れすぃむり るーずなーめむ

一個研究現代東北回民史之人的日常記録。

北平の「トルコ人」、1934。

2014-06-08 22:26:26 | Gunlerimden
こんにちは。

先の投稿から幾年月、という程でもないのですが、随分長いこと間が空いてしまいましたけれども、
一応私、生存しております。
色々ありまして、、今後はぼちぼちと、こちらも再開していこうかと考えております。
よろしければ、お付き合いを。

さて先日、東京にてこんな国際シンポジウムが開催されまして、
出席される方に若干御教示頂きたいこともあり、久方振りの学会でしたが、参加して参りました。
当日の参加者は、トルコ共和国の研究者の方々を中心に、
あちらの事どもを専門に研究されておられる方が殆どという感じでしたが、
中国ムスリムを研究対象とされている、澤井充生・山崎典子両氏も報告されるということで、
回民研究の末席を汚している身として、興味深くお話を拝聴致しました。
両氏の報告はともに、今後の回民研究とトルコ研究との繋がりの基盤になっていくべき知見を提供するものであったとの印象を受けましたが、
澤井氏が報告にて触れておられた「マアスーム」なる「トルコ人」の存在が、ちと気になりまして。

澤井氏によると、「マ」氏の実子である男性からの情報として、
同氏が南アジア経由で「解放」以前に寧夏に移住し、サラルの女性を娶り、40年代に逝去した、とのことですが。
当方には「何かどこかで聞いたような名前…」と引っかかるものが。
帰洛後、複写した新聞記事入れを漁っていると、
少し前、別個事案を調査中に見つけた、『哈爾濱公報』所載の、同じく「マアスーム」を名乗る「トルコ人」への訪問記事がありました。

同記事によれば、記者は「トルコの教育家」であるマアスーム氏を北平の天橋礼拝寺から同氏が帰るところをキャッチ、インタヴューを試みた、とのことで。
以下は、マ氏の語る、自身の「来歴」。

「自分は43歳であり、「トルコ‐〔orの〕アラブ中学」の校長である。
アラビアは現在英国の管轄下にあるが、同校はトルコ政府に帰属している。
今回の遊歴は国王の命を受けてのもので、世界各地にて教育を考察し、
政府にその状況を報告する、というものである。
旅費は政府から発給され、およそ2万4千元程になる筈である。
トルコは新興国家としては、教育・軍事の進歩、ローマ字統一の試みの努力、みな相当の効果を収めているが、未だ欧米列強と足を並べるには達していない。
我が国は弱小国家であるが故に、当方の遊歴では特に、エジプトやインドといった国の国情に注意を払っている。
貴方のお国には「回民」が多い。それ故私のお国への訪問の任務も、とても重大なものだ。
加えて、我が国と中国とは、良好な関係に向かっており、両国ともに歴史上、もっとも好を通じた隣邦である。
我が国の国王は、常にこのことを国民に伝え、両国が永久に友誼を持ち続けたい、と願っている。

私は北平にて各清真寺を訪問し、その建築様式や、当地のイスラーム全般・回民子弟の教育状況につき調査を行う予定であり、
また北京民族大・師範大・北京大での教育視察、更には軍政機関への訪問も行うつもりである。
貴方のお国の教育には、頗る見るべきものがあるが、言葉が通じず、文字も難解なため、我が国との提携は困難である。
我が国の言語は、未だ統一されておらず、甚だ不便である。現在我が国の大・中・小学校は総数1万4千余校に上るが、海外在住のトルコ人によれば、お国の人〔の方が〕多いとのことだ。

今回の遊歴に同行したのは、我が校の教員4名、省立「アラビア学校」校長・教員が2名。2年前にアラビアを発ち、まずロシアに3ヶ月滞在中に2名が死去、次いでアジアに3ヶ月滞在中に2名死去、イギリス〔領〕アラスカに4ヶ月滞在中に1名死去、シンガポールに6ヶ月滞在中に1名死去した。お国に着いた時には、もう1名を余すのみであったが、〔彼も〕山西訪問時に太原にて病に倒れ、気息奄々の状態にある。
お国で過ごしたのは8ヶ月になるが、エジプトやインドへの旅程も含めれば、総計で30ヶ月になろうか。お国では各界の歓迎を受け、上海・浙江・南京・江蘇・安徽・漢口・武昌・江西・鄭州等めぐったのを数えれば、六省二百余県をまわったことになる。
各界〔人士の〕題字・書名帳は、丸々4冊を使いきった。
〔現在〕北平では1ヶ月の滞在を予定している。断食の期間が終わった後に、天津経由で済寧、太原とめぐり、北平に戻ってから、本国政府に旅費請求の電報を送り、更に四川に向かう。
寧夏の馬鴻逵主席は、宗教を同じくする関係で、私に「会いにこないか」との旨、電報を呉れたことがあった。
私は馬氏に会見してから、すぐに帰国する〔つもりだ〕。亡骸となっても、トルコに帰して貰えるだろう」
(「土王派邁爾蘇穆氏考察中國回教状况 在平對記者談話」『哈爾濱日報』第2043号、大同三(1934)年一月五日、第二版)

 
さても、色々とツッコミ所がある「来歴」なワケですが。
彼の言う「王」とは誰か、「政府」とは何か、
そもそも彼は何者なのか、等々。
北満の経済都市で刊行されていた新聞が、何でこんな記事を載せたのか、ということも、
個人的には気になるところです。
果たして彼が実在の人物で、記事の言うように当時の北平で活動していたのならば、
同時代の回民団体の雑誌にでも、関連記事が載っていそうなものですが。
どうなのでしょうね。
記事の終わりにある、馬鴻逵主席云々を信じて、そちら方面から探してみるのもよいのでしょうか。
それとも案外、土国側に豊富な個人档案等、残っていたりするものなのでしょうか。

いづれにせよ、当該記事中の主人公たるマアスーム氏は、
当時の大陸のムスリムに関心を持つ者にとっては、「興味深い」存在ではないかしらん、と、当方は思ったりするのですけれど。


今後も折に触れて、今回の様に、
「手前の史料には使え無さそうな文献等の団子干し」をするかも。
まあ、以前にも似た様なことをやっていたといえば、やっておりましたが。
そちら方面に関心がある方がこちらに来られた際に、話のタネでも拾えれば、と。

それでは。