世界の記述

いつか届くことはわかっているけれど、いつ届くかは知れない言葉たち

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2010-04-03 | 世界の記述
夜道の向こうに、闇からぼんやりと浮かび上がってくる姿がある。それは思い出が人のかたちをとって立ち現れたものだ。春の空気から悔恨と憧れとをじんわりと手繰り寄せ、ままならぬまま、まとまらぬままそこに所在なく佇んでいる。抱き寄せてみるが腕はほんのりとすり抜けてしまう。あとには香りだけが残り、思い出はもはやない。

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2010-04-03 | 世界の記述
巨人タイタンがちぎっては投げ、ちぎっては投げした綿菓子が広大な空間に散らばっている。薄暮の後の深い鉛色に浮かんで、それらもまた精彩を欠いた明るい鉛色をしている。
そこに灯が点る。真昼の白さをそのまま冷やしたような冴え冴えとした灯だ。綿菓子の上でかろうじて息長らえた小さなものたち――それは妖精よりはむしろウドンゲの華に近い、植物のような――が、季節外れの夜長の読書のために呼び寄せているのだ。とはいえ灯はただ輝いてあろうとするばかりなので、綿菓子が強風に流されてもそれに付き添うということはない。綿菓子はその本来の乳白色に輝くかと思えば闇に溶け込み、風に吹かれて流れ、ぼんやりと滲む。ぼやけたり遠ざかったり揺れたりする灯をうけながら、ウドンゲのようなものたちもまた揺れながら書に親しむ。

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2010-04-03 | 世界の記述
ここは絶え間なく烈風が吹き荒ぶ国である。住人たちは四六時中、仮借ない風の力に抗いながら、日々の仕事に向かい、社会を営む。常時凄まじい風に曝されるため、彼らの体は炎のような紡錘形であり、その穂先は風の逆巻くままにちろちろと揺れ続けている。彼らの言語の媒体となるのはこの穂先であり、繊細な表現力に富む一方、風の力に翻弄され思うままに操れないことも珍しくない。ほむらの先と先の微妙な触れ合いが、ときに至上の恍惚となり、ときに虫酸の走る嫌悪感ともなる。にもかかわらずこの国の住人が新たな言語体系をうち立てることがないのは、暴風に音の伝播を遮られているからのみならず、繊細さによる運命のいたずらを尊ぶ気風が連綿と受け継がれているからでもある。

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2008-08-06 | 世界の記述
蝉の鳴き声同士が干渉しあって生み出す合成波が、理解可能な言語メッセージとして聴取される。のちに誤りであることが判明するが、メッセージの取り消しには逆位相の波形が必要であるため半永久的に存続してしまう。

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2008-07-07 | 世界の記述
天職だよそれは、と褒めそやされた。
お似合いもお似合い、運命だねと冷やかされた。
どちらもきわめて不本意だったので、神に「あらゆる可能性を試そうとしなかったのか」と質したら、いやあとてもそこまでの余裕はなくてね、とにべもない。しかたないので本の頁に挟まって眠った。一晩だけ。

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2008-06-10 | 世界の記述
ホムラサキツユクサは、打ち消し合う力の生む速さによってかろうじて天を指向する。

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2008-05-18 | 世界の記述
夜、世界はすべての色彩に破産を宣告し、単一の階調を管財人に任じる。
薄白い若葉が木立ちを埋めつくして闇にざわめいている。薄灰色から白に、そして灰色に変わった信号の下で足を止めた若い男が、白く褪めた顔で何か思い詰めるように道の向こうを見つめている。葉陰と商店の軒と街燈の影が刻々と階調の組み合わせを変えながら移ろい滲んでいる。夜はとても深いので、256の3乗程度では十分近似的に測ることができない。

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2008-05-06 | 世界の記述
新しい歌は必ず失敗する。誰にも理解されず、歌い手の人生と同じ年月を生き長らえた末に朽ち果てる。失敗し朽ち果てた歌が何十世代か積み重ねられた末に、はじめてそれは歌になる。すでにその歌を新しく始めたのが誰かはわからなくなっているので、それは誰の歌でもないし、新しい歌でもない。しかしそれは確かに歌なので歌われる。
だから間違っても、誰の歌でもないその歌に対して領有を宣言してはならない。どころか、その前にすでに歌によって領有されていることに気づかねばならない。気づかないうちにその生は、たんに歌を載せて運ぶ函になっている。もっとも、ただ歌を運ぶ函である生もそんなに悪くはない。それに、函はよく鳴るのだ。

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2008-04-05 | 世界の記述
深夜、通りがかりのアパートの鉄製の階段を上がり切ったドアの前、庇の下にとどまっている光のなかに、その日一日の時間が畳み込まれているのが見える。部屋の主の出入り、検針員との会話、新聞配達、足音をしのばせて通り過ぎた猫などが順不同で重ね合わされていて、少し焦点をずらしてみると別の時刻の風景が再生される。パンフォーカスにすれば、それらはすべて等しい密度で重なり合ってあらわれる。ここでの一日は、文字どおり「味わう」ことができる。

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2008-02-23 | 世界の記述
白い米粒ほどの点の虫が、人間の光非透過性を食べて電飾のように光り出す。数を増し、表面と内部とに万遍なく拡がるにつれて人の体は透き通っていき、やがて光る白い点のネットワークだけが宙に浮いたように人体の形を指し示す。ひとつひとつが規則的に明滅しながら互いには不規則にずれているそれらの光の点はしかし、わずかに存在しない場所を残していて、灰色の靄のようなその箇所を照らし出す。虫の摂食に適さないその特定の光非透過性成分がみられる場所は一定でなく、形はとらえどころがなく大きさもまちまちである。それは確率分布の雲にも似て、確定させようと手を伸ばしつかまえるとギュッと確かな手応えがあり、その一瞬、光の点が一斉に脈打つように輝きを強める。

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2008-01-27 | 世界の記述
記憶が失われにくくなっていることにある日気づく。瞬時に記憶に刻み込んだものが、一日、二日とそのまま放置しておいてもそのままにある。少し離れていて戻っても必ずもとの場所にとどまっていて、決して見失うことがない。それは発達の結果のようだがそうではない。あきらかに、記憶の構造は変化する能力を失いつつある。言うならば、失ってしまうことのできる柔軟な力を失いつつあるのだ。
幼く移ろいやすく柔軟な心は、得たものをあらかた失う自由をもっている。そして新しく何かを得る力ばかりが瑞々しさを増して、失われたものと同じものが得られないことを何とも思わない。たとえそれが二度と手に入らなくても世界は変わらずただ世界であることを、柔軟な心は言葉によることなく知っている。
動き、変わることをやめつつある心は記憶を定着する。世界の生々流転を固定された構造に嵌め込もうとする。しかしそれでも世界の柔軟さはすこしも損なわれることがないので、固定された記憶をとおしてあたかも「永遠」のように刻まれた世界を一望することすらできる。変転するものとしないものとは互いに互いを指し示しあい、記憶は衰えることも瑞々しさを失うことも知らない。

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2008-01-25 | 世界の記述
地平線近くまで垂れこめた鉛色の雲のあいまいな縁の真下、薄紅に染まる細長い空を背景に丸っこい輪郭の兎の影が浮かぶ。餅を搗くような仕草で掘り当てているのはまだ新しい真皮細胞らしく、ぷるんと震えて時折光るとその桃色が空よりも一段と明るい。

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2007-12-22 | 世界の記述
静まり返った夜に見上げると乳白色の雲の欠片が流氷のように夜空を埋めている。実際それは流氷で、どこからか弱い光を受けてぼんやりと浮かび上がっていて、その隙間に見える深い藍色はそれゆえ一層底知れぬ深さで、実際それは底知れぬ海であって、そこに向かって落ちて行ったらと思うと本当におそろしい気がする。そう思って落ちないように踏ん張っている足の下にあるのはそうすれば岩石でできた馬鹿でかい気球なのであって、ぼくはその気球に両足を固定してひとり逆さまにぶら下がり、流氷の海を見おろして飛行しているのだった。だからこんなに広く深い海はきっと誰も見たことがない。

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2007-10-03 | 世界の記述
(キャッシュフロー)

柔かい光にみたされた、誰もいない広いロビーの大きな革張りのスツールに腰掛けていると、頭上の空間から見えないお金が大瀑布のように降り注いでくる。しかしそれはぼくの体を透明人間のようにまっすぐ通り抜けて、みるみる地面に吸い込まれていく。お金だということはわかるのだけれど、それは紙幣や硬貨の具体的なイメージを持たない。ただ大量に、まっすぐ、節度ある一定の速さで降り注ぐのが感じられるだけだ。抽象的なそれはひたすらそうやって流れとして感じられ、流れでしかないけれど意味ある「モノ」のように認識される。それはまったく何の前提もなく、直截に唐突にそうだとわかる。わかったところで何も起こらない。こういう流れのなかにあるんだということばかりをぼくは反芻していてあたりはしんとしている。

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2007-08-09 | 世界の記述
何かに驚く、というより何もかもに驚く人がいる。雨粒が当たっては驚き、花が咲いては驚き、日が暮れては驚く。朝目が覚めると驚き、一杯の水を飲んで驚く。このとき「驚く」は対象に依存するものではなく、この人自身の性質であり、この人と場との相互作用の一般的な性格である。
「驚く」は世界を少しだけ変えてくれる。波紋が起きる。心がいい感じに浮き立つ。浮き立ったあとに元の位置に戻ってきた心はすでに元の心とは違っているから、驚いた人とその人に驚いた他の人はうれしい驚きに満たされる。もっとも、驚き続けるには心身共に並外れた体力が要求されるので、逆に何ごとにも驚かない人もちょっといいな、と、その人も他の人も、たまに思う。その中間にいて驚いたり驚かなかったりする人には、あまり憧れない。驚きが世界に散らばった対象に専ら依存し、自分自身の中にないように見えるのは、少しばかり苛立たしくむなしい気がする。
かと言って、全く驚かない無風には、それはそれで耐えられそうもないので、はたと考える。それで、何もかもに「しみじみする」人になるのもいいかもしれない、と不意にその人も(そして他の人も)思うことがある。