偽高校生が中心になって「なんのために退屈な授業をここにやりに来ているのか、その理由をおまえの過去の総括を含めて述べてから授業をすべきだろう!」というような、いま思い出せば噴飯ものの暴論がまかり通っていた。しかし、こんな馬鹿げた挑発を怖がり、教師たちはすごすごと教員室に引き上げて行ったのである。想えばおかしな時代だったと思う。
 信田と私は、運動場で全校集会が行われている途中から学校を抜け出して、学校付近の商店街にあった喫茶店で駄弁ったことが始まりで、信田は自分のことを大人びた調子でかなり詳細に語るようになった。学校を抜け出すことが当たり前の時代であり、現代の学生たちが真面目に授業や講義を受けていることと比較すると、たぶんあの当時の出来事の殆どすべてが現代の若者には想像出来ないことだ、と思う。
時代が高揚していた状況の中においても学生運動は徐々に沈静化して行った。しかし、信田と私の喫茶店通いは変わることなく続いたのであった。
(7)
 信田幹雄が神戸の高校に転学してきたのは、母を頼り、妹を連れて夜行列車でこちらに来たからだ。信田の実の父親は筑豊炭田が日本の経済を底支えしている時代から、炭鉱で働く男たちが通う遊郭の一つを経営していた。当時はかなり裕福な生活だったと云う。色街で育った信田が大人びた空気を帯びたのは、幼い頃から性を紡ぐ女たちに囲まれて育った環境ゆえだったのではないかと思う。
 信田が生まれた1953年には、筑豊炭田という日本最大の炭鉱町もそろそろ斜陽の時期に入りかけていた頃である。彼が小学校に入るのを境に、石炭産出第一位を北海道の石狩炭田に譲り渡す環境下にあった。筑豊炭田の衰退と伴に徐々に炭鉱労働者たちが筑豊地方から去り、信田の父親が経営する遊郭も衰退していった。信田が中学生になったときに両親が離婚し、母親は自分が生まれ育った神戸に子どもを残して独り越して行った。父親は商売が傾くにつれて酒浸りになり、遊郭を閉めると間もなく自死したのだと聞かされた。1969年に信田が妹を連れて、母親を頼って神戸にやってきたのは父親の葬儀の後すぐだったそうだ。
 神戸の市営住宅に住んでいた母親はすでに再婚しており、相手はタクシー運転手だった。信田から聞いたのは、義父とは最初から折り合いが悪かったということである。
時代的な背景があったにせよ、私が文学や哲学の裾野に分け入ったのは信田の舌を巻くほどの読書量の影響からである。当時の私は信田の読んでいる本を片っ端から真似て読んだ。理解不能な内容が殆どだったが、本の中のキーワードを拾い上げては信田の話に合わせようと必死だったのである。要するに私はエセ読書家だったと言わざるを得ない。彼との話が少しでも噛み合うように私なりに頑張っただけである。信田に対抗心を燃やしたわけではない。正確に言うと、私は信田の使う言葉や、左肩を少し下げてぎこちなく歩く姿が好きだったのだ、と思う。私があんな男になりたいと云う憧憬の的が信田幹雄だった、と今更ながら思うのである。
(8)
 1970年が終わろうとしていた。学生運動も急速に下火になり、訳の分からない熱気に翻弄された多くの同級生たちが単位未終了のために高校を退学していった。授業時間が足りないことを理由に、留年か退学かの選択を迫られた末の出来事である。信田も高校一年で退学してしまった。彼の場合は学生運動の影響というよりも、むしろ義父との折り合いが悪く、家を出たことで自分で食い扶持を稼がなくてはならなくなったからだと聞かされたが、私にはどこか腑に落ちないものがあった。
私の通っていた高校は、夜間高校と校舎を共用していた。信田は、夜間高校に通うことになり、私と彼との奇妙な関係性はやはり続いていたのである。信田は真夜中にバーテンダーのバイトをしながら生活し、昼頃起きて、夕暮れ時に学校にやって来た。信田とすれ違い、短い会話を交わした後、一旦帰宅し、退屈な宿題を済ませて彼のアパートに通うという私なりの日々が続くことになる。
(9)
 信田は大人びては見えるが、私にはあどけなさが消えない好青年だった。バーテンダーの仕事もソツなくやれたのだろうし、生活も大人のそれと変わらぬ賃金でまかなえていたように思える。その意味でも彼はますます私には追いつけない男になっていった。彼の文学的才能と彼が直面している現実とがどのように両立しているのか、実際のところ文男には謎であった。しかし、文男には信田という男は謎のままにしておくのが似合っていると思えた。
 信田が退学してからも、彼のアパートに出入りしていたのは勿論私だけではない。男女含めて、十人くらいは常時居ただろうか、と記憶している。その中で、どうしても私の記憶から抜け落ちない女性が二人いた。理由は私が憧れていた女性だったからである。一人は文学少女(もはやこういう単語はいまや死語だろうが)の早田良子、もう一人は演劇部の田中広子、という、私には近づくことさえ叶わず、話しかけることも出来なかった二人だった。早田良子はシンプルだが、いつもセンスのいい服装だったし、同時に肉感的な魅力を備えた女性だった。田中広子はスラリとした美人で、大人びた服装をうまく着こなしていた。学校では、個別に二人とばったり顔を合わせることはあったが、女どうしは互いに牽制し合っていたのか、信田の安アパートで出会ってもどこかぎこちない空気が漂っていた。自然に信田と私と二人の女性との三人で会うというカタチが出来上がった。私にとっては信田が居なければ、二人の憧れの女性と膝を突き合わせて語り合えるなどということは考えてもいなかった。
信田が腕を振るってつくってくれる鍋料理を食べながら、私は三人の文学論や演劇論に耳を傾けながら笑みを浮かべているのが精一杯だった。要は、本来私が立ち入る余地のないところに信田が私の居場所をつくってくれたのだ、と思う。何度か交わした私と信田との会話は次のようなものだったと記憶している。
―信田、どうするんだよ?信田はもてるけどなあ、彼女たちはつらいのと違うか?大丈夫なのか?
―良子も広子も自由に出入りしているんだから、まあいいのではないか?飽きたらもう来なくなるだろうし。それでいいと思っている。
信田は割り切ったことを言いながら、同時に哀しそうな表情をした。それは文男が知っている信田の大人びた自信ありげな雰囲気とはまったく異なった、彼の幼い繊細さではなかっただろうか。
(10)
二年の歳月が流れ、信田自身の環境は変わらなかったが、それでも私たち四人を巡る状況には否応なく時間の流れという酷薄な変化が生じていたのである。私は京都の教育大学に、早田良子は地元の国立大学に、そして演劇部の田中広子は神戸のお嬢様大学の短大部を卒業して、いろいろな劇団の試験を受けていた。それでいて、広子は父親が神戸で経営する貿易会社に入社するという逃げ道を、心のどこかに用意していたように思う。素人目では抜群の役者センスを持っているように思えたが、世の中にはもっと優れた演劇人が数多いるのだろうと、広子がなかなかプロの劇団員になれない状況から察することが出来た。
不定期に催されるようになった私たちの文学研究会は、信田からの現代詩ふうのはがき一枚の招集によって催された。はがきの内容は、研究会で課題にされる書の二、三冊が知らされるのが決まり事のようになっていた。研究会が彼のアパートで開催される二週間前に知らされる課題書を、研究会が招集されるまでに学業の合間に読み通すには、私にはきつかった。あとの二人については余裕でこなせたことと思う。そもそも私は、信田の彼女たちを含めた友人たちとは教養のレベルがかけ離れていたのである。それなのに信田が私を彼の最も重要視している文学研究会の一人として誘ってくれたのは、彼が高校に転学してきた当初の、人間的関係性を重んじてくれているのだろう、と文男は解釈し、その有難さに甘えてしまうことのないように心に誓う日々だったのである。
(11)
 文学研究会の時間は無制限で、食事をつくるのは四人の当番制だったが、材料費はいつも信田が負担した。みんなもバイトをしているのだし、出し合おうと言っても信田は聞かなかった。彼は相変わらずバーテンダーで日々の糧を得ており、大学生のバイトなど凌駕していたからだろうが、むしろ彼の幼い頃に遊郭で育った裕福な生活習慣がそうさせたのではないだろうか。この頃、必ず良子も広子も同席するようになった研究会では、各自がある程度のレジュメをまとめ、その解釈に至るまでの経緯と意見を述べ合うという形式だったが、その内実はどのように控えめに見ても、信田の指導によって各々の作品解釈が一つのカタチに集約されていくのがこの文学研究会のあり方だった。私は少なくとも信田に信頼を寄せていたし、大きなリスペクト感があったので文句はなかったが、他の二人の女性たちはしばしば信田とぶつかった。それはこの二人の女性たちの文学的な理解力ゆえのものか、と思っていたが、その実は二人の女の、信田に対する独占欲の変形した論争であることが分かるのは、私自身が研究会内でかなり力をつけてからのことだった。二人の論争の諸点が、作品理解には大した問題を孕んでいなかったことに私にもある程度感じ取れるようになっていたのである。
(12)
 京都から阪急電車の三宮駅で降り、市バスで恐らく神戸の中でも当時は最も大きな湊川市場前のバス停から、会下山(えげやま)と云う、丘程度の山を切り崩して、住宅やアパートが密集しているところに信田のアパートはあった。夏の終わりになっても、細い道をのぼりはじめると、額から噴き出る汗を拭き拭き、信田のアパートへと向かう。そんなことが私の楽しみでもあった。古びたアパートが密集している地域は、戦争の空襲に遭っても焼け残ったと思われる建物が多く、澱んですえた独特の臭いが漂っていた。そういう会下山の中腹に信田のアパートはあった。トイレが共同であちこちがガタついている点を除けば、あたりは静かで晩夏の涼やかさが感じられる住まいだった。私はふと、子どもの頃の急ごしらえの陣地ごっこを思い出し、楽しくなるのが常だった。
 いつもより少し遅れて部屋に入ると、信田と田中広子が二人で外に出たのだ、と早田良子は力の抜けた表情をして、私を見るともなく言うのであった。良子が信田を好きだということは百も承知だったが、私も良子のことを手の届かない存在として愛していた。彼女の喋り方、たたずまい、薄手のシャツの上から盛り上がっている乳房のカタチのいいふくらみ、ジーンズに包まれた腿のカタチ、そのすべてが好きだった。愛の定義など知らなかったが、私は単純に好きだと云う概念を超えた情愛を彼女に対して抱いていた。良子を間違いなく愛しているのだと、私は自覚していたのである。良子の方も信田ほどではないにしても、私のことを好きでいてくれた、と思う。
二人の心模様は随分と異なっていたが、二人は自然に躰を近づけ永い接吻をした。彼女の唾液は私にとって蜜のごとき味がした。哀しみを紛らわせたかったのだろうか、良子は激しく私を求めた。良子の口を強く吸い、手のひらから零れ落ちそうな乳房を揉みしだき、彼女のヴァギナの奥深くに自分の舌を差し入れた。私は溢れ出る愛液を呑みつくそうとした。信田とのためのコンドームを彼女から手渡されても、私は萎えることはなかった。短い時間にコンドームを三つ使った。3度目は彼女の口の中で果てた。彼女の心が私に向かっていないことは承知していたが、それでも私は至福のときを味わったのだ。あれが私の、あの時以来一度たりとも味わったことのない純朴な性的至福のときであった。私は良子を美しいと心底思い、愛の本質とはこういうものなのかも知れない、と幼い心で悟ったように思う。
(13)
―ねぇ、早田さん、これでよかったのか?
私は良子とは呼べず上ずった声で彼女に苗字で呼びかけ、意味のない言葉を投げかけずにはいられなかったのである。良子からの返答はなかった。彼女の目は涙で潤んでいた。かなりな時間が経ち、彼女はひっそりと言葉を紡いだ。
―あなたには悪かったわ。ほんとうに。
彼女の発した言葉は、ただ、それだけであった。それが信田に対する背信の情からなのか、私に対する愛のない交歓に対する懺悔なのか、あるいは両者の入り混じった感情なのか、いまだにあの時の彼女の真意は分からない。
 信田と広子が帰ってきたのは、深夜近くになってからだった。二人とも酔っぱらっていたが、文字通り酩酊していたのは広子一人だったのかも知れない。冷静な信田は、私と良子の二人を見るなり、全てを察したのだと私は確信した。しかし、信田は何も言わなかった。
あれ以来、私と良子は、何事もなかったかのように同じ文学研究会の仲間にもどった。しかし、私たち四人の状況は大きく変化する。広子は、短大を卒業すると貿易商の父から縁談を何度も持ち掛けられ、それが嫌で神戸から去ったらしい。しかし、実際は東京のいくつかの劇団の入団試験を受けるためだと信田から聞かされた。それ以来、信田と良子と私の奇妙な関係が続いたのである。
(14)
信田のことを一度だけ憎んだことがある。
季節は秋から冬へと移り変わっていくある日に、私は例のごとく私たちの文学研究会のために信田のアパートに向かった。定例の時刻よりも少し早いかと思ったが、何の気なしに信田のアパートのドアのところに行き着いた瞬時、ドアの中から以前聞いた良子の、悦楽の、うわずった艶めかしい声が聞こえた時、私は信田と出会って以来初めて彼に嫉妬し、憎しみを抑えることが出来なかった。私はその場を離れ、数時間街をさまよい、再び信田のアパートを訪れる頃には冷静さを取り戻していた。自分でも理由は分からなかったが、信田に対する憎悪の念もすっかり消えていた。良子を何度も抱きしめたであろう信田の態度はいつもと変わるところがなかった。私と良子のことは鋭敏な精神性を持つ信田なら一瞬にして見抜いていたはずだ。また、良子だって文学的な繊細さに溢れた女だ。言葉などなくても、私との交接の意味を信田に伝え得たはずだ。二人ともどうして私に何も言わない?広子が研究会から去って以来、信田に対する良子の深い想いがつのっていかないはずがない。自分にはもはや二人の間に立ちはだかる術などないのだ。そう自分に言い聞かせて、いつものように信田がつくった鍋をつつきながら、私たち三人は信田の舵取りに任せて、文学談議に興じるのであった。自分の感情を抑えることがこれほど困難だと思ったことはない。
(15)
 数か月経って、私たち三人を取り巻く環境は激変した。唐突に信田は宣言した。文学研究会はこのまま続けるが、今後一年はオレは受験勉強をはじめることにした、と唐突に言い放ったのである。
―オレは金がないからね、大学は国立大に絞ることにして、そのための勉強をすることにした。目下の目標は、最低でも神戸大学、目指すところは京都大学の文学部だよ。
 研究会の中で時折夜間高校のある教師の話が何度か出たことを思い出した。確か村中淳一とか言っていた。彼は30代前半の独身で、京都大学出身だった。周囲との折り合い悪く、行き着いた果てが夜間高校ということだった。信田が京都大学を目指したのは村中の影響だろうが、私には村中はペテン師だとしか思えなかったのである。
 私は心の中で呟くのがやっとだったが、信田にいくら文学的才能があっても、大学受験となると話は別だ。殆どまともに教科書も問題集もこなしていない信田が、限られた時間に受験参考書や問題集を素早く解き続けることなど出来ない。私には自分の経験から、受験を突破するには分かり切ったことを何度も何度も頭に刷り込む作業が必要で、そんなことが信田の知性には不向きであることは分かっていた。しかし、その時の状況の中で、私は何も口には出せなかった。
 案の定、信田の机の上には学校から借り出したいくつかの国立大の赤本が置いてあったが、鉛筆の先を舐めながら現代詩の一節を捻りだすように、彼の手は猛烈に遅く、机に向かっている姿は、到底受験勉強とは呼べないものだった。信田、大学受験はなあ、単純作業の範疇なんだ。それにスピード感がなければ一年なんてアッという間に過ぎてしまう。そんなやり方ではダメだ、と口元まで言葉が出て来るが私はそれをいつも呑み込んでしまった。
(16)
 私は村中淳一という信田が尊敬しているらしい教師をペテン師だと思い、心の底から憎んだ。村中自身が京都大学に合格するためにどのような受験勉強をし、それを乗り切ったのかをリアルに信田に教えるどころか、信田が英語の勉強だと言って辞書を引き引き勉強しているのは、英米文学の有名どころの作家たちの原書だった。村中が大学で読み込んだペンギンブックスの類の本を、英語の教材として信田に与えたのである。
―信田、大学受験っていうのは、もっと底が浅いんだ。君が軽蔑している受験問題集を効率的にこなして行かないと京都大学はおろか、どこの大学にも合格なんて出来ないんだよ。
 私は心の中で同じ言葉をずっと叫び続けていたが、結局一年が過ぎ、案の定信田はどこの大学も不合格になった。その頃、早田良子は信田のアパートに半同棲のように入りびたり、信田の世話をやいていたのである。信田は彼女のことを「よっちゃん」と呼び、彼女は信田さんと呼び合った。私はどんどん自分の居場所がなくなっていくのを肌で感じていたのである。それでも私には彼らの中にいることでしか生きている実感を得ることが出来なかった。
(17)
 私は4年生になり、教育大学生は教育実習のために自分の出身校で教師のまねごとをしなければならない時期に来ていた。出身校は当然神戸のかつて信田と出会った高校であったし、私は気の進まない実習をそこで行うことになった。実習期間中はオレのところに泊まれと信田が申し出てくれ、私は信田のアパートから実習先の母校に通うことにしたのである。当然、信田と良子の仲は気になったが、良子も就職活動のために自宅にもどっていたことも幸いした。教育実習と就活という時期でもあったが、三人ともずっと神戸にいる機会は高校卒業以来初めてで、その頃は毎日のようにこれまでと比較するとかなりラフな研究会という名目のもと、三人で語り合うようになったのである。しかし、信田は当然のことながら、大学に合格など出来ていなかった。
 信田と良子との間に微妙な隙間が出来ているのではないか、と大して繊細でもない私にも汲み取れた。信田は相変わらず良子のことを「よっちゃん」と呼んでいたが、彼女の言動に微妙なよそよそしさが混じる一瞬、一瞬を私は嗅ぎ分けた。胸騒ぎがした。
(18)
 教育実習後、教員採用試験などの準備やいくつかの都道府県の教員採用試験を受けて、最終的に京都府の国語の教師として採用されるまでのかなり長い時間、私は、はがきのやり取りだけで信田と実際に顔を合わすことがなかった。信田のはがきによれば、良子は神戸市の市職員の試験に合格したとのことであった。信田は店を何軒か替わったとは思うが、やはりバーテンダーの仕事をしながら、本格的に現代詩を書き、詩人の道を歩もうとしていた。酷薄なようだが、信田の未来だけが閉ざされたままだ、と私は思い、心が痛んだ。しかし、これを書いているいまとなっては、定職にはつける見込みはついたにせよ、あの頃の私だって自分の未来が閉ざされたままであることに変わりはなかったのだとつくづく思う。信田に対する当時のある種の同情に属する感情は、私の生に対する無知ゆえの傲慢さだったのだと心の底から理解出来る。あの頃、私は凡庸という生活者の汚泥と引き換えに生活の安定を得たのだと思う。ただそれだけだった。
教員になってから数年後に、勤務校の教頭の紹介で京都市の小学校に勤める岡村多恵と結婚した。他者から見れば、多恵とは波風の立たない凪のような日常生活の大半を、定年を過ぎ、その後の5年間の非常勤教師を勤め上げるまで平々凡々と一緒に送ったと思えるのだろう。時折多恵を愛していたか?と自問するが、良子を愛したような感情は確かにあったが、それは私の深き嫉妬と怨念が生み出したものではなかったか、と思うのである。多恵の強固な意思ゆえに、子どもには恵まれなかった。そのことにこそ、私たち夫婦の悲喜劇が現れていると私は感じる。私は一人息子だったから田村の家系が私で途絶える間違いなかったが、そのこと自体は両親の想いとは別に、私の重要な事柄ではなかった。もっと言えば全く関心がなかったと言っても過言ではない。そもそも私には血縁関係ゆえに後世に何かが繋がっていく、という発想がなかったからである。人間はあくまで個として存在し、個と個が重層的に結び合わされたものが世界そのものであると、たぶん信田との関係性の中のどこかの時点で彼の考え方を受容したのかも知れない。
私の人生から生の彩りが消失したのは、遠心分離機にかけられたように信田や良子という関係性から弾き飛ばされてからのことだ。癌に侵されて余命いくばくもなくなったいま、私の頭の中に巡って来る光景は、妻と過ごした永い年月の間の出来事よりも、短かった、現実には何の成果も残せなかったにせよ、あの文学研究会という不思議な仲間との集まりの磁場から起こった、細部に渡る己の感情の集積だけだった。いくつも思い出というものはあるはずだが、やはり生活者として凡庸の只中に起こった出来事などは、私にとってはどうでもよかったということに改めて気づかされたのであった。ただ、多恵との結婚の実体を知り、苦しみぬいた体験を除いては。
(19)
 文学研究会が消滅し、私が神戸という街から離れたのは、(いや、もどれなくなったのは、と言った方が正確だ)あの出来事が起こったからである。
 研究会が終わって、近くの新開地で一杯やろうということになり、身に沁みるような冬の寒風の中を信田と良子と私の三人で体を寄せ合って歩いていた時の出来事である。気がつくと、私たちは6,7人の屈強そうな若者たちに取り囲まれていた。異常にガタイのいい、年齢は私たちと似たり寄ったりだが、真っ黒の詰襟の学生服に身を包んだ異様な雰囲気の男たちだった。どことも知れぬ大学の応援団員たちの飲み会の帰りに、彼らから見ればひ弱そうな男二人が女連れであったことが腹立たしかったのだろうと思う。一瞬にして私は自分と信田は叩きのめされ、良子が弄ばれると判断し、身構えた。信田はそれなりに応戦出来るのだろうが、私は幼い頃から喧嘩もしたことがなく、オスとしての攻撃的な要素を何も持たない男だった。が、その時、信田の想像もしない声がした。
―田村、走れ!
私の反射神経は信田の言葉に瞬時に反応した。走った!取り囲まれた男たちの間をぬって、坂道をのぼり、新開地の本通りを駆け抜けた。走りながらオレはなんて卑怯な男なのだろうか!と思うと自然に涙が溢れた。その瞬間、後ろから声が聞こえた。男たちの何人かが信田をぶちのめした後に真っ先に逃げた卑怯者の私を追いかけて来たのかと思い、私はたぶん一生分の力を自分の脚力に注いだのではないか、と感じるほどに走りぬいた。ところが、田村~、田村~!と叫んでいるのは、誰でもない、信田本人だった。信田は後ろから走りながら本通りの先に交番がある!そこへ行くんだ~!と叫んでいた。
 交番で事情を手短に話して、巡査二人を連れて現場にもどる途中、私は自分の卑怯な行動を棚に上げて、信田に詰問したのである。
―おまえ、良子さんを置いてきぼりにしたわけか?
私が信田に対して、おまえ呼ばわりしたのはこれが初めてのことだ。信田を責めていたのも事実だが、何より自分の卑劣さを許せなかった。私は信田にあたっていたのである。信田は言った。
―これで、良子とはダメになるだろうな。まあ、良子のためにもそれがいいのかも知れない。
現場に着くと、あの男たちも良子もいなかった。私は最悪のことを考えたが、信田は良子の家に電話してみると言い残し、近くの電話ボックスに走っていった。
 何が幸運で、何が不運なのかも分からないが、良子は無事にタクシーで家に辿り着いていたと、とりあえずは言っておこう。彼らは私たちが女一人を置き去りにして逃げ去ったことに満足したらしく、良子に、私たち二人がいかに男としてダメな人間なのかを罵って去って行ったらしい。とこまでもゲスな奴らだと私は思い、同時にそれ以上に私はゲスだと思い知らされた。
(20)
 あの事件以来、私は神戸にもどらなくなった。文学研究会という仮想の三人の共同体は崩壊したのだ、と私は後悔した。しかし、あの時、あの場から逃げず、そして彼らに半殺しの憂き目にあわされたとしても、結局良子を危険な目に遭わせ、もっと大きな悲劇が起こったのかも知れない。信田が咄嗟の判断でとってくれたであろう行動を想像しながら、自分のダメさ加減に鬱々としながら永年過ごしてきた。あれから永すぎる年月が過ぎ去り、自分の死を前にしてみれば、信田の判断力の正しさが良子を救うことに繋がったに違いないと、いまは思えるのだ。彼らの勢いだと、私たち二人をなぎ倒して、そのことに勢いづいて良子を輪姦した可能性もある。私が信田の指示に従って真っ先に走り逃げ、信田の高度な細工を施した後で逃げたことで、彼らの気勢を削いだのは確かなことではなかっただろうか?信田にはそれが分かっていたのだといまは確信を持って言える。具体的な想像をすれば、私はただ信田の指示に従い、走って現場から逃げ去り、信田は自分を貶める言葉を彼らに向かって吐き、彼らに許しを請い、数発殴られてから私を追いかけたのだろう、と思う。だからこそ、現場にもどってから躊躇なく彼女の実家に電話出来たのだ。いまの気づきに至るまで、私なら彼女の無事を確かめることは重要だが、その時、瞬時に彼女の実家に電話することなど恥ずかしくて出来なかっただろう。なぜ、信田はそんなことをやってのけたのだ?というのがずっと私の裡でわだかまっていたが、恐らく、あの短い時間の中で、良子にここを離れられたらすぐにタクシーで家に帰れ!と囁いていたのだろう。私だけが信田の自ら受けた辱めに想いを馳せることもせず、浅薄な現象に引きずられ、恥辱と自己憐憫に身もだえていたのではなかろうか?
 その後、何度か信田とのハガキのやり取りをして、信田の現代詩のような文面から、ようやく村中という教師に見切りをつけたこと、自分が大学などに行ったところで何になるのか、と自問したこと、良子が公務員の内定を蹴って銀行員になり、信田のもとから去って行ったらしいことなどを私は知ったのである。信田によれば、良子は世知という魔物の虜になり、自分のもとから去って行った、ということになるらしいことも彼の文脈から汲み取れた。良子は先輩にあたる行員と付き合い始めたらしいことも文面の隙間から諒解出来た。信田は、相変わらずバーテンダーをしながら、本格的に自作の現代詩を洗練させはじめ、自分の作品を「ユリイカ」に応募し続けたようであった。東京の劇団に入るという夢破れた田中広子が、信田のもとに転がり込んできて、夫婦じみた生活がはじまったことも漠然とだが伝わってきた。
(21)
 あの忌まわしい事件以後、信田と私はハガキでしか繋がっていなかった。お互いの近況は大体のところは理解し合っていたが、同時にそのすべてが薄靄に包まれたように曖昧だった。
 教員として働きはじめて、二年目の冬のある日のことだ。私は両親のもとを離れ、京都の高野川沿いの古い木造アパートに居を構えていた。代り映えのしない教員生活だったが、新米教師には何をするにも時間がかかった。私もその例に漏れず要領の悪い事務仕事に辟易としながら、勤務校の近くの定食屋で遅い夕食を済ませる毎日だった。
アパート近くのバス停で下車すると粉雪が横殴りに顔に当たるのに嫌気がさした。玄関のドアの鍵穴に鍵を差し入れた瞬時、聞き覚えのある声が私の名を呼んだ。薄暗い廊下の向こうに信田が左肩下がりの姿勢で、彼独特の笑みを浮かべて私を待っていたのである。自分がどのような反応を彼の笑みに対して投げ返したのか、まるで記憶にはないが、信田を当然のように部屋に招き入れた。私に訪れた感情は複雑どころか、まるで単純そのもので、ただただ嬉しかったのである。信田と直接会わなくなって以来、あれも言ってやろう、これも言ってやろうと考えていたが、それらのすべてが自分の裡の信田に対する憧憬の裏返しだったことに気づいて、私は、一人、照れた。
(22)
 ―信田、会いたかったよ。と言いたかった。が、実際に口に出た言葉は、実にそっけないものにすり替わっていた。言いながら自分の狭隘な性格を自覚して、少し胸が苦しくなった。
 ―久しぶりやな。寒いからまあ入れよ。
 私たちは二年ぶりに小さすぎるコタツを挟んで顔を合わせた。信田の端正な顔立ちもスラリとした体形も変わるところはなかったが、いま目の前にしている彼の表情はこれまで見たこともない弱々しさが濃厚に漂っていた。信田も私の変化に気づかなかったはずがない。つまらない教師生活で腐っているさまが私に大きな変化を来していることを彼なら見逃さなかったはずだ。それでも私と信田は二年の歳月を埋めるために互いに言葉を呑み込むことに決めたのだと、今にして思う。
 酒の肴に、小さな冷蔵庫にサラミとチーズを入れて置いたので、それを皿に盛りつけて、ビールとウィスキーの瓶をコタツの上に置いた。そして一人暮らしには大きすぎる灰皿も置き添えた。
―田村、おまえ、タバコやるようになったんだー。
その言葉は揶揄するでもなく、とても自然に出た言葉のようだった。信田はいつも自然体だ。たぶん、私の変化について言いたかったことを呑み込みながらも、彼は時間の隔たりを一瞬にしてとりもどす努力をしてくれていたのだ。その意味でも信田はいつも私の上を行っていた男だと再認識させられた。おかしなことに私にはそう思えたことが嬉しかったのである。
(23)
 信田は、良子が銀行の先輩行員と結婚したことを私に知らせた。信田の言葉はこうだった。
―よっちゃんなぁ、オレのアパートから出て行ってからすぐに結婚しちまった。オレは見切られたんだな。ひどいこともたくさんしてしまったしな、当然の酬いだろうなぁー。
と、語尾を延ばして言った。そこにどんな意味が込められているのか?
 一瞬、良子との性の悦楽の記憶が走馬灯のように蘇り、同時にそれを信田は知っているだろうことも私の頭の中を激しく駆け巡った。良子との激しく狂おしい悦楽を思い起こしていた自分はどんな表情をしていたのだろうか?たぶん、無表情で頷いていただけだろう。それしか出来なかったからである。人はあまりに多くの感情が詰まったことを前にすると、感情のない、能面のような(能面に込められた芸術的な意味を抜きにして)無表情になるのだということを悟った。
 信田のふるまいは、かつて見たような陽気さでもなく、感情を超越した崇高さでもない、日常生活で交わされる言葉が最もよく言い表している表現―信田には悪いが、下卑た空気が漏れ出て来るようだった。次の信田の言葉を待つ間、私は身構えた。同時に、信田、おまえ、大丈夫なのか?という想いに捉われていたのである。
―田村、実はオレなあ、結婚した。今日はその報告に来た。演劇やってた広子、覚えているだろう?東京の劇団に入れず、神戸にもどってそのままオレのアパートに居ついていたやつよ。その広子と結婚した。
 それを聞いても私は別に驚かなかった。成り行きでそうなったのだ、と勝手に解釈したからである。良子に去られた寂しさも手伝ったのだろうし、広子もたいした美形だからむしろ外見的には信田と広子はお似合いではないか、とすら思ったのである。が、次の信田の言葉を聞いて困惑した。信田の真意を計りかねた。
(24)
―おまえ、広子が一人娘だったのを知ってたか?
―知らなかったな。彼女、神戸の貿易商の一人娘だったわけか。
―だからな、結婚してくれと広子が執拗に言うものだから、それに逆らうのも面倒になって、おまえと結婚してもいいよ、と言ってしまったわけだ。するとな、広子は言うわけだよ。
―私はお父さんのお見合い話をすべて断って、勝手に東京に行ってしまったでしょう?あなたと結婚する限りは、無理やりにでもお父さんの許しを得なければならない。あなた、それに耐えられる?
―こいつ、試してきたなと正直思ったよ。オレの気持ちにウソがないか、を。なあ、そう思うだろう、おまえもそう思うだろう?
―だろう、な。と、答えるしかなかった。
―で、挨拶に行ったわけよ。トアロードを登り切ったところによー、デカい屋敷があったわけだ。
信田はまたしても語尾を延ばした。複雑な反発だろう、と私は勝手に解釈した。信田もかつては筑豊の遊郭と云えど、それこそ自宅はデカい屋敷だったに違いない。そこで何不自由なく暮らした幼年期だったはずだ。私の住んだ家は、教師どうしの両親が二人の金をかき集めて、住宅ローンを組んで何とか手に入れた郊外のありふれた建売り庭付き一戸建て住宅だ。比較の対象にもならない。信田が発言の語尾をいま延ばす意味は、自分にはどうしようもなかった過去と現在に対するある種の憤怒の情念が込められているのではないか、と思った。良子との別れを語るときの信田の発言にも言い知れぬ深き悔恨の情が迸り出ていたのだ。私は口を挟まず、信田の次の発言を待つことにした。
―広子の親父、オレを見た瞬間に広子と結婚したいなら、田中の家の養子になって、うちの貿易商の仕事を受け継いでほしい。それが私の君に対する結婚の条件だ。仕事はおいおい見習ってもらうから。
―それでな、オレは田中家の養子になったというわけだ。いま、英文のタイプライターの勉強をしているわけだ。電動で動くやつだ。なかなかオレの手に負えないね。
信田のことを下卑たと表現したが、そういう要素がたとえあったにせよ、実際にはどちらかと云うと私に対する照れの感情が強かったと思う。それにしても、信田と広子、信田と婿養子、信田と英文タイプライター、信田と貿易商の実務?どの組み合わせも私の裡でしっくりしないものばかりだった。
―信田、君はそれでよかったんだな?ほんとうに大丈夫なんだな?
―信田は、タバコを天井に向かって、フゥーと吐き出し、か弱く頷いた。
(25)
 私には洞察力というものが決定的に欠落していたが、それにしても信田の結婚はいずれ破綻するだろう、と思った。何より信田の方に無理がある。広子が美しいと云えども信田は彼女のことを決して愛してはいなかった。広子が劇団のオーディションを受けるために東京に行ったのも、彼女の実家との揉め事というより、信田が自分を女として相手にせず、良子を愛していたことが原因だろう。推測に過ぎないが、信田は広子とも男女の関係にあった、と思う。しかし、信田にとってはただそれだけの付き合いだった、と私は思っていたのである。
信田が広子の家に養子として入り込むことになったのは、良子が自分を捨て、結局は女のありふれた生活的安寧に走ったことに絶望したこと、そして高校時代からの永年に渡る経済的不遇、自分には他者にない才能がありながらもたぶん信田自身も軽蔑していたであろう、知的平均値を問われる大学受験に失敗したこと等が重なった末の結論だったのではなかろうか。
私たちは、その日夜通し語り合ったが、二人とも結婚のことには触れなかった。たわいもない、男どうしの理想と卑猥が交じり合った言葉が、タバコの煙の中を漂った。翌朝最寄りのバス停まで信田を見送って、私は有休をとりその日は一日中泥沼の中にいるような眠りの只中でさまよった。目覚めたのは夕暮れ時だった。散歩がてらに高野川まで行き、橋の上から水面を眺めていると、水源の澄み渡った水も河口へ向かうにつれて汚れていくさまが、まるで自分たちの人生が年月によって汚濁していくさまと重なるように思えて、私は意味のない涙を流した。信田の将来が不安な不確定要素を孕んでいるように、私のそれも同じように安穏としていられないのだろうと思うと、これからの人生に希望を持つことなど出来はしなかったのである。たぶん、意味のない涙は、絶望が深くなればなるほど、いずれ確実に生きることが無意味なものに変質するのだ、という推論を私の稚拙な知性にも導き出されたのだ。
 信田と広子との結婚の話を聞いてから、二年が過ぎようとしていた。その間、信田とはハガキだけのやり取りになり、いつしか信田からの連絡は途絶えたのである。
(26) 
私の結婚生活は、教頭の服部伸郎の紹介で、岡田多恵と結婚することになったのは、信田との音信が途絶えて間もなくのことだ。その頃のことを思い出すと、自分がいかに洞察力に欠けた人間だったかということが思い出されて、いまでも嫌な汗が出る。私の結婚は、自分に対する過信と錯誤と洞察のなさが混在した何かが生み出したエセものだった。
ある日、夜の放課後の、人気もまばらになった職員室に教頭の服部が私の机に近づいてきて、次のように唐突に言ったのである。
―田村くん、君も結婚してもいい歳になったね。君の仕事ぶりはとてもいい。未来が開かれていると私は思うね。君、付き合っている人がいるのか?
私はありのままに答えた。
―いいえ、付き合っている人はいません。
―そうかい。実はね、うちの学校の卒業生に結婚相手を探してくれと頼まれていてね。どうだろうか?君さえよければ私に紹介させてもらえないかな?
 この瞬間、自分の未来が開けた、と私は思ったのである。教頭に紹介されて見合いするのである。自分の学校管理職への道は開けたのだ、と勝手に私は信じ込んだのである。当時の私には、人の善意を装った作為を見破るだけの洞察力はまるでなかった、と言える。
 服部伸郎から話があって、京都市内のホテルのロビーで岡田多恵を紹介されて、私は有頂天になった。小学校に勤めていると彼女は自己紹介した。私より一つ年下だった。私が有頂天になったのは、想像以上に多恵が美しかったからである。か細さの中に、文男の中のオトコを刺激して余りある魅力があった。不謹慎だが、彼女との結婚生活という将来設計などより、一刻でも早く多恵を抱きたいと思ったくらいである。オレはなんて幸運なのだろうか、と心の中で独り言ちた。
結婚に至るまでの雑多なことも何ということもなく過ぎた。相手の両親にも了解を得た。文男のオスの感性が、社会的な決め事を軽々と乗り越えてみせたのである。式は簡便に済ませ、新婚旅行は互いの勤務の関係で国内にした。出来るだけ遠くに行きたかったが、北海道が精いっぱいだった。魅力ある妻を得ることと自分の将来とが重なっているのである。文男は用心して結婚式を済ませるまで多恵とは手をつなぐ程度の付き合い方しかしなかった。信田のことなど思い出しもしなかった。当時の私は、若さゆえの傲慢さと自己愛がリアルな自分を取り巻く状況を掴み損ねていたのだ、と思う。
(26)
 新婚旅行先の函館のホテルで多恵を初めて抱いた。多恵の口に舌を深く差し入れ、彼女の唾液と自分のそれとが交じり合った。柔らかく甘い味がした。乳房を揉みしだき、乳首を舐めまわし、多恵の躰の隅々まで自分の舌で味わった。彼女との交歓は愛し合ったというより、互いに味わったと言う類の交わりだったのだと文男は思った。多恵の反応は鋭敏過ぎるほどで、むしろ文男をたじろがせた。文男のつたない愛撫に、多恵はあまりにも鋭敏に反応した。そのときの多恵の喘ぎ声は、性の歓びを知り尽くした女のそれだった。オスの歓びを得たと同時に文男には言い知れぬ不安感が襲い来るのであった。
 結婚後数年間の夫婦生活は、至極順調だった。文男を襲う言葉にならない不安感を除いては。毎日のように激しく交わる二人だったが、子どもには恵まれなかった。不妊治療が必要なのかも知れないと何気なく口に出すと、多恵の拒絶の仕方は尋常ではなかった。私は、多恵が子どもを望まない女なのだと勝手に解釈して日々の生活をやり過ごすことに心を決めたのである。それが二人にとっての平和の保ちかたなのだと、自分に言い聞かせた。
(27)
 母親の貧血がひどく、短期間検査入院することになり、母親の付き添いや、妻がいなければ何も出来ない父親の身のまわりの世話をするために一週間ほど多恵は実家に帰っていて、文男は一人で家に残されるハメになった。一人暮らしが永かったので、生活に不自由を感じることはなかったが、何がどこに収納されているのかがよく分からず、案外執着のある、お気に入りのネクタイがどうしても見つからず、多恵を気軽に送り出したのはいいが、実際、困ったことになったな、と後悔した。
 クローゼットの中をごそごそと探っているうちに、目立たぬように置かれたかなり大きなボックスを見つけた。嫌な予感がした。目当てのネクタイは探し当てたが、文男はどうしてもそのボックスの中が気になった。決意してそのボックスを取り出して、蓋を開けた。そこから膨大な手紙と、何冊にも及ぶノートと、薬の類が出て来たのである。文男は何時間もその箱の中身と向き合い、同時に自分の馬鹿さ加減と向き合うことになった。
 多恵と服部との手紙のやり取りの内容は、文男には耐えがたいほどの嫉妬を掻き立てるものだった。高校生のときから、多恵は服部と性の歓びを分かち合い、互いの文面から、幼い多恵の心が服部によって成熟した女のそれに変貌していくさまが、あまりにも妖艶で具体的に読み取れた。薬は避妊薬として用いるピルだった。膨大な手紙の中のたった数行の多恵の言葉で、文男はすべてを察することが出来る想いがした。私と多恵との結婚が決まった時に彼女が服部に書いた手紙の中の一節である。すべての手紙には切手が貼られておらず、この手紙も投函されなかったものだ。「あなたには奥さんもお子さんもいらっしゃいます。あなたはすべてを捨てて私と結婚すると言ったけれど、いくら待っても私があなたと一緒に人生を伴にすることは出来ないことが分かりました。あなたから文男さんを紹介されたとき、腹立たしく、また同時にあなたを軽蔑するというより、私はあなたに対する深い愛を改めて感じたのです。私はあなたによって女の幸せが何であるのかを教わりました。文男さんは素敵な方ですけれど、あなたは私が彼に抱かれてもいいのですね?私があなたに躰を開いたように文男さんに抱擁されてもいいのですね?答えは分かっています。こんなことを書き送ること自体、あなたにとっては迷惑なことでしょう。あなたがお望みのようにお別れします。でも、私は文男さんとの間に子どもをもうけません。これがあなたに対する愛の証であると同時にあなたに対する小さな復讐です。文男さんにはほんとうに悪い妻になってしまいます。自分の罪深さをずっとこれから抱えながら生きてまいります。」この文面を読んで文男はこれまでのモヤモヤの原因のすべてを識ってしまった。何冊にも及ぶ大学ノートには多恵の服部に対する想いが連綿と綴られていることだろう。読まなくても分かる。
 出勤前の時刻から、日が落ちかけた夕暮れ時まで文男はクローゼットの前に座り込んだままであった。辛うじて学校には欠勤の電話を入れた。文男は自問していた。自分は生物としては生きているが、果たして人間として生きているのか?自分の心の中に空いたこの大きな空洞をどうすればよいのだろうか?多恵にも服部にも殺意さえ抱いてしまう自分は、これから先、常軌を逸することはないのだろうか?
(28)
 翌日、学校に病欠の電話を入れ、私は京都の河原町までタクシーを飛ばし、そこから阪急電車に飛び乗った。永らく音信が途絶えた信田の顔がどうしても見たかったからである。自分がいかに身勝手な人間かを自覚した上での行動だった。自分の裡の汚泥した空気を共有してくれるのは信田しかいない、と確信していたからである。
 電車から見えるはずの景色は実像を結ばなかった。私は車窓からぼんやり外を眺めているが、目に入るのは殆ど暗黒のようにぼやけた虚像ばかりだった。三ノ宮駅で電車を降り、元町の方に歩を進めた。三ノ宮と元町の中間点に山の裾野から海岸に続くトアロードの緩い坂道を歩いて行った。信田がまだあの豪邸に居るのかどうか分からなかった。居てくれ、と念じながらトアロードを歩き始めた時に公衆電話から信田が住んでいるはずの屋敷の電話番号を回した。昼前になっていたから、電話口には広子かお手伝いさんが出るのかと構えていたら、電話の向こうから聞き慣れた信田本人の声が聞こえてきたのだ。彼の声を聞くとどっと疲れが出た。安心感からだろう。
 坂道を登り切り、高い石垣の上に続く階段を踏みしめ、門柱のベルを押した。広子が応接間に招き入れてくれた。信田が座って笑顔で迎えてくれた。婿養子になったのだから田中幹雄になっていたが、私にはどこまでも信田その人だった。広子の手前もあって、心では信田と呼びかけながら、実際には田中さんと呼びかけた。私にはいまだに、彼のことを<おまえ>とか<幹雄>とは呼べなかったからである。
 いざ、二人を目の前にすると、自分のおぞましい現実を語ることが出来ず、たわいもないことを語っている自分に気づいた。信田は私の日常に得体の知れないことが起こったことを察していたようで、二人で外に出るための助走のための会話を始めた。しかし、助走としての会話としては、重い話の内容であった。田中家の貿易商としての仕事が、時代の変遷とともに斜陽していることや、そのために広子の父親は、古参社員を残し、新参の社員たちを辞めさせている最中だという。真っ先に切られたのは信田だったらしい。業績悪化に伴うリストラを近親者からはじめたのは、広子の父親のポリシーだったとも、信田への嫌悪感だったともとれる。おそらく、微妙に入り混じった感情からの結果だったのだろう。いずれにしても、信田がこの時間に家にいる理由が呑み込めた。
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 信田と連れ立って、元町の飲み屋に入り、少し酒が入ると予想外に今日に至るまでの結婚生活の全容を至極客観的に語っている自分にむしろ驚きを隠せなかったくらいだった。阪急電車の中で、もし信田と会えても自分の状況を話しあぐねている自分を想像していたので、いま、信田と話している素直過ぎる自分の姿に困惑しているとも言える。
―許せないのだろう?奥さんと奥さんをおまえに押しつけた教頭とやらが。確かにグロテスクな話だがなあ、田村。おまえのことだから、いや、広子と結婚したオレのことでもあるけどね、奥さんを教頭に紹介されたとき、ちょこちょこっと計算しただろう?自分の小さな将来のこと。分かるよ、オレには。見抜いているという意味じゃあない。おまえの気持ちが我がこととして心底理解出来るという意味だ。ところで田村、その教頭の名前は?私はその時、何故信田があいつの名前などを聞きたがるのか理解出来なかったが、正直に服部伸郎という男だ、と答えた。
―信田、オレは耐えられないよ。愛されもせず、あの男のためなのか、面当てなのかは分からないが、自分との子どもをつくることを拒んでいる女とこれから先、どうやって生きていける?
―そうか、そういう問いかけか。ならばオレのことも話しておかないと公平じゃないな。オレが田村のアパートに結婚の報告に行ったとき、そしてオレが婿養子に入って貿易商の経営に携わると聞いたとき、おまえはどう感じた?こいつ、どうかしちまったな、と思っただろう?それに小汚い世知の虜にでもなり下がったのか、とも思っただろう?そうだ、その通りだ。だからこそ、オレは耐えられなくておまえのところに行った。分かってもらえなくてもいい。おまえに話すことである種浄化される、と感じたからだよ。マフィアが敵対する人間を殺したすぐ後で、カトリック教会の懺悔室で神父にありのままをぶちまけるよな。まあ、映画でしかみたことはないけどね、それと同じ気分だったよ。田村、いまのおまえもオレと同じ気分ではないのか?
―信田は生活に苦しんだだろう?それに良子さんとのこともあった。オレのグロテスクさとは比べ物にならないよ。君の場合はがんばった末の結果だったからな。疲れ果てた末の結果かな?
―まだまだ、きれいごとだよ、それは。オレと良子に嫉妬して東京に行ったことになっているだろう、広子は。彼女、演劇団員崩れの一体何人の男と寝たと思う?それとあの義父だ。オレのことをクソだと思っている。古参社員が大事だと言っているが、実のところはオレを真っ先に切りたかったわけだ。子どもも出来ないし、いや、子どもが出来ても同じことか、いずれにせよ、これ幸いと奴はオレを追い出しにかかっている現実は変わらんな。
笑いながらも、信田の顔がどこか寂しそうな横顔に見えたのは私の錯覚だったのだろうか?
―広子もオレが愛していないことを事の始まりから分かっていたはずだ。ビジネスの将来も危うい。絵に描いたような家庭像も描けないときた。最近は夜になると広子は遊び歩いている。オレよりマシだなんて言うつもりはない。おまえの奥さんは、事実を知ってしまえば確かにかなりグロテスクだが、それを知らなければおまえは奥さんのことを愛することが出来ていたのだろう?人間、心の奥底には誰しもどす黒いものを持っているからね、結局のところ、そこに蓋をして耐えられる関係性なのかどうか、それだけではないのか?オレたちのように人間の本質に踏み込んだ人間は、覚醒出来たという意味で他者とは比較にならないほど幸福だろうけど、逆に、人間の底の底まで見える分、そして信じられる他者が極端に少ない分、とても不幸なんだよ。
 その夜、深夜まで呑んで、信田の、泊まっていけ、という誘いを断って元町のどこにでもありそうなビジネスホテルに入った。冷蔵庫のウィスキーのミニボトルを呑み干すと、信田に会いに来た自分の身勝手さに改めて気づいて、落ち込んだ。自分が最も罪深いのは、プライドの高い信田が何の衒いもなく自分の現状を語らずには私を救えないと思わせたことである。そして、信田は決して私と良子との一回きりだが、濃厚な交歓についてはひと言たりとも口には出さなかった。それなのに信田に良子を失った経緯を語らせてしまった。
(続く)

遅まきながら、アウトプットを!

2016-07-25 11:58:10 | 省察

ひどく疲れた日々だった。ほぼひと月。別の側面から言うと、このひと月で、やっと自分の実年齢に意識が追いついたのかも知れない。

ずっと何かにとりつかれたような日々を過ごしてきた。人生のどこから始まったのか?といえば、たぶん、もの心ついたころから、だ。ずっと焦り続けてきた日々の正体が、人生の終焉に近づいたいまになって初めて理解出来た気がするこの頃だ。

これまでずっと自分に関わることをこの場に書き綴ってきたけれど、そして、それらを自己の人生の総括なんていう都合のよい言葉で定義してきたけれど、それはたぶん、大いなる誤謬だ。

この場に書き綴ってきたことの殆どは、自分の馬鹿げた自己中心的な、生きた軌跡の言い訳である。自虐的に言っているのではなく、これは非常にリアルな感覚なのである。

僕の人生のコアーは、一言で表現することが出来る。それは怖れだ。あるいは焦燥感か?前向きなモチベーションなどとはまるで無関係な感覚と言っても過言ではないだろう。

脅迫観念に取りつかれたように本を買う。ジャンルは問わず、興味だけに惹かれて買った本は自分の読書出来るペースをはるかに超えた分量である。だから本はどんどんたまるが、そこから学んだことは非常に微細なものだ。本の分量に自分の吸収力が追い付かないので、焦燥感はかえってつのる。かといって、自分のルーティーンを変えることなど出来るわけがないのである。焦燥感を克服しようとして、焦燥感がよりつのるというわけである。もちろん、その根源に在る生に対する怖れがさらに深くなる。アホウな悪循環だ。

想いが高じて、京都の、あるビジネススクールに入学した。そしてたった3カ月で退学した。先日のことだ。理由はいろいろあるが、根っこは実に単純だ。僕は教育など信用していないのだ。自分が長年教師という立場で教育現場に居て、確信を得たことは実に皮相的なことだが、人は教育行為と云われるものから学び、感得することなど本来ない、ということだ。だから、たぶん、ビジネススクールというところに籍をいっときでもムダ金を使って置いたのは、無駄な本を無目的に多量に買うようなものだ。続くはずがないし、そもそも教室に座っていることに耐えられなかったからである。

さて、萎え切った体力・気力ともに徐々にもどってきたわけだし、無駄なインプットにも厭き厭きしてきた。そろそろアウトプットの時期かも。出来得る限りの方法でやってみようか、と想う昨今だ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

無知の無知

2016-04-03 22:25:30 | 観想

 
 ソクラテスと云えば、<無知の知>という深い哲学的概念の意味を世界に投げかけた真正の知的存在である。ソクラテスのことに想いを馳せると、僕は、知性というものを誤解していた典型的なエセインテリとして生きてきたと、しばしば想う昨今なのである。簡単に敷衍し、換言すると、自分には人の数段上を行く理解力と創造力を兼ね備えているという、誤謬のオン・パレードそのものを生きてきた、ということなのである。たぶん、ごく最近まで、自分にとって大して怖いものなどこの世界に存在しない、と錯誤出来たのも、実はこの種の己に対する誤謬あるいは誤謬に対する無知ゆえである。

 もっと言うならば、自分が無知であることが分からず、小さな領域の知識を、自己の理解力とか、知性と思い込んでいただけのことだ。別に自虐的にものを言っているのではない。たぶん、世の中には僕に似た思い違いをしている人々がたくさんいる。それくらいは分かる。世界を見渡そうとするが、この程度しか分からないという意味で、辛うじて自虐から逃れているのではなかろうか。

 よく考えてみれば分かることだが、ソクラテスのように、自分は何も知らないと宣言することほど難しいことはないのである。何故なら、自己の無知を悟ったその瞬時から自己の創造的知性の躍動がはじまるからである。これはなかなかに困難な課題である。逆に、ちょっとした物事の断片をかじったことで、その物事の全てを理解したかのような錯誤とその種の錯誤を抱くことの、知的(いや、痴的)快感を得ることは、自分の中の世界像を歪めてしまう主因であり、知性そのものを貶めてしまうものでもある。

 世界は言葉で支配されていることはいまも昔も変わりはない。しかし、言葉の定義は、僕のかつての感覚で推し測ると、世界とは思想的言語で変化し得るものとして在ったし、それで精神的充足を得られるものだったのである。しかし、世界は太古の昔から、計算の論理、それを小難しく云えば、経済と云ってもいいが、この要素を抜きにしては成立しないものだったのだと、いまにして想うばかりである。

 こういうベーシック極まりないことに気づいたとしても、それをソクラテスのように<無知の知>とは言えるはずがない。どこまで行っても、僕の知に関する立ち位置は、知れば知るだけ、自己の無知を知ることに留まる。そして、決して自己の無知は、創造的な気づきの途には繋がってはいない、と観念するばかりである。さて、このあたりで自己規定しよう。我は、<無知の無知>なり。これが僕自身の知の定義だ。たぶん、これからも変わることはない。変わりたいのに、変われないのが<無知の無知>たる所以である。致し方なし。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

デラシネとしての生を生きるなんて、ダサいよ。ー自己への戒めとして語る。

2016-03-21 11:37:11 | 観想
デラシネという言葉がある。フランス語から来たカタカタ語だそうな。言葉の定義は、<根無し草、故郷を持たぬ人>のことらしい。ずっと昔、少年の頃、五木寛之という作家(いまは仏教回帰のただのおっさんになりさがり、人生を分かったふうに啓発する本を書いて自己満足しているから、作家とは認めていない)の「青年は荒野をめざす」という文庫本を読んで結構感激して読んだ覚えがある。五木の作品はいくつか読み続けていたが、どの作品だったか、デラシネという言葉を拾い出して、それが頭から離れないだけの話なのである。その後興味が失せて、だいぶ長い間存在すら忘れていて、本棚の埃を被った古びた文庫本のいくつにさっと目を通してみると、どれもこれも何ともつまらない内実で、それどころか作家としても三流どころがいいところで、若き頃の読書なんてあてにならない、ということを思い知った。晩年になって、五木が仏教回帰して啓発本もどきを書いているのは当然の結末だと想う。たぶん、まじかに迫った自己の死を受け入れがたいのだろう。その意味では表現手段を持たない大多数の読者の側にいる人々の方が、自己の死に対する立ち向かい方という点で、どれほど潔いかわかったものではない。

 前置きが長くなったが、今日書きたかったのは、デラシネという言葉についてである。もっと正確に云うと、自分の最晩年に突き当たった生の在りようが、まさに根無し草、故郷と定義出来るところもないものだったことへの気づきである。かつての親戚縁者も現実には存在するが、すべてが、これ無縁のごときもので、たぶん、僕が自分のことをデラシネとして生きる、と称しても、デレッタントの、これ見よがしの装いすらおぼつかないほどに、デラシネそのものの生きざまなのである。こうなると、どうしようもなく情けなく、この世界に自分を認識してくれる人がいったい何人いるのだろう、と真面目に考え始める。思春期の、孤独ではないのに孤独を発見した青年の心的現象から、言葉の定義どおりの孤独を身にまとったのが、いまの自分である。

 たいした金もないのに、プチ浪費家である。精神的瓦解の現れである。その証拠に、同じ種類のものばかり買ってしまう。たとえば時計、たとえば眼鏡。その他いろいろ。いったいいくつ体がある?死ぬまでに必要な数を遥かに上回っているのではないか?と煩悶しつつも、同じことを繰り返す。まだ、買い物依存症ならいいのかも知れない。それは何らかの精神的欠落感を埋めるための代償行為だからである。しかし、デラシネを意識した人間にとって、そもそも埋め合わせるものなどハナからない。僕にとっての買い物は、墓場まで持っていけねえほどだ、このやろう!と叫びつつ、終焉に向かいながら空しく行う作業のようなものだ。

 結論=老年に至って、デラシネなんていう言葉にこだわるほど見苦しいものはない。僕は見苦しくてもいい、なんて開き直ってはいない。出来ることなら、こんな言葉に捉われる自分からいつか自由になりたい、と心底想っているのである。五木寛之のような精神的空中転回をやらずに、ね。これはホントの決意です。

文学ノートぼくはかつてここにいた

長野安晃