嶽麓日記

中国・長沙でのくらし

想定範囲内

2006年02月28日 09時02分39秒 | Weblog
 えー、「擬音語・擬態語のアクセント」は研究が滞っておりますが、いましばらく御寛恕を。(「寛恕」って、こういう使い方でいいのか?)

 ところで、堀江貴文氏の有罪が確定すると、2005年度の新語・流行語大賞の大賞は剥奪されてしまうのでしょうか。

 流行語大賞では「想定内(外)」でノミネートされていましたが、実際には「想定範囲内」で使われていましたね。
 この「想定範囲内」。意味的には「想定範囲」「内」って区切れるんですが、形態的には「想定」「範囲内」って区切れます。
 その証拠に「想定の範囲内」とも、使われてたでしょ。(googleで検索したら、236万件ヒットした。)「*想定範囲の内(ナイ)」とは、どうやったって言えない。(言語学では言えない語や文にはアステリスク(*)を付けて提示する約束になっています。)

 そもそも、「-内(ナイ)」っていう形態素(意味を持つ最小の言語単位)が自立形式ではないのです。つまり、何か別のものとくっつかないと発話され得ないということ。

 こういう、形態的に独立性が弱いが意味的・機能的にはとっても強いという形式は、漢語系・洋語系の形態素にしばしば見られます。

 たとえば、否定を表す接頭辞「非-」「不-」「無-」「未-」。これらは、語の機能を変えてしまうほどの役者です。

 「*常識な態度」とは言えないけれど、「非常識な態度」は言える。
 「*用意な発言」とは言えないけれど、「不用意な発言」は言える。
 「*意味な仕事」とは言えないけれど、「無意味な仕事」は言える。
 「*解決な事件」とは言えないけれど、「未解決な事件」は言える。

 「未解決な事件」は厳しいかな。google検索したら、265件ヒットしたんだけど。

 こういうのは、そういう傾向があるというだけで、決して規則的なものではありません。当てはまらないものも結構あります。

 たとえば、「非文化的生活」は、意味的には

[「非」「文化-的」]「生活」

 って、区切れます。形態的にも「非文化的な生活」と言えるので(「*非な文化的生活」)一致します。
 でも、音韻的にはずれが生じます。つまり、ふつうに発話してみると……

 「非」と「文化的生活」のあいだにちょっとポーズが置かれるでしょ。

 決して、

 「非文化的」「生活」みたいな息継ぎはしないはず……

 ほかにも、「非進化論的結論」とか「非論理的文章」とか「非揮発性燃料」とか、「的」や「性」でふたつの要素をつないだ語に「非」が付くと起こる現象のようです。

 ほかの「不、無、未」には起こらないようですね。(あったら、教えてください。)

擬音語・擬態語のアクセント(その三)

2005年09月10日 06時49分01秒 | Weblog
(承前)
 言い忘れていましたが、ここで扱っているオノマトペは、二モーラが繰り返されて四モーラになっている語に限定しています。日本語のオノマトペには、いろいろな派生形があります。例えば、

(1) 語末に「り」がつく。例:すらり、くらり、だらり。
(2) 語末に「っと」がつく。例:すらっと、くらっと、だらっと。
(3) 「~り」形の第一モーラと第二モーラのあいだに「ん」や「っ」が入る。例:ぼんやり、やんわり、しっとり、しゃっきり。

 「モーラ」について説明しておきましょう。前回までは、「音節」と呼んでいましたが、言語学では「音節」と「モーラ」を区別しています。「モーラ」とは拍(時間的な長さ)のことで、日本語ではおおよそ仮名一文字と対応しています。例えば、「くらり」は三音節三モーラですが、「すんなり」「しっとり」は三音節四モーラ、「すうっと」は二音節四モーラとなります。

 実は、前回提出した回答には例外も存在します。その例外がどのように分布していて、なぜ、例外的なのか。まだ、考察がそこまで進んでいないので、また後日扱うことにしたいと思います。

擬音語・擬態語のアクセント(その二)

2005年09月05日 08時36分40秒 | Weblog
(承前)
 形の上から見ると、(a)は、動詞にじかに連接するか「~と」という形でくっついて、動詞を修飾しています。「修飾」とは、相手の意味を細かく描写(つまり、限定)することです。
 (b)は「~に(動詞)」あるいは「~の(名詞)」という形で現れて、それぞれ動詞と名詞を修飾しています。

 文全体あるいは述語の意味から見ると、(a)は《運動・動作》を表していて、(b)は《様態・属性、あるいは動作の結果状態》を表しています。(a)が動的、(b)が静的なわけです。

 ですから、理論的には、アクセントの違いの由来は二つ可能性があることになります。

(1) 「さらさら(と)」と「さらさら(に/の)」は意味(そして後ろに現れる接辞)が異なるので、たまたま形が同じであるだけのまったく別の語である。(これを「同音異義語」と言います。例えば、「雲」と「蜘蛛」。)ただ、言語学ではアクセントも「形」として扱うので、(a)と(b)はそもそも形が異なることになります。ああ。ここでトートロジィに陥ります。

(2) (a)も(b)も同じ語である。つまり、意味の違いはアクセントが担っているのです。ただ、(文の)意味の違いは述語でも表されているので、アクセントがもし意味の違いを表しているとすれば、その違いは冗長性(redundancy)を持っていることになります。

 (1)の場合、やはり意味の違いは述語動詞が担っているのであって、オノマトペ自体に意味の違いはないと主張することもできます。(a)と(b)の「さらさら」のあいだには母語話者の直感として、意味の共通性が感じられます。
 それに、「さらさら」に同音異義を認めてしまうと、オノマトペのかなりの語に同音異義を認めることになり、語の数が一挙に倍近くになってしまいます。これは煩雑です。

 (2)の場合、アクセントが意味を担うという考え方を認めることになります。日本語では、アクセントは意味の違いを担わないと考えられてきました。これは、意味を「区別」するということとは違います。「雨」と「飴」のアクセントの違いは語を区別しているだけであって、何かの意味を担っているわけではありません。
 たとえば、「この問題わかります」という文で、文末を下り音調で言うと「肯定文」になり、上り音調で言うと「疑問文」になります。このとき、文末の上り音調は《問いかけ》という意味を担っていることになります。
 このように、語ではなく文全体を単位として、意味を担う音調の違いを「イントネーション」と呼び、アクセントから区別しています。
(次回に続く)

擬音語・擬態語のアクセント(その一)

2005年09月04日 21時37分26秒 | Weblog
 以下では、日本語東京方言(共通語)のアクセントを扱います。

(1a) 小川がさらさらと流れている。
(1b) 肌ざわりがさらさらになる。

 この二つの文の「さらさら」はアクセントが異なります。(1)のほうの「さらさら」は「さ(高)ら(低)さ(低)ら(低)」と発音します。(2)の「さらさら」は平板型アクセント(無アクセント)と呼ばれるもので、「さ(低)ら(高)さ(高)ら(高)」となります。日本語のアクセント研究では、東京アクセントは高い音調から低い音調に落ちる音節(あるいは音節と音節の間)だけを示せば、単語全体のアクセントが決定すると考えられています。それに従えば、(1)の「さらさら」は「さ’らさら」と表記できます。「’」は一般的に用いられている記号ではないのですが、ここでは高から低へと下る音調を示します。(2)は「さらさら」(下り音調がない)と表記できます。

 このような違いは、「さらさら」に限ったことではありません。擬音語・擬態語(オノマトペ)と呼ばれる語に、かなり体系的に認められる違いです。
 例を挙げてみましょう。

(2a) 食べかすをぼろぼろ落とす。
(2b) 服がぼろぼろになる。
(3a) 遠くでぴかぴか光っている。
(3b) グラスをぴかぴかに磨く。
(4a) 次々とぺらぺらしゃべる。
(4b) ぺらぺらの紙が一枚ある。
(5a) 桜の花がひらひらと舞い落ちる。
(5b) フリルのついたひらひらの服。

 さて、(a)の文と(b)の文のオノマトペはどのように違うのでしょうか。つまり、二つのアクセントの違いは、どこから生じるのでしょうか。
(次回に続く)

『日本語に主語はいらない』

2005年09月01日 07時42分51秒 | Weblog
金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社、2002年)という本があります。
かなり話題になったので、ご存知の方も多いと思います。

本の内容については、多くの紹介、批評が出ているので、ここでは触れません。

以前、言語学や日本語の文法について専門的な知識を持たない知人と話していて、この本についての話題になったことがありました。(その知人は、この本を未読でした。)
しばらくして、会話がかみ合っていないことに気付きました。彼はこの『日本語に主語はいらない』という書名の意味を誤解していたのです。しかし、その誤解は、言語学や日本語学の知識を持たない人にとっては、おそらくは自然な解釈なのです。むしろ、「日本語に主語はいらない」という文言こそ、一般の人には不親切な、専門家のジャーゴン(隠語、方言)なのです。

本書の書名は、この本の第二章の章題「日本語に主語という概念はいらない」という意味です。つまり、文法概念・分析概念としての「主語」であり、「主語」という用語で指し示される対象の方ではないのです。

猫が屋根の上を歩いている。

従来の文法では、この文の「猫が」が主語だと分析されていました。この本では、この文章で「猫が」が不要だと言っているのではなく、この文章を文法的に分析する際に「猫が」を「主語」と分析するのが誤りであると言っているのです。(ただし、同時にある文においては「猫が」にあたる要素を言わない文が、日本語として自然な文であり、それは省略ではない、とも主張しているのですが。)

知人はまさに、《日本語の文章では「猫が」にあたる要素を書くべきではない》という主張だと解釈していたのです。ですから、事実としても規範としても、この著者(金谷氏)の主張はあたらないという趣旨の批判を述べました。

私はこの誤解にようやく気付いて、あわててうえの趣旨を述べて誤解を解いたのですが、心の中で「でも、たしかにこの書名では誤解されるのも無理はない」と思っていました。この書名から本書の主張を正しく推測できるのは、私が三上章氏の「主語無用論」など、日本語文法の研究に関する知識を多少持っているからに過ぎないのです。

非常に挑発的な、そのため人目をひくような書名なのですが、誤解を与えるようなものは慎重に避けるべきでしょう。

とか

2005年08月31日 07時31分20秒 | Weblog
「最近雨とか多いよね。」「暑いとか言わないでくれる?」

という場合の「とか」。いまのところ文章語(書き言葉)には現れない口語(話し言葉)限定の用法です。
規範を重んじる言語保守派には、「とか弁」とか言われて蛇蝎のごとく嫌われている印象があります。

この現象は、すでに辞書にも記述があります。

とか(副助) 思いつくままに顕著な例を列挙することを表わす。〔最近の若者は、断定を避けた、一種のえんきょく表現として用いる傾向がある。例、「昨日は一日中テレビ~見ちゃって」など〕「こづかいは交通費~昼食代~で無くなってしまう/僕が君の家へ行く~、君の方がうちへ来る~、その時になって決めればいい」
(『新明解国語辞典』第五版、三省堂、1997年)

さすが『新明解』。1997年の時点ですでに、「とか」のこのような用法は広まっていたんですね。惜しむらくは、例のところで、

「昨日は一日中テレビ~見ちゃって」とか

としてほしかった。

送り仮名

2005年08月30日 21時03分41秒 | Weblog
いまの送り仮名の付け方のよりどころとなっているのは、昭和48年内閣告示第二号「送り仮名の付け方」です。これは、常用漢字表の告示にともなって、昭和56年内閣告示第三号によって一部が改正されました。

「前書き」の「二」にあるとおり、

この「送り仮名の付け方」は、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。

まさに、「よりどころ」であり、読み誤りの恐れがなければ、自由に送っていいのです。それが大原則です。ただ、現在はワードプロセッサが普及しているので、それほど送り仮名のパタンが千差万別になるという可能性はなくなってきています。(ワープロの普及によって、漢字で表記される語が増大したという問題はあるのですが、今回のテーマとは関わりがないので、別の機会に論じようと思います。)

8月28日放送の「アッコにおまかせ!」(TBS系列)で、漢字に関するクイズに出演者が回答していました。「( )しい」「( )める」の( )内に入る漢字を答えさせるというクイズです。審判が二人いて(氏名は失念してしまいました)、解答者の回答の正誤を判断していました。そして、次のような回答を誤答としていたのです。

「懐しい」、「勇しい」、「騒しい」

審判によると、正解は「懐かしい」、「勇ましい」、「騒がしい」であるとのことです。
これは「送り仮名の付け方」の通則2の本則によっています。

通則2 本則 活用語尾以外の部分に他の語を含む語は、含まれている語の送り仮名の付け方によって送る。(含まれている語を〔 〕の中に示す。)
〔例〕
(1) 動詞の活用形又はそれに準ずるものを含むもの。
動かす〔動く〕 照らす〔照る〕 語らう〔語る〕(…中略…)
勇ましい〔勇む〕 輝かしい〔輝く〕 喜ばしい〔喜ぶ〕
(…以下略…)

つまり、「懐かしい」は「懐く」から派生した語、「騒がしい」は「騒ぐ」から派生した語なので、「懐く」「騒ぐ」に準じた送り方をするということです。

しかし、通則2には次のような「許容」があります。

許容 読み間違えるおそれのない場合は、活用語尾以外の部分について、次の( )の中に示すように、送り仮名を省くことができる。
〔例〕 浮かぶ(浮ぶ) 生まれる(生れる) 押さえる(押える) 捕らえる(捕える)(…以下略…)

また、例外もあり、「明るい、荒い、悔しい、恋しい」は、「明ける、荒れる、悔いる、恋う」の派生形とは考えず、通則1(活用語尾を送る)によるものとしています。

このように通則2にはずいぶんとゆれがあり、上の「懐かしい、勇ましい、騒がしい」も誤読の恐れがないのですから、通則1に従って活用語尾(「しい」)のみ送ってもちっとも誤りではない、と私は思うのです。

そもそも、このクイズの本質は終止形が「~しい」、「~める」である語にあてられる漢字を答えるものであり、「送り仮名の付け方」の知識まで問うものではないと思います。百歩譲って送り仮名の付け方を問うものであったとしても、「送り仮名の付け方」を杓子定規に当てはめるべきではありません。

(追記)なお、「通則1」で言っている「活用語尾」は、現在の日本語学の用語法での活用語尾ではありません。この用語法はいわゆる「学校文法」におけるものです。

「パッチギ」はハングルではない

2005年08月29日 23時49分14秒 | Weblog
DVDで「パッチギ!」(井筒和幸監督、2005年)を観ました。
これは傑作ですね。とても、面白かったです。

ただ、残念なことが一つ。
DVDのジャケットやアマゾンのレビュー、公式サイト等で、タイトルにもなっている「パッチギ」という語の意味が解説されています。どれも、本質的には変わらないのですが、アマゾンのレビューを引用しましょう。

なおパッチギとはハングル語で“頭突き”のこと。“突き破る”“乗り越える”という意味もある。(増當竜也)

「ハングル語」などという言語はありません。
ハングルとは、朝鮮語・韓国語の表記に用いられている文字の名前です。
たとえば、外国語で

「なお、~とはひらがな語で“頭突き”のこと。」

などと書かれていたら、どう思うでしょう。これを書いた人は日本語に対する理解が足りないと思うでしょう。うえの文章のせいで、コリアンたちからの「パッチギ!」に対する評価が下がってしまうのは、非常に残念なことです。

ただ、同情すべき事情があることも理解はできます。
NHKの「ハングル講座」もそうなのですが、「韓国語」「朝鮮語」という呼称をとることによって、政治的な立場を表明していると受け取られかねないのです。
言語学では「朝鮮語」と呼称し、この場合の「朝鮮」とは朝鮮半島という地理的概念を表すに過ぎないと断っています。
なかなかいい代案を提示することができないのですが、文字の呼称である「ハングル」を言語の呼称に転用するのは、避けた方がいいのではないでしょうか。

「アニメ」のアクセント

2005年08月28日 23時45分32秒 | Weblog
木尾士目『げんしけん』第1巻(講談社、2002年)、96ページに「一般人(=非オタク)」である春日部咲の次のような台詞があります。

「アニメの絵の/エロ本を大量に/見つけたんだわ」
「え だって/アニメだよ?」「アニメなのに/いやらしいのって」

これらの台詞中の「アニメ」の箇所に米印(※)が付してあって、コマの外に次のような注が書かれています。

「咲ちゃんは“ア”にアクセントを置いています。」

春日部咲は、「ア(高)ニ(低)メ(低)」というようなアクセントで、この単語を発音しているのです。
しかし、問題は、なぜこのような注がわざわざ付けられているかと言うことです。これは、現視研部員のようなオタクは「アニメ」を別のアクセントで発音すると言うことを示唆しているのです。彼らは「アニメ」を平板アクセント(=無アクセント)で発音するのだということを示していると考えていいでしょう。つまり、春日部咲の発音とは異なり、「ア(低)ニ(高)メ(高)」というようなアクセントで発音しているのです。

日本語でどのような語が無アクセント語であるかという問題は、まだきちんとは解明されていません。
和語と漢語では無アクセント語は非常に多く、日本語の語彙全体の約半数を占めると言われています。

無アクセント語が少ないと言われている外来語に関しては、太田聡氏が次のように言っています。

外来語の場合には、なじみ深い語は無アクセントになりやすいということがよく指摘される。たとえば、コンピューターに詳しい人は「データ」、「メール」、「ユーザー」などのコンピューター関連の用語を、ミュージシャンやDJなどであれば「ギター」、「ライブ」、「ツアー」、「リスナー」などの音楽関連の用語を、車好きな人であれば「マフラー」、「ブレーキ」、「ホイール」などの用語を、学生であれば「レポート」、「サークル」、「セミナー」などの用語を、平板化したアクセントで発音する傾向にある。このような外来語は、本来は語末から2、3番目の音節にアクセントを持つべきものであり、それを平板型で発音するのは、規範を尊ぶ人にはだらしない、あるいは、少々生意気な感じを与えよう。しかし、無アクセント発音をする人たちには、このような語は、わざわざ外来語として特別扱いするまでもなく、自分たちには和語や漢語と同じようにごくなじみ深いものという意識が働いているものと思われる。
(窪薗晴夫・太田聡『音韻構造とアクセント』研究社出版、1998年、221ページ)

要するに、現視研部員にとって「アニメ」という語はなじみ深く、春日部咲にとってはなじみが薄いということです。当たり前と言えば当たり前の結論ですが……。

ところで、現在フジ系列で放映しているドラマ「電車男」で伊藤淳史さん演じる山田剛司は、「アニメ」を春日部咲風に“ア”にアクセントを置いて発音していました。
少し違和感があるかな?

神話

2005年08月26日 09時33分42秒 | Weblog
「~の不敗神話が破れた」や「日本の安全神話がくずれた」
などといった形で「神話」という語が使われます。

「神話」という語は、辞書には次のように定義されています。

(1) 天地の創造を擬人的に説明し、森羅万象に宿る霊の存在や、民族の祖神の活躍を述べる物語。〔……略……〕
(2) かつて(長い間)絶対と信じられ、驚異の的とさえなっていた事柄。〔多く、現在は俗信に過ぎないと言う観点で用いられる〕
(三省堂『新明解国語辞典 第五版』)

その氏族・部族・民族の神を中心にして、往古の事実として伝えられた説話。>史実でなくてもよいところから、比ゆ的に「現代の-」のように、根拠無しで皆が信じている事柄を指すこともある。
(『岩波国語辞典 第三版』)

(1) 古くから人々の間に語り継がれている、神を中心とした物語。
(2) 宇宙・人間・文化の起源などを超自然的存在の関与の結果として基礎づけ、説明した話。神聖な真実として信じられ、日常生活の規範として機能することもある。
(3) 人間の思惟(しい)や行動を非合理的に拘束し、左右する理念や固定観念。「皇軍不敗の―に踊らされる」
(三省堂『大辞林 第二版』)

「不敗神話」や「安全神話」といった場合の「神話」は、
どのような意味で使われているのでしょうか。

もし、『新明解』の(2)のかっこの前までの意味や『大辞林』の(2)のような意味で用いるのであれば、
「不敗神話が破れる」「安全神話がくずれる」
といった用法は適切です。

しかし、『新明解』(2)のかっこ内、『岩波』の>以下の但し書き、『大辞林』の(3)の意味で使うのであれば、
「~チームの不敗は神話だった」「~が安全だというのは、神話に過ぎなかった」
というように使うのが適切であるはずです。
ただ、「神話」という語がこのように使われる例は、あまり見かけません。
(『岩波』の「現代の神話」と『大辞林』の「皇軍不敗の神話」が
そのような例にあたります。)

この、辞書の定義と実際に使われる用法との齟齬はしばしば見られるのですが、
原因はいろいろ考えられます。

(1) 「神話」の意味が変化した。つまり、辞書の記述は、「神話」の旧い意味である。
(2) 辞書の記述が誤り、不適切である。
(3) 「不敗神話」「安全神話」というように複合語になることによって、「神話」の意味が変化した。

この場合に限れば、(3) がいちばんあり得そうな答えです。
複合語とは、乱暴にいうと、語(単語)どうしがくっついてできたさらに大きな語のことです。
この複合語を形成している元単語(「語基」と言います)は、もはや語と同じ地位にはありません。
語よりも小さな単位です。(「形態素」と言います)
ですから、意味も、語と同じ意味を持つとは限りません。

「くちひげ」の「くち」は単純語の「くち」が指し示す部位とは別の部位を指します。
(鼻と上唇のあいだですよね。)
「碁がたき」の「かたき」は<敵>という意味ではありません。(むしろ<親友>ですよね)

これと平行的に、「~神話」という複合語において、「神話」という語基の意味は、
単純語の「神話」の意味とはずれを起こしているのです。
おそらくは単に「過去の経験から、大勢が信じている事柄。」とでもいう意味になっているのでしょう。

冒頭の問いのたて方が悪かったと言うことになります。