学問空間

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0065 鈴木わかな・関泰士・鷲尾透弥─「助教」と「助教授」の区別がつかない裁判官たち(その1)

2024-04-19 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
地味な私のアカウントで、珍しく少し反響。

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午前0:21 · 2024年4月18日
裁判長裁判官の鈴木わかなと陪席の関泰士・鷲尾透弥は「助教」と「助教授」の区別もつかない莫迦。こんな社会常識のない莫迦裁判官に当たってしまった雁琳氏は気の毒、などと書いたら、私も名誉感情侵害で訴えられるのかな。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1780617588642611581

武蔵小杉合同法律事務所
http://www.mklo.org/archives/1952

判決の二か所に極めて奇妙な記述。

(ⅰ) 「第2 事実の概要」「2 前提事実」(p3)

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(3)呉座勇一(以下「呉座」という)による投稿及び同人に対する処分等
  呉座は、国際日本文化研究センターの助教授であったところ、【中略】
  呉座は、令和3年1月12日、国際日本文化研究センターの運営主体から、同年10月に定年制の資格を付与して助教授から准教授に昇格させる旨の決定を受けた。
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(ⅱ)「第3 当裁判所の判断」(p23)

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エ 呉座の提訴後、本件投稿①に至る経緯
 呉座は、令和3年10月29日までに、国際日本文化研究センターの運営主体を被告とし、原告を非難するツイートにつきSNS上における不適切発言に及んだという理由によって助教授から准教授への昇格決定を取り消す旨の本件処分(前提事実(3))の不当性を主張して、自身が無期雇用契約上の地位にあることの確認を求める訴訟を京都地方裁判所に提起した(甲21)。
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いずれも「助教」と「助教授」を混同。
しかし、「助教授」が「准教授」に変わったのは2007年で、十四年も前の話。

准教授
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E6%95%99%E6%8E%88

三人の裁判官は余りに無知ではないか。
また、これは単なる無知にとどまらず、この無知・非常識が呉座を含む関係者の置かれた状況とオープンレター騒動の全体的な構図への重大な誤解につながっているのではないか。

参考、池内恵氏のツイート
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助教授(かつて存在した役職で、原則終身雇用だった)、助教(かつての助手で、原則終身雇用ではない)の違いが分かってない裁判官は、キャンセルした側とされた側の大学世界内での圧倒的な権力関係を理解できていない可能性がある。
https://twitter.com/chutoislam/status/1781027517819949485

呉座さんは助教だったから圧力でクビになった。助教授だったらクビになってない。大学人の間の係争を裁く裁判官は、研修所で大学の仕組みについて研修を受けた方がいいんじゃないか?
https://twitter.com/chutoislam/status/1781027520000983285

池内恵(1973生、東京大学先端科学技術研究センター教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%86%85%E6%81%B5

北村に対して極めて攻撃的であった呉座は何故に突如として謝罪したのか。(p22)
呉座と北村の和解が成立したのは何故令和3年7月16日なのか。(p23)
また、何故に呉座は同月10日、ブログで、「私、呉座勇一は、(中略)Twitter上において、複数回にわたり、北村様の誹謗中傷を行ってしまいました」、「私の上記行為を寛大な心で許して和解に応じてくださった北村様には心から感謝申し上げます」などと記したのか。

三人の裁判官はこれらを不自然に思わないのか。

呉座がここまで卑屈になった理由はたった一つ。
それは北村とのトラブルが解決したことを国際日本文化研究センターに訴えて、内定済みだった准教授就任への障害を取り除くため。
しかし、結果的には内定取り消し。
呉座にしてみれば踏んだり蹴ったり。
「北村様」にしてみれば、呉座が焦りを募らせるのをじっくり観察した上で、絶妙のタイミングで呉座にとって屈辱的な和解案を呑ませ、「謝罪文」を書かせたことになる。

それにしても余りに非常識で奇妙な誤解。
鈴木わかな・関泰士・鷲尾透弥のうち、いったい誰が判決の原案を書いたのか。

鈴木 わかな(裁判長)
https://www.sn-hoki.co.jp/judge/judge1530/
※4月1日付で司法研修所へ。
https://www.westlawjapan.com/p_affairs/2024/20240401_s.html
関泰士(右陪席)
https://www.sn-hoki.co.jp/judge/judge4247/
鷲尾透弥(左陪席)
https://www.sn-hoki.co.jp/judge/judge2663389/
https://www.westlawjapan.com/p_affairs/2023/20230116_s.html

「裁判官の職務について」(「法科大学院協会」サイト内)
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裁判長はベテランの裁判官が務め、そのほかの裁判官は、裁判官に任官して間もない若手裁判官(裁判長の左側に座ることから左陪席裁判官と呼ばれており、通常主任裁判官として関与します)と、若手裁判官とベテラン裁判官の間くらいの経験年数の裁判官(裁判長の右側に座ることから右陪席裁判官と呼ばれています)で構成されています。

https://www.lskyokai.jp/houkadaigakuin_1_1/

一番若手の鷲尾透弥が原案を書いたとして、鷲尾の世代の人が大学で「助教授」を見たことがあるのか。
仮に鷲尾の単純誤記だとしても、それに中堅・ベテランの関・鈴木が二人とも気づかないというのはどういうことなのか。
この判決全体の知的水準に疑念を感じるので、次回以降、少し詳しく分析する。
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0064 小林杜人編『転向者の思想と生活』(大道社、1935)

2024-04-15 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第64回配信です。


坪井秀人 「転向を語ること ─ 小林杜人とその周辺」
https://library.oapen.org/bitstream/id/7c9abdf5-1bfd-4df4-bc04-01f2aa03513a/15623.pdf
 
小林杜人『「転向期」のひとびと : 治安維持法下の活動家群像』(新時代社、1987)

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 起稿するに当たって
第一章 因縁の"自分史"
第二章 謎につつまれた戦前・共産主義運動の三大事件
第三章 「日本共産党再建準備委員会」について
第四章 水野成夫を中心とした解党派について
第五章 野坂参三の「天皇制」問題について
第六章 国民思想研究所の周辺
第七章 「人民戦線」運動の回想
第八章 日本労働組合全国協議会のこと
第九章 帝国更新会思想部と更新社
 稿を終えるに当たって

解題(一)小林杜人のたどった道─石堂清倫
解題(二)時代背景について─遊上孝一

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=385270470

「私の履歴」(p12以下)

明治三五年〔1902〕、長野県埴科〔はにしな〕郡雨宮県〔あめのみやがた〕村の一五〇戸ほどの農村に生まれる。
生家は農業・蚕種製造業を営む。
隣の屋代町から、大逆事件の関係者(新村忠雄・善兵衛兄弟)が出て、大きな衝撃。

新村忠雄(1887‐1911)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9D%91%E5%BF%A0%E9%9B%84

大正三年〔1914〕四月、村の小学校卒業後、埴科養蚕学校入学。「このころから文学に親しむようになる。ハイネ、ダンテ、ルソー、トルストイ、ユーゴー、ドストエフスキーに心をひかれる」
大正六年〔1917〕埴科養蚕学校卒業。

「この年一一月ロシア革命。このころから村で二〇戸ほどのいわれない差別を受けている人びとと親しくなり、やがて初期の融和団体信濃同仁会雨宮県支部の組織に参加する(大正九年)。この前後、青春の悩み激しく、山室軍平を知り、救世軍長野小隊に入り、勤めのかたわら伝道に参加し、また、ノーマン宣教師を知る。
 大正七年〔1918〕五月より長野県蚕業取締所埴科支所に勤務、書記。のちに長野県産業主事補。大正一二年〔1923〕一月近衛歩兵第三連隊に入隊するまで勤め、多くの女友達の人びとと知友となる。大正一〇年〔1921〕、上田市の信濃自由大学に学び高倉テル、土田杏村を知る。有島武郎の書に親しみ個人雑誌『泉』の読者となる。同時に内村鑑三の『聖書の研究』を愛読する。また、西田幾多郎の『禅の研究』、倉田百三の『愛と認識の出発』や、賀川豊彦の『死線を超えて』などを読み感銘を受ける」

「大正一二年一月一〇日、近衛歩兵第三連隊に入隊したが、肋膜炎を病み入院、四月一日、三宅坂の第一衛戍病院に転籍、看護兵となる。このころ、キリスト教の教義についていけず無神論者となり、酒にしたしむようになる」

大正一三年〔1924〕帰休除隊。「北信社会主義グループ」と交流。
「私の少年時代は、自分の家は自作農で、相当の田畑を耕作していたが、この当時は自小作農に転落していた。父母の労働、妹らのこと(妹六人と弟がいた)を思うと、社会主義運動に進むべきか、平穏な耕作農民として生活を送るべきかに悩」む。
しかし、部落解放運動を通じて「政治的自由獲得の闘争、社会主義革命の実践へ傾斜」。
農民運動を通じて、共産党関係者と交流。
昭和二年〔1927〕一二月、労働農民党中央執行委員。
昭和三年一月、「信越地方委員会オルガナイザー川合悦三より日本共産党に入党勧誘を受けて承諾し、以後、日共党員として北信の責任者となる」
昭和三年〔1928〕三月一五日、共産党員の全国的大検挙。同日、屋代警察署に検挙される。
同年十一月、公判開始。求刑は懲役八年。自殺を図るが未遂。
同年十二月、懲役三年六か月の判決。
昭和四年の正月を市谷刑務所で迎える。藤井恵照教誨師に会う。
昭和五年の正月を豊多摩刑務所で迎える。
「昭和六年〔1931〕豊多摩刑務所で迎える二度目の正月ごろには、自分なりに、浄土真宗の信仰をだんだん体得できるようになり、それが精神的支えとなって、永い神経症を克服することができ、健康もようやく回復」
同年七月、母死去。
同年十二月二五日、仮釈放。「帝国更新会」に入り、「その後一三年間、この会の事業に専心」

小林杜人編『転向者の思想と生活』(大道社、1935)は国会図書館デジタルコレクションで読める。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1234972

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第一部
日本國民としての自覺に立ちて 小林杜人/3
一 轉向の歷史的發展/3
二 轉向者の將來の展望/45
三 轉向者は立ち上つてゐる/57
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丸山眞男が要約引用する部分は「轉向者の將來の展望」

轉向者を「農村オルグ」にしたい 山口隼郞君/101
高次的タカマノハラの展開へ 西光萬吉君/109
陛下の赤子たる自覺に立ちて 角田守平/276

西光万吉(1895‐1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89%E4%B8%87%E5%90%89

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0063 苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』の憂鬱(その1)

2024-04-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第63回配信です。

前回配信から五日間経過。
この間、赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(岩波新書、2017)を再読。
ついで丸山眞男『日本の思想』(同、1961)を数十年ぶりに眺め、更に苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』(同、2006)を読む。

赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(2017年06月23日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e1434fba167e6025a9abb410e85908e

「おわりに」p238以下
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 ただ、敗戦直後の時期に、矢内原の「キリスト教ナショナリズム」が、戦後日本が目指すべき理想のひとつとしてスムーズに受け取られていたようにみえるのは、やはり驚くべきことである。
 アメリカによる占領や「キリスト教ブーム」といった状況を考慮しても、日本においてキリスト教が圧倒的な少数派であるという条件は基本的に変わっていないからである。
 矢内原のキリスト教が受容された文脈を理解するには、丸山眞男の議論が参考になる。
 丸山は、『日本の思想』(岩波新書)のなかで、日本の知的風土における「精神的雑居性」を指摘しつつ、例外的な「原理」として、明治のキリスト教と大正末期以降のマルクス主義を挙げている。丸山によれば、キリスト教とマルクス主義は究極的には「正反対の立場」であるが、日本において「共通した精神史的役割」を担ってきた。
 丸山自身の論旨からはやや外れるが、「精神的雑居」状態にある日本の知的世界に「原理的なもの」を導入しなければならない、という問題意識は、戦後日本の知的世界においてかなり広く共有されていた。それは、日本の近代化のためには、なんらかの「原理的なもの」─なんらかの普遍性─が必要かもしれない、という不安とも表裏をなしている。
 こうした戦後日本の知的風土のなかで、矢内原の「キリスト教ナショナリズム」は一種の日本近代化論として受容される。矢内原の主張は、正確にいえば日本近代化論とキリスト教的終末論が結びついたようなものである。だが、矢内原が苛立っていたように、その言論はしばしば「キリスト教抜き」のかたちで受容された。
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丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)

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現代日本の思想が当面する問題は何か.その日本的特質はどこにあり,何に由来するものなのか.日本人の内面生活における思想の入りこみかた,それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって,新しい時代の思想を創造するために,いかなる方法意識が必要であるかを問う.日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察.

https://www.iwanami.co.jp/book/b267137.html

p13以下
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その㈡──思想受容のパターン
【中略】
 異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとしてしばしば流通したのは、周知のように何々即何々、あるいは何々一如という仏教哲学の俗流化した適用であった。ところがこのように、あらゆる哲学・宗教・学問を─相互に原理的に矛盾するものまで─「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義にほかならない。つまりキリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてはある共通した精神史的役割をになう運命をもったのである。したがって、両者ともひとしく、もし右のような要請をこの風土と妥協させるならば、すくなくも精神革命の意味を喪失し、逆にそれを執拗に迫るならば、まさに右のような雑居的寛容の「伝統」のゆえのはげしい不寛容にとりまかれるというディレンマを免れないのである。(ここでは国家権力との関係ではなく、もっぱら思想のうけとり方や交通の仕方を問題にしている。「國體」の問題はすぐ後にのべる。)あるマルクス主義からの転向者が書いた左のような一節は、「転向」が原理(=公式)による自己制御の緊張からの離脱であり、あたかも強靭に巻かれたゼンマイが切れたように、「思い出」を通じて抱擁と融合と一如の「本然」世界へ一挙に復帰する意味をもったことをものがたっている。「日本哲学は物心一如の世界である。……我々はマルクス主義を清算したときに、また日本民族の抱擁性を把握したときに、世界に於ける日本民族の新使命を自覚するであろう。……而して東西文化の融合の将来の発展─それは我々の新しい信念とならなければならない。」(小林杜人編『転向者の思想と生活』四八‐四九頁)。
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『転向者の思想と生活』(大道社、1935)
小林杜人(1902-84)

坪井秀人(1959生、国際日本文化研究センター名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E4%BA%95%E7%A7%80%E4%BA%BA
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s150/

「転向を語ること ─ 小林杜人とその周辺」, (Diego Cucinelli and Andrea Scibetta, eds.)『Tracing Pathways 雲路 : Interdisciplinary Perspectives on Modern and Contemporary East Asia』, Firenze University Press, 2021年03月, pp.67-88
https://library.oapen.org/bitstream/id/7c9abdf5-1bfd-4df4-bc04-01f2aa03513a/15623.pdf

苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』(岩波新書、2006)

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近代的理念と現代社会との葛藤をみすえつつも,理性とリベラル・デモクラシーへの信念を貫き通した丸山眞男.戦前から戦後への時代の変転の中で,彼はどう生き,何を問題化しようとしたのか.丸山につきまとうできあいの像を取り払い,丸山の遺した言葉とじかに対話しながら,その思索と人間にせまる評伝的思想案内.

https://www.iwanami.co.jp/book/b268831.html

苅部直(1965生、東京大学教授)

「皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用」(by 苅部直)(2017-07-22)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3e7d16b53c4196faa65ea0bea225418

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0062 森有正「南原繁先生」

2024-04-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第62回配信です。


森有正「南原繁先生」(『森有正全集 第5巻』、筑摩書房、1979)
※初出は丸山真男・福田歓一編『回想の南原繁』(岩波書店、1975)

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 先生に識って戴いたのは、私が東大文学部の助手をしていた昭和十八年頃であったと記憶している。太平洋戦争の真最中で学内は人けもすでにあまりなく、私は肺結核と肋膜炎の後遺症で学内にのこっていた。戦争の前途は暗く、この戦争はどうやって終るのだろうかという疑惑に閉じこめられる日々であった。日本列島南西方面の空襲もまだ始まっていなかったから、多分昭和十八年の春か初夏の頃ではなかったかと思う。
 ある日突然助手室の電話が鳴った。出てみると、「法学部の南原ですよ。一度話に伺ってよいですか」という先生からの電話であった。先生の高名はかねがね承知していたが、一度もお会いしたこともなく、瞬間何の用件だろうと一寸とまどったが、「いえ、こちらからすぐ伺います」と申し上げて電話を切った。【後略】
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南原繁(1889‐1974)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
森有正(1911‐76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E6%AD%A3

昭和18年(1943)現在、南原は54歳、森は32歳ほど。
丸山真男・福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』(東京大学出版会、1989)の「年譜」によれば、昭和18年は、

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三月、工学部長内田祥三、総長に就任(四十五年十二月まで)。九月、法学部教授会、安井問題で揺れる。十月、学生、生徒の徴兵猶予全面停止(十二月、学徒出陣)。
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津田博士の裁判に関する上申書(2014-06-29)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f76924ed76ff9eb97a4cf260eb7af70
歴史学研究会・会員向けクイズ(2014-07-01)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82dac9e1be4c6f96eebabf450b24ddc6
【昭和17年の悪党交名】早稲田関係者は冷淡(2014-07-02)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf3fdd04fb0e68758aff1eb6392f4363
中村稔『私の昭和史』(2014-07-04)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b6fc7b930eba799d089c1e47b673fbf

安井郁(1907‐80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%83%81

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 終戦後、先生は東大総長になられた。それは連合軍占領下、日本の旧憲法は機能を停止していて、日本国の主権も占領軍司令官の管轄下におかれるという開国以来の超非常時であった。
 個人的なことになるが、私はキリスト教信者であるので、天地創造の神を信ずるクリスチャンであられる先生が、占領下の大学の総長になられたことに異常なよろこびと心強さとを覚えた次第であった。先生なら必ず学問の自由と正しいと信ずる主張を貫徹されるであろうと信じたのである。戦後の大学には、大学法反対の闘争があり、また全面講和か単独講和かの争いがあったが、またそれらに伴って学内に学生闘争が展開され、先生はこの渦中にあって大学の自由と全面講和の主張を強く堅持された。私は偶々文学部教授会(私は当時文学部の助教授をしていた)から福武直氏らと共に学生委員を命ぜられ、南原先生とは頻繁にお目に掛る機会をもつことになった。
 そういう折々に私は先生の柔軟性に富む頭のよさに驚くことが度々であった。そして根柢には疑いを容れえない「私心のなさ」があって、先生が何をどう決定されようと私どもは常に安らかな気持ちでいることが出来た。権威に屈せず、決して変な決定をしない人、こういう先生のイメージは先生を識る凡ての人の確信であり、また一般に長たるものの基本的資質であると思われる。先生の下で約一ヶ年学生委員をしたことは、私のもっとも楽しい思い出の一つである。丸山真男兄を識るようになったのもその折であった。
 しかし南原先生に対して私は、自分の個人的問題に関して、もっともっと心に銘ずる事件があり、それが先生に多くの心痛をおかけしたことに就いて、今でも恐れと共に思い起すことがある。これは私の個人的問題であるからこれまでなるべく語らないようにしていたが、もしこれを語らないと先生に関する私の思いが大部分かくれてしまうので、この機会に書いておくことにする。

 一九五〇年八月、私は戦後第一回目のフランス政府給費留学生に選ばれて、一年の予定でパリへ来た。しかし私は一年でかえらず、それから二十四年間フランスにいてしまったのである。私は海外派遣の助教授であったから、それは直ちに私の身分上の問題となった。私はそれを覚悟していたから、留学期間が終ると共に、辞任をお願いし、その理由を書き送った。これは文学部、殊に私の属していた仏文科の先生方には大変な御迷惑と御心痛をおかけすることになってしまった。しかし、結局一、二年して私は辞任させて戴き、依願免官となった。
 それから暫くして、私は偶々パリにいた加藤周一君とランデーヴーをとり、時間より少し早目にオルレアン門にあるアクロポルというカフェー(今はもうない)へ行ってかれを待っていた。店のガラス戸が開いて人が入って来るので、見るとそれが南原先生ではないか。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94cab6fc827cd6a7f8ee757ee4dc96c1
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0061 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その6)

2024-04-04 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第61回配信です。

今回、配信に際し、若干のトラブルがありました。
自分では40分ほど話したつもりだったのですが、前半が全く録画されておらず、後半の20分のみの配信となってしまいました。
自分の作業手順に問題はなかったので、通信回線の問題かな、などと思っています。
前半部分は後で改めて配信します。


一、前回配信の補足

森有正「南原繁先生」(丸山真男・福田歓一編『回想の南原繁』所収、岩波書店、1975)

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【前略】
 一九五〇年八月、私は戦後第一回目のフランス政府給費留学生に選ばれて、一年の予定でパリへ来た。しかし私は一年でかえらず、それから二十四年間フランスにいてしまったのである。私は海外派遣の助教授であったから、それは直ちに私の身分上の問題となった。私はそれを覚悟していたから、留学期間が終ると共に、辞任をお願いし、その理由を書き送った。これは文学部、殊に私の属していた仏文科の先生方には大変な御迷惑と御心痛をおかけすることになってしまった。しかし、結局一、二年して私は辞任させて戴き、依願免官となった。
 それから暫くして、私は偶々パリにいた加藤周一君とランデーヴーをとり、時間より少し早目にオルレアン門にあるアクロポルというカフェー(今はもうない)へ行ってかれを待っていた。店のガラス戸が開いて人が入って来るので、見るとそれが南原先生ではないか。【後略】
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二、「なぜ無教会派だったのか」(p238以下)

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第三章 無教会の戦後
第一節 啓蒙の精神――南原繁,矢内原忠雄の宗教的啓蒙
1 キリスト教知識人の再登場
2 南原繁の「精神革命」論
3 矢内原忠雄の「日本精神」論
4 宣教としての啓蒙
5 無教会主義の倫理と宗教的啓蒙の〈精神〉

https://www.iwanami.co.jp/book/b261295.html

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 なぜ無教会派だったのか

 それにしても、本書の「はじめに」でも述べたように、敗戦後の状況において、キリスト教知識人のなかでも、とりわけ無教会派の人びとの存在感が際立っていたのはなぜなのだろうか。これまでの考察をふまえるならば、次の四つの理由を挙げることができる。
 第一に、彼らは、戦争における「殉教者」(竹内洋)とみなされていた、ということが挙げられる。とくに、日中戦争の批判によって大学を追われた矢内原は、「殉教者」の代表的な存在だとみなされた。また、無教会派は、大制翼賛会【ママ】へと組織的に組み込まれた日本キリスト教界の大勢とは対照的な位置を占めていた。こうしたことから、無教会主義者は、戦時期の統制と弾圧の下で「非転向」を貫いた抵抗者・批判者というイメージを帯びることになる。
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大政翼賛会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A
日本基督教団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3
皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%B4%80%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%85%AD%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%A5%89%E7%A5%9D%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E4%BF%A1%E5%BE%92%E5%A4%A7%E4%BC%9A

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 第二に、彼らは、愛国的で自立的な存在であるとみなされたことが指摘できる。彼らは、教派教団に所属していないために、宣教団体とのつながりをもつ他の諸教派とは異なり、アメリカなどの諸外国と手を結んでいるという嫌疑を免れていた。しかも、彼らは「日本的キリスト教」を唱えることで、西洋的価値を体現しながら、欧米の影響から自立しているように見えた。キリスト教の立場からときにアメリカを相対化することは、西欧的な価値の体現者としての彼らの正統性をいっそう高めた。
 第三に、彼らは、ある意味では純粋に学問的な立場を代表する存在にみえた、ということがある。彼らは宗教団体に属していないために、大学と宗教団体の葛藤といった問題が生じることがなかった。しかも、彼らは大学制度と出版市場と無教会運動という三つの場を横断する存在であった。それゆえに、教団やその神学の制約を受けることがなく、大学からも相対的に自由で独立した存在として発言することができた。
 第四に、彼らは、キリスト教の「精神」を代表する存在にみえた、ということが挙げられる。南原の「精神革命」や矢内原の「日本精神」に見られるように、彼らはキリスト教を制度化された「宗教」としてではなく、宗教的な「精神」として語った。こうした語りは、彼らが「教派主義」や「党派主義」から自由であるようにみせ、しかも、聞き手に対して宗教団体のように改宗や所属を要求しないようにみえた。そうした点で、必ずしもキリスト教徒ではない教養知識層にとって、無教会主義は比較的馴染みやすい宗教思想であった。
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0060 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その5)

2024-04-03 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第60回配信です。


一、前回配信の補足

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」(2016-06-26)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf4f5a44c409b736631232d49b35e0f1
石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」(2017-03-15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bf547fcd41f62a1df77cc76e0277f3b
中間整理(その1)(2019-09-26)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8b7645fa006c6cfc5f99c01bbfaf5ab8


二、赤江著「はしがき」の続き

-------
 一般的には、無教会は、実存主義的で個人主義的なキリスト教信仰として理解されてきた。その典型は、フランス在住の哲学者・森有正による評伝『内村鑑三』である。森は、内村を「唯一神の信仰の人間的対応者」にして「凡ての誠実なるキリスト者の最高の現実」であると評し、そこに「真の近代人の信仰」を見出している(森1953)。
 その一方で、無教会の思想は、イエス(Jesus)と日本(Japan)を意味する「二つのJ」や「日本的キリスト教」という標語を通して理解されてきた。たとえば、冒頭で触れた南原繁がそうであるように、内村の弟子たちのいく人かは、無教会キリスト教を理想主義的なナショナリズムの思想として受けとっている。そうしたこともあって、無教会はしばしば「日本的」なキリスト教であると評されてきた。
 だが、「個人主義」や「日本的キリスト教」といった理解は「無教会の存在」あるいは「無教会の社会性」を取り逃がしている。そうした理解は、たしかに無教会の一面を捉えているとしても、その一面的な分かりやすさによって、個人にも国家にも還元できない無教会の社会性を見落としやすい。そこに欠けているのは、無教会を社会現象として捉えることであり、とくに信仰や思想には還元できない宗教運動としてのあり方を含めて考えるという視点である。
-------

森有正(1911‐76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E6%AD%A3

赤江氏による『内村鑑三』(弘文社アテネ文庫)の引用の仕方には若干の疑問。
なお、同署は1953年に出版されたが、執筆は1950年の渡仏以前。(講談社学術文庫版「解説」)

-------
 もちろんこれまでにも無教会の宗教運動としての側面を捉える議論がなかったわけではない。とくに社会学では、無教会運動は「ゼクテ」や「コミューン」といった概念によって捉えられてきた。吉見俊哉は敗戦後の大学制度の転換期に東大総長・南原繁が果たした大きな役割を論じるなかで、南原が「一高・東京帝大の学生時代を通じて内村の無教会派コミューンの中核的メンバー」であったことに注目している(吉見2011:185)。また、中野敏男は大塚久雄のナショナリズムを検討する文脈で「彼ら無教会派キリスト教徒の近代批判は、ゼクテ(信団)的な共同体を基盤とする強固な信仰と、それがもたらすエリートとしての自負や心情の『純粋さ』とによってとりわけ堅固なものとなっている」と論じている(中野2001:39)。
 ただし、これらの議論の焦点は、無教会というよりは、そこで形成される主体のあり方にある。【中略】
 無教会キリスト教を問いなおすことは、宗教と政治、教会と国家、学問と信仰、啓蒙と霊性といった、さまざまな問題について考えることである。しかも、それらの問題は、社会学だけではなく、宗教学・政治学・思想史・社会史といった学問分野にかかわっている。本書が試みようとしているのは、無教会という対象を、宗教結社と主体性をめぐる議論に回収するのではなく、それがもっている複雑さをそれ自体として捉えることである。そのとき、無教会をめぐる思考は、日本近代のさまざまな問題へと開かれて行く。無教会とは、そうした思考を展開するための場所なのである。
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0059 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その4)

2024-03-31 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第59回配信です。


一、私と無教会派との関わり(郷土史関係以外)

「東京大学法学部に「過去の克服」はない」(by 今野元氏)(2016年09月07日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/73145d9c8d59fbf0b17fd0e866790535

今野元(1973生、愛知県立大学教授)

「南原繁」で自分のブログを検索してみたら65投稿もあった。
最初は、

史料編纂所の位置づけと職員の身分(その1)(2014年05月31日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d63680ac391f6e7a6d2434f2e3fa2762
南原繁と津田左右吉(2014年06月04日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bee91deefb5a73f43577dfc87ce2a43e
歌人としての南原繁(2014年06月09日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cabcef3a47943005fc6d46793f9291d

藤林益三による矢内原忠雄の「写経」(2016年05月09日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/755acfb10b1559da51762a2a208af18b

「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)(2017年06月28日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1


二、赤江著「はしがき」の続き

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はじめに─キリスト教知識人の時代

日本の復興と宗教の使命
内村鑑三という震源
無教会という対象
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-------
 内村はその著述や青年たちへの感化によって、大正期以降の人格主義的な教養主義文化に大きな影響を及ぼした。政治学者の半澤孝麿が指摘するように、その影響力は「単にキリスト教界内にとどまらない、と言うよりはその外において巨大」であった(半澤1993:288)。日本におけるキリスト教の独特の存在感を考えることは、ある意味では、内村の影響圏を測量することなのである。

無教会という対象

 内村の影響圏を記述する上で最重要かつ特権的な対象となるのが「無教会」である。内村の影響下でクリスチャンとなった人びとは、無教会主義者、あるいは無教会キリスト者と呼ばれる。序章で見るように、その信徒数は一九五〇年代には三万人とも五万人ともいわれる。無教会は、たんに内村の信仰であるだけではなく、それを継承する人びとによって担われた宗教思想運動なのである。
 たが、無教会を語ることには独特のむずかしさがある。これも序章で論じることだが、無教会キリスト教は「信仰の内面性」と「組織や制度の不在」というふたつの特徴において高く評価されてきた。その結果、無教会をめぐる議論はしばしば「個人と国家」というふたつの極に分裂してしまう。【後略】
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0058 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その3)

2024-03-30 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第58回配信です。


「はじめに」(ⅸ)

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 南原だけではない。戦後改革の時代には、少なからぬ「キリスト教知識人」が戦後憲法や教育基本法をはじめとする戦後社会の枠組みの形成にかかわっていた。戦後初代の文部大臣となる前田多門、東大教授(アメリカ研究)で貴族院議員の高木八尺、東大教授(法学)であり、貴族院議員・文部大臣・最高裁判所長官を歴任する田中耕太郎、東大教授(植民政策学/国際関係論)にして、戦後二代目の東大総長となる矢内原忠雄、運輸大臣・労働大臣の増田甲子七、いわゆる「大塚史学」によって戦後社会科学を牽引した東大教授(比較経済史)の大塚久雄らである。また皇室の近くには初代宮内庁長官の田島道治、侍従長の三谷隆信らがいた。
-------

前田多門(1884‐1962、一高・東京帝大 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%A4%9A%E9%96%80
田島道治(みちじ、1885‐1968、一高・東京帝大 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%81%93%E6%B2%BB
高木八尺(やさか、1889‐1984、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%85%AB%E5%B0%BA
南原繁(1889‐1974、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
田中耕太郎(1890‐1974、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E
三谷隆信(1892‐1985、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B0%B7%E9%9A%86%E4%BF%A1
矢内原忠雄(1893‐1961、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
増田甲子七(かねしち、1898‐1985、八高・京都帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E7%94%B2%E5%AD%90%E4%B8%83
大塚久雄(1907‐96、三高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84

「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5061715ebfbbf987cdccf4bdc73c9d8a
伊藤律(1913‐89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)


-------
内村鑑三という震源

 ところで、右に挙げたキリスト教知識人にはふたつの共通項がある。ひとつは、一九一〇年代に成立した教養主義の絶頂期にエリート教育を受けていることである。そしてもうひとつは、彼らがいずれも青年期に内村鑑三の門下生であったということである。彼らがクリスチャンとなったのは、内村の影響と感化によるものであった。
【中略】
 だが、本書が注目するのは、内村が提唱した「無教会」と呼ばれるキリスト教である。内村は一九〇〇(明治三三)年、三九歳のときに本格的な伝道活動を開始する。すでにその頃には、評論や講演を通じて青年たちを魅了し、惹きよせはじめていた内村は、自らの下に集まる青年や学生たちに自宅などを開放した。その結果、内村の周囲には教養主義的な私塾、あるいはサロンのような場が形成されていった。その親しい交わりを通して、内村は彼らを教導した。こうした師弟関係は、新渡戸稲造や夏目漱石にも見られるものである。ただ、内村の場合には、師弟関係のひとつの基盤として、キリスト教思想運動が形成されていった点に大きな特徴がある。
 内村の門下には、先に挙げた人びとのほかにも、後に作家となる正宗白鳥、有島武郎、志賀直哉、社会主義者の堺枯川や森戸辰男、岩波書店を創設する岩波茂雄といった錚々たる青年たちが集っていた。なかには、藤井武や塚本虎二のように、東京帝国大学を卒業後に官僚となり、数年後にその職を捨てて伝道者になる者もいた。【後略】
-------

堺利彦(1871-1933)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%88%A9%E5%BD%A6
有島武郎(1878-1923)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E
正宗白鳥(1879-1962)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%AE%97%E7%99%BD%E9%B3%A5
岩波茂雄(1881-1946)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E8%8C%82%E9%9B%84
志賀直哉(1883-1971)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89
森戸辰男(1888-1984、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%88%B8%E8%BE%B0%E7%94%B7
☆藤井武(1888-1930、一高・東京帝大、内務省)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%AD%A6
☆塚本虎二(1885-1973、一高・東京帝大、農商務省)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E8%99%8E%E4%BA%8C
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0057 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その2)

2024-03-29 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第57回配信です。


一、前回配信の補足

「知の巨人・水原徳言が遺したもの」(高崎新聞サイト内)
http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2010/01/02.html

深井景員『下仁田戦争記』(2018年08月03日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dbe83530ca640cdb9f8e72039323885
「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」(2018年08月04日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/971ad7b8a5e45460198bcc6a9812e518
「新潟は、日本中で最悪の都会だといってよい」(by ブルーノ・タウト)(2016年12月06日) 


二、赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』

0053 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c5a1dc3e9eeda7ee752eab50b4156e3

赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(2017年06月23日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e1434fba167e6025a9abb410e85908e

-------
はじめに―キリスト教知識人の時代

日本の復興と宗教の使命
 日本近代と呼ばれる世俗的な社会において、宗教はどのような社会的地位を占めてきたのか。たとえば、社会が大きな危機に直面したとき、そしてそこから復興しようとするとき、宗教が果たすべき役割が問われることがある。一九四五年の敗戦後に起こったのは、まさしくそのような事態であった。
 敗戦から間もなく東京帝国大学の総長に就任した南原繁は、翌年の二月一一日、戦前に喧伝された建国神話にもとづく紀元節の式典をあえて挙行する。南原はその式典において「新日本文化の創造」と題する講演を行い、日本ファシズムのスローガンである「昭和維新」を次のように読み換えてみせる。

  真の昭和維新の根本課題は、そうした日本精神そのものの革命、新たな国民精神の創造─それに
  よるわが国民の性格転換であり、政治社会制度の変革にもまさって、内的な知的=宗教的なる
  精神革命であると思う(南原著作集7:27)

 南原は「昭和維新」という戦前の語彙を用いながら、そこに「精神革命」という新たな意味を盛り込む。日本の復興にとって重要なのは「政治社会制度の変革」である以上に「内的な知的=宗教的なる精神革命」だというのである。この講演は、直接的には大学の講堂に集う学生たちに向けて語られたものである。だが、その内容はさらに新聞の「社会面を大きくうずめて」報道された。そして、その読者からは「共鳴や激励の手紙」が数多く寄せられたという(丸山・福田編1989:309.311)。
 この「精神革命が、知的であると同時に宗教的なものとされている点に注意しておこう。南原は、戦前期に声高に唱えられた「民族宗教的な日本神学」と「普遍人類的なる世界宗教」を対比させながら、「わが国にはルネッサンスと同時に宗教改革が必至である」という。そして、年頭の「天皇の人間宣言」を日本のルネッサンスと見なしたうえで、さらに「第二の宗教改革」が必要であると主張する。つまり、日本が真に変革を遂げるためには、キリスト教的な宗教改革を通過しなければならないというのである。このような思想を、本書では「キリスト教ナショナリズム」と呼ぶことにしよう。
【中略】
 その主張の内容とともに注目すべきは「キリスト教による日本の変革」という南原の主張が「共鳴と激励」をもって受け入れられたという事実である。周知のとおり、日本ではキリスト教徒は圧倒的な少数者である。明治以降、現在にいたるまで、キリスト教の信徒数は人口の一パーセント前後にとどまっている。にもかかわらず、南原のキリスト教的な主張は、より広い範囲で、肯定的に受け入れられていたようなのである。
 南原だけではない。戦後改革の時代には、少なからぬ「キリスト教知識人」が戦後憲法や教育基本法を始めとする戦後社会の枠組みの形成にかかわっていた。【中略】
 こうしたキリスト教知識人の存在は、日本キリスト教の重要な側面を示している。一般に日本ではキリスト教は受け入れられなかったと考えられやすい。だが、キリスト教は日本の知識層にある種の仕方で「受容」されてきた。それはマルクス主義の受容とも似たところがある。マルクス主義は二〇世紀の日本で多数派となることはなかったが、知識層に圧倒的な知的・政治的な影響力を及ぼしてきた。敗戦後のキリスト教は、そのマルクス主義に匹敵する存在感をもっていたのである。
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0056 「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」(by 内村鑑三)

2024-03-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第56回配信です。



久須美酒造
https://www.kamenoo.jp/
「清泉(きよいずみ)・亀の翁/夏子の酒のモデル蔵元・久須美酒造/亀の尾復活の浪漫」
https://www.echigo-bishu.com/kusumi-shuzou.htm

二、内村鑑三と上州

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)(2016年05月26日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1f7c3ef2111429c49d9d85d38eb1ddc
「上毛かるた」とキリスト教(2020年05月11日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1fc5e1c2c085adf1920a5551c53678a

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若松英輔『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書、2018)

All for God──神の道と人の道,「不敬事件」と妻の死,義戦と非戦,そして娘の死と,激しいうねりのなかを生きたこのキリスト者は,自らの弱さを知るからこそ,どこまでも敬虔であろうとした.同時代の多くの人を惹きつけ,『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『代表的日本人』等の著作に今も響きつづける,その霊性を読み解く.

https://www.iwanami.co.jp/book/b341729.html

「序章 回心」

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上州人の自覚
【中略】
 のちに内村は、「過去の夏」(一八九九年)と題する一文で群馬での生活を回顧し、「余は上毛[群馬]の地に何の負うところなし。その人物は余の概ね尊敬を表する能わざるところ」であると書く。しかし、その川に生きている魚は別だった。「彼らは余を造化の霊殿に導けり。彼らを通して余は余の造化の神に詣れり」、という。
 群馬で周囲に接した人には敬意を抱かせる人は少なかった。しかし、そこで出会った魚は、この世が神の「霊殿」であることを教えてくれたといって讃嘆する。 
 さらに先の一節に続けて「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」と書き、この一文を終えている。のちに内村は、札幌農学校で生物学と水産学を学ぶ。彼は二一歳から二三歳まで開拓使(のち札幌県)御用係准判任として採用され、各地の水産現場を視察している。
【中略】
 さらに内村は「上州人」という漢詩も残している。

 上州無知亦無才 上州〔人〕は無知亦た無才にして
 剛毅朴訥易被欺 剛毅朴訥にして欺かれ易し
 唯以正直対万人 唯正直を以て万人に対し
 至誠依神期勝利 至誠神に依って勝利を期す
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「内村鑑三の「上州人」という漢詩の解説が読みたい。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000176890&page=ref_view
「高崎が生んだ世界的思想家 明治時代のキリスト教指導者」(高崎新聞)
http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/08.php
上毛かるた 「こ」の札(2015年2月号)
https://gunma.coopnet.or.jp/event/look/walk_154.html
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0055 内村美代子『晩年の父内村鑑三』

2024-03-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第55回配信です。


内村祐之(1897‐1980)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%A5%90%E4%B9%8B

尾身茂氏と内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(2020年05月13日)

内村美代子(旧姓大舘・久須美、1903‐2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
住雲園
「住雲園と久須美家の人々 曽我物語・勘定奉行・越後鉄道」
久須美東馬(1877‐1947)

(p29以下、「関東大震災」)
「私はといえば、そのとき、目白の家(今の川村学園の裏)の二階の八畳にいたが、ドンと突き上げるような衝撃が来た途端、ふすまと障子はパラパラとはずれ、私は室の端から端へと何度もころがされた。第一回目の大揺れがおさまったところで、ようやく階段を下りると、階下は至るところで壁土が落ちて散乱していた。しかしその他には、建具もはずれず、家具も倒れていなかったので、実のところ、私たちはそれほどの大地震とは思わなかったのである。
【中略】私の家から道を隔てて筋向いの二階家にひとり住まいをしておられた田中耕太郎さん(東大教授で、のち最高裁長官、はじめ父のお弟子)などは、その午後のあいだじゅう、ピアノを弾き続けておられた!」

「商法なら日本に帰ってからやれるので、やれないことをやった方がよい」(by 田中耕太郎)(2016年09月08日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18fd544ff10c3cc3bc785522b8ee984d
牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探究者』
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/11/102726.html

(p77以下、「父と子」)
「(前略)内村鑑三先生の御子息なら、あなたもクリスチャンでしょうねというのは、私が繰り返し受ける質問である。また私の学問的自叙伝に宗教のことが少しも語られていないといって、非難めいた批評をする人もある。この種の話題は、実は私にとってすこぶる苦手のものなのだが、今回はひとつ、このことに触れてみよう。
 私は神羅万象の偉大さと精巧さを知るたびに全能の存在、すなわち神の存在を信ぜざるを得ない。私はまた、教会や寺院の中で、祈りや読経を心を澄まして聞くことが好きである。それゆえ、私は、自分に宗教心が全くないとは絶対に思わない。しかし、自分は罪人のかしらであるといった深刻な罪障意識はどうしても持ち得ないし、また、キリストは人の形をとった神の子であり、人類の罪は、キリストが十字架上で流した血によってあがなわれるという贖罪の信仰が、キリスト教信仰の中心だと言われると、どうも私はクリスチャンを自称することができないのである。同じように、キリスト教の信仰で大切な、来世とか、復活とか、再臨とかいう教えをも私は信ずることができない。但しキリスト教の持つ倫理性、また人類愛の精神といったものを高く評価するには、私はつねにやぶさかではない。
 では、私は鑑三から、どんな宗教教育を受けて成長したのか。それは多くの人が興味を抱く点と思うが、あれほど干渉がましく圧政的であった鑑三の、このことに対する態度は存外に自由だったのである。私は鑑三から、かつて一回も信仰不足をたしなめられたことはなく、また自分の事業を継げと強制されたこともなかった」
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ご連絡

2024-03-23 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
ブログ・YouTubeチャンネルとも十日間ほどストップしていますが、特別な理由はありません。
先日、母親の四十九日の法要を終えた後、花粉症の影響も少しだけあって、何となくパソコンに向かう気力が減少してしまい、ツイッターを少しやる程度の毎日でした。
読書量も減って、この間、内村鑑三に関係する書籍をいくつか斜め読みしたのと、フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』(朝日新聞出版、2019)を読んだ程度でしたが、明日からまたボチボチとやって行きたいと思います。
フクヤマ著は頭の整理に良い本でした。

『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=21559
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0054 花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」

2024-03-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第54回配信です。


花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」(『日本歴史』910号、2024)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10050642.html

花田卓司(1981生、帝塚山大学文学部准教授)
https://www.tezukayama-u.ac.jp/teacher/gyoseki/169900.html
https://researchmap.jp/takuji_hanada

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 はじめに
一 守護在職の根拠史料の再検討
二 足利義氏の三河守護補任時期
 おわりに
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 はじめに

 鎌倉期の足利氏が三河守護であったことは広く知られている。鎌倉幕府守護制度研究の基礎を築いた佐藤進一氏は、暦仁元年(一二三八)の将軍藤原頼経上洛・下向時と建長四年(一二五二)の宗尊親王下向時に、足利義氏が三河国矢作宿などの設営にあたった事実を守護在職の徴証とみて、正治年間(一一九九~一二〇一)から暦仁元年までの間に守護職が足利氏に帰し、鎌倉幕府滅亡にいたるまで足利氏が保持し続けたと指摘した。佐藤氏以後の研究の進展を踏まえて各国守護の再比定をおこなった伊藤邦彦氏は、義氏による宿駅経営は国務沙汰の範疇であって守護固有の職権ではないとし、三河国は守護不設置で「国務・検断沙汰人」制が採用されたと論じたうえで、義氏がこの地位に起用された時期については佐藤氏同様に正治年間から暦仁元年の間、守護制度の導入はモンゴル襲来期であるとしている。
 一方、鎌倉期足利氏研究においては、足利義氏が承久の乱後に恩賞として三河守護に任じられたとの見方が古くからある。【後略】
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二 足利義氏の三河守護補任時期

 前章での検討と新出の「国々守護事」から、足利義氏が三河守護に補任された時期は少なくとも嘉禎四年(一二三八)閏二月以降となる。三河守護に補任された時期を絞り込む手がかりとなるのが、義氏の女と四条隆親との婚姻である。
 四条隆親は後鳥羽院の近親であった四条隆衡と坊門信清女との間に生まれ、最終的に正二位大納言まで昇った人物である。承久の乱では後鳥羽院の比叡山御幸に甲冑を着用して供奉したが処罰を免れ、乱後は北白河院(藤原陳子、後堀河院の生母)に接近して後堀河天皇の近親となった。寛喜三年(一二三一)には西園寺実氏・大炊御門家嗣とともに秀仁親王(のちの四条天皇)の乳父に選ばれ、四条天皇即位後も近臣として仕えた。嘉禎四年閏二月に四条天皇の近臣から外されたことで朝廷での活動が一時的に低調となったが、その後、四条天皇の急死によって擁立された後嵯峨天皇の近臣として復権し、後嵯峨院政下で評定衆や後深草院の執事別当を務めた。
 隆親は義氏の女を妻に迎え、嫡男隆顕を儲けている。婚姻時期を明確にできる史料はないが、『公卿補任』記載の年齢から隆顕の生年は寛元元年(一二四三)なので、おそらく一二四〇年代初頭であろう。松島周一氏は、隆親が天福二年(一二三四)以後断続的に三河国の知行国主としてあらわれ、仁治元年(一二四〇)十二月十八日から翌年三月二十六日までの間にも知行国主であったことから、隆親と義氏の女との婚姻はこの時期に成立したと推定し、知行国主と守護が結びついた事例であると述べている。足利・四条両家の接点を三河国に求めたこの見解は首肯できる。さらに憶測を重ねれば、前述のとおり当時四条天皇の近臣から外されていた隆親が、幕府中枢との接近に活路を求め、三河国を通じて接点を得た「准北条一門」というべき存在の義氏と姻戚関係を結んだのではないだろうか。
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四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80d08c9a35f13cc002d83aa60b841a2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e66191c8e32d66910c03c1611506d53e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3de9dbe3862b7081de0af9fb4df198f3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2336059caba4894c63f86b8c4504ab7

守護と知行国主というのは公的な関係であり、それが婚姻のような私的な関係と直接に結びつくという発想自体がおかしいのではないか。
花田氏自身が解明されたように、足利義氏は北条政子に庇護された「准北条一門」。
これだけで義氏が四条家と結びつく理由としては十分すぎるのではないか。
結婚を斡旋する存在としては六波羅探題の北条重時がいる。
また、結婚という私的な関係の形成には女性間のネットワークも重要であり、重時の同母妹(「姫の前」の娘)が土御門定通室となっていることに留意すべき。
こちらのルートの方が、知行国主と守護といった公的関係より遥かに自然。

北条義時の正室だった「姫の前」と歌人・源具親の再婚について、森幸夫氏も奇妙なことを言われている。

「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
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0053 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その1)

2024-03-10 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第53回配信です。


赤江達也(1973生、関西学院大学教授)
http://researchers.kwansei.ac.jp/view?l=ja&u=200000872&sm=name&sl=ja&sp=1

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013)

■著者からのメッセージ
信仰の内面性,信仰の社会性
 宗教とは,信仰となにか.たとえば,「純粋さ」や「深さ」といった言葉が「信仰」を形容するのにふさわしいと考えられるとき,そこには「信仰の内面性」を中核とする宗教理解が存在しています.
 戦後日本には,こうした宗教理解が広く見られます.それゆえにプロテスタンティズム,なかでも内村鑑三に始まる無教会が注目されてきました.無教会は,教会・組織・制度をもたない「純粋な信仰」だと考えられたわけです.
 それに対して,本書では,雑誌や書物を媒介とする「紙上の教会」という内村の構想に注目しました.矢内原忠雄,南原繁,大塚久雄といった無教会派知識人は,「紙上の教会」という書物と読者のネットワークに支えられていたのです.
 ただ,無教会運動において現実化されていくこの「紙上の教会」という思想は,これまでほとんど注目されてきませんでした.この事実は,「信仰の内面性」を中核とする「宗教」理念が流布していく過程で,「信仰の社会性」が体系的に見落とされてきたことと対応しています.
 現在でも「信仰の内面性」や「宗教の公共性」が盛んに語られるのに対して,「信仰の社会性」という次元が論じられることはあまりありません.なぜ「信仰の社会性」は語られにくいのか.それはどのように語りうるのか.
 本書は,無教会キリスト教の歴史社会学なのですが,同時に「信仰の社会性」に照準する宗教社会学としても読んでいただけたらと願っています.

https://www.iwanami.co.jp/book/b261295.html

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17574/20151110/akaetatsuya-1.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17575/20151110/akaetatsuya-2.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17576/20151110/akaetatsuya-3.htm

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0052 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その3)

2024-03-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第52回配信です。


藤原聖子編著『日本人無宗教説─その歴史から見えるもの』(筑摩書房、2023)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017734/

「第2章 無宗教だと国力低下?―大正〜昭和初期」の担当は坪井俊樹氏。

天皇のために祈る群衆は宗教的か
日本人無宗教説の"国力"化
無神論的ドイツの敗戦の衝撃
震災後に宗教家は役割を果たしたか
震災一周年追弔式と「無宗教葬」
米国での排日運動と日系人に関する無宗教説
昭和初期の無宗教をめぐる議論
家庭教育で無宗教に対抗
「反宗教運動」の発足
言論界・宗教界からの反論
壊滅する反宗教運動
社会不安の拡大と「宗教復興」
日本人無宗教説の中断
この章のまとめ

東京大学宗教学研究室
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/religion/students.html

「第3章 無宗教だと残虐に?―終戦直後〜一九五〇年代」の担当は藤原聖子氏。

宗教は「平和」を作るものに
ということは戦争中の残虐行為は「無宗教」のしわざ
調査では若者は「無宗教」
神頼みする余裕もない人々?
寺院も弱体化
新宗教教団は増えたが……
キリスト教も伸び悩む
マスメディア上の宗教と無宗教
「逆コース」の中での「宗教」の位置づけ
三笠宮と一緒に「日本人の宗教」座談会
「日本人の宗教はとにかくキリスト教と違う」から「キリストはアジア人」へ
一九五〇年代後半の無宗教性
この章のまとめ

キリスト教も伸び悩む(p110以下)
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 キリスト教については、戦後一〇年も経たないうちに、当初の見込みに反して信者は増えていないという記事が出るようになる。日本キリスト教団総会議長を務めた小崎道雄による寄稿だが、なぜ日本では教勢が振るわないのかについて原因を三点挙げている。第一に、キリスト教の神のような父なる人格神を信じる伝統が日本にはないこと。第二に、キリスト教の中心にある、「道徳生活と信仰生活の一致」も日本の伝統宗教には存在せず、「罪悪感と贖罪(十字架)信仰が国民の間に不人気」であること。具体的には、

目下国際基督教大学に教授として働いておられるスイスの学者エミル・ブルンナー博士は、筆者に日本の伝道の困難な理由の一つは国民間に罪悪感が少ないためではないかと質問されたが、私は全く同感である。博士は大切なカバンを自動車の窓ガラスを破壊されて盗まれた経験があるが、このようなことはスイスではほとんど絶無の経験である。日本人の国民道義心の低いのは全く天地万有を支配する神を信じないためである。(読売 一九五四・一一・一〇 小崎道雄「日本キリスト教の自己反省」)

 そして第三の原因は、教会や信者の力不足だと言う。「信者が聖書の伝えるような伝道者としての信仰に燃えて他の人々のために犠牲的な生活をなし」「教会は精霊に満たされて国家社会の良心的役割を予言者の如く果たす」ならばキリスト教は日本に普及すると述べている。
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小崎道雄(1888‐1973)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B4%8E%E9%81%93%E9%9B%84

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