学問空間

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0056 「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」(by 内村鑑三)

2024-03-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第56回配信です。



久須美酒造
https://www.kamenoo.jp/
「清泉(きよいずみ)・亀の翁/夏子の酒のモデル蔵元・久須美酒造/亀の尾復活の浪漫」
https://www.echigo-bishu.com/kusumi-shuzou.htm

二、内村鑑三と上州

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)(2016年05月26日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1f7c3ef2111429c49d9d85d38eb1ddc
「上毛かるた」とキリスト教(2020年05月11日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1fc5e1c2c085adf1920a5551c53678a

-------
若松英輔『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書、2018)

All for God──神の道と人の道,「不敬事件」と妻の死,義戦と非戦,そして娘の死と,激しいうねりのなかを生きたこのキリスト者は,自らの弱さを知るからこそ,どこまでも敬虔であろうとした.同時代の多くの人を惹きつけ,『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『代表的日本人』等の著作に今も響きつづける,その霊性を読み解く.

https://www.iwanami.co.jp/book/b341729.html

「序章 回心」

-------
上州人の自覚
【中略】
 のちに内村は、「過去の夏」(一八九九年)と題する一文で群馬での生活を回顧し、「余は上毛[群馬]の地に何の負うところなし。その人物は余の概ね尊敬を表する能わざるところ」であると書く。しかし、その川に生きている魚は別だった。「彼らは余を造化の霊殿に導けり。彼らを通して余は余の造化の神に詣れり」、という。
 群馬で周囲に接した人には敬意を抱かせる人は少なかった。しかし、そこで出会った魚は、この世が神の「霊殿」であることを教えてくれたといって讃嘆する。 
 さらに先の一節に続けて「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」と書き、この一文を終えている。のちに内村は、札幌農学校で生物学と水産学を学ぶ。彼は二一歳から二三歳まで開拓使(のち札幌県)御用係准判任として採用され、各地の水産現場を視察している。
【中略】
 さらに内村は「上州人」という漢詩も残している。

 上州無知亦無才 上州〔人〕は無知亦た無才にして
 剛毅朴訥易被欺 剛毅朴訥にして欺かれ易し
 唯以正直対万人 唯正直を以て万人に対し
 至誠依神期勝利 至誠神に依って勝利を期す
-------

「内村鑑三の「上州人」という漢詩の解説が読みたい。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000176890&page=ref_view
「高崎が生んだ世界的思想家 明治時代のキリスト教指導者」(高崎新聞)
http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/08.php
上毛かるた 「こ」の札(2015年2月号)
https://gunma.coopnet.or.jp/event/look/walk_154.html
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0055 内村美代子『晩年の父内村鑑三』

2024-03-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第55回配信です。


内村祐之(1897‐1980)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%A5%90%E4%B9%8B

尾身茂氏と内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(2020年05月13日)

内村美代子(旧姓大舘・久須美、1903‐2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
住雲園
「住雲園と久須美家の人々 曽我物語・勘定奉行・越後鉄道」
久須美東馬(1877‐1947)

(p29以下、「関東大震災」)
「私はといえば、そのとき、目白の家(今の川村学園の裏)の二階の八畳にいたが、ドンと突き上げるような衝撃が来た途端、ふすまと障子はパラパラとはずれ、私は室の端から端へと何度もころがされた。第一回目の大揺れがおさまったところで、ようやく階段を下りると、階下は至るところで壁土が落ちて散乱していた。しかしその他には、建具もはずれず、家具も倒れていなかったので、実のところ、私たちはそれほどの大地震とは思わなかったのである。
【中略】私の家から道を隔てて筋向いの二階家にひとり住まいをしておられた田中耕太郎さん(東大教授で、のち最高裁長官、はじめ父のお弟子)などは、その午後のあいだじゅう、ピアノを弾き続けておられた!」

「商法なら日本に帰ってからやれるので、やれないことをやった方がよい」(by 田中耕太郎)(2016年09月08日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18fd544ff10c3cc3bc785522b8ee984d
牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探究者』
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/11/102726.html

(p77以下、「父と子」)
「(前略)内村鑑三先生の御子息なら、あなたもクリスチャンでしょうねというのは、私が繰り返し受ける質問である。また私の学問的自叙伝に宗教のことが少しも語られていないといって、非難めいた批評をする人もある。この種の話題は、実は私にとってすこぶる苦手のものなのだが、今回はひとつ、このことに触れてみよう。
 私は神羅万象の偉大さと精巧さを知るたびに全能の存在、すなわち神の存在を信ぜざるを得ない。私はまた、教会や寺院の中で、祈りや読経を心を澄まして聞くことが好きである。それゆえ、私は、自分に宗教心が全くないとは絶対に思わない。しかし、自分は罪人のかしらであるといった深刻な罪障意識はどうしても持ち得ないし、また、キリストは人の形をとった神の子であり、人類の罪は、キリストが十字架上で流した血によってあがなわれるという贖罪の信仰が、キリスト教信仰の中心だと言われると、どうも私はクリスチャンを自称することができないのである。同じように、キリスト教の信仰で大切な、来世とか、復活とか、再臨とかいう教えをも私は信ずることができない。但しキリスト教の持つ倫理性、また人類愛の精神といったものを高く評価するには、私はつねにやぶさかではない。
 では、私は鑑三から、どんな宗教教育を受けて成長したのか。それは多くの人が興味を抱く点と思うが、あれほど干渉がましく圧政的であった鑑三の、このことに対する態度は存外に自由だったのである。私は鑑三から、かつて一回も信仰不足をたしなめられたことはなく、また自分の事業を継げと強制されたこともなかった」
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ご連絡

2024-03-23 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
ブログ・YouTubeチャンネルとも十日間ほどストップしていますが、特別な理由はありません。
先日、母親の四十九日の法要を終えた後、花粉症の影響も少しだけあって、何となくパソコンに向かう気力が減少してしまい、ツイッターを少しやる程度の毎日でした。
読書量も減って、この間、内村鑑三に関係する書籍をいくつか斜め読みしたのと、フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』(朝日新聞出版、2019)を読んだ程度でしたが、明日からまたボチボチとやって行きたいと思います。
フクヤマ著は頭の整理に良い本でした。

『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=21559
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0054 花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」

2024-03-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第54回配信です。


花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」(『日本歴史』910号、2024)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10050642.html

花田卓司(1981生、帝塚山大学文学部准教授)
https://www.tezukayama-u.ac.jp/teacher/gyoseki/169900.html
https://researchmap.jp/takuji_hanada

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 はじめに
一 守護在職の根拠史料の再検討
二 足利義氏の三河守護補任時期
 おわりに
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 はじめに

 鎌倉期の足利氏が三河守護であったことは広く知られている。鎌倉幕府守護制度研究の基礎を築いた佐藤進一氏は、暦仁元年(一二三八)の将軍藤原頼経上洛・下向時と建長四年(一二五二)の宗尊親王下向時に、足利義氏が三河国矢作宿などの設営にあたった事実を守護在職の徴証とみて、正治年間(一一九九~一二〇一)から暦仁元年までの間に守護職が足利氏に帰し、鎌倉幕府滅亡にいたるまで足利氏が保持し続けたと指摘した。佐藤氏以後の研究の進展を踏まえて各国守護の再比定をおこなった伊藤邦彦氏は、義氏による宿駅経営は国務沙汰の範疇であって守護固有の職権ではないとし、三河国は守護不設置で「国務・検断沙汰人」制が採用されたと論じたうえで、義氏がこの地位に起用された時期については佐藤氏同様に正治年間から暦仁元年の間、守護制度の導入はモンゴル襲来期であるとしている。
 一方、鎌倉期足利氏研究においては、足利義氏が承久の乱後に恩賞として三河守護に任じられたとの見方が古くからある。【後略】
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二 足利義氏の三河守護補任時期

 前章での検討と新出の「国々守護事」から、足利義氏が三河守護に補任された時期は少なくとも嘉禎四年(一二三八)閏二月以降となる。三河守護に補任された時期を絞り込む手がかりとなるのが、義氏の女と四条隆親との婚姻である。
 四条隆親は後鳥羽院の近親であった四条隆衡と坊門信清女との間に生まれ、最終的に正二位大納言まで昇った人物である。承久の乱では後鳥羽院の比叡山御幸に甲冑を着用して供奉したが処罰を免れ、乱後は北白河院(藤原陳子、後堀河院の生母)に接近して後堀河天皇の近親となった。寛喜三年(一二三一)には西園寺実氏・大炊御門家嗣とともに秀仁親王(のちの四条天皇)の乳父に選ばれ、四条天皇即位後も近臣として仕えた。嘉禎四年閏二月に四条天皇の近臣から外されたことで朝廷での活動が一時的に低調となったが、その後、四条天皇の急死によって擁立された後嵯峨天皇の近臣として復権し、後嵯峨院政下で評定衆や後深草院の執事別当を務めた。
 隆親は義氏の女を妻に迎え、嫡男隆顕を儲けている。婚姻時期を明確にできる史料はないが、『公卿補任』記載の年齢から隆顕の生年は寛元元年(一二四三)なので、おそらく一二四〇年代初頭であろう。松島周一氏は、隆親が天福二年(一二三四)以後断続的に三河国の知行国主としてあらわれ、仁治元年(一二四〇)十二月十八日から翌年三月二十六日までの間にも知行国主であったことから、隆親と義氏の女との婚姻はこの時期に成立したと推定し、知行国主と守護が結びついた事例であると述べている。足利・四条両家の接点を三河国に求めたこの見解は首肯できる。さらに憶測を重ねれば、前述のとおり当時四条天皇の近臣から外されていた隆親が、幕府中枢との接近に活路を求め、三河国を通じて接点を得た「准北条一門」というべき存在の義氏と姻戚関係を結んだのではないだろうか。
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四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80d08c9a35f13cc002d83aa60b841a2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e66191c8e32d66910c03c1611506d53e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3de9dbe3862b7081de0af9fb4df198f3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2336059caba4894c63f86b8c4504ab7

守護と知行国主というのは公的な関係であり、それが婚姻のような私的な関係と直接に結びつくという発想自体がおかしいのではないか。
花田氏自身が解明されたように、足利義氏は北条政子に庇護された「准北条一門」。
これだけで義氏が四条家と結びつく理由としては十分すぎるのではないか。
結婚を斡旋する存在としては六波羅探題の北条重時がいる。
また、結婚という私的な関係の形成には女性間のネットワークも重要であり、重時の同母妹(「姫の前」の娘)が土御門定通室となっていることに留意すべき。
こちらのルートの方が、知行国主と守護といった公的関係より遥かに自然。

北条義時の正室だった「姫の前」と歌人・源具親の再婚について、森幸夫氏も奇妙なことを言われている。

「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
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0053 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その1)

2024-03-10 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第53回配信です。


赤江達也(1973生、関西学院大学教授)
http://researchers.kwansei.ac.jp/view?l=ja&u=200000872&sm=name&sl=ja&sp=1

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013)

■著者からのメッセージ
信仰の内面性,信仰の社会性
 宗教とは,信仰となにか.たとえば,「純粋さ」や「深さ」といった言葉が「信仰」を形容するのにふさわしいと考えられるとき,そこには「信仰の内面性」を中核とする宗教理解が存在しています.
 戦後日本には,こうした宗教理解が広く見られます.それゆえにプロテスタンティズム,なかでも内村鑑三に始まる無教会が注目されてきました.無教会は,教会・組織・制度をもたない「純粋な信仰」だと考えられたわけです.
 それに対して,本書では,雑誌や書物を媒介とする「紙上の教会」という内村の構想に注目しました.矢内原忠雄,南原繁,大塚久雄といった無教会派知識人は,「紙上の教会」という書物と読者のネットワークに支えられていたのです.
 ただ,無教会運動において現実化されていくこの「紙上の教会」という思想は,これまでほとんど注目されてきませんでした.この事実は,「信仰の内面性」を中核とする「宗教」理念が流布していく過程で,「信仰の社会性」が体系的に見落とされてきたことと対応しています.
 現在でも「信仰の内面性」や「宗教の公共性」が盛んに語られるのに対して,「信仰の社会性」という次元が論じられることはあまりありません.なぜ「信仰の社会性」は語られにくいのか.それはどのように語りうるのか.
 本書は,無教会キリスト教の歴史社会学なのですが,同時に「信仰の社会性」に照準する宗教社会学としても読んでいただけたらと願っています.

https://www.iwanami.co.jp/book/b261295.html

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17574/20151110/akaetatsuya-1.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17575/20151110/akaetatsuya-2.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17576/20151110/akaetatsuya-3.htm

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0052 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その3)

2024-03-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第52回配信です。


藤原聖子編著『日本人無宗教説─その歴史から見えるもの』(筑摩書房、2023)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017734/

「第2章 無宗教だと国力低下?―大正〜昭和初期」の担当は坪井俊樹氏。

天皇のために祈る群衆は宗教的か
日本人無宗教説の"国力"化
無神論的ドイツの敗戦の衝撃
震災後に宗教家は役割を果たしたか
震災一周年追弔式と「無宗教葬」
米国での排日運動と日系人に関する無宗教説
昭和初期の無宗教をめぐる議論
家庭教育で無宗教に対抗
「反宗教運動」の発足
言論界・宗教界からの反論
壊滅する反宗教運動
社会不安の拡大と「宗教復興」
日本人無宗教説の中断
この章のまとめ

東京大学宗教学研究室
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/religion/students.html

「第3章 無宗教だと残虐に?―終戦直後〜一九五〇年代」の担当は藤原聖子氏。

宗教は「平和」を作るものに
ということは戦争中の残虐行為は「無宗教」のしわざ
調査では若者は「無宗教」
神頼みする余裕もない人々?
寺院も弱体化
新宗教教団は増えたが……
キリスト教も伸び悩む
マスメディア上の宗教と無宗教
「逆コース」の中での「宗教」の位置づけ
三笠宮と一緒に「日本人の宗教」座談会
「日本人の宗教はとにかくキリスト教と違う」から「キリストはアジア人」へ
一九五〇年代後半の無宗教性
この章のまとめ

キリスト教も伸び悩む(p110以下)
-------
 キリスト教については、戦後一〇年も経たないうちに、当初の見込みに反して信者は増えていないという記事が出るようになる。日本キリスト教団総会議長を務めた小崎道雄による寄稿だが、なぜ日本では教勢が振るわないのかについて原因を三点挙げている。第一に、キリスト教の神のような父なる人格神を信じる伝統が日本にはないこと。第二に、キリスト教の中心にある、「道徳生活と信仰生活の一致」も日本の伝統宗教には存在せず、「罪悪感と贖罪(十字架)信仰が国民の間に不人気」であること。具体的には、

目下国際基督教大学に教授として働いておられるスイスの学者エミル・ブルンナー博士は、筆者に日本の伝道の困難な理由の一つは国民間に罪悪感が少ないためではないかと質問されたが、私は全く同感である。博士は大切なカバンを自動車の窓ガラスを破壊されて盗まれた経験があるが、このようなことはスイスではほとんど絶無の経験である。日本人の国民道義心の低いのは全く天地万有を支配する神を信じないためである。(読売 一九五四・一一・一〇 小崎道雄「日本キリスト教の自己反省」)

 そして第三の原因は、教会や信者の力不足だと言う。「信者が聖書の伝えるような伝道者としての信仰に燃えて他の人々のために犠牲的な生活をなし」「教会は精霊に満たされて国家社会の良心的役割を予言者の如く果たす」ならばキリスト教は日本に普及すると述べている。
-------

小崎道雄(1888‐1973)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B4%8E%E9%81%93%E9%9B%84

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0051 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その2)

2024-03-08 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第51回配信です。


藤原聖子氏による「はじめに」は、その前半を「じんぶん堂」で読める。

「日本人は無宗教だ」と言うのは、誰が、いつから言い出した?――『日本人無宗教説』(藤原聖子編著)より
https://book.asahi.com/jinbun/article/14926214

「第1章 無宗教だと文明化に影響?―幕末〜明治期」の担当は木村悠之介氏


「日本人無宗教説を最初に述べたのは誰か。容易に答えがたい問題だが、現在まで系譜的につながりをたどれるような議論の場を形成していったという点では、幕末~明治期の訪日欧米人たちによる日本人への観察を画期と考えてよい」(p19)

「幕末~明治期の訪日欧米人たちによる日本人への観察」に付された注(1)には渡辺京二『逝きし世の面影』と渡辺浩『東アジアの王権と思想』が挙げられている。

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その1)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72b38232ba05b1ba00c035c645781c59
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d
渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その1)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bcfd449a5a474885042425d63bfd23c
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4374da95a1226e9bc0ea736416ba2c70
『東アジアの王権と思想』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3bd3406a87113eb41b992b55eaa44cdf

※特に注目すべき指摘(p31以下)

-------
神道は「無宗教」か?

 日本人無宗教説を考えるとき、明治政府による"国家神道"が神社を非宗教だと強弁したことが日本人の無宗教意識を決定づけた、と説明されることが多い。これは、一八八二(明治一五)年以降の政策において、仏教や教派神道(黒住教や大社教などの神道系諸派)、さらに後からキリスト教が「宗教」として扱われたのに対し、神社や皇室祭祀がそれらとは異なる存在として制度的に位置づけられていったことを指す。一九〇〇年に内務省神社局と宗教局が別々に置かれたのはわかりやすい例だ。
 しかし、すでにI・バードや岩倉使節団の事例を引いたように、神道を「宗教」として認めず日本人無宗教説を生み出したのは、キリスト教を強固な基準とする「宗教」理解それ自体だった。神社非宗教という制度は少なくとも当初はこうした線引きを利用しつつ成立したものであり、その日本人無宗教説への影響力を過度に強調すると他の要因や時代的な変化を見えにくくするおそれがある。【後略】
-------
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0050 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その1)

2024-03-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第50回配信です。


一、前回配信の補足

黒川知文『日本史におけるキリスト教宣教』
https://shop-kyobunkwan.com/4764203383.html

「序章‐問題提起」(p16以下)

-------
【前略】
 日本のキリスト教徒の人口比率が少ない理由として、これまで、いくつかの論が提示されてきた。)隅谷三喜男は、「日本のキリスト教はいわば『いばらの地に落ちた』種であり、『いばらが伸びて、ふさいで』来た」と論じて、社会にたいする教会の責任が十分でなかったとしている。小野静雄は、日本のキリスト教徒が天皇制国家とのきびしい対決を避けて、妥協してしまったことが、福音の歪曲を結果したと論じている。五野井隆史は、キリスト教が一般大衆に定着せず知識人に限られており、キリスト教徒自身の自負心の強さが、その傾向を強めていると述べている。佐治孝典は、キリスト教会は天皇制と対決しなかったと述べ、「新しい福音の光に照らして日本の風土そのものを見直し、そこで福音の宣教を拒むエトスそのものと向き合うことはほとんどしていない」と論じている。尾山令仁は、キリスト教はインテリ層により受け入れられてしまったと述べている。金井新二は、日本社会はリバイバルを必要としてはなく、むしろキリスト教会がそれを必要としており、それも「静かに進行してゆく信仰覚醒」であるべきだと論じている。池上良正は、キリスト教は日本社会への定着に失敗したと結論づけ、その理由はキリスト教受容者層が、第一次産業従事者や都市の平均的勤労者の間に深く浸透出来なかったことにしている。すでに武田清子はキリスト教土着の五つの型を提示している。埋没型、孤立型、対決型、接木(土着)型、背教型がそれであり、日本の教会の多くは埋没型と孤立型に属し、それが挫折に導いたと論じている。これは上記の論点にも共通する。
 最近では、岸義紘、根田祥一、鈴木崇巨、濱野道雄、廣瀬薫による共同研究が注目される。彼らは、KJ法という情報整理法を用いて日本の福音宣教が失敗した原因を教会内に求め、教会がキリストの心を具体化していない、牧師と指導者が未熟であった、島国的劣等感の束縛から解放されていなかった、の三点を指摘する。これらの原因を踏まえて、聖書的「キリスト教世界観」に立つ教会の刷新を提言している。また、古屋安雄は、日本人の「信仰の平均寿命」は二・八年だとし、社会に五%であった武士階級が明治時代に知的にキリスト教を受け入れたので、信仰が「一つの思想」だと誤解されたことに問題があり、殉教も拒否され、その結果、多くの棄教者が生み出されたと考える。さらに「下層の深海」にいる民衆に福音は届かなかったとして、「民衆の宗教、大衆の宗教とは殆ど無縁であった」と論じている。
 以上の論をまとめると、キリスト教は知識階級中心に受け入れられ、キリスト教とは相いれない天皇制等の価値体系を有する日本社会に対して、教会は効果的に働きかけず、これまで妥協するか孤立するかの選択をしてきた。そのためにキリスト教は民衆の中に受け入れられず、日本社会に定着できなかった、ということになる。
-------

隅谷三喜男(1916‐2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E8%B0%B7%E4%B8%89%E5%96%9C%E7%94%B7
五野井隆史(1941生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8E%E4%BA%95%E9%9A%86%E5%8F%B2
武田清子(1917‐2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B8%85%E5%AD%90
古屋安雄(1926‐2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%AE%89%E9%9B%84

二、『日本人無宗教説』

藤原聖子(皇嘉門院、1122‐82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%81%96%E5%AD%90
藤原聖子(さとこ、東京大学教授、1963生)

藤原聖子編著『日本人無宗教説─その歴史から見えるもの』(筑摩書房、2023)

「日本人は無宗教だ」とする言説は明治初期から、しかもreligionの訳語としての「宗教」という言葉が定着する前から存在していた。「日本人は無宗教だから、大切な○○が欠けている」という“欠落説”が主だったのが、一九六〇年代になると「日本人は実は無宗教ではない」「無宗教だと思っていたものは“日本教”のことだった」「自然と共生する独自の宗教伝統があるのだ」との説が拡大。言説分析の手法により、宗教をめぐる日本人のアイデンティティ意識の変遷を解明する、裏側から見た近現代宗教史。

目次
第1章 無宗教だと文明化に影響?―幕末〜明治期
第2章 無宗教だと国力低下?―大正〜昭和初期
第3章 無宗教だと残虐に?―終戦直後〜一九五〇年代
第4章 実は無宗教ではない?―一九六〇〜七〇年代
第5章 「無宗教じゃないなら何?」から「私、宗教には関係ありません」に―一九八〇〜九〇年代
第6章 「無宗教の方が平和」から「無宗教川柳」まで―二〇〇〇〜二〇二〇年

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017734/

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0049 黒川知文『日本史におけるキリスト教宣教』

2024-02-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第49回配信です。


奥山倫明「2000年代日本におけるキリスト教信者の急増減ー宗務課「宗教統計調査」から考える」に黒川知文『日本史におけるキリスト教宣教―宣教活動と人物を中心に―』(教文館、2014 ) への若干の言及。

https://researchmap.jp/mokuyama/published_papers/1430202

黒川知文(1954生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E7%9F%A5%E6%96%87

『日本史におけるキリスト教宣教―宣教活動と人物を中心に―』
https://shop-kyobunkwan.com/4764203383.html

-------
序章 問題提起

 キリスト教が日本にもたらされて四六五年が経った。しかし、日本におけるキリスト教徒は二〇一四年において全人口の〇・八二七%にすぎない。統計的に言って、キリスト教の日本宣教は際立った成果をあげていないことを、認めざるをえない状況になっている。
【中略】
 それでは日本のキリスト教宣教には、まったく希望がないのであろうか。
 日本へのキリスト教宣教は失敗したと結論する悲観的な宣教失敗論者に対して、三つの資料を示したい。
 第一の資料は、すでにみたキリスト教に対する信頼度の時間的推移である。【中略】
 第二の資料は、アジア・太平洋戦争後の一九四八年から今年二〇一四年に至る六六年間における日本のキリスト教徒の人口の推移である。これを見ると、三%と推定されるキリシタン時代の人口比には及ばないが、日本のキリスト教徒の人口比は、漸進的だが、着実に増加しつつあることがわかる。この表には含まれていないが、『キリスト教年鑑』に収録されていない、プリマス・ブラザレンの流れの全国的規模のキリストの集会や、多くの単立教会や集会や家庭集会がある。したがって実際のキリスト教信者数はもっと多いと推定される。
 第三の、最も重要な資料は、近代日本史における指導的人物とキリスト教との関係を示した表1である。【後略】
-------

黒川氏は『キリスト教年鑑二〇一四年版』(キリスト新聞社)を使用。

-------
『キリスト教年鑑二〇一四年版』によれば、2014年の日本のキリスト教人口はプロテスタント約59万、カトリック約43万、正教約1万、合計約104万だそう。文化庁の『宗教年鑑』での約195万より遥かに少なく、こちらの方が信頼できそう。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1762095160882778226

「キリスト教年鑑の歴史」(キリスト教新聞社サイト内)

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0048 奥山倫明「2000年代日本におけるキリスト教信者の急増減ー宗務課「宗教統計調査」から考える」

2024-02-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第48回配信です。


一、前回配信の反省

タイトルを「森岡清美『日本の近代社会とキリスト教』を読む(その2)」としながら、実質的には奥山論文の紹介。
前回配信を削除することも考えたが、説明自体が不正確だった訳でもないので、改めて奥山論文の要点を復習した上で、前回配信の補足を行いたい。

奥山倫明「2000年代日本におけるキリスト教信者の急増減ー宗務課「宗教統計調査」から考える」(『南山宗教文化研究所研究所報』第25号、2015)
https://researchmap.jp/mokuyama/published_papers/1430202

二、統計数理研究所の「日本人の国民性調査」

大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構統計数理研究所
https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/

「日本人の国民性調査」
https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/
「集計結果」
https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/index.htm

#3.1 宗教を信じるか
#3.2b 「宗教心」は大切か
#3.5 「あの世」を信じるか
#3.6 宗教か科学か
#3.9 首相の伊勢参り

「#3.6 宗教か科学か」が特に興味深い。

[リスト]あなたは宗教というものについて、どう思いますか。つぎの4つの意見のうち、あなたの意見に1番近いと思うものを1つだけえらんで下さい?
1 宗教というものは、人間を救うことはできない。人間を救うことのできるのは科学の進歩以外にはない
2 人間の救いには科学の進歩と宗教の力とが、たすけあってゆくことが必要である
3 科学の進歩と人間の救いとは関係がない。人間を救うことができるのはただ宗教の力だけである
4 科学が進歩しても、宗教の力でも、人間は救われるものではない
5 その他[記入]

https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/data/html/ss3/3_6/3_6_all.htm

三、NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査

NHK放送文化研究所
https://www.nhk.or.jp/bunken/index.html

第10回「日本人の意識」調査(2018) 結果の概要
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190107_1.pdf

宗教的行動
第27問  宗教とか信仰とかに関係すると思われることがらで、あなたがおこなっているものがありますか。
ありましたら、リストの中からいくつでもあげてください。(複数回答)

信仰・信心
第28問  また、宗教とか信仰とかに関係すると思われることがらで、あなたが信じているものがありますか。
もしあれば、リストの中からいくつでもあげてください。(複数回答)

四、「2000年代日本におけるキリスト教信者の急増減」の原因

・2000年代の宗教意識については、特に注目すべき信仰心の変化などは知られていない。
・統計数値の収集、記載上での誤りが原因ではないか。
・文化庁文化部宗務課の回答

① 20万人規模の増減について
「宗教統計調査は、原則として、宗教法人からの自己申告に基づく。ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人 ) に属する単立の宗教法人(地域の王国会館に相当する ) が、自らの王国会館に所属する信者数を記載すべきであったが、誤って全国のエホバの証人の信者総数を報告してきたため、そのまま数値に反映されてしまった。また同一県で 2 か所の王国会館から同様の報告があった県もある」

② 40~50万人規模の増減について(長崎、鹿児島 )
「カトリックの修道会(両県所在の別の修道会 ) が、全国のカトリック信者数を誤って報告してきたため」

③ 神奈川における増加について
「2001 年から 2002 年にかけての増加については、すでに調査票原本が破棄されているため、詳細は不明である。2010 年から 2011 年にかけての増加については、海老名市にある、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人 ) が、従来、全国各地の拠点において統計情報を報告してきたところ、各地の会衆の数値を海老名の協会に一括して、報告するよう方針を変更したため。

いずれも極めて単純な数値集計上のミス。
しかし、都道府県、文化庁宗務課のいずれも問い合わせすらしていないらしい。

果たしてキリスト教だけの問題なのか。

平成27年(2015)年版では320万人だった真宗大谷派の信者数が翌28年版では792万人となっている。

-------
桜井義秀・北海道大大学院教授(宗教社会学)は「信者数は名簿に基づいて出すべきだ。ばらばらの基準で出した推計値を公表するだけでは統計として成り立たっておらず、研究や学術目的では使えない」と指摘。「現在の方法で文化庁が信者数を集計すること自体、あまり意味がないのではないか」と話している。

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0047 森岡清美『日本の近代社会とキリスト教』を読む(その2)

2024-02-21 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第47回配信です。


『信仰の自由に関する国際報告書(2022年版)-日本に関する部分』(米国国務省 国際信仰の自由室 2023年5月15日発表)

第1節 宗教統計
米国政府は、日本の総人口を1億2420万人と推計している(2022年中ごろの推計)。文化庁の報告によると、各宗教団体の信者数は、2020年12月31日時点で合計1億8100万人であった。この数字は日本の総人口よりも大幅に多く、日本国民の多くが複数の宗教を信仰していることを反映している。例えば、仏教徒が神道など他の宗教の宗教的儀式や行事に参加するのは一般的なことであり、逆もまた同様である。文化庁によると、信者の定義および信者数の算出方法は宗教団体ごとに異なる。宗教的帰属で見ると、神道の信者数が8790万人(48.5%)、仏教が8390万人(46.3%)、キリスト教が190万人(1%)、その他の宗教団体の信者730万人(4%)である。「その他」の宗教および未登録の宗教団体には、イスラム教、バハーイー教、ヒンズー教、およびユダヤ教が含まれる。報道によると、統一教会の信者数は約60万人となっている(人口の約0.5%)。

https://jp.usembassy.gov/ja/religious-freedom-report-2022-ja/


「宗教統計調査結果 ―昭和42年12月31日現在」

「信者数合計すると2億人!? 日本人口を上回る…宗教年鑑 専門家「使えない政府統計」」(産経新聞2016年12月25日)
https://www.sankei.com/article/20161225-RNQS77V4JNJ3TEULNQN5UCIBHI/

奥山倫明「2000年代日本におけるキリスト教信者の急増減ー宗務課「宗教統計調査」から考える」(『南山宗教文化研究所研究所報』第25号、2015)
https://researchmap.jp/mokuyama/published_papers/1430202

-------
日本の宗教人口総数は一貫して、日本の総人口より多い。「日本には人口の 2 倍の宗教信者がいる」という言い方は、2 倍というのは誇張であるとはいえ、趣旨としてはわからなくもない。また日本のキリスト教人口については、しばしば総人口の 1 パーセント程度といった言われ方をするが、表に見るように 1980 年まではその割合に達しておらず、その後、漸増し、現在では 1 パーセントを超えているように見える。注目すべきは、2010 年のキリスト教人口が突出している点である。2000 年以降、キリスト教人口が 100 万人を超える増大、その後 80万人程度の減少を示していることになるが、これはいったいどのような事態なのだろうか。
【中略】
日本のキリスト教信者が 300 万人を突破したとされる 2006 年にはいったいいかなる事態があったのか。しかしその翌年には 90 万近くの激減とはどういうことだろうか。直近でも 2012 年から 2013 年にかけては 100 万人以上の増加である。この急激な数値の増減はいったい何を意味するのだろうか。
-------

-------
宗務課の回答
40 万、50 万といった変化はもちろんのこと、その半分の 20 万人の変化であっても、第二次世界大戦直後の「キリスト教ブーム」に匹敵する大変動のはずである。北海道、石川、福井、静岡、滋賀、香川といった道や県において、何か局所的なキリスト教ブームが起こっていたのだろうか。これはおそらくそうではないだろう。
こうした数値の変動には、統計数値の収集、記載上での誤りがあったのではないかと考え、私は 2015 年 10 月に、各都道府県に問い合わせの電子メールを発信した。ほとんどの問い合わせは、国の担当機関である文化庁文化部宗務課に転送されたため、結局のところ、同課の専門職より回答を得ることになった。回答の概要は次のとおりである。
【後略】
-------
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0046 森岡清美『日本の近代社会とキリスト教』を読む(その1)

2024-02-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第46回配信です。



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森岡清美『ある社会学者の自己形成 幾たびか嵐を越えて』(ミネルヴァ書房、2012)

村落社会調査に始まり、宗教と家族との関わりから社会学の新しい形を切り開いた森岡清美。幼少期の家庭環境、戦争、そして熾烈を極めた東京教育大での紛争と、人生で幾たびか嵐を経験した。そのなかで自己を形成する過程とはいかなるものであったのか。研究とのつながりのなかで、つねに人間と社会のありようを見てきた著者がその格闘を余すところなく語る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b96152.html

Interview 第17回 森岡清美氏「軍師・井上豊忠——白川党の研究をめぐって——」前編
http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/interview017_morioka01/
Interview 第18回 森岡清美氏「軍師・井上豊忠——白川党の研究をめぐって——」後編
http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/interview018_morioka02/

「森岡清美先生を偲ぶ会」(大久保孝治氏ブログ「フィールドノート」内)
https://blog.goo.ne.jp/ohkubo-takaji/e/f35bfd649634ca88f34551b819ed44f0

『日本の近代社会とキリスト教』(評論社、1976)

-------
はしがき

 日本建築学会の明治建築小委員会が昭和四十三年の暮れにまとめた明治期洋風建築の全国調査結果によれば、千九十四件の建築物が確認され、そのうちなんとしても保存すべきものは少なくとも百八十六件ある、という。四十四年一月四・五日の朝日新聞に掲載されたそのリストを見ると、役所・学校・工場などにまじってキリスト教会の会堂が少なからず散見する。北日本のみ例示的に挙げてみよう。北海道・当別トラピスト修道院(明41)、青森県・日本基督教団弘前教会会堂(明40)、秋田県・曲田教会堂(明20)、山形県・鶴岡カトリック教会礼拝堂(明36)、宮城県・石巻ハリストス正教会(明13)、等々。以下省略するが、教会堂のほかに外人宣教師館を加えるなら、キリスト教関係の明治建築物は予想以上に多いのである。建築物に関する限り、キリスト教はすでに明治期においてその著しい足跡を日本の国土の上に印した、ということができよう。
 ところでキリスト教信徒の数は現在どのくらいあるのであろうか。文化庁宗務課の統計(昭43『宗教年鑑』)によれば、カトリック系三十四万三千、プロテスタント系三十五万七千、計七十万という。一見してもわかるように、これはかなり大きく誇張された数字であるのだが、それにしてもなお、七十万どまりなのである。宣教は禁制の解けた明治六(一八七三)年から数えても一世紀に近い年月をかけ、欧米のミッションから送られた多数の宣教師─例えば、帝国憲法が発布された明治二十二(一八八九)年に日本に在住したプロテスタント宣教師総数(夫人とも)五百二十七人─と多額の伝道資金に助けられて展開された。その成果が誇大に見積もっても七十万なのである。もしこれを僅々三十年くらいの間に成長した土着の巨大教団、例えば創価学会の千五百万、立正佼成会の三百二十七万(昭43『宗教年鑑』)に比べるなら、これらの数字もさほどあてにならないことを考慮に入れるにしても、なお思い半ばに過ぎるというほかはない。
 要するに、明治建築物に例証されるような近代日本の文化史上特筆に値するキリスト教の地歩と、わが国人口の1%にも遠く及ばない信徒数から見た勢力の微弱さとが、きわめて不調和なもののようにわれわれの目に映るのである。この観察が正しいとすれば、キリスト教はその文化的側面においてわが国文化に著しい影響を与えたが、その宗教的側面における感化はきわめて限定されたものであった、ということになる。そしてキリスト教の文化的側面はあくまでも随伴部分であり、その本質部分は宗教的側面であることはいうまでもない。そうすると、キリスト教の日本宣教という事業がきわめて困難な営みであったことを、あらためて痛感せざるをえないのである。宣教のために生涯を捧げた外人宣教師にもまた邦人伝道者にも、有為な人が多く、福音の戦士として勇敢に戦った人たちばかりであった、といっても誤りではない。しかるにどうして宣教の成果がこのように乏しいのであろうか。ここにおいて私は、困難な宣教の過程を追跡して、文化的受容と宗教的受容とのアンバランスの原由を追求したいと考えた。
【後略】

目次

Ⅰ キリスト教信徒の出現
 1 宣教師の活動
 2 キリスト教への接近
 3 入信の契機とキリスト教理解
 4 信徒に対する迫害

Ⅱ キリスト教会の形成と展開
 1 日本基督公会
 2 安中組合教会
 3 島村美以教会
 4 日下部メソジスト教会
 5 教会発展の諸条件

Ⅲ キリスト教への迫害と批判
 1 寺院とキリスト教
 2 神社とキリスト教
 3 学校とキリスト教
 4 国家とキリスト教

Ⅳ 近代日本におけるキリスト教
 1 生活暦への影響
 2 婦人の地位への影響
 3 キリスト教の土着化
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0045 石川明人『キリスト教と日本人』を読む(その8)

2024-02-16 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第45回配信です。


一、前回配信の補足

「宣教師のもとへ送り込まれたスパイ」(2024年02月07日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374e8fef18496a5e740054f6ca52e339

「上等謀者」「下等謀者」「太政官謀者」は石川著をそのまま転記したもの。
しかし、森岡清美『日本の近代社会とキリスト教』(評論社、1976)を確認したところ、これらはいずれも「諜者」。(p37以下)

二、第三章「2 日本人の信仰と宣教師たち」

(1)入信の際に求められた覚悟(p134以下)

奥野昌綱(1823ー1910)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E9%87%8E%E6%98%8C%E7%B6%B1

(2)「理解」してから信仰するのか?

村田政矩(1812‐72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%9F%A9

森岡(p40)
「したがって、村田の入信においては、宣教師の聖書知識は媒介になっているけれども、その人格力は媒介になっていない。直接、福音書によりキリストの偉大さを知り、信仰を起こしたのである。おそらく、大身の武士としての儒教的教養と態度、佐賀の葉隠精神に培われた彼の思想と生き方が、キリストの事蹟を学ぶことによって超克され、新しい人類的な地平を望見するに至ったのであろう。そのような意味において、儒教や葉隠は彼のキリスト教理解の前提となった、とみることができる」

鈴木親長(1830‐1903)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%A6%AA%E9%95%B7

森岡(p41)
「上田藩士鈴木親長は、明治五年学校係大属在任中、学校用として買い入れた書籍のなかに漢訳聖書があった。読んだけれどもよくわからない。ただ、人の罪をあがなうために一身を殺して犠牲になったということは、たとえ作り話としても道理あることのように思い、また独りを慎むということも、漢籍で教えるところと引き比べて感じ入った、という程度であった」

小崎弘道(1856‐1938)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B4%8E%E5%BC%98%E9%81%93

森岡(p45)
「以上四例とも、初期の入信者を代表する階層としての士族のなかからとったものである。どの場合でも、儒教的な教養と実学的姿勢と武士的生活態度がキリスト教への共感・傾倒さらに入信の背景にあった。士流の常として、来世の苦業を逃れるためとか、キリスト教の奇跡異能に感嘆して入信したのではなかった」
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0044 石川明人『キリスト教と日本人』を読む(その7)

2024-02-15 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第44回配信です。


一、前回配信の補足

山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』(思文閣、2006)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784784213160
「岩倉使節団と信仰の自由」(『日本の時代史 21 明治維新と文明開化』所収、吉川弘文館、2004)p190以下
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32061.html

-------
ソルトレイク論争
 その頃、岩倉使節団内部でもキリシタン問題と信仰の自由論争は、渡航船中に始まり諸説に分かれ、米国上陸とともにさらに激化していった。使節団は、大雪のためモルモン教徒の街ソルトレイクにて、二週間以上も足留めにされてしまった。そこで、はからずも信仰の自由政策を取る米国政府のモルモン教徒への対処について見聞することができた。十日の新聞記事にはソルトレイクでモルモン教徒との交流があったことについて述べ、使節団がB・ヨングという罪人と会うことになったのは、米国公使デ・ロングが深刻な間違いを犯したことになるという批判記事もあった。
 使節団内部ではその後ひとしきり宗教論争があり、急進論派と目されていた伊藤博文と山口尚芳らは司法理事官佐佐木高行に信仰の自由即時採用を訴えた。この時、岩倉大使は当初のキリスト教禁令保持の態度を取ることを断言し、とりあえず論争を鎮めたという。
 ところで使節団がワシントン入りをする直前に二十八日付新聞には、在米日本人と名乗る人物による「日本での宣教師不要論」の意見が報道された。その内容は次のようなものであった。
 西欧諸国は、日本との条約改正の時期に当たり「信仰の自由」を強要している。これについてイスラム教徒やモルモン教徒と同じく、日本人異教徒側の意見にも耳を傾けて欲しい。日本人はキリスト教が国内へ導入されることに反対である。その理由は二つある。第一には、宣教師は愚民を無知のままに留める元となっている。西洋のカトリック教会史を見ても判るように、信徒は教会や司祭に奴隷化し、その所有物は搾取され、教会発展の犠牲に陥った。そして信徒らは教育も受けられず暗愚なままに留められ、いまだ無知と迷信に止まっている。第二点目は、いかなる教派の宣教師も「信仰の自由」の敵であること。なぜならば、愚民がプロテスタント教徒に入信することもまた、その奴隷化を意味する。つまり文明国プロテスタントがカトリックを棄てたのは、知識が増長したための結果であり、当面、日本にとって必要なことは、この「教育によって愚民を育てること」である。知識が宗教を育てるのであり、教育を受けた文明人のみが信仰の自由を享受できる、という内容であった。
-------

山口尚芳(ますか/なおよし/ひさよし、1839‐94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B0%9A%E8%8A%B3

二、第三章「1 復活したキリスト教」の続き

(8)さまざまな社会の変化(p131以下)

グレゴリウス暦の採用
明治五年一二月三日を明治六年(1873)一月一日とする

(9)宣教師のもとへ送り込まれたスパイ(p132以下)

「宣教師のもとへ送り込まれたスパイ」(2024年02月07日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374e8fef18496a5e740054f6ca52e339
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0043 石川明人『キリスト教と日本人』を読む(その6)

2024-02-14 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第43回配信です。


(7)ようやく禁教高札が撤去される(p124以下)

「しかも、禁教高札を撤去したといっても、それは積極的にキリスト教の「公認」や「解禁」を意味したわけではない。あくまでも「黙許」であり、さらに言うなら、諸外国が「黙許」だと勝手に解釈したに過ぎないとも言える。だが、これを機に、実質的に日本人への宣教活動が再開したのは確かであった」(p124)

いささか微妙な書き方。

鈴江英一『キリスト教 解禁以前 切支丹禁制高札撤去の史料論』(岩田書院、2000)
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-186-1.htm

山崎渾子『岩倉使節団における宗教問題』(思文閣、2006)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784784213160
山崎渾子(みなこ)
https://www.jash316.com/info/jash-info/2021/20210201_8586

「すこぶる下情怨屈のおもむきあい聞こえ」(2016年 2月13日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7290be1432b841907da85c976fc0f9a5

(8)宣教師フルベッキと岩倉使節団(p126以下)

フルベッキは1959年、二十九歳の時に来日。
岩倉使節団の派遣を進言。
岩倉使節団は行く先々で日本におけるキリシタン迫害を非難される。

グイド・フルベッキ(1830‐98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD

母方はオランダ外科医の長崎家(2016年 2月28日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d2c2bca614d0522bdc893c589548fa0

(9)軍隊建設のすすめ(p127以下)

フルベッキは日本における国民軍の創設と徴兵制採用を強く主張。

ウィリアム・グリフィス(1843‐1928)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9

-------
『ミカド 日本の内なる力』(亀井俊介訳、岩波文庫)

東京大学の前身である南校で教鞭をとり,明治天皇に拝謁する機会をもったアメリカ人教師グリフィス(一八四三―一九二八)が,明治天皇の生涯をたどりながら,明治維新=日本の近代化が西欧の衝撃によるものではなく,日本人全体の力による歴史的必然であることをあとづけた書.特に天皇の日常生活を生々と描いた第三十章が興味ぶかい.

https://www.iwanami.co.jp/book/b246525.html

(10)拳銃を携帯していた宣教師(p129以下)

松浦玲監修・村瀬寿代訳著『新訳考証 日本のフルベッキ 無国籍の宣教師フルベッキの生涯』(洋学堂書店、2003)
https://www.yogakudo.com/item.php?item_cd=38110

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