Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

『ルドンとその周辺 --夢見る世紀末』展 

2012-01-18 | 芸術礼賛
 
 月に1日しかない「ノー残業デイ」であるのをよいことに、そして今日は20時まで開館しているのを天啓として、早速『ルドンとその周辺 夢見る世紀末』展に行った。

 オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。初期~中期は「黒の画家」と呼ばれるように、光の効果を追求したモノクロの幻想的な版画を数多く制作した。わたしの大好きなユイスマンスの小説「さかしま」の文庫版の表紙になっているので、機会があれば見てみてほしい。
 黒いルドンはわたしの大好物だが、なぜか「Color」という単語を聞くと、パブロフ反応でルドンを想起する。不思議なことだと自分でも思う。だって、色彩が美しく豊かな画家なんて、ほかにもいっぱいいるはずだから。

 この展覧会は、「グラン・ブーケ」と呼ばれるたいそう大きなブーケの絵を収蔵した記念としても機能している。「グラン・ブーケ」は、ルドンが描いた最大級のパステル画でありながら、110年間フランスの城館に秘蔵されていた本邦初公開の作品。見ずばなるまい。

 私がルドンを最初に知ったのは、そして、ルドンの唯一の印象として残ったのは、「眼」だった。中学生くらいの頃だったかと思う。
気球のようにふわふわと飛んでいきそうな眼、真っ暗闇からこちらをビシっと厳しく見やる細い眼、何気ない窓の外に妖怪のように現れる巨大な眼球。美しい女性の、勿体無いとつい思ってしまうくらいにきっぱりと閉じられた眼。やけに温和な笑みを湛えるキュクロプス。

 ルドンは眼をなにかのよすがにしているひとだ、と思った。
 眼が無限の方角へ向かい、人間の知を促進させる。眼が中空に現れ、愚かな我々が知らない”何か”を突きつける。痩せた頬骨の隙間から観客をじっと見詰めるもの言いたげな哀しいまなざしが、何気ない「はずの」日常に向ける疑問という闇をねじこんでくる。
 生物学や科学が進み、ダーウィンが進化論を唱え、人智がイケイケだった時代の空気の真ん中に、ルドンは黒い色をした目玉をぽちゃんと投げ込む。目玉は溶けることなく、ギロギロと周囲を眺めながら、周囲の空気に黒や灰色のもやを細々と発信し続ける。
水の表に垂らされた墨の一滴がまるで生き物のように水面を動き回るのについ魅入ってしまうのと同じく、ルドンの黒は思春期の私の心にじわじわと染みをつくり、もはや洗っても落ちないものになった。

 一方、色彩ゆたかなパステルは、私を夢見心地にさせる。縦が約2.5メートルもあるグラン・ブーケを支える大きな花瓶は、立体感を無視するようにぺったりと塗られた美しい青色だ。青の洞窟とは多分こんな色なんだろうな、と思わせる色で、それがガラスなのか、陶器なのかも判然としない。ただ、とことん碧い器が溢れんばかりのブーケを支えている。太陽ならぬ天井に届きそうなひまわりを頂点として、黄色やオレンジの花を基調に統率なく生けられた花。孔雀の羽のような色味の花。花。
 右手前にはオレンジ色した大輪の花がいまにも、首の重さに耐えかねてぽろりともげている。それによって生じた振動で、ひとつ、またひとつと花が零れ落ちてゆく。空に近いほうでは、光を反射するラメのように白く小さく散りばめられた花がひとつ、またひとつと蕾を開かせてゆく。
 

 規則なく次々とこぼれてはまた、咲いていく。大きな大きな色彩の点滅。
 ランダムな色をした生命が生まれ、開き、輝きつつも毀れていく。そしてまた生まれる。
 ああ、まるでそれは地球のようではないか。



わたしの知っているリビア。

2011-10-24 | 異国憧憬
わたしはあの国を知ってる。いや、知ってた。日本のメディアが説明する内容とはそれは全く別の国だった。

 わたしがリビアに行ったのは、2001年と2003年だった、と思う。
2001年に行ったときは、日本で既に伝染っていたと思われるインフルエンザが発症して、現地でえらいめにあった。年末だったからもうそれなりに寒いし、熱は39度超えるしで。
英語のできる現地人を連れて病院にいったら、観光ビザの旅行者にすぎないのに、無料で診察してくれて(連れの現地人も払ってないみたいだった)、解熱剤もくれた。帰りに薬局によって、市販の薬をかなり安い価格で、連れが購入してくれた。「医療費はどうしたらいいのか。保険とか?」と訊くと、「この国を見るためにわざわざ遠くから来てくれた人から、どうして金をとる理由があるんだい。この国はそういうバカげたことしないよ。」と連れは笑った。そしてわたしの体に毛布を3重くらいに掛けて、部屋を出てった。

 2003年に行ったときは、トリポリの旧市街老朽化のための復旧工事をしていた。今回、空爆にあって復旧がダイナシになったあそこだ。旧市街の入り口には、それはそれは白くて長い髭が絵になる老人が、募金を募っていた。帰国間近で現地通貨が余っていた私は、10ディナール(850円くらい)を手渡した。老人は、手元のつづりチケットみたいのを10枚ちぎって、わたしに渡した。
身振り手振りで話をきくと、集金したお金と、もぎったチケットの枚数を照会して、くすねることができないようになっているシステムだということだ。日本の募金(※あくまでも一部だが)よりもずっと信頼がおける気がした。いまでも、その募金チケットの半券はわたしの手元にある。

 カフェでまったりしていたとき、広場がザワつきはじめた。カダフィ大佐の車列が通るらしい。どうせなら見てみたいが、どれだけの時間待たなければいけないのか、と思っていたら、10分もせずにやってきた。交通規制は、彼の車が通るほんの5分か10分前。日本とは大違いの警備の薄さというか、豪胆さに驚いた。
警護の車も決して多くなく、カダフィ大佐本人は、窓を大きく開け放って、市民からの挨拶に応えていた。市民は、熱狂的にヒーローを迎えるというのでもなく、日本人が皇室に対してするみたいな、丁寧に敬う感じというのでもなく、むしろもっと親しげに、うまくいえないが、スポーツとか政治とかの地元密着型のアイドル(?)を迎えるみたいな、イェーイという明るい歓迎に包まれていた。独裁とはいえ直接民主制だからなのか、リーダーと国民の距離がやけに近しいなあ、と思った記憶がある。


 あの、あったかい国の風景はもう、ない。
ホームレスが居なくて(国が家をくれるから)、酔っ払いがいなくて(酒は禁止だから)、外国には珍しく、お散歩し放題だったあの国はなくなってしまった。

 今後のリビアがわたしが好きだったあの頃の治安と経済力を取り戻せるには、ものすごく沢山の障壁がある。
千葉県ほどの人口しかないあの広大な国が、もっと小さく分裂することも大いにありうる。
地図をみなくても歩けるトリポリのスークを、背後に気を使うこともなくフラフラと、もういちど歩きたい。


【参考】
-- カダフィの真実を知ってほしい  リビア 新世界秩序 NATO http://www.youtube.com/watch?v=aggieI4YAVw&feature

正妙寺(千手千足観音)。

2011-05-23 | 仏欲万歳

 久しぶりの見仏は、両の手が過労による発疹で埋め尽くされた状態でスタートした。
この度の行程は、近江から若狭。再訪箇所が殆どだが、天然の要害とも言える立地ゆえに護られた、ゆったりした時間の流れのある場所にどうしても行きたかった。

 この日、滋賀県一帯には大雨洪水警報が発令されていた。しかしながら、一度も傘を開いたことはない。屋外にいるときには止む、というわたしの「濡れない雨」現象は、年を重ねるごとにめきめきと顕著になってきている。とはいえ、「そもそも降らせない」ことができないという致命的な欠陥付きの能力ではある。


 滋賀県の仏像は、今も少なくない数が無住の寺や近隣住民が守る収蔵庫に収められている。拝観希望は、当日の朝に電話で予約をする。10年前と変わらない拝観スタイルがわたしを安堵させるとともに、いつまでこのシステムが継続していけるかという不安を覚えさせた。
雨の間を縫って訪れた二件目が、この正妙寺である。

 日枝神社のふもとには、数台の軽トラが泊まっていた。猿よけのための空砲を打ち鳴らす中、鳴り物入りで山腹の御堂に到着。「お堂」というにはあまりに小さく、二畳あるかないかだ。案内のおじさんは、脇に抱えていた段ボールを雨で濡れたお堂の入り口に敷き、「お近くでどうぞ」とわたしを誘った。一般家庭の仏壇よりも小さなお厨司の中から現れたは、世にも珍しい千手千足観音。

 長らく秘仏で、たまのご開帳時も顔を見せる程度だったそうで、こうした特異な姿であることは地元でもほとんど知られていなかったらしい。近年、仏像の盗難が各所で頻発するようになり、「誰かが管理をしなければ」ということで、管理係を決めて輪番で管理することになったそうだ。木の材質も不明(※見たところ、壇像系の堅い木には見えない)、全身に金泥が塗られているが、塗りは非常に新しい。近世の作と思われるが、あるいは中世像で表面のみ江戸時代に補われた可能性も議論されており、詳しい調査が待たれる。

 像は、一言で表現するならば、「キッチュ」である。像の功徳をわかりやすく図像化するとマンガチックになるのは時代を問わず世の必然のようだ。40センチ余りの小さな立像で、一般の千手観音と同様に頭上面を持つが、本面は3眼の忿怒相で、口は大きく開いて牙が覗く。表情や姿勢を見るに、観音というよりは明王のような印象が強い。
第一手は錫杖と戟(げき)を取るが、他の手に持物はない。足は台座を踏みしめる2本のほか、連結しているのか、超高速で動いているのか分からない多数の足がムカデのように連なっている。表現の簡略化のためか、動きを表すためか、あるいは足を個々に掘り出すことによる像の耐久力の低下を防ぐ目的か・・・不明であるが、多数の足は板のようにひとつのカタマリとして掘り出されている。まるでカニだ。あるいはゲジだ。馬鹿にしているわけではないが、等身大ならまだしも40センチの小柄の人にそのポーズを取らせるのは確信犯であろう。だからご希望通りに突っ込みをいれたまでだ。


 千本の足で広い世界を駆けまわり、千本の手であまねく衆生を救うためには、ほっと穏やかな顔をしていられるほど余裕がないものと見える。空気をいっぱいに吸い胸を膨らませ、やや紅潮した顔で息を切らせる小さくて必死の観音。

 せわしなき世に、せわしなき衆生を、せわしなく救う。
造作や材質の裏付けは全く持たないわたしであるが、この像容を見るだに、江戸のちゃきちゃきした時代が脳裏に浮かぶ。この像が近世の作ということで認定される日がくれば、わたしは大きく納得する。

 今の世に相応しい仏像の像容はどんなかたちになるか。
仏像のかたちは、世のありようによって、思い思いに変化する。それが観音であればなおのこと。






俗世からのただいま

2011-05-22 | 徒然雑記
 長らく更新しておらず、まずはお詫び申し上げます。

 ブログを更新しなかった、あるいはできなかった理由を、そろそろ整理できる時期になった。理由(言い訳とも言う)は概ね、以下の2点にまとまった。
数少ない読者の方々には、多大なご迷惑と失望を与えたことを心からお詫びしたいと思う。

<理由>

①本業における責任が大きくなったこと
 これが最も大きい。私的な時間においても、仕事のことを考えざるを得ない時間が格段に増大し、それ以外の脳の箇所を使うことに対してかなりの疲労感を感じるようになってしまった。勿論、深夜まで仕事をする機会が増えたこと、また、ソーシャルネットワークが発展するにつれて、業務上それらを使用することが増え、内省しながらPCに向かうことが難しくなったこともある。とはいえ、最も大きな要因は、時間的な制約よりも、業務増加がもたらす精神的な負荷によるものであることは自覚している。

②近親者が鬱病になったこと
 これも、①に負けず劣らず大きい。
「ツレうつ」という言葉があるように、患者に寄り沿う時間が長ければ長いほど、こちらにかかる負荷が増える。そして、それはわたし自身を大きく蝕んでいく。表向き、通常の社会生活を継続する必要があるわたしが鬱のおこぼれを頂戴してはならない。①の要因もあいまって、自分が平静を保つために、できるだけ心の琴線を震わさず、感情の起伏を最小限で済ませておくことを是としていた。そのために、風景を見つめ、感情を確かめながら書くブログなるものから一定の距離を保ち、表現することを避けることを選択した。


 目下、上記2点の要因が排除されたり緩和されたりしたわけではない。だから、今後定期的な更新を続けることができるかどうかは、はなはだ自信がない。
とはいえ、そろそろ、ふたたび書いてみようと思えるようになった。
思ったときが、多分その適切な時期である。






ボルゲーゼ美術館展 - 声にならない小さな叫び -  

2010-02-08 | 芸術礼賛
 ボルゲーゼ家歴代のコレクションをある程度まとまった形で紹介する展覧会が日本ではじめて、東京都立美術館で開催されている。ボルゲーゼ美術館は、もう10年以上も前から、死ぬまでに一度、とは云わず何度でも訪れてみたい美術館のひとつで、ルネサンスからマニエリスム、バロック美術が好きな方々には堪らない場所だ。
 
 ここで私がどうしても逢いに行きたかったのが、上掲のカラヴァッジオの洗礼者ヨハネである。
6年前くらいか、カラヴァッジオが一時期滞在したマルタで、別の洗礼者ヨハネを見ている(『洗礼者ヨハネの斬首』1608)。このほかにも、カラヴァッジオはいくつもの洗礼者ヨハネを描いており、しかも単独であることが多い(※「執り成し」の意を持つ洗礼者ヨハネは、聖母マリアと共に描かれることが多い)。

 洗礼者ヨハネはそもそもキリストの道を整えた者(預言者)として宗教画には非常にポピュラーな題材であり、上述のように聖母マリアと一緒であったり、キリストに洗礼を施していたりと複数の定型的な題材もある。
いくつかある洗礼者ヨハネのテーマの中でも、カラヴァッジオに描かれるヨハネは闇に浮かび上がるようにひとり荒野で修行をしているか、斬首あるいは斬首後の首として登場する。いわば、聖母マリアと一緒になって俗世の我々と神とを繋ぐ役割を担ってくれるわけでもなく、キリストに洗礼を与え、キリストをキリストたるべき条件にあらせる「はじまり」の一端を担うわけもない。ただ、人としての孤独な生の最中か、その生が果てる孤独のなかにある。

 
 洗礼者ヨハネは、虫とハチミツだけを食べて飢えを凌いでいたとされる割に、頬は紅潮し、胴まわりには皺が寄れるくらいの脂肪の余裕があり、脚には小鹿のようにしなやかな筋肉がある。上着兼毛布のはずの紅いマントは埃にも負けず鮮やかに闇に映える。唯一修行中であることを窺わせるのは泥にまみれた足の爪だけで、むしろその汚れが不自然に見える程に彼はきれいで、無防備だ。
よく云えば物憂げな、けなそうと思えばドロンと濁った目はまっすぐにこちらを見つめるが、その目に光はあれど生気はない。眠気を我慢するような、あるいは泣き出すことを我慢するような、涙による物理的な光が一切れ差しているだけだ。

 無力で弱弱しい少年の姿を借りたこの洗礼者ヨハネは誰だ?
 無力さの露悪と引き換えに少年が欲しがっているものは何だ?


カラヴァッジオはこの作品をボルゲーゼ枢機卿に贈り、数年前に起こした殺人罪の恩赦を願っていたという。




岩韻

2009-12-28 | 異国憧憬
 
「一番高いお茶は?」という問いに対する回答は、「一般的には、大紅袍」らしい。

 福建省北部、世界遺産にもなった武夷山という岩場が多い山で作られる「武夷岩茶」。それを代表するお茶が大紅袍(ダアホンパオ)。樹齢300年を超える茶木が4本しかなく、そこから作られるお茶は、量が極端に少ない(※挿し木で子木・孫木を増やしている)。このお茶が、日本円換算で20グラム約280万円超の値がついた年もあったそうだ。

 名前の由来も複数あり定かではない。古く、皇帝が近くを通った時に病気になった際にこのお茶を飲ませたところ速攻で回復し、皇帝がお礼に助けてくれた僧侶に最高位を現す紅の衣を贈ったという説。この地域に住まっていた高僧が病気になり、このお茶で治ったので、自分の紅の衣をこの木に掛けて香を焚き、感謝をした、など。僧侶は鉄則なのだろうか。かつてはアクセスの困難なこの武夷山中の岩場に、そばで寝泊まりをしていた番人もいたらしい。

  ・・・中国茶には僧侶か爺さんがよく似合う。
 


 年の瀬に1時間くらいは、ゆったりとした贅沢な時間があってもいいだろう。
1時間は、ゆったりとお茶を飲むのに丁度よい時間だ。
日中友好会館の中にある茶芸館は、店内のしつらえもスタッフのサービスも、まるで中国に居るようで心地がよかった。品揃えの中には台湾の銘茶も多数揃っているので、誰しもひとつふたつは好みのものがあるだろう。

「このお茶は三煎目がもっとも美味しい」と言って、大紅袍の一煎目と二煎目を惜しげもなく捨てる。
蘭に例えられる、幾重にも重なった小さな花びらがほぐれていくような香りがひろがる。
「熱いお茶と、ぬるくなったお茶を飲み比べて。熱いのはこう(手振りで、舌の奥から鼻のほうへ)香りが広がる。ぬるいのはこう(舌の上から鼻に掛けて、横に丸く円を書くように)広がる。」


 結局、三煎目の「ぬるいほう」が冷たくなるまでそこに居た。
冷えきった最後のひとくちは、まるで小さな淡い黄色の蘭ひとかけを咥えたようだった。






憧れのダブルチェスター

2009-12-01 | 物質偏愛
 コートがない。
 いや、手元にはあるのだけど。いかんせん古びてきたので新調しようとしたのだが、市場にない。
 欲しいのは、スーツの上から着られるコート。ジーンズでも着られるコート。もっと贅沢をいえば、出張でも簡単なパーティーでも着られるコート。 

 昨今市場に並んでいる女性用のコートは、ビジネスシーンを想定していない。女性らしい華奢なラインを形成するため、肩はギリギリか少し内側に入り込むくらいに狭く付けられ、アームホールは非常に細い。とてもじゃないが、肩がカチっと作られたジャケットの上に羽織れる代物ではない(肩が入らない)。
 暫くはウロウロと探してもみたが、これはいけると思うものは軒並み200K以上なので、もういい加減諦めた。諦めた挙句、作ることにした。

 作るとなると俄然欲が出てくるのが我ながら困ったものだ。私がもしも男性だったなら間違いなく憧れるだろうチェスターフィールドコート(パターン画像参照)をベースに、トレンチの要素を加味しながら少し崩すことにした。

そもそもチェスターフィールドコートとは、1830年代の英国の洒落者、第6代チェスターフィールド伯爵に由来する。乱暴な表現だが、テーラードジャケットの丈を膝丈まで伸ばしたようなスタイルで、隠しボタンになったシングルコートだ。胸ポケットも袖ボタンも付いており、場合によっては上襟に黒ビロードがあしらわれることもある(※“ブラック・ヴェルヴェット・カラー”と呼ばれ、フランス革命期の英国で、フランス貴族の相次ぐ処刑に哀悼の意を表するためにはじまったデザイン)。これは、現在の男性用コートのなかでもっともドレッシーな存在とされている。

 わたしのビジネスシーンにはそんなにフォーマルな場面は出てこない。更に、本来のチェスターならばカシミアで作りたいところだが、日々の雑務に耐えるためにはカシミアは不適当であり薄手のウールがより好ましい。寒がりなので丈は長いほうがいいし、とはいえちびっこなので重い印象になるのは避けたい。
ということで、以下のようなオーダーになった。

○生地はスーツ用の薄手ウール
○チェスターフィールドをベースに、ダブルブレスト
○襟はテーラードではなく、台つきの立ち襟
○肩パッドなし
○ポケットは縦の縁つき(フタなし)
○ボタンは3×2=6
○ベンツなし(足裁きは前)
○ベルトなし

細かい箇所についてはここには書いていない小うるさい注文を色々と出したが、細かい仕様については、出来上がりのときに付記することにしよう。
さてさてどうなることやら。 





地球を飾る電飾

2009-12-01 | 春夏秋冬
 今年もとうとう東京が冬に飲み込まれた。
11月になると街のあちこちにクリスマスイルミネーションがきらきらとしはじめるが、実感が沸くのはコートが必要になって、そのコートの首元をすくめるようにして歩き始めるこの時期からだ。ついうっかり猫背になる私の視線をふっと上向けるのが、仕事を終えたあとの夜の街には無邪気すぎるあのイルミネーションだから。
 
 もう少し若い頃には、聞こえるか聞こえないかの「ちぇっ」という舌打ちとともにちょっとだけ口をゆがめてツリーの脇を通り過ぎたこともあった。なのにここ数年はなぜだか、たとえそのツリーがわたしにとってなにももたらすものがなくても、なんとなく和やかな嬉しい気分でそれを見上げることが多くなった。 

 その変化を年齢のせいだと云えばそれは間違いなく正解のひとつに違いない。その変化を自分があの頃よりもしあわせになったからだと云えばそれはもしかしたらそうなのかもしれない。あるいは、自分の脳みその中にこれまでたくさん積み重ねてきたツリーを囲む数々の風景が増えたからなのかもしれない。
どれもしっくりくる理由ではないが、中では最後のやつがもっともそれらしいと思う。

 ツリーの含まれた風景、とりわけそこに自分自身が含まれていない風景のいくつかが降り積もることによって、若きころに描いていた「自分にとってのツリー」はどんどんと小さくなった。その代わりとして街にとってのツリー、自分の知らない誰かにとってのツリーが描けるようになってきたのだろう。


 灯篭流しのように、いくつものツリーが幾人もの人の心のなかに描かれては、年の瀬を迎える頃には慌しく流れさってゆく。いろんな大きさの、いろんな色をしたツリーが、地球のいろいろな場所をきらきらと彩る。
 その風景を遠くから眺めたことを空想してふっと微笑むことができなかった10年くらい前のわたしの心には、チラチラと揺らめく電飾の代わりに、いったい何があったんだろう。




沖縄雑感 2009 - 神さまが近い国 -

2009-10-19 | 異国憧憬

 この会社に入ってからというもの、沖縄に行かない年はない。
とはいえ、いつもどこかのオフィスにいるかホテルを巡るかしているので、観光らしい観光は合間にちょこっとするくらいしかない。無論、ビーチやプールとは縁がない。
私にとっては、京都や奈良に次いで多く訪れている土地なのでそれなりに慣れた感があったが、訪れるたびに小さなカルチャーショックを受け、そのたびに、ここは確かに過去に違う国だったのだなと思う。


 沖縄には「ユタ」と呼ばれる在野のシャーマンがおり(正当な指名を受けた神職は「ノロ」)、神さまと人間との距離が近いところだなという認識はかねてからあった。とはいえ、ユタが生まれつきユタであるわけもなく、一定の力があると見なされた人々の中からユタは生まれる。本州で言うところの「霊感が強い人」というのを指すことばが沖縄には今でも残っており、「たかうまれ」と云うそうだ(※呼称は地域により若干異なるらしい)。

「たかうまれ」に対する一般人の理解は深く、『この道を通れません』『慰霊祭に行けません』とかいうことが、そうかそうか、さもありなんと認められるという。時代によっては、邪宗と云われてノロやユタが弾圧を受けた時代もあったが、いまでも、沖縄には名前のつけようがない眼に見えないものへの意識や配慮が根強い。


 かつては、各集落に御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があり、世界遺産に登録されているグスク群は本来、御嶽を中心に発展した集落が砦状になったものという説もある。御嶽は海や水源や山などの自然の神が祭りのときに降りてくる標識であり、お盆のように先祖が帰ってくる際の標識でもある。御嶽の権威は今でも強く、内地の我々がやすやすと神社や寺に入るような気分でそこに近づくものではないらしい。

一方で、沖縄の墓はとても大きく家のような形をしているので有名だが、これには親族がみな納められること、また、かつては風葬であったことなどから一定のサイズが必要条件としてあったのだろう。先祖信仰があるわりに、生々しい「死」や「死体」は穢れとみなされ、現世とむこうのキワとされる「崖」に墓は作られる。人間の時間の末端である「死」と、それを超越した「霊」との関係は、今なお非常に古代的だ。


 なお、ニライカナイ信仰、御嶽信仰という言葉は、外部の人間によって当てはめられた単語であって、沖縄(琉球)に自分たちの信仰を意表する単語はない。




気圧とのたたかい

2009-10-16 | 徒然雑記


 にんげんの身体には、放っておいても勝手に働いてくれる機能がいっぱいある。
指示なしでも見えないところで勝手に働いているから、そいつらが時折サボっていても本体のにんげんはあまり気付かない。ちょっと廊下に立ってなさいと云いたいくらいにあ、わたしの身体は最近いろいろとサボりすぎだと思う。

 1~2年に一度は訪れる先々週の扁桃腺炎はまあよしとするが、それでも、細菌をブロックするはずの扁桃腺がいとも簡単に負けるのはどうかと思う。スカスカのテトラポッドみたいな、見掛け倒しだ。
そして、高熱を出した翌週に出張のために飛行機に乗ったら、頬というか歯というか頭というか、所謂顔面に前代未聞の痛みが発生した。
生まれて初めての体験なので、折角だから記録しておく。いつか誰かの役に立つこともあるかもしれない。

・離陸後20分くらいして飛行機が安定飛行に入るあたりから、片顔面にしびれ。
 歯医者で麻酔の注射を打ったあとのようなかんじ。
・しびれがあるまま、頬の裏?上奥歯?のあたりにひどい鈍痛。破裂しそう。
・ここで鎮痛剤を服用(全く効かない)。
・飛行機が徐々に高度を下げ始め(着陸の35分前くらい)た頃から、テキメンに痛みが緩和。
・着陸時には、余韻を残して一切の痛みが消える。


 機内で何度もアテンダントを呼び止めるくらい大騒ぎしたのに、着陸後は平気の平左なものだから、「大丈夫ですか?」の気遣いがむしろ申し訳ない。先ほどは確かに気絶しそうなくらい痛かったのだけど。
着陸時に歯が痛くなるという話はよく聞くし、自分も経験があるので今回も歯だと思ったわけですよ。
しかし、歯医者に行ってレントゲンを取ったら歯はどうということもなく、顔の片方だけが白く濁って写っている。これは確実に耳鼻科の範疇。
結果、扁桃炎を引き金に急性の副鼻腔炎が併発され、鼻腔との空気の通り道が酷い炎症で塞がれていたものだから、気圧が下がって副鼻腔の中の空気が膨張し顔面の三叉神経を刺激したということらしい。・・・空気の泡が通れるくらいの僅かな道くらいつくっておけ。

 気圧で頭痛がくるのも、関係してるんじゃないの?と思ったが、今回の炎症は急性の軽微なものだからそれとこれとは違う、と。ちぇ。これを機会に頭痛まで治るわけにはいかなそうだ。


来週の飛行機、痛くありませんように。